―表紙― 登場人物 物語 絵画

序 章





序章:Reincarnation

 見上げれば果てしない虚空。
 雲がなく星もない、どこまでも深く濃く広がる闇。
 目を引くものはただ一つだけ。
 落ちてきそうな程大きな満月が悠然とそこに浮かび、青白い光を放っている。

 そんな不思議な空を見上げる一人の少女がいた。

 彼女の名は桜川《さくらかわ》はつみ。


 彼女は日本の令和という年号に生きる大学生であり、彼女が今見ているものは『日常であり得ない光景』と言っても過言ではない。圧迫感を覚える程の大きな月の下、月光に照らされる足元には無機質な砂利と岩が無造作に転がり、そこに立つ者の影を短く刻み込んでいる。この無機質な大地が遥か地平線まで延々と広がり、その果てである地平線からは延々と続く大河が伸び、今、茫然と立ち尽くすはつみのすぐ側を穏やかに流れている。

 こんなに物悲しくも美しい、スケールの大きな景色を他にどこで見れるだろうか?故に今のこの状況を夢だと思い込もうとしているのだが、月夜を見上げる視覚も、足元の砂利を踏みしめる感触やその音を聞く聴覚、五感どころか第六感までもが冴え渡るかの様なこの状態が果たして『夢』なのだろうか?
「まあ…夢だよね?」
 疑問は残るが、ともあれ彼女は元来楽観的な思考の持ち主の様であった為に割と軽率に考え、とりあえずとばかりにこの不思議な景色の中を歩き続けるのだった。


 もう少し進んだら何か見えてくるかも知れないと、当てもなく川沿いを歩き始めた。川幅は10m程度だろうか。今見ている限りでは川の対岸へ続く橋はない。その水は川の流れを感じさせない程に穏やかで澄み渡っており、上空に輝く月の光を柔らかく反射させてキラキラと輝いていた。一方でその水中には魚や水草といった生物はおらず、その川底は上空の虚空と同じ様に闇となっており、これほどの水の透明度を以てしてもその深さを見測る事ができない。
「底無しなの…?ほんとに…?」
 美しさの反面まったく無機質な水中を計り知れない皮底まで目を凝らして見つめると、不意に吸い込まれそうな感覚に陥ってしまう。怖くて咄嗟に身を引き顔を上げるはつみであったが、その時、川底が見えないのと同じ様に、河の対岸の先も見渡す事ができない事に気が付いた。川の「こちら側」は月明かりに照らされ、無機質な平原の果てまで見える。しかし「あちら側」は、手前寄りはこちら側と同様に月明かりで照らされているものの、さらに向こう側へと視線を移すにつれてその地表は次第に薄闇から濃い闇へと覆われていくのである。再び好奇心で目を凝らし対岸の闇を見据えていたが、またもや吸い込まれそうな感覚に陥りとっさに目をそらした。
「見ちゃいけないもののような気がする…」
 創作物などでよく見る『うごめく闇』等という表現の実態とはこういうものなのだろうかと思う程、深い闇に意思のようなものを感じ取ったのだ。夢だと思いつつも、込み上げる不安はリアルな感覚を以てに心を支配してゆく。

「これが現実だとしたら、どういう状況なの?」
 不気味な対岸の闇から少しでも離れる様に川辺から離れようと踏み出した時、また驚くべき事がはつみの目前で起こっていた。川の『こちら側』に広がる景色は、先ほどまでは確かに『地平線まで延々と砂利が続く無機質な大地と川』が広がっている筈だった。だからこそはつみは『もう少し歩いてみよう』と当てもなく歩いていたのである。しかし振り返ったそこは咲き乱れる赤椿の群集地帯と変貌していた。まるで切り抜かれた庭園が無造作に造り置かれたかの様に、あまりにも突然に砂利の平原に出現している。
「うわぁ……すごい」
 驚きながらも、先ほどの様な不安や恐怖めいた感情は呼び起こされない。 はつみよりも高い位置まで成長した見事な枝には艶やかな葉が茂る。多々に月光を照らし返す深緑の葉は、紅く咲き誇った椿の花をひと際輝かせていた。
 椿へと近づいたはつみは、多く咲き乱れる椿の花の中から目に付いた一つの花を見つめる。おそらく人生で初だろうと思われる程、椿の花を間近から見つめていた。

