―表紙― 登場人物 物語 絵画

京料亭『白蓮』との出会い





 文久2年10月初め。
 あまりに血生臭い天誅の横行について関白近衛から直々に「天誅を控えるように」との苦言が武市に入ったのが、およそ半月前。武市は周囲に対し関白の言葉を伝えるも、土佐勤王党員らの勢いが留まる事はない。また武市自身も、土佐藩主が伴奉する勅使の東下に係る政策の主導者として文字通り『休む暇もない』程の激務をこなす日々を送っていた。

 はつみはとある武市の思惑から特例的に同じ寓居内へ住まわせてもらっているとはいえ、人の出入りだけでなく彼自身もどこぞへと出る事が多いのもあり、武市と自由に会い、語り合う事ができる訳ではなかった。あの堅物の武市が寓居に囲っているというだけで、はつみが男装をしている女だと知っている者の殆どが『あれは武市先生の妾なのか』と誤解している一面もあったが、実際はまったくそういう親しい間柄ではない。妾なら妾らしく何か特別に時間を作ってもらえるといった事も皆無であった。…武市に近付く事ができない。それはつまり、はつみが単身京へと乗り込む程に一大決心をした『武市の運命を変える』という壮大な計画に殆ど進展がないと言っていい状況であった。


 ―とある日、はつみと寅之進は木屋町通りを南下していた。秋に江戸へ向かう土佐勤王党と同時期に江戸へ出る許可を得たいとの事から武市との対話を望んでいたが、ほんの少し前に出かけたというその後ろ姿を追いかけていたのだ。とりあえず、話をする為の約束だけでも取り付けたかった。
 しかし行く当てが外れたか、いくら進んでもその姿を見つける事はできず。四条通りを超えたあたりで何やら別の揉め事に遭遇してしまった。

 町人男性 ―主人― は風呂敷に包んだ荷物を持って歩いていたのだが、そこへ何やら小汚い恰好をした3人ほどの男が絡んでいく。天誅による尊王攘夷の嵐が吹き荒れた京では、一部尊王攘夷派の志士達、あるいはその志士を騙る不逞浪士による無銭飲食や金銭の無心等等といった節度の無い犯行が目立っていた。日頃からその様な『志士』の有り様を苦々しく思っていたはつみは、寅之進と共に彼らの方へと歩を進める。

 ―ドン!
 と肩を突き飛ばされる形で尻もちをついた主人の手から荷物が落ちると、中で『ぢゃりっ』という小銭が擦れる音がした。荷物のもとへ向かう男と倒れた主人のもとへ向かう男とで別れ、殴る蹴るなどの痛い目に遭わされるのかと慄いた主人が荷物よりも身を守ろうと伏せた時、颯爽とはつみ達が現れる。

「どうしましたか?お困りでしたらお手伝い致しましょうか?」

 丁寧にこちらを訪ねる様で、明らかに『割って入る』といった意思の在る口調であった。ハッと顔を上げた主人の視線に二人の若い武士が写り込む。二人とも刀を差していたので侍だと思ったのだが、まず一目見てあまりにも垢ぬけた爽やかさで、かつ華やかさをも纏う独特の雰囲気に唖然とした。主人の服を引っ張り上げていた男がすぐさまその『若侍』の方へと向かい、その顔を間近からじろじろと見やりながら暴言を吐き捨てる。
「はぁ~こりゃまっこと綺麗な顔をしちゅうのう~?俺は女を好むが、おまんなら買ってやってもええぜよ。んん?」
 聞き慣れた鈍りに『やっぱり』と顔をしかめるが、男は構わず『若侍』の肩をグイと抱いた。
「のう、おまんもそこのご主人も、おとなしゅうしときや。おれらぁは土佐の尊王攘夷を志とするもんじゃき」
まるで相手を怯ませる常套句の様に豪語したが、はつみは怯む様子もなく「ああ土佐の方でしたか」とすっとぼけながらも分かり切っていた様な態度で切り出した。
「帝の大切な民から無用に金銭を略奪する事を、勤王派と名高い土佐の他藩応接役様が許すとお思いですか?彼は非常に誠実な人です。同じ土佐出身のあなた方が生活金にお困りなら直接話をしに行きましょう?あなたのお名前と出身地をお伺いしてもいいですか?」
 声変わりもまだと思われる凛とした声で言い、暴徒らを怯ませてしまった。
「なっ…おめ…お主も勤王党の同胞か?」
「勤王党…何の事でしょう。」
「あっ、いや」
「随分口が軽い様ですね。私は彼らとは顔見知りですからご案内しますよ?」
「えっ、お、あぁ」
『我らは土佐勤王党だ』という言い分が嘘であっても真実であっても、彼らはそれ以上言い返すことはできなかった。まず藩政において徒党を組む事は禁止とされている上で『土佐勤王党』は組織されている。荒くれ者はうっかり口走ったばかりに墓穴を掘った形となったが、『若侍』の言う事にいくつか刺さる点があったのか逆上したりもせず、舌打ちをしながらも去っていった。

