―表紙― 物語






長崎遊学編
万延元年4月―万延2年2月

●万延元年…サトウ17歳・はつみ19歳・アレク14歳
 ―長崎―
Genius of hard work.
4月。慣れない旅で体調を崩したはつみを連れて宿へ駆け込み、居合わせた薩摩藩士・村田経臣に訪ねて医者を探す龍馬。二宮周三、老シーボルト、アレクサンダー(シーボルト息子14才)と出会う。はつみは大学受験以来の英会話でシーボルトらとコミュニケーションを図ろうとするが、彼らは英語は話せない様だった。14才のアレクが日本語を履修中らしく、父に対し翻訳を行うなど対応してくれた。彼は1日の大半を『学習』と『手伝い』に費やす生活をしていた。
14 years old melancholy.
4月。老シーボルトとのティータイムでアレクの話になり、病気がちな事と陰気な性格について打ち明けられる。はつみは、元気のないアレクを誘いピクニックに行く提案をする。本人に話を持ち掛けた際、父が了承したのだと伝えると飛びあがって喜んでいた。そして当日、こういった開放的な経験は日本に来て初めてであった為、大層喜んだアレクははつみを慕う様になる。
Let's cook !
5月。アレク、そして龍馬、経臣、何、二宮もひっぱり込んでパンケーキとクッキー、ジャムを作る。卵は卵白からメレンゲを作りふっくら感を出す為、男達が激しくボウルをかき混ぜる。
女性の生き方
6月。はつみは老シーボルトに月経が来ない事を相談し彼の診察・診断を受けたが、老シーボルトは精神的なケア等も考慮し、 娘でありアレクの異母姉である楠本イネを紹介した。
詳細 彼女は女性ながらに西洋の産婦人科医として活動しており、また自身も女性医師であり混血である事もあって波瀾万丈な生き方をしていた。一目見て周囲とはかなり雰囲気の違うはつみに対し、不妊症・婦人病の事だけでなくこの日本で女性が自立して生きていく事など、様々な事に気をかけてくれた。
Crybaby,Alex.
6月。13才で母元を離れて以来、言語も通じない国へ連れて来られ、日々を勉強と父の研究補佐、家事で抑圧されていたアレクサンダー。はつみと共に過ごす時間がよほど心の癒しになっていたのか、別れ際に泣いちゃうアレク。
Direct talks.
10月、思わぬ早さではつみと再会できた事を喜ぶアレクサンダー。
詳細そしてはつみとの時間を大切にしたいと思う気持ちを打ち明け、その為の時間を与えて欲しいと父に直談判し、3日に1度、朝10時から夕方6時までを『語学勉強の為の自由時間』とする事を許される。3日に一度というのもはつみとしては首をひねってしまう様な束縛に感じたが、アレクにとっては思わずガッツポーズをしてしまう程の嬉しい父の譲歩であった。
Fabulous Emotions.
 12月。英国本土にて、University College Londonの一回生として日々を送っていたサトウ。兄が貸本屋から借りて来たローレンス・オリファント(英国江戸公使館一等書記官)によるエルギン卿使節団の中国・日本訪問に関する回想録を読み、日本に興味を持つ。
詳細 『日本とは空が常に青く、太陽が常に照り続けている国。男達はバラ色の唇と黒い瞳を携えた魅力的な乙女たちに伴われて座敷に寝そべり、築山のある小さな庭を窓越しに眺めながら過ごす。神々の祝福を受けたかの様な、色鮮やかで、現世におけるおとぎの国。』
 間もなくして、今度は米国マシュー・ペリー提督の遠征記を読む。以後『他の事は考えられなくなった』程、日本への興味を深めていった。

●万延2年/文久元年…サトウ18歳・はつみ20歳・アレク15歳

Until we meet again.
1月、先月のプロイセン・修好通商条約締結及び老シーボルトの幕府顧問就任に伴い、シーボルト父子及び二宮周三が江戸赤羽接遇所へ向かう事となる。また泣いちゃうアレク。


江戸遊学編
文久元年6月―12月

●文久元年…サトウ18歳・はつみ20歳・アレク15歳
 ―横濱―
時務を識る者は俊傑に在り…前編・後編R15
12月、乾の思想は変わらず『尊王攘夷』ではあったが、東洋の狙い通りはつみとの語らいによって巷で流行り病の様に吹き荒れる安直な其とは一段違う思考へと変貌しかけていた。乾は幕府文久遣欧使節団出港の視察と称して横濱へ出る許可を得た様で、通訳にとこじつけてはつみを呼び出す。しかしまたもや、今度は龍馬と寅之進がついてきて再び露骨なしかめ面を見せた。
詳細  この10月に15歳にして英国公使館付特別通訳官(sir)に任命されていたアレクサンダーが本屋から領事館へ戻る所で鉢合わせた。思わぬ再会を心から喜ぶ、乾以外の4人。勤務時間終了後の『夜7時』に待ち合わせをし、一同で共に食事をとる約束をした。
 この一年で英語を『英国公使に認められる程』マスターしたアレク。日本語は引き続き学習中だが、英語をまったく知らない日本人と会話をしていてもほぼ差し支えないレベルにまで修練されている。これで全6か国語を駆使できる通訳官の若き天才であった。同じく英語を熱心に学ぶはつみや寅之進とは日英語を交え、食事会というよりは殆ど勉強会の様な形で、しかし極めて朗らで良質な学びの時間が流れていく。

 一方、ここに乾は同席はせず、その酒飲みに付き合う龍馬。はつみの言う『真の攘夷』について理解できるかと問う乾に、龍馬は率直に
「正直はつみさんに見えちゅう『世界』の形はまだようわからんが、はつみさんが言う『尊王と開国は相反しない』っちゅう考え方は、今の朝廷と幕府をみちょれば何となくはわかるのう。…ま、これもはつみさんから教えてもろうた事じゃが。」
 と答える。乾は腕を組みなおし、それに続いた。
「…今土佐は蚊帳の外じゃが…長州と薩摩は公武合体論を推しておるそうじゃな」
「開国自体は、異人嫌いじゃった帝も容認された事じゃったっちゅう話ですき。ただその後に幕府が結んだしゅーこーつーしょー条約っちゅうのが良うなかった。」
「長年の財政難に加え将軍継嗣問題、さらには不平等条約の締結…無能の幕府か…」
「そうぜよ。そんではつみさんの凄い所は、『優れた語学力と世界的視野を以て異国と対等に条約交渉を行える人材が所属しそれを駆使できる組織であれば、幕府である必要はない』ち言うところなんじゃ。まぁ幕府にとって代わる組織っちゅうのは現実的な話ではにゃーけんど、これには長州の人達も浮世人の開国論者の視点に度肝を抜かれちょる。そんで、こういう話は乾さんも嫌いじゃないじゃろう」
 『龍馬が言う通り』と言うには妙に見透かされている様にも聞こえて少々癪にさわるが、大義の在る過激な発言は乾も好むところである。普段から無表情気味で大抵の事に動じない乾の根幹には、地域の血気盛んな青少年が集まって他地域の勢力と喧嘩だ何だと繰り広げた『盛組』の総長を務めた程の凄みや胆力が備わっている。
「…嫌いかどうか、俺の私心は大義とは別事ぜよ。」
 しかし思う所がありそうなのは、不動の表情からも何となく察しが付く。かねてより乾の胆力や利発な様子を評価していた土佐参政・吉田東洋は、これまでも何かにつけ乾の目を開かそうと話をしていた。一方の乾は尊王思考が極めて強かった為、その賢人とされる存在感を以て朝廷と幕府の間で注目される容堂公やその絶大の信任を得ている東洋らの政策に物思う所があったというのが正直なところであった。しかし桜川はつみという娘を『中浜万次郎の再来』として東洋が目をかけて以来、この様に視野が広がり、その分思考も多様性を伴い洗練されていく―といった状況となっている。それもこれも『乾が尋常でない熱量ではつみを見染めている』と見抜いた東洋によって『はつみの話であれば気の強い退助であっても幾分か耳を傾けるであろう』と策を講じられたのが、見事に功を成しつつあると言う事なのだ。
 しかしはつみにおいては、その東洋にさえも、まだ述べていない見識があるという事なのか。いや、東洋は自分の私塾にはつみを入れ『指導』したがっていた…乾に対する誘いと同じで、考え方の過激な所は『指導』によって角を取ろうとしていたのかも知れない。
「時務を識る者は俊傑に在り…ちゅう事かえ。」
「じむ…?」
「東洋殿が言うておった言葉じゃ。三国志のナントカらしいが、俺は詳しゅうないき詳細は知らん。」
 『時勢を知り必要な時に的確な言動を取れる者こそが俊傑である』と三国志の劉備玄徳に対し述べた司馬徽の言葉だが、成程東洋の言いたい事はさらによく分かる。開国黎明期にある今この世にあっては中浜万次郎やはつみのような存在は極めて有力な人材である事はもとより、思想を述べるにもしっかりと相手を見極めての事なのだと意味も含めて。
 何にせよ、はつみが自分にその事を打ち明けてはいないという事実だけは、今の龍馬の話で浮き彫りとなった。はつみが長崎へ語学留学へ行った時も、彼女は自分には黙って行った事を思い出す。確かに当時から自分は『尊王であれば攘夷を成すべき』との思想であったが、信用されていないのか、頼りとされていないのか……そもそもそんな些末な事は普段なら気にもならないが、どうも気に入らないとする自分にも『あやつに対しいつまで浮ついておる』と嫌気がさすぐらいだったが、波立つ感情は抑えきれるはずもなかった。

 頃合いを見計らって外に出た乾は馬に乗り、龍馬にひかせながら待ち合わせの場所へと向かう。アレクと別れの挨拶を交わすはつみをみかけた。…なんと往来で抱き合い、異人の方から頬を合わせている。はつみもはつみで嬉しそうに相手を受け入れているではないか。先程の話といい珍しく虫の居所が悪かった乾は手綱を握り直し、無言のまま馬を進ませた。異国人らも移動に馬を愛用し、横濱には競馬場という娯楽まであるというのもあって馬自体は珍しくはない様であったが、『袴に白足袋を履いた身なりの良い二本差し』で更に『馬に乗る』となると『位の高い侍』との認識が高い様で、外国人の目が向く。しかし乾にとってそんな視線など意に介す価値もなく、少しずつ近付いてくる楽しそうに談笑中のはつみだけが視界に入っていた。
「…乗れ」
「あ、乾。あ、アレクを紹介したいんだけど―えっ、ちょっ?!」
「…おんしに聞きたい事がある。いくぞ」
 話の途中で馬の上から手を取られたはつみは、引き上げられるがまま止むを得ず馬の上にまたがる事となった。アレクは先日の東禅寺事件の現場を目の当たりにした記憶も新しく、『侍』が強硬とした態度を出す事に少々怯えた様子を見せる。咄嗟に寅之進が「大丈夫ですよ、彼はよく知る人物です」とフォローに入ったが、慌てたはつみが馬上からアレクに声をかけようとすると乾は構わず走り出してしまった。
「ご、ごめんねアレク!また連絡するから…ちょっと、乾!?」

 馬駆け途中で一室とった茶屋にて、乾は時世への思想も含めずっと『大義に対し些末な私事』として黙っていた事をはつみに打ち明け。寅之進や龍馬達と取り残されたアレクサンダーは、はつみの周りには『そういった』男達が沢山いるという事を知る。


京・天誅編
文久2年7月―文久3年3月

●文久2年…サトウ19歳・はつみ21歳・アレク16歳
 ―江戸―
I came to Japan.…EP1・EP2
8月。清国での無意味な日本語修行を経て、ついに念願の日本へ上陸したアーネスト・サトウ。
まずは晴れやかな天候と海の青さに感動し、長年の親交を結ぶ事となるチャールズやウィリスらに出迎えられ、現在賜暇中のラザフォード・オールコック公使の代理公使ジョン・ニールから正式に英国公使館付き通訳官候補生(通訳生)としての任務を拝命した。ニール代理公使の脇には既に通訳官としてキャリアを積んでいるアレクサンダー・シーボルトという名の青年がおり、彼とも同僚として挨拶を交わす。
詳細  代理公使からの辞令通達を終えたサトウは、「周辺を案内するよ」と声をかけてくれた気さくなチャールズと散策する事にする。上海公使館に滞在中、サトウは日本からの定期便から『ジャパン・パンチ』という画家チャールズ・ワーグマンによる風刺漫画を手に入れていた。ここに出てくる『抑圧された女神』、そしてそのモデルになったとあとがきにある『ハテュミ』という存在について早速彼にインタビューをする。実際の彼女と横浜で出会った時の事やその時の様子などを聞き、このあらゆる美しいものも恐ろしいものも沢山その目に見てきたであろう画家ジャーナリストを唸らせた女性がこの日本に実在するのだと思うと、内心胸躍るのを必死に理性を振り絞って平静な振りをするサトウであった。

