●慶応3年…サトウ24歳・はつみ26歳・シーボルト21歳・ミットフォード30歳
―大阪―
Chaotic days.…EP1・EP2・EP3
12月6日。西暦では1867年12月31日。
この日サトウは英国公使館付き一等通訳官へと昇進した。
薩摩吉井幸輔が大阪英国公使館に駆け付けサトウと面会。先日京においてとある殺傷事件が勃発し、その事件にはかの坂本龍馬らが関わっているという報告を受ける。サトウが真っ先に気にかけたのは坂本についている桜川はつみの安否であったが、詳細報告の前に大至急で英国公使館付き医官であるウィリス医師の派遣を要請する吉井。はつみが再び襲われたのではと息をのむサトウであったがそうではなかった。その上で、英国医師の支援を求めるその詳細を聞いたサトウは即刻このことを公使に報告。公使公認の下、ウィリスと共に大阪薩摩藩邸中屋敷へと駆け付けた。
ウィリスが『彼』の外科治療に取り掛かる間、吉井から詳しい経緯や事情を聞いたサトウが気にかかったのは『黒い鳥』の存在であった。長崎でイカルス号事件の少し前に起こったキリスト教徒摘発事件、これに係る事件として摘発する役人が黒い鳥による猛攻撃を受け十数名の死傷者を出したという事件に似ていると思ったのだった。
今回『彼』を治療した件について『内密に願いたい』という吉井に対し、サトウは『今回の件に政治的干渉は見込んでおりません。我々は、我々の友人である薩摩からの要請により西洋の医療技術を提供した。その事実について友人が口外を望まないとするのであれば、友人としてそれを受け入れるのは当然の事です』と返した。返答に満足した吉井は素直に感謝の意を示し、非常に前向きな気持ちで小松からの言伝をサトウに託す。その内容は、多忙を極め会いに行けない非礼を詫びると共に、はつみの所在と今後の相談についてを告げるものであった。
―12月7日(西暦1868.1.1)神戸開港・大坂開市―
『天下の台所』たる大坂開市・神戸開港となる。
しかしサトウ達の状況は、この祝福すべき日からとんでもない所へと陥っていく。
薩摩を先頭に急進派の公卿らが行動を起こし、天下の形相と共に朝廷の在り方が一気に激変していくのである。開港の翌日には朝敵であったはずの長州藩主父子はじめ処分を受けていた公卿(岩倉、三条)の赦免決定となり、更に翌日には、京守護職辞任の意向を提示するも桑名に説得されて取り下げていた会津公が慶喜により解任。御所を出る。その代わりに薩摩、土佐の一部、そして長州が御所警護に入り、朝廷では王政復古が唱えられた。『総裁、議定、参与』から成る『三職』によって新しい政府が構成され、これら政府の軍事介入により淀川などの交通機関も占領され、政権が交代した事は市井の民らから見ても明らかであった。
神戸湾には開港に併せ諸外国公使らが乗る軍艦も揃っていた。吉井が言っていた通りではないが、薩摩らはこの状況をも利用した様に思われる。いかな各国公使達であっても一国の政権交代が行われる大革命を前にしては慎重な姿勢をみせ、より正確な情報把握に努めようと必死だった。そんな中で、サトウの外交力、天才的なコミュニケーション力がどの国の外交官、通訳官を抜きん出て発揮される事となる。彼はこの様な状況下にあっても積極的に町へ出、幕府若年寄をはじめ会津家老、薩摩藩士、市井の人々など様々な場面で自ら情報を得た。サトウの従者である元会津藩士の野口富蔵や、長州木戸からの要請で同行していた長州藩士遠藤謹助らがもたらす情報も大変貴重であった。
日本の文化は愚か現在の勢力図の大筋すらも把握できていない諸国を尻目に、英国はこれまで費やしてきた日本の調査データやサトウら優秀な部下たちを介して得る情報を駆使し、諸国連合のリーダーとしての存在感を強めていく。
Japanese diplomat…EP2
12月21日。陸奥が単身、大阪英国公使館を訪れサトウとの会談を望む。新政府を国際的に承認させるの為の問答。陸奥はそれまで坂本龍馬やはつみの陰に隠れていたが、イカルス号事件の際にはその非凡な才をサトウ達に知らしめるに至っている。また『新政府』と自称する組織が樹立した様子であっても、その外交的処置として彼らは何のアクションもしてこない。つまり彼らの中に世界に連なろうとして正しい判断を出来る者が殆どいないという所でもあった。薩摩の木場伝内とは近々既に約束を取り付けておりもしかしたらその時に外交面における話があるのかも知れないが、同じ薩摩でも先日の吉井の様な時代錯誤な発言をする者もまだまだ多い。古からの世襲職を打破できない保守派の巣窟である朝廷・公卿衆が真の意味で世界を見据えた抜本的な改革ができるとも正直思えない。そんな中で陸奥の着眼点、そしてその行動力は大いに期待できるものであった。
Japanese diplomat…EP3
陸奥の去り際、小松と木場伝内が大阪英国公使館に現れる。元々はつみらと共に保護されていた陸奥は小松らの元から逃走した形となっていたが、小松はこれを問題にする事はなかった。むしろ陸奥の実力は既に知っていたし、サトウに訪ねた事柄の着眼点にも感心さえした。陸奥にまとめさせ、小松が岩倉に推挙するから同行する様にと申し付ける。
小松はというと、サトウに対し先日のウィリス医師の派遣に際する配慮の例と、はつみの今後について相談をしにきたという。ここだけの話だが十中八九武力倒幕を目指す戦争が近日中に勃発する。はつみは既に大阪へ避難させているが、その後の身柄を英国公使館で保護してもらえないかといった大胆な発案であった。これには隣で聞いていた陸奥だけでなく大阪藩邸留守居役の木場伝内までもが驚いていたが、小松ははつみにとってそれが最善であり、また英国にとっても彼女の才を利用できる利点があると確信している様子だった。あくまで物腰柔らかく爽やかに提案を示す小松であったが、真っすぐに堂々と的確に要点を告げ聞き手の興味を惹きつけその気にさせるプレゼンは、なるほどやはり類を見ない有能人物であると思わずにはいられなかった。
Clear the first hurdle.