 内心ホッとしたはつみと寅之進は、「大丈夫ですか?」と膝を付いて主人の無事を確認する。唖然としている主人に代わって荷物を拾い手渡してやると、名乗る事もなければ謝礼を要する素振りもなく颯爽と去ろうとした。
「まっ!待っとぉくれやす!」
 それまで茫然としていた主人は、はつみ達が去ろうとするなり急に覚醒したかの様に張りのある声を出して引き止めた。
「お侍様!是非うちの店に来とぉくれやす!すぐそこどすさかい!」
「ちょ…声でか…」
「是非是非!ささおこしやす!おこしやす!」
 助けに入った時とは大違いの凄まじい客引きっぷりにあらがえず、はつみ達は彼が案内する所へと連れ去られる様にして入店するのだった―。


 武市の寓居がある三条木屋町通りから四条通りへ抜け、西木屋町通り高瀬川に面した『白蓮』という料亭に案内される。見た目は客向けのしっかりとした店構えだったが、一般的にこういう茶屋的なお店でいわゆる春を売る様なケースも少なくはなく。はつみ達も気軽に足安めにと入った店で何度も『いやん』な目に遭っていた為、少々気構えてしまっていた。
 中へ案内され、主人は「お万里!お琴!おるかい!」と、よく通る声で二人の女の子を呼び出す。現れた若い娘二人はこの店の看板娘なのだろう、非常に顔の整った女子であり、主人から指示を受けると甲斐甲斐しくはつみ達の世話を始めた。草履を取り汚れを落とし、袖を伸ばして丁重に刀を受け取り、奥の座敷へと案内されるはつみと寅之進は、時折視線を合わせて『だ、大丈夫だよね?』と頷き合うのだった。

 奥まった部屋に案内された二人は適度な場所に座り、少女たちは去っていった。どうやら『いやん』な展開にはならずに済んだ様だが、それでも不気味なほどに静まり返る奥部屋とだけあって、最初は違和感のなかった静かな部屋もだんだんと薄暗くきな臭い気配を感じ、今にもその襖の向こうから槍が突き出てくるのではといった不安が頭をよぎり出す。
「ど、どうしよう…何されるのかな」
「殺気だった雰囲気は感じません…大丈夫です。何があっても俺がお守りしますから」
 『寅くんはいつも勇敢だなぁ』と思う一方で、寅之進本人は『はつみさんは危ない場面には平然と理論武装で斬り込んで行くのに、こういう時すぐに委縮されるんだよなぁ…俺がお守りしないと』等と考えている。そんな事に、はつみはいつも通り気付いていない。

 少し経ってから、身なりを整えた主人が現れた。慣れた様子で単身部屋に入り、小荷物を手前においてから座り込み、両手を付いて恭しく首を垂れる。
 「この『白蓮』を預かっております、咲衛門(さくえもん)と申します。まずはこの様にお引止めしたご無礼、何卒お許しください」
 突然丁寧に頭を下げる主人―咲衛門―に慌てて
「いえいえ!よしてください!ど、どうされたんですか?」
 と尋ねると、咲衛門は顔を上げ胸の内を語り始めるのだった。