 おとぎ話の様に小さく木と紙で作られた日本人の家に住まい、まずは公使館の仕事を手伝う所から始まる…はずだったのだが、サトウが来日してものの5日後に薩摩のダイミョーギョーレツによる民間人殺傷事件・生麦事件が発生する。
 外国人を総じて『蛮人』と言い、政府の方針としては決して友好的ではない日本。眼前の外国人に対しては丁寧な対応を見せながらも信用ならない幕府とその役人達。その幕府と『ミカド』という権力者が座する朝廷との複雑な関係。市井にあっては外国人は全て打ち払うべしと『ソンノージョーイ』を叫び、外国人を見るや恐ろしく研ぎ澄まされた日本の剣『刀』で切りかかり暗殺を企ててくる二本差しの男達が跋扈する。この日本がその頑なな扉を世界に開き、世界の一部として共に歩む様に導く、あるいは見守っていく為には、まずはこの国の文化を知り人々とコミュニケーションを図り、彼らの言葉や真意を極めて正しく公使に伝える必要がある事を、通訳官たる自分の使命と心得る。そのためには右も左も言葉すらも分からない土地で理不尽な命の危険に晒され、時に商品価格を吊り上げられたりなど些細な被害に会う事は常としながらも、通訳生としての語学勉強時間の確保、教師や教材の確保、信用できる日本人との出会い、文化や仕来り、作法等への理解など…やるべき事、学ぶべき事が文字通り山積みだ。
 しかしそれでも、日本の事を綴られた本を初めて手にした時からずっと憧れていたこの国に対して沸き起こる知的好奇心を、素直に禁じ得ないのであった。
『By all means marry.』
12月、友人でもある英国人画家チャールズ・ワーグマンが小沢カネという日本人女性と結婚した。少なくとも横濱における英国人と日本人の結婚宣言という意味では先駆け的な出来事であった。公的な事例は存在せず議題に上がる事もない故にその婚姻関係が公的に認められるというものではなかったが、それでも彼らは同僚らに祝福され、幸せそうであった。
 By all means marry; if you get a good wife, you’ll be happy.
 If you get a bad one, you’ll become a philosopher.
『とにかく結婚したまえ。良妻を持てば幸福になれるし、悪妻を持てば哲学者になれる』
ギリシャの哲学者ソクラテスによる紀元前からの言葉だが、開国激動の渦中にあるこの日本から日本人の伴侶を得たという意味で、チャールズが前者となる事を祈り祝福するサトウ。自分にその話が及んだ時、正直まだ少年から大人へと変貌の段階ともいえた彼にははっきりとしたビジョンが浮かばなかった。とりあえずは『抑圧された女神に出会える事に期待しているよ』と冗談交じりに返したのだった。およそ2年も前にチャールズが横濱で出会い、彼が今年5月から出版する人気発行物である『Japan Punch』のキャラクター『抑圧された女神』のモデルとなった日本の少女『ハテュミ』。もし彼女に会う事ができたなら…。
半分は冗談。しかしもう半分では、本気で期待している自分がいる事を否定できなかった。

●文久三年…サトウ20歳・はつみ22歳・アレク17歳
 ―神戸―
ミスター・ジャーナリスト
10月、英国戦場カメラマン・フェリーチェ・ベアトが海軍操練所に現れる。
はつみが通訳を行い、居合わせた勝自らが気さくにベアトを迎え入れる。
海軍操練所とはいえ初めて外国人を間近に見る者も多く、周囲は大いにざわついた。
ベアト曰はく日本初の海軍が創設されると聞いて、その素晴らしい瞬間をカメラに収めたくここに来たと言う。しかし当然ながらここは外国人の安全が保障された地域ではない。外国人の中でも遊歩地域を越えて旅行に出かける者は『よほどの猛者かどうかしている』と言われる程危険なのが現状なのであったが、これまで日本国外でも数多くの戦場を撮影してきた彼にとっては些細な事の様だった。
もう一点、最も気にかかっている情報を抱いていたベアトは、彼女に個人的な話題を持ち掛ける。実は今回の取材を強行した尤もな理由としては、『英語をあやつる風変わりな男装娘が神戸海軍に所属しているらしい』という噂を、商人らを通して聞き及んだからであった。彼女への関心はチャールズ・ワーグマンの冊子『ジャパンパンチ』を通して横濱・長崎・函館、そして母国イギリスでも高まり、話題を呼んでいる。公使館としても、そこまで英語の達者な日本人女性がどの様な経緯で英語や海外文化に触れる機会があったのか、興味がない訳ではない。 しかし当の人物といえば、その才故かその奇抜さ故か、その所在は転々としている様でなかなか尻尾を掴めずにいた。故に今回、踏み込んでみる事に賭けたのだと、ベアトは大らかに笑いながら言ってのけた。勿論日本初海軍創立もホットなイベントであったし、外国人としてはラザフォード・オールコック公使やチャールズ・ワーグマンらしか踏破した事のない東海道風景を撮影するのもグッドだった。色んな要因をポジティブに捕らえ、故にベアトは取材に出る事を決意したのだと。

 ―横濱―
First gift.
横濱奉行所の依頼通り、ベアト一行は無事順動丸にて横濱まで送り届けられた。帰還したベアトは真っ先にアトリエにこもり、撮影したネガの現像に取り掛かる。彼が見聞きした神戸の様子、そして撮影した写真による報告が公使館の書記官らを通して公使へ伝えられる一方、ベアトの報告を楽しみにしていたサトウやアレク、ウィリス、ワーグマンらも一同に会し、彼の話と写真を手にした。この時ベアトは、サトウに対し『女神から贈り物だ』と言ってはつみから預かった英和単語帳を手渡し、アレクとワーグマンにもそれぞれ預かった手紙を手渡した。更にベアトは海軍生の集合写真だけでなく『抑圧された女神』のモデルであり、長らくサトウやワーグマンらの間で信じられていた『ハテュミ』ではなく『桜川はつみ』という少女の実態をしっかりとカメラに収めていた。アレクはこの時初めて『ハテュミ』が『長崎以来何度か会っているはつみ』であった事を知り、サトウは初めて『抑圧された女神』のモデルとされる少女の写真を手にし、一目で恋に落ちた。


京・天狗編
文久3年4月―元治元年6月

●元治元年…サトウ21歳・はつみ23歳・アレク18歳
 ―横濱~長州姫島沖―
It’s a small world.EP1
文久2年の薩英戦争に続き、昨年は長州による攘夷砲撃が実行された為に大損害を出し、更に馬関が通行不可になっていた。これを打破しようと、昨年以降英国を始めとする諸外国は長崎、横濱、江戸において協議を重ねるも埒が明かない。ついに馬関の解放と報復戦が実行されようとした6月。極秘留学中だった英国から駆け付けた二人の長州藩士が、ラザフォード・オールコック公使に面会を申し出ていた。
 彼らの訴えによりおよそ一か月の時間的猶予が許され、彼らは『攘夷は不可能であり諸外国と賠償交渉のテーブルに付く事』を君主に説得するという重大な使命を以て帰還する事となった。軍艦にて彼らを送り届ける一行に、サトウも随行する事となる。
乗船中、互いの公文書を翻訳し合ったりイギリス留学の感想や航海中の様子などを話したりして、極めて穏やかにおよそ4日間を過ごす。そしてひょんな話題から、桜川はつみの話へと発展していく。


襲 撃
元治元年6月

●元治元年…サトウ21歳・はつみ23歳・アレク18歳
 ―長州・周防沖『笠戸島』―
It’s a small world.EP2
約束の笠戸島において長州伊藤、井上と再会。まずは彼らが処分される事なく再会できたことを内心嬉しく思うが、彼らが持ってきた返事は『止むを得ず攘夷続行』との事だった。これはどういう事かと言うと、藩主らの言い分としては今回の攘夷行動はあくまで朝廷および幕府からの命によるものであり、文久3年5月10日を期限に攘夷を決行せよとの正式な命令書がある事を主張していた。故に今回の件に関して長州が独断で謝罪賠償などの話を勧める事はできず、この判断を朝廷または幕府へ仰ぐためには3か月程の時間がかかるとも述べていた。彼らは昨年夏の政変以降、朝廷や幕府からも手のひら返しを受け朝敵とされている事に断固抗議する為の兵をまさに今進軍させ始めている事もサトウは知っていた為、尚更迂闊に動けないであろう内情には察しがついた。
―とはいえ、井上と伊藤は何ら公式的な文書も持たず口頭でのみ説明するだけで、その様な口約束では西洋諸国の公使を納得させる事はできないと一蹴せざるを得なかった。幕府からの命令書をチラつかせる様に『文書こそが動かぬ証拠となる』思考があるにも関わらず今日この場に親書を持ってこれなかった事は、伊藤や井上が望む様な斡旋は失敗に終わったのだろうと思わざるを得なかった。
 こうして止戦交渉自体は失敗に終わるが、ごく私的な会話において井上や伊藤達は痛烈に幕府を批判する。諸外国は幕府を倒し帝と直接条約を結ぶべきだとまで言い切り、その節には確かに考えさせられる所があるものの国家革命となる過激すぎる発言であったため、あくまで彼らの個人的な思想として割り切る必要さえ迫られた程だった。更に伊藤には彼なりの策があり、おもむろにはつみの話を持ち出す。先ほど井上が勢いよく口を滑らせた討幕論は、自分達が海外留学をする前…つまり1860年に自分が江戸で初めてはつみと出会った時から、彼女が口にしていた思想に近い事を告げる。当時それを聞いた自分も非常に驚き、『世界列強と肩を並べる為の幕府の抜本的改革か、あるいはそれが成らぬなら新政権を打ち立てる』という彼女の思想は、その前に物議を醸しだす開国思想云々を越えてあまりにも抜きん出ており、ある意味、暴力的で短絡的な攘夷を決行し世間を騒がす様な『尊王攘夷』よりも過激論だと思ったものだと、今となっては笑い草の様に語る。また、そのはつみの思想を殆ど当時から認めた男が長州には一人おり、更に彼は上海を見て世界を知り、はつみと語らった思想が間違ってはいないと確信したにも関わらず現在藩の保守派や急進派からもつまはじきにされているとも語る。サトウはその興味深い話を素直に受け入れ、『そういった優れた思想と能力を持つ人材が公平に認められ、我々と平和的に交渉できる日が来る事を心から願っている。今の話は私とイトウとの間で行われた個人的な会話・情報交換にすぎないが、必要に応じて公使にも伝えていきます。』と述べた。


東西奔走編
元治元年7月~慶応元年5月

●元治元年…サトウ21歳・はつみ23歳・アレク18歳
 ―長州―
Unexpected opportunity.
四カ国連合艦隊による長州報復砲撃は行われ、3度に渡る講和会議によって『友好的に』条約締結となった。講和会議の終結からおよそ3日後、サトウとの面会を要請し受け入れられた伊藤はユーライアラス号に乗船していた。すっかり打ち解けた様子の二人であり、サトウは昨晩現れた三田尻からの小型船から上陸した者が女性を含む小一団であったとの事について『上層部の家族団体だったのか?』などと興味本位から訪ねる。伊藤はまさにその事で話があってやってきたと言い、先日やってきたのは桜川はつみである事、彼女は先だって襲撃を受け背中に重傷を負い暖かい湯に浸かる事で治療を促す『湯治』を行い、京周辺での戦禍は免れていた様だと伝える。
meet again.
一方はつみ達。ここまで来たはいいが高杉が史実通りに自力でまとめてくれた為にはつみの出番は無い様に思われた。…が、講和会議の経緯や、異国人が港を練り歩き台場を視察し、市を利用する様子などは非常に興味深かった。外国人の為に開かれていた朝市を見学中、英国通訳官アレクサンダー・シーボルト、英国カメラマンフェリーチェ・ベアトと再会、歓喜する。
First meeting. …EP1・EP2・EP3
アーネスト・サトウから素敵な招待状を受け取っていたはつみが、ユーライアラス号に乗船する。チャールズの創作キャラクター『抑圧された女神』のモデル、フェリーチェが撮影したその素顔。文通から垣間見える彼女の心…ようやく本物と見える事ができるのだと、サトウの中の昂る部分が今にも口から飛び出て踊り出してしまいそうなのを、知的な表情で押し隠した。
そして、ついに見えた彼女は思っていた以上に知的で、気さくで…美しかった。
国力そして海軍及び軍事力としては劣らぬと自負している外国人たちも、日本の二本差しの男達が持つ恐ろしい殺傷武器には拳銃と同じくらいの最大限の警戒心を抱いている。かの二本差しの男らによる襲撃を受け負傷したと言う背中を、友であり公使館付き医師官であるウィリアム・ウィリスによる診察を受ける様薦め、健康が確認された所で改めて二人の時間を設ける事ができた。
First meeting. etc
翌日の昼過ぎ、サトウとアレクははつみ達が宿泊する白石邸を訪ねた。白石邸の家人が外国人のもてなしにあくせくしているのを見て、はつみが腕を振るう。アレクは長崎での思い出のパンケーキをリクエストし、それを聞いたサトウは一瞬胸につっかえを覚える。また伊藤と高杉(宍戸)も合流し、大変なメレンゲ作りは男達の手に委ねられる事になった。
シーボルトのピアノ
はつみ、シーボルトの父が長州人にピアノを贈り、それが日本最古のピアノとして見つかった事を記憶しており、その事を伊藤に打ち明ける。伊藤はその豪商と物体に心当たりがある様で、すぐさま内々に取り掛かってくれた。熊谷家は萩の豪商で勤王志士への支援を行っており、熊谷家に松下村塾生含む志士達が集う事もあった。攘夷が盛んになった背景からピアノを意図して隠している可能性もあった為、目立たぬ様単身、萩・熊谷家へ向かう。)
Remember Nagasaki.
調律には、はつみと共に英国海軍からピアノ経験のある兵士が派遣され行われる事となった。多くの外国人兵士達が建物の外、あるいは窓の外からその様子を見守り、サトウとシーボルトが間近で立ち合っていた。はつみが試しに一曲弾くと大変な盛り上がりを見せた。彼らにしてみれば驚くべきことに、はつみは紙と共に先日サトウからもらった鉛筆を取り出し、譜面まで書きはじめる。『1日頂ければ、即席だけど何とかお披露目できるかも』と言うはつみの言葉を受け、サトウとシーボルトは英国公使へ報告した。
音楽は国境、そして時代を越えて
翌日、朝の涼しい内に港へピアノを持ち出す。宍戸刑馬(高杉)、伊藤、井上、アレクサンダー、サトウら外交官が最前列に招待され、公使も艦長や提督らと共に上陸し、遠くの安全な場所から見学している。熊谷家六代目当主五一は目立つ事を考慮し招待を辞退していた。 長州とオランダ、イギリスを繫ぐピアノに思いを込めてと表し、演奏。
Lose one's heart.
はつみの演奏を聞き終え、スタンディングオベーションで泣いちゃうアレク。隣にいたウィリスに対し「かつては母のぬくもりを重ねていたかも知れない。でも今は…」と吐露し、近くにいたサトウもそれを耳にする。  このリサイタルの為に出航日を1日送らせていた四カ国艦隊が、サトウが乗船する英国艦バロッサ号及びフランス艦一隻を残し、横濱へと出航。サトウは、シーボルトらが乗船するユーライアラス号に乗せられ去っていくはつみを見送る。
外交官のたまご
サトウを乗せた英国軍艦一隻のみ、更に半月ほど残留する。護衛も付けないで済む程穏やかで友好的な滞在。ある日サトウは伊藤の招待を受け洋風の料理を振舞ってもらった。水面下において長州と英国の間では様々な友好的取引が始まろうとしているが、長州の役人の中には能力は高くともやはりまだ西洋の文化に通じていたり国際法といったものに準ずる考え方が出来る者は極めて少ない。更に西洋にも身分階級は存在しそれは出世に大きく関わるステータスであると認める一方、日本で指し示す身分階級とは訳が違う、極めて閉鎖的な日本の文化にも言及。その中でサトウは伊藤の様な者を『外交官』として認めている事を告げ、伊藤は『その点で言うならば』とはつみの名を挙げた。しかしその大前提として女性の社会進出というものはここ日本ではほぼ不可能であるという事を踏まえての発言であった。

