―表紙― 物語






江戸遊学編
文久元年6月―12月

●文久元年…沖田17歳・はつみ20歳
 ―江戸―
季節外れの春
6月15日、天下祭の一つとされる『日枝神社大祭』で江戸は賑わっている。沖田は祭を見た後暇つぶしに神社へと立ち寄り、居合わせた子供達と適当に戯れていた。そこで美しい純白の鳥と出会い、季節外れの春に遭遇する。
再会・確信
7月。名も知らぬ人との忘れられない出会いから、ひと月も経たぬ内に再会へと至る。いつもの様に厳しく稽古をつけていた所に、井上によって道場の見学にと通された寅之進とはつみの姿が見え…はつみと目があうや否や、門人から強烈な面を食らってしまうのであった。
詳細  しょっぱなから情けない姿を見せてしまったと落ち込む一方、再会できた上に彼らがここの門人となるという接点ができた事に一喜一憂の沖田。『試衛館塾頭』として改めて自己紹介し、そこで彼女の名は桜川はつみであると知り…第一印象の『春の桜の様な人』の回想がそのまま名に映し出されている事に内心感動すら覚える。そして彼女の側で彼女を『守る』同年代の青年は池田寅之進で、彼がこの試衛館の門人となる様であった。
お見舞い
8月。江戸をまだよく知らない寅之進が、精のつくものはどこで手に入るかと沖田に訪ねる。理由を聞くと、はつみが慣れない組稽古をして寝込んでしまった為この後見舞いに行くのだと聞き、無理矢理ついていく事に。居合わせた永倉も噂に聞く『男装の麗人』とやらを拝みたいと言って同行する事となった。
夏まつりR15
8月15日、深川八幡祭(深川祭)水掛け祭。寅之進から『はつみが沖田を誘っている』と言われ、大喜びで合流する。ほかに数人土佐の者が合流していたが、中でも驚いたのは桶町千葉道場の千葉佐那子がはつみと同じ様に男装を決め込んでお忍びで来ていた事だった。それでも佐那子は控え目であったが、はつみは驚く程あけっぴろげで活発、そしてやっぱり春の陽の様に華やかで気さくな人である事を知る。そして沖田は、大いに水に濡れたはつみの姿を目の当たりにして息が止まりそうな程硬直してしまう。人生で初めて、女性の身体というものを男として意識した瞬間であった。
天然理心流四代目襲名披露…前編・後編
8月下旬、武蔵総社六社宮にて天然理心流宗家四代目襲名披露のための野仕合が行われる。招待を受けたはつみは沖田や寅之進らと合流し、共に多摩へと向かった。
詳細 この頃になると試衛館食客らの中で沖田の『初恋』に察しが付いていない者はおらず、それは近藤やつね、井上らにとっても同様であった。野仕合では藤堂や原田といった者達も加わり、はつみも男装をしたまま急遽『赤組』に参加する事になる。本陣で太鼓係を務める沖田ははつみが怪我でもしないかと気が気でない様子だったが、はつみの出る幕もないほどにあっけない程の紅組圧勝で一試合目が終わってしまう。これでは何の盛り上がりもなく野仕合が終わると懸念した近藤は、第二試合が始まる前に「総司、お前も参加してこい!」と言って急遽白組参加となる。
気合の入った沖田は試合が始まるなり猛烈な勢いで紅組勢を突破し、土方、藤堂、原田という謎の新顔、山南を撃破。はつみの前に立ちはだかった寅之進も一瞬で打倒し、この有志を魅せる事でかつてはつみの目の前で門人に面を抜かれるという雪辱も果たした。剣術など到底できもしないはつみは引きこもっていたが事ここにきて沖田と対峙する事となり、爛々と目を輝かせる沖田から「いざ、しょうぶ!」と声を掛けられ腹をくくり、見よう見まねで竹刀を構えた。
…見つめ合う中で、沖田は自分が今何をしているのか、立っているのか横になっているのか浮かんでいるのかも分からない様な感覚に陥ってしまう。それが魅了状態であるという事は気付いておらず、異様な見つめ合いに周囲の皆が固唾をのんで見守る中、沖田の「初恋」をしる試衛館食客らは思わず笑いを漏らしそうになってしまう。
そして次の瞬間、素人極まりないはつみの面が信じられない程綺麗に沖田の額にある瓦をかち割るのであった。
移りゆく季節
9月。暑さは徐々に去りゆき、日によっては秋を感じさせる爽やかな風が江戸のまちを通り過ぎていく。かたや天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合でこれ以上ない程に心を掴まれ、かつ失態を晒した沖田の心中はパッとしない曇り模様もいいところで、暇さえあれば庭先の土に永遠に八の字を書き続ける程であった。近藤や井上が、そんな沖田を暖かく見守っている。
横濱にて
9月末。はつみ念願の横濱訪問の日程が決まった。先日の天然理心流四代目襲名披露へ招待してくれたお返しにと沖田にも声がかかり、ごちゃごちゃした心を払拭して同行を願い出る。はつみが横濱へ行く理由、天下をゆるがす『尊王攘夷』といった思想と『開国』、そして横濱で見せた驚くべき才能…。新しい、否、はつみに初めて出会った時にも感じた『どこか浮世離れした』その姿をしげしげと目の当たりにする。そして寅之進が『はつみに付いていく』とする、その真の姿も…。幼い頃から剣一筋で日頃世間の事に疎くさほど興味もなかった沖田は、『世界』という文化に触れて刺激を受けた事は勿論、はつみ達が見据える視線と自分の視線の違いにも気付かされ、唖然とした。
春画騒動…前編・後編R15
10月。浮かない様子の沖田に原田が『男の解決法』を伝授するところから、この災難が始まる。
好敵手
11月。試衛館の井戸端にお年頃の青年剣士が並んで立っていた。この四人は偶然にも同年の1844年生まれ、数え17歳だ。柔軟性に長けてはいるが世間知らずな天才剣士の沖田と超がつくほど真面目で堅物な寅之進の二人に、勝ち気で利発な藤堂が真正面から斬り込んでいく。「お前ら、好きな女いるよな?」そこから出て来た桜川はつみという名に対し、寡黙ではあるが洞察力は随一である斎藤が、江戸の町あるいは千葉道場近辺で見かける土佐藩絡み男装の女とその周辺にいる『男の影』について、情報を提供する。
独占欲
11月。世間では京の都からやってきた帝の妹君・和宮様の江戸入りで大賑わいであるというのに、沖田はまた冴えないため息を付いていた。『物を知らない』にも程があると自分に嫌気がさし、その一方で『知った』事で視界が広がり、気付かなくてよかった事にも気付かされていた。…そう、はつみの周りにいる『男』の多さに。
女傑評議3R18
11月末。近藤と山南、井上が揃って外出したこの日、急遽、沖田や寅之進の為にと『女を学ぶ会』が開催された。主催兼講師は永倉と原田。原田は教材の提供(春画)も行った。特別講師に百戦錬磨と噂の土方、参加者は藤堂、斎藤、寅之進、沖田。女を知り尽くしたという土方特別講師はこう言う。「桜川?…中の下ってとこだろ」「まぁ抱いてくれってアイツから言ってくるんであれば、抱いてやらねぇ事もねぇけどよ」…学び舎に嵐が吹き荒れた。
想いの深さ故にR15
12月。はつみの江戸遊学期限が近付き、立て込んだ日々を送っている様だった。必然的に彼女と会う機会も減り、沖田ははつみがもうすぐ江戸からいなくなるという目の前に迫る事実にやるせない思いを抱かずにはいられなかった。ある日野暮用があって町を歩いていると、はつみが見知らぬ男性と路上で話しているのを見かけた。相手はすらりと長身の、しかし見た目では剣や体術が得意そうには見えない、垂れ目の優男だ。年齢は沖田と同じぐらいだろうか。思わず反射的に身を隠し『また別の男と一緒にいる…』と燻り始める。心を示し合わせた様に走り去っていく二人を、沖田は思い切って尾行する事にした。
伝えたい想い
12月下旬。その日は兼ねてより寅之進から誘われていたはつみの送別会であった。主催である寅之進はあれこれと手続きをこなしつつ、心配そうにとある席に置かれた手つかずの膳へと視線を投げていた。会場であるこの部屋には既に様々な顔ぶれが揃っていたが、招待したはずの沖田はまだこの場にいない。そしてはつみから聞くに、沖田の様子が目に見えておかしくなっ『あの日の夜』から今まで、彼には会っていないという。…会っていない理由も、寅之進ははつみから聞いていた。


