●序章:神隠し●


 慶応元年、歳の暮れ。

 長州、下関―


 長州藩は一年半ほど前の京における政変によって、それまで粉骨砕身尽くして来た朝廷から『逆賊』とされた。それを受け、帝の軍である『官軍』として『長州討伐』を発布した幕府、その主要たる雄藩薩摩、会津、桑名藩、そして下関馬関海峡を挟んだ隣藩である小倉藩などと真正面から対立。その封建制度から脱却した事により、周辺藩からも孤立した状態にあった。

 長州の尊王精神を証明し『逆賊』の汚名をきせられた藩主の名誉を回復させるのみならず、長州すなわち萩藩とその支藩の存続そのものをかけたといってもいい薩摩藩との共闘『薩長同盟』の機運が高まる中、その同盟締結を目前にあらゆる調整が行われていた中で一番の『難関』とされていた木戸貫治(桂小五郎)の上京が、ようやく成された。木戸の説得の為に下関に来ていた坂本龍馬、桜川はつみ、そして池内蔵太も次いで上京する手筈となっていたが、薩摩の名義を借りて長州が購入した蒸気船・ユニオン号の使用条約が複雑化し対応に迫られた関係で予定よりも出立が遅れている。―が、それも明日には上京に向けて出航する見込みとなった為、下関の白石邸に宿泊していた。

 そんな中、長州にて孤高のカリスマを放つ高杉晋作こと谷潜蔵と、泰平の世の終焉にあたり各地で勃発したあらゆる戦に参加し続けてきた戦女神の恋人たる池内蔵太の二人は、白石邸よりもおよそ18町(約2km)ほど離れた入江和作邸へと向かっていた。


 高杉晋作は長州『正義派』の解放者であり、英雄だ。

長州藩内にはその藩論を左右する二つの派閥が存在していた。いわゆる『俗論派』とされる幕府恭順の思想を持つ佐幕派閥と、それに対抗する『正義派』。帝こそ天とする尊王思想の元、幕府に対抗する姿勢を持つ派閥だ。幕府に対抗するのは『長州討伐』を発布したからというだけではなく、その発端は数年前の米国ペリー提督の黒船来航時にまで遡る。

孤高のカリスマ、高杉晋作とは

 朝廷の勅許無しに『和親条約締結』、これに続き更に『修好通商条約締結』まで行ってしまった幕府。『帝および朝廷に伺いを立てる前に、一方的に締結せざるを得なかった』『既成事実を作りやり切る事しかできなかった』とも取れる幕府の外交力の弱さは、国を混迷の時代へと突入させた。特に貿易による通商とそれに絡む関税などについて定義された『修好通商条約』については、二度目の勅許無し条約締結であった事に加え、その内容の危うさから『帝ご自身が激怒し、攘夷を望んだ』という話が日本中を駆け巡った。実際に金の流出懸念やあらゆる物価の高騰などといった弊害が一般層にまで広く及ぶ様になっていった事で、更なる勢いを以て「尊王思想』に『攘夷思想』が絡み出し、しばしば『尊王攘夷派』などと言われ一括りとされる様になった。こうして『開国佐幕派』と『尊王攘夷派』が対立するかの様な形で、烈火のごとく日本中を炎上させるに至ったのだ。さらに言うとその頃幕府内では将軍継嗣問題が勃発しており、『一橋派』『紀州派』と大きく割れた派閥同志が激しくぶつかり合っていた。これもまた、開国騒動と絡んでより大きな時代のうねりとなっていく。収拾がつかなくなったと判断した当時の大老・井伊直弼による『安政の大獄』が引き起こされ、更には、幕府の大老がたった18人の脱藩浪人によって殺害されるという、前代未聞の『桜田門外の変』までもが日本全土を震撼させた。