 ―横濱―

Feel out.
10月末。横濱の本屋で真新しいものが無いかと物色していたサトウ。唐突にはつみら一行を見つけ、思わぬ再会を果たす。しかし彼女たちに取っては偶然の再会という訳ではかった。サトウに会う為にやって来たという彼女たちだが、妙な偽名まで用いる程表立って行動できない理由がある様だった。
Part-time job.
サトウ達との非公式ディナーの為に買い出しをするはつみら一行。道中「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」というオフィスを見つけ、画家のワーグマン、写真家のベアトとの再会に至る。再会を喜ぶ一方、『プライベートだが目上の人物との夕食会に着て行って失礼ではない服装』について尋ねる。3人が公使とのディナーに呼ばれている事に驚きつつ、これに対しおちゃめなワーグマンはとある『アルバイト』を持ち掛ける。
Dinner time.
招待状の通り、ホテルの一室へ現れるはつみら一行。はつみは長州下関ユーライアラス号で挨拶をして以来のオールコック公使と再会を果たす。場にはサトウ、そしてシーボルトも同席していた。『プライベートな夕食会だから政治的な話をするつもりはない。ホームパーティの様に気軽にして欲しい』と述べるオールコックだったが、節度を以て西洋のマナーを心得ようと相手の文化に寄り添おうとするはつみらの姿勢には好印象を抱いた様だった。公使が宣言した通り、はつみが横濱へ来る目的でもあった先の土佐訪問の話や政治的な話題は出されなかったが、彼ははつみに対し色々と興味深い様で、ウィリス医師からも報告を受けた『背中の傷』についてや『女性の社会進出、留学、大学入学の薦め』などについてよく話を聞いてきた。一番驚いたのは、ドイツ貴族でありながらオランダそしてイギリス公使館に携わるシーボルトを例に、はつみに対しても英国公使館の中で働く事に興味はあるか?といった質問をした事であった。
The real reason.
夕食後、良い気分のまま場を去るオールコック公使。シーボルトが追従したが、サトウは公使の了承を得て解散となり、はつみと二人で港を歩く。はつみが突如持ち掛けて来た英国公使土佐訪問は実らぬ形となったが、そもそも何故その様な事を言い出したのか…先ほど公使との会話で発覚した『今は土佐の人間ではない』とするはつみが土佐の斡旋をするのは不自然ではないかと伝えた。疑っている訳ではないが、君の事が知りたいのだと言った。はつみは真の目的…『土佐に囚われている恩人を救い出す為には、開国の勢いが、力が必要であると考えた』『それには土佐の精神的指導者である容堂公を動かす必要があり、それは根なし草であり女でもある自分には殆ど無理だから』といった事を正直に伝える。『英国ならば、日本をより正確に理解しようと努め、幕府と大名の関係などについても気付きつつあり、薩摩や長州と友好を深めた実績もある。故に興味を示してもらえると思った。』と。これは英国を利用しているとも言えるが、英国側にもメリットがあるといった確信もあった。全て自覚あっての斡旋であったと。
サトウは心から驚き、感心する。
I fancy that her.
一方、公使と共に馬で帰路を行くシーボルト。遠巻きにサトウとはつみが歩く姿を見つけるが、公使に随行している最中である事もあり咄嗟に視線を反らす。それに気付いていたオールコック公使は穏やかに笑い、まるで息子に接するかの様に話始めた。異国の15才の少年だったアレクがいつの間にか大人になっていた事。その類まれな語学力には大変助けられ、規律正しく勤勉な姿勢には心から信頼をしていると。そんなアレクに紹介したい女性がいると伝える。アレクはドイツ貴族オランダ出身で現在在日英国公使館付き通訳官という複雑な肩書だ。そして日本外交において父シーボルトの影響力・知名度はかなり大きい。今回オールコックがこの様な提案をしたのは親心の様なものでもあったが、アレクは―…。
Rivals of love.
翌日、定便船にて大阪へ向かうというはつみ達が別れを告げに来る。個人的な手紙の送り先など尋ねるが、はつみ達が所属する神戸海軍塾を取り巻く状況が不安定な事もあり、確かな事は伝えられないとはつみは言う。落ち着き次第連絡すると口約束した。そして目的を達成できなかったとあっては当然なのだろうが、はつみの元気がない事に皆心配をせずにはいられなかった。サトウははつみがアレク達と話している間に寅之進や陸奥に訪ねる。彼らもはっきりとは分からないがはつみの日ごろの発言などから『土佐に囚われている者達の罪状確定および処分が近いのではないかと危機感を抱いている様だ』『彼女は1862年、つまりおよそ2年前からこの為に動いているが、全く前進できず、ただただ焦っている』といった事を聞かされる。はつみ達が去った後で、はつみの事を話しあうサトウとアレク、そしてウィリス。普段の大人しい言動からは全く見合わずながらも、突然アレクが恋のライバル宣言をする。

●慶応元年…サトウ22歳・はつみ24歳・アレク19歳

 ―長崎―

ダイカンゲイデース!
5月。ジャーディン・マセソン商会長崎代理店―グラバー商会―に、小松が人を連れてやってくる。グラバーと小松は昨年より軍艦購入などにおいて取引があり、今年の2月に至っては薩摩スチューデントを極秘裏に英国留学させる際に密接なやり取りを行ってきた、いわゆるビジネスパートナーの様な関係であった。その小松が連れて来たのは、うら若く随分とあか抜けた一人の少女であった。『もしや』とその碧眼をきらめかせるグラバーに、小松は『桜川はつみ殿じゃ』と紹介をする。「オー。ワタシ、アナタシッテマスー」グラバーは、幾筋の関係者から彼女の事を聞き、知っていたと興奮した様子で言う。何ならはつみが長崎留学へ来ていた1860年、自分も長崎にいて英語を話す土佐の少女の事を聞いていたとも言う。
 少し口調の軽い紳士風貌をした商人といった印象であったが、商品や人間を見定める碧眼はキラリと光るものがある様に思えた。


朧月編
慶応元年閏5月~慶応2年5月

●慶応元年…サトウ22歳・はつみ24歳・アレク19歳

 ―大阪・兵庫―

兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件)・概要
9月13日、計8隻から成る諸外国四カ国艦隊(今回は米国艦はなし)が兵庫沖に現れ、多くの西洋人が初めて大阪に上陸した。公的書簡を携えた各国代表と通訳(英からはシーボルト)らが朝幕に対し以下の3箇条を要求した。
 ・長州戦争の賠償金300万ドルを1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しする
 ・関税率改定
 ・帝の批准
 この3つについての回答を幕府に求める為、艦隊は兵庫沖に碇泊した。この交渉を終えて四カ国が横濱へ帰港するまでおよそ一か月の間、幕府は朝廷と外国による板挟み的状況に苦境を極め、幕府の老中が帝・朝廷により強制解雇させられ、将軍家茂も辞任を申し出て江戸へ撤退し始めるといった騒動が起こる。一方、決死の説得でこれらをまとめ上げた一橋慶喜の存在感が諸外国にも広く認められる様になる。
紆余曲折経て諸外国はようやく朝幕からの返答を得られた。
 ×長州戦争の賠償金300万ドルを1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しする
 〇関税率改定
 〇帝の批准(開港と将軍・幕府に外交を任せる事への同意)
 関白により古代日本語で書かれたこの公式書簡は、居合わせた外国人の中で唯一これを理解する事ができたサトウによって翻訳された。『翻訳の力量はもちろん日本語の文語体に関する知識を披露する事ができ誇らしい夜であった/サトウ』
 3つの目的の内最も大事な天皇の批准を含む2つを達成した諸外国らは順次横濱へと帰っていった。しかし、1つめ、3つめの『兵庫開港』及び『帝の批准』については偽りであった事が、横濱到着後に英国ジャーナリスト(ジャパン・タイムズ編集長、チャールズ・リカビー)によって暴かれる事となる。帝はあくまで兵庫の開港は前倒しにするどころか開港そのものを望まぬと返答を出していたが、苦心した幕府はこれを『現状維持(神戸開港自体は2年後のまま)』と捉える事により、諸外国に提出した公文書に記した形となった様だとの事。しかし外交の窓口は幕府に委ねるとの批准には変わりない事もあり、諸外国は一旦はこれについては不問とし再び朝幕を責める事はしなかった。しかし幕府への不信感は更に募る結果となってしまった。

●慶応2年…サトウ23歳・はつみ25歳・シーボルト20歳

 ―横濱―

英国策論・概要
神戸から帰って以降、サトウは情報収集の為単身江戸へ出る事が多かった。(泉岳寺の下に新しい英国公使用宿舎が当てがわれていた)大阪で多くの日本人と対応した経緯もあってか、日本語を話せる外国人として有名になりつつあったサトウ。シーボルトに続き公使付きの通訳官としても重宝される様になっており、この春、サトウとシーボルトは一大決心をして『オランダ語を介さない直通訳能力の主張』『それに伴う昇給』の直談判をパークス公使に対し行い、その承諾を得るほどであった。  毎日の様に大名の家臣たる武士達の訪問を受け、あるいは共に出掛け、大いに語り合うサトウ。中には勝海舟といった幕臣とも語り合うなど、幕府関係者から市井に至るまで広く人々の話を聞く事ができた。

 5月、ジャパン・タイムズにアーネスト・サトウの論文が匿名掲載される。

 ・将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、
  現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。
  したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
 ・独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
 ・現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を
  将軍から諸侯連合に移すべきである。

 一通訳官として非常に出過ぎた行為であると自覚はあったが、つい先日も横濱にやってきた薩摩の商船が『外国人社会と関わってはならぬ』という名目で薩摩商船を港に入れる許可を出さなかった…つまり薩摩との取引が幕府の介入で出来なかったという事件があった為に『幕府の理不尽な専横』を批判せずにはいられなかった事も一つの要因であった。そうでなくてもは開国以来外国人は幕府のはっきりしない対応に煮え湯を飲まされ続けていたのである。
 この論文は最初でこそ英字新聞であるジャパンタイムズでのみの記事であったが、次第に大きな反響を生む様になり、匿名での寄稿であったにも関わらず『英国策論』という表題と名前付きで増刷・販売が行われた。どの勢力、大名からも知られ、この後サトウが幾人かの大名と会った時も彼らは友好的にサトウを迎え会話を試みる要因となった。西郷吉之助らもこれを引用し「明治維新の原型になる」等と評した。
 また、はつみが以前より明言していた幕府の現状・幕府にとって代わる新政権の台頭といった思想など『興味深いが夢物語だ』等と言われていたはつみの言葉が現実味を帯びて来た事の現れであり、英国を見て来た伊藤らが『幕府ではなく帝と直接条約締結するべき』といった意見についても同様に見据えられる風潮へと変わっていった。


才気飛翔編
慶応2年7月―慶応3年9月

●慶応2年…サトウ23歳・はつみ25歳・シーボルト20歳・ミットフォード29歳

 ―宇和島・薩摩―
英国パークス公使、宇和島および薩摩訪問・概要
6~7月。長州では幕府による長州征討(四境戦争)が行われていた。戦争が始まる直前に下関へ寄港していたパークス公使であったが、下関を離れた後は薩摩家老・小松帯刀から正式な招待状を受けた事もあり、公式に薩摩を訪問する流れとなっていた。プリンセス・ロイヤル号にてキング提督、トーマス・グラバー、アレクサンダー・シーボルト、ウィリアム・ウィリス等が追従。薩摩を訪問した後は宇和島にも訪問し、両藩とも大変友好的に過ごす事が出来た…とはいえ、ウィリアム・ウィリスは『生麦事件の犯人差出し』などあやふやにされたままで何故酒席を共にし友好的な関係を築こうとできるのかとも考え、この様に煮え切らない様子の者もいた。しかしこれこそが、英国が大名との友好関係や直接交渉に対し価値があると判断した外交方針そのものであるのだろう。対し、フランスなどは長州を叩こうとする幕府を煽り、武器の提供まで行っている事が後に発覚する。
 宇和島から去り土佐沖を通過する際、土佐の沿岸で騒がしい様子が見受けられた。砲撃をしてくる様子はなかったが、後に聞いた話では『侮られてはならぬ』と先制砲撃を主張する者達に対し山内容堂自らが諫め鎮める動きを見せていたという。一連の土佐の動きを見たシーボルトやウィリスらは、以前はつみが交渉にやって来た『英国公使土佐訪問』について話をする。その名が出て来た事、その内容共に驚いたグラバーは、小松を通して彼女と知り合い幾度か会っている事をシーボルトらに告げる。
暫く音信不通だったとするシーボルトはおよそ1年ぶりにはつみの消息を得る事ができた。そしてこの事はウィリスを通してサトウにも告げられる事となった。

 ―長崎―
抑圧された女神
10月。はつみ、小松に対し英国商人グラバーのもとで世界の交易について学ぶ事を望む。打診を受けたグラバーはこれに対しスパイなどと疑う事も無く、小松との過去数度に渡る取引と人柄、そして各方面から聞く『抑圧された女神』たるはつみをを信じ、快く受け入れた。8月には土佐の後藤象二郎らと共に上海へ出ていたグラバー。はつみたちの直属のBossである坂本龍馬も土佐人であった事、そして何よりはつみが以前『英国公使土佐訪問』の打診をサトウやシーボルトらにしていた事を耳にしていた事から、はつみはいずれ土佐の事業を手伝うつもりでここへ来たのかと訪ねる。しかしはつみは『そうではない、先の事はまだ分からないが自分の英語力と能力が海外でどこまで通用するのか試したかった』と即答した。
 はつみが『抑圧された女神』のモデルとなり、それにふさわしい能力と卓越した価値観を持つ事を間近に見て認めるグラバー。しばらくしてから、彼らインターンを受け入れた報告と共にはつみ達の子細についても横濱公使館へ手紙を送る事にした。(手紙はシーボルトかサトウが翻訳すると見込んでの内容)。

