幕末恋愛遊戯かぐやの君

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IF外伝明治百花繚乱編


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年表全体の完成率は、現在70~80%ほどです。
物語に絡む史実部分についてはほぼ反映しておりますが、
キャラクターの個別イベントとして
詰められていない箇所が多々あります。
ご了承ください。


↓↓↓

序章

???

▲ TOP ▲
●安政6年…はつみ19歳(数え年)

(2月)乾:約3年間の廃嫡・追放処分を赦され高知城下へ戻る。
(4月)はつみ:都内大学へ移動中、幽世の地『月椿苑』に迷い込む。

序章:Reincarnation

土佐降臨編

安政6年4月~5月

▲ TOP ▲
●安政6年…はつみ19歳

(4月)桜が満開の季節。桜川はつみが白隼と共に土佐城下・鏡川付近に現れる。

桜降る(全6話予定)


一旦坂本家に迎えられるが、身元の不明確さに加え着物の着付けや排せつといった日常生活すらもままならない自立不能な様子に、不幸な物忘れ(記憶喪失)に陥っているのではないかと懸念される。とはいえ身元に関して話が通じないのははつみが記憶喪失だからではなく、はつみの認識とこの時代の人々の認識がまるで噛み合わない、それこそ『異世界・異次元』と言える程世界観そのものが異なるが故の弊害であり、事実を説明しようもなかったのだ。
詳細(覚書)

辛うじて出身地である「よこはま」という単語だけは共有できた様だったが、これも恐らく、はつみの思う「横浜」ではなく「この時代の横濱」として認識され、故に話が噛み合わない事が想定される。しかしはつみの対人対話における『姿勢』、つまり『実際に与える印象』に問題は無く、むしろ素直で明瞭な言動や表情や赤子の様に滑らかで血色の良い肌、太陽の光を透かして輝く絹の様な髪にスッと姿勢よく垢抜けた立ち姿は、彼女を見る者に興味を抱かせる決定的な要素となっていた。これを浮世離れだの異質すぎるとして嫌忌する者もいるだろうが、少なくとも坂本家の面々に対しては好意的に魅了していた。特に光の差し込みによって翡翠色の輝きを見せた瞳の異質さは目を引くが、開口一言目から表情よく会話が通じ、『物忘れ』とは別に知性が見られたからこそ、彼女を鬼だ天狗だなどと誤解し恐れる事はなかったのだ。
翌日になり龍馬が町案内に繰り出すとたちまち周囲の視線を集め、まさに浮世離れしたその姿に『かぐや姫』との異名が出回り始める。一時は噂を聞いて見に来た人で垣根が出来る事態にまでなり、町案内は一旦人気のない鏡川の方へと進路を変更する事になる程であった。
その日の夜、権平とその後妻・直、権平や龍馬の母・伊予、そしてはつみを坂本家に連れ帰った本人である乙女らは改めてはつみの持ち物について話をする。持ち物を見る事で身元が思い出せるのではという事だが、ここで初めて、はつみのバックの中身が明らかにされた。救出時に着用していた衣類に始まり、スマートフォン、財布、ハンカチティッシュにタオル、大学の身分証明書、腕時計、メイクポーチや香水や化粧水の小瓶…坂本家の面々には理解できない代物ばかりであった。『これは横濱の代物?つまり異国の代物か?しかしそれにしては…』と硬直する場を打開する様に『はつみさんは神隠しにでも遭ったんかのお』と龍馬が口にする。するとこれまた皆が神妙な顔つきで『成程…』と言わんばかりに小さく何度もうなずいた。
彼らの理解が明確に及んだのは、川で倒れていたはつみの側に落ちていた一振りの刀についてであった。月椿苑でルシファから渡された刀、たしか名は『桜清丸』。そういう意味では『自分のもの』で間違いはないのだろうが、刀に関する知識や興味はさほど持ち合わせていないといった様子が坂本家の面々にも直ぐに伝わる。権平が『手入れはしておるのか』と聞くと当然『いえ、やり方も知らなくて…』といった返事がくる。これを受け権平は刀の様子を見させて欲しいと申し出て、はつみもこれを快諾し、桜清丸を手渡した。鞘に椿が象られ全体的に派手な装飾の刀だったので物珍しさ故の興味もあったが、銘柄や状態などから分かる事もある。また、川の近くに落ちていた上に手入れもしていないという事で代わりに手入れをしてやろうとしたのだった。結果、茎に名工肥前忠吉の銘を見つけるが、経年を感じさせるものであった。しかし刀身は今にも水が滴り落ちるのではないかと言う程に美しく、極めて整った鍛え肌に刃文が真っすぐに走っている。説明のできない神秘的な何かを感じさせる輝きを静かに湛えていた。刀身勘定を生業にしている訳ではなかったがそれなりに目の肥えた権平には、これはもしや大業物以上の名刀ではないかと、試し切りをせずとも勘付く。
これを受け、権平ははつみに『一度、己の身柄について自ら奉行所へ届け出た方が良い』と提案をする。物忘れの懸念も勿論だが、これだけの名刀を名刀とも思わぬ所業で所持しているという事は良くも悪くもきっと『特異』な身柄であるに違いないと判断しての事だった。何らかの形で不正にこの刀を手に入れた犯罪者か…もしくはその逆で、これほどのものを誰かから与えられる様な高貴な姫であるといった可能性だ。そして、はつみの隠し切れない身体的な育ちの良さから判断して恐らく前者ではないという強い見込みもあっての事。―であれば、藩から正式な形で『物忘れ由来の已むを得ない身元不明人』であるとする御沙汰を受けた上で改めて保護を求めた方が良いだろうという、あえての提案であった。 これを聞いた坂本家の面々も権平の提案に納得の意を示している。この時代の文化の事は実際にはよくわからないし、まず『奉行所』へ『出頭』という事態に不安を隠し切れないはつみであったが、悪い事をしていないのであれば堂々と正式な沙汰を受けた方が良いという話には納得もできた。翌日、『唯一の所持品』として桜清丸を持ち、権平と共に奉行所へ出向く事に同意する。
…夜、龍馬が寝床に現れ、不安そうにしているはつみに一晩中ついてくれていた。
しかし状況は坂本家の面々が思っていたよりも尾びれ背びれがついた状態となってしまっていた。町内での噂に気付いた奉行所がはつみを取り締まる為に既に動き出していたのだった。権平と共に出頭したはつみであったが、権平が思っていたよりもかなり手荒い対応で奥へと連れ去られてしまう。隠れてついてきていた龍馬が駆け出し、門番に取り押さえられてしまう。龍馬とともに押さえつけられ、思わぬ展開に焦った権平が同庁の役人たる上士に対し「どうか、その刀を詳しゅう調べてつかあさい!」と叫んだところで、門は閉じられてしまった。

この後、2か月ほど前に謹慎処分を免ぜられ3年ぶりに城下へと戻ってきていた乾退助が、城下の噂となっていた『かぐや姫』の存在に興味を示す。詮議が進む中で座敷牢という軟禁状態へと移された彼女のもとへと会いに行った。そしてはつみという存在を軸に坂本龍馬と乾退助が出会い、はつみ保釈の為にとある調査を行う。更にはつみの身に起こる不可思議な現象に対峙する為にも、再度協力する事になっていく。

土佐日常編

安政6年5月~万延元年閏3月

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●安政6年…はつみ19歳

仮SS/【内蔵太】嗚呼、池内蔵太


坂本家へ顔を出しにきた池内蔵太と出会う。内蔵太ははつみを一目見て恋に落ち『夫婦になってくれ』と口を滑らせるが…

【武市・以蔵】あこがれの人


龍馬の紹介で武市半平太、岡田以蔵と出会う。はつみにとって武市半平太は『大人の男性として素敵』であり『憧れの武士』であった。しかし武市は男装をするはつみに対し『何か理由があるのだろうが、道を外れすぎる事で見失うものもある。気を付けられよ』と告げ、以蔵ははつみの身分や上士絡みの経緯に疑念を抱いている様で、かなりそっけない出会いとなってしまった。

【乾・龍馬】逢瀬(挿絵付)
R15


土佐のいごっそう乾退助は、身分など気にせず己の心に従って堂々とはつみを座敷に呼び出した。一方、坂本家は上士馬廻格である乾家の嫡男を相手に粗相があってはならないと考え、才谷屋も巻き込んで立派な着物を用意し、はつみを着飾らせる。通常であれば、身分の高い武士が女を呼び出すという事に心当たりがない訳がなく…。同じ『部屋住み』でも乾とは天地の差を感じずにはいられない龍馬は、黙ってその様子を見ていた。そしてはつみも、上士と下士の身分格差だけでなくこの時代の女性の立場についても身を以て知るきっかけとなる。

【龍馬、寅之進、ルシ】Open the world…前編・後編


龍馬そして偶然居合わせた寅之進と共に、仁井田に住む龍馬の叔父・川島猪三郎こと『よーろっぱ』に会いに行く。はつみにとっては当たり前の教養や価値観が、この時代では驚く程先進的なものとして披露される。感心した猪三郎から英語辞書を譲り受け、はつみの意識が時代の先へと向かうきっかけとなる日であった。龍馬と寅之進もはつみの様子を見て感心する。
そして、『あれは夢だったのか…』と思う程おぼろげな記憶となっていた『月椿苑』で出会った少年と再会。この時代にいる事の意味、理由。そしてあの『白い隼』について語り合った。

ふぁっしょんでざいなー


ある程度「腹をくくった」はつみは、川島猪三郎から譲り受けた英語辞書での勉強以外にも気になっていた事に着手し始める。直や伊予を巻き込み、スカスカでどうも気になっていた下着類や、着物の下に着るシャツ、便利なバッグなどを自分で作る事にしたのだった。

【以蔵】甘味処にて


いまだ殆ど話した事のない以蔵と鉢合わせ、ぎくしゃくしながらも近くの甘味処で食べないかと誘う。以蔵ははつみが乾に見染められていた事で、はつみを上士『側』の人間だと勘ぐっていた。そうではないと知って多少打ち解けたが、彼にとって『上士かそうでないか』というのは周囲の人達の意識よりも大きな問題の様だった。
(6月2日)横濱開港
(6月2日)英国ラザフォード・オールコック、初代駐日総領事として来日
(6月7日)英国総領事館、高輪東禅寺敷地内に設置。開港地とされた横濱村に英国領事館が建てられ、その周辺が外国人居留地となる。
(6月12日)英国領事館一行、江戸城登城

【内蔵太】沼にはまる男


先日派手に『振ってしまった』内蔵太を変に気遣ったはつみ、甘味処へ誘う。
 桜川は男…そうだろ?!

【龍馬、以蔵、寅之進、ルシ】かぐや姫も風呂に入る
R15


いつからか土佐の空に見かける様になった白い隼。其は鳥の姿こそすれはつみの強力な用心棒であり、高い知能を有していた。

【龍馬、寅之進】はつみ塾


龍馬の叔父『よーろっぱ』こと川島猪三郎から譲り受けた英国辞書を開き、知り得る単語や理解できる例文を翻訳していく事がはつみの日課となっていた。しかし圧倒的に回答が足りない。龍馬と寅之進も『はつみ塾』の生徒となり共に学ぼうとする一方、はつみがよからぬ輩から襲われたりしない様に守る意味も含め、出来る限り彼女の側にいる事を自ら望んだ。
(7月20日)露海軍軍人殺害事件

【乾】恋は思案の外


乾から再び呼び出され、蛍狩りへ連れ出される。

【龍馬】桂浜


龍馬と桂浜へ。『外の世界』に興味がある事を改めて告げられる。

【東洋、龍馬、乾、武市】牝牡驪黄…前編・後編


猪三郎からはつみの事を聞いた河田小龍が『中浜万次郎と類似人物』として土佐参政・東洋へ報告していた。かねて城下にて噂になったかぐや姫の事は把握していたし、先日乾が妙に首を突っ込んできた一件もあってもともと印象に残っていた様だ。そのような特異な才があるのならばと東洋がはつみを呼び出したのだ。参政から直々に声がかかったという事で坂本家では大身乾家嫡男からの呼び出し以上に大大大、大大大騒ぎとなり、はつみは例え大名の前へ出したとしても決して恥ずかしくない様な『正しい』装いを強制される。一方、乾も後藤象二郎らの噂話から、東洋がはつみを呼び出した事を知る。そして更に、龍馬から事を聞き様子を見に来た武市が、帰宅してきた正装のはつみを見て『初恋』の雷に打たれる。

【龍馬、武市、寅之進、以蔵】川遊び


8月のある夏の日、『はつみ塾』もそこそこに川涼みも兼ねて鏡川へ出かけた。道中武市と以蔵に鉢合わせ、はつみは勇気を出して「二人も同行しないか」と声をかける。武市本人がどう捉えているか不明であったが、龍馬だけは、はつみが東洋に呼び出されたあの日から武市の不動の表情にわずかなほころびがチラつく事に気付いていた。

【乾】時間切れ

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 乾から再び呼び出され、仁淀川での鮎釣りへ連れ出される。馬に乗せられ、はつみは生まれて初めての乗馬となった。乾から極めて率直な話を持ち掛けられるが、いまだ常習的にカルチャーショックが続くはつみにとっては彼の意図を汲むに至れなかった。
(9月)乾、小谷善五郎の娘・鈴と婚姻

【龍馬、内蔵太】世界は敵ではない


はつみに東洋から声がかかった事を岩崎弥太郎を通じて知った内蔵太が駆け付け、『尊王攘夷』の思想と対立しかける。熱くなる内蔵太に対し、はつみは冷静に話しかけ対処する。

【武市】恋心…前編(WEB漫画)・後編(挿絵付)


【武市】美人画指南


はつみの秘めた想いを汲んだ龍馬が、武市に『美人画』の指南を申し出ていた。彼の美人画は表に出される事はあまりなかったのだが中々の腕前で、「折角そういった稀な腕があるのだから、巷で騒がれる血生臭い攘夷事ばかりでなく時には日本の芸にも触れて心を柔らかく保とう」と言うのが龍馬の言い分であった。
(10月21日)仏領事館従僕殺害事件
(10月27日)吉田松陰、処刑

【龍馬】三姉妹の密談

R15

 直がはつみの月経について尋ねてきた事から始まる。
詳細

坂本家に来てからおよそ半年が過ぎたが、はつみに月経の気配がない事を心配していたらしい。言われてみれば…と驚くはつみ。殿方との行為、つまり妊娠の可能性など聞かれるがまったくもって身に覚えはなく、それでは尚更…と心配した直は乙女にも相談をしようと提案してきた。岡上樹庵に改めて診察をしてもらう事となる。
結果として、健康に問題は無いが月経がないのであればはつみは子を宿せない可能性が高いとする診断となる。まるで我が身の事の様に事態を重く見た直は、はつみや乙女と相談し合い、この事を口外しない事にする。権平の後妻である直は病弱であるが故か子を成せておらず、特に春猪は前妻の娘であり権平にはいまだ嫡男が誕生していない事を受け、尚更こういった話に繊細になっている様だった。乙女は子を産めない武家の嫁程、肩身の狭いものは無い事を身を以て感じ取っているのだろうと、直を気遣っている。
…だが、女三人『三姉妹』がそうやって密談をしているのを、しれっと聞き耳立てている者がいた。

(11月30日)オールコック、特命全権公使に昇格。これに伴い江戸高輪の総領事館も公使館へ昇格

●安政七年/万延元年…はつみ20歳
(1月7日)英国日本人通訳(小林伝吉)殺害事件
(1月8日)仏公使館焼失(放火)
(1月23日)高杉晋作、雅子(16)と結婚

【内蔵太】沼にはまる男2


新年の挨拶に酒を持って顔を出した内蔵太。昨年秋頃から梼原村方面へ出ていたらしく、久しぶりの顔合わせであった。
詳細

はつみにとって同年代でもあり気が置けない友達の様に『雑に』接してくれる内蔵太には却って自然体でいられる事ができ、気兼ねなく楽しいひと時だと感じる。一方の内蔵太は出張中の間も毎晩の様にはつみの顔が瞼裏に浮かぶ有様で、はつみが思うのと同じ様に『ウマの合う奴』だと思い込み、『男色の気を起こすまい』とひたすら自分を言い聞かせようとする日々を送っていた。しかし久々に合って高揚してしまった彼は、酒に酔った勢いに見せかけて『男色をどう思うか』とはつみに質問してしまった事で勝手に玉砕してしまう。

(2月5日)蘭人船長殺害事件(開国後初の賠償金支払い事件)
(3月3日)桜田門外の変
(3月18日)~万延元年へ改元~
(3月20日)高杉、明倫館舎長
(閏3月)乾、父の死去に伴い家督相続。
馬廻役(250石、大名周りの補佐を行うエリート職)、免奉行

長崎遊学編

万延元年4月―万延2年2月

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(4月)高杉、命により丙辰丸で東航に出る。
(4月)はつみ、龍馬、肥前佐賀藩を経由し長崎遊歴へ。

【龍馬】長崎へ…前編・後編


東洋と話をした際にはつみが興味を示した長崎旅行であったが、有言実行かその吉田東洋によって遊学許可がおりた。
詳細

費用については当然自費であったが、坂本家は参政・吉田東洋すらも一目置くはつみの才が女だてらに活きるのならばと、喜んで出仕を申し出ていた。しかしそれ以上に、参政たる東洋自らが機会を作った事もあり、これに反対する理由も勇気も権平にはなかった。寧ろ奨励される遊学の資金投資という形で参政の覚えめでたくなるのなら…という打算も、実の所無いわけではない。また、直の体調が良くなく、長崎に精のつく薬などがあれば見繕って欲しいと言う願いもあった。
同伴者には江戸北辰一刀流免許皆伝の力量がありながらも部屋住みとして日々を怠惰に過ごす龍馬が抜擢され、長い旅路を二人…もとい、二人と白隼一羽で行く事となる。出立前、『一番弟子』である寅之進にははつみがこれまでに思い出し書き綴っていた英単語帳を贈呈した。
肥前唐津藩まで船で行き、唐津藩から徒歩南下して佐賀藩。佐賀藩から徒歩南下して大村藩嬉野を通過、大村湾を船で渡り時津へ。更に徒歩南下して長崎入りの行程。圧倒的に歩き慣れないはつみの為、船旅を多く取り入れた旅路であった。道中立ち寄った佐賀藩にて、はつみはまごう事無く最上大業物肥前忠吉であった桜清丸を以て、病に伏せていた8代肥前忠吉の代理と対面する。桜清丸の歴史は葬られていたものであった為、どのような経緯ではつみの手に渡ったのかなど非常に興味深く扱われたが、改めて盗難歴などの情報もない事から正式にはつみの所有物であるという事を保障された。

【龍馬・経臣・アレク】Genius of hard work.


慣れない旅で体調を崩したはつみを連れて宿へ駆け込み、居合わせた薩摩藩士・村田経臣に尋ねて医者を探す龍馬。村田も長崎には詳しくなかったものの近くに高名な蘭医がいると聞き、共に鳴滝へと向かう。
詳細

館の入り口で住人らしき外国人と対面し、はつみは大学受験以来の英会話でコミュニケーションを図ろうとするが、彼らはオランダ語を話している様で通じなかった。そうこうしている内に書生の風貌をした日本人が現れ、彼はこの館の主:老シーボルト医師の弟子である三瀬周三である事が分かる。彼に連れられ、老シーボルト、アレクサンダー(シーボルト息子14才)と出会った。
三瀬がオランダ語を話す事ができ、14才のアレクも日本語を履修中との事。老シーボルトに対し適切な翻訳を行うなど対応してくれた。老シーボルトは英語を話す事ができ、はつみと直接コンタクトを取るに至る。可憐な才女たるはつみを気に入ったのか、はつみが体調を持ち直すまでの3日間ほど、この館で療養する事を進められ、世話になる流れとなった。この時、龍馬と同行していた村田経臣らは圧倒されていた。かつ、外国語を用いて彼らと的確かつ知的に対話をする三瀬やはつみの姿に感心していた。しかし機嫌の良さそうな老シーボルトがはつみを療養させると言い出した際には、村田から龍馬に対し「老シーボルトは長崎の女を娶り、子を産ませたと聞いている」との情報をもたらし、ある種の不安をもたらしている。
シーボルトの館で疲労回復と筋肉炎症の治療を受けている間、14歳のアレクサンダーが朝から晩まで、植物の世話や器機のチェック、日本語習得に習字を経て夕食の下ごしらえまで働き通しである事を知る。1日目の昼過ぎからアレクサンダーと行動を共にする様にし、時折老シーボルトのお茶相手もしながら3日間を過ごした。この屋敷ではシーボルトの日本人妻であるお瀧、そしてシーボルトの孫となる8才のタダ子とも出会う。

【ルシファ】Prachtige wereld.


ルシファ現る。何か懐かしさを感じると言う。ルシファはオランダ語を話せることが判明する。

【龍馬・経臣・何】


鳴滝から南下し、中島川を下り、職人たちの活躍により賑わいのある麴屋町・諏訪町のあたりへ。長崎に世界の銃について学びに来たという経臣と再会し、互いが長崎で学ぶべき事について語り合い情報を交換し合う。経臣は薩摩藩邸のある銅座町付近の滞在を進め(出島も近い)、はつみは外国語を学ぼうとしている経臣に銃の開発が盛んな英米で通じる英語を獲得する事を勧めた。英語資料獲得の為に方々を訪ねて回る内に、唐通事/税関従事だった何礼之(20)と知り合い、英語を教わるに至る。

【アレク】14 years old melancholy.


(5月)老シーボルトとのティータイムでアレクの話になり、病気がちな事と陰気な性格について打ち明けられる。はつみは、元気のないアレクを誘いピクニックに行く提案をする。アレクサンダー、はつみに好意を寄せ日英語の習得が劇的に進む。

【武市・ルシファ】この時代に来た理由


坂本家、そして武市に初めて手紙を書く。坂本家には、体の弱い直や高齢の伊予のために滋養強壮としても有名な朝鮮人参の薬丸を添える。

【龍馬・アレク・経臣・何】Let's cook !


あらゆる『見慣れた』材料を見かけた為、はつみは簡単な洋菓子を作る企画を考える。アレク、そして龍馬、経臣、何、三瀬もひっぱり込んでパンケーキとクッキー、ジャムを作る。卵は卵白からメレンゲを作りふっくら感を出す為、男達が激しくボウルをかき混ぜる。

【龍馬】本当の君


龍馬と二人で出島近くなどを巡る。土佐では『月の住人』かと言う程あんなに浮いていたはつみが長崎では馴染んで見えるのが龍馬には興味深くもあり、また眩しく、遠くに感じる要因でもあった。
(6月、乾長女・兵生まれる)
(6月)末日までに。はつみ、龍馬、滞在期限の為一度土佐へ帰藩予定。

【楠本イネ】女性の生き方


帰藩を控え、はつみは老シーボルトに月経が来ない事を相談し彼の診察・診断を受けたが、老シーボルトは精神的なケア等も考慮し、 娘でありアレクの異母姉、タダ子の母である婦人科医・楠本イネを紹介した。
詳細

出島周辺で聞き込みを行い、イネがいるという商館へとたどり着く。彼女は女性ながらに西洋の産婦人科医として活動しており、また自身も女性医師であり混血である事もあって波瀾万丈な生き方をしていた。娘の一目見て周囲とはかなり雰囲気の違うはつみに対し、不妊症・婦人病の事だけでなくこの日本で女性が自立して生きていく事など、様々な事に気をかけてくれた。特に、タダ子はタダ子の父親となる男と愛し合って生まれた子ではない…つまり無理矢理犯されて孕んだ子であり、そういった女性の扱いをする現実がある、もしくははつみを見ればその危険が高いと予測される事についての警告など。親身になってくればこその、兎に角かなり込み入った話をしてくれた。

【龍馬・アレク・経臣・何】Crybaby,Alex.


帰藩につき、懇意にしていた旅籠に経臣や何、アレクと三瀬が見送りに来てくれた。13才で母元を離れて以来、言語も通じない国へ連れて来られ、日々を勉強と父の研究補佐、家事で抑圧されていたアレクサンダー。はつみと共に過ごす時間がよほど心の癒しになっていたのか、別れ際に泣いちゃうアレク。
(7月)はつみ、龍馬、帰藩。坂本家と話し合い、再度長崎語学留学の届け出を出す。

【龍馬・内蔵太・寅之進・坂本家】長崎土産


龍馬達が帰宅した事はすぐに周囲へ知れ渡り、寅之進と内蔵太が顔を出しに来てくれたのでちょっとした宴会となった。長崎土産をそれぞれに用意しており、盛り上がる。そんな中そっと近付いてきた寅之進がはつみに単語帳を返却してきた。彼は全て書き写しただけでなく、記載されている単語を全て暗記していた。

【乾】長崎土産あります!


宴会の最中、なんと乾が坂本家に上がり込んできた。はつみが長崎へ出る事を事前に聞いておらず、その事を詰めに来たのだ。大身上士の飛び入りにひっくり返り酒気も一気に飛び去って大慌てする権平らを気にかける事無く、はつみと話をする乾。
詳細

はつみは乾にも土産を買っていたが、新婚であるが故に選ばれたであろう夫婦茶碗を、乾は無言で受け取り帰宅してしまう。…帰宅後、鈴に茶碗を渡し、喜んでいる顔を見てから席を外す。はつみの長崎土産は乾の本音を逆撫でする夫婦茶碗だけではなかった。数か月会えなかった期間があったからこそ明確に感じた切望する心…それを自覚し、正妻が居ながらも二心を抱く自分への自己嫌悪という大きなおまけつきであった。

【寅之進・東洋】前途有望(郷士・寅之進を推す)


長崎で得た知識、人脈、見解、語学勉強の進捗などを東洋へ報告する。語学の研鑽を積む事は勿論ながら、特に名高い老シーボルトや、宇和島元藩主伊達宗城公から厚遇を得て女性婦人科医への道を拓いた楠本イネとの交友などは期待以上の成果として受け入れられた。
詳細

「長崎から便りを寄こしちょったら延期の手続きを取っちゃったに、わざわざ律儀に戻ってきたがか?」と笑いながら再度の長崎留学を許可する東洋に、はつみは思い切って寅之進を有望の士として話題に出す。

【武市・以蔵】長崎土産


武市達に買っていた長崎土産(夫婦茶碗)を渡しに道場へ行く。日々尊王攘夷論が加熱する場となっていた道場では尚更はつみの居場所はなくなっていた。
詳細

しかし武市は子弟らを下げてから改めてはつみと龍馬、寅之進を引き入れ、話を聞いてくれた。武市達は近日中に西国剣術へ出る事が決まっており、事前の調べものなどで少々慌ただしい様子でもあった。彼らの西国修行についてははつみも『歴史上』知っており、にわかに『その先にある武市や以蔵の未来』を想ってしまう。武市の運命が『歴史通りに進む』という事に深い不安を抱くのは、これが初めての事であった。

(7月)武市半平太、以蔵らをつれて西国剣術修行に出る
(7月)英国公使ラザフォード・オールコック、外国人初の富士登山を成す。
(7月22日)江戸、桂小五郎、松島剛蔵、水戸西丸帯刀、岩間金平、丙辰丸盟約(成破の盟)
(7月)はつみ、長崎留学の許可が正式に下りる。8月から2月末までの半年間。自費であれば龍馬も再度の同伴が可能。同様に池田寅之進も長崎留学の命が下りる。8月から2月末までの半年間。明らかにはつみからの進言に対する東洋の配慮であった。今回ははつみ、寅之進共にその費用の半額が藩からの援助となるとの通達も含まれていた。驚くべき特異中の沙汰に、権平は上機嫌そのものであった。

【寅之進】一番弟子


突然の吉報に驚く寅之進。しかし旅費半額であっても池田家には厳しいと辞退を申し出る。そこには、断絶しそうだった池田家を見守り続けて来た老祖父と、寅之進がいつも気にかけている弟への遠慮も見え隠れしていた。そろそろ婚姻の話も出ており、兎に角余裕はないという。
詳細

武家の仕来りに疎い上に、藩の参政から直々に特例を認められている、下士でありながらも極めて裕福な家柄である坂本家に保護されていうという状態では、『一般』の状況を省みれず、余計な事をしたと却って反省するはつみ。しかし龍馬が間に入り、機嫌のいい権平を説得する事で寅之進の旅費については坂本家が援助する事となった。寅之進が幼いころから極めて困難な状況にあり続けた池田家であったが、年若い内からあまりにも苦労続きで真面目過ぎる為に「小武市」と言われるほど、家と弟の為にとずっとひたむきであった。そんな寅之進を皆が助けたいと思っていた故の支援でもある。そして、普通の人であれば一切チンプンカンプンであろう英語単語帳をしっかりと暗記していたのも、彼には生活苦難に埋もれた学問の才、努力継続の才がある事を裏付ける証拠。はつみが「寅くんは私の一番弟子だから、一緒に頑張りたいって思っちゃって…軽率な事しちゃって、本当にごめんね」と言うと、寅之進は感極まって泣いてしまった。

【龍馬】龍馬のお見合い


坂本家は坂本家で、今回も長崎旅行へついていく事になった龍馬を改めて権平が呼び出した。
詳細

はつみと二人きりでの遊学。「長崎では何事もなかったがかよ。お前には好いた女子でもおるか。逆にはつみには好いた男がおるがか?」…一体何の話かと気付かないフリをしてあくびする龍馬に、権平は更に顔を突き付けてきた。「そろそろ嫁を娶る事を真剣に考えろ」と。権平には嫡男がおらず、弟である部屋住の龍馬の子を坂本家の跡取りとしたい考えを持っているとの事だった。その相手として、はつみであれば坂本家としては両手離しで歓迎するとの事。唐突過ぎる話に、義母・伊予が用意してくれた茶を吹き出す龍馬。伊予もなかなかに乗り気の様子だった。
―ある日の『三姉妹』の密談を聞いていた龍馬は思う。権平や伊予は、はつみが身籠れない体である事をまだ知らないのだ―。『龍馬の嫡男を坂本家の跡取りに』と言う権平らを見れば、直と乙女、そして診察をした乙女の夫・樹庵が約束を守りはつみの体の事について他言をしていない事は一目瞭然であった。かといって、ここで龍馬がそんな大事で繊細な事を権平達に言うのもどうかと考えてしまう。なぁなぁにはぐらかしていたら「一年待っちゃるき、男ならなんちゃあせえ!」と一方的に期限を押し付けられてしまった。
はつみと夫婦になれたら…と考えはするが、龍馬には、自身の彼女への気持ちが何なのかをまだよくわかっていなかった。『知らない知識を沢山持つ、華やかなかぐや姫に憧れている』だけなのか、『妹の様に大切にしたいと思う存在』なのか、『恋をしている』のか……。それに何より、はつみが武市に抱いている気持ちというものがある。…兄がまた面倒な話を押し付けてきたもんだと、畳の上に大の字になって寝転ぶ龍馬であった。

(8月)はつみ、龍馬、寅之進、長崎留学へ出立。
(8月)土佐梼原村のひねくれ神道・柊智。江戸へ出て安井息軒『三計塾』の門をたたく。
(8月28日)高杉、関東北陸遊歴へ出る
(9月17日)仏公使従僕傷害事件

【アレク、老シーボルト】Direct talks.