一念発起編
文久2年1月―6月

●文久2年…沖田18歳・はつみ21歳
 ―江戸―
友として
7月。今月いっぱいで江戸剣術修行を終える予定であった寅之進の元に、土佐藩主と共に『参勤交代』の途に着いた伝え聞いている武市半平太から手紙が届く。
詳細 『江戸遊学満了で江戸を発つ際、品川より船を利用し大阪へ入り次第はつみと合流する事』『諸事必要な申請などはこちらで済ませて置く』との事であった。はつみが大阪へ出ているという事なのだろうか…?そして藩に対して必要な申請事務を代理で済ませて置くとは…土佐攘夷派が政権を握ったとは聞いていたが、郷士の遊学延期などの申請など直ぐにどうとでもできてしまうほどの権力を得たという事なのだろうか…?
いずれにしても寅之進は、この事情を知らせる為に試衛館へと走った。
近藤へ事情を話し、数日後に塾頭沖田との通し稽古を以て江戸剣術修行を満了とする事となった。部屋を出た所で「どうしたの、何か慌ただしいね」と声をかけてきた沖田と話す。
土佐の情勢と、とある方からはつみと合流する為に大阪へくるようにと言われた事。その人物とは、江戸に来る前に『この先時世へと飛び出すであろうはつみを守る為の剣技を身に付けろ』と言って江戸滞在の支援をしてくれた恩人である事。そして大阪では恐らく、はつみを守るための警備を任されるのだという事…。
「寅之進にははつみさんを守ってもらわなくちゃいけないからね。私の分も」
「はい。心得ています。」
 二人ともまだまだ時勢に詳しい訳ではなかったが、ここのところ尊王攘夷派による過激な事件の頻発はもとより、公武合体という思想の象徴となった和宮降嫁、年の春には薩摩が兵を率いて上洛し大々的に幕政改革へ乗り出し、またそれが巡り巡って薩摩藩士同士の惨い斬り合い事件が勃発。さらにはその薩摩が朝廷からの勅使を護衛して江戸にまで押し寄せたのはつい先月の話であった。こうした血生臭い大事件の噂が、普通に暮らしていても立て続けに耳に入ってくる。はつみがいる土佐もこの春ついに天誅と称した参政吉田東洋暗殺が勃発し、いよいよその風が強くなっていると聞く。土佐で最大勢力となりつつある土佐攘夷派の頂点にいるのが武市であり、それを追いかけているのがはつみ。この事については寅之進と沖田が剣に励む傍ら何度も話し合い思案を重ね、彼女の身を案じたものであり、沖田が今言った様に「自分の分もはつみを守る剣になってほしい」というのも当然まんざらな言葉ではない。試衛館を捨てて脱藩でもしない限りははつみの元へ行けそうにないという未だに受け入れ難い葛藤への、精一杯の抵抗でもあった。
「私は…寅之進に預けるからね。想いを」
「沖田さん……はい、命に代えても、全うしてみせます」
 真顔で命に掛けた誓いをしてみせる寅之進に『ほんっと真面目だなぁ』と笑った沖田は「さて」と切り替えた様に立ち上がり、落ちてきそうな真っ青な夏空を見上げる。その青々しさに、想い人の為にこっぱずかしい会話をする自分たちの青臭さを連想してまた笑った。