 ―横濱―
横濱大火・概要
10月下旬。遊女400人が焼死する大火災であった。
日本人居住地、外国人居住地も広範囲が焼き払われ、死傷者が出た。防火性と言われた外国人の倉庫も漏れなく燃え、その倉庫が燃えた多くの西洋人は財産を失ってしまった。友人の倉庫へ出来る限りの荷物を運びこんだサトウも、最終的には着ていた服と靴、自らが持ち歩いて守りきった英和辞書の途中原稿と前公使オールコックの原稿以外は全て失ってしまった。街中の物という物が焼き払われた結果、向こう2年ほど、横濱の全ての物価が上昇する。
 9月に来日したばかりの英国書記官A.Bミットフォードなどは右も左も分からぬまま、ただただ紙と木で出来た町が一瞬にして焼き尽くされる様を見るはめになってしまっていたが、なんとか命は助かったといった様子だった。サトウはギルマン商会横濱支社の支店長であった友人トム・フォスターとしばらく同居し、後に、領事館付き通訳官から公使館付き通訳官へと昇進。あえなく横濱から新たに設置された高輪公使館(公使用宿舎としてあてがわれていた高輪泉岳寺下の平家二棟)へと異動(移動)となった。

 ―江戸高輪―
VS. ?
大火事からおよそ一か月後、江戸高輪・泉岳寺前に英国公使館として新設された平家二棟のうち、一棟はパークス公使の公邸、もう一棟は公文書記録室の職員によって使用される事となった。そのメンバーは第二等書記官ミットフォード、会計補佐官兼医官ウィリス、通訳官シーボルトとサトウ、通訳生ヴィダルらである。英国駐屯兵の他、前公使館東禅寺時も警備した別手組と呼ばれる組織が護衛として常駐した。この頃、長崎のグラバーから一通の手紙が届く。『土佐の侍と上海渡航した際の報告及び土佐への軍艦売却、その後の報告』『薩摩出資の亀山社中から4人のインターンを迎えた件とその後の経過』とする内容で、後者の件に関しては小松からの文書も添えられておりこれを公使の為に訳したのがサトウであった。思わぬところではつみらの名前が出た事で、思わず内心歓喜してしまう。報告に含まれることでシーボルトの知る所ともなり、報告事項以上のものを感じ取り興味を持ったミットフォードがおもしろげに首を突っ込む事態となる。ウィリスに至っては、四カ国艦隊長州戦争講和条約でのサトウやシーボルトの様子、先日の薩摩宇和島訪問時にグラバーからはつみの所在を聞いたシーボルトの反応など目の当たりにしていた事もあり、『愛の戦争』故に任務に支障が出ないかを心配していた。

 ―長崎―
I've been waiting...
11月。高輪へ移動してそう間もない頃、公使からサトウに対し『プリンセス・ロイヤル号で長崎へ行き、長崎でアーガス号に乗り換え鹿児島及び宇和島へ英国外交官として公式訪問し、各地にて情勢調査せよ』との任務が与えられる。去る7月に将軍徳川家茂が急逝し、長州征討は中止、8月にはその後見役であった一橋慶喜が徳川宗家を相続した。しかしいまだ将軍職は空席のままである。この事に対する主要地における動きや諸大名の認識を知りたいと、公使は考えている様であった。サトウが個人的に召抱えていた元会津武士の野口富蔵も連れて行く許可が下る。悪天候で航路が逸れに逸れ、『香港へ行くのか?』と言う程日本の海図から投げ出され、9日間彷徨った挙句ようやく長崎に到着した。横濱で家財の殆どを失い、持ってきた数少ない服も長い航海で使い物に成らない程汚れくたびれてしまった。真っ先に衣服の店に向かい、これを確保した。
 7日間滞在し、宇和島、薩摩、肥後、土佐の藩士、グラバーらと会う。そしてグラバーと向かった『大浦屋』で2年ぶりにはつみと再会する事ができた。突然心臓に襲い掛かった不整脈に一瞬眩暈をおこしかけたが、それが『心地よいもの』である事はすぐに理解できた。
据エ膳食ワヌハ男ノ恥?R15
サトウは人目も気にせずはつみをデートに誘い、驚きながらも何となく流される形で承諾したはつみが約束通り、翌日の指定時刻に現れた。かつてサトウが日本に憧れるきっかけとなったエルギン卿使節団の中国・日本訪問に関する回想録の一節。『日本とは空が常に青く、太陽が常に照り続けている国。男達はバラ色の唇と黒い瞳を携えた魅力的な乙女たちに伴われて座敷に寝そべり、築山のある小さな庭を窓越しに眺めながら過ごす。神々の祝福を受けたかの様な、色鮮やかで、現世におけるおとぎの国。』まさにこれを実体験しているかの様な心地であった。
 長崎が初めてであったサトウは案内してもらう形となったが、要所要所でのエスコートは流石と言うべきか。はつみが『現代』において想像していた様な「男女のデート」が今まさに行われているという自覚をするには十分な時間であった。
 後日、真面目なサトウは自分がしたデートは正しかったのか『日本人女性』の恋愛価値観を知りたいとして大浦慶に相談を持ち掛ける。『逃がした魚は大きい』『据え膳食わぬは男の恥』『縁は異なもの味なもの』という日本の言業を知らされる。

 ―横濱・長崎―
Love letter.
サトウが任務で長崎へ向かってから間もない頃、シーボルトは一人眉間に皺を寄せながら紙とペンに全神経を集中させていた。まず書き出し部分が『Dear』なのか、それともお堅く『To』なのかといった所で悩む。その後ろ姿を見守っていたウィリスとミットフォードが翻訳書類を手に声を掛けるのを待つか待たないかでモメる。ウィリスは『思っていた通りだ(愛の戦争が任務に支障を来たす)』とため息をついた。
 サトウが鹿児島を訪問しその沖に長州のオテントウ丸を認め『薩摩と長州が手を組もうとしている』事にほぼ確信していた12月始め。シーボルトの手紙がようやく長崎グラバー邸へと届く。『Dear Hatsumi,』と書かれた封筒ははつみに手渡され、その場で中身を確認するはつみ。『私は英国政府の慣例に倣い賜暇取得の運びとなるが、同時期にパリへ渡航する徳川昭武ら日本政府特別使節団の通訳として同行する事となりました。その任務を終え次第、故郷へ帰ります。期間は2年間となっています。』シーボルト的には思い切ったラブレターのツモリだったが淡々とした報告が続く。最後に追伸として書かれた『あなたの写真が欲しい』の一文以外は。サトウの事といい極めてプライベートな事ではあったが、悩まし気に笑いつつ世話を焼くグラバーであった。

 ―宇和島―
Today is a very peaceful day.
12月。鹿児島訪問を経たサトウは、アーガス号の指揮官ラウンド中佐に苛立ちながらも宇和島へやってきた。まず沖に碇泊して使者らとのやり取りを待つ間に藩主自らがお忍びでアーガス号を見に来るなど、なかなかユニークな出迎え。使者も待たず藩主と共に上陸したサトウは、遠くから友好的にサトウの様子を見ていた藩主の家族や市井の人達に手を振り、藩主の許しを得て近付いて来た彼女らとコミュニケーションを図った。皆明るく友好的で、親しみがありながらも礼儀正しかった。
藩主と共に四侯会議の一人である隠居・伊達宗城とも会う。思っていたよりも若く、そして極めて柔軟な思考を持つ紳士的な人物であった。薩摩に続き宇和島でも英国策論の話題が上がり『この様な抜本的な思想は英国人であるサトウが語るからこそ目から鱗とばかりに受け入れる者も多かったが、『尊王攘夷』が主流であった数年前からたった一人でこの様な思想を持ち世界へ目を向ける者がいた』と切り出す。『君達の出版物では彼女を「抑圧された女神」と表現している様だね』と。宗城はシーボルトの娘やはつみとも関係が深い様で、会話は盛り上がった。
 その後、藩主や宗城らと酒宴を楽しみ、宇和島には2泊する事となるが連日実に楽しい滞在となった。

●慶応3年…サトウ24歳・はつみ26歳・シーボルト21歳・ミットフォード30歳

 ―大阪―

小松トイッショ
1月10日。サトウとミットフォードは慶喜将軍による各国公使会見招待の下見のため、上旬頃から大阪へ上陸していた。この間、昨年末に孝明天皇が崩御していた事が発表され、また今月9日には明治天皇践祚の儀が行われた。サトウ達の身近な事と言えば、前回兵庫港開港要求の際に大阪上陸した時とは打って変わって幕府役人達の外国人への待遇がガラリと変わっていた。驚くほど丁寧に対応される風潮に驚くと共に満足の意を示すサトウ達。殊更、下見の為にわざわざ出向いて来た外交官は英国のみだった様で、英国公使に宛がわれる宿舎および大阪公使館には最も適した寺があてがわれる事となった。
事務手続きがひと段落着いた頃、サトウは噂に聞く薩摩の家老・小松帯刀と初めて対面する。小松は後にサトウが『最も魅力的な日本人の一人である』と、その人格、容姿、政治手腕全てにおいて高く評価した人物である。時に井上聞多も交え英国策論や政治について会話に花を咲かせたが、例によってはつみの話でも盛り上がりを見せた。
 ―江戸―

Without any regrets.R15
1月中旬。大坂から江戸高輪の公使館へ帰ってきたサトウとミットフォードを待っていたのは、通訳生ヴィダルが公使館内の自室で拳銃自殺をはかったという極めてショッキングな報告であった。ヴィダルが亡くなる直前・直後を共にしていたウィリスは、サトウ達に彼の様子を伝える。持病の内臓疾患に加え日本の文化になかなか馴染めずにいたなど同情すべき点が多く見られる一方、サトウは若くして死を選んだ彼を見つめ、自分は何があっても後悔しない覚悟と、その覚悟を支える夢がある事を再確認した。自分で死を選ばずとも、ここにいる外国人は皆いつ街角に潜む暗殺者の刀に斃れる事になるか分からない。斃れる前に出来る事は躊躇わずするべきだとも自分に言い聞かせた。公使館の仕事は勿論、勉強、交流、そして恋も。
この後、サトウはミットフォードと共にこの臨時公使館を後にし門良院という寺の一室を借り受けた。またこの様な事件を受けた公使の許しを得、仲間達と共に熱海へ旅行へと出かけた。

 ―大阪・東海道―
Terrorist Attack.…EP1・EP2
4月24日。アーネスト・サトウ襲撃事件
 将軍徳川慶喜による諸外国公使への公式会見が『無事』に終わり、ええじゃないかで荒れ狂う大阪の町を後にする各国公使。その中でサトウはチャールズと共に『陸路』横濱への帰還を試みるという『大変喜ばしい状況』にあった。同行者は野口やヨキチに加え、現地の公使館護衛(別手組)10人と、幕府外国方の役人2人。将軍が慶喜となって以来、幕府の役人は今までの対応から手の平を返すかの如く大変愛想良く丁寧な対応をしてくれる様になっていた。今回も、サトウ達が安全で快適な旅を送れる様細心の注意を払ってくれ行程なども事前にしっかりと打ち合わせてくれた為、サトウ達も以前の様な不信感やわずらわしさを感じる事はなかった。
 かつてない程有意義で順調な旅を続け、行く先々の女の子の様子などを観察したりと楽しく旅していた矢先、『帝の名に懸けて金銭を巻き上げる悪名高い日光例幣使』が近くに来ている事を幕府の役人から告げられる。『大名よりも位が高いとされる例幣使』であるにも関わらず『悪名高い』とは、同行する日本人および立ち寄った宿場、店、通りかかった薩摩藩士など、多くの日本人達から聞き得た事であった。日程を綿密に調整し彼らと出会わない様掛川まで至ったが、その日の深夜、懸念は現実のものとなってサトウ一行に襲い掛かる形となってしまう。

 ―江戸―
Come on a my house.
6月。サトウ、港を一望できる高輪の丘に大きな二階建ての高屋敷を借りる。江戸のあらゆる人物と交流を図る様になっていた為、高輪の公使館はもとよりミットフォードと借り受けていた門良院でも何かと不便が生じる事態が重なった為、思い切っての事であった。
この屋敷は港を一望できる丘の上にあり、様々な大きさの部屋がいくつもつくられ、広い庭と離れ小屋がついている。この屋敷にはサトウの他に野口も共に住まい、彼には支払いや来客等屋敷に関わる全てを仕切る権限を与えた。そしてその野口によって使用人や庭師など数名の常駐使用人が雇われ、離れに住まう警備達はなんと大阪東海道旅でも苦楽を共にし友人にまでなった別手組10人の中から6名がサトウ専任護衛として常駐する事を許された。サトウはこれだけ雇っても余裕のある立派な建物にも、そして雇われた人々にも大変満足していた。
本の虫であるサトウにとって書斎は最も拘った部屋でもあり、この部屋が一番気に入ったのは円形の窓があってそこから海を覗く事ができ、四角形の窓からは庭を覗く事ができたというデザイン故にだった。これは、18歳だったサトウが初めて日本に興味を持ち、そして強烈なインパクトを残した『ローレンス・オリファント(江戸公使館一等書記官)によるエルギン卿使節団の中国・日本訪問に関する回想録』に書かれていた一節を彷彿させるものであったからだ。いつかこの部屋にはつみを招待する事ができたら、あの一節を完全に再現する事になるだろう。一人うすら笑いを浮かべるサトウを、野口始め使用人たちは微笑みながら見つめていた。
しかし折角屋敷を借り新生活が始まったのも束の間、大阪将軍会見の際話題に上がった『新潟開港』に関しパークス公使が早速視察に向かう方針を示した。サトウやミットフォードもこれに従事し、なんと帰路は七尾から大阪までを陸路横断するという機会に恵まれた。新しい家での生活も楽しみではあったが、外国人未踏の地をゆく冒険の機会に心を躍らせるサトウ達であった。