12月23日。22日に改めて行われた木場伝内との薩摩藩邸中屋敷会談にてはつみとの面会を希望するが、色んな意味で彼女は殆ど幽閉されている様な状況である事を知る。またここだけの話、『彼』はウィリスの治療の甲斐あって一命を取り留め、小松とはつみがこの藩邸に入ったと入れ違いの形で長崎へ護送されたという。引き続き、この事は内密にとの事。サトウとミットフォードは相談し合い、はつみとの事前面談は一旦諦めた。そしてその上で、今は時勢を注視しなければならない時『だからこそ』薩摩家老小松帯刀から桜川はつみ庇護の要請があった事を伝える事にした。
●慶応4年/明治元年…
サトウ25歳・はつみ27歳・シーボルト22歳・ミットフォード31歳
―大阪―
政権革命、戊辰戦争序盤
以下、サトウは会津藩出身の野口富蔵と幕府警備組織別手組より派遣されている6名、木戸からの要請で同行している長州藩士(長州ファイブの一人)遠藤謹助、薩摩藩士吉井幸三、大阪薩摩藩邸留守居役木場伝内、幕府外国奉行石川利政、会津藩士、家老らなど派閥を越えた人脈を通し、状況把握に務める。
1月3に伏見戦争が勃発すると、その戦禍が各国公使館も間近に建ち並ぶ大阪城にまで迫るであろう事が諸外国内で緊急回覧され、各国公使が天保山、神戸湾、及び神戸外国人居住地へと引き上げ距離を以て傍観する体制を取った。そんな中、サトウは手元の護衛らと共に大阪副領事館に残留するなど、現地日本人と通じ確かな情報を得ようとする姿勢は飛びぬけて勇敢であった。
また伊予守(四賢侯)伊達宗城や東久世通禧、伊賀守(老中)板倉勝静、玄蕃守(若年寄)永井尚志ら高官らとの公式会議や会談などにも逐一同席し、パークス公使を支えた。また、大阪副領事にまでなっていたウィリス医師は天保山へ出向いた際、そこに集まっていた多くの会津兵を率先して治療し、その後も各地にて敵味方関係なく多くの負傷兵を治療して回り、西洋の博愛精神と外科治療を知らしめるに至った。
その最中、新政府は1月3日の内に『七事務局』とする新体制を発足。
神祇、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、制度によるもの。「七局」と略称される。
また、これらとは別に国政の統一のために総裁局が設置された。
かねてより幕府の専制政治の弱体化を見抜き各大名と友好的な関係を築いていた英国は新政府からの信頼を最も受けており、それは高官たちがまずはサトウやパークス公使に相談を持ち掛けるなどと言った様子からも明らかであった。神戸開港に際し革命に巻き込まれる形となり混乱する諸外国であったが、中でも英国はリーダー的存在感へと登り詰めていく。
Her secret.
一時は大阪公使館の目の前に建つ大阪城へ戦禍が及ぶとされ、諸外国は即座に避難を開始するなど混乱を極めていた。徳川慶喜が大阪を去り、京に拠点を置く新政府の高官らが大阪へ下り諸外国公使との外交が開始されはじめた11日、外国人居住地である神戸にて『備前事件』が勃発してしまう。
1月15日、そんな中で新政府の使者としてやってきた東久世通禧ら『外国事務局』の面々と各国公使の会見が行われる。幕府寄りで不穏な動きを見せていた仏公使ロッシュだけは最後まで猛然と反対意見を述べていたが、最終的には彼が折れる形となり全公使一致で『新政府を承認し本国政府へ通達する』と明言し、東久世達は満足の意を表してその日の会議は終了した。
帰りの軍艦を待つ間、かねてよりの友人であるサトウ、伊藤、陸奥の三人は私的な会話を愉しんだ。必然と言えば必然か、はつみの話も話題に上り、土佐イカルス号事件の際などにひっかかっていた『はつみと土佐の関係』の真相を遂に知るに至った。
Heal my mind.