 このご時世、咲衛門は真に志ある人をお世話したいという気概は持っていたが、実際そういった御仁とはなかなか出会える事もなく、尊王攘夷・天誅という嵐が渦巻き始めた時世をただただ見つめていたという。見かけるのは『尊王攘夷の志士』というのを建前に飲んだくれ飲食代も宿代も払わない輩、粗雑かつ乱暴に振舞う『自称何某』。脱藩をして財布に穴が空いたかの様に無銭でうろつき、物乞いは勿論窃盗行為に走る輩も多いと嘆く。
『時代が変わる時が来るとすればお侍様に立ち上がってもらう。』
 その時の為にも今は町人らがお支えしなければならないという道理もわかってはいるが、しかしやはり『お支えしたいと思う人をお支えしたい』のだと熱く語った。はつみは咲衛門の話の大半に理解を示しつつも、話の終盤になって「そこでなぜ自分が?」と疑問を呈した。すると咲衛門は、はつみと出会ったつい先の出来事を回顧し、感心した様子でこう答える。
「我々下の者もこの国にとって『大切な民』なんやと、貴方様ははっきりとおっしゃった。立派なお方は沢山いらしゃるけども、そないな風に堂々とおっしゃるお侍様は見た事があらしまへん。」
 よほど心を打たれた様子だったが、世の理を考えれば当然とも言える事だ。町人や農民が経済資本の土台を作り、武士たちは彼らからもたらされる食糧や資源、そこから生まれる金によって生活が支えられ、治政を行う事ができているのだから。先ほどの暴徒の様な勘違い者が、極めて個人的かつ理不尽に取り立てるものではない、当然の事だ―と、改めて伝える。
「そうでしょうとも!気概のあるお方やと思いました!」
 はつみの消極的な様子を察しはするものの、それを受け入れる様子は咲衛門には見られない。
「それにあのならず者を捌いた時の台詞!貴方様はほんまにあの土佐ご盟主様のお知り合いなのでございましょう?」
 土佐藩他藩応接役、勤王党盟主…それらは武市半平太の事である。土佐勤王派の指導者として毎日何十人もの来客を受けるだけでなく、有力な公卿らからの覚えもめでたい彼の名は、咲衛門の様な一介の町人であってもその存在を知れる程有名になっている様だ。
「それは…はい。私は彼を追いかけて土佐から来た者なので…。」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも!凄いお人とご縁を頂いたと思いましてなぁ」
「いやいや、すごい人なのは私じゃなくて彼ですから…」
 咲衛門の回顧に合わせ自嘲し謙遜するはつみに、益々の親しみや好意を覚えない訳がない。まだ出会って日が浅いどころか一刻すら経っていない状況ではあったが、本能が『この御仁しかいない』と咲衛門を突き動かす。横に控えていた桐の箱を取り出すと、おもむろにはつみの前へと差し出した。
「この様な事しかできませぬが、どうぞ私どもをご贔屓下さい。貴方様をお支えしたい一心にてございます。」
「え?『お支えする』ってどういう事ですか?これは…?」
 再び改まって『どうぞ』と差し出されたので箱を開けると、そこには上品な紫布の上に置かれたのし付きの光り輝く小判があった。何両あるかと確かめる事もなく慌てて蓋を閉め、咲衛門を諭す。
「わわわっ!?これお金じゃないですか!?だだ、だめですよこんな事しちゃ!!!」
 心底大慌ての様子は人によっては「小者か」とも思う所だろうが、咲衛門にはどう転んでも目の前の人物が魅力的にしか映らないでいた。慌てて小判を返そうとするその態度は「小者」ではなく「思慮深さや謙遜」に見え、そうなってくると、出会いがしらの様子も含めて思うに、その人柄は『非常に爽やかで物腰の柔らかい、裏表のない正義漢』であろうと想像するに難しくない。咲衛門は咲衛門なりに何百人もの客、自称志士の輩を相手にしてきたその目で見定められているとは気付かず、はつみは更に言葉を続けた。
「え~と…そこまでおっしゃって頂けるのならハッキリお伝えしないといけないと思うんで、ちょっと聞いてもらえますか?」
「何でございましょう?」
 咲衛門が『引く』様子がないと見たはつみは、やむを得ず話を切り出す形だ。
「ガッカリさせたら申し訳ないのですけど、さっきの勤王派の話。私は確かに彼らの事はよく知っていますが、正式には彼らの仲間ではないんです。それに何より、私自身は今巷で行われている様な、外国人や幕府の人達を斬り殺す事で日本を守ろうといった『攘夷』の思想は持ち合わせていません。帝の事は、尊くお守り申し上げるべき存在だと思ってはいますけど…」
「おや…」
 咲衛門にとってこの進言は予想外であった。土佐切っての尊王派、尊王攘夷の志のもと天誅を繰り返していると噂の『土佐勤王党』党首と知り合いであるというのは嘘ではなさそうだが、まさか党に属していないどころか党の根幹でもある攘夷思想そのものを持っていないとは。攘夷の思想も持っていないのに土佐勤王党に近しく、ましてや盟主と直に話ができる程の知り合いとは、一体どういう事なのだろう?疑問は一瞬のうちに巡りはしたが、はたして目の前の御仁が嘘を言っている様にも到底思えなかった。
 目の前の若侍は少し悲し気な表情となり、話を進めていく。
「…私と関わりを持つと、もしかしたら今日よりもっと危険な目に遭う日が来るかもしれません。今回の事は私の方から勝手に首を突っ込んでおきながら申し訳ないと思うのですけど、ご迷惑はおかけしたくないので…。あ、でももし、尊王攘夷の志高い確かなお方と出会いたいという事でしたら、ちゃんとした品行方正な人に心当たりがあるのであなたの誠意をお伝えする事はできると思います。どうでしょう、ご紹介しましょうか?」
 更に投げかけられた斜め上すぎる言葉に呆気にとられる咲衛門。自分が思っているよりも複雑な立ち位置にいるという事は何となく察する事ができたが、兎に角思うのは『なんと無欲な御仁なのか』といった事であった。無欲であり腰が低く物腰柔らか、そして気遣いの行き届いたというべきか、独特の思慮深さを持ち合わせていると圧倒さえされる。『言論爽やか』とはまさにこういった事を言うのだろう。咲衛門がそんな思考に圧倒されているとは露知らず、はつみは小判が入った桐の箱を改めて主人の手前へと押し返した。茫然とする咲衛門の表情を見て『残念がらせてしまったな。茫然とするのも無理はない』とでも思ったのだろう。さらりと軽やかな前髪がかかる形の良い眉が、より一層、悲し気にひそむ。
「あの…せっかくのご期待に添えらず、本当にごめんなさい。でもあなたの様な熱心な方からの申し出は凄くありがたい事だと思いますので、私が知っている人達もきっと前向きに話を聞いてくれると思います。もし気が向かれましたら、三条の武市寓居へ私宛にお手紙を送ってください。あ、私の名前は桜川はつみと言います。」
「池田寅之進と申します。」
 さり気なく『武市寓居あて』などと、例の応接役の名まで確かに告げてくる事も咲衛門は聞き落とさなかった。一通り話し終えた桜川はつみと名乗る若侍はぎこちない仕草ながらも誠意を込めて頭を下げ、そして刀を手に取り…これまた、隣で控える寅之進からそっと指摘を受けると慌てて慣れない様子で右手に持ち直し、改めて深々と礼をしてから、振り返りもせず部屋を去って行った。


