―表紙― 高杉晋作本編 物語



⚠実際の団体・組織・人物とは一切関係ありません⚠



●時代の寵児、令和にあらわる:前編●



 ある休日の早朝。
 朝焼けが差し込む二子玉川のほとりにあるジョギングロードを走る女性・桜川はつみの姿があった。3月中旬とあって春の息吹を感じ始めつつも早朝の冷え込みはまだまだ厳しく、吐く息を白く彩る。

 休日のルーティンである朝ジョギングをしていると、川のほとりで朝焼けを眺めている人を見かけた。それ自体珍しい事ではないのだが、目を引く理由として彼は着物を身に着け、裸足でつっ立っている。…こんなに寒い早朝に素足。しかも酷く薄着である。撮影か何かかと興味を持ち何となく足を緩めた所で、こちらの足音に気付いたのか着物男がくるりと振り返った。
 着物男と目が合うと躊躇いもなくこちらを見つめ、しばらく経ってから声をかけてきた。
「君、和語は通じるか?」
「へっ?わ、わご?アッワカリマス…!」
「少々尋ねたき義がある。」
「(ぎ?)」
 突然話しかけられた事に加え圧倒的に魅力を感じさせる清涼感と覇気のある声であった事を受け、思わず素っ頓狂な日本語になってしまう。それに加えなんとも奇妙な質問だなと違和感を感じた矢先、彼は真っすぐにこちらを見ながら至極真面目な様子で妙な質問をした。
「ここは英国か?」
「英国って…イギリスの事ですか?ち、違いますね」
「違うのか?俊輔が天まで届くような屋敷が地から生え並んでおると言うておったが…」
 何故ここで突然英国…イギリスの名が出てくるのか。質問が突拍子すぎて不信感を抱きかけたが、続けて彼が何気なく発した一言へと意識がフォーカスされる。『誰が何て言ってたって?』とはつみの意識が着物男に集中する中、彼は再び質問する。
「ここはどこだ?」
「???二子新地、です…」
「聞いた事が無い。萩ではないな…周防か?長門か?」
「え…ええ?」
「いや…恐らく僕がおかしなことを言うておるのは分かっておる。分かってはおるのだが…」
 流石にはつみの反応がたどたどしくおかしい事を察しているのか、着物男は少々困った様に腕を組み空を仰いでしまった。『おかしなことを言っている』という自覚がある様だ。

 しかしはつみの方でも、『おかしなこと』が脳内を巡り始めてしまっていた。
 彼に対し既視感を抱いていたのだ。
 …なんとなく見覚えのある顔。頬のあばた跡。妙な話言葉。着物もリアルなくたびれ感が尋常でなく、腰帯には当たり前の様に粋な扇を携える。そして、彼が纏う覇気のようなものと、その割に低い身長…。口から飛び出した『萩、周防、長門』そして先程さり気なく漏らした『英国』、『俊輔』という単語。これら全てに既視感があり、つながりがあり、とある事を彷彿とさせる。

 そう、本の中で何度も見て来た、とある人物の事を…。


 脳内での連想が活発化してワナワナしているはつみに対し、着物男の質問はまだ続いていた。
「ふたこしんち、とはどこの藩の地名じゃ」
 『なんでそこで藩とか出してくるの…』とますます不審と興奮に陥りつつ、なんとか会話を進める。この場合、『不審』とは『何らかのドッキリかいたずらか?』という懸念。『興奮』とは『例えいたずらであっても何かおもしろい事になってきた』『幕末のにおいがするっ』という、いわゆるミーハー的な感情の高ぶりである。
「藩っていうか、ここは川崎市です」
「ん?かわさきし?」
 彼は更に首をかしげ思考を巡らせた。
「かわさきし…川崎の事か?とすればそこに流れるのは多摩川…ここは二子という事か…?!」
 何かヒントでもつかめたのか自問自答を繰り返す彼を注視しながら、はつみは寒さではなく興奮によって震える手でウエストポーチから財布を取り出し、とある一枚のカードを探し出す。以前、趣味である幕末関係で知り合った仲間と出向いた幕末オタクの為の居酒屋で貰った会員カード。坂本龍馬、高杉晋作、西郷隆盛のうちから一種類を選べたのだが、はつみは迷わず高杉晋作のカードを貰っていた。そこには高杉のセピア写真が印刷されており、これを目の前の着物男と交互にみやるのである。
「ァ…あわわ…」