(10月)思わぬ早さではつみと再会できた事を喜ぶアレクサンダー。 はつみとの時間を大切にしたいと思う気持ちを打ち明け、その為の時間を与えて欲しいと父に直談判し、周囲を驚かせる

【寅之進、龍馬、何】才気煥発


寅之進を何礼之のところへ連れて行き、共に英語の教えを受ける。やはり書生としての才があると認められるが、正直本人としては少し迷うところがあるらしい。はつみと共に歩む為の学識か、それともこの先時代の最先端を歩むであろうはつみを守る為の剣か……。
(10月15日)英国人マイケル・モース事件
(10月18日)高杉、帰藩
(10月)村田経臣、帰藩。弁天波止場の砲術方となる。
(11月)小松、日置派の改革により弁天波止場へ左遷させられる。村田経臣と出会い、長崎で得た見聞などを聞く内に親しくなる。。
(12月4日)米通訳官ヘンリー・ヒュースケン殺害事件
(12月)武市、帰藩。

【武市】想いは天袋の最奥へ


西国剣術修行から戻った武市は、大刀(肥前國河内守藤氏正廣)や平田篤胤の著書にて尊王攘夷派志士のバイブルとも言える『霊の真柱』を購入し、富などへもささやかな土産を持っていたが…実はもう一点、戸惑いながらも購入したものがあった。
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思想は若干違いながらも卓越した才で道を切り拓こうとするはつみの為に購入した、肥前忠吉銘の短刀だ。迷っている事自体がやましいことの証明であり不義の極みだと己を恥じたが、だからといって妻に打ち明ける事もできず。結局武市はその一点ものを天袋(天井下の収納)へとしまい込むのであった。

【内蔵太・陸奥・柊】切磋琢磨


(12月)池内蔵太、江戸へ発ち安井息軒『三計塾』の門をたたく。土佐上士であり乾の知己・谷干城と同門。同じく土佐梼原出身の柊智と出会う。この頃まだ入門はしていなかったが安井のもとを出入りしていた陸奥とも出会う。

【サトウ】Fabulous Emotions.


英国本土にて、University College Londonの一回生として日々を送っていたアーネスト・サトウ。兄が貸本屋から借りて来たローレンス・オリファント(英国江戸公使館一等書記官)によるエルギン卿使節団の中国・日本訪問に関する回想録を読み、日本に興味を持つ
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。 『日本とは空が常に青く、太陽が常に照り続けている国。男達はバラ色の唇と黒い瞳を携えた魅力的な乙女たちに伴われて座敷に寝そべり、築山のある小さな庭を窓越しに眺めながら過ごす。神々の祝福を受けたかの様な、色鮮やかで、現世におけるおとぎの国。』 間もなくして、今度は米国マシュー・ペリー提督の遠征記を読む。以後『他の事は考えられなくなった』程、日本への興味を深めていった。

(12月14日)プロイセン・修好通商条約締結

【龍馬、寅之進】



●万延二年/文久元年…はつみ20歳
(1月)プロイセン・修好通商条約締結、幕府顧問就任に伴い、シーボルト父子及び三瀬周三が江戸赤羽接遇所へ移る。

【アレク】Until we meet again.


先月のプロイセン・修好通商条約締結及び老シーボルトの幕府顧問就任に伴い、シーボルト父子及び三瀬周三が江戸・赤羽接遇所へ向かう事となる。はつみとの別れを前に、また泣いちゃうアレク。
(1月21日)小松、経臣を同伴し長崎へ出張。電気水雷実技習得の為、生涯友人の北郷作左衛門も共に。3月18日まで。

【小松・経臣】薩摩の領主さま


経臣の紹介で小松と知り合う。幕末の西郷大久保と密にしていた人物という事で名前だけは知っていたが、実際の好青年振りとセレブ感溢れるキラキラ感に圧倒される。薩摩の吉利領主であり、且つなかなかの美男子というのもあってとにかくカリスマ感が溢れていた。『魅力的』といわれたその人柄は極めて気さくで温厚。言論爽やかで気品と知性に満ちている事が会話の端々から伝わる。経臣に英語取得を勧めた張本人であるはつみに興味津々の様だった。

【龍馬】龍馬のお見合い2

R15

 気がつけばもう帰藩の日程が迫ってしまっていた。一月末にはここを発たねばならない。迫る『期限』を間近に感じ、坂本家から持たされていた手紙を読んでため息をつく龍馬。手紙には今回の長崎遊学中にはつみとの『お見合い』に向けた『仕込み』を行う様急かされていたのだが、はつみが『どうしたの?』と訪ねてきた為慌てて取り繕う羽目になり、更に怪しんだはつみとじゃれ合いになって押し倒してしまう。
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その場においては、買い出しに出ていた寅之進が帰ってきたり得意の『おちゃらけ』で誤魔化したが、夜になり周囲が寝静まると悶々と悩まされる事態に。龍馬としては、子供がいようがいまいが正直どちらでも良い。坂本家には春猪がいるから婿を得る事もできる上、龍馬自身にこどもができるし、何よりも龍馬自身が、己が坂本家の嫡男をもたらす、育てるという事にまったくしっくりと来ていない。だが…はつみを嫁にしたいのかしたくないのかという話になると、気持ちや実際の状況から考えるに『迷い』が生じる。そもそも彼女は武市の事を『憧れ』以上の目線で見ているというのはとっくに知り得ている事だった。見合い結婚が世の習わしとはいえ…彼女に強いる事はできないだろう。あの上士・乾退助ですら、はつみを『武家存続の為に諦めざるを得なかった』のである。…身分に合ったものしか得られない、己の手に余るものは手に入れられない。一方で、そういった習わしや精神も含め、誰かに何かを強要するなんてしたくない…そんな葛藤を抱いて、今まで生きて来た。
―だがその上で、今日じゃれあいが過ぎて押し倒してしまったあの瞬間…そんな世の習わしなど超越した己の本心を感じてしまったのも否めない。もしあのまま、彼女を自分の下に組み敷く事ができていたら?誰にも見せた事のない表情を自分だけに見せてくれたら…?…と、そんな事を妄想している時点でもはや『妹の様な』存在ではなくなっている事にも気付く。しかし……と考えている内に、どういう訳か股間が雄みを主張する事態に陥ってしまった。
彼女の事を想いながら『抜いた』ら、それはもう完全に一線を超えているという証拠だ。悶々とする股間を意識しない様に寝返りを繰り返し、そして、そのまま夜が明けてしまった。…否、ようやく夜が明けてくれたのだった。

【寅之進、経臣、何】勉強会?


【小松】こまつといっしょ


小松が『遠乗りをしないか』と声をかけてきた。遠乗りといっても小松の馬に二人乗りである事に遠慮し「私が乗ってもいいんですか?」と聞くと、うーんと少し考えるそぶりを見せてからあっけらかんと「男装もしちょっけん、大丈夫じゃっど」と言って馬上へと引き上げてくれた。ハナから全く気にしていない様子だった。
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亀山を通り抜けて風頭山へ向かう。内心『あの小松帯刀と亀山に来るなんて…』と、この状況に驚愕するはつみ。見晴らしが良いという山頂への道程は整っているとは言えなかったが、馬術の才に長けた小松のなせる業か、難なく通過する事ができた。 気温は低かったが非常に良い天気で小春日和なのが幸いした。美しく輝く海辺に広がる長崎の港を一望する。はつみにとっては標高の高い場所から長崎を一望するのも初めてだったが、それ以前に『高い場所』に来た事自体が久々なのもあって尚更眼福であった様だ。文字通りに『眩しい』笑顔で風景を楽しむはつみの横顔を見ながら、小松は思う。女だてらに土佐藩参政の支援を受けて二度も長崎へ遊学に出された上、他人に対し柔軟で外国語を操る事で西洋の人間にさえも友好的に接する事ができる…。見た目も極めて麗しく、驚くほど健康的で輝いてすらいる。世の中に、このような才に溢れた女性がいるとは…。
薩摩では厳格な家父長制のもと、「男は外、女は内」といった風潮が極めて強い。はつみの様に女性が目立つ事は勿論、「外」に影響のある言動をする事自体が厳禁とされている。とりわけ、小松は自分の妻に対し共に温泉旅行を楽しむなどそこまで厳格さを求めない珍しい武士であったが、だからこそ、長崎にまで新たな学問へと視野を広げにきた小松にははつみの姿が『非常識』なのではなく『新しい世界そのもの』として眩しく映ったのだ。 小松のまっすぐな視線に気づいたはつみは、吸い付く様に重なった視線を慌てて泳がせた後、少しはにかんだ様子で「…どうしました?何かついてますか?」と改めて視線を合わせて来た。背後に輝く海よりも眩しく見える彼女が外ならぬ己に語り掛けているのだという状況に何とも言えぬ幸福感を得つつも、小松は爽やかに微笑み返して見せる。
「今日はおいん息抜きに付き合わせもしたけんど、おはんの気分転換にもならじゃったらよかっど」
「もちろん!私も気分転換になりました!有難う御座います、小松さん」

【小松、龍馬、寅之進、経臣、何、北郷】送別会


1月末を以て帰藩の途に着くはつみらの為に、なじみ深い面々を身分関係なく宴席へ招待する小松。
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彼は分け隔てなく皆と接し、必要であれば教えも乞う事ができる好青年極まる人物であった。彼が席を外している時に北郷が改まって話をする。小松は学問の為だけに長崎へ来たわけではない。藩内で派閥争いがあり、有望の士である小松を巻き込まない為に藩主の懸命なご判断によって長崎遊学という命を受け、ここに来たのだと。同じく長崎遊学にまで来られた龍馬達はきっと藩の期待を受けた才ある方々と見受けし、今後、時勢によって小松と志を同じくする時があれば何卒、今日の縁を思い返してほしい…と、内内に申し出て来た。北郷も小松と同じぐらい身分の高い武士であったが、友の為にこの様な申し出をする姿に一同感心、寅之進などは涙までにじませていた。
時に…と北郷ははつみに視線を向け「小松の様子を見て来てほしい」と付け加えた。はつみはなんの疑いもなしに席を立ち、寅之進も何も気付かずただ親切心から「俺もお供します」と立ち上がるのだが、経臣がその裾を無言で引っ張り一献注がせる。…友からも、そして藩主からも愛される小松も、はつみに対しては少々思う所ができた様で…。察した龍馬は「ちゃちゃちゃ」と笑うと、何かを押し込むかの様に手酌で一献煽るのだった。
小松と合流したはつみは何の下心もなく、しばし二人での会話を楽しんでいる。『下心がない』というその言葉通り、はつみは小松の長崎滞在予定や、その間に家を守る妻の事などを話題にする。小松は差し支えなくにこやかに返答する傍ら、はつみの今後について…否、次はいつどこで会えるのだろうという事を考えずにはいられなかった。見聞を広げるというのであれば、亡き斉彬公の采配により『世界』へ視野を向け大きく進歩しつつある我が薩摩へも来てみないかと言いたかったが、もとより出入国に際し他藩よりも厳しい対応が見られる薩摩であるのに、加えて今の自分の立場では例えはつみが女でなくても如何ともしがたい現実があった。故に、何も言えなかった。実際、もし今薩摩に招いたとしてもはつみは女である。つまりどう考えても無視や回避ができない事案として、『正妻の存在』がある。…二心などないと言い切ったり、あるいは真逆の方向で妾を囲った所で文句は言わせないとする考えも世の中あるにはあるだろう。だが、今の小松にはその『どちらも』貫けそうにはなかった。その自覚がすでにあった。
「いつかおいの薩摩ん地をはつみどんに見せたか。」
「湾に桜島が浮かぶ景色がとてもきれいだって有名ですよね!私もいつか行ってみたいです」
今すぐにでも連れて帰りたい気持ちを抑え込んで、小松ははつみと共に座敷へと戻る事を提案するのであった。…これ以上二人でいれば、余計な事を言ってしまいそうだった己への自戒も込めて。

(2月)はつみら、滞在期限のため土佐へ帰藩する。
(2月4日)露軍対馬占領事件
(2月)柊智、師安井息軒の推挙にて幕府教学機関『昌平黌』入門(帰藩期限までの100日間)
(2月19日)~『文久元年』に改元~

確変

文久元年3月

▲ TOP ▲
●文久元年…はつみ20歳
(3月4日)土佐・井口村永福寺事件

仮SS/井口村永福寺事件


とある朗らかな陽気の午後の事。井口村の岡上樹庵に嫁いだ乙女から使いを頼まれていたはつみと龍馬は、その帰り道で、今やすっかりはつみに傾倒している寅之進と道中遭遇し談笑をしながら坂本家への家路を歩いていた。 しかしその途中で、血相を変えた新宮馬之助に遭遇する。
「龍馬ぁー!!!あっ!?と、寅之進もおったがか!?たたた大変じゃぞ!!!!」
 龍馬を探してここまで走ってきた様だが、それ以上に寅之進が同行していた事を確認した馬之助は、ただでさえ赤くなりがちな顔を更に真っ赤にして寅之進に掴みかかる。
「おんしの弟が…!上士に斬られたぞ!!!」
「え…?!」
 しかも現場はこの井口村だという。3人は馬之助の案内により、永福寺へと急行した。
(3月)井口村永福寺事件に際し、乾と龍馬の建言により吉田東洋の口添えを得た上で、藩は以下の処遇を各所に申し渡す。
詳細

・山田広衛…
 無礼打ち殺人罪により半年の蟄居・謹慎
・乾退助…
 不敬罪につき10日間の蟄居・謹慎
・坂本龍馬…
 不敬罪につき一か月間の蟄居・謹慎
・池田寅之進…
 弟の不敬罪、監督不行により家禄減額。

寅之進は刃を収め暴動は収まり、聞き取り調査により「ふっかけた」のは明らかに山田広衛の方であったにも拘らず、やはり上士側には軽めの処分しか与えられない事に郷士達は憤る。しかし、武市や龍馬、そしてはつみと苛烈に対峙した吉田虎太郎などは、こういった沙汰が下されることをはつみが既に予見しており、彼女がその場の感情だけで寅之進を庇っていたのではなく深い見識を持ち合わせた上で寅之進を、そして郷士達を救ったのだとも考えるようになる。つまるところ、腐っているのは上士達、ひいては藩政だけではない。徳川幕府が強いる圧政が全ての元凶なのだと、より明確に再認識した。且つその上で、再度重ねて、土佐の上層は腐りきってどうしようもないのだと。

【寅之進・ルシファ】解き放たれる運命


最愛の弟を失いついに天涯孤独の身となった寅之進であったが、歴史とは違う結末として今が存在している。その事を明確に知るのははつみのみであったが、寅之進は桜清丸の熱さに触れた時、『桜吹雪の中で大きな月が写り込む三途の川』の幻覚を見ており、あれはきっと『かぐや姫』であるはつみが自分に見せたものなのだと思っている。そして、はつみによって自分の何かが変わった。はつみがいてくれたから今があるとも…漠然とではあるが、しかしそう確信していた。
(3月13日)高杉、長州世子定広の小姓役就任。7月から江戸詰め

【乾】解き放たれる運命


永福寺事件において吉田東洋に許可なく無礼な建言をしたとして不敬罪を得ていた乾。およそ10日間の蟄居・謹慎が明けた頃、すぐに乾との面会を望んだ。自分が乾に頼ってしまったが為に乾が責を負う羽目になってしまった事を詫びるはつみに対し、乾は真っすぐ偽りのない視線で「正しいと思う事を成せばええ。おんしにはその正しい基準が備わっちゅう。」と言う。精神においても、そして備え持つ知識においても…そう言った乾は下座に座るはつみの元へと無遠慮に近付き、ずいと顔を覗き込んで迫った。「…じゃが、一つ気になる事がある。何故、おんしが容堂様の相続問題について知っておった?武家諸法度の知識はどこで得た?」
(3月16日)英画家チャールズ・ワーグマン来日
(3月19日)小松と北郷、長崎から鹿児島へ帰藩。経臣、引き続き長崎にて英語及び西洋武器などについて学ぶ。
(3月)長州長井雅樂『航海遠略論』周旋開始

【龍馬】解き放たれる運命


乾と同じく、軽格の士でありながら参政・吉田東洋に許可なく無礼な建言をしたとして一か月の蟄居・謹慎となっていた龍馬。はつみは毎日、龍馬が蟄居する部屋の外から「おはよう」「おやすみ」の声をかけ、食事の上げ下げを行っていた。処分が明けた龍馬はまず権平や伊予らに挨拶をし、身なりを綺麗にした所で『ようやく』はつみと再会し、抱き締めた。
(4月23日-5月27日)英オールコック公使、画家ワーグマンら、長崎から江戸まで陸路移動

それぞれの江戸へ(全編会話)… 前編・中編・後編


(4月)凄絶な経験を経て天涯孤独となった寅之進に対し、武市が江戸剣術修行を勧める。一方、龍馬もこれを機にはつみと江戸へ出て遊学し共に見聞を広めると言い出し、同時に彼女に横濱を見せてやりたいと権平らに相談を持ち掛けた。藩への届け出を通しはつみの江戸行きを知った東洋から呼び出しがある。屋敷へ向かうと乾も呼び出されており、東洋からは私的な依頼として『おんしの目から見た横濱や異国人の様子を聞かせてくれ』と頼まれる。どうやら尊王攘夷思考に凝り固まっている乾に話を聞かせたい様子が伺えた。
(5月28日)英・第一次東禅寺事件。シーボルト父子が現場を見に行き、アレクは夢でうなされる様になる。
 英・公使館の権限を横濱の領事館へ移す。(横濱公使館となる)
(5月)以蔵、九州から直接江戸へ向かい、土佐中屋敷に入る。古巣の桃井道場どで剣の稽古に励む。
(5月)

【龍馬】好きな人
R15


毎月締めの時期に才谷屋の帳簿計算や在庫管理を手伝っていたはつみ。仕事終わりの刻限になると龍馬が『迎え』にきて一緒に帰るのが定例なのだが、この日は少し特別な鉢合わせがあった。
詳細

店のバックヤードとも言える店の裏部屋からはつみと一緒に出て来た龍馬に、『ああ龍馬さん!ちょうどえがった。御来客ですよ』と店の者が声をかける。案内されたそこにいたのは、上士の娘である平井加尾であった。龍馬と目が合うとハッとした表情を見せた後に少し戸惑った表情を浮かべ、すぐ横にいるはつみへも遠慮がちな視線を投げかけてからしなやかに首を垂れる。それまではいつもの軽々しい様子で歩いていた龍馬であったが、一瞬真顔に戻った瞬間をはつみはしっかりと見届けていた。  平井は龍馬に会に来たわけではなかったが、京三条家に嫁がれた山内容堂公の妹君である友姫の御付役として上洛する事が決まったらしく、必要な品を侍女と共に見に来たとか。加尾は終始遠慮がちに話しており、龍馬もどこかよそよそしい様子で対峙していたが、はつみからしてみれば明らかに何か関係があったと思わせるかの様な二人だった。とりわけ加尾については、たまたま用事の為に才谷屋へ来たと言っていたが実際にはそうではないのだろうという事が、彼女の様子から想像できる。上士である彼女がわざわざ下町の呉服質屋にやってくるのは少し違和感があったし、恐らくは龍馬に会いに来たのではと思われたのだ。二人の時間を尊重しようと龍馬を置いて去ろうとするはつみであったが、龍馬は頑なにはつみの傍を離れず、はつみが去ろうとする流れを強引に引き寄せ、そのまま加尾とは別れる事になってしまうのだった。  すぐ隣の坂本家へと戻った二人であったが、恋バナを察知したはつみはからの『猛攻』を笑って交わす龍馬。だがその日の夜、縁側で一人横になっている所へ石に結びつけられた手紙が放り込まれ、走り去る足音を聞きながらも文へと目を落とした彼の表情が、また無となる。そして、とある過去を思い出していた―。

(6月)はつみ、龍馬、武市、寅之進ら、陸路江戸へと向かう。

【龍馬、武市、寅之進】東海道・珍道中…前編・後編


春と初夏の間とも言える気候で過ごしやすく大阪辺りまでは順調であった。しかし東海道を進み初めてから徐々にはつみが遅れ始める。
詳細

はつみも日々の運動や長崎留学で徒歩への耐性や体力面の向上が見られたものの、やはり一日に歩ける距離は男性らの足に及ぶわけが無かった。東海道を結ぶ各宿場、つまり1日地で歩くべき距離の平均は概ね25~30km前後にも及び、止むを得ず大八車に乗せて貰ったり籠にのせて貰ったり、おぶさってもらったり、体を揉んでもらったりと、やけに『賑やか』な旅道中となっていた。
そんな折、この4月に英国公使ラザフォード・オールコックの騎馬一行が東海道を進んでいた事を知る。驚くべき事に長崎から江戸までを陸路で移動し、更に、土佐を出立するのと入れ違いで舞い込んでいた5月末の江戸東禅寺での外国人殺傷事件はこれを『日本の土地が穢された』とする者達の暴挙であった事も宿場伝いに聞いた。一方、道中外国人の絵描きが様々な「すけっち」を残しており、はつみは紙の端に走り書きされていた英文を読み『チャールズ・W』とする人物によるものだと翻訳。「すけっち」は宿場町などの風景から、そこで働く人々、子供、その笑顔を模写したものであり、日本の風景や日本人に対する純粋な『興味』や『好意』が見て取れた。東禅寺事件の悲惨さを聞く一方で「すけっち」や外国人が通過した形跡を教えてくれた人々は彼らに対し友好的、もしくは少なくとも嫌悪や敵対心を思わせる様な反応で無かった事が、はつみには嬉しく思えたし、実際に「すけっち」を持っていた町人などは、恐らく直に接したであろう外国人らに対し悪い印象は持っていない様であった。彼らにも私達と同じ様に芸術を理解し、趣味や特技があり、家族がいて良心があるのだと説くはつみに、龍馬ら3人はそれぞれの反応をみせるのだった。

江戸遊学編

文久元年6月~12月

▲ TOP ▲
●文久元年…はつみ20歳
(6月)長州長井雅樂、京を経て江戸に入る。(彼の『航海遠略論』は帝をよろこばせた)
(6月)柊、江戸を出る。土佐梼原へ帰藩する。
(6月)幕府から英国艦隊駐在許可が下りる
(6月)アレクサンダー、ロシア皇帝から12月より函館にて通訳官勤務との正式通知が届く。
(6月)英国本国・アーネスト・サトウ、母校の図書館で見かけた日本外交通訳生の試験に応募し最年少首席合格。
(6月4日)武市一行、江戸に入る
(土佐上屋敷・丸の内/中屋敷・築地/山内家下屋敷・品川大井村※容堂謹慎場所)

【内蔵太】嗚呼、池内蔵太2


はつみの体調は悪化していた。どんなに気丈に振舞っていてもはつみの体力や筋力を考えれば毎日少しずつキャパオーバーであったし、そういった日々の疲労に加えて初夏の暑さもあり、人一倍、いや二倍負担を受けていたのだ。東海道品川宿を出て日本橋まで向かう道中、銀座と築地の間にかかる三吉橋のあたりで両手を大きく振る青年がいた。一行を見つけるなり遠くから駆け付けてきたのは、先に江戸へ出ていた内蔵太、そして以蔵の二人だった。
詳細

三吉橋を曲がればもうすぐ土佐藩邸中屋敷なのだが、龍馬が川崎宿の辺りで手紙を出し、土佐中屋敷の近くにはつみが休めそうな宿を確保しておいてほしいと頼んでいた様だ。頼みを受けた内蔵太は手ごろな宿に一室を借り受け、武市一行と合流をすると歓迎と労いの挨拶はそこそこに、すでに具合の悪そうなはつみを宿へと運んでやる。―正直、江戸に出てからは女も知ったし吉原にも行った。女遊びを一通りこなした事で『余計な雑念』は乗り越えられたものと思っていたのだが…はつみをおぶさった時の妙な昂りはそんな経験を『上塗り』してしまう。顔が赤い事を指摘されると、「近頃夏日も出てきよったせいか、顔が赤うなっちょるとよう言われますわ!ハハハ」と誤魔化した。

【龍馬・寅之進】お見舞い


はつみの勉強と思想、横濱へいく約束をする。

【武市・以蔵】お見舞い


土佐藩中屋敷近くの宿へ入ったはつみのもとに、風鈴を持った武市が現れる。二人に何かが起こる訳では決してなかったが…武市と共に顔を出した以蔵は『武市が風鈴を用意した』事自体に思う所あり、そっと席を外したのだった。
残った二人は寅之進や以蔵の進路について話す。寅之進はまだどの道場の門を叩くか決めかねている様だ。以蔵も剣の稽古は捗っているものの、何がしたいという思想は見られないと言う。はつみはこの江戸で発足するであろう土佐勤王党や以蔵の事を気に掛けていたが伝える事など出来る訳もなく、ただ心の中で、武市や以蔵の事を案じていた。

【内蔵太】快気祝い


大分体調が良くなったはつみの元を訪れ、うどんを食いに行こうと誘う内蔵太。はつみにとっては『江戸』での初めての散歩、そして外食である。瞳を輝かせながら感動を隠すことなく伝えてくる彼女―もとい『彼』に、内蔵太は高揚する心とは真逆に、より一層の疑惑を以て対峙しなければならなかった。そして共にうどんを食べた時に、その疑惑は爆発しそうになってしまう。麗しくも愛らしい唇で、うどんを一本、また一本「ちゅるちゅる」と食べているのを見て………湧き上がり渦を巻く『雑念』を打ち払おうと突然食台に頭を打ち付け始めた内蔵太に、はつみも勢いよくうどんを吹き出してしまった。
(6月15日)日枝神社大祭(山王祭)

【沖田・寅之進】季節外れの春


天下祭の一つとされる『日枝神社大祭』で江戸は賑わっている。沖田は祭を見た後暇つぶしに神社へと立ち寄り、居合わせた子供達と適当に戯れていた。そこで美しい純白の鳥と出会い、季節外れの春に遭遇する。
(6月25日)英国本国・サトウ、正式に通訳候補生としての任を拝命。
(この時、University College Londonを飛び級で卒業か)

【龍馬・佐那子】桶町千葉道場


龍馬の『第二の実家』とも言えるという桶町千葉道場へと案内され、あの『千葉佐那子』と対面しテンションがあがってしまう。千葉重太郎は男装のはつみをはなから『男』だと信じ込んでおり、妙に高揚しているはつみが妹の佐那子に一目惚れでもしたのだと勘違いし、身を乗り出したりする。

【桂・龍馬・伊藤・久坂】仮SS/長州志士


龍馬の江戸剣術修行時代の知人として是非はつみに紹介したいとして、長州藩邸にやってきた。龍馬が門番に「桂さんはおらんかえ。土佐の坂本龍馬が来たちゅうたら、わかるはずじゃ」と話していた所から、あの桂小五郎に会い来たのかと興奮してしまう。そして更に、引継ぎとして門前に現れた愛想の良い男は、かの初代内閣総理大臣・伊藤博文こと伊藤俊輔であった。互いに愛想欲挨拶をしあう龍馬や伊藤の脇で、はつみは腰を抜かしかけてしまう。

【寅之進】天然理心流


寅之進は江戸剣術修行における入門先として、武市の鏡新明智流か、龍馬の北辰一刀流か、もしくはこれら二つの流派に並んで江戸三大剣術とされる神道無念流か…はたまた別の流派か…と、長い事熱心に下調べをしていた。
詳細

何せ急に江戸剣術修行が決まってから出立までの間は喪に伏せており、江戸の剣術道場のあれこれなど殆ど調べようもなかった。しかし、何を基準に選ぶべきか、自分が何の為に剣を学ぼうとしているのかという事は、自分なりにしっかりと形にできたつもりだった。あとはその内なる声に従って、相応しいと思える道場を探すだけだと。
ある日の朝、はつみに改まって話を申し出た寅之進は、江戸で入門する道場を武市承認のもと決定した事を報告する。なんと『あの新選組』の母体ともなる試衛館・天然理心流に入門する、との事であった。今日これからご挨拶に行くのだとの事で、はつみも付いていく事になった。