 ―土佐―
Worry about you.
8月。東日本陸路横断の果てに大坂へ到着したサトウであったが、その後すぐ、長崎で起こったイカルス号事件対応の為にパークス公使と共に土佐須崎へとやってきていた。パークスと後藤は最初こそ決裂しそうな対談となったが、大らかで真っすぐな性格を以て英国の政治体制や貿易に対する興味を示した後藤は見事にパークスの信頼を勝ち取っていた。パークス公使はサトウに領事と同様の権限を与えて長崎行を指示し、一足先に帰還する。長崎へ向かう事になったサトウは土佐藩の帆船夕顔丸へ一人乗り込む事になったのだが、そこで海援隊士としてイカルス号事件の対応をする事になっていたはつみや龍馬らと再会したのだった。サトウははつみに対し、以前打診された英国公使土佐訪問についての話を振るのだが、はつみはその話について自分ができる事はもう何もないと、ほぼ一方的に話を終わらせた。何か抱え込んでいる様にも思え、心配になってしまうサトウ。
Encounter too late.
パークスが須崎沖を去ったその日の夜、後藤の使いによって起こされたサトウは急遽、この土佐の精神的支柱である山内容堂と会する事となった。慌てて数少ない正装服を持ち、迎えに来た小舟に乗って浦戸から鏡川をのぼっていく。開誠館で後藤と合流し、容堂を待つ間に服を着替えたサトウは後藤の『同僚』を紹介される。上階へと通されると容堂は部屋の前で立っており、つま先に指先が触れそうな程深くお辞儀をしてサトウを出迎えた。
土佐の男は日本一危険だ、というのが西洋人たちの間で通説となっている面もある程、彼らの国の『尊王攘夷派』は過激な暗殺者であった。しかしはつみや寅之進、龍馬達といった開国に前向きな者がいる様に、この後藤、そして容堂も、凝り固まった日本人独特の偏見無く公平且つ論理的に会話をする事ができる人物であった。『偏見に捕らわれず物事を見極める事ができる人物』に見え、『決して保守的には見えなかった』との印象をうけつつも、薩摩や長州の様な抜本的な改革を望んでいる様には見えなかったが。
帰りの船の中で、かつてはつみからパークス公使による土佐訪問の斡旋が打診された事を後藤に告げるも、サトウが思っていた通りはつみと後藤の間には何かしらの『隔たり』がある様に感じられた。

 ―長崎―
公私混合
8月。長崎に入ったサトウやはつみ達は、それ以降殆ど顔を合わせる事なく取調べや証拠集めに各々奔走した。ある日、事件調査について土佐目付の佐々木三四郎から海援隊が調査協力を断ったと報告を受ける。その報告を受けた翌日、個人的に信頼するはつみにとある話を聞こうと土佐商会を訪ねた。龍馬と対峙しはつみを呼び出す事には成功したが、陸奥陽之助というどこか斜に構えた感じの青年がはつみの護衛としてついてくると言う。―そして案の定、この陸奥と討論が勃発してしまう。
1867.9.Oct.
9月。『長崎くんち』と言われる長崎諏訪神社の祭礼が今年縮小となりながらも開催された頃、土佐商会に属する土佐藩士と泥酔した英米人の間で一触即発の事態に陥る。『歴史上』これは『英米水兵襲撃事件』と呼ばれる傷害事件の発端であったが、土佐藩士が刀を抜いた所へ居合わせたはつみと寅之進の介入によって難無きを得た。翌日、税関所には当事者4人とはつみらの他にサトウと英国長崎領事のフラワーズ、補佐官のロバートソン、幕府代表若年寄平山とその部下、土佐藩大目付佐々木三四郎の他関係者が顔を連ね、イカルス号事件の二の舞ともなり得たこの事件は完全に和解の形で終結する。両者の間を見事に治めたのは完全にはつみの活躍によるものであり、心から反省と和解をした土佐藩士と英米人達はその後、通訳として寅之進を交え陽気にランチへと出かけた程だった。報告に立ち会ったサトウは『こんなに心打たれる事はなかった』『彼女こそ外交の女神だ』とその日の日記に書き記した。
イカルス号事件、解決 by capturing the criminal…前編・後編R15
9月13日。先の未遂事件が解決した事に続き、8月19日から別行動をとっていた寅之進と惣之丞が報告を行った。寅之進らの捜索ははつみのある仮説によって行われていたものであり、ここにまとめられた情報は翌日サトウ達の元へも正式な形でもたらされた。これにより、イカルス号事件ついて大きな進展を迎える事となる。奇しくも同14日には蘭商人ハットマンとライフル3000丁の購入契約を結ぶ予定もあった為、龍馬は英国への報告を佐々木とはつみに一任し、送り出した。
 一方サトウはこの日、長州の木戸・伊藤らから引き取った『長州ファイブ』の一人・遠藤謹助を迎え、事件未解決の経過報告も兼ねて一旦横濱へ帰還する予定であったが、はつみらからの報告を受け急遽延期。急遽浮上した福岡藩の挙動について捜査を進める事となる。
As a diplomat.
事態の収拾を確信した事を横濱のパークス公使へ向けて通達し、ひと段落したサトウの元に商談を終えた龍馬とグラバーが訪れ、サトウと龍馬はようやく『一個人として再会』する。先日の泥酔事件や今回のイカルス号事件に際するはつみの対応に感心し、彼女の今後について三者三様に希望を語る。幕府若年寄(外国奉行)平山や土佐藩佐々木も、それぞれ幕府、土佐藩へと通達を出す。サトウに同行していた長州藩士遠藤も、事の顛末を山口の木戸へと知らせた。
グラバーは龍馬と商談があるとして席を離れ、別れたサトウははつみに声をかける。はつみが進む道について訪ね、もしはつみが望むのであれば英国公使へ正式に紹介する事もできると告げる。女性が外交官として抜擢された例はいまだ世界でも事例の無い事だが、女王を頂く英国では世界に先駆けて女性の社会進出にも前向きに取り組んでいる。パークス公使ははつみの実力を認めるだろうと告げた。
恋と友情
サトウとはつみを尾行していた陸奥と寅之進。二人が別れた後、陸奥がサトウに向かって行ったの慌ててついていく。そして案の定、陸奥はサトウに対し単刀直入にはつみの事に迫るのだった。サトウは意外にも、こういった色恋沙汰で同年代の青年から迫られライバル宣言をされる事にポジティブな感情を抱いている自分に気付く。政治的、ビジネス的な事ばかりでなく一人の男として率直にこうした事を話せる相手が、この日本でできた事が嬉しい。これははつみがもたらした出会いであり、二人の事は恋のライバルであり友人でもあると思っていると伝えると、陸奥が面白い程露骨に怯んだ。サトウや寅之進は笑い、陸奥もまんざらでもない様子であった。
逃ガシタ魚ハ大キイ
10月1日、長崎、土佐・英会見。
 土佐側は英国に対し濡れ衣を着せられた点について追求することなく、これを機に友好的な関係を築きたいと申し出た事でパークス公使は大変満足の意を示し、両者握手を以て会談終了となった。大政奉還の件が迫っていた為、土佐一行は直ぐに大阪へ帰る事となる。サトウ達もまだ長崎で福岡藩との話合いがあり、ゆっくりと話せる時間はなかった。それでも声をかけるサトウやミットフォードであったが、はつみの様子が少しだけぎこちない事に気が付く。あれだけ拒否的な姿勢を示していた後藤と共に出席した事、はつみが土佐を受け入れた事と関係があるのかとも思ったが、時間もない状態で不躾に聞き出す事はできなかった。サトウはそこに龍馬の影があるとは気付きもせず、別れ際、あと2か月足らずで神戸開港が成り大阪が開市となる事を告げ、また会える事を望むと言って別れる。
はつみが見えなくなるまで見送るサトウの背中に、ミットフォードは桃色吐息を吐きながら「…あれは迷ってるね」と呟く。「何が」と言いかけ、サトウの脳内で素早く『彼女が英国公使の下、外交官になる事を迷っている?』という仮説が組みあがる。『少しぎこちなかったのも前回スカウトの話をちらつかせた故に気を使わせてしまったからなのでは』と。その事を告げようとしたサトウにミットフォードは「君は天才的な外交の素質を持っているけど、ロマンスに対してはやっぱりまだまだだね」と思いもしない返答をしてきた。唖然としているサトウに「彼女は他の男に口説かれてるね。それで、君からの好意に遠慮している。」と、ロマンス上級者としての見解を述べる。「行かせてよかったのかい?」


槿花一日
慶応3年10月―慶応3年11月

●慶応3年…サトウ24歳・はつみ26歳・シーボルト21歳・ミットフォード30歳
 ―大阪―
Japanese diplomat…EP1
11月18日。サトウ、大阪城裏の大阪英国公使館にて薩摩の吉井幸輔と会談し、薩摩、土佐、宇和島、長州、芸州が同盟を結成したと聞く。肥後、有馬もこれに続く見込みで、西国諸藩は団結している様に思われた。しかしサトウが気がかりなのは大政奉還を成したのは土佐であると、土佐の後藤から直接主張を得ている事である。イカルス号事件解決の際にも、彼らやはつみが大政奉還策の為早々に長崎を去ったのは記憶に新しい。大政奉還は幕府が朝廷に、つまり帝に対して最大限恭順の意を示し、討幕派らとの武力衝突を避ける為の最大にして最後の策であったはずだと英国は理解している。これによって帝の兵を名乗る薩摩らが朝廷に従わない幕府を倒すという大義名分は失われる。薩摩は振り上げた拳の降ろし場所をなくしており、その状況を作った土佐をどう思っているのか。
…にも拘わらず、同盟軍に土佐がいるとはどういう事なのか。
思案するサトウに吉井はつづけた。
「内政状況が安定しなければ、諸藩は幕府と諸外国との間に争議をもたらす為に外国人を襲うだろう」


幕府終焉編
慶応3年12月―明治元年11月

●慶応3年…サトウ24歳・はつみ26歳・シーボルト21歳・ミットフォード30歳
 ―大阪―
Chaotic days.…EP1・EP2・EP3
12月6日。西暦では1867年12月31日。
この日サトウは英国公使館付き一等通訳官へと昇進した。
薩摩吉井幸輔が大阪英国公使館に駆け付けサトウと面会。先日京においてとある殺傷事件が勃発し、その事件にはかの坂本龍馬らが関わっているという報告を受ける。サトウが真っ先に気にかけたのは坂本についている桜川はつみの安否であったが、詳細報告の前に大至急で英国公使館付き医官であるウィリス医師の派遣を要請する吉井。はつみが再び襲われたのではと息をのむサトウであったがそうではなかった。その上で、英国医師の支援を求めるその詳細を聞いたサトウは即刻このことを公使に報告。公使公認の下、ウィリスと共に大阪薩摩藩邸中屋敷へと駆け付けた。
 ウィリスが『彼』の外科治療に取り掛かる間、吉井から詳しい経緯や事情を聞いたサトウが気にかかったのは『黒い鳥』の存在であった。長崎でイカルス号事件の少し前に起こったキリスト教徒摘発事件、これに係る事件として摘発する役人が黒い鳥による猛攻撃を受け十数名の死傷者を出したという事件に似ていると思ったのだった。
今回『彼』を治療した件について『内密に願いたい』という吉井に対し、サトウは『今回の件に政治的干渉は見込んでおりません。我々は、我々の友人である薩摩からの要請により西洋の医療技術を提供した。その事実について友人が口外を望まないとするのであれば、友人としてそれを受け入れるのは当然の事です』と返した。返答に満足した吉井は素直に感謝の意を示し、非常に前向きな気持ちで小松からの言伝をサトウに託す。その内容は、多忙を極め会いに行けない非礼を詫びると共に、はつみの所在と今後の相談についてを告げるものであった。

 ―12月7日(西暦1868.1.1)神戸開港・大坂開市―

『天下の台所』たる大坂開市・神戸開港となる。
しかしサトウ達の状況は、この祝福すべき日からとんでもない所へと陥っていく。
薩摩を先頭に急進派の公卿らが行動を起こし、天下の形相と共に朝廷の在り方が一気に激変していくのである。開港の翌日には朝敵であったはずの長州藩主父子はじめ処分を受けていた公卿(岩倉、三条)の赦免決定となり、更に翌日には、京守護職辞任の意向を提示するも桑名に説得されて取り下げていた会津公が慶喜により解任。御所を出る。その代わりに薩摩、土佐の一部、そして長州が御所警護に入り、朝廷では王政復古が唱えられた。『総裁、議定、参与』から成る『三職』によって新しい政府が構成され、これら政府の軍事介入により淀川などの交通機関も占領され、政権が交代した事は市井の民らから見ても明らかであった。
神戸湾には開港に併せ諸外国公使らが乗る軍艦も揃っていた。吉井が言っていた通りではないが、薩摩らはこの状況をも利用した様に思われる。いかな各国公使達であっても一国の政権交代が行われる大革命を前にしては慎重な姿勢をみせ、より正確な情報把握に努めようと必死だった。そんな中で、サトウの外交力、天才的なコミュニケーション力がどの国の外交官、通訳官を抜きん出て発揮される事となる。彼はこの様な状況下にあっても積極的に町へ出、幕府若年寄をはじめ会津家老、薩摩藩士、市井の人々など様々な場面で自ら情報を得た。サトウの従者である元会津藩士の野口富蔵や、長州木戸からの要請で同行していた長州藩士遠藤謹助らがもたらす情報も大変貴重であった。
日本の文化は愚か現在の勢力図の大筋すらも把握できていない諸国を尻目に、英国はこれまで費やしてきた日本の調査データやサトウら優秀な部下たちを介して得る情報を駆使し、諸国連合のリーダーとしての存在感を強めていく。
Japanese diplomat…EP2
12月21日。陸奥が単身、大阪英国公使館を訪れサトウとの会談を望む。新政府を国際的に承認させるの為の問答。陸奥はそれまで坂本龍馬やはつみの陰に隠れていたが、イカルス号事件の際にはその非凡な才をサトウ達に知らしめるに至っている。また『新政府』と自称する組織が樹立した様子であっても、その外交的処置として彼らは何のアクションもしてこない。つまり彼らの中に世界に連なろうとして正しい判断を出来る者が殆どいないという所でもあった。薩摩の木場伝内とは近々既に約束を取り付けておりもしかしたらその時に外交面における話があるのかも知れないが、同じ薩摩でも先日の吉井の様な時代錯誤な発言をする者もまだまだ多い。古からの世襲職を打破できない保守派の巣窟である朝廷・公卿衆が真の意味で世界を見据えた抜本的な改革ができるとも正直思えない。そんな中で陸奥の着眼点、そしてその行動力は大いに期待できるものであった。
Japanese diplomat…EP3
陸奥の去り際、小松と木場伝内が大阪英国公使館に現れる。元々はつみらと共に保護されていた陸奥は小松らの元から逃走した形となっていたが、小松はこれを問題にする事はなかった。むしろ陸奥の実力は既に知っていたし、サトウに訪ねた事柄の着眼点にも感心さえした。陸奥にまとめさせ、小松が岩倉に推挙するから同行する様にと申し付ける。
小松はというと、サトウに対し先日のウィリス医師の派遣に際する配慮の例と、はつみの今後について相談をしにきたという。ここだけの話だが十中八九武力倒幕を目指す戦争が近日中に勃発する。はつみは既に大阪へ避難させているが、その後の身柄を英国公使館で保護してもらえないかといった大胆な発案であった。これには隣で聞いていた陸奥だけでなく大阪藩邸留守居役の木場伝内までもが驚いていたが、小松ははつみにとってそれが最善であり、また英国にとっても彼女の才を利用できる利点があると確信している様子だった。あくまで物腰柔らかく爽やかに提案を示す小松であったが、真っすぐに堂々と的確に要点を告げ聞き手の興味を惹きつけその気にさせるプレゼンは、なるほどやはり類を見ない有能人物であると思わずにはいられなかった。
Clear the first hurdle.
12月23日。22日に改めて行われた木場伝内との薩摩藩邸中屋敷会談にてはつみとの面会を希望するが、色んな意味で彼女は殆ど幽閉されている様な状況である事を知る。またここだけの話、『彼』はウィリスの治療の甲斐あって一命を取り留め、小松とはつみがこの藩邸に入ったと入れ違いの形で長崎へ護送されたという。引き続き、この事は内密にとの事。サトウとミットフォードは相談し合い、はつみとの事前面談は一旦諦めた。そしてその上で、今は時勢を注視しなければならない時『だからこそ』薩摩家老小松帯刀から桜川はつみ庇護の要請があった事を伝える事にした。