慶喜を始め大半の旧幕府勢力が大阪を去った事で、新政府軍が大阪の町を再度掌握。その安全を得た各国公使が大阪へ戻り始めた頃、小松帯刀、伊達宗城が友好的にパークスを訪ねてきた。諸事会談が行われた後、小松、伊達、パークス公使、サトウの間で桜川はつみ及び池田寅之進の英国公使館出仕および留学候補生についての話もまとまる。坂本襲撃事件以来のはつみの様子、公職信任の見通し、給与、出向後の相談窓口をサトウ、小松とするなど。サトウは何も言わなかったが、この件に関し土佐が殆ど顔を出さない事が少々気になっていた。―とはいえ、個々の所混乱と多忙と知的好奇心を極める事態が続いていたサトウにとって、はつみの今後についてこうして話が進んでいく事は一種の癒しの様にも思えていた。
小松トイッショ2
1月15日、不幸な事に土佐と仏水兵らとの間でトラブルが発生し『堺事件』とする殺傷事件へと発展してしまった。各国公使らによる新政府信任表明があった直後で、また容堂は病に斃れ重篤状態にあり英国医師ウィリスの治療を受けている真っ最中の出来事であった等もあり、対応した伊達宗城や東久世通禧らは抗議する公使達および特に怒り狂う仏公使ロッシュに対し満足な説明ができずにいた。
そんな中、小松から夕食を共にしないかと声がかかる。政府総裁顧問でもある小松がサトウへこの様に接触してくる事の意味をサトウも察した上で、この接待を受け入れた。
この時にも荒れる土佐の矛先がサトウに向けられるというトラブルに見舞われ、些細な所から再び露見する開国への弊害を実感する。しかしこの後改めて薩摩藩邸で語りあかしたサトウと小松は互いの信頼関係を確認し合うに至った。そしてその絆のもと、サトウはついにはつみと再会するのである。
政府公認・女性通訳官
2月下旬、大問題となった堺事件は土佐藩士らの切腹処刑を以て公使ロッシュを納得させ、解決という形に至った。その後、ついに、各国公使が西洋人初の入京を果たし帝へ拝謁する時がきた。各国の由緒正しい大隊列が、薩摩、肥後、土佐等の軍隊に守られながら次々と上洛を果たしていく。小松は大阪を出立する英国公使館一行の元を訪れ、共に上洛に至った。そして、先の堺事件講和条件に『どの公使よりも先に帝と謁見する事』というものを提示していた仏公使ロッシュを始めとした謁見行事が恙なく行われていくのを確認した後、陸奥と共に大阪薩摩藩邸中屋敷へと向かう。帝との謁見後は間を置かず横濱へ帰還する事を伝えてきた事を踏まえ、その前にはつみへの辞令を済ませて置く必要があった為であった。
3月1日、小松達が大阪薩摩藩邸中屋敷へ到着したのとほぼ同時に京からの伝達が追いつく。昨日30日に参内予定であったパークス公使の謁見は不届き者らによるパークス公使襲撃の為急遽取り消し、近日後に見合わせとなったとの事であった。騒然とする小松らであったが、小松が大阪へ向かっている事を知っていたサトウによる手紙も添えられており、英国公使館一行及び軍隊の負傷状況などが知らされていた。これに際し公使は極めて冷静かつ穏便に対処している事、政府からの正式な謝罪文書が既に発行され、犯人も既に捕らえられ処刑される事が決定されており、英国はそれ以上の賠償などは求めない意向である事、新政府から派遣されるはつみの受け入れに関しても何ら変更はない事などが記されていた。相変わらず周到すぎるサトウに感心しつつも「はつみどんこつば、よほど気になっとるでごわすな」とする小松。陸奥はあくまで極めて個人的な意見として「あいつの女になる訳じゃねぇのによ…」と漏らし、小松の苦笑を誘った。
はつみ、寅之進、『外国事務局御用掛・英国通訳事務、留学候補生』およびその護衛役を拝命
New chapter in life.…EP1・EP2
3月5日。帝との謁見を恙なく終えた英国公使一行が大阪英国副領事館に到着すると、小松と陸奥に連れられたはつみ、寅之進の姿を確認した。サトウやミットフォードなどはつみとの再会と合流を喜び合うのもそこそこに、はつみはパークス公使と会見する運びとなる。急遽ながらも彼を納得させる見事な英語スピーチをやり遂げ、改めて歓迎の意を受ける事ができた。英国は明日にも横濱江向け出向との事。小松と陸奥は京へ戻らねばならぬ為、ここで別れとなる。
「西洋には『はぐ』という習慣があるそうだが…」
と小松がもじもじしながら述べると、はつみは直ぐに察した様で微笑み、小松そして陸奥とハグをする。再会を誓って別れた。
その後サトウらは横濱帰還へ向けた積み荷の移動や出立前の面会などで極めて慌ただしい時間を送る事となり、且つはつみは一旦パークス公使の執務室控え部屋をあてがわれ、肉体労働ではなく大量の文書を翻訳するという業務が早速あてがわれていた。あらゆる情報を得ようとする英国は公式文書のみならず、交換した書簡から市井に出回る回覧文書、掲示文書などあらゆるものを翻訳する作業まで行っており、日本語と英語を直接操れるはつみのスキルはグラバー商会でも通用したという期待を裏切る事もなく、まさに持ってこいのものであった。また、公職に就くレディの扱いとしても『肉体労働はさせられない』とする公使なりの配慮も伺えた。
この日、ミットフォードに単身大阪副領事館へ駐留せよとした辞令が発せられた。共に横濱へ行けない事を心から残念がるミットフォードであったが、サトウには謎のウィンクを飛ばす。
翌日、一行は横濱へ向け2日間の船旅へと出航するのであった。2日の間、はつみと寅之進はウィリスによる診察と問診、その他個人情報の聞き取りなどが行われたが、それも含め極めて心身ともに快適に過ごす事ができ『希望に満ちた』船旅となった。
―横濱―
New chapter in life.…EP3
3月8日。航海はサトウが『残念に』思ってしまう程極めて順調で、英国公使館一行は2日間の船旅を終え横濱に上陸した。パークス公使は2日間の間にウィリスやサトウとも細部に渡って聞き取りと打ち合わせをし、はつみおよび寅之進のパーソナルファイルを作成した様だった。横濱領事館に入るとこのファイルを以て、正式な辞令が発せられる事となった。
日本政府より信任の出向職員として英国公使館及び領事館付き通訳官に任ずる。
直属の上司はサトウ一等通訳官とし、諸事彼の指示を仰ぐ事。
基本的な業務内容や権限についてもサトウ一等通訳官に委任し、
その主たるは通訳及び翻訳作業、諸事務等とする。
辞令の後はサトウ、寅之進と共に町出て新生活準備に取り掛かった。横濱の町を買い物して練り歩く。その最中、公使館領事館の職員は基本男ばかりで、給仕やその他使用人などには女性の姿が見られる事もあるが、いずれにしても基本的には現地の人を採用している。はつみには女性の給仕が必要になるのではないかと言われ、江戸の知り合いを呼べばいいと言われるとすぐに千葉佐那子の事を思い浮かべた。しかし…。
―江戸・高輪―
She came to my house!