 まるで『触れてほしい』と花が訴えかけているかの様な存在感…。
誘われる様に花へ触れようとしたところで、その動きは不意に止まる。

「椿の花言葉をご存知ですか?」

「えっ?」

 椿へさし伸ばした手が止まったのは、誰も居ないと思っていたところから声をかけられたからだ。声が聞こえた方へ振り返るはつみの視界には川が映る。しかし、先ほどまでは確かに無かったはずの『橋』がまたもや突如現れており、川の対岸とこちら側を結んでいる。そして、その橋をゆっくりと歩く人の姿があった。

 …女性…?いや、どうやら少年…の様だ。

 淡い赤みを帯びた長い髪と、その身にまとう衣服はまるで舞台の衣装かといわんばかりに風変わりなものだ。それは例えるなら海外に多く存在する神父や牧師といった聖職者達の衣類に似ている気もする。一瞬女性かと思わせるその中性的な顔立ちには繊細な美貌を兼ね備えているが、病的な程の肌の白さ故か、美しさよりも儚い印象が先行する。静かに降り注ぐ青白い月光がより一層彼を儚く見せているのだろうか。
 橋を渡り終えた少年は足元の砂利の音も立てない程静かに近づいてくるのだが、それよりも少年が橋を渡り終えると同時にその橋が消えてしまったのを目撃してしまい、はつみは目を白黒させる状況に陥ってしまった。何度も目を瞬かせるはつみに、少年は平然とした様子で再び声をかける。
「こんな所で出会うとは奇遇ですね。」
「えっ?は、はい…」
 何の裏事情も感じさせない芸術品の様な笑顔に、はつみは唖然としつつも素直に頷く。ハッと思わせるほど美しい硝子の様な碧眼は真っ直ぐに彼女を見つめているが、右目が眼帯で覆われているのがまた印象的だ。少年は口元に手をあてると「ふふっ」と笑い、椿に手をかざそうとしていたはつみの隣に並んで立つ。

「…奇遇と言うより、必然なのでしょうか。この椿の花の示す意味を考えれば。」

「え?ええと…椿の花言葉って、何でしたっけ」

「”我が運命、君の掌中にあり”です。」

 椿にそんな大層な意味があったとはまさに初耳であったが、その椿の前で自分と出会った事が『必然』だのと言われた事などと考えると、心中穏やかではいられない。
「(え、もしかして『運命の出会い』とか言いたい系…?)」
 こんな緊張感のない妄想を突発的に閃くのも、彼に対して深刻な警戒心を抱いていない証拠でもあるだろう。それにしたって、一体なぜ彼はその様に運命めいた言葉を平然と紡ぐのだろう?ただのプレイボーイなのだろうか?少々の疑問を持ちながらも、彼の話は耳に心地よい声と言葉遣いで続けられた。
「…僕もこんなに沢山の椿は初めて見ました。あんなに近く輝く月を見たのも初めての事です。…そもそも月自体、ここにはありませんでしたから…。」
 続く少年の話からすれば、どうやら普段この場所には椿も無ければ月も出ていない様だ。椿はともかく、月明かりなくして一体どれほどの闇に包まれるのだろうか?少し想像しただけで、あの『川の向こう側にうごめく闇』が忍び寄ってくる不安感が心をよぎる。そして彼の言葉によれば『普段からこの場所は存在する』という事の様だ。少年にはここでの過去を語る記憶が存在するのだから。

 …では、これは『夢』ではなく『現実』に存在する場所だという事なのだろうか?