 多くの大名やその藩士らが幕府や朝廷に意見申し立てを行う中、長州の正義派は断固として『開国問題を複雑化させ、国政を弱体化足らしめた原因は幕府にある』『幕府の朝廷に対する姿勢』に対し、あらゆる手段を用いて指摘し続けてきた。帝が『朝廷と幕府が手を取り合って事態に取り組む事を望む』とする新たな『公武合体派』が台頭し始めても、朝廷内にも佐幕派工作を行う者がいればこそ、帝の真意は『攘夷』であるはずだと慮る。『幕府および佐幕派の手から帝をお救い奉らなければならない』と信じ『例え御所に武器を向ける事になったとしても、自分達の意思や境遇について理解してもらえるはずだ』と信じて進発し、御所へ押し寄せたのが長州の『正義派』なのである。…だが、信じて行動してきたその結果が、『朝敵』とされた今なのだが…。

 こういった背景がある中で対立し続ける長州の『正義派』と『俗論派』であるが、藩政が『俗論派』に掌握されてしまった際、高杉は『正義』の元に結成された奇兵隊やその諸隊を指揮し、数で圧倒されるはずの藩正規軍を押し返して『俗論派』の失脚へと追い込んだ。それも、時世の機運によって『俗論派』が藩政に返り咲く度、2度に亘って、高杉が有志軍を率いて革命を起こしたのである。
 天草の乱以来230年近くも内戦の無かった日本において、実際の戦や戦争、それに基づき構成されていた『正規軍』といったものは既に形骸化し、先の政変『禁門の変』においては近年の西洋軍備様式を取り入れた薩摩によって長州正規軍が大敗を喫するという事態におちいってすらいた。にも関わらず、高杉の手による挙兵から制圧に至るまでの鮮やかさときたら、まさに雷電、電光石火の如く、時代の寵児、革命児などと大絶賛されているのだ。

 さらに言えば、およそ一年と半年ほど前の事。西洋四カ国艦隊が長州からの攘夷砲撃に対する報復と馬関港の解放をしかけてきた際、圧倒的な軍事力を以て制圧された長州側の代表として講和交渉に挑んだのも、彼、高杉晋作だった。『勅令』に従って攘夷戦争を起こした長州が負うべき賠償の行方、あるいは西洋人らの租界先として『西洋諸国に乗っ取られた』上海と同じ道を辿るのかをかけた、重要な講和交渉である。
 『尊王』思想であるが故に『真の攘夷』『真の進発』『ウワの攘夷』『ウワの進発』とは何かを思案し続けていた高杉は、その仲間達も含め全体を通してみた時に、同じ『正義派』の中でも少し浮いていた事は否めない。尊敬する師である吉田松陰や、海外事情を知る第一人者であった横井小楠、果ては孫子の言葉を基底に捉え、『敵を知る』という作業を徹底的に続けてきた。西洋の実態について知識を蓄え続け、実際に上海の様子も目の当たりにしていた高杉は、今こそその知識と経験を活かす時だとばかりに藩政から取り立てられての大役だったのである。何を隠そう、それまでは高杉の先見が過ぎるが為に彼の主張はなかなか取り入れられず、まさに『真の攘夷』と『ウワの攘夷』の間で周囲との微妙な摩擦に悩み苛立ち続けていた。この先10年は高杉の主張が現実となる事はないだろうと言われ、ならば10年引きこもると言い返し、自ら草案に籠る状態だったのだ。
 都合よくといえば都合よくも突然藩政に取り立てられ、状況も分からぬ中で『外国人との和解交渉』などという大役を押し付けられたにも関わらず、高杉は実に見事にこの大事な講和交渉を成し遂げて見せた。その傍らには、禁断の英国洋行(密航留学)を成し見聞を広げると同時に『尊王・開国派』へと転向した伊藤俊輔や井上門多も通訳として同席し、高杉と共にこの交渉の成功に尽力している。だが、同会議に通訳官として同席していた英国人アーネスト・サトウが、特にその時の高杉の様子を『魔王の様だった』と評したのは、有名な話である。