3月10日。サトウ、江戸での情報収集を一任され高輪の自宅と横濱領事館を自在に行き来する勤務体制となる。平静を装いながらも内心喜々としながら「膨大な書類の翻訳作業と、情報収集を行うにあたって彼女の知己である勝海舟との再会を期待する為」等と理由を付け、翻訳、報告書作成等の引継ぎを行う事も加味してはつみらを一時的に同行させた。
道違えても師弟
3月12日。サトウ、はつみと寅之進(野口と別手組)を連れ、勝海舟のもとへ行く。
江戸はまだ外国人に開市されておらず、人々はいつも通りの生活をしていた。しかし薩摩や長州の兵があちこちを徘徊している気の抜けない状態であった。サトウは夕方以降に活動を開始し、夜の闇を利用して勝や知人らと会うようにしていた。勝との再会を歓びながらも心のどこかで遠慮気味であったり受け入れてもらえるか心配で不安な気持ちも入り交じっていたはつみらであったが、こんな状況が続いているにも勝は関わらず変わらずあっけらかんとして『よう!』と片手挙げて歓迎してくれる様子であった。思わず泣いてしまうはつみの側へ自ら歩み寄り、肩を抱いて頭を撫で、「話はおおかた聞いてる。おまえさん、よくやってるよ。大したもんだ」と褒めてくれた。もらい泣きしている寅之進も引き寄せ「男を慰める役なんざ勘弁願いてぇが、ま、おまえさんも可愛い弟子だからネ」と、満足気にサトウへ頷いて見せた。
そして情報交換というテイの会談が始まり、この時初めて、かの『江戸城無血開城』に迫っている事を確信する。
あの世R15
3月15日。勝と西郷の会談は歴史通りに執り行われ、江戸総攻撃は回避される見通しとなった。その顛末について勝から直接聞き届け、勝の元から帰る時に不穏な空気に囲まれる。野口や別手組の護衛が突然倒れ、続いて寅之進やサトウ、勝までもが倒れて行く。強烈な眠気に襲われている様で、膝をつく勝めがけて真っ黒なルシが急降下してきた。再び舞い上がり急降下の体制を取るルシに対し、はつみは咄嗟に桜清丸を抜き放ち、撃退する。
Complex mind.R15
思った通り、浦上四番崩れから坂本龍馬、勝海舟と『黒い鳥』という共通事項を意識するサトウ。襲われる人物の共通点は『幕府』ではないかといったところまで一気に推察が進んだ。それとは別にはつみの『純白のペット』が黒檀の様に黒く怪しい姿になっていた事、そのペットを自ら撃退した事ではつみが落ち込んでいるのだと思っていたが、もっと未知なる真実があり、それ故に彼女は悩みそして異質であるのだと知る。
―横濱―
Problem occurred.
3月18日、サトウと共に横濱公使館へ戻る。江戸総攻撃中止に至る経緯を公使パークスへ報告した後、別件としてパークスが一通の書簡を取り出した。『差出人の乾という人物について調べさせてもらったのだが、官軍総督軍の板垣参謀と同一人物の様だ。心当たりはあるかね?』と、不穏な雰囲気で尋ねられ緊張するはつみ。乾=板垣である事には驚かないが、パークスはその性格と日本人への印象から『新政府からの依頼ではつみを預かる立場として中身を確認する義務がある』などと言い出し、要は『板垣は偽名を使ってまで私信をよこしてきた』『はつみはスパイではないか』と疑っているという事で、はつみはこの展開にデジャヴかという程なんとも言えない予感を覚えたが抗う術もなく、案の定手紙はパークスの命令によりサトウの手によって暴かれる事となってしまった。
…ごくごく短い手紙であったが、その意味は明白であった。読み終わった後、はつみはなんとも言えぬ顔で俯き、サトウとパークスは言葉を無くし微動だにせぬまま、アイコンタクトのみで互い意思疎通を試みようとしていた。当然ながらパークス独特のスパイ容疑はきれいさっぱり取り払われ、『…女性のプライベートへ安易に踏み込むという無粋極まりない失態を許してほしい』…とまで言わしめる事態となった。手紙の差出人本人は露知らぬ事である。
英国留学のススメ
4月5日。西郷、横濱でパークス公使、サトウと面会。その後はつみとも久々に面会する。
やはり西郷は侮れない男であり、そして懐の深い男であった。
西郷は『女性には荷が重い』としてはつみの公職就任を認めない一人であったと言う。しかし龍馬と語りあったとある言葉が、この改革の黎明期、時代が動く時に際し重くのしかかり、西郷の考えを改めさせるに至ったと。誰もが腫れ物に触れない様にしてきた『はつみの大切な人達の死』について触れ、龍馬の事もしっかりとした言葉で語りかける。はつみにはそれらを自らの精神で乗り越えた上で、公的な身分としての留学を勧めた。長州薩摩等からは『留学経験者』が排出されつつあるが、これまでの様な密留学ではなく、公式に認められた上で出国し世界の大学で学ぶべしと。
粋な男
