―表紙― 高杉晋作本編 物語



⚠実際の団体・組織・人物とは一切関係ありません⚠



●序章:神隠し●



 慶応元年、長州。
 圧倒的不利とも見られていた功山寺挙兵で見事に勝利をおさめ、長州正義派の英雄となった高杉晋作こと谷潜蔵。彼はその後、西洋遊学に乗り出すつもりでいたが、次いで迫る幕府による長州討伐の報を受け急遽帰藩の途についていた。

 長州を『朝敵』とする幕府に対し事を荒立てず『恭順』の意を示さんとする長州内『俗論派』。これに対する派閥が、谷らが属し今日長州藩内での派閥紛争に勝利した『正義派』だ。その思想とは、幕府に対し武備を以ての恭順。長州毛利を朝敵とする宣言の撤回に向けた対話に向けての事であれば一旦は恭順の意を示すが、事と次第によっては抗戦の意を捨てない、その準備を解く気はないとする『武備恭順』を掲げるというものである。
 そして、その藩論をより強固に支持するべく軍事面の西洋化を視野に入れた『過去に類を見ない』軍事改革を唱える谷は下関を開港し、半年前の禁門の変に継ぐ西洋四カ国艦隊による攘夷報復戦争以来『誼』を通じる様になった英国を中心とする異国との貿易によって富や情報を得、より多くの武器・物資を取り入れんとする長年の持論を展開していく。正義派に掌握された藩もまた『一旦は』これを受け入れていた。
『富国強兵し、幕府の統治から一藩割拠し我らが君主自らが帝を御守奉る』
『西洋列強には世界の学びを以て対峙し、対等かつ抜け目のない条約を取り付ける事こそが、真に日本を守る為の大攘夷である』
 この構想こそが、西洋学に通じ師・吉田松陰とも交友のあった横井小楠の著書を読み漁り、その上で日本国内でも有数の『異国を視察した者』として谷が長年提唱していた『真の大攘夷』の姿だった。そしてその傍らには、世界の海を制した英国へと密航し、圧倒的な経験を以て開国論へと転じていた伊藤俊輔、井上聞多の姿もあった。

 しかしこの事が、今もなお根強く頑なに開国を拒む藩内攘夷派の怒りを煽る事になる。
 かねてより、長州過激攘夷派の勢いというのは水戸や土佐に引けを取らず、時に日本の情勢を変えてしまう程に凄まじい。今にも腰の刀を抜き放ちそうな剣幕で問い詰められた今日の藩政保守派達は文字通りに日和ってしまい、
「下関の開港は谷潜蔵、伊藤俊輔、井上聞多らが勝手に言い出した事である」
 と、その問題と責任を丸投げしてしまった。

 以来、谷達は攘夷派の刺客から命を狙われる事となる。
 この様に、日和った藩政の保守派が谷達に『面倒事』をなすりつけて来たのは今回が初めてではない。『尊王』の思想は藩内でもほぼ一致であったが、異国に対する『攘夷』か『開国』といった件については、安政や文久の時代からいくばくか情勢が変わり新たな学びを以て個々の思想に変化や世界への理解と明るみとなりつつある慶応の今となってもまだ、極めて強い殺意を煽る摩擦の強い問題であった。根強い攘夷派の者たちにとってみれば『幕府に対する武備恭順、長州割拠』の藩論号令が、すなわち『開港を以ての富国強兵』とは決してならないのである。英国率いる四か国連合艦隊からの攘夷報復戦で大きな痛手を被った事も記憶に新しいが故に、尚更の事であろう。
 しかし江戸幕府創設以来最大級の藩内紛争ともいえる功山寺挙兵を以て真正面から勝利を得たのは、朝廷に対する仁の志を踏みにじられて朝敵とされた藩主の真の憂いを想いながら、この長州、日本を『真の意味での大攘夷』へと導くべく立ち上がった谷ら率いる正義派だったはずだ。その改革が成った今でも、まだ『ウワの』攘夷派による脅威に毅然と立ち向かえない腑抜けた保守爺が藩政を牛耳っているのかと思うと情けなくて仕方が無い…というのが谷の思う所であった。