 はつみと再会できるのは、いったいこの先いつの事なのだろう…。そんな風に考える沖田であったが、その再会自体は思わぬほど早く訪れる事となる。


京・天誅編
文久2年7月―文久3年3月

●文久2年…沖田18歳・はつみ21歳
 ―江戸―
想い想われR15
10月下旬。江戸は和宮と将軍家茂の婚姻に加え度重なる勅使の東下に伴う公武合体派と尊王攘夷派の対立、風疹コロリといった疫病の流行、諸外国との貿易が盛んになってきたが故の価格高騰などとあらゆる騒ぎが続く中、ここ試衛館の沖田も極めて個人的な、衝撃的な事件があったばかりであった。
詳細  試衛館の手伝いとして日々顔を合わせていた町娘・ユウ。活発で明るい娘であったが、彼女は武士であり試衛館塾頭である沖田に恋心を抱いていた。
高嶺の花
『極めて私的で衝撃的な事件』が一件落着となった沖田の元へ、矢継ぎ早にとばかりに今度は来客がやってくる。この夏、はつみの『護衛』となる為に京へのぼったはずの寅之進であった。今江戸で噂になっている勅使一行に関係して江戸に入ったといい、彼女も江戸にいるという。勅使一行に随行して来たのかと聞けばそうではないという。…武市殿とは行動を共にしていないのかと聞くと、寅之進は驚くべき現状を話し聞かせてくれたのであった。
高嶺に手は届かなくとも
12月。例の勅使一行が江戸を去り、京へと戻っていった。はつみや寅之進も一行と共に京へ向かったのだろうかと想い馳せていた矢先、思い詰めた様子の寅之進が試衛館沖田の元へやってきた。はつみはまたも『所用』の為に同行しておらず沖田は素直に残念がるが、寅之進の様子があまりにも心ここにあらずといった様子であった為、一体何があったのかと話を聞こうとする。
ある日の清河と山岡
12月。ある日の清河八郎と山岡鉄舟。

●文久三年…沖田19歳・はつみ22歳
 ―江戸―
旅立ちの時
2月。清河八郎が画策する『浪士組』に、近藤ら試衛館一派も参加する事が決まった。その名簿の中には沖田総司の名も連ねられていたが、ここに彼の名が記されるまでに一悶着があった。

 ―京―
人斬り
3月中旬。上洛した途端突如『尊王倒幕』を叫び、朝廷へ建白書を提出するなど暴挙に出た清河と袂を別った近藤・芹沢らは、今では会津藩預かりの身分となっていた。壬生村の八木邸を屯所とし、日々市内警護を行っている。そんなある日、沖田は同じく非番であった土方らと見廻りや土地勘把握、手柄を得る為の『獲物探し』を兼ねた散策を行っていた。そこで思わず、はつみと再会してしまう。…彼女の隣には、少し男らしくなった様に見える寅之進が。そして、はつみを『高嶺の花』と思わせる直接の要因となった土佐の大物・武市半平太の姿もあった。