「あの…もしかしてこちらにお住まいなんでしょうか…?」
 たまらず尋ねてみるが、どういう訳かその少年ですら『よくわかりません』と自嘲めいた微笑を浮かべるだけだった。にわかに視線を落とし、
「ここに住んでいるといえば住んでいるのかも知れないし、道に迷ったといえば、迷い続けているのかも知れません…」
 と。少年のよくわからない返答に不安を感じたはつみは帰宅方法を尋ねてみる。
「…あのう…私、どうやったら家に帰れますか?」
「貴女は帰ることをお望みですか?」
 率直に頷いたはつみに、少年は月を背にして立ち、はつみが最初に立っていた場所へと向かって指をさした。
「(私が来た方角…)―あ、あれっ?」
 あの場所で初めて周囲を見渡した時、確かに無機質な砂利の平原が広がる景色があったはずだ。しかし彼が指をさした先には、あの対岸だけに見えていた筈の濃い闇が打ち寄せる波の様に迫っているのである。ヒュッと頭から血の気が引くのを感じ、つい一歩退くはつみに、彼は続ける。

「ここより真っ直ぐに行けば帰る事もできるでしょう。今あなたの前にある景色に背に向ける…それはこの場所に満ちる”意識”や”願い”、”運命を委ねようとする者”へ背を向けること…。すなわち、これらと何ら関わりない『あなたの日常』へと戻る事に繋がります。」

「…え?え?」

 なにやら難しい…舞台の様な台詞にはつみは戸惑うが、少年は『ここからが本題』とでも言わんばかりに更なる叙事を連ねた。

「ここは、全ての叶わなかった意識と願い、そして運命の終着点です。生を受けた者の旅路はこの川の源流で真の終焉を迎え、全ての穢れを落とし無垢となった願いや意識は川へと流れこみ、永遠かとも思われる程ただただたゆとい続けながら、少しずつ月へと昇華し象ってゆく…。貴女が今いる所は、そんな場所なのです。」

「…ちょっとまって、え…?……とりあえず、これは夢?」

「貴女が日常へと戻れば、夢となるでしょう」

『ええ…』と露骨に眉をひそめるはつみに穏やかな視線を送り続ける少年。

 戻れるのか戻れないのか、現実か夢か。

 そもそも彼の話を聞いた率直な感想としては、ここはまるで『黄泉の国』の様な場所であると感じた。…ともすれば、そこに流れる果てしない川はかの有名な『三途の河』という事なのだろうか?それならば生きているはずのはつみが向こう岸へ渡れないというのもわかるし、命あったものの終着点がここだというのもイメージがつく。

 しかし、三途の河の向こう側というのは誰もが足を踏み入れたくなる様な美しい花畑が広がっているとよく聞いていたが、あるのはただ不気味にうごめく闇だ。

「それじゃあ川の向こうは?行ったらどうなるの?」
「向こうにあるのは無だけですから…貴女には相応しくない。」
 穏やかで儚げなその顔に、寂しげとも無気力とも見える色が見え隠れする。
「君はその『無』からやって来たって事?」
 頷くだけの彼に対し
「でも、帰り道は知ってたんだよね…?」
 と、彼が示した『日常への帰り道』を指して言う。

 『何故君は帰らなかったのか』と。

「…ふふ。あれは貴女の出口であって、僕の出口ではないのです。僕には帰り道はありません。そして行き先も…。」

「そうだったんだ…」

 あまりにも寂し気に囁くものだから一体何と答えたらいいのか分からず、押し黙ってしまうはつみ。彼の寂しさ、虚無感、心が空っぽになってしまいそうな感覚がはつみの心に伝染し、胸が圧迫される。

「でも…貴女が来てくれたから…」

 自分の為にはつみが悲し気な顔をしている事に気付いた少年は、自分の後ろめいた発言を自責するかの様に小さく頭《かぶり》をふるう。そして初めてはつみと対峙した時の様に姿勢を正し、語気に慶びを帯びた声で言葉を続けた。

「貴女がこの無機質な大地を歩き、僕がいる方を見つめてくれたから、僕はまた目覚める事ができたんです」

 はつみが『飲み込まれそうだ』と恐怖した闇には、そのまま感じた通り彼が飲まれてしまっていたのだという。はつみの意思に満ちた視線は、川岸の対岸で闇にまどろむ彼の意識を呼び起こし象らせた。

