―表紙― 登場人物 物語 絵画

~アイテム年表~

※がっつりネタバレを含む形で、ところどころ長文になっています。
未完成・添削中の為、既出の小説や設定資料等と内容に相違がある場合があります。



・桜清丸(ルシファ、ルシ)
 椿と月の園(幽世)で出会ったルシファから贈られた刀。
 桜のはなびらが流れる川(三途の川)から取り出されており、人知を超えた奇跡の結晶として生者の運命・定めを断ち切る(解き放つ)力がある。刀が秘める奇跡の力は神気として感じられる事があり、中には、刀身に映し出された水面にたゆたう桜模様(三途の川)を見る事ができたり、あるいはその波動を熱として感じる人もいる。
(龍馬、寅之進、はつみを救うために桜清丸を握った以蔵や、死の直前の沖田など)。
 具体的に知覚できない人々にも、『桜吹雪の最中にある様な趣を覚える』といった錯覚として感じられる事がある。
詳細
 ルシファは「桜清丸を手放さないで」と言っていたが、それは持ち手(主)であるはつみを時代に定着させる役割も担っている為であった。しかし土佐に降臨したはつみが最初の詮議を受ける際には、当然ながら桜清丸を没収されてしまう。そのせいもあって、はつみ本人に自覚はなくともこの時代(時空)に馴染む事ができず心身をむしばみ、文字通り「消滅」しかけてしまう。最終的には大病を患った訳でもないのに起き上がれない程になってしまった。
 医者からは疲れが溜まった、心の病等と診断されたが、実は時空定着できない心身の拒絶反応だった。

 はつみを詮議から解放したのは、それまで何となく無気力に過ごしていた龍馬がはつみを受け入れる様権平を説得した事に加え、乾の動きが大きかった。丁度謹慎明けであった乾は巷で噂になっていた「かぐや姫」とやらを一早く見に行き、持て余すその行動力を以て、当時城下外れの屋敷で軟禁状態にあったはつみと面会した。
 色々あって(詳細はSS『桜降る』にて)坂本龍馬と結託してはつみ解放へと動く事になり、まずははつみの『ただ一つの所有物』であった桜清丸の出所を明確にするところから取り掛かる事となった。
(当然ながら、乾と龍馬が知り会ったというこの時点ですでに歴史改変が起こっている。はつみと桜清丸の存続に深く関わるところとなり、その様に切り拓かれた。)

 乾は下士である龍馬に護衛を命じ、佐賀藩へ向かう。
 刀鍛冶八代肥前忠吉に直接確認を取った要の報告によれば、桜清丸は間違いなく肥前忠吉であり、中でも「古刀」と言われる江戸幕府創設の時代の手法によって鍛えられた大業物であった。しかし代々伝わる台帳には極めて意味深にその存在がぼかされており、鞘を外部発注していたという些細な情報をたどって『柳下』なる大工の家に辿り着いた。そこでは兼ねてより「代々伝わる設計図だが何なのか分からない」と伝わっていた鞘らしきものの設計図が見つかる。概ね桜清丸の鞘と合致する設計図で、これには『此、神仏の縁者に奉納し奉る』という一文が書き記されていた。
 実はこれは生前のルシファ、つまり天草四郎が最期に所持していた刀であり、柳下はもともと反キリシタン派だった龍造寺の元から抜けてきた隠れキリシタンの職人であった。当時の初代肥前忠吉も少年時代は橋本という龍造寺の家臣(少弐氏)の子であり、幼い二人に関わりがあった推測できる。橋本が京にて厳しい修行を経た後に佐賀藩に戻り藩工として取り立てられた頃、柳下が昔の誼で作成を依頼した。藩工としての取り立てが決まっていた橋本は政治的思想と接するには細心の注意が必要だとは思っていたが、友として彼の信仰を否定したくはなく、依頼を受けた。銘こそ打って入れたものの「仕事として」の台帳には記さなかったという事か。
 一方、自ら鞘の制作を担当した柳下の方はキリシタンとして並々ならぬ思いと願いを込めており、設計図にあのような文言を入れていた。鞘に彫られた椿柄は設計図にも丁寧に書き込まれており、何か意図して椿が彫られたものとも考えられた。
(赤椿には『わが運命は君の掌中にあり』といった意味が込められている。)

 乾はここまでを調べ上げ、土佐へ戻ってこれを藩庁に提出した。
「記憶喪失」であるはつみが持つ『肥前忠吉』が現肥前忠吉も認める「奇特な大業物」であり盗難歴もない事。
坂本家当主である権平がその私財を以てはつみを迎え入れる事を表明している事。
これらを受けてようやくはつみは解放され、桜清丸も彼女の手に戻っていったのだった。
(そしてその後はつみは桜清丸を手放した副作用により寝込むが、その回復までの経緯もSS『桜降る』にて)


 桜清丸の物語には以下の様な、人智には及ばぬ続きが存在する。
 刀は巡りめぐって四郎のもとへと辿りつき、物資もない籠城戦の末に数で圧倒され凄まじく酷い闘いであった島原の乱(原城籠城)を四郎と共に経験している。神を信じたもう信者達はその信仰の為に迫害されここまで来たが、神の救いの御手はもたらされず殺戮の限りを尽くされ、想像を絶する恐怖や痛みの中で死んでいった。これも神が与え史試練なのだと心身を委ねた者もいるだろうが、微塵とも絶望を感じなかった者が果たしてどれだけいるだろうか。
 四郎は、殺戮の限りを尽くす徳川幕府の大群を目に焼き付けていた。神の寵愛を受けた自分を皆が崇め、守り、信じ、期待ながら殺されてゆく。神で尽くす身であっても怒りや絶望を堪える事などで出来なかった。
 やがて四郎も人々が死にゆく中で同じ様に死に、『天草四郎』という担ぎ上げられた少年の首級を求めて、死んだ少年の多くがその首を駆られるのと同じ様に四郎も首を取られた。彼の刀は多くのキリシタン達の血に浸され、死体に埋もれ、いつしか失われた。

 …そうやって死んでいった四郎や隠れキリシタン達の様々な祈りや感情のエネルギー(神に救われたかった。教えの通り隣人(幕府)をも愛したかった。もっと良い人生を、別の人生を送りたかった。もっと愛されたかった、愛したかった。もっと華やかに暮らしたかった、静かに暮らしたかった等々といった様々な願い)が、かの月と椿の園に満ちる『月』として現れ、満月となるにつれてそのエネルギーも積もり募っていった。そして月からもたらされる光が、魂の本流たる三途の川に降り注いでいく。桜清丸は四郎の奇跡のもと時空を超えて三途の川から取り出されており、だから桜清丸には彼らの願い『運命を変える力=解き放つ力』が辿り、三途の川が刀身に映るのである。

 『刀身にたゆたう水面に浮かぶ桜の花びら』これを見る事ができる人というのは、はつみを介し何らかの形で桜清丸の奇跡を体験した(体験する)波長を持つ人である。
 また、この刀に何らかの奇跡が宿っているという事ははつみやルシファもなんとなくは自覚しているが、具体的に人の運命を変える力を持つという事は誰も気付いていない。当然桜清丸の神気の源がなんなのかさえも知らない。ただし、持ち手であり主であるはつみだけは、永福寺事件の際に様々な状況から『歴史を変える力があるのかも』と察するに至った。だがその歴史を変えるかも知れないという力をどうやって桜清丸から引き出すのかについては、まさに『神のみぞ知る』領域であった。
 結果、はつみは「救いたい」と思った所で自由自在に歴史を変えられる訳ではない事を、取り返しのつかない『残酷な史実』を迎える事によって痛感する事になる。
(厳密には、例えば武市の『思考を変える事はできた』が『死ぬ定めは変えられなかった』という事。これは時の旅人として選定されたはつみと関わった人、はつみの存在を見聞きした人全てに桜清丸の力が少なからず作用しているとも言える。
 →人の魂の定めを一本の強固な糸の様に考え、椿と月の園に流れる三途の川が沸き起こる源流「死者の泉」に向かって無数に打ち込まれているというイメージ。定めを全うした人の糸は自然に朽ちて、源流に招かれる様にして落ちるとそのまま溶け込み、何者でもない無垢な魂として洗われる様三途の川へと流れていく。これに対し、はつみと桜清丸によって運命を解き放たれた人の糸はプッツリと断ち切られ、切り落とされ使者の泉へと溶けて行った以外の糸は宙ぶらりんとなっているイメージ。その後自然に朽ちてゆき使者の泉へと招かれ落ちる訳だが、その経緯は断ち切られる前の定めの形とは大きく異なる。
 定めの糸を断ち斬られた人の運命は、斬られた部分から『本人自ら作り出していく』という事であった。時の旅人として選定されたはつみと同じで、その『定め』はどの次元、どの神からも記されていない、という事。そしてはつみと出会った人の糸には少なからず変化が表れており、寅之進の様に明確に定めを断ち切られ新たに解放された人生を得るものもいれば、町ではつみとすれ違っただけの者の糸には小さな小さな染みが一つついただけだったり。
 武市や内蔵太、沖田の様に小さくも無数の振動や傷、時には熱に充てられて糸自体が脆くなり、ほつれ、解放の一歩手前にまで迫る者など様々である。糸に現れた変化が多いほど、良くも悪くもはつみの影響を多く受けている。)

 この桜清丸とルシファ、そしてはつみの『道筋無き魂』が彩る物語が、この『かぐやの君』へと集結する。

※天草四郎に絡みキリスト教(カトリック教会)の神話観でどっぷり。ここでの『神』とはデウスを、『悪魔』は堕天使長ルシファーであり憤怒の王サタンを指す。

※椿
 作中に現れる椿には『我が運命は君の掌中にあり』といったメッセージが込められており、柳下からデウスへ対して、四郎からデウスへ対して、ルシファからはつみへ対して、月に込められた祈りからはつみに対して、龍馬からはつみに対して、武市からはつみに対して…などなど様々な視点での意味がある。
(大昔に作ったかぐやの君イメージ動画でもがっつり椿に触れている)


・ルシ(ルシファ)
 珍しい白羽のハヤブサ。赤と青のオッドアイをしており、ロザリオをかけている。ルシファの仮の姿。
 幽世からはつみを追いかけて土佐へ来て以来一度きり姿を表しただけのルシファであったが、桜清丸を取り上げられたはつみが消えかけるのと同様に存在する力を失いつつあった。最後の力を振り絞り、ハヤブサの姿となって龍馬に願いを託し、彼が向かう龍河洞へと導く。
詳細
 生前四郎は白い鳩を操る奇跡をみせた事があるが、ハヤブサは様々な宗教で「指標」「導くもの」
 「太陽と使者の連絡係」などとも言われ、キリスト教ではかつてイエスの現世での姿の表現とされた。

 はつみが回復した後は常に彼女の側に佇み、周囲を旋回し、時には単独で移動して翼があるもの独特の役割を果たした。(はつみの護衛、文を運ぶなど)
 沖田がはつみに贈った鳥笛の音色は波長に合うのか聞き取りやすいらしく、ルシ(ルシファ)がとある事情から狂乱状態に陥る慶応2年頃までは100発100中で姿を現してくれた。

 はつみの生命の危機に瀕する有事の際には精神的(霊的)支柱として様々な『奇跡』を見せている。
(主に、安政6年トリップ直後、元治元年襲撃事件時、慶応元年武市処刑後、慶応三年いろは丸沈没事故時など)
 時折、ルシファの姿でうろついてたり、白鳩と戯れていたり歌(讃美歌)を歌ってたりする。物語の冒頭で桜清丸によって『定めの糸』を解放された寅之進だけは、時折ルシファの姿を見る事もあった。(しかしルシファとルシが同じ精神体であるという所までは気付いてはいない。)

 また、外国人など、カトリック・プロテスタント関係なくキリスト教を信仰する者には好意的。

 はつみが初めて長崎に入った慶応元年あたりから姿を見せない事が多々あるが、それは故郷に近しい土地で彼の記憶を呼び起こすシーンが多く、はつみのそばを離れ、デジャヴュを求め赴くがままに辺りを飛び回っているからである。その中で恐らく、天草まで飛んで行ったりもしている。