【沖田・試衛館】再会・確信


門人も少なくなりつつある貧乏道場に来客が訪れ、井上源三郎が門へ向かうのを道場から垣間見る総司。入門を希望する遠方からの客人が来る事は聞いていたが、興味がない彼はいつも通り門人たちに稽古をつけていた。そのうち道場へ見学に来た気配を感じ、例をしようと一瞬目配せをしたつもりだったが…そこで、かつて神社で巡り合ったはつみと寅之進の姿が見え、固まってしまう。更にはつみと目があうや否や心臓が止まるかの勢いでぎゅうと締め付けられ、『あっ』と思った時には門人から強烈な面を食らってしまっていたのであった。
(7月10日)高杉、江戸番手として江戸へ出立
(7月30日)高杉、江戸に入る。長井雅樂弾劾運動の策謀に加入し、忙しくなる。

【内蔵太・以蔵】かつじんけん


はつみが土佐藩邸へ顔を出すと、西国剣術修行において更に腕を上げた以蔵が内蔵太と組み手を取っていた。
詳細

「凄い!日頃の稽古が活人に繋がってくんだね~!」と荒々しい稽古を『応援』していたはつみであったが、内蔵太が「おんしも鍛えたらどうじゃ!」と声をかけ、はつみを引きずりおろす。「組み手なんて分からない」「記憶が無いからさ!?」と慌てるはつみを「ええきええき、体は覚えちゅうもんじゃ!構えてみぃ」と遠慮のない内蔵太。以蔵は黙って縁側に腰かけ、はつみが視線で助けを請うても知らん顔をしている。ついでに言えば、内蔵太がはつみを男だと勘違いしているという事もとっくに見抜いていたが、それにも関わるつもりはないといった様子だ。
「とぇーっ!」と見様見真似で内蔵太を担ぎ上げようとするが、やはり少しも浮かせることができない。それどころか、内蔵太が棒立ちでもしていなければ襟元を掴む事すらままならない貧弱っぷりで…何より掴んだ腕の細く華奢で肌の滑らかなこと…
「おんしゃあ…ちっくと体鍛えにゃあ、『並みの女』より弱すぎて活人どころじゃないぜよ。活人とか言ってる場合かえ。」
「う、うるさいなぁ~!」
根本的な勘違いが生じているにも関わらず微妙に会話が成り立ってしまう二人の様子を、ぼーっと傍目に見ている以蔵。はつみがひ弱すぎるばかりに勢い余った内蔵太が彼女をふっとばしてしまっても、微動だにせず呆れた視線を送り続けるのだった。

【沖田、寅之進、永倉】お見舞い


江戸をまだよく知らない寅之進が、精のつくものはどこで手に入るかと沖田に訪ねる。理由を聞くと、はつみが慣れない組稽古をして寝込んでしまった為この後見舞いに行くのだと聞き、無理矢理ついていく事に。居合わせた永倉も噂に聞く『男装の麗人』とやらを拝みたいと言って同行する事となった。

仮SS/【高杉・桂・伊藤】お手並み拝見


尊王思想でありながらも海外知識や外国語のたしなみがある男装のはつみを、桂は色んな意味で注目してくれた様であった。先日長州藩邸で初顔合わせをしてからそう日も経たぬ内に、わざわざ常駐の旅籠にまでやってきて食事に誘ってくれたのである。「長州の桂様…お美しい…」旅籠の女中たちが熱視線を投げかけている横を慌てて駆け抜けたはつみは、桂の近くまで走っていくとフワリと彼の香りに包まれるのを実感し、思わず胸が高鳴ってしまう。
「急がせてしまったかな。急に来てしまって、すまない」
「い、いえ!大丈夫です!すみません!」
 品高く優しい香りに包まれると同時に、自分にだけ向けられる柔らかな声と端正な笑顔…。『惚れない方がおかしいやろーっ!』と内心叫びながら、なんとか平常心を装って江戸の町へと繰り出していった。そして歩き初めて早々に、伊藤俊輔と、高下駄を履いた着流しの武士に遭遇する。
(8月15日)英オールコック公使、英国艦隊を対馬へ派遣し露軍を撤退させる
(8月15日)深川八幡祭(深川祭)水掛け祭

【龍馬・寅之進・以蔵・沖田・佐那子】夏まつり
R15


深川八幡祭へ出かける一行。はつみと佐那子は男装をしてこれに参加する。それでも佐那子は控え目であったが、あけっぴろげで快活なはつみは大いに水に濡れ…白いシャツが濡れて肌に張り付く様子を目の当たりにした沖田は、人生で初めて、女性の身体というものを男として意識する事となる。
(8月中旬)武市は尊王攘夷論を唱える志士達と会合を重ね、着々と『土佐一藩勤王』の構想を練っている様であった。武市が唱える一藩勤王の『先』を知るはつみは、彼の活動が広く深くなるに比例して不安を増大させる。

【武市・龍馬】越えられない一線(隅田川花火大会)


この日、土佐藩邸中屋敷からもそう遠くない両国・隅田川で花火大会が行われるとの事で、意気揚々と繰り出すはつみや龍馬達と一緒に武市も同行した。(させられた、ともいう)
詳細

活気づく江戸中の人達が花火を見ようと押し掛けごった返す中、人の波に揉まれてはぐれそうになったはつみは『往来で男女が近付くとは不埒だ』と怒られそうだと思いつつも、勇気を出して武市の袖を握った。自分の側にいるのが武市だけだったから、というのもあるが…「今だけなら…」とする、いわゆる『下心』といえる感情があった事を否めない。
武市に対し何かにつけて『遠慮』が生じるのは、年齢差であったり立場の違いだったりとか色んな理由があっての事だが、何よりも第一に来るのはやはり、彼には正妻がいるという点…ただの憧れが、抱いてはいけない慕情へと変化しているという点だ。つまるところこの『人波に揉まれてはぐれてしまうかも知れない』という状況を利用した。どさくさに紛れて少しでも近づきたい、触れてみたいと思ってしまったが故の…咄嗟の行動だった。…それでも裾を握るので気持ちは限界だった訳だが。
しかし次の瞬間、はつみの行動に気付いた武市が不意に振り返り、吸い寄せられる様にして二人の視線が重なる。周囲の雑踏は一瞬で遠くへと過ぎ去り、まるで二人だけの世界であるかの様な…深い視線の交わりを感じたのも束の間。武市の無表情の瞳がゆっくりと瞬きをした後、伏せがちとなってゆっくりと視線が外れていった。…それはいつも見る武市の表情だった。彼は決して何も言わないが、不意に目を伏せ視線を背けるその表情はいつもどこか迷惑そうにも見えて…常に誠実で厳格な彼だからこそ、『今のは一線を越えてしまっただろうか』『迷惑をかけてしまっただろうか』と、もっと親しくなりたい本音との間で葛藤が生まれていた。そして今もまた、視線が外れると同時に周囲の雑踏も戻り、はつみはやはり出過ぎた真似をしてしまったと我に返って、袖から手を放してしまったのだった。その途端、気が抜けたせいもあって人の荒波に飲み込まれてしまう。武市の背中も人の影に隠れ、はぐれてしまう、遠くへと行ってしまう…と思った矢先。思いがけずグイと腕を引き寄せられた。
「…大丈夫かえ」
 落ち着いた声で語りかけ、大きな手で力強く腕を引いてくれたのは武市だった。彼に触れたのはこれが初めてだった事もあり、かつ、思っていたよりも距離が近くて…引き寄せられる力が強くて…受け入れられるとは思っていなくて…潤みそうな瞳でただ、間近に武市を見上げていた。いつもの様に伏せがちで困ったように逸らされそうだった視線が、今だけは遠慮がちにはつみの視線と重なってゆく。隙間一つ見つけるのも難しい人波の中心でぐいぐいと挟み込まれ、必然的かつ強制的に、互いの体格差や凹凸までもが密着していく。
「あっ…」
「……っ」
 どうなってしまうのだろう。このままどさくさに紛れて二人の間に何かが生まれるのだろうか…?と思われた矢先、武市はその大柄な体を強引に反転させ、手で人波をかき分けながら、横顔で振り返って言った。
「はぐれん様、俺の着物をしっかり持っちょきなさい」
「は、はい…」
 またそうやって事務的な事だけを告げて、まるで何事もなかったかの様に、何事もないはずの現実へ戻ろうと進む武市の背中を、黙って見上げる。目の前にはいつも明確な一線があって、それを乗り越えようとした訳ではないのに、いつの間にか怪我をしてしまう。この憧れの気持ちを何かしらの形に昇華したいと望んでいる訳ではないのに、少し近付いただけで傷付いてしまうのだ。
―そして、越えられない一線を感じている人物は他にもいた。
人込みの向こう、はつみたちがいない事に気が付いて探しにきた龍馬の視線が、切なげな二人の様子を捉えている。不意に足がとまり、視界の中心にいる二人以外は何も見えなくなるかの様な感覚に陥っていった。…だが彼がはつみと違うのは、彼は誰に取り繕う訳でもなくただ自嘲めいた笑みを浮かべて俯き、指先で頭を一度二度と軽く掻いた後、直ぐに気持ちを切り替えた事だ。まるで面を付け替えるかの様に。
「お~い!お~い武市さん!はつみさん!」
「―!龍馬…」
 そしていつもの声で武市の名を呼び、勢いよく人波を掻き分けて二人に合流した。武市が安堵した様な表情を浮かべたのは、単に仲間と合流できたからというだけではなかっただろう。
「こがな状況で急におらんなるき、もう一生会えん様なるち思うたぜよ!」
「何を大袈裟な…しかしすまんかった。皆はどういた?」
 引き続き押し寄せる人を避けて、なんとか道の端っこへと移動する一行。皆はこの先の開けた場所で待機している事を確認し合ったところで、龍馬は心身ともに疲弊した様子のはつみに向き合った。
「はつみさん!大丈夫かよ?人込みに随分揉まれたじゃろう?髪もぼさぼさ、顔が疲れ切っとるぜよ」
 そう言って何気なく、はつみの髪を整えてやるかの様に頭を撫でた。…きっとまた、図らずも辛い想いをしてしまったのだろう。そこに外野が触れる事は彼女にとってはきっともっと辛い事だと思うから何も言えないけれど、せめて…慈しみたかった。ただ妹の様に、保護者の様に彼女を見守る、自分の立場が許す範囲で。
「ありがとう、もう大丈夫!」
 龍馬の思いに応えるかの様に、いつもの笑顔で微笑み返すはつみ。龍馬の大きな手のひらが優しく頭を撫でてくれる事で、強張った心がほどけてゆくのが如実に感じられたから…。そしてはつみの表情が解れていく様子を目前にして、彼女に関しては敢えて何も考えない様にしている武市も、つい思案してしまう。
自分も龍馬の様に、もっと広い心で彼女に接する事ができたなら…器用に立ち振る舞う事ができたなら、不要に彼女を傷つけずに済むのではないか。自分にとっては越えられない一線を軽々と超えてゆく彼の才が、ほとほと羨ましいと。 「ほいたら皆と合流するぜよ」
「ああ……怪我はないか、はつみ殿」
 龍馬の掛け声で再び歩き出した際に、一言声をかける武市。はつみはハッと顔を上げ、今度は『いつもの』明るい笑顔で応じた。
「あ、はい!大丈夫です。すみません、武市さんまではぐれさせてしまって」
「いや……」
 何か言わなければ…と声をかけたが結局言葉に詰まる武市に、仕方ないにゃあと一人苦笑いを浮かべた龍馬がすかさず振り返って助け船を出す。
「ほおー!今通り過ぎたもんがわしの胸を揉んでいきよったぜよ!はつみさん!大丈夫かえ!?」
「えっ?何かあった?」
「こんだけの人込みなんじゃ、通りすがりに体をまさぐってきよる輩もおるかもしれんぜよぉ?」
 はつみが心からの怪訝そうな表情を浮かべたのは『さっきの自分へのブーメラン』だと感じたからであったが、龍馬達がそんな心情にまで気付く事はなかった。ただからかって笑う龍馬に、武市もいつもの調子で一言挟んでくる。
「金をくすねようとしただけではないがかえ」
「ん?そうとも言えるのう?どっちにしても、はよう行くぜよ!まっこと歩きづろうてたまらんき!」
 そして龍馬もまた『いつもの様に』はつみの肩や手をとって「はようはよう!」と案内をする。武市からの『龍馬よせ。はしたないぞ』等という小言を受けながらも、折角の花火を早く楽しもうと言って、その手を引くのだった。

【佐那子】秘密の花園


佐那子とおすすめの甘味処へ行き、女子トークをする。
(8月下旬)武市、土佐勤王党を立ち上げる。恋バナで大変に盛り上がるが、武家子女としての恥じらいを持つ佐那子が思わず「イヤですもう、はつみさんったら!」と肩を張り手すると、あまりの怪力にはつみが吹っ飛んでしまった。

【高杉】百聞は一見にしかず


思想やその知識の出所、性別、そして初見で自分をしっている様であったその真相と桂との関係など…色々と思う所のあった高杉が、自らはつみを訪ねてやってくる。はずはこうして不意を突いて尋ねても男の格好をしていたが、やはりこやつは女だと悟る。…悟って尚『知りたい』とする欲求が自身の中にある事を悟ると同時に、フと香ったよく知る香りに、何かが琴線に触れてしまった。

【沖田・寅之進・試衛館】天然理心流四代目襲名披露…前編・後編


8月下旬、武蔵総社六社宮にて天然理心流宗家四代目襲名披露のための野仕合が行われる。招待を受けたはつみは沖田や寅之進らと合流し、共に多摩へと向かった。
詳細

この頃になると試衛館食客らの中で沖田の『初恋』に察しが付いていない者はおらず、それは近藤やつね、井上らにとっても同様であった。野仕合では藤堂や原田といった者達も加わり、はつみも男装をしたまま急遽『赤組』に参加する事になる。本陣で太鼓係を務める沖田ははつみが怪我でもしないかと気が気でない様子だったが、はつみの出る幕もないほどにあっけない程の紅組圧勝で一試合目が終わってしまう。これでは何の盛り上がりもなく野仕合が終わると懸念した近藤は、第二試合が始まる前に「総司、お前も参加してこい!」と言って、総司も急遽白組参加となる。
気合の入った沖田は試合が始まるなり猛烈な勢いで紅組勢を突破し、土方、藤堂、そして原田という謎の新顔、山南を撃破。はつみの前に立ちはだかった寅之進も一瞬で打倒し、この有志を魅せる事でかつてはつみの目の前で門人に面を抜かれるという雪辱も果たした。剣術など到底できもしないはつみは引きこもっていたが事ここにきて沖田と対峙する事となり、爛々と目を輝かせる沖田から「いざ、しょうぶ!」と声を掛けられ腹をくくり、見よう見まねで竹刀を構えた。
…見つめ合う中で、沖田は自分が今何をしているのか、立っているのか横になっているのか浮かんでいるのかも分からない様な感覚に陥ってしまう。それが魅了状態であるという事は気付いておらず、異様な見つめ合いに周囲の皆が固唾をのんで見守る中、沖田の「初恋」を知る試衛館食客らは彼の現状を察して思わず笑いを漏らしそうになってしまう。
そして次の瞬間、素人極まりないはつみの面が、信じられない程綺麗に沖田の額にある瓦をかち割るのであった。

(9月4日)武市、土佐において自ら勤王党周旋の為、江戸を発つ。

【武市】帰藩


江戸に来てからというもの、武市はその『尊王攘夷』に関する活動に関してははつみを遠ざけていた。8月末に自らを党首として土佐勤王党を立ち上げた武市は、その勢力拡大、斡旋活動として早速土佐へ戻る事となる。はつみは改めて武市の元へ出向き話をするが、やはり『同志として』受け入れられる事はなかった。

仮SS/【高杉・桂】暴れ牛
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(挿絵付)


ある日、桂の訪問を受けるはつみ。公武合体を望む帝は長州藩長井雅樂の『航海遠略策』を良策とし、これが名実ともに主要藩論となるだけでなく朝廷幕府の両方から信を受ける事態となっていた。水戸との『成破の盟約』を果たさんと画策する桂や久坂、そして高杉らは焦燥を極め、事ここに至って高杉の機嫌は特に悪く…これはこれで、いつ何をしでかすか分からない―と、桂の懸念を聞いていた。

【沖田・寅之進・土方】移りゆく季節


暑さは徐々に去りゆき、日によっては秋を感じさせる爽やかな風が江戸のまちを通り過ぎていく。かたや天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合でこれ以上ない程に心を掴まれ、かつ失態を晒した沖田の心中はパッとしない曇り模様もいいところで、暇さえあれば庭先の土に永遠に八の字を書き続ける程であった。近藤や井上が、そんな沖田を暖かく見守っている。

仮SS/【桂・高杉・久坂・伊藤】女傑評議


4人で飲んでいた矢先、話題がはつみの話になる。切り出したのは伊藤で、彼もなかなかに物好きな事から少々浮ついた話題として『桜川殿はやはりどう見ても女子ですよね?最初は騙されかけましたよー』とその名を出した様であった。しかし高杉はあからさまに機嫌を悪くして無言になり、久坂は難しそうに眉間にしわを寄せて酒を煽り出す。とかく久坂に至っては、はつみの事を『あくまで開国派』と言い切り、同志とは思えていない様であった。久坂のはつみ評論を聞いていた高杉は、先日の一件ではつみに対して苛ついていたにも拘らず、久坂に対してはそのはつみを庇うような形で口を挟んでいく。桂と伊藤は驚いて顔を見合わせ、二人の言い合いをじっくりと見届けるのだった。
(9月7日)周布、久坂、藩主東勤阻止の為江戸を発つ。
(9月9日)高杉、ヨーロッパ外遊の命を受け、思わず歓喜する。
(9月)英国本国・アーネスト・サトウ、日本通訳生として母国を出立。(『日本語及び漢字勉強の為まず中国』へ行かされる。およそ一年経ってようやく、日本語習得に中国滞在は無意味という政府方針となり、改めて日本へ向け出立する。)
(9月15日)神田明神祭(神田祭)

【龍馬・内蔵太・伊藤】男なら一度は行きたい!そこは吉原
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神田明神祭の熱気も冷めやらぬ夜、内蔵太は龍馬やはつみと吉原に繰り出していた。
詳細

思い切った行動に出たのは、昨月8月に土佐勤王党を立ち上げた武市が同志を募り藩政を動かす為に自ら土佐へ帰藩し不在だから、というのも実は大きい。これも社会勉強だ、廓の遊女と会って話してみたいと鼻息荒くするはつみに対し龍馬が過保護すぎる気もしたが、基本的に女人禁制の吉原へ抵抗なく入っていくはつみを見てどこか安堵する心持でもある内蔵太であった。やっぱり男だよな?と。出先で伊藤と出会い、彼も大変に面白がって行動を一緒にすると言い出す。気難しい時世のはなしは無しに振舞ってくれる連中ばかりだったので、はつみも久々に気兼ねなく興味深い話題や遊びを楽しむ事ができた。桂が独身で恋人らしい恋人がいない事も知ったし、逆に高杉や久坂には妻がいるという事も知る。また、女達がやたらとはつみを「可愛らしい」「お肌もすべすべ」などと妖艶に褒め称える一方で年齢の話になり、ここではつみと内蔵太、そして伊藤の三人が奇しくも同じ年の20才である事が判明。おお~!と手を取り合い、龍馬を真ん中に円になって踊るという盛り上がりも見せた。
ただ、はつみは早々に酔っぱらってしまい、龍馬が連れて帰る事となった。内蔵太と伊藤は残り、特に伊藤は本格的に女遊びを続ける気であったが内蔵太がもうその気ではなく、何か別件について気にかけている事を察する。
「まあ、こうやって二人になったんも何かの縁じゃと思うて…一緒に過ごしちゃろうかの!」
 よけておいた膳を手前に持ってくると内蔵太の前に胡坐をかき、酌をして内蔵太が抱えているであろう話を聞くと言い出した。伊藤の心意気に感謝した内蔵太は礼を述べた後に
「いやぁ…たいした話じゃないがよ…」
 とごにょごにょする。その上更にごにょごにょした後でようやく
「伊藤さんは桜川の事をどう思っちょりますか」
 と尋ねた。正直何か時勢に関して思う事があるのだろうか等と思っていたが、意に反してあまりにもざっくりとした質問だったので意図を測りかねてしまう伊藤。しかし、内蔵太がこう見えてはるばる土佐から出てきて江戸・安井息軒塾に学ぶという秀才であり、且つ、先日武市半平太が中心となって発足したという土佐勤王党の立ち上げにも大きく貢献した有能な士である事をまず考慮した上で返答をする事にした。
「う~ん、だいぶ独特な思想を持っちょるお人…ですかね。」
「あ~」
「ご本人はその持論を広く推していっちゃろうっちゅうつもりはのうみたいじゃけど、幕府に対するあの割り切り様には度肝を抜かれた。そんで妙に俯瞰で物言うけぇ尚更過激に聞こえる。記憶を失くされる前はどこの誰だったんじゃろか…。まぁ、面白い御仁じゃと思いますよ。今んところは」
「あ、ああ。うんまあそうなんじゃが…」
 自分から話を振っておいてまったく生気のない相槌ばかりを打っている内蔵太に、小首をかしげて問い返す伊藤。
「さっきから一体どうされた?どうも様子がおかしいのう?」
「ああ、すまんちや!ちゃんと聞いちょるき。まあその、なんちゅうんかのお…」
 ハッと目を開き改めて視線を合わせて来た内蔵太であったが、次に何を言ってくるのかと思いきやまたもやごにょごにょと言葉選びに慎重になってしまう。時勢の話でなければ一体何を言いたいのかさっぱり想像がつかない伊藤であったが、時勢の話ではない桜川の話…という風になるとこれはこれで何やら面白そうな風向きになって来たと興味をそそられる。そうこうしている内に内蔵太もようやく腹をくくったのか、やっと『本題』について話をし始めた。
「…もうちっくと、その…見た目とか、どう思うかち思うて」
「…見た目?」
 『勤王の志士池内蔵太と言う人物に対する考慮』など必要ないほど短絡的な話題に一瞬我が耳を疑う伊藤。
「今日はもう酔いつぶれて帰ってしもうたが、俺はあいつが女と寝る様子を確認したかったんじゃ」
「ええ?」
 斜め上すぎる内容で眉間にしわを寄せてしまうが、口元がにやけてしまっているのは伊藤にも自覚がある程だった。時勢に関する討論も勿論刺激的だが、伊藤は『女絡みの話』も大好きなのである。胡坐を組み直し、前のめりになって話の続きを促した。
「はぁ~!そんなもんを確認しちゃろうとは…池殿は随分趣向の凝った…」
「違う違う!俺の好みではないぜよ!」
 妙に力強く否定する内蔵太が更に続ける。
「桜川が妙にほそっこくて、まるで女の様じゃち。じゃが俺らとおんなじ歳っちゅうことは女にも興味があるっちゅう事じゃろう?」
「うん?」
「そやき、純粋に、あいつが女を抱く時はどういう風になるがじゃろうと思っちょったんじゃ。」
「ああ、そりゃあつまり…」
 最近では断トツに面白いと思える展開に、伊藤の頭は驚くほど冴え渡っていた。桜川の話、つまり女が女を抱く所を覗いてみたいという特異な趣味の話だと思って会話をしていたが、どうやら違うらしい。伊藤の丸顔は噴き出そうになる笑いを堪えるのに必死で更に丸く膨れるかの様な形相になってしまった。
つまるところ、内蔵太ははつみの事を『女のような男』だと勘違いをしているのだ。成り立っている様でそうではない会話は、彼が桜川を男だと勘違いしている為だと仮定すれば辻褄が通る。そして伊藤が察するところ、恐らく内蔵太はその『女のような男に恋をしてしまっている』というところまで一気に考察が進んだ。
「つまり…あがぁな女の様な男でも、女を抱く時は男らしゅうなるんかと…」
「ブフーッ!!!!!」
「ぶわぁ!?な、なんぜよ伊藤さん!?きったな…!!!」
 こらえきれずに吹き出してしまった唾の飛沫が、真正面に座する内蔵太の顔面にかかってしまった。いい男が台無しである。
「いやいや申し訳ない!こりゃあまた、なかなか面白いこと言いよると思うて…!」
 流石に伊藤も謝りながら手拭きで対処しつつ、内蔵太の決定的な間違いを訂正する事なく率直に彼の話に乗ってやった。
「確かに、あの人の風貌じゃ、致す時にはどがぁなるんか気になるっちゃ」
 内蔵太に合わせた返答ではあるが、これはこれで嘘ではなかった。あの男装の麗人の濡れ場などは、想像しようと思っても具体的には想像がつかないものだ。つまり大変興味深いという事に異論はない。そしてこの返答を受けた内蔵太も内蔵太で、会話が通じている事からもやはり『桜川は男で間違いない』のだと、間違った確信をしてしまっていた。
「そうじゃろう?いやあ今日は絶好の機会じゃち思うたんじゃが、まさか一杯で酔いつぶれる程酒も飲めんとは思わんかった。」
「ははは、確かに!ちなみに坂本さんらあにはその話はしちょらんのですか?」
 伊藤からの何気ない返答だったが内蔵太には突き刺さる一言でもあった。なんせ、一目惚れをして思わず漏らしてしまった求愛の言葉に真正面から『あり得ない』と言われたのだから。その言葉通りなのだとしたら、桜川は女ではなかったという事。男が男に求愛をしたから「あり得ない」とばっさり斬られたのだと考えるのが妥当である。しかし桜川と対面したり、遠く離れた時に想い馳せていると、どうしても本能的に反応してしまう自分の雄の部分を否定する事が出来なかった。なぜこんなに、桜川に『女』を感じてしまうのか?面倒な事に下手をしたらこの感情は自分とは無縁だと思っていた『男色』の趣向持ちという事にも繋がってしまう訳で…。『男色趣向』といえば、数年前に土佐上士の乾退助が『男色事件』を起こし、大身の上士でありながらも処罰を免れぬ程の凌辱行為をしでかしたと城下で噂になった事があった。非常に印象的な事件だったこともあって、まさか今度は自分がその舞台の役者になろうとは思ってもいなかった、という心境もある。
こうした理由から、本来性根は真っすぐで表裏のない内蔵太ではあったものの、流石に『男色趣向』の芽生えを周囲に悟られる事は憚られた。特に桜川と距離の近い坂本龍馬や寅之進らなどには、今更「桜川はまっこと男じゃち思うか?」と聞く事すら躊躇ってしまったのだ。―恋だ女だといった話には初心だったのもあって、尚更、上手い言い回しで乗り切る事ができなかったという事も否めない。
「いやあ…まあ、女と致しちゅう所を見たいちおかしなことはようよう言えんですろう、普通」
「フフフ、確かに。自称女好きの俺でも、なかなかの趣向じゃと思おちゃったよ」
「なんでじゃろう、伊藤さんには勢いで話してしもうた。ウマがおうたんかの?」
「いやぁ、そいつは嬉しい告白じゃね!」
「く、口説いちょるわけではないぜよ?!」
「ははは!!!」
 ハハハ、まぁまぁと笑い合う二人。一区切りついたところで、改めて座を組み直した伊藤が胸襟を開くかの様な口調で再び話し始めた。
「昨今の時勢のことで皆殺気立っちょるけど、どんなに過激な攘夷論者でも、女は外せんもんじゃ。なのに皆、口を開けば血生臭い話ばっかしちょ。志あるもんが時勢を語るんは当然じゃけど、たまにゃこうして、女の話で盛り上がるような夜があってもええと思っちょるよ。だから僕は今、嬉しいんじゃ。」
 そして内蔵太と自らの杯に酒を注ぎ、杯を掲げる。
「さあ気い取り直して、今夜を仕切り直しましょうか!内蔵太君!」
 伊藤に続き、内蔵太も爽やかに笑って杯を掲げた。
「おう、俊輔君!改めて無礼講じゃな!ハハハ!」
 先程までついていた女を呼び戻し、吉原での夜は新たな友情の芽生えに盛り上がり、深まっていった。伊藤は、同じ年であり裏表なく真っすぐで男らしい性格でありながら学識と尊王攘夷への気概も持ち合わせ、斡旋活動など縁の下の動きも任せられる有能な志士であるというだけでも十分、内蔵太とは誼を結んでもいい人物であると見切っていた。その上更に、あの桜川はつみを男だと勘違いしながらも惚れてしまい葛藤しているという何とも人間味あふれる内蔵太を、大いに気に入っていたのだ。はつみが女である事を口添えしてやるのは簡単だし、恐らく他の誰かが内蔵太にそれを告げるか本人が気づくのも時間の問題であると思われる。故に、とりあえず今は黙ってこの面白い男を観察する事にしたのだった。

【龍馬・寅之進・沖田】横濱にて(龍馬編)(寅之進・総司編)


ついにはつみの『故郷』である横濱に至るが、彼女が知る『横浜』ではなかった。また、開港された港を初めて目の当たりにした沖田は
詳細

はつみは長崎遊学の時と同じくすすんで外国人と会話をし、今後の勉学の為にととにかくメモをとり、そして沢山の英字冊子とその正しい翻訳を手に入れる。外国人居住地近くの港付近を散策していた矢先、チャールズ・ワーグマンという英国人画家から『絵のモデルになってくれませんか』と声を掛けられた。英語で対応できた事から非常に興味を持たれ、親交を持つ事になる。彼ははつみの名を訪ねたが、日本語の発音ができず『ハテュミ』と覚えてしまう。
一方、寅之進と沖田ははつみの飛びぬけた異質さをまざまざと見聞きし、共に圧倒されていた。はつみが西洋の言葉を駆使してあらゆる外国人から聞き取りを行い、更に外国人の画家のモデルとなって美人画に描かれたりしているその様子は、彼らがこの横濱という世界の入り口に圧倒されるのと同じぐらいの大きな衝撃があったのだ。この人は、ただの美しく聡明というだけの女性ではない。自分達には、そして今の日本には、いまだこの人を真に理解する事さえできないのではないかと。
更に一方の龍馬。はつみと港で落ち合う約束をして別行動をとったのは彼の提案であった。彼はいくつかの店に出入りし、とある英国の雑貨店で小ぶりの首飾りを見つけた。いわゆるロケットといわれるネックレスで、親指の腹ほどの大きさで楕円状をした『開閉式の金属板』の中に、小さな『ホトガラフ』を入れる事ができた。これをはつみの為にと購入し、例の、坂本家からしつこく言われている『お見合い』について話だけでも切り出す覚悟を決めていたのだ。見合いについて無理強いはしたくないという想いは最初から持ち合わせているはずだった。何故なら、はつみの立場になって考えれば、恐らく坂本家には大きな恩を感じている事だろう。その家から『次男と見合いをしないか』と言われればどうなるか…。そこで首を縦に振ったとて、それははつみの意思ではない事は安易に想像がつく。恩義を感じているからといって坂本家に収まる様な選択を強いたくはないというのが、無理強いをしたくないという想いの根拠だったのだ。彼女は才ある人間だ。武市がそうであった様に、彼女もまた、この江戸や横濱で成すべき事を見つけているか、みつけようとしているのかも知れない。それを邪魔するつもりはないし、そして密かに、彼女がその胸中に抱いている武市への想いも尊重したいという想いもある。
―だが、もし、そういった様々な懸念を乗り越えて自分の伴侶になってくれたのなら…。自分ははつみが奥に入る必要はないと考えているからこそ、彼女にはその才を伸ばす為の最善の理解を以て支援する事ができるだろう。武市の事は…その想いは尊重してやりたいが、実際どう足掻いてもその想いが成就する事はないと言える。かつて自分も、どうしようもない経験をしたからよく分かる…。その経験を乗り越えたい、はつみとなら乗り越えられると思える様に、彼女にもこの龍馬になら心を委ねられると思って欲しい。そう思ってもらえる様に、これからは一瞬たりとも無気力に生きる事はしない。…そうやって自分に都合のいい事を並べ立てて、勇気を振り絞っていた。
すべては、はつみが選ぶ選択肢の一つとして、この見合いの事を…自分との事を考えてくれればと願う自分に、気付いてしまったから。

【沖田・原田・寅之進】春画騒動
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はつみや寅之進に連れられて横濱へ出て以来、浮かない様子の沖田。ここの所彼の浮き沈みが激しいのは恋煩い故である事は既に試衛館の皆が知る所であったが、今回については、寅之進から横濱での様子を詳細に聞いた上でなまじ同情めいたものを得てしまった部分も大きい様だった。
詳細

一般に『才ある女性』と言えば、一芸に秀でていたり、聡明さや利発さを以て主人を支える良妻という意味では世の中にも多く存在しているだろう。だがはつみの場合は少し違う。そこには時世が絡んでおり、今その時世というのは朝廷と幕府、開国と西洋人らの上陸、尊王攘夷などといった極めて刺激的な場面にあるといっていい。そこで活かされるべき素質を既に充分兼ね備えていると思われるはつみは、いわば時の人。これから時の人として羽ばたいていく人だ。横濱ではそれを目の当たりにし、果たして自分はかの女性に相応しい男になれるのか…などと、すっかり自信を無くしてしまった様なのだ。
そこへ意気揚々と現れた原田が『男のもやもや解消法』を伝授するところから、この災難が始まる。

【高杉・桂・伊藤】はつみ塾入門?