 しかし当然、そんな高杉も全ての長州人から擁護され称えられていた訳ではなかった。

 当然『正義派』である高杉は『俗論派』とは対立し、しかも彼らを失脚せしめた張本人であるからして、殺意を込めた恨みつらみを向けられている事は間違いない。そこから更に、西洋四カ国艦隊の国々と講和交渉が成った後、特に英国との間で『誼』を通じる様になり、秘密裏に武器の密輸が行われる様になるという因果が発生する。
 『富国強兵し、幕府の統治から一藩割拠し我らが君主自らが帝を御守奉る』
 『西洋列強には世界の学びを以て対峙し、対等かつ抜け目のない条約を取り付ける事こそが、真に日本を守る為の大攘夷である』
 この構想こそが、西洋学に通じ師・吉田松陰とも交友のあった横井小楠の著書を読み漁り、その上で日本国内でも有数の『異国を視察した者』として高杉が長年提唱していた『真の大攘夷』の姿だった。そしてその傍らには件の伊藤俊輔、井上聞多の姿もある。英国からの武器密輸はこうした富国強兵と西洋式軍備改革の一環であったが、単純な『攘夷派』からすれば『高杉一味は開国派に成り下がった』と判断される要員となってしまったのだった。

 長年の鎖国による固定観念のもと、その殻を突き破って世界の広さや強さを知る事の方が『異質』であり、そして『特別な先見の才』である事の現れだったのだ。長州内だけでなく、全ての日本人が『尊王』と『開国』をの繋がりを理解する事は、まだまだ難しい状況だったという事だ。

 現に高杉達は、四カ国艦隊講和後しばらくしてから『俗論派』と共に『攘夷派』からも命を狙われ続けた。中でも井上聞多は俗論派からの襲撃で致命的な怪我を負ったし、この事が起こった翌日には『正義派』の幹部でもあった周布政之助が自ら命を絶つといった悲劇まで起こってしまった。当然、藩政内では再び『俗論派』が急速に台頭し始める訳である。高杉や伊藤は散り散りとなって長州を抜け出し、高杉は九州へ亡命。およそ2か月後の雪降り荒ぶ師走の頃に再び彼が挙兵し、『正義派』のもとに藩政を取り戻すまでの間は逃亡生活を強いられる事態となっていた。

 そしてさらに今。『俗論派』『攘夷派』に加えて、新たにもう一つの『派閥』が高杉の命を狙っている。

 今年慶応元年3月頃、功山寺での挙兵を以て再び藩政を『正義派』のもとへと導いた高杉は、藩の許しを得て英国へ洋行するつもりで長崎に滞在していた。しかし再びの長州討伐が迫っているとの噂を耳にするとともに、それに備え、長州の富国強兵をより強固なものとする為にも下関の正式な開港貿易が急務である事を悟り、長州へ帰藩する。
 以前行われていた英国との密輸事業の時も含め、下関を開港し正式な貿易拠点とする為には、長州の『支藩』である長府藩の領地であるこの下関を『本藩』である萩藩へと換地する必要がある。この問題に関しては以前にも長府藩から大きな反対にあって難航していたのだが、別派閥の刺客に狙われる高杉が九州へ亡命した事によって一旦保留となっていた。此度は二度目の長州討伐に向けたものでもあるからして本腰を入れて換地調整に取り組んでいたのだが、長府藩の藩士達はやはり換地には大反対の意を示していた。中には煮え湯を飲まされながらも長州存続の為に下関の開港もやむなしと考えていた者達も、『下関を本藩に奪われる』となれば話が違うとばかりに殺意まで抱き始めたのだ。

 この混迷の時代にあって、長州の過激派の勢いというのは水戸や土佐に引けを取らず、時に日本の情勢を変えてしまう程に凄まじい。今にも腰の刀を抜き放ちそうな剣幕で問い詰められた今日の藩政保守派達は、まったくの文字通りに日和ってしまい
「下関の開港や換地は高杉晋作、伊藤俊輔、井上聞多らが勝手に言い出した事である」
 と、事もあろうかその問題と責任を丸投げしてしまった。

 以来、高杉達はこの『俗論派』『攘夷派』そして『下関開換地反対派(主に長府藩士)』といった多くの刺客から命を狙われる事となった。それが今年の4月頃の話であり、この時もまた、刺客に襲われた高杉は姿をくらませる為に愛人の『おうの』を伴って四国へと亡命していた程だ。