 慶応3年3月頃(1867年4月イースター)に現れたルシファは不穏な雰囲気に満ち、ルシの姿としてはつみの前に現れる事も少なくなっていた為『一体どうしたの?』とはつみに言わしめる程冷たく不機嫌であったが、同年4月24日に瀬戸内海域で『いろは丸沈没事件』が発生した際にはルシの姿で現場上空に現れ、衝撃で海に投げ出されたはつみとそれを追って海へ飛び込んだ龍馬を『奇跡』を以て救っている。(SS『いろは丸沈没事件・ルシの奇跡』)

 続く慶応3年6月13日。長崎で『浦上四番崩れ』が発生した際、ルシはどこからともなく現れキリスト信徒ら68名を捉えた幕吏達を急襲し文字通りの『血祭』にあげている。しかしその際、白く美しかった体躯は幕府の人間の返り血を浴びてか赤黒くなり異常なモヤの様なものを発していた。両目は真っ赤な眼光を放ち、その鳴き声は耳の奥をつんざく程するどかった。天高く飛び舞い上がった後に猛烈な勢いで襲撃を繰り出してくるので、幕吏達の回顧によると「黒霧に赤々と眼光鋭く、つむじ風の如く急襲すると同時に鋭利な嘴と強靭な足爪で肉を割き、骨を折り、目玉を抉られる者もいた」と記されている。
 以後、『赤眼の黒鳥』による天誅はあちこちで噂される様になり、はつみがその噂を聞き疑惑を抱いたのはイカルス号事件の対応で長崎を再訪した慶応3年9月頃の事であった。(同年6月頃の龍馬は土佐後藤象二郎と共に大政奉還案とその為の船中八策を練り上げる為京に滞在しており、はつみも同行していた為。)

 慶応3年10月14日、大政奉還。徳川幕府が政権返上を奏上し、天皇が勅許したためこれが成立した。この頃、徳川への怒り故に覚醒しつつあったルシファ(ルシ)は『武力による完膚無き討幕』を望んでおり大政奉還を良しとせず、龍馬を暗殺せしめた。同時期後藤象二郎も襲撃している。
 はつみはかの有名な龍馬・中岡暗殺事件が11月15日・近江屋であるという事を知っていた為、大政奉還の後は無理矢理彼を連れて京を離れた。しかしおよそ一月半が経過した12月に『大政奉還のその後が気になる』という事で結局京へ戻ってきてしまう。やはり藩邸には入りたがらない龍馬を近江屋ではなく京白蓮に滞在させ、目立たない様にしつつも警備を増やし最大限に警戒をしていた。しかし、長崎で聞いた赤眼の黒鳥の目撃情報がここ京でも報告されており、ルシ(ルシファ)の正体について思う所のあったはつみは嫌な予感を拭えずにいた。
その予感は的中し、刺客は12月5日日の夜、京白蓮に直接現れたのだった。その時はつみが見た刺客は、全員が赤い目をしたルシファの顔であった。暗殺襲撃の経緯は史実とは違い、龍馬は軽傷であったが敵を追いかけて外へ飛び出した所で『黒鳥』に襲われ、川に転落した。現場検証した土佐藩、薩摩藩、見廻組、新選組の報告では、遺体は見つかっていない。
(詳細は龍馬年表等の『坂本龍馬暗殺経緯』にて)

 慶応4年3月、勝海舟と西郷吉之助による無血開城が成立した日の夜には、アーネスト・サトウと共にいたはつみを襲撃している。この時サトウにまで気概が加わりそうだった事もあり、はつみが桜清丸を以てルシを撃退した為、桜清丸を生み出したルシ(ルシファ)自身が、その魂に課せられた『楔(糸ではない)』を解き放たれる事となった。

 明治元年=慶応四年イースター。「己の望み」つまり「憎き徳川幕府の終焉(大政奉還)」を見届けたルシファが『憤怒の化身』として降臨する。(ルシファの中で均衡を保っていた救いの御手(神の寵愛)と破壊の御手(悪魔の誘惑)がバランスを崩壊させ、破壊の御手、怒りの力に満たされてしまった事が原因)

 『ルシファ』は信仰を取り戻し、神の寵愛によってサタンから解放され『器』としての役割を終えた。
 天草四郎として再臨した彼は、時空の旅人として見事に四郎の魂を導いたはつみに対し心からの感謝を示した。そして桜清丸の秘密、はつみが幕末に来た理由を打ち明ける。
 そしてはつみは時の旅人としての選定を受けた事によって、三途の川に繋がる運命の糸そのものがすでに消滅していた。全ての流れから解放されたはつみの魂は月と椿の園という幽世の住人として、ルシファと同じ様に引き寄せられて存在していた状態。月の住人=かぐや姫)
 はつみは運命の糸という『命綱』もなく時空(幕末)に放り出された形となったので、彼女の存在は極めて不安定かつ異質を極め、神秘的なのであった。使者の泉から沸き流れる三途の川から作られた桜清丸が必須であり、更には土佐に降臨した18の頃から歳を取る気配がなく、ヒトとして子を宿す機能もないとう様々な事情はこの為だった。
 降臨した時代(幕末土佐)の気が凝縮された鍾乳洞の湧き水や、この時代に生きるヒトから直接受けた熱(求められる強い想いを受けた唾液や精液等)は、はつみが直接取り入れる事によって彼女の異質な魂を『現実』に馴染ませるという桜清丸の代役とも言える枠割を担っていた。

 このイースターに復活した四郎は神と繋がり、四郎を通して神から『奇跡』という褒美を与えられる事となる。
 何を望むかと問われ『元の現実への帰還』『愛しい者の生還』『この世界における富と名声』など様々に自由な選択肢が与えられる。
(かつてアドベンチャーノベルゲーム風夢小説として開発していたかぐやの君では、大団円フラグが立っている時のみ『何も望まない』という選択肢が選べる仕様(エターナルエンドw)を考えていた。これによりはつみ自身が神の寵愛を受ける事となり、その魂が四郎と同等に神格化される(かぐや姫となる)という最大級の祝福を受ける。彼女の人生は幸福と冒険に満ちたものとなり、その魂は朽ちる事なく時の旅人として時空を旅し、どこにいても桜清丸と共に在り、神の祝福を受け続けるというもの。桜清丸が共に在り続けるという事は、彼女が望む世界・パラレルワールドが生まれ続けるという事でもある。そして三國無双EDITや様々なキャラクリ系ゲームや夢小説の『女主人公』として活躍するという訳である・笑)

 当作品においてはつみが望んだ事は『坂本龍馬の冥福』であった。史実からの脱却を目指したもののやはり暗殺されてしまった龍馬であったが、『川に落ちた』その遺体は今になっても見つかる事はなく、その後行われたという中岡の葬儀にも龍馬の遺体はないままであった。その龍馬の冥福をと願ったのだが、四郎は少し思案する仕草を見せた後『かの者の幸福を願う、という事ですね?』と尋ね、はつみは頷いて見せるのだった。
 この会話は、四郎には龍馬がまだ生きているという事が見えていたが為に、『冥福』ではなく『幸福』を願うのだという事をはつみに確認する為に行われたものであった。

 願いを受けた四郎ははつみから桜清丸を受け取り、輝く桜の花びらを溢れさせながら光り出したそれをゆっくりと自分の胸に突き刺して体内に収める。そして彼はにこりと微笑んではつみに近付き、優しく手に触れて「有難う」と言うと光を纏いながら上昇してゆく。月の真下に見えた所でかつてはつみと長い旅路(日々)を共に過ごした白いハヤブサの『ルシ』へと姿を変貌させ、光り輝く流れ星の様に軌跡を引きながら西の空へと飛び去っていったのだった。

 はつみの元から桜清丸が失われたが、その日の内に、この幕末へ降臨して以来何年も途絶えていた『月経』が起こった。
それ以外に何か体に異変は見られなかったが、『完全にこの時代のヒトになったのだろう』とはつみは考えた。つまり今日この日から、はつみはまた普通の人の様に歳を取り、そして子を成す事が出来る様になったという事である。

 この時、はつみには秘匿された状態で鹿児島・梅屋敷とされた家屋に幽閉されていた坂本龍馬の『定めの糸』が断ち切られた。長年にわたるはつみによる干渉などにより彼は既にその暗殺される運命を乗り越えて生き延びていたのだが、頭部の傷が中々癒えぬ事に加え、『糸』を断ち切って運命を乗り越えたにも関わらずその魂の寄る辺がない状態であった。
 それは、かつてはつみが桜清丸を手放した事で次元に馴染むことができず、心身の不調を伴って徐々に消滅していった時と同じ状況なのである。
 死の淵を彷徨う様に横になっているだけの龍馬は、庭先にうっすらと光る『ルシ』が現れた事に気付いた。彼によってもたらされる奇跡を、龍馬はすでに一度目の当たりにしている。(SS『いろは丸沈没事件・ルシの奇跡』)
 久しいのう…今日は何をしに来たぜよ
 わしが殺されず死にかけちゅうその意味を、おんしは知っちゅうがかえ
 それとも、お迎えに来たがか…わしをどこへ連れて行くつもりぜよ…
 ルシは何も言わず、しかしよく見れば彼の色違いだった両目は美しく色鮮やかな翡翠色に変貌していた。はつみが何かを成し遂げたのか…何となくそれを察した時、ルシの体から光り輝く桜の花びらが溢れ、ゆっくりと龍馬の方へと流れて行った。次第に周りが見えなくなるほど大群となって周囲を包み込み、龍馬は思わず起き上がると茫然とその状況を享受していた。それはかつて海の底へ沈みゆくはつみを抱きながら桜清丸を握りしめた時に経験した、同じ『奇跡の渦』であった。
 息をするのも躊躇ってしまう程大量の輝く花びらの大群であったが、同時に心地よくもある。しかしハッと気が付くと朝もやが差し込む日光に触れて一気に晴れ渡るかの様に光の渦は消え失せ、茫然と座る自らの手元には見慣れた刀がひと振り握らされていた。
「…桜清丸…」
 再度ハッとして庭先へと視線をやるが、ルシの姿もなくなっていた。まるで見計らったかの様に、白い羽が一本ふわりと宙を舞い、龍馬が見届ける中ふわふわと待って静かに、そして確かに地面へと落ちた。

 以降。ルシ(ルシファ)は英霊として見守っているのか、寅之進が伝記執筆の取材で土佐へ行った暁にはつみの正体を悟った際、その背中を押すように姿をみせている。土佐へ戻りはりまや橋近くで甘味所を構えた以蔵のところにも、しばらく薩摩にて療養と軟禁され、長崎と鹿児島の往復だけが許された状態でいた龍馬のところにも、姿をみせている。

 後に、横濱のはつみの屋敷敷地に建てられた「天桜神社」にて祀られ、総司の鳥笛と共に祀られた。
 櫻清大学開校の折には『全ての人へ示される慈愛の精神と知性』の象徴として白いハヤブサが用いられ、多くの学生たちを導くシンボルとなった。


・天狗の飲み水(龍馬、ルシ)
 天然の鍾乳洞である龍河洞の奥には綺麗な湧水が沸いており、地元民からは天狗の飲み水として病魔退散等のご利益があるとされていた。実際成分的には当時の人々には不足がちだったミネラルが豊富で、飲み続ければ貧血や脚気などへの効果もある程度は期待できたと思われる。ただしこの湧き水の場所までの道のりは険しく、洞窟内では滑って鍾乳洞のとっきに刺さり死亡に至るなどといった危険も大きい為に「天狗の飲み水」などと言われる様になった。
詳細
 トリップ直後、身元詮議明けのはつみが大弱りして寝込んだ際、龍馬がこの天狗の飲み水を取りに行くとして城下を飛び出した。遠い地にある龍河洞の奥を更に探索し、無事はつみの元へと至る。その旅の道中には、まるで龍馬を見守り導く様に白いハヤブサが随行していた。彼らの期待通り、天狗の飲み水の効果は手に取る様にわかりやすくはつみを回復させたのだった。

 この湧き水は、ある日土佐に降り注いだ水が非常に長年年月をかけてろ過され、同じく非常に長い年月をかけて育まれた鍾乳洞の先端に落ちてきた水であり、土地の気に満ちている。生きとし生けるもの全てに定められた運命、人生を象る『運命の糸』から解放された時の旅人であるはつみは、この時代にやってきた直後に『必須道具』たる桜清丸を奪われた事により、この時空に留まる為の「止まり木」を失っていた状態だった。そこへ偶然もたらされたこの天狗の飲み水を飲む事で土佐(この世)の気を十分に取り入れる事となり、その不安定な魂をこの世に留まらせる媒体となり得たのだった。(もちろん幕末の人たちは、天狗の飲み水の言い伝えによる効能のおかげであると思っている。)
(SS『桜降る』)