長井の件から一転して、なんと高杉の幕府英国使節団入りが決まる。桂や周布による周旋があっての事だが、彼らの予想通り、高杉は誰それを斬ったり亡命するなどいった暴言を履かなくなり、寧ろ英語を学ぼうという発想にまで至るようになっていた。その宛てはもちろん桜川はつみであった。
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先日横濱へ行ったらしいという情報も得ていたし、使節団は横浜から出港する予定である事も受け、さっそく話を聞きに行くぞと一方的に伊藤へ告げると藩邸を飛び出してしまう高杉。先日呑みの席で久坂と言い合いになった末に『桜川の事は僕に預からせてくれ』とまで言い切った高杉だが、そもそもそれ以前、伊藤の記憶が正しければ高杉とはつみが最後に会った時の状況は『喧嘩別れ』である。伊藤の見立てでは『焼き餅』を焼いた高杉が一方的にはつみへ八つ当たりし、押し倒し、はつみに凄みを利かされて怯んだ結果『出ていけ!』と怒鳴った散々足る現場であった。その時の報告はもちろん(高杉の『焼き餅』の原因である)桂にも報告しており、どういうつもりなんだろうと顔を見合わせる。とはいえ桂も以前は西洋語学に取り組んだ経験があり興味があると言って高杉に寄り添う姿勢を見せた。結局、やれやれと肩をすくめる伊藤を交えた三人ではつみの旅籠へと向かうのだった。
最初こそぶっきらぼうに『おう』とあいさつをする高杉に少々面食らった様子のはつみであったが、桂や伊藤が苦笑しているのを見て肩の力を抜き、何事もなかったかの様に『大人の対応で』三人を迎え入れる。そして事情を聞いたはつみは高杉の海外視察を大いに祝い、「その視察によって絶対に世界が開けるだろう。それは横濱や長崎へ訪れただけでは到底得られない圧倒的な経験になると思う」と、人一倍興奮していた。単語だけでもいくつか理解できればひとまず即効性があるだろうと思い、アルファベットや数字、右や左等と言った場所を示す単語をいくつか教え、西洋の時刻である24時間制やFive Ws、具体的に厠や病院など緊急性の高い場所を尋ねる際の言葉などについても、現場に立った時に役立つだろうと図説を交えて指南する。彼らはこういった西洋学を目の当たりにして嫌悪感を出す事はなく、非常に興味深そうに受け入れていた。故・吉田松陰などの影響もあり長州では西洋について学ぼうとする者も多かったが、それらはそもそも国防という使命や概念からくる発想である事が殆どだ。故に思想の違いや目的の違いなどによっては同じ藩内であっても大きく摩擦がみられたが、はつみが教えてくれた事は自然と、そういった概念からは少し距離を感じるものだった。教示する言葉の一つ一つが身近な生活に密接しすぎていて議論をするまでもないというべきか…逆にそれが、国防とはまた別の切り口として、その国の生活文化や国民性といった本質を知るという事に繋がっていくという事を、漠然と感じるのだ。
満足してくれた様子の高杉には「餞別といえるか分からないんですけど…」と言って手製の単語帳をプレゼントする。安政の頃から何度も追記・添削され続けている手製の和英単語メモだ。勿論単語の掲載数は辞書などに比べれば天地の如く差があるが、それでも自身が覚えればあらゆる場面で通訳のヒントになる機会もあるだろう。聞いていて分からない単語があった時にこの単語帳を相手に見せれば、『多言語の辞書』というものに慣れているであろう西洋人にはその意図が伝わるかも知れない。つまりそれもまた、通訳のヒントになるかも知れないのだ。日本には兎に角こういった西洋に関する資料は少ないし、とりわけ対象が蘭語ではなく英語となると、その偏りは非常に顕著と言える。「貴重なものではないのか」と聞くが、はつみは単語を忘れない為にもこまめに時間を作って複製する様にしているのだと言い、是非高杉に使ってもらえたら嬉しいと添えた。 伊藤がまた何か言いたげに苦笑して桂へと目配せをするが、こんな時普段なら直ぐに視線を合わせてくれる桂が珍しくはつみと高杉にじっと見入っている様子だった。口元には上品な笑みが湛えられ一見いつもの桂のようにも見えたが…違和感を感じたところで、桂の視線が『いつものように』伊藤のそれと重なる。そして軽く頷き、伊藤も内心慌てて「ですよね」と言わんばかりに同調する様な表情で頷き返して見せるのだった。

(10月)乾、江戸留守居役兼軍備御用(容堂の側用人)に抜擢される。

【乾・東洋】江戸へ恋文


土佐参政・吉田東洋が乾退助を呼び出していた。礼を以て尋ねた先で「構わんき、近くに来いや」と言われた先で早速見せられたのは、一通の手紙であった。変わった字体であると共にこれまた変わった書面だが、読めなくはない。時折外国の文字が入り交じったりして…横濱の様子や経験談などが綴られている。最後まで読まなくても、差出人が誰かはすぐにわかった。
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「どうじゃ、興味が湧くか?」
「なにがですろう。桜川にですか。それとも異国にですか。」
「ハッハッハ。そう邪険にするな」
 東洋が自分に対し、はつみを媒介として少しでも西洋や開国というものに興味を持ってその実態を知り、且つ土佐の精神的支柱であり元藩主である容堂公の思想に沿う考えを持つようにと働きかけてくるのは、もう幾度目の事だろうか。全く受け付けずはねつけるという訳でもないが、西洋を知ったからと言って、帝の御威光にすがって後手後手の開国対応を取る無能を晒したり将軍継嗣問題などにおいては敵対勢力の大名以下を一方的に処断するなどといった横暴極まりない采配をせねばまともに一国の舵取りも出来ない幕府に疑問を抱いてはならぬ、その考えを改めよというのはいくら何でも道理に合わないのではないかと、いささか納得できずにいたのだ。 しかしそれとこれとは別で、正直はつみの様子について知れる事については心動かされているという事実を己でも認めなければならないが。
「まったく強情な奴じゃな退助。わしの話を聞けんのであれば、直接行くか。江戸へ。」
「は…」
「容堂様のお側に仕えながら、御前でその考えを述べ、教えを賜るがええ。」
「?!」
 乾の不動の表情にも、この時は驚きの表情が見て取れた事に「そうであろうそうであろう」と言わんばかりに東洋は笑う。そして次の瞬間気を引き締め、覇気のある声で人事を言い渡した。
「乾退助、江戸にてご隠居様の側用役と上屋敷留守居役を申し付ける。これは内々定じゃき、追って正式に沙汰する。」
「…ははっ!」
 咄嗟に礼をとる乾に、送り元としてはつみの所在地が書かれた手紙を渡しながら、更に意外な事を付け足す。
「ついでに桜川にも、早々に便りを送っちゃれ。『恋文』をな」
「…東洋様、御戯れが過ぎまする。何卒ご勘弁を」
 大御所中の大御所からそのような事を言われればどう返すのが尤もな正解かなど、瞬間的には判断が難しい。故にただ頭を下げて礼を取っていたが、東洋にもこういった一見職務とは関係のない事を口にする理由は明確に存在していた。
「退助、おんしゃあまだ嫡男がおらんがかえ」
 唐突に跡取りについての話題を切り出す東洋であったが、乾は慌てたり畏縮する様子もなくただ事実として返事をする。子女が一人生まれている事を述べるが、祝言を挙げてからすでに3年が経つ中で、嫡男どころか二人目の気配もないと。武家の当主にとって嫡男の誕生は重大な責務と言ってもいい。如何ともしがたい状況になった場合は養子を取る事も勿論可能だが、血族によって家が引き継がれて行く事が最も良いとされるのは当然の事だろう。そういった考慮を込めて『嫡男誕生の気配がない』という現状に黙した東洋は、更に一歩切り込んだ発言をする。
「おんしの身分であれば女子一人囲おうたところで問題はないじゃろう」
 『女子一人』とは言わずもがな桜川はつみの事を指している事は、発言者である東洋はもちろん乾にも理解できている事だ。
「そもそも…何故諦めた?桜川を娶っておったのであれば、おんしら二人に長崎行きを命じとったぞ」
「……父が武家としての慣例を望んだからですき」
 返す乾の言葉に嘘はなかったが、東洋がはつみの不妊体質について把握していない事を察しつつもそこには触れなかった。東洋も、乾のような男であれば、武家の慣例や周囲の目を気にする事のない『面白い』事を成せたであろうと期待しての事だったが、亡き父の意向と馬廻格の家系に生まれた嫡男として家風格式を守らんとした結果『桜川を諦めた』のならば、それはそれでやはり公正明大な判断であったとも思う。寧ろ、かつてはやりたい放題で藩からの処罰を幾度となく受けて来たあの退助が、よくぞ腹を決めたと言うべきだろう。
しかしそこに『桜川を妾にしない』理由が含まれていない事、つまり、いつも物事をはっきりと言い切る乾だがそれは逆に『中途半端な事、余計な事は言わない』事でもあり…父と家の為に一大決心した事とはいえ、未だに煮え切らぬ想いが募っているのだろうという事を把握した。乾が思っているよりもやはり、東洋は一枚も二枚も思慮深くうわてだという事だ。
「…まあええき。ともかくおんしには江戸詰めを命じるき、しばらくは戻ってこれんぞ。かつては亡き父君の意向もあったじゃろうが、嫡男の事は今のおんしの問題じゃ。俺も、そして容堂公も、案じておるぞ。」
「…は。御配慮を賜り、誠に恐れ入ります」
 結局、辞令を出した時以外は終始表情を崩さぬまま席を外した乾に「強情な奴じゃ」と息をつく東洋であった。

 帰宅した乾はいつものように手と足を洗い、いつものように正妻・鈴の迎えを受けた。はたとその顔をまじまじと見て、妻とはうまくいっていない訳ではないのだと考える。しっかりとした武家の娘であり、乾家の嫁として恙なくよくしてくれている。嫡男の事は恐らく乾本人よりも気にかけ、身籠れない事に自責の念を得ている事だろう。自分も昔のように『好いた女子が良い』といって離縁する様な考えは最早持ち合わせていない筈であったが、頑なに桜川を『妾にはしない』という己の意思は果たして何を意味しているのか…。
「如何なさいました?」
 急にじっと見つめられ、少し気恥ずかしそうに問われた声で我に返る。正妻と嫡男と妾の事を考えながらも、この後乾がやるべき事は既に決まっていた。
「…文を書く。書き終わったら夕食(ゆうげ)にするぜよ」
「あい、わかりました。長いお手紙ですか?」
「いや……すぐ終わるき。」
 『恋文』を出す訳ではない。そう言い聞かせるかの様に端的に返すのだが、妻は何を疑う素振りも見せず従順に頭を下げ、乾の身の回りの世話をする。…そう、『恋文を出す訳ではない』のだ。
「―あれ!た、退助様…!?」
 突然抱き締められた鈴は驚いた声を上げつつも、嬉しそうにその身体を受け止めた。表情を見せない乾の方へと視線を向け、子を一人生んだとはいえまだうら若いその頬を赤く染めている。
「…吉田東洋様から江戸詰めを命じられた。正式な沙汰はすぐに出る。しばらくは戻ってこれんき」
「お江戸へ……」
 しかしすぐに鈴の表情は複雑なそれへと変貌する。江戸詰め。それが何を意味し、どれだけ喜ばしい出世であるのかは重々よく分かっているし、暫く戻ってこれないのであればやはり、嫡男を授かるという夫婦の使命について早急に為さねばならぬ事があるのも理解できた。恐らく、吉田東洋様から嫡男の事でも何かしらの話があったのだろうとまで察しが付く。
だからこそ思う。今、乾が己の身を抱き締めるのは『会えなくなるから』なのだろうか?それとも『土佐にいるうちに身籠らせたいから』なのだろうか…?
武家に嫁いだ身であれば寧ろ後者が優先されるべきなのは頭ではわかっている。しかしこのような些細な事を考えてしまうほど、鈴は乾退助という主人を慕っていた。慕っているからこそ、主人が一体誰に手紙を書くのかなど考えない様にしていたのに…。

乾が夕食をとったのは、それから一刻が過ぎた後の事だった。

【寅之進・陸奥】軟派じゃない


稽古が休みである寅之進と街へ繰り出し、甘味処で日々の様子を伝えあいながら親交を重ねていた所に、突如優男風の青年から声をかけられる。
「よぉ、あんただろ?噂の『尊王開国論者』っていう女男…」
 青年が話し終わる前に寅之進が席を立ち、はつみとの間に立って鯉口に手をかける仕草をみせる。後にはつみの『両腕』とも言える程、常に行動を共にする事になる二人の出会いであった。彼は名を『伊達小次郎』といい、後に『陸奥陽之助』や『陸奥宗光』として知られる人物であったが、そのことをこの時のはつみは気付きもしなかった。

【陸奥】大江戸大冒険…前編・後編(挿絵付)
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『伊達』に誘われ、彼の『潜入調査』に付き合う。「この世のもめごとってのは大体情報戦でカタがつくんだよ」といかにも「あたまでっかち」な事を言う伊達は、かつて尊王攘夷ののろしをあげ外国人居留地への焼き討ちを決行せんと草莽の志士らを焚きつけた虎尾の会について調べていた様だ。
詳細

未遂に終わった焼き討ちだが、虎尾の会党首である清川八郎はそれによって幕府から目を付けられた後、その手先を無礼打ちしてしまった為行方をくらませたらしい。しかしこれに絡んでいたはずの山岡鉄舟がいまだ健在している事を受け、一旦は死に体の虎尾の会も、或いは行方をくらませている清川もまだ水面下で息をしているのではないかと考える。そしてもしそうであれば、この先大きな流れを生み出すかもしれないと、伊達は考えている様であった。―しかしその前に、清川を追う伊達らこそが、幕吏の目についてしまう事態となってしまった。

鎌倉江の島参り・珍道中


【本間・桂・伊藤】怒りの小五郎
R15


桂、伊藤とうどん屋で昼食をとる。
詳細

先日の大江戸大冒険で危ない目に遭った事を話し、伊藤が少し掘り下げて来たので、二人を信用していると告げた上で『清川八郎』を追っていたと小声で教えた。最近知り合った伊達小次郎という書生風の青年の事も、「恐らく思想的には桂さん達とそう違わないものを持っているんだけどとにかく頭でっかちで一匹狼で軟派っていうか…悪い人ではなさそうだし面白い男の子なんです。もしこの先会う事があったら、一度話してあげてもらえませんか?」と紹介するに至る。桂は
「伊達君の事は覚えておくよ。それにしても無茶をするね…。今度からそういう事をするは、私を呼んでもらえるかな?」
 などと言い出し、それを聞いた伊藤は口内にかき込んでいたシメの飯を吹き出してしまっていた。
「俊輔、君はいつになったらその吹き出すクセを直せるんだい?」
「す、すみませんのぉ。じゃけど、そげな安請け合いをされるんはいかがなもんかと思いますよ」
「お気持ちは嬉しいですけど、桂さんも色んな人と会うのでお忙しいですし…」
「うん…確かにそうだね。でも事前に文などで知らせてくれたなら、寝る間を削って時間を作るよ。君の為なら。」
「えっ、えっ?だだだだめですよそんな…お体を大事にして下さい!?」
「フフ」
「いやーいやーやめてくださいよ桂さん。危険ですから余計な事に首つっこまんでつかあさい。ていうか桜川殿もそがな無茶せんとって下さいよ!何かあった時、間違いなく孕まされますよ?」
「孕っ……」
 伊藤の余計な一言がまた波乱を呼んだが、しばらく笑い交じりに揉めた所で、3人揃ってうどん屋を出る事となった。

 軽食ながらも美味しかったし何より良い時間であった事に満足感を得ながら店を出る。しかし、異変は突然訪れた。伊藤、桂に続いてはつみが暖簾をくぐった時、店の外にいた人物に突然腕を掴まれたのだ。そしてあっ思う間に店横の壁へと押し付けられ、気がついたら見た事のない端正な顔が目前に迫っていた。
「探した探した。こんなに目立つ御仁だってのに、江戸ってのは広いもんだねぇ」
「う、え?」
 状況が読み込めず目をしばたたかせている内に、数歩先へ行っていた桂や伊藤も遅れて異変に気付いた様だ。しかし男は周囲を気にせずはつみの眼前に迫ったまま、自己紹介を始める。
「俺ぁ越後の本間精一郎だよ。以後、お 見 知 り お き を…」
 と、更に前髪が触れあい息遣いが唇に感じられる程顔を近づけて来た後、まるで弄ぶかの様に短く笑ってから妖艶にフッと息を吹きかけて来た。前髪が額の中央で分かれて舞うのを感じると同時に『ひゃっ!』と目を閉じるはつみ。突然壁ドンされてどういう事!?何!?と思うのと同時に、彼は今何と名乗ったか?聞き間違いでなければ、「本間精一郎」と言わなかっただろうか?と、感情と知識の激しい交錯で混乱する。本間精一郎といえば…と、はつみの脳内にある史実データを遡る。そう、この先武市半平太ら土佐勤王党が京にて台頭する際に絡んでくる、勤王志士の名前。そして彼は、極めて印象を残す事件に深く関わってくる人物だ…。それに気付いたはつみは、今目前に迫っている本間の顔をまじまじと見つめ返した。本間は心地よさそうにその視線を受け止めながら余裕のある表情を浮かべ、噂に聞いてわざわざ探しに来たはつみの顔を、首の角度を変えつつ舐め回すかの様にじろじろと見つめている。本間による初見での『評価』は極めて上々だった。赤みがあって白く透明感と張りのある健康的な美肌、華奢で涼やかな首筋に、薄く血色が透ける柔らかそうな耳。絹のようにさらさらと輝く髪が日の光をすかして小麦色に輝き、毛先がかかる耳元や首筋を更に魅力的に引き立てている。そして、形よく二重に開かれた大き目の目には宝石のような瞳がきらりとこちらを見つめ、角度を変えて覗き込むとその鮮やかさに吸い込まれそうな程に美しい翡翠色にも見え、しかし不思議と異国人どもの様な異質さは感じられず…非常に魅力的に見えた。思想だの立場だのといった事情は二の次にして、今すぐ連れ去ってしまいたいと思わせる様な…
「おっ、と?」
 壁に押し付けられた上に舐め回されるかの様な視線を浴びて硬直し、身動きが取れずにいたはつみであったが、不意を突かれた様な本間の声と共に自分に迫る影が薄まった事に気が付く。ハッとして本間の脇からなんとかして向こう側へと視線を投げると、あの普段人懐こい伊藤が見た事のない目つきで『本間』なる男の腕をはつみから引きはがそうとしてくれていた。そして、腕を引いた拍子で本間とはつみとの間に距離が生じた隙に、桂がするりと、二人の間を遮るかの様にその身を滑らせてくる。柔らかな香りがふわりと優しく包み込むかの様に間近に迫り、思わず『ほうっ…』として間近に見上げた桂は思っていたよりも背が高く見えた。自分に覆いかぶさるくらいの高い背丈であった本間と同じぐらいの目線の高さで、彼に対峙している。
「君、何をしているんだい」
 温厚で物腰柔らかな桂が、意外にも毅然とした態度で相手を制する。一見口元に微笑みを湛え、口調も柔らかな印象を与えるものであったが、その声ははつみが聞いた事のない様な重みや冷静さが含まれている様に感じた。思わず横から桂を見上げて様子を伺ってしまうはつみであったが、まったく怯む様子の無い本間はむしろ桂との対峙を楽しんでいるかの様に目前に顔を近づける。どうやら、長州藩士として名の知れた桂の事を一方的に知っている様だった。
「これは桂小五郎殿。清川先生が貴方と面会したいと文を出していた様ですが、日々お忙しいとの事でその返事すら出す暇もないとか…人気者は大変ですね。ところで本日は?ああ『変わり種の娘』とうどんで会食のご予定でしたか?」
 と、なかなかシビれる挨拶をする。『本間精一郎』という名の他にもつい先ほど話題にしていた『清川八郎』の名までちらつき、何よりも目の前で火花を散らすように対立する二人を前に、はつみは緊張のあまり目を丸くして直立不動となっていた。『あわわ…どうしよう…』と心の中で呟きながら伊藤に視線を送るが、まるで人を殺しかねないほどの目つきで本間を睨みつけているのを見てハッと息をのんでしまった。まさに、桂が一言「殺れ」とでも命じればすぐさま行動に移しそうな凄みを放っていたのだ。そして煽られる当の本人・桂と言えば、相変わらず涼し気な美顔に笑みを湛えてはいるが目の奥ではしっかりと目前の癪な男を捉え、そして堂々と皮肉を切り返さんとしていた。
「ええ。共に昼飯を食べるだけの時間でも、価値のある方とはご一緒したくなるものですから。」
「へぇ、それはそれは…」
 本間はわざとらしく驚いた表情を浮かべた後で明らかに挑発している様な眼差しを桂に向け、その美貌を前から右からと舐め回すように見ながら言葉を続ける。
「まあ確かに、『価値がある』んでしょうなあ。尊王思想に開国の利点を説きつつ『攘夷の根本』が云々といった面白い話をするとか。その語り口もさることながら立ち姿はさながら歌舞伎役者の様だの天女の如くだのっていう『女男』だとか。…んで、面白がって探してみたら『女男』じゃのぉてどうみても『女』じゃねぇの。」
 そう言うと、本間は桂を軽く押しのけ、白昼堂々、何の躊躇いもなくはつみの胸を撫で上げた。
「ひぁうっ!?」
「―なっ…?!?」
 本間の右手は遠慮なくはつみの胸を揉み上げ、確かに湾曲する柔肉を桂や伊藤に見せつけるように堪能してから手放した。はつみが目を白黒させて硬直している間に伊藤は更に深く刀に手をかけるが、桂が動いた事を瞬時に見極めて鯉口を切る事無く留まる。桂はというと、腰に差していた扇を抜き取り本間の鎖骨あたりに叩きつける様にして制止を加えた。怒りと驚き、困惑したような表情で眉間にしわを寄せる桂の表情と気迫を、どこ吹く風とでも言わんばかりに受け流す本間。
「なっ、なにするんですか…!?!?」
 斜め下あたりからわなわなと顔を赤くしながらか細い声を上げるはつみに、桂の扇を首元に受けた状態のまま、本間は構ってやった。 「やっぱりサラシも巻いてねぇのか。無防備すぎるねえ」
「そっ、それは…」
 確かにその点をつつかれると言い返す言葉もなかった。もちろん、サラシを巻いて髪も全部一つに結い上げ、きっちりとした男装をする日もある。しかし自前で作った『すぽーつぶら』だけでも事足りると思ってしまう『ラフ』な日はサラシを巻くのを省略してしまうこともあって…今日もたまたま、その日だった。だが、実際それで本間に見破られたという結果をして『今日たまたまつけてなかったから』などと言ったところで、焼け石に水であり、後の祭りであり、覆水盆に返らずであり…とにかく意味がないということは充分理解できたために、反論もできなかったのだ。 大人しく論破された様子のはつみに満足げに微笑んだ本間は、再び桂を見やり、はつみとの間で視線を泳がせながら言った。
「『価値がある』。そりゃあ、こんだけ見眼麗しい変わり種なら、手懐けてみたいよなぁ」
 その言葉が桂の耳に届いた瞬間、彼の心により深い軽蔑と怒りが湧き上がる。瞳には冷静さを保ちながらも内に秘めた激しい怒りが宿り、そしてついに、いつも表情に宿っていた微笑み、あたたかみも完全に消え去ってしまう。…この内に秘めた表情、この気概と勇気こそが彼の本質であり、過激な言動に走りがちな尊王攘夷派をまとめる主要人物足る所以なのだろうと…はつみは初めてこれを目の当たりにし、理解した。 はつみの視線を横に受けながら、桂は感情のこもっていない極めて事務的な響きを以て本間に声をかける。
「…わかった。あちらで話を聞こうか。」
「おっと、勘違いしないでくれよ。俺はあんたと時勢を語らいに来た訳じゃない。用があるのはこっちのお嬢ちゃんなんだ。話を聞く気があるなら清川殿にでも返事を書いてやってくれたまえよ」
 逐一、頭も口も回る男の様だがどうも一言も二言も多い様だ。清川と仲良くしている風なだけあってか、相手を挑発して焚きつけたり、わざといなすといった態度が身に沁みついている。事ここに及んでも態度に改善の見られない彼に対し、桂は冷静さを保ちながらもさらに一歩前に進み、真正面から言い放つ。
「…君こそ勘違いをするなよ。私は今、君の蛮行に対し極めて理知的に対処しようと務めているにすぎないのだから。」
 その言葉に、はつみはわずかに肩をすくめる。初めて見た桂の厳しい表情とその言葉からは、彼がその内心にどれほどの怒りを抑えているのかがはっきりと伺えたからだ。
「私のことは好きなだけ煽れば良い。君の事などどうとでも放っておけるからな。だが、はつみ君をそのように侮辱し、穢そうとする事は許さない。」
 静かに怒れる桂の心情を感じ取ったのははつみだけではなかった。それまで余裕気に笑みを浮かべていた本間の表情が一瞬『無』になり、場の空気が一変する。いかにも自尊心の高そうな本間には、桂が発した態度や言葉にひっかかるものがあったのだろう。だが抜け目なく冷徹な目で周囲を見渡し、背後に控える伊藤の存在にもチラリと意識を向けた後に『やれやれ』と一歩下がった事で、場の緊張も一気に解れる。
「わかったわかった。まあ、一つ学ばせてもらったよ。桂小五郎の弱点は、お嬢ちゃんだって事をね」
 すぐに余裕を取り戻した表情で、口元に微笑を浮かべる。まだ挑発的な態度が前面に出張ってはいたが、戦略的撤退を選んだのだろう。一歩二歩と下がって距離を取り、なおも厳しい視線を送り続けている桂や伊藤に対して眉を上げ、肩をすくめてみせると、今度は穏便に別れる方向へと舵を切った様だった。
「俺ぁこう見えて幕府方にもツテがあってねぇ。まぁ、仲良くねんごろに、とまでは言わないが、それなりに距離を保っておいて損はないと思うよ」
 しかし、桂は冷静に、且つ毅然とした態度で応じる。
「『価値がある』かどうかは自分で判断する。どうぞお構いなく。」
「ククク、たかが女絡みで大局を見失う御仁でない事を祈ってるよ。」
 本間はその場から退き、周囲の者たちもその動きに合わせて自然と道を開けた。彼の背中が遠ざかるにつれて、桂の胸に積もった重い感情がゆっくりと解けていくのを感じる。喧嘩だ喧嘩だと周囲に集まりつつあった人垣を『見世物じゃないですよ~』と散らす伊藤の声を聴きながら、改めてはつみの方へと振り返る。