 6月。帰藩し『正義派』の指導者として返り咲いた桂小五郎の斡旋によってに帰藩した高杉であったが、あまりの刺客の多さも懸念され、藩命により『谷潜蔵』へとその名を改めた。これによって幾ばくかは周囲の殺気も紛れたが、同じ長州藩内にいる限りは顔を知る者も当然多い。谷潜蔵と高杉晋作が同一人物であると知られるのも時間の問題であり、いくら『正義派』が政権を握ったとはいえ一人で出歩くには危険であると、自他共に認識する様な状況だ。


 そして今、入江和作邸に用事のある谷(高杉)に内蔵太が伴っている。谷は先ほどまで薩長同盟の実現と見届け人として明日上京の手筈となっている坂本龍馬や桜川はつみに対し、それぞれ上海と長崎へ行った時に購入したリボルバーピストルなどを『プレゼント』をしていた。今回の同盟に内蔵太も一躍買っていると聞き、彼にも渡したいものがあると言って入江邸へ移動するのを内蔵太が付き添ったという形である。

 池内蔵太は、もう長い間、長州の思想に寄り添って長州の為に活動や戦闘を続けている豪気な青年だ。ちょうど一年前の年末年始頃も、谷がたった80人で一大雄藩長州の正規軍へ挑もうと挙兵した功山寺挙兵の際に、頭数から飛び入り参加している。―それでも、今回わざわざ彼に渡したいものがあるとする程の『誼』を築いた理由は、『桜川はつみ』を通じて育んだ友情にあった。

「さあ、これだ。なかなか良い刀だろう?」

「えっ…!こがぁなええもの…もろうていいんですろうか…?!」

 谷が差し出したのは、文久三年五月頃、彼が時世と思想との摩擦に腐って『10年暇する』と引きこもり状態にあった際、わざわざ知人の久保清太郎に代理購入を頼んでまで入手した二尺五寸の長刀だ。直後の6月頃に急遽藩政へ出仕する事となって件の奇兵隊を創立し、一時期の間、この入江和作邸を自身の拠点としていた時に、この刀も預けていた様だった。武士としての信念を強く刀に込める谷であったが、特に『長刀』に拘りを置き、蒐集癖もあった彼が、そのこだわりのひと振りを贈るというには当然根拠もあった。

「大和挙兵から攘夷砲撃、禁門、四カ国艦隊との応戦、そして功山寺挙兵。君はこの混迷たる時勢のあらゆる戦に、長州の手勢として参戦しておる。此度も長州の為に薩摩との間で駆けまわってくれておる事は聞いていたし、それに僕自身、君に守ってもらった事があったからな。」

 四国へ亡命する直前に刺客に襲われた際、そこには内蔵太も同行していた。彼のとある機転のお蔭でその時はやり過ごした事を、谷は言っている様だ。もちろん、そのときの事は内蔵太の記憶にも新しい。

「いやあ、それは長州正義派の行いこそが真の勤王じゃち思いゆうがこそですき。そいで、高杉さ…谷さんはその正義派におらにゃいかんお人ですろう。お守りするがは当然の事ぜよ。こがぁな良い刀、俺にはもったいないですき。」

 男らしく一本気で、それでいて清貧な精神で物事に対峙する内蔵太だが、『一日の計は朝にあり…』で有名な江戸の安井息軒『三計塾』で学んだ学識高い一面も持ち合わせている。故に彼には彼の明確な思案があったからこそ故郷の土佐藩を脱藩し、長州の友として様々な戦で長州の正義を成そうとしていたのだろうが、それでも、谷が坂本龍馬や桜川はつみにピストルを贈った想いと同じぐらい、内蔵太にも『死地へ赴く時に同行できない自身の代わりとして、よいものを贈呈したい』という谷自身の気持ちが収まらないのだ。