 この『天狗の飲み水』の様に、この世において同じ様な効力を発揮するものは他にも存在する。自然界でいえば、例えばかつて海だった土地から出土された岩塩などを食した場合でも同じ様な効力を得られるかも知れない。
 この時代に生きるヒトの強い精神力を添えられた体液(唾液や精液)などを直接摂取した場合も同様に、『この世に引き止める力』がある。家畜などは『精神』が雇っていない為、その血肉を食したとしても『この次元に留めようとする』効果は得られない。

 桜清丸によって『糸』を断ち切られた者達ははつみの様な『時の旅人』になった訳ではないが、その『糸』の半分が解放さ、宙ぶらりんになった状態である。解放後、彼らも一度放たれた魂が再び馴染むまでの間、桜清丸やそれに準ずる何かによるケアが無ければ『本来存在し得ないこの次元に留まる事はできなかった』。つまり、宙ぶらりんとなって残された糸が消滅する=はつみと同じく完全に時空の間に存在する者となるが、彼らにはそれに耐えうる素質はないという訳である。
 解放された彼らの魂が『寄る辺』となった『桜清丸に代わるもの』は以下の通りである。

 ・寅之進…文久元年はつみによってその『糸』が断たれた。解放後すぐにはつみ(桜清丸)に付き従う事で、
  十分な間、桜清丸からの神気を得る事ができた。
 ・以蔵…武市や以蔵本人の投獄後の顛末を知っていたはつみによって、その言動や自立精神が改善される。
  そして文久3年にはつみを巡って田中新兵衛と対峙した際、自ら桜清丸を振るった事で彼の『糸』が断たれた。
  解放後少しの間はつみ(桜清丸)の傍にいたが、お道の所へ移動した後は彼女と交わり、尚且つ以蔵の糸が解放
  された後でお道に宿った子と知らぬうちにも共鳴しあう事で、この時代の気を得、循環させる事ができた。
 ・龍馬…非常に長い間、はつみ、寅之進がそばに居た事で少しずつ『糸』がほつれ、はつみが龍馬暗殺を意図して
  回避する行動をとった事で最終的に『糸』が断たれた。
  ルシが桜清丸を持って現れ、その神気を得て寄る辺となった。四郎が覚醒した事により桜清丸も覚醒していたが
  龍馬に神気を与えきった事で、桜清丸はその時に役目を終えた。


・髪型
 トリップ直後、坂本家に匿われた当初は武家娘の格好をさせられている。髪の毛の長さも足りないながらにまとめあげ、軟禁中や寝込み中は髪をおろすといったスタイルだった。
 復帰後はいわゆる男装を希望し、髷代わりとしてポニーテールをしたが、もとの髪型にレイヤーが入っていた為に茶筅髷の様になった。ファッション感覚で色々試した結果、後れ毛を残すことで満足した模様。以来、これがはつみの定番となった。(髪の毛はちょくちょく己で切っていた模様)
詳細
 文久3年、武市が投獄されてから処刑(慶応元年)までの前後では髪を切る余裕も無く、伸び放題となっていた。処刑後しばらく塞ぎ込んでいたが復活する時に毛先を切りそろえ、同じく後ろ髪を残したポニーテールの髪型となる。(この時以前とは違い、前髪以外の毛先が切りそろっている。)

 慶応4年、横濱領事館勤務となった際にはポニーテールをやめ、後ろ髪を緩く編み込み新時代の装いを目指した。
 編み込みに黒いリボンを織り交ぜており、彼女らしい華やかさ演出している。 


・衣類
 はつみの感覚では『ファッション』。幕末の一般感覚から見るとかなり派手な趣だが本人には殆ど自覚がない。
 男装を希望するが『男装』しているという感覚も殆どなく、単純に動きやすいから袴、である。年頃の女子らしく何かしら『おしゃれ』を求める所もあり、その為はつみの好みにあった既製品の着物はなかなか見つからず、彼女が着用している鮮やかな紫の袖口が開いた着物や白袴の裾に薄桃の染めが入ったものは、自らがデザインをし坂本家の人たちの協力を得て作成した特注品(あるいは既製品を大胆に改良したもの)である。
各拠点にいる時は基本的に衣類を毎日取り換え清潔を保つ。この時の着物は定番のものに限らず、その時々にある既製品を着る事も勿論ある。既製品の着物や反物を購入する際には、大柄の花柄などが入っているものを好む。(派手of派手)


・白袴
 はつみといえば…とトレードマークとも言えたハデな袴。後に亀山社中(海援隊)の隊服のモデルとなった。


・衣類や小物(ここでははつみの手作りのものを指す)
 現代的な感覚で、無いと不便、あると便利といったものはとりあえず何かしら制作を試みている。
詳細
 まずは簡易下着(スポブラ&ショーツ風)やボタン式のシャツの制作を試みたが、小学校の家庭科授業以来の裁縫だった為要領を得ず、坂本家の栄や伊予と一緒に試行錯誤して作成した。(伊予や栄、そして乙女ははつみが現代服で倒れていた所から世話をしているので、はつみが想像している『下着』などを一応見た事があった。尚はつみの現代用品は当時既に結核を患っていた栄がはつみに何かを見出し(後の高杉と同じ現象で、何かを察した)彼女を守るためにあえて隠した。)
 これらの経験からある程度裁縫の要領を得たはつみは、龍馬からリクエストのあったシャツ、続けて寅之進のポンチョなどにも挑戦。試行錯誤の末、既製品の様な強度はないがリュックなども作り出したりした。構造的にリュックよりも難易度の低そうなトートバッグやショルダーバッグの様なものも勿論作ってみたが、これは腰に差した刀との折り合いが悪く、使用を断念したものなどもある。龍馬や寅之進以外で言うと、陸奥からもシャツのリクエストがあった。(陸奥にはふざけて「お前派手すぎんだよ」とイチャモンをつけられた反物で柄シャツを作った事もw)他にも思いついたものを積極的に作っている。


・甘いもの(和菓子、洋菓子なんでも)
 元来チョコレートやミルクティが大好きな甘党だった。饅頭(近藤長次郎の家)を始め甘味処には必ず立ち寄ったりチェックをしたし、万延元年に龍馬と長崎へ行った際には洋菓子や紅茶に感激し、なつかしさも相まってか涙ぐんでいる。日持ちするし持ち運びやすい金平糖などは、紙に包んだものを専用の巾着に入れて持ち歩いている。
詳細
 この菓子袋は常時更新(作り変え)しているが、とあるタイミングで中の金平糖ごと内蔵太に手渡している。彼はそれに金平糖と紙に包んだ六文銭を入れ、首からかけて最期の時まで持ち歩いた。
 はつみは立ち寄った市や店では常にお菓子の材料になりそうなものを物色しており、材料が揃えばクッキーやパンケーキなどの焼き菓子やジャム作り、プリン作りなど率先して行った。ドライフルーツにも挑戦している(ただの干し柿というオチ)。実は甘党の武市もはつみのプリンを食べ内心感激している。
 土佐時代や海軍塾時代、療養期間中など、拠点に比較的長く滞在する際にはよく菓子作りを行った。噂を聞いてリクエストしてきたアーネスト・サトウに振る舞った際には、故郷を思い出したのか感動のあまり落涙している。(ちなみに紅茶まで持参して楽しみにしていた模様wカフェでも開いてみてはどうか等と本気で勧めてくる)


・『Essential British English』(英辞典)上下巻と、素養としての英語力
 安政6年初夏、龍馬の親戚である仁井田の廻船問屋、通称『よーろっぱ』の伊三郎から寄贈された。当時非常に貴重な英語辞書であったが、はつみのずば抜けた海外知識や見解に度肝を抜かれ、その才を伸ばすきっかけとなればとの事で譲ってくれた。
詳細
 この時、はつみの感覚で言うとおよそ半年前は大学センター、二か月前は大学受験の真っ只中にあった。学力的な数値で言えば一番洗練されていた頃であるともいえるが、特に英語などは使わなければどんどん忘れ廃れていくものだという事は身を以て分かっていた。義務教育で習っていたのはアメリカ英語であり手元にあるのは露骨にイギリス英語の辞書であったが、開国明治へと連なっていく幕末において英語力というのは必ず役立つものだとは分かっていたし、この際なのでイギリス英語も独学でできるところまで納めようと、例文読解や模写など限りある教材の中でできる事を続ける事にした。
(SS『Open the world』)


・はつみ塾と英語教材。地道な研鑽
 剣もできなければ体力もない。古典や漢詩にも疎いしくずし文字は読めない。彼女の時代を先行した価値観や知識、自然と身についた思考力もこの時代に在っては『国際力』の先端を行くものであったが、本人にはその自覚はまるでなく、むしろ『何もできない庇護されるだけの存在』の様にも思えていた。
 『何か強みを持つ』という意味でも英語力と思想を磨く決意をするが、上記の通りトリップ直後の安政6年の時点で英語辞書を手に入れられたものの、アメリカ・イギリス訛り以前の問題で単純に英単語が理解できないといった箇所も多く、圧倒的な教材不足の為難儀した。学習には長い年月をかけ、訪れた場所や港、書店、雑貨店等で識者や別の英文資料などにまみえた際には率先して入手し、学び、これまた模写をした。
詳細
 早い段階からはつみに傾倒していた寅之進は、土佐郷士の間でスタンダードになりつつあった『無知故の攘夷』思想を払拭しつつあり、『世界と対等になる、支配されない日本という意味での攘夷』を目指し、はつみの英語自習に付き添った。龍馬や乙女、以蔵もたまに参加しており、彼らは内々に楽しむ形でこれを『はつみ塾』と呼んだ。

 元治元年初夏の長崎遊学(SS『江戸遊学・遥かなる長崎』)、そして文久元年初夏の江戸遊学の際に訪れた横濱(SS『横濱にて』)で、多くの英字パンフレットや日本人向けにカナや翻訳が載せられたチラシなど大量に入手する事ができた。外国人に話しかけて、これまで分からなかった英単語や文章、発音について質問したりもした。彼らは(相手が『少女』だった事もあるだろうが)非常に友好的であった。

 長崎においてはオランダ語やフランス語のパンフレットを得る機会もあったが、こちらはまったく触れた事が無かった語学であった事もあり、その習得は一旦断念するに至った。

 横濱において話しかけた外国人の中にチャールズ・ワーグマンという英国画家がおり、彼ははつみという存在に非常に驚き、英会話を行う傍らスケッチのモデルを依頼してきた。この時和英のメモがびっしり書かれたメモと携帯筆を携え明日を見つめる様な趣で描かれたスケッチは大変見事なものであった。彼は後に『抑圧された女神』といった、国際的な活動を拒否する日本とそこに埋もれる才といった風刺画として、ワーグマンが発刊している「ジャパン・パンチ」という新聞に掲載され、横濱においても、そして本国イギリスにおいても話題となった。
 ※このジャパン・パンチについては下記にも記載がある為、ここでの詳細は割愛する。

 また、ワーグマンがスケッチをしているところに一人の青年が現れ、彼がその時はつみが抱いていた英和に関する全ての疑問に答えうるポテンシャルを有していた。彼はこの秋16歳になったばかりのアレクサンダー・フォン・シーボルトであり、当時にしてすでに母国ドイツ語、オランダ語、フランス語、そして日本語を身に着けていたスーパーバイリンガルであった。(SS『in Yokohama.』)当時シーボルトは英国公使館特別通訳生であり、はつみと同じく英語を習得中であった。
 夕食に誘われたはつみは、同行していた龍馬、寅之進、沖田も伴って彼らの誘いに応じた。ひと時食事を共にするだけでも、はつみにとっては大いなる進歩であった。更に、食事をとった場所は当時横濱に建っていた外国人向けのホテル(旅館みたいな)でボーリングやビリヤードといった娯楽施設も兼ね備えられていた為、一行は横濱に宿泊する事を決定し、外国人たちと夜遅くまでこれに興じる事となった。はつみはカフェのテーブルに付いてシーボルトと日英会話の勉強を進め、これによってかなりの進捗を得られたのだった。
若く奥手だったシーボルトは『手紙を送るよ』とは言えず、またはつみにもその発想はなく、そのまま別れる事となった。