「桂さん!あの、庇って下さって有難う御座いました…」
「怖かったね。もう大丈夫だよ。」
 桂がここまで怒りをあらわにし言葉として本間に叩きつける様子は、流石の鈍感なはつみにも率直に伝わった様だった。今はつみの胸には、本間への憤りや恐怖、疑問といった感情よりも、目の前で自分を慈しむ様な視線で振り返ってくれる桂への感謝の念と、淡く不安定な思いでいっぱいだ。それでも何とか礼だけは真っ先に伝えようと言いかけた所へ、『無理をしないで』と言わんばかりにそっと頭に手を乗せてくる。暖かな手で、髪の流れに沿う様にやさしく、ゆっくりとひと撫でしてから彼は囁いた。
「…さっきはつい…勢いで言ってしまたのだけれど。今の事で、君の身体が穢れたとは思っていない。」
「あ…」
 暖かな手に触れられてぼおっとする一方で、『穢れ』と聞いて一瞬何の事だかわからなかった。―が、直ぐに察しが付く。
「だから、どうか塞ぎ込まないで欲しい。」
 そうなのだ。この時代の人達にとっては、あのようにして白昼堂々往来で胸を鷲掴みにされるなど、人によっては自害すら考えてしまう程の凌辱行為に値するのだろう。勿論はつみも非常に不愉快に感じたし怒りも込み上げては来るが、『け、穢された!もう生きていけない!』と崩れ落ちる程の価値観までは持ち合わせていなかった。しかしだからこそ、そんな風に寄り添ってくれる桂の言葉が『なんて思慮深く労わってくれるのだろう』と身に染みるのである。
「はい、大丈夫です!」
「そう。フフ…いい子だね。」
 まるで子供扱いされているような気がしたが、その微笑みに安心してしまうのも事実だ。恥ずかしさもあって反射的に周りへと視線を泳がせてしまうのだが、それでいつの間にか伊藤が姿を消している事に気が付く。恐らく本間の様子を見にったのだろうと言う桂に、内心『尾行してるんだ…』と思う。それと同時に、先ほどの豹変ぶりといい、その肝の据わった底知れぬ度量と機転の良さに『やはりあの伊藤博文なのだなぁ』などと思い馳せてしまう。

「まだ明るいけれど、今日は帰って休んだ方がいい。宿まで送ろう」
「あっ、はい。でも大丈夫です、桂さんもお忙しいでしょうから、私一人で帰れます」
 もともと桂達とは偶然再会し、軽い流れで昼食を共にしただけだった。本間も言っていた通り、恐らく時間に追われているのは事実。きっと他に用事があるはずだ。…それはそうと、清川からの面会要請を受け流しているというのは少し驚いた様な心地もしたが…自分が清川の後を追いかけた話をした時、桂は何を考えていたのだろう等と不意に考え巡らせている内に、先を行く桂が柔らかな微笑みを湛えて振り返るのに気が付いて慌てて追いかける。彼の残り香が自分の着物にまとわりつき、まるで彼がすぐそばにいるような錯覚に陥っていたのだ。そしてその香りは、ただ柔らかく上品で良い香りというだけではない。どこか心を落ち着かせる安心感を伴い、はつみの胸に深く残る香りとなる。
「あっ、桂さん!まって…」
 はつみの声に桂は立ち止まり、また子ども扱いするような微笑みを浮かべながら、『ほら、おいで』と手招きをした。駆け足で桂に追いついたはつみは、息を整えながら彼の隣に並び、宿までの短い道を共に歩き始めるのだった。

【龍馬】(写真・影真堂)


龍馬と共に影真堂を訪ね、横濱で買ったロケットに入れる写真を撮影する
(11月1日)高杉、ヨーロッパ使節団の話が無くなる。
(11月)老シーボルト、幕府顧問を解かれ横濱にて息子アレクサンダーのロシア海軍入りを待つ。老シーボルトの親友・ポルトガル名誉領事クラークがアレクの露海軍入りを心配し、英国公使館に掛け合う。これにより、アレクサンダー・シーボルトは15歳にして英国公使館付特別通訳官(sir)に任命される。(年給300ポンド及び官舎が支給される。)老シーボルト、安心して日本を去る。今生の別れ。

高尾山・珍道中


【桂】花も恥じらうナントヤラ


ある日、旅籠に送りつけられた小包を受け取る。開くや否やふわりと品高い香りが漂い、桂からのものであると直ぐに分かった。中身は非常にセンスのよい香道具で、更に一通の『詩』が添えられている。くずし文字が読めないはつみは止むを得ず女中に声をかけ、これを読んでもらった。
『香尽きて 尚も慰む残り香に 桜去りとて 薫る面影』
香は燃え尽きた後も残り香として寄り添い癒してくれる様に、貴女が去った後も、貴女の面影を想い続けています。
はつみは目を丸くし、女中は顔を赤くして「滅茶苦茶香る~~~~!」と膝から崩れ落ちてしまった。
(11月)乾、江戸に入る。品川大井村土佐下屋敷。
(11月3日-9日)霜月大祭(秩父夜祭)
(11月酉の日)浅草・酉の祭(酉の市)

【龍馬、佐那子、以蔵】鷲神社参り(熊手を買って武市に送る)


【龍馬・乾・以蔵】勤王の徒


乾は江戸留守居役兼軍備御用(容堂の側用人)に抜擢され、江戸・鍛冶橋土佐上屋敷に入った。(容堂は品川大井村土佐下屋敷で現在も蟄居中)そして早速、はつみが顔を出しているであろう築地の土佐藩中屋敷へと通知を送り呼び出したが、龍馬と以蔵がついてきた事に対し大変珍しく露骨に顔をしかめる。止むを得ず乾ははつみを含む彼らに対し、尊王攘夷と開国について話をする。何だかんだと話してはいても、乾はまだ自分で『夷狄』を見た事がなかった。はつみは横濱なら行った事があるし多少は異文化に触れる観光案内をする事もできると伝える。

【内蔵太・龍馬】嗚呼、池内蔵太3…前編
R15
・後編


内蔵太、一大決心し帰藩後に土佐で予定されている婚姻を破棄。江戸遊学延長の申請をする。…その理由は言わずもがな、はつみという『男』への煮え切らない恋心も大きな一因であった。

【沖田・寅之進・藤堂・斎藤】好敵手


試衛館の井戸端にお年頃の青年剣士が並んで立っていた。この四人は偶然にも同年の天保15年(1844年)生まれ、数え17歳だ。寡黙ではあるが洞察力は随一である斎藤が、江戸の町あるいは千葉道場近辺で見かける土佐藩絡み男装の女とその周辺にいる『男の影』について情報を提供する。

【龍馬・桂・高杉】女傑評議その2


英国遊学の話がなくなった高杉を励まそうと連れ出していた桂と、龍馬がばったりと出くわす。そのまま飲みに行く事になった3人であったが、龍馬がはつみに次いで『異国』の事を話せる男であった事もあって、高杉の英国遊学が中止になった点に嫌味なく同情を示す。それなりに打ち解けて無礼講となり、女遊びが始まる。
「坂本君は奥方が国におられるのか?」
「いやいや、わしは部屋住みじゃき。そうでのうてもわしなんぞに嫁ぐ嫁などおらんきね!」
ここから、男達の女関係についてあらゆる情報交換が行われ…そして追求こそしなかったが、皆が皆はつみに『一目』置いているというのを何となく察しあう三人であった。

【陸奥】学問の徒
R18


横濱、江の島、高尾山に続き誘いを断った伊達。しかしはつみが宿泊する旅籠には頻繁に『伝言』を持ち込んでおり、交流は盛んに行われていた。そういう交流スタンスなのかな…と思っていたのだが、そんなある日、街中で丁度伊達を見つける。声をかけるタイミングを逸してしまった上に彼は相変わらず人込みを避けて歩くのが上手く、付いていくのがやっととなってしまった。気がつけば長屋町に迷い込んでおり、その一角にて再度伊達の姿を認めるに至る。
詳細

「伊達くんー!」
「!?―げえっ」
 呼び止められた伊達ははつみを目視するなり逃げ出そうとしたが、結局家に駆けこむ直前ではつみに捕まってしまった。「何しにこんな所まで」「いや町で見かけたからつい…」だとか「勝手に後をつけるな」「それ『おまいう?』だよ?」「『おまいう』ってなんだ」だのなんだかんだとゴネあいながら、致し方なく…といった流れで彼の部屋に上がる事となった。
まず長屋というのもあって非常に年季が入った『小屋』であったが、それ以上に凄まじい量の本と紙束で足の踏み場もないほどだった。学才を高め世論を『正義と真実』へと向かわせる人物となる為、使える金は日々の小銭以外なるべく教材(本)へと極振りしているという。部屋の角には内職用の雑貨も見られたりした。色々と感心して話を聞いている横で、突然、どこからともなく男女の艶めかしい声が聞こえ始める。すると伊達はため息をついては露骨に舌打ちをし「また始まったか…」と悪態をつき始める。部屋中に響く様な艶めかしい声にはつみは幽霊か何かかと慌てたが、呆れた伊達が真後ろの長屋に住んでいる男がしょっちゅう女を連れ込み、昼夜問わず男女のまぐわいを致しているのだと説明。唖然とするはつみの耳に、ますます『行為』が白熱していく様子が露骨に伝わってくる。
「こっちはお国の為に日々学問にはげんでるっていうのによォ。ったく…」
「そ、そうだね…(うわぁ露骨に『ギシアン』って感じ…うわぁ)」
 この会話を最期に、二人の会話は途切れてしまった。男の粗い息と共に女を愛でる声、女が善がり淫らに求める声、ギシギシと床が軋む音に加え、こうして黙ってしまっていると肉がぶつかり合う音や妙な粘着音まで聞こえてくる有様であった。この隙間だらけの小屋にあっては、壁というものは物理的に二つを隔てているという以外にはもはや壁たる機能を有していない。
 悪態を吐きながらも慣れてしまっているのか、伊達は黙って書物に目を落としている。耐えられないはつみは耳を塞いだまま、状況を何とかしようと声をかけた。自身の耳をふさいでいるせいでやたら大きな声で話しかけてしまう。
「あ…あのさあ!こういう時、いつもどうしてるの?」
「はあ?別にどうもしねぇよ。心頭滅却すれば火もまた涼しだ。」
「―ごめん、もう一回言って?」
「…耳!耳塞いでるから聞こえねぇんだよ!手を外せ!」
「ねえ、とりあえず外出ようよ!そうだ、私の宿に来たら?いくつか本持ってさ!ね!」
 迷惑そうに大声で会話をしているのは裏の男女にも聞こえている筈だが、どうもわざと淫らな声を聞かせようとしているのか、一向に状況は変わらない。伊達の声を聞く為もあって不用意に近付いてくるはつみに、伊達の方は若干機嫌が悪くなってきた様だ。
「あ~、イラついてきた~」
「無理ないよ、こんな環境じゃあ心頭滅却もできる訳ないもん。それより今までよく頑張って来たね?」
「…お前はほんっと頭ン中お花畑だな。…そうやって近付いてくるとか…」
「ええ?」
 耳の遠い年寄の様に聞こえない素振りをしてくるはつみに、『お前は一つ盛大な勘違いをしている』と指摘する伊達。伊達が言った『心頭滅却すれば支障ない』とする発言には嘘も誇張もない。実際そうやって、15才で一人江戸に出て来た頃から対処してきた。それが今回に至って何故俺はこんなにも苛々するのか?いつもと違う状況とは何だと思う?と。基本的にはズバズバと物を言いながら、このように理論で固めたがる『あたまでっかち』な傾向にある伊達の問答にも、次第に慣れ始めていたはつみ。彼は頭の回転が速くあらゆる点にも考慮が及ぶという意味では『思慮深い』とも言え、その会話のペースは当時の人からすれば煩わしく鼻に付くものだったかも知れない。しかしはつみにとっては割と『散漫的にあらゆる情報に触れていた現代人同士の会話』のような感覚もあって、故に、自分では気づかないほど自然体で彼に対峙している節があった。…その事が、彼にとってどういう事なのかという事は理解できていなかったが。
「う~ん、そう言われても伊達くんの日常を殆ど知らないからなあ。ていうか伊達くんて15才の時からここで一人暮らししてるの?今何歳?」
「17だよ」
「えっ!年下だったの?!3つも!?随分しっかりしてるなぁ…」
「俺は最初から、お前は俺より年増の女だと思ってたけどな」
「ちょっ、言い方~!間違っちゃいないけどさ…」
 しかしまだ何か言いたそうにはつみをじろりと見ている伊達の様子を察したはつみは、改めて話を聞き取ろうとして耳に当てていた手を外し、周囲の音を確認する。しかし『騒音』は依然と続いている事を確認すると口をへの字に曲げ、露骨に不快感を露わにしてみせた。その上運悪く、隣で致していた男女がついに『極まった』らしき様子が伝わってきてしまう。これを聞き届けたはつみと伊達は更に肩を落とし、心からうんざりとでも言わんばかりに深いため息をついた。
「…ごめん、話それちゃったね。それで何でイライラしちゃってるんだっけ?」
「はぁ~」
 話を戻そうとしただけなのにいかにも当てつけとばかりにため息をつく伊達に、はつみも眉を顰める。彼はそこら辺に散らばっている本や紙に埋もれていた風呂敷を抜き取ると、文台らしき家具の上に重なっていた本をばさばさと包み始めた。その動作は荒々しく、苛立ちを抑え込んでいるのが一目瞭然だ。
「この、隣人が昼間っから致してるような状況で、すぐ傍に女がいる俺の身にもなってみろっつーの。」
「うん?」
はつみは一瞬言葉を失い、伊達の言葉の意味を測りかねている。伊達が言わんとする事がまだ理解できないのだ。
「いつもなら一人でどうとでもできるけど、そうもいかねぇだろ?」
「はぁ……ええ?」
「~はあ~っ!」
 伊達からしてみればもう殆ど『答え』を『告白』しているのと同意義である言葉を告げたにもかかわらず、驚くほどに無自覚でいるはつみには刺さり様もない。それはつまり、自分は『男』という対象として捉えられていないという事を突き付けられている様なものであった。隣の部屋で盛んな男女が声も筒抜けの状態で致しているなんていう非常識な状態にあっても、彼女は自分に対して『男』を意識し、警戒する事すらもないのだ。 伊達にとっては、無理矢理脳内にねじ込まれてくる他人の嬌声によって込み上げてくる性欲に『今』対処できない下半身の苛立ちよりも、はつみにとって自分が男としてまったく意識されていないという現実に苛立ちを重ねているという訳だ。  そんな事を一瞬のうちに脳内で考え巡らせた後で盛大な溜息をつくと、手元で風呂敷を結び終えた伊達はそれをぶっきらぼうに入り口付近へと投げつける。そして次に『この鈍感が!』と言わんばかりにはつみの眼前へと押し迫った。その距離感は、先日の清川尾行作戦での納戸での不可抗力な密着事件を彷彿とさせる。しかも今回はさらに至近距離だ。いわゆる『お花畑』な思考回路でそこに立っていた流石のはつみも、伊達の整った美顔が眼前に迫ることで思わず心臓が高鳴り、驚きで動揺してしまった。そう、彼女が彼を同年代か年上だと勘違いしていた理由は、やけに垢抜けたスタイルの良さやその顔面の良さによる印象が大半であった。男性として意識していた訳ではないが内心『イケメンだなぁ』などと思っていただけに、本能的に心臓が跳ね上がってしまったと言っていい。そして足元の本に躓いて体勢を崩し、そのまま散らかった紙の上へと尻もちをついてしまった。体勢を崩してしまっては否応なく男性有利となってしまう状況に、伊達は更に追いかける様にして膝をつき、距離を詰めていく。
「近っ!な、なに?!」
 思わず声を上げるはつみに対し、伊達の鋭い視線は動じることなく彼女を捕らえたままだ。寧ろ、ここまで露骨に近づいてやっと緊張した様子を見せる事に更なる苛立ちを覚えるくらいだ。
「…なあ?健全な男ならこーゆー事を望んじまう訳だよ。だってそーいう状況なんだから」
「はあっ!?」
 ここまできてようやくはつみが理解…否、連想できた事というのは、『お隣が盛っていてつられてしまった時、伊達は普段一人で性欲処理をして凌いでいたが今は自分がいて邪魔だから処理できず、色んな意味で苛々している…のではなかろうか』という答えであった。
「わわわ私が居たら、その、邪魔っ…で、できないってこと?」
 それでもピンと来たわけではない。むしろ、例えそうだとしても性欲処理の事を堂々と異性に突き付けるなんて一体どういうつもりだ、という考えからくる『疑惑』の方がまだ強い。とはいえ、とにかく状況が状況であるので手当たり次第に述べてみた訳だが、どうやら当ては外れたらしく伊達の態度は収まる気配がない。
「そーだよ。邪魔なんだよ。一人で処理するもんも、お前が居たらできねえだろうが」
 態度が改善されるどころか『まさか』と思っていた返答が真正面から直球で返ってきた事に驚愕するはつみ。自分からそう言ったものの、露骨に『性欲処理の邪魔』などと言い返されると何も言い返せず『ぐぬぬ』とばかりに唇をひきしばる様子を見せた。
「き、気付くのが遅くなってごめん。そういう事だったら、私はほら、すぐ出て行くから…」
 伊達への気遣いのつもりで言ったのだが、はつみ地震もこの距離感にも耐えられそうになかった為、そそくさと場を離れようとする。しかし、ひたすらにはつみを見据え続けていた伊達の手がぐいとその肩を掴んだ。
「なあ…」
 尻もちをついたはつみの身体を跨ぎ、上から覆いかぶさるかの様にして距離を詰めてくる。肩から二の腕を包む掌が熱く、伊達の整った眉と素晴らしい均衡を保って流れる切れ長の目が、何かを告げようとジッとこちらを見つめる。はつみの息が止まって全身が硬直し、一気に顔が熱くなるのを感じた矢先…堰を切るかの様に、彼女は声を上げた。
「だっ……だめーっ!うそっ、本気じゃないでしょ!?だめだって!勢いだけでこんな事しちゃ…!」
 何を言い出すかと思えば、はつみはまるで年下の伊達に言い聞かせるかのように考えを改めさせようとした。緊張を極めつつもどこか『コミカル』な表現になっているのは、伊達が本来話しやすい相手であり、且つ年下だとわかったからなのかも知れない。まだ十代という若い男子がその場の雰囲気と勢いで女友達と致したくなった、というどこかで読んだ漫画ストーリーのような物を咄嗟に連想し、そんな過ちは犯してはならないと説教をしているのだ。当然、伊達がその『漫画ストーリー』なるものを連想できる訳もなかったが、はつみが自分を年下扱いして受け流そうとしている事は直ぐに察しがつく。
「ねっ、あの、他にも楽しい事あると思う!」
「なんだよ、男女の行為より他に悦しい事って。」
「たのしいっていう字が違くない?」
「今そういうウンチクいらねぇから。本能だろ、こういうモンは」
「本能って…だめだよ、勢いだけで好きでもない人とそんな事しちゃ」
 『好きでもない人と』。この一言が特に伊達の胸に深く突き刺さったのは言うまでもない。はつみは伊達の行為に対して何を以て『好きでもない人と致そうとしている』と断定しているのだろう。そして彼女が伊達に向かってそれを言いながら拒もうとする以上、伊達は彼女にとって『好きでもない人』だと言っているのと同等である。
「…それも含めて、本能だろ」
「どういうこと?」
 こいつの鈍感っぷりも『本能』だと呆れる伊達の手が、まるでわからせようとでもせんばかりにはつみの肩から背中へ向けてするりと流れていく。撫でられて不自然な体制のまま背筋をこわばらせたはつみに、伊達の顔が一層近付こうとした…その時だった。
『~あぁんっ!あんたぁ、よしとくれよ』
隣の部屋から再び善がり声が聞こえて来た。その途端、間近に見つめ合っていた伊達とはつみの表情が、まったく同じ間合いでスンと真顔へと落ちていく。
『あうっ、はあ、はあ、あっちらはもう若くはないんだか、ら…ぁあん』
『へへへっ!いいじゃねえかい。若気に当てられてぇ、もう一発打ち上げようや!』
「……なんだぁ……?」
 彼らは、伊達とはつみの『初心な』様子を壁越しに聞いて盛り上がり、再び行為を始めたようだった。はつみはその声を聞いて伊達がどう反応するのかと緊張したが、彼の顔にはむしろ白けたような表情が浮かび、先ほどの苛立ちが消えていくのが見て取れた。彼の雄がさらに猛るかと思われたが、逆に興ざめした様子で肩の力が抜けていったのだ。そうこうするうちに、伊達ははつみに対して覆いかぶさろうとしていたその身体を横に反転させ、尻もちをついた状態のはつみの横に座り込む形で床に腰を下ろす。勿論、散らばったままの本や書類を構う事なく押しつぶして。そして清川尾行作戦での密着事件の際と同じように、誰にぶつけるでもない感情を発散させるかの様に髪をぐしゃぐしゃと搔きまわしていた。一連の流れを緊張と驚愕の表情で見ていたはつみであったが、ぼさぼさ頭のまま視線をこちらに向け、横顔のまま「…ンだよ…」と一言いう伊達に「…ううん」と、不思議とどこか喜ばしいような可愛らしいような感情のままに微笑んで見せる。
その笑顔を向けられて内心沸き起こる感情とは別に、今日イチ大きくワザとらしいため息をついてみせる伊達。
「ナンダカンダ……さっさと出るか。この性欲の長屋から」
「性欲の長屋…う、うん…そだね。ごめんね、急に押し掛けちゃって…」
「ホントだよ。ったく…」
 そう言って、伊達ははつみを連れて部屋を出ることにした。隣人らは自分達の盛り声のせいで逆に若人が戦意喪失した事など露知らず、まだまだァ!とばかりに花火を打ち上げ続けるのであった…。

 先に外に出たはつみは、敷き詰められた長屋の屋根に切り取られた小さな空を見上げる。その空の青が、なんと鮮やかで清廉な輝きを放っていた事か…!青っぱなをひっさげた子供が走り回る声や井戸端会議の談笑といった雑踏までもが、心地よい音として響いてくる。 後から出て来た伊達は手荷物一つだけを持っており、戸締りなどをする事もなくそのままスタスタとはつみの隣へと追いついて来た。眉間にしわを寄せ、不機嫌というよりは拗ねた様な顔付きではつみに視線をやったまま、黙っている。 まったく「性欲の長屋」とは的を射た表現だが、若くして故郷を離れ、たった一人で江戸に出てきた彼が、生活費のほとんどを本の購入などに費やしながら学問に励んでいることを思うと、これを笑い話にするのは失礼だとはつみは感じていた。それでも何か声をかけた方がいいだろうと考え、別の言葉を探そうと思案を巡らせる。
 伊達の行動については『あの場にあってはそういう心境になっても仕方がないのだろう』と、理解を示そうとしていた。それに、江戸時代における性へのモラルが現代とは大きく異なる事も、兼ねてより理解を示そうと務めている事柄の一つだ。この時代の男女間に存在する軽率な性への感心と行動について、『価値観が異なるという事はこういう事も起こりやすい』『大衆モラルを変える事は極めて難しいが、出来る事があるとすれば、それは自分で自分を守る事しかない。』と勝手に納得していた。そして、あの『性欲の長屋』のような状況下で数年もの間を耐えながら、学問や時勢調査に対するストイックな姿勢を崩さず一人淡々と精進を重ねている彼に心から感心もしていた。
「伊達くんは偉いよ。私よりも年下で、ずっと大変な状況にたった一人でいるのに…今日はいきなり邪魔しちゃって本当にごめんなさい」
 明らかに自分を気遣う様な言葉を並べるはつみの声を、拗ねた表情のまま黙って聞く。そんな伊達はというと、事ここに至ってもなお、はつみが自分を男として扱わず、むしろ子供扱いすることに苛立ちを感じていた。先ほどの事について伊達が気負わない様配慮してくれているのはよく分かったが、『そういう時もあるよ、うんうん』と言って一過性の生理現象に過ぎなかったのだと同情される事が気に入らなかった。だったら何と言って欲しかったのか、先ほどの失態を責めて欲しかったのかと自問すると、それも正解ではない。ただ明確にあるのは、自分がはつみと一緒にいることを望んでいる自覚があった、それに気が付いたという事だ。春画を見て自慰をしたくなった時の様な心持ちで彼女に触れたくなったのではなく、はつみに惚れていたから、そういう事をはつみとしてみたいと思ったから…行動に出た。それを全く理解しようとせず『気のいい姉さん』を演じているかの様なはつみに腹が立っていた。そして何より、絶対に口には出さないが、自分が情けなかった。
「―それで、これからどこへ行くの?」
「何言ってんだ、お前の宿だよ」
「え、どうして?」
「どうしてって…本気で言ってんのか?」
はつみは、まさかさっきの続きを考えているんじゃ…と身構えたが、伊達が怒り出したのを見てそうではないと思いつつも口をへの字にし、『じゃあどこへ行くの?』と再度問い直す。伊達は脱力し、呆れながら答えてやった。
「さっき、本読みたきゃお前の宿に来いって言っただろうが?」
「―あっ、そうか!あ、だからその荷物なんだね?ごめんごめん!」
 長屋から伊達が持ち出していた手荷物をよくよく見てみれば、先ほどの騒動の最中、無造作に取り出した風呂敷にばさばさと本を詰めて包み、出入口付近に向かって投げたアレだった。―しかし同時にもう一つ気が付く。…という事は、あの時伊達はもう既に、あの長屋を切り上げ本を読む為にはつみの宿へ行くつもりだったのか?…それって、つまり…?
「なあ、ついでだからお前の話も聞いてやるよ。その、異国についての話な。あと異国の言葉についても教えろよ。」
 斜め上から投げかけられる声に、思考がさえぎられる。ぶっきらぼうに言う伊達であったが、はつみは嬉しそうに「もちろん!」と返事をした。はつみは伊達の事を『歴史上』の人物としては知らなかったが、自分が知っている様な人物というのは幕末史上で有名なほんの数握りの人物だけに過ぎない事もよくわかっている。ただ伊達は、とにかく『気が合う』そんな気がしていたのだ。彼も、一匹狼でありながらも尊王攘夷に身を投じんとする一人であったが、それでも、冷静になり『世界』の事を知ろうとして頼ってくれるのは純粋に嬉しかったのだ。
 一方で、宿先に男が転がり込もうっていうのに、本気で『学問の為に頑張ってるもんね!』等と言って無邪気に迎え入れようとする様子にすっかり『戦意喪失』して肩を落とす伊達。尾行密着事件での事といい、今回の事といい…惚れた女の前で日和る情けなさの反面、どういう訳かはつみから妙に気に入られ、『友』として限りなく近くに居られる事への満足感や優越感のようなものも実感していて。それこそ我ながら『ガキみてぇだな』『こいつの思うツボじゃねぇか』などと、居心地の良さを感じてしまっている自分に悪態を吐きたくなってしまうのだった。

 こうして、この日からはつみの宿泊先には伊達からの伝言ではなく、伊達本人が足しげく通う様になる。例えはつみが外出中であっても、通常であれば女中が要件を聞いた後に改めてもらうのに対し、伊達は『顔面が通行証』とでも言わんばかりに部屋へ上がり込み、彼女が帰ってくるまでの間は部屋の主として本を読み耽っていた。伊達は、話せば話す程圧倒的な教養を備えている事がわかったはつみが、一般的な身の回りの文化や生活知識には極端に乏しいという奇妙な点をすぐに見出す。中でも、漢字は読めるのにくずし文字が読めないという奇特な彼女の為に、それを教えてやることも多々あった。彼女からは同じ様にして外国語を学び、まさに切磋琢磨していく。
幼い頃、慟哭の中で『上に立つ人間になる』事を決意して以来学問に励んできた伊達にとって、いつも上手くいかない人間関係に煩わされる事もなく、ウマの合う人と共に学び合える機会を得られたのは非常に珍しい事。共に「学問の徒」として励んでいこうと素直に思える一方で、この宿にいるとはつみの周りにひしめく男達の存在が浮き彫りになり、これもまた気になって仕方ない伊達小次郎なのだった。

(11月15日)和宮降嫁。江戸に入る

【以蔵】金魚


江戸に来てからも『外交』をしようとしない以蔵。
詳細

桃井道場に通っては一心に剣の稽古に励み、夜になれば武市からもらった金子でぶらりと花街へと消える…。はつみは土佐勤王党への加入を『直接断られた』という経緯があるが、以蔵がどうなったかは知る由もなかった。だが彼が『剣を振るうだけの人間』にならぬ様、話が必要だと考え、何かと声をかけ続けている。
ある日はつみは金魚を仕入れ、きれいな金魚鉢に入れて土佐藩邸中屋敷に滞在中の以蔵の下へと持っていった。
「俺に食えちいうことかえ」
「ち、ちがうちがう!ね、金魚も生きてるんだよ…しばらく一緒に飼ってみない?」
生き物を飼育する事で「命・生命」について何か気付く事があれば…と思っての事であった。以蔵は興味がなさそうではあったが、はつみと共同作業をする事に『居心地が悪い』とは思っていない様だ。

【陸奥・本間】軟派対決かよ


凝りもせず『伊達』と江戸探検をし昼食を取っていたところに、本間がやってくる。利発で弁が立つが故か一匹狼でどこか軟派な二人が、何故かはつみを取り合う論争を始めてしまう。

【沖田・その他メンズ】独占欲


世間では京の都からやってきた帝の妹君・和宮様の江戸入りで大賑わいであるというのに、沖田はまた冴えないため息を付いていた。『物を知らない』にも程があると自分に嫌気がさし、その一方で『知った』事で視界が広がり、気付かなくてよかった事にも気付かされていた。…そう、はつみの周りにいる『男』の多さに。