 そして『何もなかった』という場所に現れた月が願いや希望に満ち、その光を浴びて赤椿が一斉に花開く。

 はつみが辺りを見渡したのと同じ様に、少年も目を細めてその景色を見渡した。


「…全ては、貴女がここへ来てくれたから…」


 そう言って、『奇跡が訪れたから』といわんばかりに優しく微笑んだ。


 そんな慈愛に満ちた笑顔を向けられたはつみは、こんなにも儚い少年がこれからどうするのかが気になった。自分と共にあの月や椿が現れたというのなら、自分が去ればまた砂利と川だけの闇に包まれた場所になるのではないだろうか。対岸の闇を語っている時の彼は、彼自身が虚無となって消え入ってしまいそうな程に弱弱しく、不安めいた感情がこちらの心にまで伝染してくる様だった。
 一方で、月や椿を仰ぎ見ると不思議な『使命感』に似た、心の奥から徐々に湧き上がる様な感情を得ている事にも気づく。これが一体何に対する『使命感』なのかまではわからなかったが、安易に『去る』という選択をする事に戸惑いを感じている事を自覚する程度には、心が騒めいている。

 この場所が何なのか、自分にどう関係しているのか、何故ここに迷い込んでしまったのか。そんな事は全部後回しで
「…何か、私にできる事はあるかな…」
 気が付けがそんな事を口走っていた。

 少年は少し驚いた様な表情を見せた後でまた微笑み、そして少しだけ泣き出しそうな表情を交えながら、細々と言葉をこぼす。

「…もしも……」

「え?」

「……。」

 『いや、これは言えない…』

 表情を曇らせて言葉を詰まらせた少年に、先ほどからはつみの中でくすぶっていた『使命感』に似た感情が更に焚き付けられる。
「…わたしなら大丈夫。よかったら言ってみて?」
 そう言うはつみの強いまなざしに、少年は先ほどまでは見せなかった救いを求める様な視線を向けて言葉を続けた。

「…もしも貴女にあの月の加護があるなら…日常へ続く道ではなく、この赤椿《つばき》の小径をゆく事を選んではもらえませんか…?」

「赤椿の小径…?」

 示された方を見てみれば、椿の群集の一角に一層椿の花が密集したアーチの様な道が出現している。川に掛かっていた橋といい、帰り道へ続く闇といい…物理的に突然現れたり消えたりという状況にはいまだに慣れない。だが、彼が言う事には強烈に惹きつけられる響きがあった。

 この自分に、願いや希望といった意識の象徴であるあの月の加護があるとは?

 あの椿のアーチは「自分の『日常』にはつながっていない」。ならばどこへ…?

「あの道はどこに繋がっているの?」

「わかりません。あなたの希望…僕や、誰かの願い…それが交わる場所…。あの椿が示すとおり、様々な運命に彩られた小径です。様々な、新しい運命が待っています。」

「…そっか…。」


 はつみには2つの道が示された。

 月と椿に背を向け、自分の家…自分の日常へと戻る道。

 月と椿に彩られた、少年の願いとはつみの希望が交錯する場所へ続く道。


 佇む少年の隣で、はつみは二つの道を見比べていた。ここで未知の道を選んだ場合…自分は一体どうなるのだろう?この夢は、この世界はいつまで続くのか?その答えはわからないし、不安もあった。


 しかし、はつみは『日常への道』に背を向ける。

「私、赤椿の小径を行ってみようかな。」

「……ああ…!やはり貴女は……」

 感極まった様子でつぶやいた少年は、その胸に下げていたロザリオをぎゅうと両手で包み込み、彼が信仰する何かへと祈りを捧げる。やはり彼は聖職者なのだろうか?彼の祈りが終わるのを待っていたが、突然ハッとした様子でロザリオを手放し一瞬放心した後に再びはつみへと振り返る。
「貴女にお渡ししたいものがあります。」
 今の一瞬の不自然な動きは何だったのだろうという疑問は直ぐに頭から離れて行った。

 彼ははつみにここで待つ様にと伝えるときびすを返して川へと歩を進めていき、ほとりで立ち止まるとその場に膝を付いた。もしやまたあの橋が突然出現するのかと目を凝らすはつみであったが、少年が再び祈った事によって出現したものは、橋ではなく、美しい桜の花びらであった。

「わぁ…」

 桜の木はどこにも見当たらない。しかしどこからとも無く現れ彼の周囲へと降り注ぐ花びらは、月光を浴びてキラキラと輝いて見えた。吸い寄せられる様にして川へと降り注ぎ、桜流れる川となったそこから棒状のものをひとつ取り出す。