「この勤王刀が君に勿体ないかそうでないかは僕が決める事だぞ。それとも、僕の目が節穴だったと?」

 こう言ってしまえば断れないだろうと分かった上でニヤリと見上げてくる谷に、内蔵太もそれ以上拒否する理由もなかった。

「いや、有難く、頂戴致します。」

「うん。」

 身長の割に合わない長刀を引きずるように差してイキる事を好んでいた谷であったが、内蔵太が腰に差すと若干悔しいかな、長身で器量良しの彼にお気に入りの長刀はよく似合っていると自嘲の笑みが浮かんだ。

 ここで刀談議でも始めたい所だったが、内蔵太は明日の朝いちで下関から上京する船に乗らなければならない予定があった為、龍馬やはつみらが滞在している白石邸へと移動してから飲み直そうと提案する。入江和作邸を出た頃には既に夕方過ぎで、よからぬ者らが活発になる宵闇が迫る刻限であったが、ここから南下して半刻もかからない場所にある白石邸なので、日が完全に暮れてしまう前にさっさと移動してしまおうという流れとなった。


―と、しばらく進んだ所で谷が足を止め、周囲を見回した。その目は冴えた刃のように鋭く細められている。

「……妙な気配がするな。」

 内蔵太もすぐに察し、そっと手を刀の柄に添えた。人気のない通りに響く足音は不自然に重く、まるで意図的にこちらを囲むように動いている。

「数人……だが、こっちの出方を伺ってる様子だ。」

 谷が内蔵太を見上げて「行くぞ」と短く言うと、気配を欺くように一歩、また一歩とゆっくり歩き出す。そして暫く歩いてから再び視線を合わせて互いに頷き合うと、突然、一気に駆け出した。

 突然走り出した谷達を前に、隠れ潜んでいた兇徒ら2、3人がバタバタと姿を表す。
「どこへ逃げたか!異国被れの卑怯もんがぁ!」
「…ちっ…」

 遮蔽物を利用し、機転を利かせて右へ左へと路地を曲がりくねりながら南下して駆け抜ける。兇徒からは逃げおおせたものの、背後から投げかけられる「異国被れ」「卑怯者」などという心外な言葉に顔をしかめ、舌打ちする。

 別に命を惜しむ訳ではない。しかしこの命は藩主・毛利公、そして帝の御為にあるもの。ただ血気に逸るだけの『ウワの尊王攘夷』を叫ぶ者どもにくれてやる首はないのだと、谷はがむしゃらに闇夜を駆け抜けた。

 薩長同盟が成れば、長州藩主の汚名がそそがれる事は勿論、この時代の夜明けも一気に間近なものとなるだろう。

 その時、新たな世を共に見届けたい人がいる。


『高杉さんがいなければ長州が立ち行かない、そんな時が必ず来ます!』

『だから…その時まで、諦めないで下さい…!』


 『彼女』…桜川はつみからそう言われたのは、谷がまだ高杉晋作と名乗っていた3年程前の事だ。
 男装の麗人たる彼女は、その垢ぬけた容姿と奇抜な知識、浮世めいた言動にあやかって「今生かぐや姫」などとも言われていた。彼女とは多くの刻を共に過ごした訳ではなかったが、その限られた刻の中でも、お互いに『尊王思想』ながらも『先見すぎる思想』を持つが故に時代と相容れぬ者同志、妙に分かり合える様な不思議な絆が育まれていった。その中で、この印象的な言葉を二度言われている。
 そして実際、谷は『正義派』を開放するべく立ち上がり、その結果を残して来た。彼女が必死に自分を奮い立たせよう、思いとどまらせようとしていたこの言葉は、まるで、こうなる事が分かっていたかの様な赴きすら感じられた。
 一度目に言われた時は喧嘩の途中であった事もあり、ただの売り言葉に買い言葉、己を落ち着かせようとする為のそれっぽい『ウワ』の言葉だろうと深く受け止めていなかった。しかし、二度目にそれを聞いてからは、ただの『ウワ』の発言ではない、彼女の本心なのだと受け入れるに至った。それ以来、この言葉は孤高に時勢を行く谷の心を支える言葉であり指標となった。激しく二転三転する時勢の中で、谷の心が深く荒んだり迷いを得た時ほど、希望を与え続ける心の支えとなっていたのだ。