【沖田・寅之進・試衛館】女傑評議その3
R18


近藤と山南、井上が揃って外出したこの日、急遽、沖田や寅之進の為にと『女を学ぶ会』が開催された。
詳細

主催兼講師は永倉と原田。原田は教材の提供(春画)も行った。特別講師に百戦錬磨と噂の土方、参加者は藤堂、斎藤、寅之進、沖田。女を知り尽くしたという土方特別講師はこう言う。「桜川?…中の下ってとこだろ」「まぁ抱いてくれってアイツから言ってくるんであれば、抱いてやらねぇ事もねぇけどよ」
…学び舎に嵐が吹き荒れた。

(12月)吉村虎太郎、柊智、土佐勤王党に加盟。それぞれの村から城下武市道場へ参ずる。
(11月)池内蔵太、家の問題片付き、再遊学の許可が下りる。
(12月22日)幕府文久遣欧使節(福沢諭吉ら)、英国オールコック公使の助力を受けロンドン万博へ向け出国

仮SS/【乾・龍馬・寅之進・アレク】時務を識る者は俊傑に在り

R15

(12月23日)高杉、上海行の命を受ける。年明けに長崎へ。

【高杉】浅草寺クリスマス


改めて上海渡航が決まった。あと10日もしない内に江戸を出立する為、準備や下調べに掛かり切りとなると懸念して急遽はつみを呼び出した。
詳細

やや久方振りの再会でうっかり『冬の装いもいいな』等と考えてしまう自分の頭を振り付ける高杉。馬で出迎えられた事に焦るはつみを後ろに乗せ、浅草浅草寺へと向かう。
浅草寺で旅の無事を願い、おみくじを引き、仲見世通りの茶屋で一休憩を愉しむ。英国行きが無くなってしまったのは残念であったが、はつみから貰った英語の単語帳は今も読んでいると…妙に素直な高杉。今の上海は英国が拠点としているのできっと役立つと伝えると、君は本当にわからない女だと鼻で笑った。
「以前君が言っていた言葉だが…長州に僕が必要となる時が本当に来ると思うか?」
 海を渡る最中に命を落とす事も十分に考えられる上、異国に渡った事で周囲からの認知が変わってしまうのではないかと思わないでもない…と精一杯強気ながらも、彼が期待の裏に隠す不安を覗かせてくれた事に、はつみは全力で背中を推す。 そして、今日は太陰暦ではあるが12月25日という日付であった。

【沖田・陸奥】想いの深さ故に


はつみの江戸遊学期限が近付き、立て込んだ日々を送っている様だった。必然的に彼女と会う機会も減り、沖田ははつみがもうすぐ江戸からいなくなるという目の前に迫る事実にやるせない思いを抱かずにはいられなかった。
詳細

ある日野暮用があって町を歩いていると、はつみが見知らぬ男性と路上で話しているのを見かけた。相手はすらりと長身の、しかし見た目では剣や体術が得意そうには見えない、垂れ目の優男だ。年齢は沖田と同じぐらいだろうか。思わず反射的に身を隠し『また別の男と一緒にいる…』と燻り始める。心を示し合わせた様に走り去っていく二人を、沖田は思い切って尾行する事にした。

【乾・龍馬・佐那子】文通ノススメ


12月を以てはつみ、龍馬、内蔵太、以蔵らの江戸滞在期限となっていた。乾は寅之進からの書状ではつみらの送別会に招待されていたがこれに参加する事は辞退し、代わりに非番の日を使って築地中屋敷に現れ、はつみが宿泊している旅籠、そして今出ている千葉道場にまで顔を出した。
詳細

土佐の江戸留守居役が突然訪ねてきた為に緊張が走る小千葉道重太郎と佐那子、笑いつつもどこか気まずそうな龍馬。重太郎は彼とはつみの為に気を利かせて人払いをするが、はつみが帰藩するにあたり『文をよこすように』とする乾の話を物陰から聞いて、皆で顔を突き合わせては『どういう事だ?』『恋文か?』『いや報告じゃないか?』等と論議が巻き起こっていた。龍馬は愉快そうに話をするが、佐那子には彼が少しばかり無理をして明るく振舞っている様にも見えていた。 単刀直入に話すだけ話した乾は重太郎に改めて礼をとり、颯爽と立ち去ってしまった。『文を出す様に』これだけの事をわざわざ話す為だけに来てくれた乾に置いて行かれた形のはつみであったが、先日の横濱帰りの事といい、少し気になったので彼を追いかける事にする。龍馬は快く送り出し、重太郎は飲み直そうといい、佐那子は重太郎に肩を抱かれて奥へとつられる龍馬の後ろ姿を少し切なそうに見つめていた…。 態々帰路に着く乾を追いかけ少し一緒に歩く途中、神社に立ち寄り旅の安全を祈る。…そして「嫁を得ようが子を得ようが、生きる場所が遠かろうが…俺の気持ちは変わらん」「じゃが、恩師の説く思想についてはもう一考してやってもええと思うておる。俺はこの江戸で、真に帝の御為となる事とは何かを見定める。」と告げた。

(12月)帰藩する前にちょっとした食事会が開かれる
参加者…帰藩組:龍馬、はつみ、以蔵
寅之進(幹事)、内蔵太、沖田、永倉、陸奥(何故?)、本間(何故?)、千葉兄妹。
お開き前に桂小五郎と伊藤俊輔が顔を見せに来る

【沖田・寅之進】伝えたい想い


その日は兼ねてより寅之進から誘われていたはつみの送別会であった。主催である寅之進はあれこれと手続きをこなしつつ、心配そうにとある席に置かれた手つかずの膳へと視線を投げていた。会場であるこの部屋には既に様々な顔ぶれが揃っていたが、招待したはずの沖田はまだこの場にいない。そしてはつみから聞くに、沖田の様子が目に見えておかしくなっ『あの日の夜』から今まで、彼には会っていないという。…会っていない理由も、寅之進ははつみから聞いていた。

【内蔵太】しばしの別れ


はつみ、内蔵太に乾への書状を持たせる。内蔵太がはつみの私物を一つ所望した為、金平糖の小袋を渡す。 内蔵太と同門で上士である谷干城も帰藩。谷は生粋の『尊王攘夷論者』であり、郷士でありながらも共に安井息軒に師事した内蔵太とも話が合った様だ。帰藩後は次の春に開校予定の土佐藩校『文武館』の助教授となる見込みとなっており、一方で地武市半平太と知り合い吉田東洋と対立する事となる。
(12月末)龍馬、はつみ、以蔵、帰藩のため江戸を発つ。品川から大阪経由の帆船移動。
(12月末)柊智、武市の書簡を持って萩・久坂玄瑞の元へ向かう。

一念発起編

文久2年1月~6月

▲ TOP ▲
●文久二年…はつみ21歳
(1月)はつみら、大阪に入る。

【以蔵】優しい手


大阪で土佐藩邸(はつみは手近な旅籠)に入った一行であったが、以蔵が熱を出してしまう。
詳細

はつみは3日間以蔵の看病をしていたが、その中で以蔵の前髪の奥に潜む彼の顔を初めて間近に見る事となった。以蔵は前髪を上げる事を頑なに嫌がっていたが、はつみの説得に応じた形で渋々それを許容。しかし以蔵が自分の顔を晒す事で『懸念していた』様な事にはならず、いつも通りに接してくれるはつみに安心感やそれ以上の何かを覚え始めていた。 以蔵の体調が良くならないが絶対に守らねばならない帰藩期限も迫っている為、はつみと龍馬は以蔵に付いて病気の為滞在延期と藩に申請をし、二人で大阪を発つ事に。明日発つという時、珍しく以蔵がぼそりと話しかけてきた。

(1月3日)高杉晋作、上海渡航の為、先行して出立した幕府一行を追って江戸を発ち長崎へ
(1月)はつみの書状を読んだ乾、内蔵太を呼び出し面会。土佐の様子を聞き、内蔵太の見解を聞く。

【乾・内蔵太】意気投合


一大決心をして自身の婚姻を取りやめ、再び江戸に残留した内蔵太。はつみから託された書状をきっかけに乾と出会う。二人とも『尊王攘夷』論者であったが、はつみという存在を通して『開国を以て真の攘夷』『尊王と開国は対立せず』とする話に興味を持つという共通の状況にあり、巷で大流行りの『尊王攘夷』とは少しだけ毛色の違う見解を抱く様になっていた。
詳細

 加えて、土佐の性質、容堂が隠居に至った実態、そして薩摩の思想などをそれぞれの立場から公明正大に見極めようとし、結果、現段階に至っては『一藩勤王』は極めて難しいであろう事に同意。しかしそれでも、『尊王』の大義を志すのであれば死も恐れず燃え尽きるまで!とでも言わんばかりに腹を割った話合いが進み、結果、彼らは好く意気投合した。
 また、乾は内蔵太に対し共通の知人であるはつみをどう思うかも訪ねる。乾は当然思想についての質問をしたのだが、はつみを『男』と勘違いし『はつみに想いを寄せる男色傾向にある自分』に思う所のあった内蔵太は勝手にうわずってしまう。更に奇妙な偶然だが、かつて、乾は城下において『か男色事件を引き起こし、度が過ぎた事から情状酌量にはならず処罰された上士』として一時噂にもなった人物であるからして、彼ならば分かってくれるのでは…と的外れな返答をしてしまう。よく分からないが『男色』について心外な勘違いをされていると受け止めた乾はあっさりと「あれは相手を懲らしめる為にとった馬鹿な手段であったが、他に言う事があるとすれば単に『まぐわい』への興味にすぎん。俺が好きなのは女子じゃ」と答え、内蔵太にとっての意気投合とはならなかった。だがこれはこれで尊敬してしまいそうになる程の潔さで返答を受けた事により、『俺もあの様にはっきり割り切れたら…』と更に深く真剣に悩んでしまうのであった。

(1月15日)はつみ、龍馬、土佐に帰藩する。
(1月)柊智、土佐・武市のもとに戻る。

【武市・柊・吉村】子無きは去らずとも不貞は去れ


武市の嫡男がいまだ生まれていない事は、当の本人よりも武市を崇拝する周囲の者達の方が黙っていられない状況であった。中でも吉村虎太郎や柊らが画策をし、武市の正妻・富を実家へ帰らせるところからこの事件は始まる。

【龍馬・武市】後始末


吉村と柊らの計画は大失敗に終わり、誰も幸せになれない結末を結ぶ。中でも完全なる飛び火を受けて傷付き帰ってきたはつみを見た龍馬が珍しく怒り、武市の下へと怒鳴り込みに行く。
(1月15日)坂下門外の変
逃げ遅れた水戸浪士が桂を頼って桜田藩邸に飛び込み、自決。桂は幕府から疑われる事態に陥る。奉行所へ出頭するハメになるが、この時伊藤が幕府側に間者(高槻藩士・宇野八郎)を見つける。また、この件に関しては長井雅樂の周旋により沙汰なしで釈放される事となるが、桂にとっては政敵に借りを作る形となってしまった。
(1月)龍馬、武市の書簡を持って萩・久坂玄瑞の元へ向かう。

【龍馬】別行動


(1月)ようやく病が癒えた以蔵、帰藩の途につく。
(1月15日)小松帯刀、大番頭・家老吟味(見習い)に抜擢される。
公武合体路線の薩摩、勤王急進派の脱藩が相次ぐ。

仮SS/【小松】月が綺麗だ


家老見習いに抜擢された事を、妻の千賀が讃える。
(1月20日)吉村虎太郎、武市の書簡を持って萩・久坂玄瑞の元へ向かう。
(1月)高杉晋作、長崎にて上海の状況が落ち着く3月頃まで滞留する事となる。
(2月1日)高杉晋作、日本語ができる2人のアメリカ人宣教師を訪ねる。(フルベッキ宣教師ら)この時、日本の『士族と土民』といった封権身分制度について話を切り出し、宣教師らは米国において身分のない『四民平等』について話をした。日本で言う将軍とほぼ同等に値する身分の『大統領』が『平民』から『選挙』によって選ばれその任期を終えた時はまた『平民』に戻るのだと。それはまさにはつみが言っていた『日本の未来』の姿であった。
(2月)土佐内では徒党を組む事を禁止されている中、武市らが中心となって発足した土佐勤王党には200人に及ぶ同志達が参加を望んだ事でますます『尊王攘夷論』が苛烈さを以て急速に膨れ上がっていた。しかしその政策が藩政に取り立てられる様子は微塵ともうかがえない。そんな中、はつみは参政・吉田東洋からの呼び出しを受ける。

仮SS/【東洋】勧誘


江戸出立前の取り決め通り、江戸や横濱で知り得た事とはつみの見解や記憶などについて報告をする。

【武市】抑止


参政吉田東洋について、土佐勤王党は門前払いをされる一方で、「あの桜川はつみはわざわざ呼び出され『開国』の話をしている」「桜川を斬るべきではないか」と、柊や那須らが騒ぎ始める。それを武市は冷静に、だが異例とも言える言葉によって抑えようとしていた。
「桜川殿は変わった趣向の持ち主ではあるが、時世や藩政に影響を及ぼさんとする意図は持ち合わせていない。それも見極めず見境なく殺すというのは、志も識別もない盗賊・悪党共と同位である」
(2月)武市、以蔵に対しはつみの護衛を依頼。

仮SS/【武市・以蔵】明日、来年、そのずっと先


単身、武市が以蔵のもとを尋ねる。以蔵は武市本人の気配と共に一層深く刻まれた眉間のシワに気付き、無言のまま木刀を降ろす。

【以蔵】真なる剣


はつみ、安易に誰かを「斬る」などと言う以蔵を諭し、以蔵の剣は『守るための剣』であって欲しいと伝える。
「難しい事を言う。おんしを守る為には相手を斬らねばならん」
「ううん。私を守るとかの話じゃないの。以蔵くんが守るのは人だけじゃなくて、志も守るんだよ。その為にただ相手を斬れば済むって言う考えじゃなくて、もっと強い…本当の強い剣を、心に持ってほしいなって思うんだ」
(2月11日)将軍家茂、和宮結婚
(2月13日)西郷、大島より召喚され小松らに面会。若い家老見習いとはいえ西郷よりも数段身分が上の小松に対し、あえて失礼な態度(寝たふり)で対応する。叱りもしないどころか疲れているだろうから寝かせてやりなさいと応じた小松の人柄に触れ、直ちにその場で謝罪し、感服する。
(2月16-17日)英オールコック公使、幕府老中らと密談し日本の情勢を深く理解
(2月22日)吉村虎太郎、本間と土佐に入る。本間土佐国境付近で吉村と共謀・活動する。

【武市、龍馬、柊、本間】因縁の嚆矢


吉田東洋により土佐『尊王攘夷派』の動きが抑圧される中、気の逸る吉村虎太郎は土佐国境近辺で流浪の尊王志士・本間精一郎と会合するなどその活動を活性化させていた。
詳細

帰還した龍馬が武市の元を訪ねていたその日、道場に駆け付けた柊からある一報がもたらされる。国境付近の吉村から連絡あり、東国の勤王志士・本間精一郎が武市との面会を希望しているとの事であった。併せて薩摩挙兵上洛の兆しについての更なる情報などもざっと記されており、本間が情報提供をしてくれるという。無言の武市に代わり、龍馬がはてと小首をかしげる。どこかで聞いた名だったが…と思案し、やがて江戸遊学の際はつみに言い寄って来た男であると思い出した。
一方の武市は、本間との面会を進める吉村に対し首を縦には振らずにいた。
「…今は藩内の思想統一が急務である中、佐幕派の上士らぁも我々の動きに過敏になっておる。国境などに出向いてむやみに刺激をするべきではない。」
本間がどいういったツテで武市との面会を望んだかは定かではなかった。薩摩の情報を持っていると言う事は、江戸で武市と親しい仲となった華山あたりと接触したのだろうかと思案する武市。ただ、江戸で本間の名を聞いた事はあった。彼の噂と共に聞いた清河八郎の事といい、あまり良い印象ではなかった事が印象深い。そして、はつみと接触していた事も武市は知っていた。

(2月23日)英オールコック公使、賜暇とロンドン万博のため帰国。先行している幕府の使節団とはロンドンで合流予定。
(2月)陸奥陽之助、江戸にて安井息軒「三計塾」入門。内蔵太と出会う。
(3月)間崎哲馬、武市の意を汲んで江戸へ出る。のち、乾と連絡を取り合う
(3月6日)吉村虎太郎、宮地宣蔵、(沢村惣之丞)、脱藩。
(3月13日)島津久光、西郷らに九州視察と下関での報告を命令。

【小松】夜明けの懐銃


小松、村田経臣を呼び出し、彼の英語習得などの進捗を確認。鉄砲兵伍長となっていた村田は日々の鍛錬に精を出しながらも、長崎で得た資料を下に独自に勤勉をつづけている様子であった。
詳細

長崎で知り合った英語教師:何礼之とは文通の親交も続いており、そこでも少しずつ英語を学んでいるという。村田が長崎において英語や英米に関する研究に励む事を決めたのは桜川はつみとの出会いによるものが大きい。そこで小松からは『桜川殿とは連絡取っちょっか?』と質問があるが、小松本人や何も含め長崎滞在期間中は親交を結んだものの文通での交流は続いていなかった。つまり、一年ほど音沙汰なしという事である。
小松は『そうか』と言うと、実は江戸で桜川はつみの噂がある事を村田に話す。土佐の根無し草であるのみならずその正体は女であるはつみが、土佐参政の引き立てを受け長崎や江戸にまでその足を延ばし見聞を広げ、自然とその噂がこの薩摩にまで入ってきているという事実。やはりこれからは国際外交を見据えた国づくりをしなければならない事の一端として捉えていると。そして村田には、はつみの様な次世代の知識や価値観、そして何より薩摩隼人の精神を以て薩摩藩に尽くす人材となる様期待している事を伝えた。
そして、久光公及び薩摩軍の上洛を正式に報告し、ひいてはこれを機に自分の配下となってはくれないかと告げる。
「こっからは世界に目ぇば向けんといかん時代でごわす。おはんの様な才ある者の助けが必要じゃ」
村田経臣18歳、異例の抜擢を受け、薩摩大番頭家老吟味小松帯刀の『懐銃』となる。

(3月16日)薩摩自称国父・島津久光(島津三郎)、軍を伴って鹿児島を発つ。小松、これに追従。
(3月24日)坂本龍馬、沢村惣之丞、脱藩

【龍馬】脱藩… (長編)


脱藩者が相次ぐ中、権平は龍馬に対して同じ轍を踏むなとばかりに監視を強くしていた。
詳細

そんな中、龍馬は花見と称して酒を持ち、坂本家の霊山でもある才谷山へとはつみを誘う。しかしそこで行われたのは花見ではなく、いつになく真剣な龍馬からの『告白』であった。一方、病気を患い床に伏せっていた権平の妻・直は、有望な龍馬やはつみ達を見て思う事があり、それを乙女に打ち明ける。
…事の顛末に際し、武市が坂本家を訪れる。…はつみはまるでいつかこの時が来る事分かっていたかの様に、意味深に自分を責めていた。「もっといい結末があったはずなのに」と嘆く彼女に、そっと寄り添った。

(4月1日)帯屋町に新築中の吉田東洋の自邸が完成し盛大な宴が催される。この騒ぎに乗じ、土佐勤王党による東洋暗殺の刺客が動き始める
(4月5日)土佐、藩校「文武館」開校(慶応元年『致道館』へ改名)
(4月8日)はつみ、買い物帰りに通り雨に見舞われる。

仮SS/【以蔵・武市】活人剣


雨に見舞われてしまい、以蔵と共に適当な木の下で雨宿りをしていた。…そこへ突然、バシャバシャとこちらへ駆け寄る足音が響き渡り―…
(4月8日)(はつみ襲撃とほぼ同時刻)
吉田東洋暗殺

【東洋】夢幻の如く


はつみの襲撃があり、武市と以蔵が坂本家に駆け付けていた頃。
吉田東洋暗殺。
詳細

斬奸状が張り出されていたが犯人は分からず仕舞い。その時雨上がりの中を慌てた様子で駆け抜ける上士・谷干城の姿が目撃されていた。本人は『急な雨に降られ慌てていた』と供述し、断固として関りを拒否している。土佐勤王党の盟主として藩政の舵を掴まんとする武市も、谷の無実を提唱した。谷干城は勤王党の同志であり、これから土佐一藩勤王とする上で藩主に働きかけてもらうなど必要な人材である為に庇ったのもある。だが、彼が本当に無実である事を武市は知っていた。…東洋の暗殺時と同時刻にはつみが襲撃された際、以蔵の証言や犯人が落とした遺留品(小袋)といった情報をまとめた結果、恐らくはつみを襲ったのは谷干城に違いないと確信に近い形で武市は推測していたのだ。…そして、大義の為に吉田東洋を排除する事によって桜川はつみという稀有な人材の芽を潰し、そして彼女に対して嘘をつき彼女の命を狙った者を助けるという不義に、吐き気を催す程の自己嫌悪と自己批判を繰り返し、飲み込む。
一方のはつみ。自分が襲われた事などどうでもよかった。居ても立ってもいられず吉田東洋の屋敷へ行くが、はつみが東洋の引き立てを受け親族からも受け入れられていたのは既に過去の事となっていた。門番から追い払われ雨が降りしきる中茫然とするはつみ。後藤が現れ、
「おんしはおじきの引き立てを受けちょったのに、相も変わらず武市の側におったじゃろう。…どういて屋敷に入れると思うた。」
 と冷たく突き放す。
「武市さんは関係ないよ」
「…いや、もうええ黙れ。ここでこれ以上言い合いをしたら、おまんを斬ってしまいそうじゃ」
 吐き捨てる様に言う後藤にじっと視線を向けるはつみ。反発したい訳ではなく、寧ろ、吉田東洋と武市半平太のどちらにも取り入って都合よくいられると思うのかと思われても致し方ないと納得も出来る。だが…先の先の、はるか数年先の結末をたった一人で見据えていたはつみには、誰も成し得なかった事をしなければならないという決意もあった。だが、自分が見据えていた未来を言う訳にはいかない。言ったところで信じてもらえるはずもないし、結末を知りそれに対処しようとしているのなら何故、歴史通りの事が今起こっているのかと責められるだけだろう。…責められるならまだいい。だが、それを成し遂げる事ができず亡くしてはならない人を、結局亡くした。何もできなかったその事実はもうどうしようもない。取り返す事はできないのだ。だから…はつみは複雑に神妙な面持ちで唇を噛みしめ、言葉なく後藤を見つめ続けていた。
「…なんじゃその目は…斬ったんは勤王派の連中じゃろうが…」
 言い返せないはつみは後藤を見つめながら首を横に振る。疑念を捨てきれない後藤ははつみに一歩二歩と歩み寄り、濃い眉を怒りにしかめながら言葉を放ち始めた。
「私利私欲贅沢三昧故の天誅じゃと…?ぬかせ!武市が尊王攘夷派の政策を受け入れられん腹いせにおじきを斬ったんじゃ!」
「違う!その時武市さんは私と一緒にいた!」
「うるさい!武市が刀を抜いたかどうかち言うちょるんじゃない!あやつの画策でおじきは斬られたち言うちょる!」
 堪えようとしていた後藤の声も雨の音をかき消す程の大音量で真正面からぶつかってくる。幼少期に父親を亡くした後藤にとって吉田東洋は叔父でありながらも父親代わりの様なもので、尊敬する上司でもあった。東洋があれだけ目にかけていたはつみが今回の事に直接関わっている訳がないと思いながらも、東洋の政敵である勤王派の連中とも行動を共にする彼女に疑念や怒りが湧くのは致し方なかった。
「違う、違う!だったら私を責めてよ!東洋様と武市さんがもっと近付けば、きっといろんなことが良くなるって思ってた…だから私は東洋様の話も武市さんの話も聞いてたし、世界に向けた教養の充実が日本を豊かにするんだって事を二人にずっと話をしてた!それが…それが……」
 雨に打たれながら、慟哭のあまり溢れ出る涙もろとも雫がこぼれてゆく。感情に言葉を詰まらせたはつみはそのまま泥水の上に両膝をつき、顔を両手で覆うと噛みしめる様な声でつぶやいた。
「……何も…できなかった……」
 激しくなる雨音だけが二人を包み込む。噛みしめる様な嗚咽は搔き消されていたが、細い肩が震えながらえづいているのは一目瞭然だった。振り上げそうになった怒りの拳のやり場も無くなり、後藤はバツが悪そうに『チッ』と舌をうつ。足元に打ち付ける雨水や跳ね返る泥水を気にするでもなく乱暴に踵を返すと、横目で肩越しにはつみを見下ろして言い捨てた。
「…訳のわからんことを…。…さっさと去ね…」
 はつみが疑わしい事には変わりないが、犯行に関する裏の画策があったとしても彼女は恐らく関わっていないであろうという気はしていた。責めるべき、仇を討つべきは限りなく黒と思われる攘夷派の連中であり、その中心にいて全ての活動の画策を指示しているであろう武市半平太だ。それにどんな状況であっても、やはりはつみは女子であるにも関わらずただひとえにその才能と人柄を東洋に買われ、藩校の講師にまで声をかけられた人物である。尊敬していた叔父東洋を想うのであれば、はつみの事も信じたいとする気持ちはわずかに後藤の中にも残っていた。
 後藤の去り際にすれ違った門番は彼から何かを言われ、周囲を見回してから手にした槍を門に立てかけると小走りではつみに駆け寄ってきた。はつみの脇を抱えて強引に立たせ、雨と泥水でまさに全身ぐしょぐしょになりながら嗚咽を漏らしているはつみに気まずい表情を浮かべる。
「…後藤様が、門の前でおんしに泣かれておっては皆東洋様を見送れぬち言うちょる。…お帰り下され」
 そして門番は持ち場へと戻り、はつみを視界に捉えつつもしばらくは許容してくれていた。打ち付ける雨を浴びたまま立ち尽くすはつみであったが、遠くから様子を見ていた権平がそっと近付き、「…いくぞ」と声をかける。はっと顔を上げたはつみはわざわざ迎えに来てくれた権平の顔を見てまた泣きそうに眉間を歪ませる。権平もこの春先に妻・直を亡くしたばかりで、先日ようやく忌服期間の忌を明け、今もまだ喪に服している最中だ。公務や交流の再開可能となった時期とはいえ、龍馬も脱藩し、城下は尊王攘夷派の台頭で不穏な様子となり、はつみが襲われ参政が凶刃に倒れ、その中でとびだしていったはつみをこうして捜しに来てくれるなど、思いもしない負担をかけてしまった事だろう。参政の屋敷の前という事で、傘すらさしていなかった。
「…ごめんなさい。権平さん…」
「えい。まずは、帰って風呂に入るぜよ。」
 頭からずぶ濡れながらも目元に溢れる涙をぐいと拭って頷いたはつみは、重い足取りで権平の方へと歩み寄る。そして二人は屋敷に向かって深々と一礼をし、そっと静かにその場を後にするのであった。

(4月10日)下関にて待機していた久光ら、現れない西郷らを命令違反と見なし上京再開。
(4月)江戸に東洋暗殺の報が届く。
(4月13日)高杉、妻雅子および親族宛てに手紙を送る。雅子には反や帯等も『内緒で』贈る

仮SS/【高杉】異文化こみゅにけーしょん


1月から長崎入りをしていた高杉であったが、上海の情勢が芳しくないとして長期滞在をする事態となっていた。当初3月出航との予定でもあったが、それも伸びに伸びて4月の中旬である。そしてようやく、幕府が所有する蒸気船『千歳丸』の整備が整い次第近日中に出航との報せが舞い込んでいた。
(4月)薩摩(久光)上洛。朝廷、久光に滞京・浪士鎮撫の勅命。
(4月23日)寺田屋事件。薩摩島津久光・小松以下公武合体派が薩摩過激攘夷派を粛清。後処理に立ち回った小松は久光と共に朝廷(帝)からも幕府からも認められ、発言力を得ていく事となる。
(4月24日)吉村虎太郎、寺田屋事件に関わり捕縛される。
(4月25日山内容堂、幕府から帰国・対客・文通を許される

【乾・内蔵太・寅之進】状況不明


山内容堂が幕府から許され、帰国・対客・文通を許される事となった。乾は内蔵太と寅之進を呼び出し時世を語らう。
詳細

東洋暗殺の報を耳にしてから更に半月程が経過していたが、乾はもちろん、内蔵太や寅之進であっても、はつみなどからの直接の文はいまだ届かずにいた。
乾の話では、一時的に東洋暗殺の下手人ではないかとの噂もあった谷干城が藩主・豊範の側近に取り立てられ、武市ら勤王派が藩政を掌握するのもそう遠くないとの事である。また、坂本龍馬が3月中に脱藩したらしいとの情報も追って伝えられたばかりであった。一方ではつみに関する情報は『特にはなく』、暴徒(上士の誰か)に襲われ以蔵に助けられたという話は江戸には入っていない。つまり、乾達がはつみの事で知れるところは良く言えば『無事』、悪く言えば『状況不明』といったところ。はつみが東洋に取り立てられようとしていた点、以前から吉村や中岡など『尊王攘夷派』からのあたりが強かった点、容堂の処分が明けた事により土佐藩政との摩擦が生じるであろう状況が、今後どの様に作用していくのか…摩擦から生じる政治対立の矛先が無力なはつみに向きはしないだろうか。はつみの安全に関しては三人三様に心配の種が大きく芽吹いていた。