●慶応4年/明治元年…
 サトウ25歳・はつみ27歳・シーボルト22歳・ミットフォード31歳

 ―大阪―
政権革命、戊辰戦争序盤
 以下、サトウは会津藩出身の野口富蔵と幕府警備組織別手組より派遣されている6名、木戸からの要請で同行している長州藩士(長州ファイブの一人)遠藤謹助、薩摩藩士吉井幸三、大阪薩摩藩邸留守居役木場伝内、幕府外国奉行石川利政、会津藩士、家老らなど派閥を越えた人脈を通し、状況把握に務める。
1月3に伏見戦争が勃発すると、その戦禍が各国公使館も間近に建ち並ぶ大阪城にまで迫るであろう事が諸外国内で緊急回覧され、各国公使が天保山、神戸湾、及び神戸外国人居住地へと引き上げ距離を以て傍観する体制を取った。そんな中、サトウは手元の護衛らと共に大阪副領事館に残留するなど、現地日本人と通じ確かな情報を得ようとする姿勢は飛びぬけて勇敢であった。
また伊予守(四賢侯)伊達宗城や東久世通禧、伊賀守(老中)板倉勝静、玄蕃守(若年寄)永井尚志ら高官らとの公式会議や会談などにも逐一同席し、パークス公使を支えた。また、大阪副領事にまでなっていたウィリス医師は天保山へ出向いた際、そこに集まっていた多くの会津兵を率先して治療し、その後も各地にて敵味方関係なく多くの負傷兵を治療して回り、西洋の博愛精神と外科治療を知らしめるに至った。

その最中、新政府は1月3日の内に『七事務局』とする新体制を発足。
神祇、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、制度によるもの。「七局」と略称される。
また、これらとは別に国政の統一のために総裁局が設置された。