 文久3年5月に海軍操練所及び勝海軍塾が発足すると、同期となった陸奥もはつみと共に英語を学ぶ。またこの頃「日本初の海軍」ともされる神戸海軍操練所および『抑圧された女神』(HATUMI=ハテュミ)の噂を聞きつけた写真家(戦場カメラマン)フェリーチェ・ベアトが横濱から陸路はるばるやってきた。(詳細は下記『ジャパン・パンチの項を参照』)
 どの様に英語を学んだのかという質問に対して、長崎と横濱で外国人の助力を得ながらも基本的には独学である事を答え、安政6年に土佐で貰い使い古してボロボロになった辞書がその努力の証人となった。(もちろんシーボルトの事も話しており、公使館付きであるシーボルトはベアトが同行する場にもよく一緒になった事もあって親しい仲であった)
 少ない教材とこれまでひたすら解読練習や模写をしてきた紙の束なども見せた。英語=日本語を学ぶための教材が少ない事は当時まだ領事館付き通訳生だったアーネスト・サトウも日ごろから愚痴っていたので、「僕の友人の通訳生も苦労しているみたいだよ」と、あるある話の様にベアトが聞かせてくれた。(※サトウがシーボルトから教材を貰ったり指南を受けたといった資料が見当たらない為。二人は協力し合う友人であったが…シーボルトが公使もしくは公使代理からひっぱりだこだった事もありあまり顔を合わせなかったのだろうか?)
 はつみは「もし私の写したものでよければ…」と、英単語をできるだけ和訳したものの写しや、日本語辞書に英語単語や例文を書き込んで教材替わりとしたものなどをベアトに提供した。これを持ち帰った時、サトウはそれまで誰もが見た事がない程に驚き喜んでいたという。シーボルトと違う所は、サトウはその非凡な行動力を発揮させはつみへ礼の為の返書を送ったのであった。これをきっかけにはつみはアーネスト・サトウと知り合い、個人的に語学交流(文通)する仲へと発展するのであった。
 ちなみにこの頃シーボルトは英国国家試験を受け無事合格し、正式に『公使館付通訳官』となっていた。

 元治元年6月下旬に襲撃を受け数か月に渡る療養(湯治含む)を強いられた時も、寄宿先にこもってひたすら英語の精度向上に努めた。この時、勝の斡旋で中濱万次郎(ジョン万次郎)を湯治先に招き、およそ三ヵ月ほどみっちりと英語(アメリカ英語)を学ぶ。途中、急遽はつみ達のみ長州へと向かうが、戻り次第再び授業を受ける。長州やイギリス人たちの様子をあえて英会話で伝えるなど授業では実践的な会話も習った。また、はつみが持っていた英辞典に掲載されている単語を知る限り教えてほしいと頼み込み、その大変な作業に万次郎を「おいおい…」と辟易とさせたが、最終的にははつみ達若き外交の志との作業は楽しかったとも言ってくれた。(万次郎は元来ポジティブな人柄であり、勝がこの機に彼を斡旋したのも彼の能力以外に人柄も買っての事だった。
 勝と万次郎は安政4年の軍艦教授所や万延元年の咸臨丸海外使節団で同僚だった誼がある。また、はつみは吉田東洋や河田小龍との関りもあり、万次郎は土佐つてではつみという代わり種の出現の噂を聞いていた為、今回の勝からの要請を受けたという。(万次郎はこの後、薩摩鹿児島に開校される『開成所』にて教鞭を振る事になっていた。)
 万次郎とはこの後も薩摩、土佐を通して各所にて何度か顔をあわせ、その度に時間が許せば教えを乞うた。慶応元年長崎で再会した際には、夏の間ひと月ほど腰を据えて教えを乞う事ができた。英語学習の教材をくれる事もあった。この時万次郎ははつみに対しシーボルトの様な形で他国での通訳官・外交官の他に外国貿易商通訳、航海士、法律家、果ては異国にてアクトレス(女優)などへの道も示したが、はつみはかつて東洋や容堂にも語った幼児・青少年への教育論を進化させたグローバル教育論をより強く抱き始めていた。
 正式に言い合った訳ではなかったが、万次郎とは(寅之進、陸奥も含め)教師と生徒というニュアンスでの師弟という絆があった。
 はつみや寅之進、陸奥らの英語力は亀山社中および海援隊においても大いに活躍する。

 慶応4年1月、新政府最初の政治体系(コンスティテューション)において、陸奥が外国事務取調掛抜擢される。
 同年2月、次の政治体系においてはつみも外国事務局御用掛(外国事務取調掛改め)に抜擢され、特別英国事務として英国領事館への出向が決まる。(陸奥は会計局へ異動)
 同年、閏4月。政体書の発布により、外国官(外国事務局御用掛改め)特別英国事務を続投。
 翌年、明治2年1月、池田寅之進と共にアーネスト・サトウの賜暇に伴い英国留学。大学で教育学を学ぶ。
 明治3年10月、サトウの賜暇終了に伴い寅之進と共に帰国。

 はつみと寅之進両名共、外務省(明治2年8月設置・外国官改め)判事として要請されるが、両名共にこれを辞退。
 (サトウは11月から英国公使館復帰)
 (寅之進はこれからおよそ1年かけてはつみの伝記作成の為全国を旅する)

 横濱の外国人居留地に、幼児・青少年向けの日英会話教室を開設。
 政府関係者及び配偶者向けの社交会話およびマナー講師を兼任。
 政府公式の社交場などにおいて国公来賓の通訳及び、英国公使館から外部通訳として依頼を受ける事もあった。
 はつみ本人は幕末に発刊されたジャパン・パンチの影響で『抑圧された女神』のモデルである事や、同じく幕末にベアトが撮影したドレス姿、ピアノを弾きこなす逸話、英国式及び国際マナーを正しく習得した人物であるなど外国人界隈ではかなり有名となっていた為、外交交流の場などの来賓として招待を受ける事も多々あった。
 前の『抑圧された女神』を引用し、サトウらが『彼女こそ外交の女神だ』などと評価した声も尾ひれ背びれを付けて広がっていた事も影響している。
 (また、当時の日本人社交は勝が酷評していた通り『西洋の真似事』であり、至らぬマナーや外国語の非習得など
  招待した外国人からも酷評または失笑を受ける様な状態である背景もあった。)
 
 以降は物語の展開(攻略キャラクター)によってはつみが成す事が変わってくる。
 メインルートとしては下記の様になるが、他にも外交官ルート、教員ルート、国際法律家ルート、
 外交官の妻ルート、貿易商敏腕秘書ルート、世界旅ルート等など様々なルートを想定している。

 ・既に一定の成功を収めていた横濱の日英会話教室の現状やニーズを鑑み、この成功の裏にある
  外国人居留地に住む混血(他国籍)を含むすべての幼児及び少年少女の教育と日英外国語と異文化を
  学びたい全ての青少年の為にと天命を見出し、グローバル教育を中心とした幼稚園及び
  インターナショナルスクールの開設を目指す。
  後に『櫻清大学』を設立し、後に多くの外交官を輩出する名門大付属校へと成長した。 

 もともとあった素養から長年の努力を経て磨き続けた語学力や近代的価値観が活きる形で
 明治以降の人生が彩られる事となる。


・武市、龍馬、寅之進、内蔵太、以蔵が描いたはつみの似顔絵、その他美人画、魚などの絵、らくがき。
 安政6年から万延元年始め頃に武市から美人画を習うことがあり、その際にそれぞれ描いたはつみの似顔絵。(皆が順番にモデルを務めた) 持ち出して破損する事を恐れたはつみはこれらの絵を坂本家にゆだね、以来大切に保管されている。ちなみに、龍馬が描いたはつみの似顔絵には眼鏡やヒゲが描き足されており、寅之進が描いた美人画はへのへのもへじ、蔵がが描いたものは『…春画…?』と言わしめる程独特の趣があった。以蔵は一番やる気が無かったがかなりセンスがよく、武市もうなるほどであった。


・風鈴(武市)
 文久元年江戸。初夏に江戸到着したはつみは人生初めての長旅の疲れと暑さ故に体調を崩してしまい、その際武市が見舞いの品として『涼』を呼び込む風鈴を持ち込み、窓際にかけてくれた。


・張り子の虎(内蔵太)
 文久元年江戸。内蔵太から贈られたもの。玩具だがコレラ(虎狼痢)避けのお守りとも言われた。
 ちなみにこの頃の内蔵太ははつみを『男』だと勘違いしつつも本能から溢れ出る恋心に悩んでいる最中。
 「おまんはすぐ病にかかってしまいそうやき」と言いながら手渡している。


・英国製ロケット式懐中時計(龍馬、はつみ)
 文久元年9月、はつみは元住んでいた「横浜」を偵察する事になった。しかし向かった先は「幕末に開港し急速に栄えた横濱村」であって、当然ながらはつみが知る横浜とは違っていた。
 当時平行ではつみとのお見合い話を実家から突きつけられていた龍馬はここで英国式のロケット懐中時計を買い付け、はつみに見合いの件を打ち明けるつもりでいた。しかしはつみの様子からして想いを告げる事は叶わず、懐中時計を渡す事もできなかった。(SS『横濱にて』)
 後日、(下記の項の通り)写真撮影をする事になるのだが、その写真をロケットに入れて龍馬自らが持ち歩いた。
 慶応3年はつみに想いを告げた時にようやく手渡す事ができたが、しかしそれが『形見』となるのだった。


・ビードロ(総司)
 文久元年、横濱土産としてはつみから贈られる。


・お香・香道具(桂)
 文久元年江戸、秋。桂からの贈り物。桂が袖下に入れている袖香炉と同じもの。
詳細
 詩を同封しておりこれがかなり積極的な内容なのだが、致命的な事にはつみ本人はくずし文字が読めない上に意味がよく分かっておらず、周囲の者に「どういう意味だろう?」と『暴露』しまくっている。

 『香尽きて 尚も慰む 残り香と 桜去りとて 薫る面影』
 私を慰めてくれる香は燃え尽きた後も残り香として寄り添ってくれる。
 貴女が去った後も、私は貴女の面影を想い続けています。
 

・金魚と金魚鉢(以蔵)
 文久元年江戸、はつみから贈られる。
 以蔵はまったく興味が無かったが、はつみは『ひらひらしてきれい』『小さなものでも生きている』という事を以蔵に意識してもらいたかった。


・鵜飼玉川『影真堂』で撮影した写真
 文久元年の江戸遊学中に何度か撮影している。
詳細
 とある日、偶然影真堂の前を通りかかったはつみが、そこは写真屋である事に気が付いた。閑古鳥が鳴くかの如く人気のないスタジオであったが、興味津々に中を覗いていた所を主人に声をかけられ、看板(サンプル)用被写体として撮影する事となった。(かの有名な鵜飼玉川本人であった)はつみは撮影にはまったく違和感もなかったし魂を抜かれるなどといった妙な先入観もなく、鵜飼も驚く程ごく自然体で対応した。後日、無事現像されたという知らせを受け再び訪れると、焼き増したものを貰った。これは土佐・坂本家に送った。
 『影真堂』で撮影をしたという話を聞いた沖田が興味本位で訪れるのだが、表に張り出されていたはつみの写真に度肝を抜かれ、ひっそり購入している。(SS『初恋』)
 またある日には、はつみの写真を見て感動した龍馬に誘われて一緒に写真を撮りに来た。龍馬は鵜飼にこっそりと懐中時計を見せ、ロケットに納まる様な絵(写真)を撮る事はできるかと尋ねると可能だと言われたので、その様に撮影してもらった。
 はつみが写真を気に入っただけでなく鵜飼もはつみらを気に入ってくれた為、よく撮影しに来る様になった。はつみの案で陸奥や寅之進とは忍者の格好をして撮影をしたり、内蔵太とは腕相撲をする様子を撮影したり。幕末の江戸でダブルピースをする写真は後世にて発掘された際大いに話題となった。とある日には、桂小五郎も撮影に来ている。はつみは女性の着物で着飾った写真なども撮影した。
 はつみらのお蔭で楽しそうな雰囲気が町人らにも伝わったのか、影真堂には徐々に客が訪れる様になっていった。


・鳥笛(総司)
 文久元年冬、江戸遊学を終えて土佐へ帰る前に沖田から贈られる。何度も失敗しながら作成した手作りの笛で、ルシを象ったハヤブサの彫刻が付いている。
詳細
 高くもなく低くもなく『ヒョロオ~』という変わった音色だがルシには分かりやすいらしく、100発100中で姿を見せてくれる。沖田の見立て通りルシは非常に賢く、あらゆる面ではつみの役に立ち、その分この鳥笛もかなり使い込んだ。途中で破損したりもしたが、何度も修理をして使い続けている。
 後に、横濱のはつみの屋敷敷地に建てられた「天桜神社」にて祀られる。