京・天狗編
文久3年4月―元治元年6月

●文久三年…沖田19歳・はつみ22歳

遊女を買う
はつみと不意の再会を果たしてからひと月が経とうとした頃、土方の提案により沖田を含めた数人で新町へ繰り出す事となった。まったく気乗りしない様子の沖田を無理矢理歩かせて向かった新町九軒町の吉田屋とは、江戸歌舞伎や浄瑠璃でもお馴染みの「夕霧太夫」や、その二番手で人気の「天神」が在籍する事でも有名である。沖田よりも前のめりで遊女を物色する土方らは「そもそも初恋なんてのは報われない事が多い」「恋は場数」「女を知れば先の恋もすぐ見つかる」等々無茶苦茶な事を言ってくる。
 ―大阪―
大阪乱闘…前編・後編
6月。大坂角力力士乱闘事件。芹沢を筆頭に沖田を含む8名が、捕縛任務を終え大阪散策をしていた時の事だった。腹痛を訴える斎藤を休ませる名目で堂島川の渡し舟から曽根崎あたりに上陸し住吉楼という茶屋へ向かう一行であったが、気を抜いて軽装に脇差のみという恰好であったせいかやたらと大阪力士たちから絡まれる事態となっていた。一度目はともかく二度目に絡まれた時は全員で乱闘になってしまった為、かなりの野次馬が集まってしまっていた。腹痛の極みに遭った斎藤は島田の担がれて移動していたのだが、この時野次馬の向こうにはつみの姿があった事を認めており、彼女と顔見知りである沖田などにもそれを知らせていた。
はつみが居た事を聞かされた沖田は目に見えてそわそわしており、芹沢が興味を持って話を聞き出そうとするが、永倉と山南が咄嗟に「変わりものの男で、江戸からの顔見知りである」という風に説明をした。するとそれはそれで「なんだ、お前女っ気がねぇなと思ったら男色か」「今度俺にも会わせろや」とからかわれてしまう。…そんな矢先、芹沢達が楽しむ部屋に大勢の力士たちが肉雪崩の様に押し寄せてくる。彼らの目的は『仲間が殴られ恥をかかされた事への報復』であった。持っていた木の棒で頭を殴られ窓際に寄りかかった際、突然「総司くん!?」と声をかけられる。ハッと視線を向けると、となりの茶屋の二階窓から身を乗り出し驚愕の表情でこちらを見るはつみの姿があった。
 ―京―
芹沢鴨という男…前編R15・後編R15
9月。突如、白蓮に『精忠浪士組』の芹沢らが乗り込んでくる。土佐過激攘夷浪士の『母体』とも言える土佐勤王党の武市や、国賊となった長州の桂、高杉らと親交のあったはつみに『天狗』すなわち間者の疑いあり。大目に伏せてほしくば1000両を出せと無心するが、はつみが女である事が発覚し趣向が変わった。はつみは白蓮の咲衛門ら従業員や客、寅之進、陸奥ら周囲に迷惑をかけない様芹沢の言う事に従い、奥の一室へと共に進んでいく。寅之進、陸奥が激しく抵抗し刀を抜く乱闘寸前となるも、斎藤の迅速な通報により駆け付けていた沖田と永倉が白蓮へなだれ込む。
 芹沢の目的は『天狗』ではなく…最初から『沖田が想いを寄せる桜川はつみ』だった。
芹沢鴨、暗殺R18
9月16日。雨の日、深夜。壬生八木邸にて芹沢鴨の暗殺が執行された。
新選組
神戸海軍操練所の建設開始を10月に控え、はつみ達は神戸へ移住する事となる。内部粛清、暗殺などが続く壬生浪士組であったが、つい先日芹沢鴨の葬儀が行われていた事…つまり、歴史通りに芹沢鴨が暗殺された事も、はつみは知っていた。沖田達への挨拶は手紙で遠慮するべきかと悩んだが、はつみと寅之進は壬生八木邸まで出向く事にした。着くと何やらざわついており、見かける者皆手に黒い布と水色や赤といった襷の様な長い布を持っている。そこへ、例の見慣れぬ黒い羽織を着込んだ沖田と斎藤が現れた。裾に施されただんだら模様を見たはつみは、それが新しい隊服なのだと直ぐに悟る。
●文久四年/元治元年…沖田20歳、はつみ23歳

池田屋事件…前編・後編R15
6月5日、古高俊太郎の枡屋から大量の武器火薬が摘発され、緊張がほどばしる。古高から情報を引き出そうとする一方で、土方が山崎丞から報告を受けている所に遭遇する。土方は桜川はつみの動向を山崎や斎藤に探らせており、それを偶然耳にした沖田は黙っていられなかった。かつて芹沢が口にした『桜川が天狗ではないか』の説のままに、土方がはつみを疑っていたのだ。


襲 撃
元治元年6月

●元治元年…沖田21歳・はつみ23歳
 ―京―
奸婦襲撃事件…前編R15、後編R15
6月24日。柊智ら長州・水戸・土佐ら尊王攘夷志士による桜川はつみ襲撃事件。直近の池田屋事件、明保野亭事件を経て、土佐浪士をはじめとする攘夷派浪士達の幕府および新選組に対する感情は極めて急激に悪化していた。元土佐勤王党員・柊智が残党らに声をかけ『桜川はつみ天狗説』を説く。かの女こそが姉ヶ小路公知をたぶらかし、武市半平太をもたぶらかそうとしていた天狗…否、「鬼(夷狄)」の申し子であると。
つまりはつみは、新選組からも、そして長州土佐攘夷派からも『天狗』すなわち『間者』だと疑われていたのだった。

 そして襲撃事件へと発展する。襲撃現場にははつみをつけていた斎藤が一早く気付き、はつみの護衛である寅之進と共に攘夷派浪士達との斬り合い場に躍り出る。襲撃は奇襲性を失い、その間に新選組の死番隊が駆け付け、増援要請の笛がけたたましく夜の都に鳴り響く。しかし要請を受けた非番の永倉らが駆け付けた時にははつみが背中を大きく斬られた後で、自らの着物を破いた斎藤がそれをはつみの胴へときつく巻き付け、応急処置を施している所だった。
寅之進と陸奥は『軍艦奉行並勝海舟』配下として、新選組及び会津に迅速な蘭学医の派遣を要請し、現場の判断でそれを受け入れた永倉・斎藤は壬生屯所に控える近藤土方へとその旨伝令を放ち、且つ、はつみら一行を屯所へと連れて行く。