 そっくりさんとかそういうレベルではない。

 やはり、高杉晋作に瓜二つである。

 高杉晋作が存在したのは江戸時代後期、俗にいう『幕末時代』である。現山口県である萩藩(長州)出身で、次いで先ほど彼が当たり前の様に口にした『萩、周防、長門』という名称は長州藩内に存在する地名だ。更に『英国』及び『俊輔』という言葉については、高杉とよく行動を共にした『伊藤俊輔』が『英国へ密航留学』したという史実を以て安易に関連付けられたという訳だ。
 ちなみにこの伊藤俊輔とは、かの有名な明治初期の内閣総理大臣・伊藤博文の若き頃の名称である。

 そも、はつみがこの様な事をすぐに連想し出したのは彼女がミーハーな幕末ファンである事に起因する。ミーハーと言っても適度に史実研究文書を読み漁り、聖地巡礼として各地の史跡を訪れ、武士を相手に『推し活』をする程度には『ミーハー』であり『ガチめ』な幕末系歴女だったという訳だ。

「ウウッ!ま、眩しい……!?」
 はつみが興奮しているせいなのかどうなのか、朝焼けの光を浴びる彼の『覇気』は一層清々しく魅力的に輝きを増して見える。そしてこの令和の時代には極めて珍しい、初対面の異性相手に躊躇う事なく語りかけ、見つめてくるその堂々たる立ち振る舞い。この時代の普通の人達にはそうそうない様な、圧倒的に陽頑な精神力が宿っている様に思えた。加えて先ほどから彼が口にする数々の言葉。標準語を話そうとして時折混じる『むかしことば』は、思わず聞き流してしまいそうな程自然に彼の口から飛び出してくる。
「(ほんもの…いやいや流石に妄想しすぎ?でも、DEMO…)」
 キョドったはつみが硬直しているせいで図らずも見つめ合う形となったが、逆に彼の方が空気を読み、礼を取って名乗り出てくれた。