 沖田は作成途中に確認の意をこめて何度か試し吹きをしており、実際に贈った際にはつみが吹いた事で意図せず間接キスをした事になっている。(当時の時代背景に『間接キス』らしき概念があったかは確認していないが)それを目前で見た沖田(当時17歳)は何だかイケナイ事をしてしまったようなキモチになっていたとかなんとか(笑)
(SS『初恋』)


・金平糖(日ごろからよく買ったり贈られたりするが、この項では高杉からのもの)
 文久2年8月大阪にて。京に入ったばかりのはつみを江戸への東下道中だった高杉が訪ね、駄賃の様に金平糖を贈ってくれた。はつみは金平糖が大好きだった為素直に喜んだので「まるで子供だ」笑ったが、続けて「今度会う時はもっといい女に合うものを用意しておこう」とも言って、金平糖を一粒はつみの口に放り込み、江戸へと旅立っていった。


・料亭『白蓮』
 文久2年10月頃からはつみや寅之進が懇意にした料亭。四条大橋の近く。西木屋町通り高瀬川に面している。(川の対岸は木屋町通り)(武市の寓居は木屋町通を北上した先の三条に存在する)
 声がデカく愛想とノリのいい主人・咲衛門(さきえもん)と、看板娘のお万里とお琴がいる。楽器や踊りなどをたしなみ、座敷に出ていた様だが、揚屋や置屋に属する者ではない様だ。芸妓と遊女の違い、料亭・旅籠・旅館・揚屋の違いなどなど、はつみ(や寅之進)には分からない仕来りばかりだったが、見た感じでは白蓮では色は売っていない様だったし、女の子たちも比較的自由で働きやすい環境にある印象。
(SS『京料亭・白蓮との出会い』)


・英米対話捷径(容堂)
 文久2年10月末頃、勅使東下に追従する武市を追って江戸入りした際、乾の斡旋で容堂(蟄居謹慎が明けたばかり)に謁見する事となる。
詳細
 容堂の側用人となっていた乾からの斡旋があったとはいえ容堂がはつみに会った理由は、吉田東洋がかつて問題児だった乾を抜擢した様に、はつみにもその目を掛けていた事が容堂の耳にも入っていたからであった。また、開国思想を持ちながら武市の傍に居続けているという肝の据わった人物像に興味があった様である。
 はつみに公武の在り方、これからの日本、諸外国の在り方について訪ね、東洋に応えたように応えた。
 日本の外にも世界は続いており、日本の文化が時を経て熟成されてきた様に世界もまた常に発展している。これからは大いに国を開き世界に準ずる高度な政治体制への改革、外交、人材教育、殖産興業、産業革命などを解き、外国人は決して日本を侵略しに来た訳ではない。また彼らは『鬼』や『蛮族』でもない。彼らにも愛すべき家族があり、不義理や理不尽に痛める心を持っている。彼らは果てしない世界の海を旅する者達であり、広い太平洋の入り口にある日本で薪水を得たいと考えている。貿易を通して永くビジネスパートナーになりたいと思っているだろう。条約等を結ぶそこでの調整で摩擦は起きる事もあるだろうが、日本が自主性を失くし独特の文化が破滅するような事は決して望んでいないはずだと述べる。

 容堂は他にも細かく話を振り、はつみの話をよく聞いていた。そんな容堂と対峙している内に、はつみは自身が歴史の知識として知っていた容堂の人物像よりも違う…思慮深く忍耐強い人物なのではなかろうかとの印象さえ持った。
容堂は武市とは本当にウマが合わなかった。いや、許す事ができなかった。今現在土佐勤王党党首として権勢をふるう武市は容堂と何度か対面し涙を流して喜んだと史実にはあったが、一方で容堂は内心において東洋が何者かに斬られたのか、息子である現藩主を担ぎ上げて勝手に上洛せしめ、無礼なことに朝廷を動かす様な真似をしているのは誰かと、はらわたが煮えくり返る想いでいるのだ…。
 だがはつみとの邂逅において容堂は一言も武市の名を出す事はなかった。はつみが武市の寓居に住んでいることも江戸に来た理由も何もかも情報は容堂の元に終結しているはずなのに…。自分もまた、史実の武市の様に、上部だけの容堂の『懐深く賢明な様子』に惑わされているだけなのだろうかと。

 はつみの迷いなど知る由もなく、容堂は最後に中濱万次郎が作成した英米対話捷径を授けた。英語の教材集めに苦心していたはつみは「ジョン万次郎さんの教科書?!」と思わず食い付き、はっと気付いて非礼を詫びる。容堂は気兼ねなくはつみを許し、傍に控えていた乾にはつみの傍へと持って行かせた。そして「それをもって励め」とニヒルに笑うのだった。


・処女(乾)
 文久二年秋。取引に応じて乾に捧げた。
 武市の運命の舵を切りたいはつみが進退窮まりつつある中、乾に容堂への謁見の取次を願い出た。
 出来る事は何でもやらなけばならないといった心情から無茶を承知で頼ったのだが、そこには乾が何かと自分を気にかけてくれているという事も分かっていた上での行動だった。
詳細
 乾はそれを見越してか『難しい事だが…何でも言う事を聞くち言うなら砕心してやらんでもない』と言い、はつみは『それが誰かを傷つけたり欺いたりする事でなければ引き受ける』と返し、乾は『そがな事は望んじょらん。』と言った。これを以て双方合意のもと『取引』が成立し、数日後、乾は根なし草であるはつみを約束通り容堂へ引き合わせてくれた。
(SS『取引その1』)

 はつみは江戸時代の性事情について、いかにも『机上の空論』と言った形で捉えている節が非常に強かった。
 往来では共に出歩く事すらも『破廉恥』とされる程一見プラトニックに見える彼らであるが、その裏、風俗事情、妾事情など実に分かりやすく乱れているという印象を持っていた。一歩間違ってどこぞの一角に迷い込めばあちこちの茂みで営みが行われているし、武士ともなると『遊郭通いをしてなんぼ』『妾を囲ってなんぼ』といった印象もあった。
 また、戦国の世、果てはその遥か昔から、女性の性は政治の裏で常に『取引』されるものであり、何の後ろ盾もないはつみにとって自分の身を捧げる事でどうにも動かない石の戸が開かれるのなら…と思った理由もある。
 こういった『諸事』合意の上、行われた。覚悟の上とはいえ無骨で不愛想な武闘派の乾からどの様にされるのかとも思ったが意外にも優しく丁寧で、何よりとても気持ちと熱が籠っていると、流石の鈍感なはつみにも伝わった。


・椿の押し花(武市)
 文久3年3月、季節外れの雪の中、武市と椿を鑑賞した。
はつみはこの椿から押し花を作成し、以降大切に持ち歩く。


・徳川葵紋の絹の懐布(家茂)
 文久3年4月26日。 はつみは武市と納得できない別れをした直後でもあり今すぐにでも土佐へ行きたい心境であったが、大阪に現れた勝海舟が駆る蒸気船『順動丸』に無理やり乗船させられる。すると、なんとその船には神戸湾視察の為に同乗していた徳川家茂がいた。
(SS【勝】徳川葵紋の絹の懐布)


・ジャパン・パンチ
 文久3年6月。ひと月前に将軍直々に許可が下りた神戸海軍操練所および勝海軍塾の建築が進む中、写真家フェリーチェ・ベアト(フェリーチェ・ベアト)が現れた。
詳細
 ベアトは操練所に滞在していた勝と面会し、はつみが通訳を行い、龍馬が同席した。日本初の海軍を目指す同施設への取材という名目で来たが、実は1862年(文久2年)に横濱で彼とその相棒が発行したジャパン・パンチに、文久元年横濱でスケッチされた男装の女性がここにいると噂を聞いてはるばるやって来たと打ち明ける。勝は「なんでぇ!ごしっぷ狙いかい!」と笑い、龍馬も当時横濱ではつみをスケッチしていた外国人達と夜通し遊んだ事を覚えており「皆元気にしちゅうかえ!おんしも遠い所からよう来たのう!」と、恐れ知らずの写真家ベアトにも親し気に声をかけた。彼らの反応をはつみが全て通訳した後、ベアトから直接「これはあなたの事ですよね?」とジャパン・パンチを受け取る。ページを裏返すとすぐに、あの時スケッチされた、英語のメモを持った自分の似顔絵を見付けた。風刺的な記事が多い中でも自分に対して書かれている絶賛コメントに恐縮し、恥ずかしそうに頷いたのだった。
 ベアトを始め、ワーグマンや横濱の仲間たちは『HATUMI(ハテュミ)』と発音している様だった。

 ジャパン・パンチは本国イギリスでも配布され、この「抑圧された女神」と表題をつけられたはつみの記事に興味を持つ読者が多く、そんな中この神戸海軍操練所に消息の糸口を掴んだのではるばるやって来たとの事。はつみは彼に対し、『身の危険も起こりうる時世にここまで来てくれたそのジャーナリズムに感動している』と褒め称え『取材に来てもらえる事はとても光栄』である事も伝えた。ベアトは日本人らしい奥ゆかしい気遣いを受け心底感動し、その言語コミュニケーション力にも『どこで習ったのか』等とおおいに関心した。はつみは『ほとんど独学です』と答え、かつて土佐で譲ってもらった辞書や数少ない資料、英語や例文をひたすら模写した自作のノートをベアトに見せ、中には、それこそスケッチされた文久元年の時に英国特別通訳生であったA.F.シーボルトから教授された時のノートもあり、興味深そうに撮影された。
 教材が少ない事はベアトの友人である通訳生アーネスト・サトウも常に悩んでおり、その事をはつみに話すと「きっと私なんかよりもずっと勉強が進んでいらっしゃると思うんですけど…」と一言置いてから、いわゆる単語帳の様なリストや英米対話捷径の写しを提供する事になった。(これは想像以上にサトウの心を掴む贈り物となった)
 ベアトは勝の許可を得て神戸海軍操練所と海軍塾の一部を見学し(といっても殆どが整地されたばかりまたは整地途中だったので、詰所や作業場、資材以外何もない)、その間通訳は寅之進と陸奥に任せ、はつみはサトウへ送る教材をまとめると同時に一筆したためていた。その際、勝や龍馬らはベアトから英国海軍の話を聞かせてもらったらしい。
 皆で写真を撮り、はつみへのインタビューも一通りすませると「日本へきて毎日が刺激的な日々だが、今日は良い出会いの日となった。この大傑作を、日本を愛する横濱の仲間達にも早く伝えたい。」と最後まで感激し通しで、一泊もせずもう今すぐにでも横濱へ帰路を取ると言う。(これとは別に、ベアトには差し迫る予定もあった。英国艦隊が薩摩へくりだすという事態が起こる予兆があった為だ。)
 勝は『外国人であるお前さんを目の前に耳の痛い話だが』とした上で、先月5月10日に攘夷実行勅命として長州が地元下関で外国船を砲撃した事に触れた。これは長州だけでなく、どこぞに潜んでいるか分からぬ侍一人ひとりにとっても攘夷を決行する絶好口実となっているだろうと、ベアトの旅の安全を危惧していたのだった。順動丸で横濱まで連れて行ってやりたかったが大阪での『公務』の方がバタついており、いつ出発となるか分からない状況で船が出せないと言うと、ベアトは「とんでもない!自分の足で歩くよ。日本の最もベストな景色を写真に収める事もライフワークの一つなんだ」と丁寧に謝絶した。ベアトの人柄の良さは英国内でも定評あるものであったが、今回初めて外国人を見たほとんどの勝塾の生徒たちは少なくとも『攘夷』と叫んでいた頃に思い描いていたものとは全く違う、むしろ友好的なものを感じ得ただろう。
 ベアトも自身の護衛を連れて歩いていたが、貴重な情報を提供してくれた返礼にと勝海軍塾から剣の達人である黒木小太郎と他4名を護衛として同行させる事となった。
「どーせここにいたってやるこたねぇんだ、お役に立ってこい」
「やる事ないって事はないですろう…」
「そうだよ、勝先生…」
 そんな師弟の会話を、ベアトは極めて友好的な様子で聞いていたのだった。
 ちなみにこの帰路にあたっては、はつみの白い鳥ルシが見守るかの様にずっと上空をついてきていた。ベアトは、ルシが木に止まっている際に急いで撮影機を準備し、撮影する事に成功している。