 かねてより幕府の専制政治の弱体化を見抜き各大名と友好的な関係を築いていた英国は新政府からの信頼を最も受けており、それは高官たちがまずはサトウやパークス公使に相談を持ち掛けるなどと言った様子からも明らかであった。神戸開港に際し革命に巻き込まれる形となり混乱する諸外国であったが、中でも英国はリーダー的存在感へと登り詰めていく。
Her secret.
 一時は大阪公使館の目の前に建つ大阪城へ戦禍が及ぶとされ、諸外国は即座に避難を開始するなど混乱を極めていた。徳川慶喜が大阪を去り、京に拠点を置く新政府の高官らが大阪へ下り諸外国公使との外交が開始されはじめた11日、外国人居住地である神戸にて『備前事件』が勃発してしまう。
1月15日、そんな中で新政府の使者としてやってきた東久世通禧ら『外国事務局』の面々と各国公使の会見が行われる。幕府寄りで不穏な動きを見せていた仏公使ロッシュだけは最後まで猛然と反対意見を述べていたが、最終的には彼が折れる形となり全公使一致で『新政府を承認し本国政府へ通達する』と明言し、東久世達は満足の意を表してその日の会議は終了した。 帰りの軍艦を待つ間、かねてよりの友人であるサトウ、伊藤、陸奥の三人は私的な会話を愉しんだ。必然と言えば必然か、はつみの話も話題に上り、土佐イカルス号事件の際などにひっかかっていた『はつみと土佐の関係』の真相を遂に知るに至った。
Heal my mind.
慶喜を始め大半の旧幕府勢力が大阪を去った事で、新政府軍が大阪の町を再度掌握。その安全を得た各国公使が大阪へ戻り始めた頃、小松帯刀、伊達宗城が友好的にパークスを訪ねてきた。諸事会談が行われた後、小松、伊達、パークス公使、サトウの間で桜川はつみ及び池田寅之進の英国公使館出仕および留学候補生についての話もまとまる。坂本襲撃事件以来のはつみの様子、公職信任の見通し、給与、出向後の相談窓口をサトウ、小松とするなど。サトウは何も言わなかったが、この件に関し土佐が殆ど顔を出さない事が少々気になっていた。―とはいえ、個々の所混乱と多忙と知的好奇心を極める事態が続いていたサトウにとって、はつみの今後についてこうして話が進んでいく事は一種の癒しの様にも思えていた。
小松トイッショ2
1月15日、不幸な事に土佐と仏水兵らとの間でトラブルが発生し『堺事件』とする殺傷事件へと発展してしまった。各国公使らによる新政府信任表明があった直後で、また容堂は病に斃れ重篤状態にあり英国医師ウィリスの治療を受けている真っ最中の出来事であった等もあり、対応した伊達宗城や東久世通禧らは抗議する公使達および特に怒り狂う仏公使ロッシュに対し満足な説明ができずにいた。 そんな中、小松から夕食を共にしないかと声がかかる。政府総裁顧問でもある小松がサトウへこの様に接触してくる事の意味をサトウも察した上で、この接待を受け入れた。
この時にも荒れる土佐の矛先がサトウに向けられるというトラブルに見舞われ、些細な所から再び露見する開国への弊害を実感する。しかしこの後改めて薩摩藩邸で語りあかしたサトウと小松は互いの信頼関係を確認し合うに至った。そしてその絆のもと、サトウはついにはつみと再会するのである。
政府公認・女性通訳官
2月下旬、大問題となった堺事件は土佐藩士らの切腹処刑を以て公使ロッシュを納得させ、解決という形に至った。その後、ついに、各国公使が西洋人初の入京を果たし帝へ拝謁する時がきた。各国の由緒正しい大隊列が、薩摩、肥後、土佐等の軍隊に守られながら次々と上洛を果たしていく。小松は大阪を出立する英国公使館一行の元を訪れ、共に上洛に至った。そして、先の堺事件講和条件に『どの公使よりも先に帝と謁見する事』というものを提示していた仏公使ロッシュを始めとした謁見行事が恙なく行われていくのを確認した後、陸奥と共に大阪薩摩藩邸中屋敷へと向かう。帝との謁見後は間を置かず横濱へ帰還する事を伝えてきた事を踏まえ、その前にはつみへの辞令を済ませて置く必要があった為であった。
3月1日、小松達が大阪薩摩藩邸中屋敷へ到着したのとほぼ同時に京からの伝達が追いつく。昨日30日に参内予定であったパークス公使の謁見は不届き者らによるパークス公使襲撃の為急遽取り消し、近日後に見合わせとなったとの事であった。騒然とする小松らであったが、小松が大阪へ向かっている事を知っていたサトウによる手紙も添えられており、英国公使館一行及び軍隊の負傷状況などが知らされていた。これに際し公使は極めて冷静かつ穏便に対処している事、政府からの正式な謝罪文書が既に発行され、犯人も既に捕らえられ処刑される事が決定されており、英国はそれ以上の賠償などは求めない意向である事、新政府から派遣されるはつみの受け入れに関しても何ら変更はない事などが記されていた。相変わらず周到すぎるサトウに感心しつつも「はつみどんこつば、よほど気になっとるでごわすな」とする小松。陸奥はあくまで極めて個人的な意見として「あいつの女になる訳じゃねぇのによ…」と漏らし、小松の苦笑を誘った。
はつみ、寅之進、『外国事務局御用掛・英国通訳事務、留学候補生』およびその護衛役を拝命
New chapter in life.…EP1・EP2
3月5日。帝との謁見を恙なく終えた英国公使一行が大阪英国副領事館に到着すると、小松と陸奥に連れられたはつみ、寅之進の姿を確認した。サトウやミットフォードなどはつみとの再会と合流を喜び合うのもそこそこに、はつみはパークス公使と会見する運びとなる。急遽ながらも彼を納得させる見事な英語スピーチをやり遂げ、改めて歓迎の意を受ける事ができた。英国は明日にも横濱江向け出向との事。小松と陸奥は京へ戻らねばならぬ為、ここで別れとなる。
「西洋には『はぐ』という習慣があるそうだが…」 と小松がもじもじしながら述べると、はつみは直ぐに察した様で微笑み、小松そして陸奥とハグをする。再会を誓って別れた。
その後サトウらは横濱帰還へ向けた積み荷の移動や出立前の面会などで極めて慌ただしい時間を送る事となり、且つはつみは一旦パークス公使の執務室控え部屋をあてがわれ、肉体労働ではなく大量の文書を翻訳するという業務が早速あてがわれていた。あらゆる情報を得ようとする英国は公式文書のみならず、交換した書簡から市井に出回る回覧文書、掲示文書などあらゆるものを翻訳する作業まで行っており、日本語と英語を直接操れるはつみのスキルはグラバー商会でも通用したという期待を裏切る事もなく、まさに持ってこいのものであった。また、公職に就くレディの扱いとしても『肉体労働はさせられない』とする公使なりの配慮も伺えた。
この日、ミットフォードに単身大阪副領事館へ駐留せよとした辞令が発せられた。共に横濱へ行けない事を心から残念がるミットフォードであったが、サトウには謎のウィンクを飛ばす。
翌日、一行は横濱へ向け2日間の船旅へと出航するのであった。2日の間、はつみと寅之進はウィリスによる診察と問診、その他個人情報の聞き取りなどが行われたが、それも含め極めて心身ともに快適に過ごす事ができ『希望に満ちた』船旅となった。
 ―横濱―
New chapter in life.…EP3
3月8日。航海はサトウが『残念に』思ってしまう程極めて順調で、英国公使館一行は2日間の船旅を終え横濱に上陸した。パークス公使は2日間の間にウィリスやサトウとも細部に渡って聞き取りと打ち合わせをし、はつみおよび寅之進のパーソナルファイルを作成した様だった。横濱領事館に入るとこのファイルを以て、正式な辞令が発せられる事となった。
 日本政府より信任の出向職員として英国公使館及び領事館付き通訳官に任ずる。
 直属の上司はサトウ一等通訳官とし、諸事彼の指示を仰ぐ事。
 基本的な業務内容や権限についてもサトウ一等通訳官に委任し、
 その主たるは通訳及び翻訳作業、諸事務等とする。
辞令の後はサトウ、寅之進と共に町出て新生活準備に取り掛かった。横濱の町を買い物して練り歩く。その最中、公使館領事館の職員は基本男ばかりで、給仕やその他使用人などには女性の姿が見られる事もあるが、いずれにしても基本的には現地の人を採用している。はつみには女性の給仕が必要になるのではないかと言われ、江戸の知り合いを呼べばいいと言われるとすぐに千葉佐那子の事を思い浮かべた。しかし…。
 ―江戸・高輪―
She came to my house!
3月10日。サトウ、江戸での情報収集を一任され高輪の自宅と横濱領事館を自在に行き来する勤務体制となる。平静を装いながらも内心喜々としながら「膨大な書類の翻訳作業と、情報収集を行うにあたって彼女の知己である勝海舟との再会を期待する為」等と理由を付け、翻訳、報告書作成等の引継ぎを行う事も加味してはつみらを一時的に同行させた。
道違えても師弟
3月12日。サトウ、はつみと寅之進(野口と別手組)を連れ、勝海舟のもとへ行く。
 江戸はまだ外国人に開市されておらず、人々はいつも通りの生活をしていた。しかし薩摩や長州の兵があちこちを徘徊している気の抜けない状態であった。サトウは夕方以降に活動を開始し、夜の闇を利用して勝や知人らと会うようにしていた。勝との再会を歓びながらも心のどこかで遠慮気味であったり受け入れてもらえるか心配で不安な気持ちも入り交じっていたはつみらであったが、こんな状況が続いているにも勝は関わらず変わらずあっけらかんとして『よう!』と片手挙げて歓迎してくれる様子であった。思わず泣いてしまうはつみの側へ自ら歩み寄り、肩を抱いて頭を撫で、「話はおおかた聞いてる。おまえさん、よくやってるよ。大したもんだ」と褒めてくれた。もらい泣きしている寅之進も引き寄せ「男を慰める役なんざ勘弁願いてぇが、ま、おまえさんも可愛い弟子だからネ」と、満足気にサトウへ頷いて見せた。
そして情報交換というテイの会談が始まり、この時初めて、かの『江戸城無血開城』に迫っている事を確信する。
あの世R15
3月15日。勝と西郷の会談は歴史通りに執り行われ、江戸総攻撃は回避される見通しとなった。その顛末について勝から直接聞き届け、勝の元から帰る時に不穏な空気に囲まれる。野口や別手組の護衛が突然倒れ、続いて寅之進やサトウ、勝までもが倒れて行く。強烈な眠気に襲われている様で、膝をつく勝めがけて真っ黒なルシが急降下してきた。再び舞い上がり急降下の体制を取るルシに対し、はつみは咄嗟に桜清丸を抜き放ち、撃退する。
Complex mind.R15
思った通り、浦上四番崩れから坂本龍馬、勝海舟と『黒い鳥』という共通事項を意識するサトウ。襲われる人物の共通点は『幕府』ではないかといったところまで一気に推察が進んだ。それとは別にはつみの『純白のペット』が黒檀の様に黒く怪しい姿になっていた事、そのペットを自ら撃退した事ではつみが落ち込んでいるのだと思っていたが、もっと未知なる真実があり、それ故に彼女は悩みそして異質であるのだと知る。
 ―横濱―
Problem occurred.
3月18日、サトウと共に横濱公使館へ戻る。江戸総攻撃中止に至る経緯を公使パークスへ報告した後、別件としてパークスが一通の書簡を取り出した。『差出人の乾という人物について調べさせてもらったのだが、官軍総督軍の板垣参謀と同一人物の様だ。心当たりはあるかね?』と、不穏な雰囲気で尋ねられ緊張するはつみ。乾=板垣である事には驚かないが、パークスはその性格と日本人への印象から『新政府からの依頼ではつみを預かる立場として中身を確認する義務がある』などと言い出し、要は『板垣は偽名を使ってまで私信をよこしてきた』『はつみはスパイではないか』と疑っているという事で、はつみはこの展開にデジャヴかという程なんとも言えない予感を覚えたが抗う術もなく、案の定手紙はパークスの命令によりサトウの手によって暴かれる事となってしまった。
…ごくごく短い手紙であったが、その意味は明白であった。読み終わった後、はつみはなんとも言えぬ顔で俯き、サトウとパークスは言葉を無くし微動だにせぬまま、アイコンタクトのみで互い意思疎通を試みようとしていた。当然ながらパークス独特のスパイ容疑はきれいさっぱり取り払われ、『…女性のプライベートへ安易に踏み込むという無粋極まりない失態を許してほしい』…とまで言わしめる事態となった。手紙の差出人本人は露知らぬ事である。
英国留学のススメ
4月5日。西郷、横濱でパークス公使、サトウと面会。その後はつみとも久々に面会する。
やはり西郷は侮れない男であり、そして懐の深い男であった。
西郷は『女性には荷が重い』としてはつみの公職就任を認めない一人であったと言う。しかし龍馬と語りあったとある言葉が、この改革の黎明期、時代が動く時に際し重くのしかかり、西郷の考えを改めさせるに至ったと。誰もが腫れ物に触れない様にしてきた『はつみの大切な人達の死』について触れ、龍馬の事もしっかりとした言葉で語りかける。はつみにはそれらを自らの精神で乗り越えた上で、公的な身分としての留学を勧めた。長州薩摩等からは『留学経験者』が排出されつつあるが、これまでの様な密留学ではなく、公式に認められた上で出国し世界の大学で学ぶべしと。
粋な男
4月。サトウが見慣れぬ黒い馬に乗って横濱領事館に到着した。はつみは可愛がり、寅之進は名馬だと感心。馬は「フシミ号」と言い、勝が友好の証としてサトウに贈ってくれたものだと言う。そしてサトウは勝から預かったものがあるとしてはつみや寅之進にも品々と手紙を手渡す。海軍操練所の頃から、勝はいつか日本が今の様な状態になる事を散々予見していた。雄藩が連合して強い力を持つ事を国防の為には是とする事も西郷と直接話し合っている。二条城では会議で厳しい事を言って慶喜らに煙たがれ、無駄に長州へ行かされ、挙句左遷され役も無いただの『石潰し幕臣』にされたが、しかしそれでも新たな時代を見据えながら幕府および徳川家を見捨てようなどといった気持ちは微塵ももちあわせていなかった。幕府は帝の臣として自ら政権を手放したが思いもよらない窮地に追い込まれ、事ここにきて勝は今や陸軍総裁・軍事総裁である。今回こういった品々を贈ってくれたのも、今後ますます幕府側の総窓口として表に立ち続けると同時に慶喜及び幕臣たちの後処理・世話をする為、赤坂と駿府などを忙しく行き来する為に暫くサトウ達とは会えない、会わない方がよいと判断しての事なのだろうと、サトウは言った。
 ―大阪―
Mittford's monopoly.
4月末。英国はじめ各国公使一行、信任状奉呈の為横濱を出港。パークス公使以下公使館職員一同、アダムズ一等書記官、サトウ一等通訳官、上級通訳生j.j.クィンの他、ケッペル提督以下各種艦隊所属軍人、野口など各自護衛、給仕など。はつみも英国公使館職員として、寅之進はその護衛として同行した。ヨーロッパの元首が初めて日本の元首に対し書簡を送るという事で、威厳を示す為に多くのイギリス艦隊が兵庫に集められる。
4月25日9時に兵庫沖へ投錨。サトウらのみ大阪へ上陸し、大阪英国副領事館にてミットフォード、彼と会談中であった伊藤と再会。初日は今後の大方のスケジュールを確認し新政府からの正式な使者が来るのを待つのみであった。夕食時、3月以来およそ2か月に渡ってワンオペ滞在していたミットフォードの愚痴が進む中、陸奥が駆け付け合流する。ミットフォードとも交流を深めた様子であった。その後もミットフォードの独断場は続き「華のある話がしたい」と言ってロマンス詮索を肴に夜が更けていく。日々の疲れもあったのか安堵して飲み過ぎたのか、ミットフォードが酔いつぶれたのを見届けてから伊藤らは京へと戻っていった。
翌日になって日本側が礼砲を放つと久々の友らとの会合で飲み過ぎたミットフォードは頭を抱える。諸外国艦隊も礼砲を返し、パークス公使がやっと大阪へと上陸を果たすと真っ先にミットフォードを二等書記官へ昇進とする辞令を発表した。ミットフォードは不覚にも二日酔いのまま第二書記官へ昇進の辞令を受け取ったのだった。
『I'm going to be 10 minutes late.』R15
4月26日。パークス公使が大阪英国副領事館に入ってから新政府の要人がひっきりなしに彼の元を訪れ、はつみも朝から晩までひたすら通訳と翻訳をする事態となった。公使館職員は信任状奉呈の式典の取り決めや信任状の作成、その他書類の翻訳、来客対応、艦隊との連絡などに忙殺される。伊達宗城と後藤が訪れ、新政府が発布したキリスト教に対する勅令について話し合う。(実力の高い通訳が足りない為、本来従者である寅之進、野口らも通訳に駆り出される事態となる。)サトウはこの後も、訪ねてきた中井とキリスト教について長い間談議する。
サトウが中井から解放される頃には、諸外国公使らは京西本願寺に向け出立する事となっていた。英国公使館から式典に参加する者も選定され、パークス公使、アダムズ一等書記官、ミットフォード二等書記官、サトウ一等通訳官が参加する事となる。サトウは横濱大火以来なんだかんだでいまだ外交用の正装を入手しておらず、パークス公使から公使館の制服を支給されてはいたが真っ青な中留めコートに金の紐で飾られたズボンを着用する事に抵抗があった為、その辺の棚に放り投げて自前のイブニングを着用する事にした。そこへ、副領事館に残留し翻訳業務を続ける事になっていたはつみが入室してくる。
数奇な生き方
京の料亭・白蓮へ現状報告の手紙を送付する許可を得たはつみ。しかし英国大阪副領事館での翻訳作業もあり場を離れる事はできず、白蓮、そして鈴蘭に向けて手紙と気持ちばかりの手当を包んだものを寅之進に託した。野口富蔵と共に京白蓮へ向かい、入京する事に特別な感情を抱く彼から会津藩士としての想いと、会津を『脱藩』する事となった理由、そして今思っている事などを聞く。
白蓮の人々は皆健在であった。この年明け前には神戸が開港し大阪が外国人達にも開市、そして突如始まった戦禍から逃れる為に、一同は一時期郊外まで非難したと聞く。怪我人が出る事もなく料亭へ戻ると、今度は外国人の客が現れる様になった。言葉も通じず文化も違うから靴を脱ぐ脱がないというだけでモメてしまったり、外国人お断りとする店も出る中、白蓮でははつみや寅之進から教わった英語、単語帳、数多くの逸話が大変に役立ち、外国人達に対応する事ができた。―特にお万里は単語帳を丸暗記する程励んでおり、『大冒険』をした経験もあり肝も据わっていた。加えてその美貌もあって、なじみの外国人客までできたと言う。最近では伊藤俊輔という御仁がよく顔を出し、時に外国人を連れてくるとも聞き、目を丸くする。しかしお万里は…。鈴蘭にも立ち寄り、同じく一時は騒然としたがなんとか営業再開に至ったお道、直人らと再会する。寅之進、出産にも立ち会った直人の成長に感動し、自前の単語帳を手渡す。また、外国人客が訪れた時のテンプレート的な英文と和訳をいくつか書き起こし、小冊子の様にして手渡した。
帰り際、野口はその普段の生真面目な無骨っぷりからは想像しづらい話題を切り出してきた。
水上のピアニスト
閏4月2日。各国団体は予定通りに信任状奉呈の儀式と晩餐会が執り行われた後、大阪へ帰還した。この時新政府の要人達も多く大阪へ入り、食事会や会議の予定が目白押しであった。
 ・山階宮が女王陛下の健康を願って乾杯しようと言い、皆威勢よくそれに応じた。
 ・長州藩主はサトウの隣に座り、シャンパンを飲み過ぎてつぶれた。
 ・帝の母方の叔父はヨーロッパの猫を見たいと切望していた。
 ・別の貴人は黒人を一目見てみたいと言った。
賑やかな食事会の席にて、はつみは小松のリクエストを受け、船上楽団のピアノで急遽演奏披露する事となる。長州藩主は元治元年英国との講和成立の際に老シーボルトからの寄贈品であるピアノが桜川はつみという者によって演奏されたという報告を世子経由で聞いた事を思い出し(世子には高杉と伊藤、井上が報告していた)、日本では聞く事のない音色であったとの事で興味を持っていたと話す。パークス公使もその演奏会を実際に見届けていた前公使ラザフォードから聞いていたとあって、二つ返事で許可を出した。
  ショパン/華麗なる大円舞曲
 (楽団によるアンコール『幻想即興曲』!?楽譜があっても無理!
  ショパン/英雄ポロネーズ 楽譜あり ピアノ全盛期に演奏経験ありだが久々すぎてオクターブも届かないし色々無理なので楽団員と連弾で。演奏後汗だく指つる。外国人及び伊藤達からスタオベ。隣で演奏していた楽団員を始め次々にハグやハイタッチされ日本人唖然。指つる。
心からの称賛
パークス、伊達宗城、ミットフォード、伊藤らとの会話。
武市と高杉から継ぐ縁
三条実美・東久世通禧・小松・サトウらとの会話。
心からの称賛・馨香
昼食後、キリスト教に関する白熱した会議が執り行われた。結果的に6時間にも及ぶ会議となる。はつみは伊達宗城からの指名で伊達と木戸二人の通訳に付く事となった。木戸ははつみを個人的な傷心から政務に支障のない程度に避けている様であったが、伊達の思惑もあって長時間はつみと対面せざるを得ない状況となり、距離によって抑えられていた想いと傷心が攪拌されていく。繊細な木戸の心が解れていくのをサトウもまた感じ取っていた一方で、彼が頑なになるほどの深い想いがあった事を考えさせられた。思わぬところから、伊達宗城と千葉佐那子に縁があった事を知り目を輝かせるはつみ。
Get away far from.
閏4月3日。公使一行、横濱へ向け大阪を出立。
 引き続き新政府要人との応接の為ミットフォードが残る事となったが、ポケットマネーで雇った現地日本人では殆ど仕事が軽減されないとして大胆にもはつみの派遣を所望する。サトウの反対意見はともかく、パークスは前公使ラザフォードの娘とミットフォードとの間で男女のトラブルがあった事なども含め、色々と揉めながらも結局は許可を出さなかった。しかし厳しい状況である事には理解を示し、今回の滞在で『即戦力』と認められた寅之進がミットフォードのもと臨時勤務する事となる。
 ―横濱―
I can't say I miss you.…EP1・EP2
横濱へ帰還した英国公使館一行であったが、サトウは基本的に江戸(自宅)勤務となり市井の視察及び政府要人らや知人らと情報交換を行う様指示され、それには一等書記官のアダムズが同行する事となった。大事な仕事だが、はつみと会えなくなる事に以前よりも耐え難い気持ちが押し寄せてしまう。
閏4月21日に新政府から『政体書』が発布される。
新政府は『七局』を廃止し『立法・行政・司法』の三権から成る『七官制(太政官)』を設置(三権分立)
 議政官上局に議定参与、下局に議長および議員を配置。
 行政官は行政事務を総括する。(総裁局の後身)(立法府)
 神祇官・会計官・軍務官・外国官はそれぞれの管轄における行政事務を分担し、
 それぞれに知事(長官)、副知事(次官)、判事(書記官)としてついた。
 刑法官は司法府となる。
今回の新たなコンスティテューションは米国を倣いにしている印象を得たが、それ以上に『高貴な生まれの傀儡が要職を占める』という、革命を台無しにしかねない悪しき風習がいまだ強く残っている点について思う所もあった。先日派閥政局に嫌気が差し『外国局』を辞めた陸奥陽之助がその尤もたる意見文を『中外新聞』掲載させ、世にその実態を暴いていたのだが、今回の人事を見るに政府には何の意味もなかった様だ。
報告書の中には、英国公使館出向中のはつみが引き続き『外国官付属・英国通訳事務、留学候補生』を拝命している事、寅之進も直近大阪での活躍とミットフォードからの推挙により同様に取り立てられた事が記されていた。『判事』ではなく『付属』という役職を緊急措置的に当てがわれている辺り、やはり色んな意味で否を唱える者がいる様に見て取れる。実際はつみはその卓越した能力故にではなく単なる人質として英国公使館に丸投げされている事に趣旨を置かれている様なもので、新政府からの指示だったり政治に関する仕事などは一切入っていない。今はまだ英国始め諸外国への対面もあって『親・諸外国派』とも言える小松らの意見が推し通っているのだろうが、そう遠くない将来、はつみはいわゆる『はしごを外される時』が来るかも知れないとも考えた。
5月15日に上野戦争が勃発し1日で決着がつくと、サトウはウィリスと共に負傷者が集まると言う前英国公使館・東禅寺へと向かった。以後、ウィリスは江戸と横濱を行き来し西洋人に言わせる所の『薬剤師』のような日本人医者に西洋の外科医術と医療の基本中の基本である衛生と予防について徹底指導する傍ら、新政府から正式に要請を受けて負傷兵の治療を行う任務を遂行していく事となる。これは当時打診されていた副領事への昇進を一時取りやめてでも医者として全ての負傷者を治療し博愛精神・ヒューマニズムを全うしたいとする彼の望む所でもある。サトウも数日に一度、東禅寺などに設置された臨時野戦病院などを見て回り、ウィリスの活躍や真の西洋医術に直面する日本人医者達の勤勉ぶり、怪我人など様々な人々と交流をしながら、野戦病院というものの実態を学んでいった。ある日、ウィリスは友人としてサトウに語り掛ける。
 ―江戸・高輪―
to live together.
6月。大坂で奮闘するミットフォードと同じく、江戸高輪のサトウも情報収集、来客、翻訳、報告業務等で多忙を極めていた。アダムズが横濱へ帰還しますます手が足りなくなった所ではつみを『週の半分』派遣してもらう要請が通ったとの報を受け、使用人たちの目も憚らず歓喜してしまうサトウ。そこには、ウィリスが行う負傷兵の治療現場を見聞する内に芽生えた『人生の儚さ』『会いたい人にまた会える幸せ』から来る感情も大きく関係していた。品川港へは愛馬・フシミ号で送迎に出た。はつみは新たに仕立てたらしい洋服を身にまとっており、これまで以上に華やかで麗しくうつるその姿はサトウの心から『業務の一環』である事を忘れさせる勢いであった。英国紳士が見眼麗しい洋装の女性を馬に乗せ颯爽とゆく姿は、巷でも語り草になった。
A certain British youth's crush.…EP1・EP2
7月。はつみがサトウのもとへ週末通いをする様になって4度目、つまりおよそひと月が経とうとしていた。横濱へ送らなければならない翻訳リストの内訳は何かしらの重要書類及び書簡から市井に出回る瓦版、掲示物にまで多岐に渡る為、大量の翻訳業務をはつみに任せただけでかなりの時間が確保できる様になり、リストのストックそのものもかなりの勢いで減るだけでなく翻訳業務を一緒にこなす事で間違いなく二人のコミュニケーションが深まる要因にもなっていた。
この日は梅雨の合間の非常に晴れやかな天気となり、サトウははつみを『町に出て情報収集』とかこつけた散策…つまりデートに誘う。フシミ号で新政府の要人や侍が多く集っている日本橋へと向かい、はつみの提案で桶町千葉道場へと立ち寄り、幕府が東京開市に向けて建設中であった外国人居留地や大きなホテルのある築地へ向かった。ディナーの際、佐那子の話から龍馬の話となる。サトウはもちろん、はつみにも二人の関係について思う事はあったが…サトウの『知的な英国紳士たらんとする姿勢』『職務へのプライド』『意外と恋愛は奥手』とする彼は、自覚のあるなしに関わらずその恋路の障壁となっていた。
 ―7月、江戸を東京と改称―
 ―大阪開港―