「申し遅れた。拙者は長州藩士、谷潜蔵と申す。」

「谷っ…えっ、そっち!?」

『やっぱり!!!』と思うと同時に『そっち!?』という感想が脳内で交錯する。谷潜蔵とは高杉晋作の改名後の名だ。その事自体は知っていたのだが、現代の世間一般において彼は『高杉晋作』として広く認知されている。人気幕末志士の筆頭である高杉は、様々な漫画、小説、ゲーム、映像作品などにおいて『登場キャラクター』としてしばしば採用されているが、そのほぼすべてが『高杉晋作』名としての出演といって良い程である。かの大河ドラマでさえ、彼の生涯でどのシーンを描くかにも関係なく、その登場時はほぼ『高杉晋作』という役名で統一されている。例えば薩長同盟に挑む坂本龍馬にピストルを贈ると言う有名なシーンなどにおいて、その頃には既に谷潜蔵と改名されている筈の彼を『高杉晋作』として演出している事が多いという事だ。
 そんな『谷潜蔵』の名をしれっと出してくるというのは、少なくとも幕末史に興味があり高杉の事もある程度は知っているという者と思われた。そんな人物が何故今ここで自分と会話をしているのかまでは分からなかったが、はつみは『何この唐突な幕末絡み!』とばかりに益々興奮し、後ずさり、しまいには持っていたものを落とす。そんなはつみを、腕を組んだままじっと見つめる目の前の着物男。
「如何した」
「…エ…いやぁ…うそ、ほんとに…?」
「?僕の名か?『君に』うそをついて得る利などあるまい。―ほら、落としたぞ。」
 はつみが落としたまま一向に拾おうとしない紙切れを拾い上げてやった。そして何気なくそこに印刷された『絵』を見て、驚いた様に二度見する。はつみの顔を見てからまた三度見となる程、心底驚いた様子だ。
「何故僕のホトガラフがあるんじゃ。君は僕を知っとるのか?」
 ホトガラフ。まるで通訳を通したかの様に『フォトグラフの事』と分かるのは、やはり江戸時代の資料に馴染みのある歴オタの思考回路故であろう。
「いや…これ自体は会員カードというか…アノ、あなたの事は一方的に存じ上げていると言うかなんて言うか…」
「一方的に、とはどういう意味じゃ?」
「あの…ええ…これって本当にドッキリとかじゃないの?」
 名乗り返す事も無いどころか中途半端な応答ばかりな挙句何故かきょろきょろと周囲を見回し始めるはつみに、至って真面目な様子の着物男はついに苛立ったか苦言を漏らした。
「おい!少しはまともに話ができんのか?」
「ごっ、ごめんなさい」
 思わず背中を正してしまう様な鋭い声をあてられ、反射的に謝るはつみであったが、高杉もとい『谷』と名乗った彼は直ぐに『すまん』と詫びて来た。意味不明な状況に思わず短気が止まらなかったと。それ以上彼は言わぬが、元はと言えばはつみが「ア」だの「エ」だのと落ち着きのない態度でロクな返答をしていなかった事に起因する苛立ちである。もし彼が『本当に困っている』のであれば、何かの番組のドッキリではないかと終始疑って彼の困り事を聞こうとしないなど大変失礼で人でなしな態度であった事をもっと早くに自覚するべきだった。
「こちらこそごめんなさい…ちょっと落ち着きます…」
 深く息を吸って吐きだす動作を行うはつみを黙って見守る傍ら、谷もまた『ふぅ』と気持ちを切り替えて一つ息つく。そして再びはつみと正面から向き直った。

「うん。では名を聞かせてくれるか。」

「さ、…桜川はつみといいます」

「……そうか。はつみか。」

 少々間を持たせた後、谷は何かを見定めるかの様に、じっと奥まで見透かされる様な視線を投げかけてきた。覇気とともに清涼感のあった声は心なしか穏やかに響き、その視線は物事の芯を見極めようとするかの様に凪いでいる。
 『雷電の如し』『傍若無人』等と揶揄・評価される事の多い『高杉晋作』であったが、実は女子供にはそれなりに優しく、妻のご機嫌伺いをする一面を併せ持つ男である。今こうして通じる視線からも『短気だが嫁には一度も怒鳴りつけた事が無い』という逸話の信憑性をまざまざと感じる。加えて、自分で自分を『賢がり』と自覚するほど、両親にとって大事な大事な一人息子である己の立場についてもきちんと考え、苦悩する一面もあった。危険な事をせずまっとうに先祖代々辿ってきた道を歩んでほしいとする偉大な父の期待と、荒ぶる時世に身を投じたいとする己の心との間で葛藤を繰り返す事もあった。
 先ほど思わずはつみに苛立ってしまった件に関しては、『時代を飛び越えて今ここに存在する』というおそらく他の誰もが経験した事のない混乱の中にあった上に、それをあからさまに疑惑視する失礼な相手であれば苛立って当然というものだ。寧ろそんな中であっても『女』相手に素直に謝ってくれる辺り、やはり彼は、本来とても真っすぐで、そして優しい人なのだろうと思う。
 …陽頑で短気を起こしがち、意見が取り入れられなければ飛び出したりヤケ酒色欲に走るなど破天荒とされる面が目立ったのは間違いない。しかし決して、考えなしに飛び出し、あるいは投げ出し、その先に『勢いで破天荒な英雄となった』…という人物ではないのだ。

 朝焼けの多摩川沿いで見つめ合う二人。
 はつみは自身の態度に対する猛省と谷への尊敬の色をにじませていたが、彼はただじっと『かつて見つめた瞳と同じ色をした、はつみの瞳』を覗き込む。

 何か別の、途方もない答えを求めるかの様に。




※ブラウザでお戻りください