(4月)高杉、上海行千歳丸乗船直前にして麻疹にかかる。
(6月)英国公使館付医官ウィリアム・ウィリス、長崎に上陸。グラバーの家で数日滞在した後、船で横濱へと移動する。
(4月29日)英ジョン・ニール公使代理来日。公使館(権限)を横濱から江戸東禅寺へ戻す
(4月29日)高杉、麻疹のまま千歳丸にて長崎出港。上海へ向かう。乗船間もなく体調良くなり、船酔いもなく快適に航海する。
(5月1日)長州藩に浪士鎮撫及び国事周旋の朝命
(5月2日)長州藩、幕府に将軍上洛の建白書提出
(5月)横濱外国人居住地にてチャールズ・ワーグマンの『ジャパン・パンチ』が発行される。様々な風刺キャラクターが登場する中で、『抑圧されたミューズ』と称された『侍社会に埋もれる才女』という風刺キャラクターのモデルが、実は横濱でスケッチをしたはつみ(ハテュミ)である。
詳細

『抑圧されたミューズ』と題付けられた、男装をした日本人女性を描いた風刺。手にはメモを持ち、そのメモには英語がびっしりと書かれてはいるが、周囲にいる日本人の男達に押しつぶされ発言の機会を奪われている。別のシーンでは、見るからに政治の事などは理解できていないであろう幼い男子が多くの大人を指示し、それを守る男達が刀で周囲を刀で威嚇する。それに怯える男装のミューズが正しい知識を振るう事無く去っていくといった様子などが描かれていた。

(5月9日)勅使大原重徳東下決定。薩摩伴奉(公武合体)
(5月9日)幕府文久遣欧使節、オールコック公使協力のもとロンドン覚書締結。開国の混乱から国内情勢不安定とのオールコック公使による見解が理解され、日本からの要望の通り、兵庫・新潟開港及び大阪開市の『延期』が決定される。
(5月)土佐勤王党、藩政を掌握
乾、土佐勤王党間崎哲馬と情報交換を行い、機密書類などのやり取りもあった。
(5月22日)薩摩久光、小松ら、勅使東下の護衛として江戸に入る。小松、家老同等の御用取扱いを命ぜられ、種々交渉や接待などを家老としてこなす。
(5月29日)英・第二次東禅寺事件。
幕府からイギリス公使館(東禅寺)の警備を担っていた松本藩・伊東軍兵衛がイギリス兵2名を殺害。松本藩とは別に幕府からは別手組とされる警備が派遣されていたが、伊東を止める事はできなかった。
英・公使館の権限を再び横濱領事館へ移す。
(6月7日)勅使と随行の薩摩軍、江戸に入り幕政改革に乗り出す。
(6月)長州、破約攘夷に一転する。
(6月)土佐藩主豊範及び土佐勤王党、参勤交代のため土佐を出立。更に上洛を画策する。

運命を変える為に


藩主豊範を抱き込み政権を奪取した多くの土佐勤王党一派が、藩主参勤交代の途に随行した。
詳細

しかし今の土佐にとっては幕府の御為にと課せられた参勤交代ですら『尊王攘夷』のきっかけに過ぎず、4月上洛を果たした薩摩に続き、土佐も上洛を果たさんと積極的に京での朝廷工作が行われている。幕府のうかがいも立てず直接朝廷に働きかけるなど、幕府からの謹慎蟄居を解かれたばかりでありながらもいまだ公武合体の思念を貫く容堂が容認するはずがない。はつみは自分が襲撃された事よりも東洋の暗殺から今この状態に至るまでが完全に『歴史通り』である事に一層強い懸念を覚える。このままでは武市は破滅の道へ進む…。思い詰めたはつみは、大変に厚かましく恩知らずである事を大いに承知の上で、坂本権平に相談を持ち掛けた。

京・天誅編

文久2年7月~文久3年3月

▲ TOP ▲
●文久二年…はつみ21歳
(7月)参勤交代と称して、まずは大阪へ向かう土佐大名行列。真の狙いは上洛そのものであった。

【武市】女の一念岩をも通す


大坂での麻疹大流行を理由に参勤交代中の土佐大名行列は停滞している。しかしその裏ではこのまま上洛を果たす為の朝廷および江戸に鎮座する土佐隠居・容堂に対する工作が行われていた。
詳細

藩主豊範は矢継ぎ早にあれこれと策を講じてくる勤王派から距離を置く為に『仮病』を利用して時間を作り、江戸にいる容堂への伺いを立てている程、土佐藩は急速すぎるほどに『一藩勤王』『尊王攘夷』へと大きく舵をきっていた。 その中心にいる武市の元へ、はつみが土佐を出たらしいという報告が入る。珍しく私情によりため息をつくと同時に、成るべくして成ったとも思う武市。自分を追いかけて来たのだろうという自覚もあった。武市は江戸の池田寅之進へ文を送り、江戸剣術修行終了に伴う帰藩について『大阪にてはつみと合流せよ』との指示を出した。

【沖田・寅之進】友として


【乾・寅之進】尊王と攘夷


【内蔵太・寅之進】男子たるもの


(7月)高杉、上海から長崎へ帰国。日本の風刺絵として話題になっているジャパンパンチを見る。
詳細

5月から定期的に発行している様で、『抑圧されたミューズ』が人気キャラクターの様であった。『攘夷開国』の問題も織り交ぜられているだろうが、なぜ『彼女の様な女性』が日本の風刺に登場するのか。高杉はイギリスを始め世界における『女性の社会進出』および『労働組合』『工場法』といった言葉を知る。
凝り固まった日本の社会体制に一石を投じんとする風刺に、まさにこのモデルとなったはつみの姿を想うのであった。

(7月13日)土佐藩主豊範行列、麻疹の為大阪で足止めを余儀なくされる。土佐勤王党による朝廷への政治工作と江戸容堂が加速。板挟みの豊範、仮病で時間を稼ぐ。
(7月20日)田中新兵衛ら、ひとつきほどつけ回った挙句、公家侍・島田左近を殺害
(7月)政治総裁松平春嶽が横井小楠を召し上げる
(7月末)土佐尊王攘夷派、(土佐勤王党)、朝廷より『皇都警衛の内旨』を得、江戸容堂に『お伺い』を走らせる。

仮SS/【寅之進・以蔵】天命


大阪にて武市と合流を果たした寅之進は、武市、そして以蔵と改めて話をする中であまりにも衝撃的なここ数か月の出来事を知らされるに至る。

仮SS/【武市・新兵衛・柊】監視と護衛


武市の義兄弟でもある薩摩藩出身の田中新兵衛や、武市を妄信している土佐梼原村出身の土佐勤王党員柊智の二人は、はつみを疑問視すると同時に度々行動を共にするようになっていた。
(7月)陸奥、江戸にて麻疹にかかり、医者宅へ寝泊りする。
(8月)武市半平太、田中新兵衛と出会い義兄弟の契りを結ぶ
(8月11日)山内容堂、鮫洲の別邸から鍛冶橋上屋敷へ移る。
(8月15日)山内容堂、将軍徳川家茂に拝謁し今後とも政務についての意見を求められる。
(8月15日)英・英国公使館付通訳生アーネスト・サトウ、来日

仮SS/【サトウ】I came to Japan


ついに念願の日本へと上陸したアーネスト・サトウ。
(8月21日)薩摩、帰京する勅使らを護衛して江戸を出立。
(8月21日)英・生麦事件
(8月22日)土佐勤王党一味、下横目井上佐市郎殺害。同行していた岩崎弥太郎、帰国

【武市】思い出作り


ひと月近くも大坂で停滞していた『参勤交代道中』の土佐の大名行列であったが、勤王派が画策していた上洛の為の朝廷工作が実を結び、京の三条実美らにより土佐を受け入れる体制が整ったとの報告が武市らの元に舞い込む。
詳細

容堂への報告は事後報告として『翌23日土佐藩主上洛』との決定も下し、さっそく上洛へと取り掛かる事が決定された。その束の間、ほっと一息をついた武市は明日までの時間を『大阪観光』に費やす事にしたのだった。皆で浄瑠璃を見に行こうと言う武市の申し出に、はつみは思わず心浮かれる想いで受け入れてしまう。 ―しかし一方で、土佐勤王党の一味は『京天誅旋風』の先駆けとなる殺人を犯そうとしていた。

(8月23日)大阪にて停留していた土佐行列、ようやく移動を再開、大阪を出る。
(8月24日)土佐行列入京。武市、伏見にて体調を崩すも無理をして行列に付いていく。
(8月25)土佐行列河原町藩邸着。土佐藩主豊範、更に妙心寺へと移動するも武市ついていけず寝込む。
(8月28)高杉、京に入り藩主に帰国報告。

仮SS/【高杉】唇に金平糖


上洛中の長州藩主に上海視察の報告をする為に上京していた高杉は、土佐藩邸にてはつみと『偶然』再会する。
(8月)高杉、京を出て江戸へ向かう。
(8月)陸奥(伊達小次郎)、医者宅で知り合った江戸深川(花町)の芸者・香川と好い仲になってしまう。

仮SS/【陸奥】年上の女
R18


入院中の伊達小次郎がその女に興味を持ったのは、話をしている声がなんとなくはつみのそれに似ていたからだと自覚していた。
(閏8月1日)武市、他藩応接役就任(ただし病気中。回復は6日頃)

仮SS/【武市・柊】夏の病


土佐藩主上洛を成させた中心的人物である武市は、どうやってもこれに随行できない程に体調を崩し、藩邸にて寝込んでしまっていた。

仮SS/【武市・新兵衛】添わぬうちが花


翌日からの復帰を決めた武市の元に、この夏、武市と義兄弟の契りを結び、時にはつみと行動を共にする事で彼女を『護衛』しそして『監視』を続ける田中新兵衛が改めて顔を出しに来た。
(閏8月)勝海舟・軍艦奉行並就任
(閏8月)高杉、江戸桜田藩邸に入る。しかし上海で得た課題と長州藩論「破約攘夷」という無謀論とのズレに悩み、20日程引きこもる。
(閏8月)薩摩、入京。久光、小松を従え参内し帝に拝謁。帝が身に着けていた左文字の御剣一振を御下賜される。小松感涙しこの感動を妻・千賀へ書き送っている。
(閏8月)公卿衆・青蓮院宮などのもとを出入りする尊王派志士・本間精一郎の噂が間近に聞こえる様になる。

仮SS/【本間・柊・田中】身から出る錆


買い出しに出ていたはつみは、突然、長刀を携えた華美な男に声をかけられた。
(閏8月9日)幕府、ロンドン覚書をもとに兵庫等開港延期における各国との交渉が成立
(閏8月9日)武市、『新兵設置』『大政奉還、王政復古』などに関する建白書(土佐藩主名)提出。青蓮院宮だけでなく孝明天皇にまで言上されたかもしれぬといった噂まで立つ。
(閏8月20日)土佐勤王党、本間精一郎天誅

仮SS/【本間】終わりと始まり
R15


(閏8月下旬)高杉、世子に防長割拠を建言した後、脱藩。『狂挙』に出る。
(9月1日)、容堂、三条家への使者として寺村左膳(佐幕派)を派遣。最速人足で上京する。
(9月)武市、土佐藩邸を出て木屋町通り三条の四国屋丹虎を寓居とする。ここにはつみと寅之進を迎え入れた。

仮SS/【武市・柊】寵愛(前編後編)


本間精一郎が辻切に遭ったという報が流れてから暫く経った頃、武市は寓居を得て土佐藩邸を出る事となり、その寓居にてはつみを保護するとの提案をする。これに強く反発したのが、武市を妄信しているはずの柊だった。
(9月4日)朝廷、山内容堂召喚の勅令を発布
(9月)薩摩、久光、小松ら、帰藩のため京を発つ。
(9月)高杉、加藤有隣に諭されて帰藩。本来であれば脱藩、出奔の罪に問われる筈だったが、桂の機転により『急遽の外出中』と処置されており、うやむやに許される。
(9月7日)薩摩、久光、小松ら、鹿児島へ帰藩。
(9月8-11日)武市、大納言息子中山忠光からの訴えを受け、三条実美、久坂、田中新兵衛らと共に『五奸二嬪』の処罰に関わる動きをする。(岩倉具視など『五奸二嬪』の追放処分)
(9月10日)寺村、一睡もできず入京。勅使が出た後であるが三条実美に言上。
(9月)田中新兵衛、一旦薩摩へ帰る
(9月20日)勅使派遣の使者に三条実美と姉小路公知の両名が決定する。
(9月23日)土佐勤王党、久坂ら、奉行所与力渡辺金三郎ら3名を殺害。
関白近衛より天誅を控えよとの通達

京料亭『白蓮』との出会い


(9月)武市、小南五郎衛門、三条邸に呼ばれ三条実美と姉小路公知と小宴の中で打ち合わせ。
(9月)先日の石部宿殺害に際し、関白近衛より天誅を控えよとの通達。
(9月26日)武市、青蓮居宮から国事周旋の功の労いとして『帝から拝領した菊の花』を下される。 武市、菊の花を有志一同に見せ、妻への手紙と共に土佐へも送る。手紙には勅使護衛として親族島村衛吉、小笠原保馬の他以蔵も共をすると知らせている。
(9月28日)寺村左膳急遽江戸へ戻り、朝廷より容堂上洛の猶予、指図次第上京致すべくとの報告をする。

仮SS/【寺村・武市・乾】嵐の予兆


 江戸の容堂公の元から放たれた佐幕派の上士・寺村左膳は単身京へと乗り込んでおり、土佐勤王派が望んで工作していた朝廷からの容堂召喚の勅令を延期させるなど、内々での工作作業を行っていた。その工作が成った事を受け急ぎまた江戸へと戻ろうとするその前に、『桜川はつみ』なる者との面会を望む。

【内蔵太、陸奥】貸し


陸奥(伊達小次郎)、香川が吉原にて復帰した為に通い出した結果金の工面ができなくなり同門の内蔵太を頼る。
詳細

内蔵太が半分持ってなんとか店には金を支払う事ができたが結局塾にばれてしまい、破門されてしまう。とはいっても陸奥は入塾前から安井の知己を得、短期間ながらも昌平黌への紹介状も書いてもらえる程の異彩を放つ書生でもあった。その才を路頭に迷わせるのは惜しいと、内蔵太が安井の了承を得た上で安井の後輩である水本成美に学べる様取り付けた。

(10月2日)小松、斉彬公の位階追贈のため上京。三条実愛らと交渉し、首尾よく終える。あわせて照国公の称号も贈られる事となった。次いで江戸へ向かう。

【小松・経臣】隠し切れない『稀螺稀螺』感


その人物は大きな笠をかぶって顔を隠していたが、遠目から見ても乗馬姿が非常に素晴らしかった。馬の事などさっぱり分からないはつみが見ても『キラキラ感』が溢れていたのだ。さぞ名高い侍なのだろうとチラチラと見ていた所、向こうからはつみに近付き声を掛けて来た。なんと、長崎遊学で出会って以来の小松だった。
(10月5日)土佐藩主豊範、帝に拝謁。
平井加尾、4年仕えた三条邸を出て土佐へ戻る。送別会が行われる。

【龍馬】初恋の人


平井加尾とは文久の始めにちらりと顔を合わせていたはつみ。しかし念を押されるかの様に、平井加尾の送別会へは参加しない様にと柊からきつく言われていた。
詳細

その為、自分と一緒に来てくれた寅之進と共に白蓮にて夕食をとる。寅之進が加尾の解任について唐突過ぎるといった印象を受けたと話始め、それについて思う所のあったはつみは、加尾の突然の解任には武市の右腕として積極的な政治工作を行っている上士・平井収二郎と、先日まで京にいて三条邸にも出入りをしていたとされる寺村左膳の存在が絡んでいるのではないかと話す。つまり、加尾は土佐尊王攘夷派との繋がりを懸念され、寺村ら佐幕派の工作によって突如解任に至る事になったのではと。…と、そこへ、後から「こっちにおる方が楽じゃ」と以蔵も合流。会合の様子や加尾の様子を以蔵に訪ね、その内フと、龍馬と加尾の事を思い出すに至った。寅之進と以蔵は、龍馬と加尾の過去について心当たりがある様だった。

仮SS/【武市】『守る』という事
R15


10月の始め、今となっては公武合体路線を明確に周知され尚も突き進む薩摩・島津久光(三郎)の懐刀・小松帯刀(家老見習)が再入京したが、その小松とはつみが白昼堂々、往来の真ん中で会っていた事が多くの攘夷派志士らに目撃されており、またもやはつみに対するアタリが炎上する事態となっていた。

仮SS/【以蔵】道との遭遇


以蔵、袋のねずみ事件の犯人が現れないかと夜間に探していたところ、三条大橋を渡った鴨川の河川敷で男数名に囲まれている娘を見つける。
詳細

勤王党の柄の悪い連中で、周囲に興味の無い以蔵からすれば仕方のない事ではあるが顔に見覚えはあっても名まではわからなかった。逆に覚えておくべきと言われる事もないであろう小者だ。以蔵は連中に釘を刺すついでに気まぐれで娘を助け、四条近くの甘味処『鈴蘭』まで送ってやった。

(10月9日)土佐勤王党、口入れ屋平野重三郎、煎餅屋半兵衛を鴨川二条城上ルにて生き晒し

仮SS/【武市】女の道にあだたぬ者


武市が出立する前日。旅の準備も終わり、あとは明日の出立を待つばかりであった武市は、先日の『袋のねずみ』事件以来寓居から姿を消したはつみの事を考えていた。
(10月11-13日)勅使三条、副勅使姉小路、江戸へ出立。土佐藩主伴奉、雑掌柳川左門(武市)、長州、順次追従。武市は『乗り物』という、輿以上の上等なのりものに乗って江戸へ向かった。
(10月中旬)英国代理公使ジョン・ニールら一行、江戸定期訪問の為横濱を出立。生麦事件等に係る会議及び公文書の行き来が激しく、今度の定期訪問での面会も議題の中心として持ち上がる事となる。
詳細

今度の使節はニール代理公使、公使館付き通訳官アレクサンダー・シーボルト、書記官ラッセル・ロバートソン、通訳生アーネスト・サトウの4人で構成されており、アップリン中尉率いる護衛兵達に囲まれながら馬による陸路移動で江戸に向かった。道中の『梅屋敷』の庭園は美しく、まだ蕾も膨らんではいなかったがサトウの心へ更なる知的好奇心を宿すのに十分であった。
英国および諸外国の公使館は正確にはこの江戸に用意されてはいたが、昨年等の英国公使館東禅寺事件等が多発したため、公使館の権限は横濱の領事館に移される事が常習化していた。サトウ達一行はこの東禅寺に入る事となる。
到着して近日中に幕府老中との面会が行われ、生麦事件等外国人殺傷事件に関する謝罪と賠償が議題の中心となる。この時サトウは少々不謹慎な態度で会議に挑みニール代理公使から烈火の如く叱られる。会議は必ずオランダ語を介した二重通訳をする事で成り立つという極めて非効率的な方法で勧められていた。相手の言葉をまずオランダ語に翻訳し、そのオランダ語をそれぞれの母国語に翻訳するという状況は不本意な言葉・意思の伝達にも繋がりがちで、ただでさえ難しい外交会議がろくに進まない。会議途中の休憩中、老シーボルトが幕府顧問として勤務していた昨年などに幕府の役人達とのやり取りも経験していたアレクが懐中電灯を持ち出し、日本語で説明をすると彼らも正確に理解する事ができた事がきっかけで、恐らく少なくとも開国以降オランダ語を介さない公式会議が行われるに至った。
会議が終わった後サトウ達はしばらく英国公使館・東禅寺に留まり、江戸の情報収集だけでなく街や郊外への散策、そして「女の子とのひととき」なども楽しんだが、移動の際にはその目的地・時間に関わらず必ず幕府の役人『別手組』が6人程ついて来た。護衛兵であり監視役でもある。外国人との会話は好ましくないとされているのか基本的には寡黙ではあったが、サトウが日本語で話しかけるとぶっきらぼうながらに返してくれる事もしばしばであった。

(10月17日)乾と寺村左膳、容堂の御前にて時勢討論を行う。

仮SS/【内蔵太・桂・伊藤】高杉、小楠、そして桜川


この秋、内蔵太は初めて外国人の団体を遠巻きながらに目にする事態に陥っており、彼らが高輪東禅寺を拠点(公使館・接遇所)とし幕府の若年寄らとの会議に臨むところや馬に乗り観光に出る様子などをよく観察していた。
(10月28日)伴奉土佐藩主、のち勅使一行、順次江戸到着。
(10月29日)小松、江戸にて斉彬公の姫二人を引き取り、帰藩までの道中護衛として江戸を出立。

仮SS/【小松・寅之進・以蔵】すれ違いの隙間は…


勅使一行が江戸に到達してから数日後。はつみと寅之進、以蔵も江戸に入っていた。彼らの江戸入りは土佐藩とは関係がないが、江戸土佐中屋敷からそう遠くない、江戸遊学時に世話になった旅籠に入っていったのだが、たはつみに、手紙が届く。

仮SS/【桂、内蔵太、柊、伊藤】女傑評議4


江戸にて。内蔵太、安井息軒の同門であり、自分にも京の情勢を伝えてくれていた柊を桂や伊藤に紹介する。京天誅、土佐藩の状況、薩摩とはどうやら道を違えている事などを話す流れではつみの話になった。

【龍馬】再会


江戸に到着してから龍馬がいるのでは、いやいる筈だと周辺を注視していたはつみであったが、今日に至るまで彼の姿は見られなかった。しかしある日、その龍馬が唐突にはつみの宿へとやってくる。…どうやらはつみを避けていた様だが、意を決して姿を現したようであった。

仮SS/【乾・武市】江戸取引・壱


ある日、はつみは江戸留守居役にして容堂の側用人である乾退助と10か月ぶりに再会する為、鍛治屋橋の土佐上屋敷にやってきていた。

【内蔵太・寅之進】引き抜き


【沖田】想い想われ
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【沖田・寅之進】高嶺の花


(11月5日)長州世子定広が山内容堂を桜田藩邸に招待する。(容堂VS周布酔いどれ久坂の嫌味事件)世子小姓であるはずの高杉は出席しておらず『江戸のごろつきのようにぶらぶら』して過ごしている。

仮SS/【高杉・伊藤】虫の居所


京では良い形で別れた高杉を尋ねる為、長州藩邸へ手紙を出していたはつみ。それを受け取った伊藤がわざわざ旅籠を訪れてくれたので、そのまま高杉がいるという料亭へと足を運ぶ事となった。
(11月12日)高杉、久坂と共に勅使館へ行き武市を訪ね、龍馬と萬年屋で呑んで品川へ帰る。

仮SS/【龍馬・武市・高杉・久坂・柊】女傑評議5


梅屋敷事件の前日、萬年屋にて龍馬・武市・高杉・久坂・柊(武市の供)の面子で呑んでいた。互いの思念を確認し合う良い雰囲気での会合であったが、その中で桜川はつみの事が話題にのぼり、事態は一変する。
(11月13日)土佐長州、蒲田長州藩梅屋敷事件(高杉ら異人襲撃阻止)(周布酔いどれ事件その2)
先日の呑みの席において久坂が異人襲撃事件の予定を武市に漏らし、武市はこれを止める為に容堂へ報告した事によって『梅屋敷事件』が勃発した。
詳細

 武市は事の重大さから『万が一の事があってはならない』と考えたのか、高杉や久坂ら長州の過激派が外国公使襲撃を計画している事を山内容堂へと報告した。この事は山内容堂から見ても武市に同意すべき重大な事であると判断され、直々に長州世子・定広にまで知らされる事となる。定広は自ら真夜中に馬を駆って高杉・久坂ら襲撃隊の元へと一目散に駆け付け、一方、土佐からも容堂の命で取次役の上士数名と『鎮圧部隊』としての下士数名が、同じく高杉らが集まっていると聞く梅屋敷へと放たれていた。
 これら一同が介した梅屋敷では、武市の懸念が的中したと言える形で、長州の一味が決起集会を行っている所であった。だがすでに世子定広によって彼らは涙を呑んで今夜の作戦を見送る事に同意し、駆け付けた土佐の『鎮圧部隊』も事を成さず平穏の内に引き上げる流れとなっていたのに、先日の長州桜田藩邸での容堂公に対する不敬事件に続きまた深酒状態で駆け付けた周布が土佐を煽った為に、一触即発の事態となってしまう。皮肉にもその様子は数か月前に起こった薩摩藩内での同士討ち『寺田屋事件』をも彷彿とさせるものであったが…周布を斬る振りをし馬を暴れさせて逃した高杉の機転によって、大乱闘は避けられ、長州過激派の外国人公使襲撃作戦も世子の説得を以て『一旦の』中止となったのだった。

(11月)高杉ら、御楯組血盟(30名前後)
 「百折不屈、夷狄を掃除する」だが『小攘夷』である事に変わりはない。
(11月27日)勅使ら江戸城入城。勅書伝達の式。
(12月4日)武市半平太、勅使ら共に饗宴へ出席するため江戸城に上り、将軍御目見となる。

【桂】癒しの手
R15
(松島剛蔵への手紙の途中)


(12月5日)坂本龍馬、間崎哲馬、近藤長次郎、江戸呉服橋福井藩邸にて松平春嶽に謁見。大阪湾海防策などを語り勝海舟を紹介。間崎、容堂の命にて土佐へ帰藩。
(12月6日)武市、(偽名『柳川』でなく本名で)松平春嶽に謁見するも幕務のため長座されず。代理の者に思想を説く。春嶽は容堂から武市ら下士尊王攘夷派らに対する『愚痴』を聞かされており、長座しなかった理由はそこにあると見る。

仮SS/【乾・容堂・武市】江戸取引・弐


柳川左門という偽名での登城ながらも実際には土佐下士の身分にして将軍の御目見えとなった武市半平太。はつみはそんな武市に対し『もはや自分の言葉が届く様な人ではないのかも知れない…自分の都合で彼の運命を変えるなんてできないのかも知れない』と思いながらも、乾退助との『取引』によって得た最大の好機に対峙しようとしていた。
(12月6-8日)土佐藩主豊範、勅使一行、長州世子、順次江戸を出立。
(12月9日)坂本龍馬、近藤長次郎、門田為之助、福井藩邸で紹介状を貰い赤坂氷川の勝海舟を訪ね、弟子入り。

【龍馬・勝・寅之進】おーぷんざわーるど


勝海舟に感服して弟子入りまでした龍馬は、この道がまさしくはつみの見る世界観に沿うものであると確信した上ではつみと寅之進を誘うが、はつみは勝の元で勉強をする事の先見性を認めつつも『やるべき事』があるといい辞退。はつみは寅之進に薦めるが、はつみが辞退するのであればと言って同じく辞退する事を選んだ。
(12月11日)幕府文久遣欧使節(ロンドン万博)、日本帰国
(12月12日)御楯組、品川英国公使館焼き討ち事件
(12月)はつみの元に乾から呼び出し状が届く。はつみは出立が近いから試衛館に挨拶へ行くようにと寅之進を出す。

【内蔵太】引き抜き2


仮SS/【乾】江戸取引・参(前編・後編
R18


江戸での任務をようやく終えた武市ら勅使一行は、今となっては公武合体派として違う路線をゆく薩摩の動きを警戒して颯爽と京へ帰って行った。それを見計らった様に、乾ははつみを呼び出す書簡を送る。

【沖田・寅之進】高嶺に手は届かなくとも


【寅之進】知らぬが仏
R18


沖田に本当の事を伝える事ができなかった。はつみが今何の為に、誰と何をしているのかを…
詳細

本当の事を知らず、手の届かない高嶺の花を純粋に慕い、心のままに手を伸ばす沖田。しかし自分は、手が届かない高嶺の花が高嶺であるが故にただただ孤独に咲き、抗えない風に吹かれ揺らされている事を知っている。『知らぬが仏』とはまさにこの事だ。…だが、本当に『知らない方がいい』のだろうかと己に問うた時、『―否』と寅之進は考える。はつみが高嶺の花であるという所以を知ってこそ、はつみの為に役立てる事があるはずだと。それがどんなに報われない事であったとしても、報われる事を望んでいる訳ではないのだから。ただ、はつみの側にいたい。はつみを守り続ける存在でありたいから…はつみの事はどんな事であっても、全部知っていたいのだと。

(12月)はつみ、寅之進と共に陸路にて京へ向かう。

【寅之進】知らぬが仏2
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表向きは平常心を保ちいつも通りのはつみであったが、寅之進の方は意識せずにはいられなかった。フとした所作や表情をいちいち深読みしてしまい、年頃の青年らしくあらぬ事を考えてしまう。
(12月17日)京間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太、青蓮院宮らより藩風振興のため令旨を得る。
間崎、土佐へ向かう。
(12月)英画家・チャールズ・ワーグマン、小沢カネと結婚

【サトウ】『By all means marry.』


ギリシャの哲学者ソクラテス
By all means marry; if you get a good wife, you’ll be happy. If you get a bad one, you’ll become a philosopher.
『とにかく結婚したまえ。良妻を持てば幸福になれるし、悪妻を持てば哲学者になれる』

ある日の清河と山岡(全編会話)


(12月24-27日)小松、28歳にして家老に取り立てられ御側詰兼務を命じられる。 更に後日、御勝手掛、御軍役掛、琉球掛、琉球産物方掛、唐物取締役掛、御製薬方掛、 造士館掛、演武館掛、御改革方掛、御内用掛、佐土原掛、蒸気船掛。 13役の兼務を命じられる。
(12月25日)武市、京土佐藩邸にて留守居組(上士)昇進の御意と小目付探索の役向きを申し渡される。
(12月28日)中岡、藩命により佐久間象山に会う。道中久坂と共にする。中岡と象山は激論となった模様。
(12月末)龍馬、長次郎、千葉重太郎、勝海舟より姉小路公知宛ての書状を持って京へのぼる。(神戸湾防衛のための海軍増強案など)
(12月末)はつみ、寅之進。京に戻る。しかし武市の寓居には戻らず、白蓮へと入っていった。