「ま…待っとぉくれやす!桜川様!」
「ひゃっ!?」

 またも突然覚醒したかの様な咲衛門の大きな声に驚いたはつみは、転がる様な勢いで廊下に飛び出してきた咲衛門へ振り返る。先ほどまで茫然としていた彼であったが、勢いよく廊下に膝をつくと同時に両手も添え、まるで崇める様な熱い視線ではつみを見上げていた。
「ご無礼を承知で申し上げます!桜川様…うちは一介の町人に過ぎませぬが、人を見る目には自信があります。いや、自信があるんやのうて、自分を納得させる自分なりの志道を持っております!せやさかい、どうぞおたのもうします!あなた様の事を、もっとお聞かせ下さい!」
 その熱意のあるまっすぐな言葉と声、視線を見れば、いかに鈍感すぎるあまり周囲の男達を閉口させるはつみであっても咲衛門が自分を受け入れようとしてくれている事まで理解が及ぶ。少し気恥ずかしい気もしたがこの上なく有難い出会いである事には違いなく…はつみは改まった様子で先衛門の側に膝をつき、優しく頷いて見せた。
「咲衛門さん…そうですよね。勿論です。みんなが自分に納得できる考えや答えを求めておかしくはないはずです。」
「……!」
「私の事でよければもう少しお話させて頂きますが、その…本当にガッカリしたりビックリされるかも知れないので、そのご覚悟だけはなさっておいて下さい。そして話し終わってからどう思われても、私はここで貴方と対立したりするつもりは一切ないと予めお伝えしておきます。それでも…聞いて頂けますか?」
 自嘲めいた笑みに乗せての忠告であったがどこか物悲しそうにも見え、この御仁は一体何を抱えているのだろうと咲衛門は心底思った。確かにこのご時世、持ち合わせる『思想』の方向性はその人と周囲の在り方を大きく左右する。故に『天誅』や『大義の為の押し借り』が横行している。しかし何を言われようともこの桜川という御仁の『人柄』だけは否定のしようもないという事は、咲衛門の中ではすでに揺るぎない確信へと至っていた。そして、この様に浮世離れした人柄を地で行く人が、一体どの様に時世を見、そしてどのような思想の元に将来を見据えているのか…。とてつもなく拭い難い興味心に駆られている。
「おおきに…ありがとうございます!では、改めてこちらへ…!」
 咲衛門は心底嬉しそうに、はつみ達を再び部屋へと招き入れるのだった。