 横濱に戻ったベアトはさっそく写真の現像保管と記事制作に取りかかり、途中7月の薩英戦争に同行しつつも8月上旬には記事制作を再開。この弾丸小旅行をミニコラムとしたジャパン・パンチ別冊の『小旅行、日本の風景』といった趣旨の臨時号を発刊する。道中の景色や出会いなどの他、メインはやはり、ジャパン・パンチ初刊で話題になった「抑圧された女神」ことMiss hatumi(ハテュミ)改めMiss hatsumiの記事であった。
(「ツ」の発音は彼らには難しいらしい)

 尚、神戸海軍塾取材から帰着したベアトから写真と手紙、日本語資料を受けたサトウは大変に感激し、神戸のハテュミへ迷わず手紙を送っている。(返信の手紙であっても自ら発するところがシーボルトとの違いである。)
 そして7月の薩英戦争を経て横濱へ帰着した8月、はつみからの丁寧な返信(一行ずつ日本語と英語で書かれている)を受けてまた感激する。彼女の名前がハテュミではなく「はつみ」である事を知る。そして個人的なペンパル(文通相手)としての語学交流が始まった。のだった。


・和紙や携帯用筆記用具(寅之進)
 文久3年京。寅之進からの贈り物。
 はつみはこまめに手紙を書く人だった事に加え、常に筆記用具を持ち歩く人物であった為、彼女の為に見繕った。
 同時にはつみが好きそうな(あるいははつみの心が少しでも癒されそうな)紙を見つけてはこまめに購入している。


・衣類(改)
 文久3年秋、武市救済のために道なき道を模索し歩き出したはつみと寅之進を長州系尊皇攘夷志士が襲う。これを機に、寅之進と共に装いを一新した。暗がりに溶けやすい青系の羽織で印象を変え、刀を落とさない様結び止め、動きやすく落ち着いた色味のたっつけ袴で機動力も上げる狙いがあった。
 羽織には改良を入れ、寅之進と同様ポンチョのような構造に。綻びにくく、綻びても繕いやすい上に旅先で洗濯をしても乾きやすい。裏地も付け外しが簡単にできる様にしてあるので、はつみが特に弱い寒暖の調整もしやすくなった。夏場に裏地を外せば風通しの良い日よけ変わりになる。ただし、袖付けは相変わらず空いている。
(緊張感がない訳ではないのだが、やはりファッション気質)
詳細
・ドレス
何度か贈られている。
始めは元治元年5月頃。長崎出張より戻った勝と伏見寺田屋にて合流する。勝から長崎土産としてドレスが贈られ早速お登勢に手伝われながら着てみるが、当時の感覚では目のやり場に困る程一部露出のあるドレスだった。
(はつみ的にはそこまで気にはならないが、糸骨から少し胸のふくらみがチラ見えする程度にデコルテが開き、強烈なコルセットで胸が寄せ上げられ腰が締められていた。バラがモチーフのバッスル・ドレス。赤・黒)しかしはつみは見事にドレスを着こなしており、着衣したはつみが二階から降りてくるなり、普段荒くれで賑わう船宿の寺田屋が沈黙(悶絶)した。目立ちすぎて危ないので一旦脱ぐ事に。しかし勝は「貢ぎ甲斐があるねぇ」「アメリカを思い出すぜ」と非常に満足そうであった。
 後日、ついに開設された神戸海軍操練所(その中の海軍塾)を拠点とするため、一同は移動をする。創立記念に、操練所の港で記念写真を撮る事となった。龍馬ははつみにドレスを着用する事を勧め、はつみもそれに応じた。

・定服以外にも、汚れや破損、間に合わせで普通の和装をする事も多々ある。
 (ただしその場合も動きやすい男装を好んだ)
 主な拠点となった神戸(海軍操練所宿舎)や伏見寺田屋、京白蓮などではある程度の衣類用意された状態で、作り置きをする際に選ぶ着物の反物の柄には大柄なものを特に好んだ。ただし大柄を着こなす者は一般には殆どおらず、その為はつみが店先で反物を見る際に気に入ったものがあればとりあえず購入して時間がある時に着物を繕うするといった事が行われていた。

・慶応4年3月、英国領事館勤務となった際に和装が浮いている事もあり、女性向けの『オフィスカジュアル』な洋服を求めて商業街へと繰り出したが、女性向けの洋服はドレスめいたものしか売られていなかった。
 はつみは例の如く自分で作るという発想に自然と至り、大きな襟にゆったりとした袖口が肘の辺りで詰められて腕にぴったりとした状態で袖口へ続くといった形の白いブラスと、ハイウェストからAラインに広がって膝の辺りで詰められた黒のスカート、足にぴったりとした暗い色のタイツをデザインし、慶応2年秋の大火以来来日する様になった英国の仕立て屋へと持ち込んだ。相談し合いながら、いわば全オーダーと言った形で、彼女の満足のいく服が出来上がった。
 ひざ丈のスカートなどはつみには何の抵抗もないデザインではあったのだが、日本文化においてはもちろん、当時の英国においても足のラインが出る女性服はなかなかに奇抜なものであった。
 しかしなんだかんだ言っても、この洋装はかなりウケがいいものであった。

~他~
 慶応3年8月、英国商人グラバーから贈られる。チャイナドレス(紫)
 明治元年、10月誕生日に木戸から贈られるバッスル・ドレス(白ピンク)
 明治元年、10月誕生日にサトウから遅れられるバーバーリーのトレンチコート(ブラウン・BBチェック)
 明治2年、英留学中にアーネスト・サトウから贈られる。高級レストランのドレスコードに合わせた
  フォーマルドレス(青レース)。
 明治2年、帰国してすぐ年末の政府主催パーティに呼ばれ、木戸から贈られるバッスル・ドレス(白青)
 明治3年、陸奥から贈られるフォーマルドレス(黒レース)
  再会した龍馬から贈られるフォーマルドレス(黒ベージュ)

 などなど。自分が見立てた服を着てもらいたい男達…(笑)
 あとは、外国人を招くパーティや食事会には通訳件応接役として声がかかる様になるので、薩摩から支給品の様に何着かを贈られる。(大久保や岩倉ははつみを外交接待の有力コマとして見ているが、岩倉等は役職上の出世は考えていない)

 また明治以降、特に何もない時には外国労働人の定番であったジーンズなども普段着として着こなしている。


・神戸海軍操練所での集合写真その他数枚
 元治元年5月、開設された操練所にて記念撮影となる。
 はつみは勝から贈られた長崎土産のバッスル・ドレスを着用し、その肩にルシがとまった。龍馬が桜清丸を、寅之進がアンブレラを持って(はつみにかざして)いる。中央に勝、龍馬、その隣にはつみと寅之進、陸奥、他、海軍塾生徒数名という構造になってはいるが、とにかくドレス姿のはつみが色んな意味で目立ちすぎている。
 他、いわゆる悪ノリした写真も操練所時代に数枚撮影している(おもしろポーズや変顔といったもの。勝も一緒になっている)。文久元年江戸での撮影といい、こういった発想は当時としては殆ど無く、現代人のはつみらしい写真となった。また、この頃のはつみは武市の事でかなり思い詰める日が多かったが、つかの間の笑顔が見られた。


・背中の切り傷
 元治元年6月中旬、京。日頃の新選組による厳しい取り締まりの他、池田屋事件、そして明保野亭事件などの尊皇攘夷派(主に土佐浪人)志士と会津新選組の感情がおさまりきらぬ中、尊皇攘夷志士(柊ら)による襲撃事件が起こる。
 その最中、はつみが背中を斬られてしまった時の傷跡。
詳細
 不幸中の幸いか、さまざまな状況から太刀筋がずれ、辛うじて骨や内蔵へのダメージは免れたものの真皮が見えるほど裂けた。新選組(その場に駆け付けた沖田)による適切な応急処置、そして新選組が会津に要請して駆け付けた広沢安任や山本覚馬(佐久間象山や勝海舟に学ぶ)の口利きで蘭方医の派遣を受け、迅速な手術かつ治療を継続して受ける事ができたが、背中の大きな切傷はいかな治療であっても開きやすく、高熱も発しており、化膿を起こせば敗血症にまで陥る可能性も非常に高くなるとして決して楽観的な状況ではなかった。
 新選組護衛の下近場の宿へと丁重に移送され、徹底した消毒治療が行われた。面会は限られた。
 翌日、白蓮からお万里がはつみの世話の為やってきて、蘭方医による治療の補佐をした。以下暫く共に行動をする。
 以下詳細:(SS『背中の切り傷はつみ・龍馬視点』『背中の切り傷内蔵太、桂、柊視点』)

 8月中旬、伊藤からの呼び出しが合って下関へ赴いたはつみは、英国旗艦ユーライアラス号にてサトウと初対面し、背中にキズを受けたと聞いていた彼の手引きで英国公使館付き医官ウィリアム・ウィリスの診察を受ける事となった。
蘭方医が指示し、はつみもその治療方針に納得して挑んできた事は正しかったと改めて証明された。
傷口は塞がっており、皮膚が少し引きつるといった若干の後遺症はあるものの、ほぼ完治だろうとの事だった。

 はつみの背中の傷の事は長州を始め彼女と関係のある志士達達の間において、この時期同じく攘夷派に襲われ重体となった井上聞多に関するそれとはまた少し違った趣で広まった。その華奢な背中に刻まれたであろう太刀傷をまるで芸術でも見やるかの様に「一目見てみたい」と。
 ※ウィリスが診察で見た後は、柊→総司→内蔵太(数回)→高杉→高杉→乾→龍馬(数回)→サトウ→板垣という順番で
背中の傷を見られている。(あるいは、『見せて』いる)


・偽名~鬼椿権蔵~
 元治元年8月、伊藤俊輔、池内蔵太、柊智による招集に応えるべく下関へ行く際、考えた偽名。
(中浜万次郎から預かった薩摩の通行証で神戸港を出るにあたり)。
まったく雅さのかけらもない名称に始めは不服であり今回きりと思っていたが、伊藤俊輔をはじめ高杉、サトウに至るまで多くの人がこの偽名に「ひっかかった」為、非常に有効な偽名なのではないかと考え改める様になった。
詳細
 ・龍馬…才谷〇太郎(さいたにまるたろう。『才谷梅太郎』を一文字変更した。)
 ・はつみ…鬼椿権蔵(おにつばきごんぞう。陸奥がふざけて考えたやつ。
  他候補には、お万里が考えた桃瀬円モモセマドカ、自分が考えた神宮寺碧羅ジングウジヘキラ、橘風雅タチバナフウガ、
  陸奥の悪ノリ桜庭攸(サクラバ ミズノユッタリトナガレルサマ)などがあった。
  百瀬と神宮寺で決められずにいたが、最終的にくじ引きで決め、鬼椿権蔵になった。)
 ・寅之進…海原一輝(かいばらかずき。はつみ考案。好きなものは何かと尋ねると、景色を見渡し
  「海がきらきらと輝く様を眺めるのは好きですね」と答えた事に対し、この名が考案された。
  寅之進は非常に気に入っている)
 ・陸奥…伊達風雅(だてふうが。はつみの候補『風雅』が気に入り、拝借wした)
 ・内蔵太…細川左馬之助(ほそかわさまのすけ。もともと使っていたもの)
 ・柊…深澤攸(ふかざわゆう)もともと使っていた偽名だが、もちろん柊も「みずのゆったりとながれるさま」を
  考慮してこの文字を使用していたのだが、公表前に桜庭攸の流れがあった為、盛大に陸奥からイジられる。
  (ちなみに陸奥と柊、内蔵太は江戸の安井息軒に師事した同門でもある。もっとも陸奥は柊や内蔵太が
   入門する前の年に14歳にして吉原通いが露見した事でブチ破門を食らっていたのだが)
 ・お万里…弓子(ゆみこ。「万里と毬からの連想で弓の字を用いるのはどうでしょう?」と寅之進による発案。
  お万里は非常に気に入っている)


・鉛筆1ダース
 サトウがくれた英国の鉛筆12本入り。その後も定期的に贈られ、明治3年以降は毎年クリスマスに
 文房具を贈りあう習慣となった。(1ダースだけ贈る様にした理由は「消耗品だからこそ、またすぐに
 贈るきっかけができる」事を見越してのもの)