 ある日、攘夷派の刺客から命からがら逃げおおせた伊藤と井上が谷の庵に転がり込んできた。闇を利用し道なき道を駆け抜け、ようやく撒く事ができた様子だ。大きな怪我などは見当たらないが、衣服や髪は乱れに乱れ、四肢には細かな切り傷擦り傷が散見される。
「谷さん!あいつらそこらじゅうにおりますよ。はよう身を隠した方がええです」
「最早いつどこで斬られてもおかしないっちゃ」
 声を潜めながら、しかし死地より必死で逃げおおせてきた為にぐっしょりと濡れた額の冷や汗をぬぐいながら語る伊藤と井上を前に、肝っ玉の据わった男・谷も『いよいよか』と悟らずにはいられなかった。
「はぁ~、自頭で考えようともせん輩に追われて逃げるってのは、癪に障るもんだ…」
 そも、正義派の革命は成ったはずが蓋を開けてみれば今度は攘夷派に日和って自分たちを捨て駒の様に晒し上げる保守爺達に牛耳られているという状態では、真の軍事改革どころではない。今日長州は朝敵と宣告され『割拠した』状態となった今、異国との貿易により富を得て富国強兵へと筋道を立てなければ『武備恭順』すらなり得ないというのに、である。
 だがこうした状況を打破する為の一縷の望みとして、先の禁門の変以来消息不明とされる桂小五郎という男の生存情報も秘密裏に得ていた谷は、桂が長州に戻り政権を舵取りしてくれるまでの間、妾の『うの』と四国あたりへ亡命しようかとすら考え始めていた。

 そして、功山寺挙兵から半年も経たぬこの日、ついに攘夷派刺客の凶刃が谷の目前にまで迫ってしまった。挙兵の際共に戦った土佐藩出身の軍艦乗り・池内蔵太らと共に白石正一郎宅から出て歩いていた所を、兇徒どもに付けられていたのだ。人気のない通りに差し掛かった所で不穏な足音に気付き、内蔵太らと視線を合わせてから一息つくと各々が一気に駆け出した。

「どこへ逃げたか!異国被れの卑怯もんがぁ!」
「…ちっ…」

 仲間達は散り散りとなり、谷も遮蔽物を利用し機転を利かせて兇徒から逃げ出したものの、背後から投げかけられる「異国被れ」「卑怯者」などという心外な言葉に顔をしかめ、舌打ちする。
 別に命を惜しむ訳ではない。しかしこの命は藩主・毛利公の御為にあるもの。昨年夏の禁門の変、次いで英国ら四カ国艦隊報復戦争を経た今現在に至っても尚、師・松陰や盟友久坂らが成し遂げようとした志を『ウワ』だけで理解し、ただ血気に逸るだけの『ウワの尊王攘夷』を叫ぶ者どもにくれてやる首はないのだと、谷はがむしゃらに闇夜を駆け抜けた。

 それに、今一度会いたい人がいる。


「高杉さんがいなければ長州が立ち行かない、そんな時が必ず来ます!
 だから…その時まで、諦めないで下さい…!」

 『彼女』からそう言われたのは、谷がまだ高杉晋作と名乗っていた2~3年前の事だ。
 男装の麗人たる彼女は、その垢ぬけた容姿と奇抜な知識、浮世めいた言動にあやかって「今生かぐや姫」などとも言われていた。彼女とは多くの刻を共に過ごした訳ではなかったが、その限られた刻の中でもこの印象的な言葉を二度言われている。
 一度目に言われた時は喧嘩の途中であった事もあり、ただの売り言葉に買い言葉、己を落ち着かせようとする為のそれっぽい言葉だろうと深く受け止めなかったが、二度目にそれを聞いて以来深く心に刺さり、何度もその言葉を思い返していた。そして、その後あまりにも激しく二転三転する時勢の中で、谷の心が深く荒んだり迷いを得た時ほど、希望を与え続ける心の支えとなっていたのだ。

 きっと他の誰が同じ事を言っても、ここまで胸に刺さる事はなかったはずだ。『彼女』と高杉との間には、でまかせや世辞などではなく『その言葉が真実となる日が必ず訪れる』と思わせる程の運命的な何かが、確かにあったのだ。