池田屋事件以降体調を崩していた沖田は、先ほどまで夕寝をしていた所であった。寝起きに水を一口飲み、縁側に腰をかけて夜涼みをしていた所に、突然八木家の人々も一緒になり家中が大騒ぎになっていく。暫くは我関係無しと夜涼みを続けていたが、あまりにも騒がしいので席を立ってそっと中庭へとやってくると、そこには土方と斎藤、永倉の姿に加えて池田寅之進や陸奥陽之助の姿があるではないか。
「え…どうして寅之進がここに?…はつみさんは?」
 そう声をかけたが、彼らから漂う血の香りには敏感に鼻が反応する。『生涯護衛』とまで言っていた寅之進、そして陸奥の二人が揃っていながらはつみの姿が無い事へ、本能的に嫌な予感がよぎる。それに加え、声をかけてきた沖田を見た土方の様子も、長年共にいる沖田にだからこそ分かる『感情を押し殺して装った冷静さ』であった。ぶっきらぼうに『黙って部屋にもどってろ』などと言われ、余計に勘ぐった沖田は騒がしい部屋の方へと鋭く視線を向け、一歩を踏み出す。土方が『よせ、総司!』と言うのも聞かずに部屋へと突き進み、断りもなく部屋の襖を押し開く。
そこには、上半身裸となってうつぶせに横たわるはつみの姿があった。夢にまで見たはつみの裸体であったにも拘らず、何よりも強烈に目に飛び込んだのは、白くしなやかな美しい背中に付けられた信じられない程の大きな創傷であった。
天狗の呪縛
『桜川はつみは天狗である』それは新選組からも、そして尊王攘夷派からも疑われ、極めて孤独な道を行く彼女の真の姿だった。寅之進が言っていた「高嶺の人の孤独」「共に行く覚悟」とは、そういう事だったのだとようやく気付く沖田。京に来て多くの事情を知り多くの人を斬り、志の為に芹沢までも斬った。それで大人になったつもりでいたが、愛する人の過酷な現状を何一つ知らないただの青二才であった事を強烈に痛感していた。
しかし今までの様な、思春期故に恋心に浮かれて翻弄される未熟な感情ではない…それこそが沖田が確かに成長した証でもあったが、今も尚、壬生屯所近くの宿へと移動したはつみの治療時の悲鳴がわずかに聞こえてくる度に、己に対する耐え難い苛立ちと無力感に苛まれずにはいられなかった。
潮時
会津から蘭医学を修める医者が付き連日拷問の様な治療を受けるはつみ。壬生屯所近くに急遽借りていた部屋からようやく白蓮へと移動したばかりであったが、京の政治面におけるあらゆる諸事情・裏事情に関わる薩摩藩家老・小松帯刀からの『今すぐ京を離れた方がいい』『はつみの才をここで失う事は絶対にあってはならない』とする緊急的な提案を以て、早々に神戸へと戻る事となった。
 それもこれも、ついに進発した長州が天王山に兵を集めつつあるという緊迫した状態にあった為で、傷口が開かぬ様にとあらゆる配慮をされて大八車に乗せられたはつみには、大阪の港まで移動する道中に薩摩と新選組から数名ずつの護衛が付き、宇治方面からやや回り込んで淀川に至るなどといった会議まで行われた。
 沖田はその護衛に強い意思を以て志願する。…土佐の大物・武市のみならず、あの薩摩・久光公の懐刀とも言われ、幕府からも朝廷からも信任篤いとされる若家老・小松すらも、並々ならぬ熱量ではつみに関わっている。…『高嶺の花』は言葉面だけの響きだけでなく、真の意味で沖田の心に突き刺さっていた。
 近藤や土方は、実際にはつみを襲った長州の兵がどこに潜んでいるかもわからない状況で沖田を任務に送り出す事には反対であった。ここの所沖田の体調が優れない事が最もたる理由であったが、最悪の状況になった場合には斎藤が『はつみよりも沖田を優先して保護する』事を前提として、沖田の任務参加を承諾するに至った。…当然沖田には知らされていない事であったが、それに気付かない沖田ではなかった。
 そんな『子ども扱い』の屈辱を受けても尚、はつみを無事に送り届ける護衛を務めたかった。
 この恋の、何もかもが潮時に感じた。…だから…


東西奔走編
元治元年7月~慶応元年5月

●元治元年…沖田20歳・はつみ23歳
 ―京―
秋月熱に浮くR18
11月。日中、市中検問にて勤務をしていた沖田は偶然はつみと再会した。海軍奉行勝海舟は失脚目前との噂を聞く中、その門下生として通過するも、行き先が『あの』薩摩家老の元だと知り眉を顰める。微かな沖田の動きにはつみも察しを得たのであろう、二人は結局よそよそしい形で別れる事になってしまった。…その事を、沖田は自室で天井を仰ぎながら回想していた。
襲撃事件以来、はつみが『新選組にとっての天狗』であるとの疑いはようやく一旦晴れた。この事は沖田が今までにない程に土方に詰め、彼に認めさせた事でもある。一方で彼女と薩摩の関りが克明に露見したのも事実であった。現在の京は薩摩の兵力を主力として治安が保たれていると言っても過言ではない。勿論、会津およびその配下の新選組も対立をしている訳ではないのだが…腹を探り合っているという方が明らかに正しい。特に近藤の薩摩嫌いは根強く、信用できないというのが新選組の立場といって過言ではなかった。…そんな状況にあって、特にあの小松という若い家老のはつみへの執着ぶりはどうだ…将軍に見えたという土佐の武市半平太よりも更に上の男が、臨んだ女を手元に置かないなんて事があるだろうか…。
まさか二人は、もう…
小松に抱かれるはつみの姿を想像するにあたり、背中の応急処置を受けているはつみの姿を…露わになった火照る肌の滑らかさを思い出してしまっていた。寅之進からの報告で『治療が拷問のようだ』と聞いていたにも関わらず、自分の脳内ではその汗がにじむ苦悶の表情ですら淫らなものへとすり替わってしまう…。
自己嫌悪でしかなかった。
●元治二年/慶応元年…沖田21歳・はつみ24歳

山桜、散る…前編、後編R15
2月。新選組は多くの殉死、粛清による死者を出しながらも、一方では多くの志願者や伊東甲子太郎という逸材も迎え、より大きな一団になろうとしていた。そんな中、いろいろと無頓着な沖田ですら『調子がいまいちだな』と思う事が増えていたある日の事。隊士達に稽古をつけていた所に近藤から呼び出しを受けた沖田は、衝撃的な任務を与えられる。
「山南さんがいなくなった。…総司……お前が、一人で、行ってくれ」