・携帯用酒瓶(高杉)
 元治元年秋。はつみは消毒用に純度の高いアルコール類(焼酎等)を持ち歩いていたのだが、はつみが酒好きだと勘違いした高杉から贈られたお揃いの紐付き酒ひょうたん。結果的に消毒用に持ち歩いた。


・髪型(改)
 慶応元年夏頃長崎にて、文久3年頃から前髪以外は殆ど手を付けず伸ばしっぱなしになっていた髪を整えた。
 これまでは髪を降ろした状態で言うところの『レイヤー』が入ったヘアスタイルだったので、後ろでポニーテールの様にまとめると茶筅髷の様になっていた。それがこの頃からは毛足も揃い、ポニーテールの部分は広がりをみせず『ひと房』として自然形の髷となった。
 また、慶応4年3月、英国領事館勤務となり洋装の手配ができた際、洋装に合わせて髪型も大きく変えた。編み込みに黒いリボンを加え後頭部下あたりでゆったりと髪同志を結う様にして差し込む。落ち着いた雰囲気を演出た髪型であった。


・ブーツ、ウエストバッグ
 慶応元年7月頃、髪型を変えた同時期長崎にて、龍馬が「快気祝いならぬ快気願い」として、長崎にてぷれぜんとしてくれた。英国商人グラバーから購入する。


・S&W M2 Armyとホルスター(ショルダータイプ)
 慶応元年10月に下関で再会した高杉(谷潜蔵)は、文久2年8月に交わした約束の通り「いい女になった」はつみに簪を用意していたのだが、はつみが幾度となく襲撃を受けながらも心折れず、長州の大事にもこうして何度も駆け付けてくれた事を受け「君にふさわしいのは簪ではないな。もっとふさわしいものを用意しよう」と言って、潔く簪を捨てた。
 そして次に会った12月、この7連式リボルバーS&W(M2)がはつみと龍馬に贈られる。
詳細
 一丁は上海で購入したものだったが、もう一丁は高杉が長崎へ出向いた際に購入していたもの。龍馬には「これで己の身を守りたまえ」と言い、はつみには「これが僕の代わりに君を守るだろう」と言った為、龍馬からツッコまれ笑い飛ばしている。はつみにはホルスターも用意しており、これに至ってはここで装備して見せてくれと謎のリクエストをしている。羽織を取りシャツの上にホルスターを装備して見せたはつみに、高杉は
 「うーん。思った以上だな」
 と唸り、龍馬は
 「他の誰にも見せたらいかんぜよ…」
 と言う。二人は意味深に硬い握手を求めあっていた。(要するにホルスターを装着する事で胸回りのボディラインが浮き上がるので、すけべ目線でゴチャゴチャ言ってるwちなみに間もなく翌年になり薩長同盟が成立する1日前に思わぬ形で沖田と再会、そして情事に発展した為、このホルスター姿は沖田にもがっつり見られている。)

 薩長同盟後の寺田屋事件では、寺田屋から逃走する際に威嚇で空(くう)へ向かって6弾打ち放っている。龍馬に至っては史実上では2人を殺傷したのだがこの時は全弾威嚇射撃に終わりはつみの知る歴史とは違う経緯になっている。
(しかし歴史通り龍馬は装填の合間に手を負傷し、リボルバーを落とし、失血が多く生死の境を彷徨う事になる。)
 同年第二次長州討伐の際、精神的に苦悶するはつみを丙寅丸で連れ去った高杉であったが、大島奪還奇襲作戦の際にはつみを抱き庇いながらその脇下に装備されていたリボルバーを抜き取り、船上のライフル兵へ打ち放った。
 また、慶応4年千駄ヶ谷の植木屋で療養をする沖田を見舞った際には、不逞浪士相手に数発の威嚇射撃を行っている。
 はつみ自身は生涯で一度も、銃で人(動物)を撃ち殺す事はなかった。


・河内守藤原正広 短刀(武市)
 慶応3年9月、富からはつみの手に渡る。
詳細
 万延元年、祖母の喪があけた武市は短期間ながら西国遊学(情勢探索)の旅に出た。その際に愛刀となる河内守藤原正広を購入したのだが、同じ銘の短刀をはつみのために購入している。
 しかし帰藩しても結局それを渡す事はなく、ずっと天袋(天井部分の納戸)の隅にしまわれたままだった。
 時は巡り文久3年夏土佐、土佐勤王党への弾圧が厳しくなり自身の捕縛も覚悟した武市は、正妻富に洗いざらい打ち明けた上で「もしいずれはつみがここへ来る事があったなら、これを渡してやってほしい」と、この短刀を託した。
(SS『告白』)

 武市が切腹をしておよそ二年後、はつみはやっと武市の墓に参る事ができ、その際に富からこれを受け取った。
 同年12月(歴史改変)、京白蓮にて龍馬が襲撃を受けた際、腹に差していたこの短刀が奇跡的なバランスで敵の凶刃を受け止めており、はつみは致命傷を回避している。
(SS『墓前対話』)(SS『運命の日』)


・武市の襟巻(富からの寄贈)
 慶応3年9月、富から形見分けとして寄贈される。冬場などに武市がよく巻いていた襟巻き。はつみが最期に武市を見た文久3年春にも巻いていた。
(SS『墓前対話』)


・黄色水仙の押し花(龍馬)
 慶応3年10月末。いろは丸沈没事件の際に漂着した六島を再訪し、龍馬がこれまでずっと押し殺していた想いを告げ結ばれた。その際、囁いた愛の言葉と共にはつみの髪に飾られた、季節外れの水仙。
黄色水仙の花言葉は「もう一度私を愛して」
(SS:黄色水仙の花言葉)


・龍馬の拳銃(S&W M1)
 慶応3年11月に龍馬が遭難した際、西郷の手によってはつみに手渡された。これは、慶応2年薩長同盟直後の寺田屋事件を経て薩摩療養旅行を行う際、護身用として西郷から龍馬に贈られたもの。(高杉から贈られたはつみとお揃いのS&Wは寺田屋事件の際に落とし紛失した)


・上質な銀細工の簪(勝海舟)
 明治元年10月、徳川の為、駿府領の返還うんぬんの為に駿府へ旅立つ勝海舟から贈られた。
「折角いい女なんだから過去やシガラミに捕らわれたりせず人生を満喫しろよ。
 洋風もいいが、日本式の美も男をコロッとイかせるもんだぜ」
 といった、相変わらずざっくばらんな手紙も添えられていた。
(同時に、サトウには立派な馬が贈られ、はつみに続き寅之進にもロケット式海中時計が贈られている)


・ピアノ(陸奥陽之助)
 明治元年10月の誕生日に、当時大阪判事である陸奥が堺で取り寄せ、贈ってくれる。
詳細
 このピアノは後に開設する私塾(幼児及び青少年向けの日英会話塾)でも大きな貢献をしてくれる。
日本最古と言われるピアノのひとつが、山口県にあるらしい。シーボルトが関係しているそう。
ちなみにはつみがピアノを披露する(楽譜を読むことができる)のが発覚するのは慶応元年長崎の大浦屋にての事。


・万年筆とインク入れ(小松帯刀)
 明治元年10月の誕生日に小松から贈られる。フランス式の美しい装飾が施されている。


・スイスの時計ブランド「ジラール・ペルゴ」の腕時計(ミットフォード)
 明治元年10月の誕生日にミットフォードから贈られる。本当は指輪を贈りたかったなどと思わせ振りな囁き付き。


・英国産バーバリーのトレンチコートとネックレス、ブレスレット(サトウ)
 明治元年10月の誕生日にアーネスト・サトウから贈られる。はつみも知っているかのバーバリーであったが、この頃はまだ発足したばかりの若手デザイナーによるブランドだった。


・漆塗りの化粧箱(寅之進)
 明治元年10月の誕生日に寅之進から贈られる。格式高い上品な和の装飾が施されている。
洋式が多く取り入れられる昨今において、寅之進がよくよく考えて選んだのが伝わる一品。
はつみはこれを英国留学にも持っていき、生涯使い続けた。


・脇差(板垣)
 明治元年12月、留学が決まったというはつみの元へはるばる土佐から訪れ、最後の『取引』を持ち掛けた。
 翌朝眠る彼女の寝顔に別れを告げるのだが、その際脇差を置いて去って行った。はつみと出会った安政6年から持ち続けていたもので、はつみと蛍を見た時にこれで猪を退治した事もあった。
 名高き銘刀ではなかったが、彼にとってそれを手放す事はひとつのけじめだった様だ。
(SS『同床異夢(R18)』)
 

・故郷ライデンの風景アルバム(シーボルト)
 明治二年、民部大輔のパリ万博使節団通訳と賜暇から帰国したシーボルトより渡される。シーボルト自身が撮影したもので、『これを見ながらあなたに私の事を知ってほしかった。』と言う。入れ替わりではつみが留学に出る事、そしてその旅路にサトウが付き沿う事に、彼女の成功を祈りつつも歯がゆい思いを抱いていた様だった。


・旅の安全お守り(さな子)
 明治二年、英国留学の少し前に千葉佐那子から贈られたお守り。手のひらにすっぽり収まるサイズの手作りお守り。


・天桜神社
 明治横濱。はつみの屋敷の敷地内に建てられる神社。
 宗教的な意味合いはなく、ルシ(ルシファ)と沖田からもらった鳥笛を祀っている。


・日英会話塾
 明治3年夏に帰国してからは『横濱に住む日本人、外国人、またその間に産まれた子供たち全ての人の為に、互いの文化と語学を学ぶ塾を設置したい』との志を示し、外務省への再出仕を辞退してこの私塾を開設した。
詳細
 (大阪・小松帯刀の臨終に間に合っており、薩摩で一番、はつみの将来性を『純粋に』認め留学支援を薦めてくれていた彼は、留学を経て定まったというはつみの新たな夢に大きく同調してくれた。)
 私塾設置に至っては当然はつみの私財が投下されたが、寅之進をはじめ、龍馬、木戸、伊藤、陸奥、板垣、西郷、小松、サトウ、英国公使館、シーボルト、伊達宗城、三条といった面々をはじめとするこれまで築いた人脈が『後援者=パトロン』となり、直接的な金銭面だけでなく様々な場面でその多方面からの大きな恩恵にあずかった。
 この時はつみは旧知の仲であった千葉さな子を教員として迎えている。

 はつみの志の通り、国籍を問わない5歳までの幼児および6歳から12歳までの児童および13歳から18歳までの青少年に向けたカリキュラムを組んだ私塾を開設すると、横濱の日本人居住者および外国人居住者から大多数の応募者が殺到した。その為待機入塾希望者が多くいる中で始まった開塾することになった。

 当時国際結婚に関しては英国から幕府(慶応3年)に現行の国際結婚法についての照会があっただけで、新政府から正式な発布はまだされていない状態だった。(明治5年に再び英国から問い合わせがあり、明治6年に『太政官布告103号』として発布された)とはいえ英国側が問い合わせをするだけあって、現地においては『事実婚』状態の者達が多くいた訳である。あるいは内縁関係になくとも外国人の子供を孕み産み落とす者もいた。いずれにしてもこうして生まれた混血の子供は基本的には日本の教育場に歓迎される事は無く、保護されているはずの横濱居住区の中にあっても(ひと昔前ほどではないにせよ)差別を受ける事もあった。数年前にはさびれた漁村であった横濱村が今や人や物資があふれる土地となっており、だからこそはつみはこの地において『言葉の壁』を取り払い、知識と自分で考える力、価値観を得て、人種に関係なく手を取り合う未来を子供たちに示したかったのだ。

 授業内容については、特に歌や音楽などを用いた『リトミック授業』に大きな関心が寄せられた。子供たちは音楽に合わせる事で見知らぬ語学も楽しく学ぶ事ができ、青少年に至れば音楽を通じて各国の文化や芸術に触れ、外国への関心を広げるきっかけとなった。主にははつみがピアノを弾き、さな子が琴を用いた。教員には日本人、外国人がおり、はつみが間に立ち回る事で比較的平和的に共存出来ていた。また、寅之進や陸奥、サトウやシーボルトなどがその休日などを利用して無償ボランティア教員として訪れ、普段見られない様な様子で子供たちに授業を行う事もあった。