4月。サトウが見慣れぬ黒い馬に乗って横濱領事館に到着した。はつみは可愛がり、寅之進は名馬だと感心。馬は「フシミ号」と言い、勝が友好の証としてサトウに贈ってくれたものだと言う。そしてサトウは勝から預かったものがあるとしてはつみや寅之進にも品々と手紙を手渡す。海軍操練所の頃から、勝はいつか日本が今の様な状態になる事を散々予見していた。雄藩が連合して強い力を持つ事を国防の為には是とする事も西郷と直接話し合っている。二条城では会議で厳しい事を言って慶喜らに煙たがれ、無駄に長州へ行かされ、挙句左遷され役も無いただの『石潰し幕臣』にされたが、しかしそれでも新たな時代を見据えながら幕府および徳川家を見捨てようなどといった気持ちは微塵ももちあわせていなかった。幕府は帝の臣として自ら政権を手放したが思いもよらない窮地に追い込まれ、事ここにきて勝は今や陸軍総裁・軍事総裁である。今回こういった品々を贈ってくれたのも、今後ますます幕府側の総窓口として表に立ち続けると同時に慶喜及び幕臣たちの後処理・世話をする為、赤坂と駿府などを忙しく行き来する為に暫くサトウ達とは会えない、会わない方がよいと判断しての事なのだろうと、サトウは言った。
―大阪―
Mittford's monopoly.
4月末。英国はじめ各国公使一行、信任状奉呈の為横濱を出港。パークス公使以下公使館職員一同、アダムズ一等書記官、サトウ一等通訳官、上級通訳生j.j.クィンの他、ケッペル提督以下各種艦隊所属軍人、野口など各自護衛、給仕など。はつみも英国公使館職員として、寅之進はその護衛として同行した。ヨーロッパの元首が初めて日本の元首に対し書簡を送るという事で、威厳を示す為に多くのイギリス艦隊が兵庫に集められる。
4月25日9時に兵庫沖へ投錨。サトウらのみ大阪へ上陸し、大阪英国副領事館にてミットフォード、彼と会談中であった伊藤と再会。初日は今後の大方のスケジュールを確認し新政府からの正式な使者が来るのを待つのみであった。夕食時、3月以来およそ2か月に渡ってワンオペ滞在していたミットフォードの愚痴が進む中、陸奥が駆け付け合流する。ミットフォードとも交流を深めた様子であった。その後もミットフォードの独断場は続き「華のある話がしたい」と言ってロマンス詮索を肴に夜が更けていく。日々の疲れもあったのか安堵して飲み過ぎたのか、ミットフォードが酔いつぶれたのを見届けてから伊藤らは京へと戻っていった。
翌日になって日本側が礼砲を放つと久々の友らとの会合で飲み過ぎたミットフォードは頭を抱える。諸外国艦隊も礼砲を返し、パークス公使がやっと大阪へと上陸を果たすと真っ先にミットフォードを二等書記官へ昇進とする辞令を発表した。ミットフォードは不覚にも二日酔いのまま第二書記官へ昇進の辞令を受け取ったのだった。
『I'm going to be 10 minutes late.』R15
4月26日。パークス公使が大阪英国副領事館に入ってから新政府の要人がひっきりなしに彼の元を訪れ、はつみも朝から晩までひたすら通訳と翻訳をする事態となった。公使館職員は信任状奉呈の式典の取り決めや信任状の作成、その他書類の翻訳、来客対応、艦隊との連絡などに忙殺される。伊達宗城と後藤が訪れ、新政府が発布したキリスト教に対する勅令について話し合う。(実力の高い通訳が足りない為、本来従者である寅之進、野口らも通訳に駆り出される事態となる。)サトウはこの後も、訪ねてきた中井とキリスト教について長い間談議する。
サトウが中井から解放される頃には、諸外国公使らは京西本願寺に向け出立する事となっていた。英国公使館から式典に参加する者も選定され、パークス公使、アダムズ一等書記官、ミットフォード二等書記官、サトウ一等通訳官が参加する事となる。サトウは横濱大火以来なんだかんだでいまだ外交用の正装を入手しておらず、パークス公使から公使館の制服を支給されてはいたが真っ青な中留めコートに金の紐で飾られたズボンを着用する事に抵抗があった為、その辺の棚に放り投げて自前のイブニングを着用する事にした。そこへ、副領事館に残留し翻訳業務を続ける事になっていたはつみが入室してくる。
数奇な生き方
京の料亭・白蓮へ現状報告の手紙を送付する許可を得たはつみ。しかし英国大阪副領事館での翻訳作業もあり場を離れる事はできず、白蓮、そして鈴蘭に向けて手紙と気持ちばかりの手当を包んだものを寅之進に託した。野口富蔵と共に京白蓮へ向かい、入京する事に特別な感情を抱く彼から会津藩士としての想いと、会津を『脱藩』する事となった理由、そして今思っている事などを聞く。