 花びらが舞い散ったのはほんの一瞬で、少年が川からその物体を取り出すと同時に、花びら達も空気中あるいは水中に吸い込まれる様にして消えていった。呆然とするはつみの前に再び戻ってきた少年が手にしていたのは、棒ではなく、一振りの立派な刀であった。

「…桜清丸《おうしんまる》…貴女にもっとも相応しい、唯一無二の刀です。」

「かっ、刀…?」

 銃砲刀剣類所持等取締法を施行している国家で生きてきたはつみにとって、刀とはショーケース越しに見る事ですら稀な事であった。先ほどまでの幻想的で美しい演出に浸る余韻もなく、突如として現物を託されたはつみは、驚いたまなざしで少年を見やる。
「この河の水で清め、僕の祈りを込めました。どうぞ、お受け取り下さい」
深い紺色をした鞘には椿の装飾が施されている。柄を握り、ぐっと力を入れて刀身を引き出した。鯉口を抜けた刀身は、月光に煌きながらすらりとその姿を現す。
「うわぁ…綺麗…!」
 刃引きもされていない本物の刀など間近で見たらきっと怖くなってしまうだろうと思っていたのだが、寧ろその洗練された美しさに見入ってしまう程であった。よく見ると、刀身部分には桜の模様がちりばめられている。…否、刀身部分に見える桜の模様が、まるで水面《みなも》に浮かぶかの様にゆらゆらと揺らめいている。驚いたはつみは眼を凝視させて様々な角度から刀身を見やったが、やはりそこに映る桜は揺らめいている。次いで首を回して周囲を見回してみるが、刀に写り込む様な桜がある訳でも無い。
「これ、動いてる?どうして…?」
「その刀はこの河に映し流れるものを宿した、いわば妖刀。その真の力は貴女にしか扱う事はできないでしょう。その刀の加護を受け、運命を切り開く意思があるのなら、決して肌身離さぬ様…」
「運命を切り開く…」
 少年ははつみが視線を落とす刀身にスッと軽く指を滑らせながら言った。血の気のない白魚の様な指に撫でられ、刀身に浮かんだ桜の花びらはフワリと舞っては再びゆらゆらと刀身の中でたゆとう…。返す言葉もなく呆然とするはつみであったが、少年に促されるがままにゆっくりと鞘に収めた。
「あ、有難う…こんなに凄いもの、本当に頂いてもいいの?」
緊張した面持ちで尋ねるはつみに『もちろんです』と頷く。
「桜には見るもの全ての意識を引き寄せる清らかさがあります。あなたには桜の様な気風があるからこそ、あの月が現れ、椿が咲いた…すべての現象はあなたという存在から連続して起こっているのです。僕はそう思ったし、だからこそ、この河も僕の祈りに応えてくれたのだと思います。」
「あ…えと…あ、ありがとう…?(色んな意味で、はずかしい…)」
 何の躊躇いもなく真顔で照れくさい事を言ってのける少年に対し、はつみは思わず頬に熱を感じて俯きながら妙な礼を述べていた。そして受け取った桜清丸を大切に両手で握りしめ、いよいよ赤椿のアーチへと体を向ける。少年ははつみをエスコートするかの様にスッと歩み出ると、アーチの横に立ちはつみを待った。

「この先は、私の希望と君の願いが交わる場所に繋がってるんだっけ。…君の願いって何なの?」
 正直、はつみには『自分の希望』すらよくわかってない。あまりにも突然の事だから。人並みに数ある『希望』の中から、どの『希望』があの道に適用されたかなんて想像も付かないのだ。だから、道の先がどこへ続くのかすら全く検討も付かない。色々と教えてくれる彼ならば、色々と分かっているはずだと思っていたのだが…。
「…わかりません…。」
 これでますます、道の先の予想は付かなくなった。
「そっか…。ねえ、また会えるかな?あの道の向こうで」
「はい。」
 頷く少年であるが、やはり彼の存在はどこか儚い…。
「じゃあ、名前、おしえてくれる?見かけたら、声かけるから。私の名前は桜川はつみだよ。」
 そう言って、はつみは自分の名前を彼に告げて自己紹介をした。少年は、まるで心に深く刻み込む様にしてその名を口ずさみ、忘れないとでも言わんばかりに微笑んだ。そして彼も名を告げようとするのだが…。
「はつみさん……ありがとうございます。僕の名は……」
 そう言いかけて、不意に口を閉ざし、俯いた。
 気品のある端整な顔立ちが少し悲しげに影を帯びた後、再びはつみへと視線を向けると苦笑がちに小さく微笑む。