 …数日後、ずっと音沙汰の無かったはつみから一通の手紙が届く。
貴女の事を忘れたいのに、何故、一番つらい時に優しい言葉をかけてくれるのか…
麻疹にかかった時も、芹沢の時も………。
…切ない思いから、不意に疑問が生まれる。

ただ率直に、『一体何故なのか?』と。


朧月編
慶応元年閏5月~慶応2年5月

●慶応元年…沖田21歳・はつみ24歳

 ―京―

不治の病と恋の病
閏5月。将軍再上洛の際、近藤は将軍侍医である松本良順と出会い知己を得た。良順自らが新選組屯所・西本願寺へ出向く事になり、衛生管理指導を受けると共に全隊士の診療も行われた。例に漏れず沖田も診察を受けたが、近藤と土方には目をそむけたくなる様な残酷な真実が告げられた。
「本人はもう気が付いておる。しっかり話し合うて今後の方針を共有し合う事を勧める」
 との言葉通り、近藤と土方は沖田に話を持ち掛けた。本人は近藤達以上に悟った様子であったが、場の空気を換えようとしたのか、軽い調子で自虐的にはつみへの想いを口にする。
「お前…まだ諦めてなかったのか」
 土方が漏らす言葉の裏には、様々な想いや事情が絡み合っていた。
二兎追う者
11月。近藤は幕府の長州訊問使随行任務に際して土方と共に沖田を呼び出し、一層の覚悟を告げた。そして「万が一の時、新選組はトシ(土方)に任せる。他に心配なのは総司の今後、そして江戸の試衛館、天然理心流の事である」と述べる。沖田は、自分の病の事なら今すぐどうこうという訳でもないし、通常勤務も隊士達の稽古も対応できていると述べる。勿論それはそれで安堵できる返事ではあったが、近藤が言いたい事は別の…もっと『大人の事情』を含んだ事であった。
「お前に天然理心流を継がせようと考えている。」
 それ自体、光栄な事ではあったが予想できない事ではなかった。近藤が言いにくそうにしている理由は、他の所にあるのだとすぐに悟った。重い空気の中で土方が代わりに要点を述べようとしたが、近藤がそれを抑え、自らの口から思う所を述べてみせた。
・京の政変は一会柔政権を産み、実質政からはじき出された形の薩摩が不気味な静寂を保っている事。
・および長州の状況
・それらを鑑みた上で、沖田には江戸へ戻り、試衛館を継ぐと言う道もあるという事。
・…当然、薩摩との関与が見られる桜川はつみらと距離を取る事も―…
 大人しく聞いていた沖田であったが、はつみの名が出てきた瞬間『やはり』とばかりに、手に持っていた竹とんぼをへし折ってしまう。
「どうして私ばかり、いつまでも子ども扱いなのですか。それとも私が不治の病に罹ってしまったから、だから他の健康な男達ならば剣に誓いを立てて死ぬる事も好きな女を娶る事を許されるのに、私にはそれが許されない、それを自分だけの力で遂行できる力がもはやないとお考えなのですか!」
 そして『二兎追う者は一兎をも得ず』と自らを皮肉り、部屋を飛び出したのだった。
初恋は実らず
12月下旬。無事に帰還した近藤であったが、この旅で得た厳しい状況に鑑みた上で、沖田に縁談を持ち掛ける。今回土方は部屋の裏でそっと聞き耳を立てていた。近藤から突如縁談を持ち掛けられた沖田は動揺し、なぜそれが必要なのかと訪ねる。先日話した試衛館天然理心流を継ぐ為に必要なのか。それとも自分が継いだところで病があるから早々に子を成す様にと見越しての事なのか…と言った所で、近藤の力強い声に「そうではない」とさえぎられる。そして、沖田にとってもっとも残酷な『命令』が告げられた。
「以前お前は『二兎追う者は一兎をも得ず』と言ったが、それは違う。このまま俺達と京に留まると言うのならそうすればいいし、天然理心流の事も俺が死んだ時に考えてくれればいい。江戸へ戻るという話はあくまでその道もあるという事を言いたかっただけだ。得た金は好きに使えばいいし、好いた女を娶るのも自由だ。無論この縁談も断ってくれて構わん。俺はお前を、一人前の男だと考えている…だからこそ、あの時、お前に山南さんを探しに行かせたんだ…」
「………」
「…だが、桜川殿との事を認める事だけはできない。」
「―っ、何故ですか!」
「…そうやって、あの娘の事になると平静を保てないからだ。」
「っ…それは…」
「…これから薩摩とは対立関係になっていくだろう。いや、会津公や一ツ橋様はとっくの前からその対応を取られていたんだ。今はまだ、水面下でしかないが…薩摩がその尻尾を出した暁には、世が大きく動く事になるだろう。そして桜川殿は今、勝海舟殿の元を離れ薩摩の庇護を受けているとの情報があった。…我らが新選組の事を考えても、桜川殿とお前が懇意の仲であるという事は余計な火種を産む事に繋がりかねない。」
「そんな…」
「…あの娘への想いは諦めろ、総司。」
「…それは……命令なのですか……」
「……そうだ」
●慶応2年…沖田22歳・はつみ25歳

思い出となるようにR18
1月19日。
 いつか言われた様に、気軽にたった一言で「初恋は実らないもんだ」とは言えぬ恋だった。
 この時勢の渦中にあるからこそ相容れぬ立場、故に埋まらぬ距離、満たされない欲求、目をそむけたくなる様な現状を受け入れ経験を重ねてきた末に、今の沖田がある。そして今や、帝が座する京の都、将軍が座する大坂を会津の名のもとに警護し奉り、誰もが知り振り返る新選組の一番隊隊長となった。その名に恥じない働きも経験も重ねてきた。
―しかし今はその事実が、はつみとの間で深刻な対立を生む原因そのものとなってしまっている。彼女は確かに、自分達が思っていた様な『天狗』ではなかった。だがそれを越える存在だった。どうしようもない。諦めるべき恋なのだと…