白蓮の人々は皆健在であった。この年明け前には神戸が開港し大阪が外国人達にも開市、そして突如始まった戦禍から逃れる為に、一同は一時期郊外まで非難したと聞く。怪我人が出る事もなく料亭へ戻ると、今度は外国人の客が現れる様になった。言葉も通じず文化も違うから靴を脱ぐ脱がないというだけでモメてしまったり、外国人お断りとする店も出る中、白蓮でははつみや寅之進から教わった英語、単語帳、数多くの逸話が大変に役立ち、外国人達に対応する事ができた。―特にお万里は単語帳を丸暗記する程励んでおり、『大冒険』をした経験もあり肝も据わっていた。加えてその美貌もあって、なじみの外国人客までできたと言う。最近では伊藤俊輔という御仁がよく顔を出し、時に外国人を連れてくるとも聞き、目を丸くする。しかしお万里は…。鈴蘭にも立ち寄り、同じく一時は騒然としたがなんとか営業再開に至ったお道、直人らと再会する。寅之進、出産にも立ち会った直人の成長に感動し、自前の単語帳を手渡す。また、外国人客が訪れた時のテンプレート的な英文と和訳をいくつか書き起こし、小冊子の様にして手渡した。
帰り際、野口はその普段の生真面目な無骨っぷりからは想像しづらい話題を切り出してきた。
水上のピアニスト
閏4月2日。各国団体は予定通りに信任状奉呈の儀式と晩餐会が執り行われた後、大阪へ帰還した。この時新政府の要人達も多く大阪へ入り、食事会や会議の予定が目白押しであった。
・山階宮が女王陛下の健康を願って乾杯しようと言い、皆威勢よくそれに応じた。
・長州藩主はサトウの隣に座り、シャンパンを飲み過ぎてつぶれた。
・帝の母方の叔父はヨーロッパの猫を見たいと切望していた。
・別の貴人は黒人を一目見てみたいと言った。
賑やかな食事会の席にて、はつみは小松のリクエストを受け、船上楽団のピアノで急遽演奏披露する事となる。長州藩主は元治元年英国との講和成立の際に老シーボルトからの寄贈品であるピアノが桜川はつみという者によって演奏されたという報告を世子経由で聞いた事を思い出し(世子には高杉と伊藤、井上が報告していた)、日本では聞く事のない音色であったとの事で興味を持っていたと話す。パークス公使もその演奏会を実際に見届けていた前公使ラザフォードから聞いていたとあって、二つ返事で許可を出した。
ショパン/華麗なる大円舞曲
(楽団によるアンコール『幻想即興曲』!?楽譜があっても無理!
ショパン/英雄ポロネーズ 楽譜あり ピアノ全盛期に演奏経験ありだが久々すぎてオクターブも届かないし色々無理なので楽団員と連弾で。演奏後汗だく指つる。外国人及び伊藤達からスタオベ。隣で演奏していた楽団員を始め次々にハグやハイタッチされ日本人唖然。指つる。
心からの称賛
パークス、伊達宗城、ミットフォード、伊藤らとの会話。
武市と高杉から継ぐ縁
三条実美・東久世通禧・小松・サトウらとの会話。
心からの称賛・馨香
昼食後、キリスト教に関する白熱した会議が執り行われた。結果的に6時間にも及ぶ会議となる。はつみは伊達宗城からの指名で伊達と木戸二人の通訳に付く事となった。木戸ははつみを個人的な傷心から政務に支障のない程度に避けている様であったが、伊達の思惑もあって長時間はつみと対面せざるを得ない状況となり、距離によって抑えられていた想いと傷心が攪拌されていく。繊細な木戸の心が解れていくのをサトウもまた感じ取っていた一方で、彼が頑なになるほどの深い想いがあった事を考えさせられた。思わぬところから、伊達宗城と千葉佐那子に縁があった事を知り目を輝かせるはつみ。
Get away far from.
閏4月3日。公使一行、横濱へ向け大阪を出立。
引き続き新政府要人との応接の為ミットフォードが残る事となったが、ポケットマネーで雇った現地日本人では殆ど仕事が軽減されないとして大胆にもはつみの派遣を所望する。サトウの反対意見はともかく、パークスは前公使ラザフォードの娘とミットフォードとの間で男女のトラブルがあった事なども含め、色々と揉めながらも結局は許可を出さなかった。しかし厳しい状況である事には理解を示し、今回の滞在で『即戦力』と認められた寅之進がミットフォードのもと臨時勤務する事となる。
―横濱―
I can't say I miss you.…EP1・EP2
横濱へ帰還した英国公使館一行であったが、サトウは基本的に江戸(自宅)勤務となり市井の視察及び政府要人らや知人らと情報交換を行う様指示され、それには一等書記官のアダムズが同行する事となった。大事な仕事だが、はつみと会えなくなる事に以前よりも耐え難い気持ちが押し寄せてしまう。
閏4月21日に新政府から『政体書』が発布される。
新政府は『七局』を廃止し『立法・行政・司法』の三権から成る『七官制(太政官)』を設置(三権分立)
議政官上局に議定参与、下局に議長および議員を配置。
行政官は行政事務を総括する。(総裁局の後身)(立法府)
神祇官・会計官・軍務官・外国官はそれぞれの管轄における行政事務を分担し、
それぞれに知事(長官)、副知事(次官)、判事(書記官)としてついた。
刑法官は司法府となる。