Recommend to study abroad.
8月。大坂開港を経て、ミットフォード並びに寅之進、そしてお万里が大阪から横濱へ戻ってきた矢先、民部大輔らパリ使節団に随行中のアレクサンダーからも『民部大輔らが帰国の途につく』との手紙が来る。アレク自身は賜暇継続のため欧州に残り帰郷。年内中に戻る予定であるとの事。アレクサンダーが戻り次第サトウの賜暇が認められる事となった。先日はつみの『想い』を聞いていたサトウはこれを機に彼女の英国留学について彼女が思う事を聞き出し、はつみの中で具体的に検討できる様相談に乗った。
】He not good at flirting!
8月21日。蝦夷の北方をロシアが占領したとの情報が英国公使館に入り、サトウとアダムズがその真偽を確かめる為に軍艦ラトラー号で北陸へ向かう事となった。急遽横濱へ招喚されたサトウは、先日大阪から戻ってきたミットフォードと再開する。ラトラー号出港までの間『まぁ積もる政治談議は置いておいて』としてはつみの事を斬り込むが、はつみが毎週サトウの所へ通っているにも関わらずまだ『何もなっていない』様子の彼に『寅之進が浮かばれない』と天を仰ぐ。(寅之進は、新政府からの要請で東北戦争負傷者を治療する医師団として旅立ったウィリスの専属通訳として随行している)内心刺さりつつ極めてオーバーであると呆れるサトウに、今回の北方視察を挙げ『いつでも無事に戻ってこれる訳ではないし、彼女がいつまでもフリーでいられる保障もないんだよ』と発破をかけるミットフォード。
 ―9月8日明治へ改元―
 ―9月27日東北戦争終結―

明治元年の誕生日
現在御東幸中である帝の誕生日を祝う会に続き英国海軍の演習視察など新政府の要人とのパーティ外交が多く行われ、戦が繰り広げられる会津や庄内ではついに戦争が終結するなど、新政府および英国公使館の雰囲気もひとまずは『祝福』の様子が色濃く漂っていた。慶応3年の東海道横断時以来サトウの護衛を務めてきた旧幕府警備隊の別手組の16人が新政府から正式に『外国人の護衛を務める事』への任命があり、様々な経験を共有し合う事で絆が芽生えていた彼らは大いに喜び合ったりしていた。
10月6日、公使館のアダムズ、ミットフォード、英国医官シドールなど数名がサトウと共に江戸に出た。要人らと交流したり、野戦病院を訪ねてより機能的な総合病院としての改良、医療的指導を施したりと忙しく過ごす一方、かの有名な吉原が外国人にも解禁された事を受け皆がこぞって出向いて行った。病院が忙しいシドール医師はもとよりサトウも吉原には行かず、料亭での酒宴を愉しむに留めている。そんな中、はつみ本人ですらも忘れていた誕生日が訪れた。
そして翌日にはついに帝が江戸へ入り、英国公使館一行は高輪の接遇所(江戸公使館)から西国諸藩兵3300名に護られつつ千代田城(江戸城)へ入っていく『鳳輦』をお見送りした。
 ―東京奠都―

An expedition./英雄の凱旋
10月28日。英国公使館に旧幕府軍が函館を占領したとの急報が入る。8月のロシア占拠の報はデマであったが看過する訳には行かず、これを受け英艦サテライト号と仏艦ヴェヌス号が『現地の外国人およびキリスト教信者保護』を目的として急遽出航する事となった。英国公使館からは一等書記官であるアダムズが向かう事になり、その通訳をミットフォードが、サテライト号で保護する外国人らと現地日本人の通訳対応役としてはつみが同行する事となる。 出港を控えた30日の正午、高輪で報を聞いたサトウが横濱へ駆け付けたが、東北戦争が終結し新政府側にも動きが見え始める今、サトウが同行する許可は得られなかった。時を同じくして10月29日、四国平定から会津戦争にかけておよそ10か月もの間、維新戦争の中心的役割を担った御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督・板垣退助および迅衝隊が連日に渡り東京凱旋を果たしており、はつみが出航するこの30日に彼からの手紙が届いていた。
 ―函館―
I want to know you more.
11月上旬。函館にて一定の情報を得、外国人達の安全を確保したアダムズら一行は函館を出港した。この函館で思わぬ再会、思わぬ奇跡を体験したはつみは、死にゆく定めの土方に思いを馳せていた。ミットフォードが現れ、雲行きが良くないから甲板にはでない方がいいよと忠告をしてくる。巧みな話術からすっかりペースを握り、同じイギリス人だというのにサトウとは正反対の『積極性』ではつみからロマンス話を引き出そうとしてくるのだが、しかし彼が言う『君の事が知りたい』と言うセリフにはロマンスの意は込められていない。ミットフォードはまるで『竹取物語のかぐや姫』の様なはつみの周囲の恋愛模様に興味津々なのであった。
 ―横濱―
花咲爺
函館からの帰還の最中に海外留学を決意したはつみは相談の形で真っ先に小松へと書簡を送付したが、その返信が最短で横濱領事館のはつみの元に届いた。小松からの真心がこもった手紙を、はつみ、寅之進、そしてサトウやミットフォードも一緒に見届ける。小松は同時にパークス公使宛にも書簡を出しており、サトウと共にパークスへ英国留学の意思について表明しに行った時には『子細はサトウに一任する』との事ですぐに話がまとまった。実は今年の始めに大阪でこの話が出た当時から大筋の流れは決まっていたと話すサトウ。また、帝の東幸にも参列できない程重い病と思われる小松を出国前に見舞いたいとする件についても許可が出た。
―東京開市、新潟開港及び、西暦1969年1月1日―
 ―江戸・高輪―
This early in the morning.R15
11月19日。東京が開市され各国公使の明治天皇謁見の日付も4日後に迫っている。そういった変化のせいか日本人側の来客に拍車がかかる中、西暦のNew yearを迎えた。サトウはこの大変気に入っている高輪自宅を借用して2年目となるが、西暦のNew yearをこの自宅で迎えるのは初めてであった。はつみの英国留学の話も現実となる傍ら、函館から帰って来てからどこかはつみが儚く、そしてもはや『抑圧された女神』といった憧憬の念ではなく一人の『レディ』として現実的に想い始めている事に気が付く。それは、彼女の英国留学に際し両親へ手紙を綴った事で意識が変わったのだと納得する。ある朝の会話をきっかけに、サトウの想いが溢れる。この日横濱へ行きパークス公使に新年の挨拶をした後、ウィリスや寅之進らとも合流。ベアトのもとを訪れ写真を撮影した。


未来へ
明治元年11月―明治2年2月

●明治元年…サトウ25歳・はつみ27歳・シーボルト22歳・ミットフォード31歳
 ―横濱―
Siebold's return.
12月下旬、アレクサンダー・シーボルトが弟ハインリヒ(17)と共に再来日する。親族すら誰一人としていない、子供が伸び伸びと成長できる様な環境とはほど遠い環境で成長したせいか真面目過ぎる兄アレクとは違い、ハインリヒはコミュニケーション力に長け、伸び伸びと明るい性格であった。そしてはつみを気に入ったふりをして恋人の有無を聞いたりタイプの男を聞いたり、更には脈が無い事をボヤくふりをして『だったら兄の恋人になってくれたらいいのに』等と軽口を叩き、ミットフォードも驚く手数の多さで奥手な兄アレクの援護射撃を試みる。
●明治2年…サトウ26歳・はつみ28歳・シーボルト23歳・ミットフォード32歳

 ―江戸・高輪―
謹賀新年
1月1日、サトウ自宅にて『日本の作法に則った』日本式の新年、三が日を迎える。
禍福は糾える縄の如し
1月4日、サトウが後任のアレクを紹介する為、はつみと寅之進は留学の報告をする為、紀州屋敷に身を寄せている勝を訪ねる。真面目な話はそこそこに、若者たちの恋の話に茶々を入れる勝。帰り際少しだけサトウと二人になり、はつみの事、そして龍馬の事を話す。紀州屋敷には紀伊家家臣の竹内老人も同居しており挨拶に立ち寄ると陸奥の義兄である紀州藩士・伊達五郎(宗興)と出会う。サトウとアレクは侍の間では既に有名な英国の外交官であったが、伊達は極めて個人的に2人、そしてはつみや寅之進の事を知っていた。
 ―横濱―
With the utmost love.R15
アレクサンダーの訪問を受け、再来日して以降ずっと渡しそびれていたという、ドイツの人形メーカー『マルガレーテ・シュタイフ』の可愛らしい白のベアドールを渡される。の実はこのベアドールを介して愛の告白をするというシナリオをハインリヒと考えていたのだが、奥手を極めるアレクサンダーは思う様にできず、いつかの手紙の様に無難な事しか離せずにいた。しかし友好的に微笑むはつみへの想いと同時に2年近くも傍にいられなかった焦燥感が溢れ、気が付くと思わず抱きしめていた。間近に見つめられたはつみは驚きながらも口づけの気配を感じ取ったので咄嗟に口元を抑える仕草を見せるが、泣き出しそうなほどに切望する視線で『お願いです…今この時だけ、貴女の唇に触れる事を許してください』と言われ、あまりに突然の事で唖然とする内に唇を奪われてしまった。アレクサンダーは自分の言葉で想いを告げ、悲しいかなようやく再来日した自分と入れ違いの形で遠く西洋の国へ旅立つはつみに一つの願い事を申し出た。
Princess Kaguya.
宿舎の二階から横濱の海を眺めるサトウに、アレクサンダーがはつみと会っていると話しかけるミットフォード。少し前には土佐の英雄板垣退助も来ていたとも切り出す。知っている、とするサトウは『自分には介入する権利がない』と言い、はつみとサトウの現状について聞いたミットフォードは『女神は気まぐれかな』と肩をすくめた。『かぐや姫は「姫」ではなく「女神」だった。だから人間の男と結ばれる事はなかったのだよ。…はつみもそうなのかも知れないな。』
Mixing up public and private.
出港前、いわゆる『職場健康診断』をしてもらう為ウィリスの元へ向かうはつみと寅之進。長らくきていなかった月経が再開した理由も分からなければ、再開した事による大きな体の変化等も見られなかった。病気を患っている様子は見られず、妊娠もしていない、背中の古傷も痕は大きく残っていたが後遺症はなく、健康な女性の身体であると診断された。その日の夜、はつみのマネジメントも兼ねているサトウはウィリス立ち合いの元そのカルテを見ていた。
イギリス留学
アーネスト・サトウ、賜暇のため帰国。
 パークス公使を始め、公使館職員の面々に最後の別れを告げる。ミットフォードからは花束を受け取り、アレクサンダーからは手紙を受け取った。そしてサトウのエスコートを受けP&O社が所有する804トンの蒸気船オタワ号に乗り込む。出港時、多くの人達に見送られながサトウが泣いているのを目撃し、はつみもついもらい泣きしてしまう。
涙に滲む視界の端に、ひと際大きな体格をしたウィリアム・ウィリスの姿を遠目に認め、大きく手を振る。その隣に、龍馬に似た背格好の男性を見た気がして慌てて目を擦り付けたが、次に視線を向けた時にはその姿は無かった。




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