 いつかの様に、沖田は市中検問として警備任務を行っていた。他の検問から『坂本龍馬が薩摩手形にて通過』との情報が入っており警戒していた矢先に、やはり…と言わんばかりにはつみが現れた。
「手形なら、ここに。さあ行きましょう、はつみさん。」
「総司くん…」
 相変わらず寅之進は護衛としてはつみの側に付いている。薩摩の通行手形を示し、まるでかつての様に交流する事を避けているかの様に緊張が見て取れた。…坂本の情報が入ってからはつみが現れた事で『やはり』とは思ったが、『現れないでくれ、薩摩の手形を出さないでくれ』と願っていた訳ではない。自分達の状況をどう思っているのか、寅之進に急かされて通り過ぎようとするはつみが後ろ髪引かれる様な様子で自分を振り返っていた事に気付き…感情を抑える事ができなかった。
 同僚に持ち場の警備継続を指示すると、沖田は人々で活気付く通りへと飛び込んでいった。実際に香が残っている訳ではないが、まるではつみの香りを追いかけるかの様に人込みをかき分け、独特の結い目で房を作る小麦色の髪をした男装の娘を見つける。
「!?」
「―…はつみさん…!」
 沖田が声をかける前に寅之進がその気配に気づいたが、構わずはつみの腕を掴む。ぐいと引き寄せ、近くの適当な茶屋へと引っ張っていった。当然反応する寅之進であったが、はつみも状況的に沖田と話す必要があるし、その機会も『薩長同盟が成される前の今しかない』と考えていた。目線で『大丈夫』『待ってて』と合図を送り、抵抗することなく沖田についていった。…目線でのやり取りだけで意思疎通する二人の様子にすら気が立ってしまう自分に、近藤の『…そうやって、あの娘の事になると平静を保てないからだ。』という言葉が二度三度と突き刺さる。

…それでも、今だけは…
最初で最後の、この時だけは…
自分が新選組だろうが、病で先が短いとか、そんな事はどうだっていい。
人生でただ一度だけでも、本気で愛したひととの『思い出』を作りたい。
自分の情熱をはつみに知ってもらいたい…

「―…あのね、総司くん―……」
 薄暗い部屋の中で、沈黙を破ろうとしたのははつみであった。
だが、その言葉を、沖田は唇を重ねる事で遮ってみせる。

そして、長年渇望し続けた愛しき女性を、ありったけの情熱のままに抱きしめていた。


幕府終焉編
慶応3年12月―明治元年11月


●慶応4年/明治元年…沖田24歳・はつみ27歳
 ―江戸―
桜咲くR15
3月末。心は新選組と共に…そう言って近藤と別れてから、戦がどうなったのかなど知る由もなかった。むしろ今もどこかで戦が行われているのかと思ってしまう程、毎日美しく手入れされた植木屋の庭を眺め、浅い呼吸に吐血を繰り返しながら生きている。
―その日、姉のみつが最後の見舞いに来てくれていた。今年も桜が咲いたね、一緒に観れて良かったねと話しながら、桜の花に春の人を重ね見る。そんな弟を見やるみつは微笑み、暖かい薬湯を淹れながら「会いたい人がいるの?」と聞く。「ええ?」力なくも沖田が笑ったその時、植木屋の主が来客を告げた。
初恋・最終話
閏4月を経て、5月末。
 あの日交わした約束通り、再びはつみと会う事はなかった。しかしそれこそ沖田が望んだ事であった。彼女はただ約束を守ったのだ。
 沖田は満足していた。同じ江戸の空の下、彼女が彼女らしくいられる場所にいると分かった。そして剣で守る背中を見せる事ができた。それだけで『終わりよければ総て良し』だったのだ。
 肺から腹の奥底まで蝕まれた体は極限までやせ細り、日の大半を気を失ったかの様にして過ごし、ただ『その時』を待つばかり。それはもはや、いつぞやから姿を見せなくなった、あの老けた黒猫と同じ心境だったのかも知れない。

 丁度7年前、夏の暑さをじりじりと感じるこの季節に、『春』の訪れを感じていた。
7年経っているのに昔も今も色褪せぬあの笑顔を思い浮かべ…
つくづく不思議な女性であったと、視界の定まらぬ目元へかすかに笑みを浮かべる。
…するとふいに、体が軽くなった様な気がした。

目の前に、季節外れの桜吹雪と共に白い翼が見える。

舞い上がる風に手を伸ばし、浅葱の空へと吸い込まれていった―。



―以下、後日談―


●明治元年

【土方】軌跡
 10月末、旧幕府軍が函館を占拠したとの報が英国公使館に入る。
函館在住のイギリス人およびフランス人保護のため、軍艦サテライト号とヴェヌス号が急遽出港する事になった。英国公使館からは一等書記官であるフランシス・オッティウェル・アダムズが向かう事となり、その通訳としてミットフォードが。そして、現地では恐らく多くの外国人やキリスト教徒らを軍艦に保護する際の迅速かつ的確な通訳ができるスタッフが必要になるだろうと踏んで、はつみが抜擢されていた。

 深夜、今はもういないはずのルシの気配に導かれ、用意された建物内の中庭へと向かうはつみ。この時期の蝦夷の夜は既に息が白くなるほど寒く冷え込み、見上げる星々も手につかめそうな程に近くに感じる事ができた。しかしそれにしてもやけに月が明るく、そして大きく見える夜であった。