 噂は江戸にも広まり、これを支援する要人も多かった事から多くの国内報道紙、国際新聞にてその特集が掲載された。特に横濱および長崎、函館、英国においては、文久元年に流行したジャパンパンチに掲載された『抑圧された女神』から、慶応3年イカルス号事件時にサトウや長崎英国領事らに『外交の女神』と言わしめた報道も絡め『日本の女神国際躍進』とかなりオーバーな見出しで報道され、はつみ本人の知らない所で『日本人女性』としての名が広く知れ渡る事となった。
 はつみと友好的な関係であった英国公使館も地域奉仕の目的で楽団を派遣し、地域へ向けたレクリエーションパーティが開催されることもあった。


・現代品
 はつみがトリップしてきた時の荷物。安政6年にはつみの身の上を案じた栄があえてこれらを隠し、そのまま誰にも知らせる事なく亡くなったのでずっと行方知れずのままだった。
詳細
   しかし明治4年以降、「初桜月伝~かぐやの君~」の執筆を開始したする寅之進が取材の一環で土佐におとずれ、ルシ(もういない筈だが確かに現れた)の導きでこれを見つける。はつみの正体を知った寅之進(とお万里)は、この未知の荷物の処遇について思案を重ねたが、最初に栄が強い意志を持ってこれを隠した様に、もうこれは『今の』はつみには必要のないものとして処分することに決めた。

 土佐から船に乗り、土佐湾に一つずつこの未知の道具を『供養』していく。…しかしはつみの顔写真が印刷されているこの学生証は捨てる事ができなかった。ただただ傍にいるだけでいいと思えるほどに愛した人が「この世の人ではなかった」という事実、肉親も、本当の彼女を知る者も誰一人としていなかったはつみが「かぐや姫」の様にずっと孤独を抱えていたのではと想うと胸が破裂しそうな程苦しくなる。そして、自分の運命がおそらく文久元年のあの日にはつみによって救われた事…今目の前で、こんなにも美しく輝く太平洋を見る事ができるのは、あの時からはつみが常に自分の傍にいてくれたからこそなのだと思い至った。
 はつみの秘密を消去するのではなく自分が背負っていく事を心から望む彼の背中を、お万里と、白いハヤブサが後押しする様に見守る。はつみの学生証は寅之進が大切に持ち続ける事となった。

 寅之進が寿命で亡くなった際には、お万里が引き継いだ後に京白蓮へと丁重に移動し、保管された。その後、現代において幕末時代や新選組などが人気ブームとなると、新選組の沖田と交流があったとされるはつみの存在がにわかにピックアップされ始める。白蓮がこの学生証を世に出したのはその頃で、これがきっかけで桜川はつみというグローバル女志士の存在が歴史のブラックホールタイムトラベラー説と共に世に広く知られる事となった。


・かぐやの君~初桜月伝~池田寅之進 著
 明治3年に英国留学から帰国したと同時に外務省判事への打診があるが、留学期間中からすでに伝記の作成と構造を考えていた寅之進は、公職との両立が難しい事を受け伝記の作成を優先させ、新政府への出仕を(はつみ同様)辞退した。
 その後明治4年頃から寅之進がはつみの伝記作成の為に全国取材への旅に出る。
詳細
半ばはつみと一つになれない傷心旅行とも言えるものであったが、旅の途中ではつみの面影と向き合うにつれ、道中助手としてついて来たお万里との距離が縮まっていった。
 全国への取材を明治5年頃に終えた寅之進は、蝦夷でグラバー商会の支店長となっていた坂本龍馬を頼り、はつみの元を去る。龍馬の元で敏腕秘書として世界を飛び回りながら執筆をつづけ、明治8年頃に完成。
 はつみに出版の許可を得る。
 許可を取り付けるにあたっては寅之進の他に龍馬、その妻さな子がまず説得にあたり、龍馬の脅威の人脈パイプによって木戸、伊藤俊輔、板垣はては三条や東久世、伊達宗城などなど非常に多くの関係者による声が殺到した。当時賜暇で再度帰国していたサトウや政府直接雇用となっていた外国人シーボルトらによる説得も受け、ようやくはつみの許可が下りた。
 出版に際し、当時は西南戦争直前であった為西郷や彼らに連なる者達について書かれた箇所は削除あるいは改変の処置が下されたが、腹部の病が進行し死の直前にありながらも太政官でその手腕を振るい続け、その傍ら寅之進によるこの伝記作成を支援し完成を楽しみにしていた木戸には、改定前の原本が贈られた。(後世においては、基本的に一般に出回っていたものが残されたが、同じものを初版で持っているとされていた木戸所蔵のものだけに西郷に関わる箇所が多く記載されている事が後になって話題になり、木戸所蔵のものは『初版』というよりは『プロトタイプ』である事が取り上げられた。)

 はつみの影響を強く受けていた寅之進の筆(文章)は当時珍しくはあったが、いわゆる『近代的に洗練された文体』は意外と読みやすく市井の人々にも馴染み、また日本語に馴染み始めたばかりの外国人達にも「わかりやすい」として広く慕われ、結果かぐやの君~初桜月伝~は当時ベストセラーとなる。近しい間柄であった者達はもとより、鹿児島西郷や桐野(中村半次郎)、村田経臣らも東京から送られたこの本を手にしたという。
 明治11年、サトウと寅之進本人によって英翻訳されたものが横濱および英国でも販売された。当時英国において極東の青い空と海のもとにある日出る国に興味を持った人であれば殆ど誰もが『HATUMI(ハテュミ)』と呼ばれた少女の事を知っているであろうとするほど、『外交の女神』は日本人の中でもかなり有名人となっていた。
 尚、当然はつみも内容を読んで自ら添削に協力するなどして出版された彼女の伝記であるが、寅之進ははつみの恋愛事情なども知りうる限り『文章ににおわす形』で書き記している。これにより武市への想いをはじめ板垣や高杉、内蔵太、サトウやミットフォード、シーボルト、そして沖田総司や土方歳三らなどとの個人的な関係も明るみになる訳だが、はつみは『すべて過去、それも時代が移り変わる前の、幕末独自の事情の中での事』と割り切っており、堂々としたものだった。








※年表配置前ネタ※

・日英会話塾と教科書
 塾については上記「はつみ塾と英語教材」詳細と重複のため割愛。

 教科書ははつみが熟考を重ねた末開設当時に薩摩による監修のもと発行された。主な制作にあたっては英国留学中に行われ、同時期に賜暇で帰国中であったアーネスト・サトウ、同時留学中であった池田寅之進、野口富蔵らの協力を仰いだ。
また日本に帰国してからは、画家チャールズ・ワーグマンらの協力も得、より親しみやすく(当時としては斬新な)教科書へとアップグレードされていった。


・伴侶と子供
 明治編で得る事となる。伴侶により結婚生活、子供の誕生時期・場所など様々に異なる為、現在保留中。


・幼稚園および大学(櫻清大学)名前変更かも
 ~明治編のエンディングの一つとなる予定。~
 明治横濱にて。
 グローバル教育を目指した国際大学とその付属幼稚園。周囲の協力を得てはつみが開校する。
詳細
 安政6年の頃から幼児及び青少年の教育について必要性を説いていた事を、木戸及び伊藤はじめ多くの要人が新政府樹立の際から既に知るところであった。また、はつみがその思想を一貫しており、明治二年英国留学においても教育学を修めた事も政府の知るところとなる。
 明治3年夏に帰国後、私塾開設の志を以て外務省への再出仕を辞退したが、明治4年に文部省が設置されるとその外部顧問として招集された。意を決してこれを受けると明治5年発布を目指した『学制』の草案と一部の教科書作りに携わる事となる。教育制度が一新されるものであったが、教科書はこれまで『寺子屋』などで使われていたものがほぼそのまま引用されると聞き、はつみは『それでは旧体制の日本の知識しか得られない』と意見したが、外国の知識をそのままありのままに引用する事を避けたがる保守派がまだまだはびこっていた太政官でははつみのこういった先進的すぎる意見は大方取り下げられた。

 発布された学制では『留学および留学生』についての項目はあったものの、幼児教育や国際学校についての言及はなく、はつみは既に私塾として開講していた幼児および青少年向け日英会話塾が成功していたその背景にあるニーズも鑑み、またこれこそが自分の天命なのだと思い至った。更に日本のグローバル教育基盤についての見解を述べ続けた。

 同施設の開設に向け諸外国のナーサリー(英)、プレスクール(米)、キンダーガーデン(独)、 エコール・マテルネル(仏)等について広く取材し、基盤形成の一端を担った。(史実から見れば、多大な影響を及ぼした。)
 これによって史実よりも2年早い明治6年、文部省が幼稚園開設の伺いを太政官に提出し、これが許可される。しかしここで認められたのは『幼児教育の場である幼稚園の設置』であり、はつみが目指していた『グローバル教育』は明治6年を以てしても急先鋒すぎた為、文部省直轄として設置される初の幼稚園は日本人向け(しかも中流以上の家庭に限る)のものとなっていた。
 幼稚園設置の案が通った所で文部省の外部顧問を解かれた後も、識者として度々招集され、その際には国際学校についてもなんども意見・説得した。しかし幕末期、驚く程はつみの先進的であったはつみの語学能力や海外知識も、この頃には官僚間では割とスタンダードなものへと成り下がってゆく。(人材が育ってきた)
 物事への俯瞰的な着眼力や価値観だけは150年後のものであるからこれに同調する者はなかなかおらず、それを認めて大いに助言願いたいと思う者もいれば、保守派などはまったをかける事も少なくない。
 またはつみは外国要人からの贔屓が凄まじく、彼女を通して話をしてほしいとまで言う外国要人もいる程だった。この事は日本にとって誇らしい人材であると同時に、一部のいまだ保守的な政府要人にとっては『油断ならない』と懐疑的な感情を呼び起こす元にもなっていた。よって同じ程度の能力であれば使いやすいと思われる人材が登用されていく様になる訳である。

 そんな中にあってもはつみは周囲の理解ある者達や、新しく理解を示してくれる様になった者達の助力を得続け、明治15年横濱にてインターナショナル・プレスクール(幼稚園)を創立。

 明治23年には文部省大臣となった森有礼の理解を得、日本の幼児教育を中心に国際的な遊び、価値観を学ぶ幼稚園『櫻清幼稚園』創立(後に大学付属となる)
 グローバル教養に特化した大学『櫻清大学』創立
 『全ての人へ示される慈愛の精神と知性』の象徴として白いハヤブサが用いられ、人種、性別関係なく多くの学生を導くシンボルとなった。国際学校として後に多くの外交官および国際派官僚を輩出した。慶応3年イカルス号事件の際サトウ及び英国領事、当時の幕府側の担当若年寄らに「外交の女神」と言わしめた事に倣い、女神を模した銅像が建てられている。はつみと親交のあった英国画家チャールズ・ワーグマンが英国領事館勤務時代のはつみからイメージした創作物だが、祖国英国の女神『ブリタニア』にオマージュしたのではないかと言われている。また同氏が描いた肖像画がエントランスに飾られている。
 ちなみに…肖像画が描かれたのは明治25年頃の事でありおよそ50歳であったはずだが、桜川はつみの美魔女っぷりは代々生徒たちの間で有名であった。世界へ向けた文明開化が成されたとはいえ、まだ当時は現代よりずっと平均寿命も老いの速さも早く、いまだ栄養の偏りによる脚気が国民の間で見られる様な状態であった。その中において齢50前後のはずが30代前後かと思える様な描かれっぷりだったのだ。後世となって幕末ブームに則り桜川はつみへスポットが当たる様になると、歴史に興味のない人でも食いつきやすい大きな話題になる。肖像画の作者であるワーグマンや後世による修正かとも言われたが、多く残されていた写真と比較する事によって『決して修正ではない』といった事が証明される。
 ましてや残された伝記と併せ読めば、まるでリアルかぐや姫の様に異質でありながら多くの異性から求められる女性であり、タイムトラベラー説すら彷彿とさせる話題に尽きないキャラクターとして、様々な形で親しまれる様になった。


・英和口語辞典…サトウ著の英和辞典。サトウ本人から寄贈。
 サトウが慶応元年頃から手掛け、明治9年に発行された辞典。英留学中やそれ以降においてははつみも協力しており、協力者一覧に名前が掲載されている。


・チャールズ・ワーグマンによる簡易肖像画…1885年(明治18年)、『A Sketch Book of Japan』発行。
 はつみも絵画のモデルになっている。


・フェリーチェ・ベアトによる写真集…慶応4年頃、Views of Japan発行
 はつみの写真も掲載されている。