「ルシファ…と呼んで下さい。」

「…?」

 自己紹介をするには少々不自然な言い回しに、はつみは素直に小首をかしげた。その様子にまた小さくくすりと笑った少年は、「驚かないで」と優しく念押しをして話を続ける。
「本当の名はわからないのです。やはり、無にまみれて忘れてしまったのでしょうか。」
「そっか…でも、それならどうして『ルシファ』なの?」
「フと思い浮かんだのが、この「ルシファ」という名称でした。きっと何か別の名称なのでしょうが、これを名とする事にしたのです。」
 日本語を話すものの風貌はまるで外国人である彼には、その名前は『あり得る』のだろうか…。異国の聖職者のローブの様な衣装を身にまとい、さらにその胸にはロザリオの様なアクセサリをつけているところに「ルシファ」とは、世界の宗教には殆ど興味のないはつみでも違和感を禁じ得なかった。どうも、いわゆるキリスト教の聖書に出てくる天使「ルシフェル」を連想してしまうからである。しかしそのルシフェルというのは確か、野心や嫉妬から父である神を裏切り、天界から追放された。その逆恨みから地獄の主へと堕ち、憤怒の王となった…という神話がなかったろうか?
「もしかしたら僕に関係がある名称なのかも知れません。」
「そっかぁ…何か思い出せるといいよね…」
 あまり触れない方がいいのかも知れないと、はつみは考える事にした。そもそも宗教的な事情には殆ど無縁な文化風習のもとで育ってきたというのもあり、スルーする事自体はそう難しい事ではなかったのだ。
「ん?」
 気づくと、ルシファの澄み切った碧眼がまっすぐにはつみを見つめていた。一気に引き込まれる鮮やかなシアンブルーの瞳にハッとしたはつみに、彼は言う。
「失った自分の名前を思う事自体、今までになかったのに…。やはり貴方が現れたから…きっと何かの兆しであるに違いないです。」
 にわかに嬉しそうな表情を浮かべるルシファに、はつみも妙な考えは捨てて笑顔で応えた。
「そっか。私がこのアーチの先に行ったら、もっと何かを思い出すかも知れないね!だって二人の希望が重なり合う場所なんだから」
「…はい!」
 二人して微笑み合い、この時ようやく彼の心の温かさ、人らしさに触れた様な気がした。
「…目が覚めたら、夢だったって事はないよね?」
「…貴女と出会えた事や…僕が彷徨う事が夢であるなら…それはそれで構わないと思います。」
 美しい碧眼にどこか破滅的な色を浮かばせたが、それも一瞬の事だった。はつみが気づく前に再び柔らかに微笑み、ロザリオを握握ると膝をついて祈りを捧げた。

「bless you.」

 ルシファの口から英語が出た事に、違和感を感じなかった。それははつみがそういう文化の下で育ってきたからでもあるが、それよりも不思議と心が穏やかになり、手にした桜清丸からは勇気が伝わってくるかの様だった。それはまるで、彼の祈りが心身に降り注ぎ力となるかの様な感覚だ。

 はつみは「ありがとう!」とルシファに手を振り、心が向くままに椿のアーチをくぐる。

 これが夢なのか何なのか。夢じゃないとしたら、自分は一体どこへ向かうのか。

 月光と椿の導くままに進むことに、不思議と迷いはなく……

 振り返ったアーチの向こうからは、神に祝福を乞うルシファの美しい歌声が聞こえていた。







そして、幕末の土佐で目を覚ます。

とある和室の一室にて、ぼんやりと周囲を見渡すはつみ。
そこへ現れたのは、かの有名な坂本龍馬。

…の姉、乙女であった。






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