 ケーン…
 かの白隼の声が、確かに聞こえる。確かに何かがあると感じ取っていたはつみは、中庭の奥まった場所に現れた、いつだか見た事のある椿のアーチを見つける。
…また夢を見ているのだろうか?
 この時代にやってきてから幾度となく自問した疑問。これを否定も肯定もせぬまま、いつもの様に『ひとまず』前に進むしかなかった。はつみは椿のアーチをくぐり、その先に続く椿の小径を革靴のまま進み行くのであった。

 そう時間もかからぬ内に視界が開け、見知らぬ大名の城にいる事を悟る。

 この城でも戦いがあったのだろう。火薬や埃っぽい香りが辺りに充満していたが、不思議な事に通路にいる警備「らしき人達」は皆ウトウトと頭で舟をこいでおり、突如現れたはつみに気付く事はなかった。

 ルシの白い羽がふわりとかすんで見える場所へ向かって進んでいくと、灯りの漏れるとある部屋へと辿り着いた。戸は付いておらず、恐る恐る中を覗き込んでみると…軍服に身を包んだ一人の男性が、地図盤面を睨んでいる様子がうかがえた。
「なんだ?報告があるなら手短に―……?」
 振り返った男性がはつみを見やるも、驚きを隠せない様だ。…もう長い間、彼の整った顔が感情で変化するのを見た事が無かった。

 そう、彼は新選組副長…旧幕府軍陸軍奉行並、土方歳三であったのだ。

「…桜川か?」
「はい…土方さん、ですよね?」
「………本物か?」

 互いに驚きはしたが、土方については以前の様にはつみを召し捕ってやろうとする気は一切感じなかった。少しの間唖然とした後、「…俺もついに正気を失ったのか?んな訳ねぇよな」と、懐かしい『江戸遊学時代』を彷彿とさせる江戸っ子らしい…いや、彼らしいニヒルな笑みを見せる。つられてはつみの愁眉が開かれたのを確認し、土方は何か悟ったかの様に「まあ、入れよ」と言って、近くの適当な椅子を差し出すのだった。

詳細(一部台詞のみ)
「あんた、総司を男にしてやってくれたんだろ?薩長同盟の前の日によ。」
「え!?いきなりその話!?え、えと…それは…あの…」
「いいンだよ。薩摩長州がどーとかって話がしたい訳じゃねぇんだ。あんたを抱いたって、総司から直接聞いた訳でもねぇしな。ただ……俺が言うのもなんだが、有難うな。あいつにとっては、あいつが持ってたものの中で一番のものと同じぐらい、あんたが大切で愛しかったんだ。一丁前の男なら、好きな女を一度でも抱かなきゃ死にきれねぇってのは道理ってもんだからな。」
「あの…わたしとしてもコメント…返答しづらいですけど…」
「あの時な、総司には近藤さんからあんたの事を諦めるようにっていう『命令』が出てたんだ。」
「はい…その事は、総司くんから聞きました。」
「あいつ、それを破ってコトを成したんだからなぁ。俺は正直、やるじゃねぇかってシビれたけどな。ハハッ。…―ま、あいつを受け入れてくれたあんたも、『中の下』じゃねぇ、『いいオンナ』だったってな。」
「ん?なんですかそれ?」

「総司が言ってたんだよ。あんたは『別の世からやってきたかぐや姫』なんじゃないかってな。」
「総司くんがそんな事を?…別の世って、例えばどんな…?」
「あんたの異国贔屓が過ぎるところとか、そういう事を言ってるんじゃないぜ?そのまんまだよ。例えば、『ずっと先の世からやってきた人なんじゃないか』とか」
「………」
「その顔、本気で心当たりがあるのか。…そんな神隠しの逆みたいな話あるかよってマトモに取り合わなかったけどよ。…まあ、おまえが今ここにいるってのが何よりの証拠なんだよな。昨日まで薩摩のやつらとドンパチやってた城の、しかも陸軍奉行並の俺がいる部屋に一人で来れる訳ねぇだろ。」
「…あの…私…」
「何も言うな。…俺だけが真相を知ったなんて、あの世で総司が悔しがっちまうだろ。冥途の土産話にしちゃ刺激が強すぎら。」

「何となくだが…『そろそろ』なんじゃねぇか?妙に眠くなってきた」
「…そうなのかも知れません。正直、私もよく分からないんです。今の状況もそうだし…『かぐや姫』なんかじゃないけど、でも…確かに私は…みんなとは違うから」
「そういうもんなんだろうよ。弁明する必要はねぇ。おまえは…女にしちゃ立派すぎるぐらいに、お前の人生を歩んでる。それが今のお前の全てなんだ。」
「土方さん…」


「総司は女を見る目があったなぁ。初恋は実らねぇなんて適当な事も言っちまったし…ま、向こうで逢ったらあんたを抱いた時の話でもじっくり聞かせてもらうつもりだ。」
「もう!!!折角ちょっと…やっぱり土方さんって素敵な人なんだなって感動してたのに…」
「馬~鹿。…ほら、早くいけ。…俺もひと眠りするわ。」
「はい……土方さん…有難う御座いました。」
「おう」
「……土方さん…」
「何も言うな。じゃあな」
「……さようなら…」

 彼はこれからこの地で厳しい冬を越え、そして『幕府の終焉』を体現する一人となる。

 四郎も…否、かつてルシファだったものの残滓も、きっとはつみの目を通して彼の有志を…徳川幕府の最期を見届けていた事だろう。




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