 はつみや寅之進の素性や経歴の他、想像以上に開けた思想を聞き、まさに『目から鱗』を体感した咲衛門であった。
 はつみを師とする形で二人は外国語を学び、長崎へ遊学し、かのシーボルト父子とも友好関係を結んだ。江戸進出の際には先に日本横断をしたという外国人達が東海道に残した痕跡とその人柄に触れ、すすんで横濱にも足を運んだ。日本は海を介して『世界』と繋がった一つの国であり、外国は日本の開国と貿易を望んではいるが、決してむやみに滅亡、あるいは乗っ取ろうなどといった魂胆は持ち合わせていないと言う。しかし彼らと対等に付き合っていく為には、まずは世界と渡り合う為の『世界の知識』、『人材』、『教育』、『資本力』…つまり軍備だけに留まらない『日本全体の富国強兵』が必要である…といった思想を抱いていると話す。その為には恐れずに開国をし、より発達した世界の知識を取り入れながら日本の文明水準を引き上げていく必要があると。
 しかし決して忘れてはならないのもまた『日本国』への誇りと文化、伝統であるという事。帝と帝の系譜、あらゆる土地の歴史が日本人にとってゆるぎなく尊いものであり、帝と朝廷、そして江戸幕府のもとに開花した日本文化、他人への配慮に満ちた自立心、自制心、道徳心を兼ね備えた民族性は、外国の文化に侵略される事無く未来へと継続されていくべきである。それこそが、開国し富国強兵とする事の大前提である…等。

 より切り込んだ話は端折って一通り話し終わった形だが、まさか京の町でこんなにも前のめりになって聞いてくれる人に出会うとは…と思ってしまう程、咲衛門は身を乗り出し瞳を輝かせながら聞き入ってくれていた。どうやら『ガッカリさせた』という様子ではないが、咲衛門の瞳の輝きようは一体どういう事なのか。

「桜川様のおっしゃる事、かつて亡父と共に長崎を見たわてにもようわかります」
「長崎へ?!すごい、本当ですか!?」

 思わぬ返答に、まるで大輪の花が咲くが如くはつみの表情がぱっと明るく輝く。
 運命的な事に、咲衛門は父である大旦那が存命だった子供の頃に長崎へ行った経験があり、そこで見知った価値観から、昨今のさばっている口先ばかりの『尊王攘夷論』には賛同しきれない何かがあったと言う。しかしここは帝のお膝元である京。時世に逆らい生きていく事など、一介の町人には決してできぬ事。故に己の『価値観』にはある程度蓋をする必要があった。それが『もはや思想云々ではなく、直接的にお仕えしたいと思える様な御仁と出会い、そのお方が目指すお国となっていく様その方を支援したい』といった思いへと形作られていったのだ。
 ―そんな自分が長らく求めていた理想の志士こそがこの桜川はつみ達なのだと、もはや疑いようもなかった。先進的な思想に加え、この素直で柔らかい気さくな人柄。決して人を外見で判断する訳ではないが、奇抜でありながらも誰もが一度は目を奪われる様な器量。すべて合わせて大変魅力的な御仁と出会えた事に打ち震える想いを、咲衛門は改めて三つ指ついて深々と頭を下げる事で現した。
「間違いあらへん…わてが探しとったんは、正に、正に貴方様の様な御仁でございました…」
 よくある事象であれば、ここで二人がアツく手を取り合って談が成立するといったところだろうが、また一味違うのもはつみならではであった。
「あっ、頭をあげてください。あと、多分この感じだともう一つちゃんとお伝えしておいた方がいいと思う事もありまして…」
「なんでございましょ」
「あの……すみません、私こういう恰好をしているんですけど、実は女なんです。」
「へぇ………なんやて―!?!?!?」