 ―だがこの言葉をかけられた時はまだ、それがどれだけ自分の胸に刺さったのかは勿論、己が抱く彼女への想いにすら気付いてはいなかった。
 それどころか、二度目にこれを言われた際、高杉は大いなる挫折の真っ只中にあった為に、彼女に対し正しく言葉を選ぶ事ができなかった。
「…そんな事を言う為に、わざわざ来たってのか?」
 確かに、ナンダカンダと喧嘩を重ねてはいたが自分は彼女を気に入っているという自覚はあったし、自分を励まそうとしてくれた事は嬉しかった。当時は彼女も自由に外を歩き回れる状況になかった事を思えば、危険を冒し無理をして訪ねて来てくれた事も理解していた。
 …だが、心折れる程の状況故に素直になれない自分が、圧倒的にその時を支配していたのだ。

「いつもいつも、君は本当にお節介だな。
 …そんな事、誰も頼んじゃいないだろう」

 思ってもいない言葉をかけた。

 本当はずっと会いたかった。
 早熟すぎたばかりに他では共感を得られなかった『世界の中の日本』を、もっと語り合いたかった。
 長州に…傍にいてくれと言いたかった。



 それからおよそ2年間、今日に至るまで、彼女や彼女の言葉を思い出すたびに…思ってもない言葉をかけてしまった事を、人知れず後悔し続けていた。
 そして、彼女の言う『そんな時』が実際に訪れたという実感も、今はある。


 故に、もう一度会って、今度こそ素直に伝えたいのだ。


 君の言葉にいつも支えられていた。
 感謝している。

そして


 君の言葉は真に成った。

  ―君は、『かぐや姫』だったのか?


…と。



「…フン。我ながら女々しいのぉ」
 刺客に追われ命の危険を目の当たりにして思い出すのが『片想いの女』だとは。谷は一人鼻をならして自嘲した。追手の気配は遠くにしか感じないが、この下関で自分が行きそうな場所は一通り抑えられているだろう。不本意ながらも一気に走り抜けて来たせいで息が上がってしまった様なので、今度は気配も足音も消し、引き続き周囲を気にしながら暗がりを歩き始めた。

「高杉さ…あ、谷さん。こっちぜよ…!」
 逃走する内にはぐれたと思っていた池内蔵太の声が聞こえる。駆け寄ると物陰に隠れた内蔵太が周囲を見回しながら手招きをしていた。素早く合流し、自分よりも頭一つ背の高い内蔵太を見上げる。
「まだ生きておったか、しぶといな」
「ははは!何べん戦場に出ても死な…んごごっ」
 裏表のない清貧の志士である内蔵太が声高に笑うので慌てて口元を押さえ付け、改めて周囲の音に集中する。不自然な物音は聞こえず、どうやらまだ気付かれていない様で一安心ではあったが、内蔵太の腹に一発肘を入れて注意を促した。だが流石は、長州下関での外国船襲撃に駆け付け、その後の大和挙兵では幕府方の包囲網の中総大将を守り抜き、次いで禁門の変、西洋四カ国艦隊長州報復戦争、そして此度の功山寺挙兵と立て続けに参戦した男・池内蔵太。徳川3代目将軍家光公の代にあった『天草の乱』以来大々的な内紛もなく『平和ボケ』にあった天下において、開国以来混乱を極めた時世の火種から発生せしめた歴史に残るであろう戦禍に全て馳せ参じているのである。物怖じせず堂々としたものだ。

 近くで内蔵太が見つけたという井戸に駆け寄り、蓋を押し開けて中を覗き込む。
「この井戸なら水深も悪くない。一か八か、夜明けまでここで身を隠すか…」
「わかりました、ご一緒しますき。見張っちょりますき、先にお入りください」
 見つかれば一巻の終わりだが、刺客を巻いた今が刻とばかりに飛び込んだ。深度も含め良く知っている井戸のはずだったが、飛び入った体はどういう訳かどんどん深部へと吸い込まれていく。



『あっ』と思った…

 ―次の瞬間。



 気が付けば、見知らぬ場所に立っていた。




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