今回の新たなコンスティテューションは米国を倣いにしている印象を得たが、それ以上に『高貴な生まれの傀儡が要職を占める』という、革命を台無しにしかねない悪しき風習がいまだ強く残っている点について思う所もあった。先日派閥政局に嫌気が差し『外国局』を辞めた陸奥陽之助がその尤もたる意見文を『中外新聞』掲載させ、世にその実態を暴いていたのだが、今回の人事を見るに政府には何の意味もなかった様だ。
報告書の中には、英国公使館出向中のはつみが引き続き『外国官付属・英国通訳事務、留学候補生』を拝命している事、寅之進も直近大阪での活躍とミットフォードからの推挙により同様に取り立てられた事が記されていた。『判事』ではなく『付属』という役職を緊急措置的に当てがわれている辺り、やはり色んな意味で否を唱える者がいる様に見て取れる。実際はつみはその卓越した能力故にではなく単なる人質として英国公使館に丸投げされている事に趣旨を置かれている様なもので、新政府からの指示だったり政治に関する仕事などは一切入っていない。今はまだ英国始め諸外国への対面もあって『親・諸外国派』とも言える小松らの意見が推し通っているのだろうが、そう遠くない将来、はつみはいわゆる『はしごを外される時』が来るかも知れないとも考えた。
5月15日に上野戦争が勃発し1日で決着がつくと、サトウはウィリスと共に負傷者が集まると言う前英国公使館・東禅寺へと向かった。以後、ウィリスは江戸と横濱を行き来し西洋人に言わせる所の『薬剤師』のような日本人医者に西洋の外科医術と医療の基本中の基本である衛生と予防について徹底指導する傍ら、新政府から正式に要請を受けて負傷兵の治療を行う任務を遂行していく事となる。これは当時打診されていた副領事への昇進を一時取りやめてでも医者として全ての負傷者を治療し博愛精神・ヒューマニズムを全うしたいとする彼の望む所でもある。サトウも数日に一度、東禅寺などに設置された臨時野戦病院などを見て回り、ウィリスの活躍や真の西洋医術に直面する日本人医者達の勤勉ぶり、怪我人など様々な人々と交流をしながら、野戦病院というものの実態を学んでいった。ある日、ウィリスは友人としてサトウに語り掛ける。
―江戸・高輪―
to live together.
6月。大坂で奮闘するミットフォードと同じく、江戸高輪のサトウも情報収集、来客、翻訳、報告業務等で多忙を極めていた。アダムズが横濱へ帰還しますます手が足りなくなった所ではつみを『週の半分』派遣してもらう要請が通ったとの報を受け、使用人たちの目も憚らず歓喜してしまうサトウ。そこには、ウィリスが行う負傷兵の治療現場を見聞する内に芽生えた『人生の儚さ』『会いたい人にまた会える幸せ』から来る感情も大きく関係していた。品川港へは愛馬・フシミ号で送迎に出た。はつみは新たに仕立てたらしい洋服を身にまとっており、これまで以上に華やかで麗しくうつるその姿はサトウの心から『業務の一環』である事を忘れさせる勢いであった。英国紳士が見眼麗しい洋装の女性を馬に乗せ颯爽とゆく姿は、巷でも語り草になった。
A certain British youth's crush.…EP1・EP2
7月。はつみがサトウのもとへ週末通いをする様になって4度目、つまりおよそひと月が経とうとしていた。横濱へ送らなければならない翻訳リストの内訳は何かしらの重要書類及び書簡から市井に出回る瓦版、掲示物にまで多岐に渡る為、大量の翻訳業務をはつみに任せただけでかなりの時間が確保できる様になり、リストのストックそのものもかなりの勢いで減るだけでなく翻訳業務を一緒にこなす事で間違いなく二人のコミュニケーションが深まる要因にもなっていた。
この日は梅雨の合間の非常に晴れやかな天気となり、サトウははつみを『町に出て情報収集』とかこつけた散策…つまりデートに誘う。フシミ号で新政府の要人や侍が多く集っている日本橋へと向かい、はつみの提案で桶町千葉道場へと立ち寄り、幕府が東京開市に向けて建設中であった外国人居留地や大きなホテルのある築地へ向かった。ディナーの際、佐那子の話から龍馬の話となる。サトウはもちろん、はつみにも二人の関係について思う事はあったが…サトウの『知的な英国紳士たらんとする姿勢』『職務へのプライド』『意外と恋愛は奥手』とする彼は、自覚のあるなしに関わらずその恋路の障壁となっていた。
―7月、江戸を東京と改称―
―大阪開港―
Recommend to study abroad.
8月。大坂開港を経て、ミットフォード並びに寅之進、そしてお万里が大阪から横濱へ戻ってきた矢先、民部大輔らパリ使節団に随行中のアレクサンダーからも『民部大輔らが帰国の途につく』との手紙が来る。アレク自身は賜暇継続のため欧州に残り帰郷。年内中に戻る予定であるとの事。アレクサンダーが戻り次第サトウの賜暇が認められる事となった。先日はつみの『想い』を聞いていたサトウはこれを機に彼女の英国留学について彼女が思う事を聞き出し、はつみの中で具体的に検討できる様相談に乗った。
】He not good at flirting!