 きっと他の誰が同じ事を言っても、ここまで胸に刺さる事はなかったはずだ。『彼女』と谷との間には、でまかせや世辞などではなく『その言葉が真実となる日が必ず訪れる』と思わせる程の、運命的な何かが確かにあったのだと、今は漠然とそう考えている。

 故に、共に新たな世を切り拓いた時にこそ、もう一度伝えたいのだ。


 君の言葉にいつも支えられていた。
 感謝している。

そして


 君の言葉は真に成った。

  ―君は、『かぐや姫』だったのか?


…と。



「…フン。我ながら女々しいのぉ」
 刺客に追われ命の危険を目の当たりにして思い出すのが『片想いの女』だとは。谷はまた一人、鼻をならして自嘲した。追手の気配は遠くにしか感じないが、これから仲間達と合流するつもりだった白石邸は勿論、この下関で自分が行きそうな場所は一通り抑えられているだろう。不本意ながらも一気に走り抜けて来たせいか妙に息が上がってしまった様なので、今度は気配も足音も消し、引き続き周囲を気にしながら暗がりを歩き始めた。

「高杉さ…あ、谷さん。こっちぜよ…!」
 逃走する内にはぐれたと思っていた内蔵太の声が聞こえる。辺りを警戒しながら駆け寄ると、物陰に隠れた内蔵太もまた、周囲を見回しながら顔を出して手招きをしていた。月明りだけが互いを確認できる光源だったが、逆に追っ手からも闇によって守られている部分は大きいだろう。素早く合流し、自分よりも頭一つ背の高い内蔵太を見上げる。
「まだ生きておったか、しぶといな」
「ははは!何べん戦場に出ても死な…んごごっ」
 内蔵太が声高に笑うので慌てて口元を押さえ付け、改めて周囲の音に集中する。不自然な物音は聞こえず、どうやらまだ気付かれていない様で一安心ではあったが、内蔵太の腹に一発肘を入れて注意を促した。だが流石は、『戦女神の恋人』などと言われる事もある内蔵太である。徳川3代目将軍家光公の代にあった『天草の乱』以来大々的な内紛もなく『平和ボケ』にあった天下において、開国以来混乱を極めた時世として歴史に残るであろう戦禍にほぼ全て馳せ参じているだけあってか、物怖じせず堂々としたものだった。


 2人はまるで引き寄せられるかの様に、近くに設置された井戸へと駆け寄り、蓋を押し開けて中を覗き込む。
「一か八か、夜明けまでここで身を隠すか…明日朝には君は出航せねばならんからそう遠くへは行けぬし、今白石邸周辺には刺客が張り込んでおるだろうからな」
「妙にこの井戸との縁がありますのぉ」
 というのも、今年の3月に遭難した時も二人でこの井戸に飛び込んで隠れ、刺客をやり過ごしたという事があったのだ。その時に、時勢の事のみならず女事やはつみの事に至るまで沢山の事を腹を割って話し合った事で、二人は『誼』を結ぶ仲にまでなったと言っていい。だが3月の井戸という事もあって強烈に寒かった事を思えば、12月の今ここに飛び込む事で一体どうなる事やら…。ボヤキにも似た内蔵太の言葉に高杉も同じ事を思っていた様で、『しょーもない事だ』と笑ってみせた。

「僕も君もこんなところで出遅れる訳にはいかんだろう」

「勿論、何処へでもご一緒しますき。見張っちょりますき、先にお入りください」

「うん」

 そう言ったが最期、谷は躊躇いなく井戸へと飛び込んだ。飛び込むのは2度目であったし深度や水位も含め良く知っている井戸のはずだったが、飛び入った体はどういう訳か、どんどん深部へと吸い込まれていく。

『あっ』と思った、次の瞬間。



 気が付けば、見知らぬ場所に立っていた。





※この物語は史実を基に脚色を施した創作物です※
※実際の団体・組織・人物とは一切関係ありません※