 はつみの思考にある『ひっくり返る漫画のキャラクター』の様に、咲衛門は驚き頭を上げて後ろへのけぞり、その勢いで尻もちをついてしまっていた。そのまま唖然とした表情の咲衛門と苦笑がちなはつみが見つめ合うほんの少しの間、咲衛門の脳内では超回転でこの事案に対する思案が巡り巡っていく。
 …確かに声変わりもしない凛とした声、場を瞬く間に華やかにするその雰囲気、よく見れば柔らかそうな白くきめの整った肌に、絹糸の様に軽やかで美しい髪。相手を優しく気遣う物腰の柔らかさ…『おなご』だと分かれば納得のいく話ではある。しかし、おなごであれば尚更、暴徒たちの前に毅然と立ちはだかり相手を丁寧な言葉で冷静に論破していたあの姿、そして時世と共に世界を見据え、あらゆる土地へと足を運び、得た知識を己の血肉とするその才の有り様はどうだ…?『女子の分際でなんと思い上がった奴なのか』といった思考へはかすりもしなかったが、『開国』という一言だけでも恐らく多くの人物から誤解されがちな思想であろうに、性別までも偽り武士と渡り合っていこうとするとは……しかもその思想とは食い違う活動を繰り広げる、かの勤王派・武市半平太本人と関係があり、同じ寓居にまで住まう…一体全体どういう事なのか?
「…あ、貴方様は一体……」
 とんでもない…とんでもなく破天荒な御仁と出会ってしまった。しかし、だからこそ『この咲衛門こそが目の前の『志ある御仁』を支えたい』との想いに強く駆られる。
「あの…驚きましたよね。こういう事情なので、無理には―」
「桜川様!」
 はつみが言わんとする遠慮の言葉を再び察した上で、遮る様に名を呼び再び両手をついた。自分の正体を正直に打ち明けた事で驚かせてしまったと申し訳なさそうな表情のはつみと、両手付いた姿勢から真っすぐにはつみを見上げ、その瞳に固い意思をみなぎらせる咲衛門の視線が交錯する。一息二息ほどの沈黙があった末に、咲衛門がその思いを噛みしめる様にしてゆっくりと、深く丁寧に頭を下げた。
「桜川様…今後とも何卒、この咲衛門と『白蓮』をご贔屓にしたってください…!」
 受け入れてもらえた事に安堵したはつみはすぐさま咲衛門の頭を上げさせ、ほっとした笑顔を見せる。
「よかった…こんなにお話できる人と出会えて、本当に嬉しいです。咲衛門さんの事ガッカリさせない様、私も頑張りますね!こちらこそどうぞ宜しくお願いします。」


 かくして、『白蓮』の主人・咲衛門達とはつみ達の交流は始まった。
 はつみの感覚で言うと、様々な志士が豪商などから融資を受けたり、贔屓の宿を拠点にし支援を受けるといった事が『歴史上』よく見られる話であった。自分にとって白蓮や咲衛門達がそういう存在となったのかと思うと、非常に感慨深く特別な想いが込み上げてくるのが感じられる。

居場所が出来た、とも言えるだろうか…。

 はつみは白蓮の協力をありがたく受け入れこまめに顔を出して懇意にしたが、その都度丁寧に感謝の意を表した。そして手紙を中継してくれたり、食事や寝床、服等を提供してくれるだけでも至極十分であると毎回言い、金銭を受け取る事は一切しなかった。この様な献金が続くならここへは来づらくなるとも伝えた程だった。時にははつみの手元の金がどうしても無くなる時期もあったが、その時には素直に咲衛門へ打ち明けている。むしろ咲衛門は喜び勇んで所望された以上の額を出すのだが、はつみはしっかりとした借用書の発行のもと、『必要な分だけ』『借用する』事を徹底していた。京にいられない時期も文を送り、金ができればすぐに送金・返金される。一方ではつみも、政治的な面で今何が起こっているのか、先日起こった事件など一体どういう背景があるのかといった時世解説や、海外の文化、英会話など持てる知識を、看板娘であるお万里やお琴、咲衛門の長男花太郎らに聞かせ学ばせたりもしている。はつみが持つ人脈も含め、海外に対する知識や英会話といった日本人には極めて馴染みの少ないスキルは、のちのち白蓮を大きく発展させる事にも繋がってゆく。徹底される支援金の返金に関しては『貢ぎたい』気持ちのある咲衛門としては少し寂しい気もする一方、しかしそういった小さな誠実さの積み重ねが白蓮の人たちの信頼や好意を確固たるものへと成長させていった。

 その良好な関係、強く結ばれた絆は、この先の明治、そして現代に至るまで語り継がれるのであった。






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