8月21日。蝦夷の北方をロシアが占領したとの情報が英国公使館に入り、サトウとアダムズがその真偽を確かめる為に軍艦ラトラー号で北陸へ向かう事となった。急遽横濱へ招喚されたサトウは、先日大阪から戻ってきたミットフォードと再開する。ラトラー号出港までの間『まぁ積もる政治談議は置いておいて』としてはつみの事を斬り込むが、はつみが毎週サトウの所へ通っているにも関わらずまだ『何もなっていない』様子の彼に『寅之進が浮かばれない』と天を仰ぐ。(寅之進は、新政府からの要請で東北戦争負傷者を治療する医師団として旅立ったウィリスの専属通訳として随行している)内心刺さりつつ極めてオーバーであると呆れるサトウに、今回の北方視察を挙げ『いつでも無事に戻ってこれる訳ではないし、彼女がいつまでもフリーでいられる保障もないんだよ』と発破をかけるミットフォード。
―9月8日明治へ改元―
―9月27日東北戦争終結―
明治元年の誕生日
現在御東幸中である帝の誕生日を祝う会に続き英国海軍の演習視察など新政府の要人とのパーティ外交が多く行われ、戦が繰り広げられる会津や庄内ではついに戦争が終結するなど、新政府および英国公使館の雰囲気もひとまずは『祝福』の様子が色濃く漂っていた。慶応3年の東海道横断時以来サトウの護衛を務めてきた旧幕府警備隊の別手組の16人が新政府から正式に『外国人の護衛を務める事』への任命があり、様々な経験を共有し合う事で絆が芽生えていた彼らは大いに喜び合ったりしていた。
10月6日、公使館のアダムズ、ミットフォード、英国医官シドールなど数名がサトウと共に江戸に出た。要人らと交流したり、野戦病院を訪ねてより機能的な総合病院としての改良、医療的指導を施したりと忙しく過ごす一方、かの有名な吉原が外国人にも解禁された事を受け皆がこぞって出向いて行った。病院が忙しいシドール医師はもとよりサトウも吉原には行かず、料亭での酒宴を愉しむに留めている。そんな中、はつみ本人ですらも忘れていた誕生日が訪れた。
そして翌日にはついに帝が江戸へ入り、英国公使館一行は高輪の接遇所(江戸公使館)から西国諸藩兵3300名に護られつつ千代田城(江戸城)へ入っていく『鳳輦』をお見送りした。
―東京奠都―
An expedition./英雄の凱旋
10月28日。英国公使館に旧幕府軍が函館を占領したとの急報が入る。8月のロシア占拠の報はデマであったが看過する訳には行かず、これを受け英艦サテライト号と仏艦ヴェヌス号が『現地の外国人およびキリスト教信者保護』を目的として急遽出航する事となった。英国公使館からは一等書記官であるアダムズが向かう事になり、その通訳をミットフォードが、サテライト号で保護する外国人らと現地日本人の通訳対応役としてはつみが同行する事となる。
出港を控えた30日の正午、高輪で報を聞いたサトウが横濱へ駆け付けたが、東北戦争が終結し新政府側にも動きが見え始める今、サトウが同行する許可は得られなかった。時を同じくして10月29日、四国平定から会津戦争にかけておよそ10か月もの間、維新戦争の中心的役割を担った御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督・板垣退助および迅衝隊が連日に渡り東京凱旋を果たしており、はつみが出航するこの30日に彼からの手紙が届いていた。
―函館―
I want to know you more.
11月上旬。函館にて一定の情報を得、外国人達の安全を確保したアダムズら一行は函館を出港した。この函館で思わぬ再会、思わぬ奇跡を体験したはつみは、死にゆく定めの土方に思いを馳せていた。ミットフォードが現れ、雲行きが良くないから甲板にはでない方がいいよと忠告をしてくる。巧みな話術からすっかりペースを握り、同じイギリス人だというのにサトウとは正反対の『積極性』ではつみからロマンス話を引き出そうとしてくるのだが、しかし彼が言う『君の事が知りたい』と言うセリフにはロマンスの意は込められていない。ミットフォードはまるで『竹取物語のかぐや姫』の様なはつみの周囲の恋愛模様に興味津々なのであった。
―横濱―
花咲爺
函館からの帰還の最中に海外留学を決意したはつみは相談の形で真っ先に小松へと書簡を送付したが、その返信が最短で横濱領事館のはつみの元に届いた。小松からの真心がこもった手紙を、はつみ、寅之進、そしてサトウやミットフォードも一緒に見届ける。小松は同時にパークス公使宛にも書簡を出しており、サトウと共にパークスへ英国留学の意思について表明しに行った時には『子細はサトウに一任する』との事ですぐに話がまとまった。実は今年の始めに大阪でこの話が出た当時から大筋の流れは決まっていたと話すサトウ。また、帝の東幸にも参列できない程重い病と思われる小松を出国前に見舞いたいとする件についても許可が出た。
―東京開市、新潟開港及び、西暦1969年1月1日―
―江戸・高輪―
This early in the morning.R15
11月19日。東京が開市され各国公使の明治天皇謁見の日付も4日後に迫っている。そういった変化のせいか日本人側の来客に拍車がかかる中、西暦のNew yearを迎えた。サトウはこの大変気に入っている高輪自宅を借用して2年目となるが、西暦のNew yearをこの自宅で迎えるのは初めてであった。はつみの英国留学の話も現実となる傍ら、函館から帰って来てからどこかはつみが儚く、そしてもはや『抑圧された女神』といった憧憬の念ではなく一人の『レディ』として現実的に想い始めている事に気が付く。それは、彼女の英国留学に際し両親へ手紙を綴った事で意識が変わったのだと納得する。ある朝の会話をきっかけに、サトウの想いが溢れる。この日横濱へ行きパークス公使に新年の挨拶をした後、ウィリスや寅之進らとも合流。ベアトのもとを訪れ写真を撮影した。
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