【寅之進】



●文久三年…はつみ22歳
(1月1日)武市、以蔵ら、控えめながらもうららかな正月を過ごす。
(1月1日)龍馬ら、公知に面会し勝よりの書状を渡す。
(1月)公知、武市および小南五郎右衛門ら勤王党に勝の書状内容について相談。 夜になり、武市と以蔵が白蓮へと顔を出す。武市の来訪を受け、乾との取引後という事で思っていたよりも動揺してしまうはつみ。武市は航海術修行にはつみと寅之進を勧めようとする。

【武市・新兵衛】嵐の前の静けさ


 再び上京し武市と合流していた田中新兵衛ははつみの姿が見受けられない事を受け、武市に『初詣』を提案する
(1月)姉小路へ提出された海防策について、望月亀弥太、高松太郎、千屋虎之助3名が航海術修行を命じられる。
(1月)武市、三条実美や姉小路らから相談を受け、薩摩ら公武合体派に揺れがちな青蓮院宮を『命を懸けて諫める』行動に出る。青蓮院宮は武市らのせいで朝廷内において板挟みとなっており、恨みつらみを述べ山にこもるなどと駄々をこねた。
(1月)吉村虎太郎、間崎哲馬、土佐にて不可解な金銭活動を行う。
(1月4日)武市、間崎の藩風振興を支援する為一人土佐へ出立。姉小路公知から送別の一首が贈られる。武市、再び以蔵をはつみの護衛につかせる。
(1月5日)高杉ら、松陰遺骨を若林大夫山に改葬
(1月8日)勝、神戸湾巡察のため順動丸で大阪に入る。
(1月8日)小松、斉彬公位階追贈拝受のため上京。数日滞在の後、すぐ帰藩予定。また、近衛卿を通して建言し、皇居を守る為島津久光が京守護職を拝命される事となる。(幕府もまた京所司代の上に会津松平容保を京都守護職へ任じた。)
(1月9日)中岡、久坂ら入京する。
(1月10日)容堂、乾、寺村ら、蒸気船(筑前大鵬丸)に乗り込み翌朝品川を出て夕方下田に入る。
(1月12日)容堂ら、大シケの為下田宝福寺に入る。
(1月13日)容堂ら、「蒸気船多少の風程度何とする」とシケの中出港するが、高波に加え逆風もあり船は大揺れに揺れ船の上にて全員が『ころけまわり』、全員が大酔いに大酔いとなる。慌てて下田へ引き返す舵を切り、猛烈な風にあおられ猛スピードで下田に到着した。容堂はこの時の事を宇和島の盟友・伊達宗城へ手紙で知らせており「九死に一生を得た」と伝えている。
(1月13日)高杉、伊藤らと共に江戸にて高槻藩士・宇野八郎を殺害。(文久2年坂下門外の変での伊藤聴取時の出来事に起因する)
(1月13日)勝、望月亀弥太、高松太郎を共に品川へ向け出港。途中下田に寄港。
(1月15日)容堂、下田にて勝海舟と面会。

【龍馬・乾】下田会議


(1月15日)容堂、下田にて勝海舟と面会。坂本龍馬、脱藩罪を免ぜられる方向で話がつく。
(1月18日)勝海舟、江戸城内会議にて将軍職辞職の意見を述べる。これを聞いた高松太郎が「先生、命を損じるも知れず」と懸念する。
(1月22日)容堂、乾ら船で大阪に入る。容堂、大阪にて三か条の布告をなし土佐軽士らへ布告。牽制。以蔵、乾の手先の訪問を受け、京での在り方やはつみの事など軽い事情聴取を受ける。
(1月22日)長州藩主、攘夷に備え帰国。江戸の世子を京にのぼらせる。
(1月22日)土佐勤王党、容堂と会談した直後の池内大学を殺害。容堂は土佐軽士らの仕業と察知し激しく激怒する。

【小松、経臣】埋もれた花


小松は京情勢の報告を受ける際、はつみに『袋のねずみ』の嫌がらせがあった事を耳にしており、酷く心配していた。
詳細

江戸藩邸から一度だけはつみからの『返事』が届いたが、それっきりである。どうやら京に戻ってきているらしいと言う報告は受けており、村田経臣などは彼女の寄宿先を知っているという。―とはいえ、彼女をこちらに呼びつける事はやめておいた方が良さそうだと考える小松。…となれば、出来る事は一つだけだった。
とある雪の日、小松には珍しい着流し姿となって深く笠をかぶり、経臣と共に何処の地方の言葉とも言えない訛り言葉を発しながら『白蓮』の前にやってきていた。
 中へ通された際、自分の正体とここへ来た目的を告げる。はつみから熱心に時世の様子や主要人物について話を聞いていた咲衛門は、薩摩の若家老小松帯刀について非常に良い印象をはつみから受けていた為、小松にはつみの所在を伝える判断を下した。はつみと再会した小松は彼女の不遇を嘆き、家老職の権限で薩摩に来ないかと声をかける。だが、武市の側から離れる気はないとするはつみ。
 小松、空気を変えようと相撲が好きで力士を抱えている話をする。今度一緒にいかないかと声を掛ける。これには笑顔で応じた。
はつみの思考回路は、武市の事とそれ以外の事できっぱりと仕訳けられているのだと知る小松。

【以蔵】承認欲求
R18


江戸から帰って来てからはつみの様子がおかしい事に気が付いていた以蔵。
詳細

以蔵、はつみに小松の事を訪ね、また、少し前に乾からはつみの事を聞かれた事なども話す。一方はつみは池内大学の天誅について以蔵に訪ねるが、以蔵ははつみの傍にいた為これには『一切関与していない』。はつみは以蔵を信じ以蔵の傷心を慮る事で、これを『調子が狂うが心地が良い』と思う様になっていた以蔵はいつになくことばをすすめていく。…しかし、池内大学の件で容堂の堪忍袋の緒が切れたであろう事、これから武市は窮地に立たされていくだろう等と話す流れから、江戸ではつみと乾が『何をしていたのか』を察する事態に陥る。
以蔵はふつふつと込み上げる想いに我を忘れ―…幼い頃より虐げられ、抑圧されてばかりだった心が締め付けられ、好きな女からも理不尽な抑圧を受けているのかと張り裂けそうになる。好きではない男と好きな男の為に寝るはつみが疎ましく感じ、それも、よりによって上士と…。以蔵にとって『時世』や『大義』は興味のない事であり、はつみの決心が理解に及ばない事も、愛憎が膨れ上がる要因でもある。…好きな女であるが故に許せなかった。いつもいつも抑え込まれる自分の気持ちを知らしめたかった。知ってほしかった。
―以蔵ははつみを押し倒すと驚き見上げてくるその顔に迫り、口付けた。細い腰に巻かれた帯紐を無理矢理に解き放つ。
「他の男に抱かれたんなら、俺が抱いてもえいがじゃろう…」
自分でも訳が分からないほど、ただ嫉妬と欲情に塗りつぶされた激情と承認欲求だけが以蔵を突き動かす。はつみが何を聞いても、抗っても、以蔵は無言のままはつみを押さえ付け、その身体を味わっていた。

(1月)以蔵、傷心のため一時的に失踪する。
(1月)以蔵の突然の失踪を受け、池内大学殺害の犯人が以蔵ではないかという風潮になる。

仮SS/【武市・以蔵・寅之進】歴史の力


京坂に人斬り以蔵の噂が流れ始める。池内大学殺害の犯人は『以蔵ではない』。これは明確な濡れ衣であり、そして図らずも歴史とは違う展開を見せていた

仮SS/【以蔵】道との再会
R15


以蔵、寒さ厳しい京にて悪い噂や捕り方に警戒しながら放浪生活を送る。そんな中、甘味処『鈴蘭』のお道と再会する。
(1月)長州世子、江戸出立。世子小姓の聞多らも同行するが高杉は江戸に残り酒色に日をとざす。高杉は江戸に残って酒色におぼれ、「狂」の字を好んで変名や詩を詠む。師・松陰も得た陽明学「世に容れられぬ、至誠にして純粋なやむにやまれぬ行動」
(1月24日)池内大学の耳が三条実愛・中山忠能(公武合体派)の屋敷に投げ込まれ両者の辞職を招く。

仮SS/【以蔵】自我
R15


以蔵、はつみの言葉や思想を思い出し江戸の高杉を訪ねるため、京大阪を出る決意をする。
(1月)はつみ、乾の呼び出しを受け、明保野亭に入る。

仮SS/【乾】乖離


(1月25日)武市、京に戻る。

仮SS/【武市】思想違え何する者ぞ


一時土佐へ帰藩していた武市が再び京へと戻ってきた。早速容堂との直接対決かとも思われたが、ここにきて高熱を出し再び寝込んでしまった。
(1月27日)坂本権平、臨時用を以て京詰めとなり、上京。はつみらと再会する。

仮SS/【乾】内部分裂


4月の藩政変以来藩主豊範の側近として勤王派の動きを補佐していた谷干城と、乾の対談。
(1月28日)土佐藩主豊範、土佐へ帰る。容堂、河原町藩邸に土佐軽格15名らを呼び出し大叱責する。
同日、公卿・千種(ちぐざ)有文の家来、賀川肇天誅
(1月31日)賀川肇の首が慶喜がいる東本願寺へ、腕が岩倉具視邸へと投げ込まれる。
(2月)江戸、土佐勤王党員千屋菊次郎、桂の訪問を受け、江戸長州藩邸に土佐浪人を数名匿っている旨を聞く。 自分は明日江戸を発つが、京において容堂公の土佐攘夷派に対する動きに皆思うところあり、故に今は江戸に置いておくとの事。
(2月)桂、周布(麻田)、江戸を出て京へ向かう。
(2月1日)平井収二郎、他藩応接役を解かれ公家らへの周旋一切を禁止される。
(2月4日)近藤ら試衛館一派、江戸にて清河八郎の浪士組に参加。沖田は天然理心流を継ぐものとして参加が認められなかったが…

【沖田】旅立ちの時


(2月4日)容堂、軽格の探索御用を全て解任。小畑孫次郎を派遣し帰藩した軽格の再入京を禁止する。
(2月)中岡、容堂御旅中御雇徒目付に取り立てられる。
(2月5日)武市、密事用を命じられる。(斡旋行動等について、藩政への報告義務が生じる)
(2月5日)勝海舟、順動丸にて大阪湾に入る。(望月亀弥太等海軍塾生が操練。)
(2月6日)長井雅樂、切腹

仮SS/【高杉・以蔵】東狂
R15


高杉には「小三」という馴染みの芸者がいたが、口が軽かった為一方的に別れを告げていた。このように、彼はまた、酒色に溺れるや廃れた日々を送っていたのだが、そこへ思いもよらぬ、土佐からの客人が現れた。岡田以蔵という軽格の武士だ。
(2月)以蔵、高杉から龍馬ら数名の土佐藩士が幕臣勝海舟の門下となっていると聞き、赤坂勝邸を訪ねる。
高松太郎と再会し、龍馬は、なんと脱藩罪が特別に許されるという事で現在京阪へと向かっていると聞く。共に大阪へ向かう事に。道中、土佐藩邸下屋敷の金魚は元気かと尋ね、下男らが世話をしている様だと聞き安堵する。

【以蔵】遠く離れていても、生きている


(2月)坂本龍馬、大阪の勝海舟と合流。
(2月7日)容堂在中の河原町藩邸に里正惣助の生首が投げ込まれる。「酒の肴にもならぬ」と春嶽へ手紙。
(2月8日)容堂、春嶽からの慰めの手紙によって『土佐勤王党』という『徒党』の存在を初めて知る。
(2月8日)江戸浪士組、京へ向け江戸を出立
(2月9-10日)中山忠光、新しく関白となった鷹司輔熙の所へ行き人材抜擢、言論洞開、攘夷期限などを迫る。 青蓮院宮は先日の武市との件などもあり人には逢わぬと言い、忠光は久坂などの元へ駆け込み岩倉を斬ると言い出す。久坂らが武市の元へ駆け込み、武市は断食を用いての立てこもりをしてみてはどうかと提案する。
(2月11日)久坂ら、関白へ攘夷期限を決める様上書を提出し断食ストライキを決行。更に、姉小路が12名の血判書を用いて後押しし孝明天皇は直奏を受け入れる。攘夷期限の回答を迫る勅命を幕府に出した。
(2月12日)武市、ついに容堂から呼び出され『一命を捨てて』容堂の前へ出る。攘夷期限問題、そして勤王党血盟に話が及ぶ。
(2月12日)龍馬、京土佐藩邸へ出頭、謹慎処分に入る。
(2月14日)容堂、武市に『菓子』を一箱贈る。
(2月)内蔵太、遊学期間終了に伴う帰藩予定であったが、江戸にて砲術獲得と情勢調査の命が下る。
(2月)内蔵太、尊王攘夷の為脱藩を決意し、長州の勢いに加わる為京・大阪へ下る。
(2月18日)孝明天皇、諸大名に勅書を下す。容堂、この辺りから『藩臣中に異議あり』として二条城での幕議を全て欠席する。また、土佐佐幕派上士の中に武市殺害の動きがあり、攘夷派側も殺気立っていた。
(2月22日)土佐、容堂のもと重役大会議が開かれる。龍馬の処分についてもここで正式に沙汰が決まった。寺村、日記に龍馬の沙汰について記す。(龍馬が上層部から注目されている事が伺える)
(2月23日)浪士組入京。近藤ら、壬生村八木家に入る。
(2月24日)清河八郎、将軍警護の浪士組を尊王攘夷の兵とする建白書を朝廷に提出。近藤一派、芹沢一派がこれに反抗し清河配下を脱退する。
(2月25日)間崎哲馬、土方楠左衛門、容堂に拝謁するも青蓮院宮令旨問題を詰められる。容堂の信任人厚かった薩摩の高崎猪太郎あたりが密告していた模様。事の心配をした久坂らも駆け付け、間崎ら当事者は連名で自白書を提出する事を決意。
(2月25日)龍馬、御叱りを以て脱藩罪を罷免され、解放。武市と共にはつみと再会する。

仮SS/【龍馬・武市】越えられない壁


およそ一年前に脱藩した坂本龍馬が『12日間の謹慎』という短期間での簡易的な処罰にて例外的にその罪を許されていた。
(2月)龍馬、権平と再会し喜び合う。
(2月)以蔵、大阪に潜伏し望月亀弥太と再会。事情を話し、また池内大学を斬ったのは自分ではないと話す。一旦、龍馬と連絡が取れるまで大阪の宿に以蔵を匿う。武市にも以蔵の事情と共に一報を送る。
(2月26日)間崎哲馬、平井収二郎、連名で自白書を提出。令旨問題に関わった弘瀬健太も提出。上岡は武市の書簡を持って急ぎ土佐へ戻り口裏合わせに奔走。東洋暗殺の後薩摩に匿われている那須ら3名の名を血盟書から削除。
(2月)龍馬、伏見寺田で新宮馬之助と落ち合っていた所に以蔵の一報を受け、急遽大阪へ下る。

仮SS/【武市・以蔵】友人


武市のもとに以蔵の報が入り、彼について、はつみが『修正』を施した事に武市は深く感謝を示す。

仮SS/【武市・寅之進】春雨


ボロボロと溢れる涙を、降り注ぐ冷たい雨が隠し流していくかの様だった。

仮SS/【武市】慕情と後悔の狭間で…前編・後編
R15


この日、はつみは寝付けないでいた。手元にある火鉢に今晩だけで何本目かの炭をくべ、じわじわと燃える炭をじっと見下ろしている。
(2月)京長州藩邸にて、雨の中を肌襦袢と羽織姿で彷徨うはつみの姿が噂になっており、桂と伊藤が捜索に乗り出す。

【桂】不成・和顔愛語
R18


武市の部屋を飛び出したはつみを保護したのは桂と伊藤であった。桂が懇意にしている宿の一室に入る。
(2月)龍馬、大阪に入り勝と再会。新宮馬之助入門。亀弥太に匿われていた以蔵とも再会し、大いに喜ぶ。
(2月下旬)高杉、世子に言われて迎えに来た井上聞多と共にしぶしぶ江戸を発つ。
(3月4日)14代将軍家茂、299年ぶりの将軍上洛。
(3月4日)小松、久光に従い兵700人を率い上京
(3月6日)龍馬、安岡金馬と共に『航海術修行』を命ぜられる。

【龍馬、内蔵太、陸奥】海を制してこそ攘夷


内蔵太、大阪で陸奥や龍馬らと再会し勝門下に誘われる。海防策には理解を示すが幕府管轄というのが引っかかる。

仮SS/【龍馬、以蔵、勝】以蔵の道


以蔵、身の回りが危険な勝の護衛として雇われる事になる。
(3月)勝海舟、宿を探して寺町通りを探索中3名の刺客に襲われる。護衛をしていた以蔵により助かる。
(3月)武市の様子は史実とは違い、容堂とのすれ違いを明確に理解している様であり、はつみの建言が多少の影響を及ぼしている事は間違いなかった。薩摩、長州の不和は如何ともしがたいが両藩とも藩主から軽士に至るまで思想が一貫し、何事なすにも藩主が動く事の説得力があった。
それに対し、土佐の『一貫性のなさ』をはつみの指摘の通り認めている。『一藩勤王は成っていない』と。しかしそれでも尚、武市は土佐勤王党での在り方を変えようとせず、正面から容堂と対峙し正義を説く姿勢を崩そうとしない。はつみは武市と土佐へ行く覚悟を決めていた。

仮SS/【武市】椿の押し花


武市と椿を鑑賞した。美しく咲き誇った椿を見る目はどこか物悲しく、それは暗に、二人の心が寄り添っている様でそうでない在り様を映し出しているかの様でもあった。
(3月)武市に言われ、龍馬および以蔵の様子を見に大阪へ下る。

仮SS/【以蔵・勝・龍馬・寅之進】在るべき姿


大坂にて龍馬と再会。勝海舟と対面し、以蔵と再会する。
彼らは以蔵の見た目を変えようと議論していた。はつみは髪を切る事を提案し、髪を切ってやる事に。
(3月11日)孝明天皇、将軍家茂、賀茂社行幸。
(3月11日)高杉、上京。賀茂社行幸を雨の中遠巻きに見る。
桂、周布と話すが割拠論は受け入れられない。10年暇。東行と名乗る。
(3月)内蔵太、賀茂社行幸への長州供奉を受け、尊王攘夷の草莽志士として長州藩邸桂の元へ行く。

【桂、内蔵太、伊藤】松と桜


英国への密航が決まっていた伊藤は、自分がこの先いなくなった時、桂がこのままはつみに捕らわれている様ではいけないと考える。
詳細

他の女の事であればどうにでもなったろうが、桜川はつみの事は特殊過ぎる為、他に事情を知る者が自分くらいしかいないという点にて心配をしていたのだ。そこで、桂が懇意にしている置屋「瀧中」の芸妓、幾松に目を付けた。最近長州藩邸に現れ草莽の志士として協力を申し出ていた、顔なじみで知性と気骨のある池内蔵太に相談する。彼と共に幾松を狙う山科の豪家を訪ね、刀で脅し幾松を諦めさせた。
帰り際、内蔵太は何故今回の様な事をしたのかと聞くと、もっともらしい事を言って、はつみを男だと勘違いしている内蔵太に合わせた話をした。
「僕ぁこの春から少し長州を離れるんじゃが、その時桂さんが桜川に未練たらたらなのが心配でな」
「えっ…か、桂さんもあいつを…?」
「ああ。そこらの女じゃったらよかったんじゃが、あやつは特殊じゃろう?」
 疑う様子の無い内蔵太はそのまま『はつみは男』のテイで話を受け入れてしまった様だ。素直すぎる内蔵太が面白いと思って、つい、からかってしまっていた。

(3月)桂、幾松と恋人関係となる。

【内蔵太・伊藤】清貧の志士


内蔵太は伊藤が英国へ密航する予定である事を聞き、その是非についてじっくりと語り合った
詳細

。長州は破約攘夷の方針ではないのかと聞き、次の策としては攘夷期限を設ける勅許を求めるつもりなど『大筋は』攘夷であると答える。はつみと思想が近い高杉への面会を進められるが、今はまだ会わない方が無難な気がするという内蔵太にそれでいいと頷いた。
内蔵太は土佐藩邸に近付けない為、伊藤からはつみが懇意にしている料亭『白蓮』の存在を聞く。先日の幾松の件もあり支援を申し出る伊藤であったが、内蔵太は断固受け取らなかった。伊藤は『君は清貧の志士だな。それでいてちゃんと『話』ができる。松陰先生がまだ生きていたなら、君を会わせたかったよ』と言った。

(3月12日)近藤一派、芹沢一派は壬生八木邸に入ったまま、会津藩預かりとなる。
(3月13日)清河ら浪士組が江戸へ帰る。
(3月15日)高杉、10年暇の件、笠間亡命事件と外国人襲撃未遂事件の処分という事で受理される。
周布「高杉の意図については来嶋又兵衛、寺島忠三郎、入江九一、桂小五郎、時山直八も承知」
世子「たとえどこに亡命しようともかねての誓いあり、忘れはすまい」{長州、優しすぎない!?}
(3月16日)壬生浪士組、松平容保に拝謁
(3月)はつみ、料亭『白蓮』で内蔵太と再会。

【内蔵太】


土佐勤王党の現状と乾らについて、長州の英国潜入、高杉についてなど話す。
(3月18日)大納言中山忠能5子・侍従中山忠光。尊王攘夷の為ついに京を飛び出し長州萩を目指す。
(3月19日)高杉、寺町二条下ル妙満寺境内の一隅を与えられ、根城とする。
(3月20日)龍馬、京詰めとなっている兄権平と改めて再会する。早速、坂本家の後継問題が勃発する。
(3月23日)高杉、将軍家茂が近々帰東するという噂を聞く。
詳細

周布を訪ね、もし家茂が抑留の勅諚を拒否すれば斬ろうと説く。「僕に名刀がない」と言うと 周布は藩主からもらった太刀を取り出し、家紋を削り落として高杉に与えた。 しかし昨年末に結成された御楯組は26人もいたのに、今回応じる者は入江九一ただ一人だった。 『皆京での尊王攘夷運動に夢中で、江戸を顧みるものは誰もいない。』と嘆き酒色に溺れる。
桂が幾松と恋仲になっている事も知る。

(3月)はつみ、内蔵太から高杉が上京しているらしい事を聞き、会いに行く。

仮SS/【高杉・伊藤】傍若無人


高杉の様子を池内蔵太から伝え聞いたはつみが、高杉の根城(妙満寺境内の一隅)へ顔を出した事で、二人は昨年秋の江戸で喧嘩別れをして以来の再会となった。

仮SS/【武市・寅之進・沖田】人斬り
R15 微G


武市と市中を散策していると、壬生浪士組と名乗って市中警護を行う沖田総司らと遭遇。彼らとは何事も無く別れたが、その直後、武市を狙う刺客がはつみらを襲う。

仮SS/【武市・乾】漢気・乾退助編


事件があったその日。夜遅くであるにも関わらず寓居に来客の気配があった。柊が取り次ぎ、部屋に通されてきたのは、なんと上士の乾退助であった。
(3月21日)松平春嶽、総裁職を辞任し無許可にて越前へ帰る。
(3月)武市半平太、京留守居『役』へ昇進

仮SS/【武市・龍馬】漢気・坂本龍馬編編


騒がしくばたばたと走り回り、中庭から姿を現したのは、いつもの朗らかな雰囲気とは打って変わって激高した様子の坂本龍馬であった。
(3月26-28日)容堂、乾ら土佐帰藩。間崎哲馬が捕らえられ、帰国命令の出た平井と共に土佐へ強制送還。
(3月末)長州下関の豪商白石正一郎、勤王の志・武市半平太とその傍らにある不思議な少女を遠巻きに見てから帰藩につく
(4月)長州、山口に新たな藩庁「山口政事堂」を築き、幕府へ申請。正式な形で藩主が入る。(これにより萩藩は山口藩と呼ばれる様にもなる)

仮SS/【武市・寅之進】最後の記憶


やはり、龍馬に託すしかないのだと…人知れず決心に至った。
(4月2日)公家中山忠光、下関の豪商・白石正一郎宅に入る。
(4月3日)龍馬、順動丸にて江戸へ向かう。勝海舟は以蔵と共に陸路紀州へ向かう。
(4月9日)龍馬、再び順動丸にて大阪に戻り、はつみらと合流。

【龍馬】保護者(気落ちしたはつみと武市・乙女からの手紙。権平の養子話等)


※2024/10:プロット一部添削・最新版。一旦ここまで。

京・天狗編

文久3年4月~元治元年6月

▲ TOP ▲
●文久三年…はつみ22歳

(4月10日)高杉、堀真五郎に連れられやさぐれ状態のまま山口帰藩。妻雅子と二人だけの草案を結び引きこもる

【沖田】遊女を買う


(4月16日)龍馬、はつみを大阪勝のもとに残し、越前へ向け大阪を出発。松平春嶽に謁見し、三岡、小楠らとも交流する
(4月20日)将軍家茂、5月10日攘夷期限上奏・勅許を得る
(4月23日)家茂将軍神戸湾視察。神戸海軍操練所・開設の許可が下りる

【勝】徳川葵紋の絹の懐布


(4月25日)姉小路公知神戸湾視察。

【勝】新進気鋭の公卿


(4月27日)勝海舟、海軍操練所建設のため神戸定住と年度経費3000両支給、私塾移転許可を申し渡される。
(5月)小松、貞姫君近衛家御輿入れの御用係を命ぜられるも、薩英戦争準備による帰藩の為延期となる。
(5月10日)下関攘夷戦争。深夜、田ノ浦に碇泊していた米国商船ペンブロック号を砲撃。高杉、武装もしていない商船を次々と砲撃して『攘夷攘夷』と湧き立つ藩政に心底呆れる。武装した外国船による報復が必ず行われるだろうと予見した。
(5月)長州ファイブ、英国留学へ向け出港
(5月13日)勝海舟、将軍家茂と共に順動丸にて帰府。
(5月13日)龍馬、越前から戻る。

仮SS/【以蔵】真なる剣、活
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武市半平太の『義兄弟』ともなる田中新兵衛が、はつみを斬りに現れる。
(5月)以蔵、龍馬およびはつみらの傍から姿を消す。
(5月16日)勝海舟、再び大阪および神戸に入る。金策の為龍馬を再び越前へ向かわせる。
詳細

龍馬が大阪にて勝と会い、先日のはつみ襲撃と以蔵の失踪を勝に報告する。また、海軍操練所の建設が一部の尊王攘夷派を刺激している件についても。公知の様に『攘夷』の何たるかを知る者は、この摂海から大阪・京を防衛する事がいかに有用かという事を理解できていたが、その発案と出仕が幕府であるという所から反発感を抱いている者も少なからずいたのだ。
十分に身辺に気を配り、命を落とさない事を厳命する。
「まぁ死なないに越した事はないけどネ、もしおいらが死んだってこの事業を指揮してやろうって奴は必ず現れる。だが、実際に蒸気船を操れる人間てのはこれから引っ張りだこになる時代が必ずやってくる。だからおめぇたち、死んだらならねぇぜ。」

(5月20日)姉小路公知暗殺
(5月23日)馬関攘夷戦争二戦、仏国艦キャンシャン号砲撃
(5月26日)馬関攘夷戦争三戦、蘭国艦メジュサ号砲撃
(5月26日)田中新兵衛、奉行所内にて黙秘のまま自刃
(5月27日)はつみ、寅之進、勝海舟門下となる。今後の方針。

【龍馬・勝】


(5月29日)『商船』を攘夷撃退して浮かれる長州軍。長州世子定広、萩より下関・白石邸へ入り会議。長崎より招かれていた中島名左衛門『西洋の力を侮ってはならない』と警告し、その夜惨殺される。
高杉はその報を受け「僕や『彼女』がその場にいれば同じように殺されておったのだろうな」と呆れる。
(5月30日)勝、龍馬、沢村、安岡ら、明石舞子へ出張
(6月1日)勝門下生・広井磐之助、安政2年来追いかけていた親の仇・板橋三郎と対峙。仇を取る。
詳細

この仇討ち希望については勝以下ほぼ全員が承知であり、勝に至っては『仇討ち頼み状』を与えている。板橋三郎に関する情報が勝の周辺人物により江戸、紀州からもたらされ、勝はそれを磐之助へも報せると同時に先手を打ち、紀州にて三郎を別件にて召し捕っていた。
その三郎が泉州との境・山中村にて追放されると聞いて、対峙に至った。門下生である新宮馬之助、千屋虎之助、佐藤与之助、乾十郎らが現場に同行しており、助太刀を申し出た水戸浪士ら6名の介入を断っている。数百を超える見物人で溢れかえる中、磐之助はかたき討ちを果たし、仇討ち取調べの為土佐藩へ出頭した。

(6月1日)長州世子定広、壬戌丸で小郡へ帰還する予定だったが中山忠光以下光明党60人の訪問を受ける。姉ヶ小路公知暗殺を受け、中央政情を探る為の暇乞いであった。
世子定広が帰還しようとした時、異国軍艦からの号砲が響き渡る。
(6月1日)馬関攘夷報復戦1戦、米国艦ワイオミング号。
砲6門搭載700トンたった一隻により亀山砲台が跡形もなく破壊され、壬戌丸、庚申丸が轟沈、癸亥丸大破。死傷者100名の被害を出した。世子定広は上陸し伊崎の日和山から一部始終を観戦、目に焼き付けた。
(6月)長州藩政会議にて世子が高杉を指名起用。藩庁慌てて高杉を招集。応じない高杉。
(6月3日)磐之助が敵討ちを果たしたとの情報を、大阪勝塾(勝の寄宿宿。大阪城に近い大川付近。)にて受け取るはつみと寅之進。

【寅之進・陸奥】大阪でぇと


磐之助が勝門下に入っても修練には参加せず、執念深く情報収集に日々を費やしていた事は勝や龍馬、そして新人であるはつみ達ですら知っていた事であった。
詳細

はつみにはこの時代の人々の『敵討ち』への感情は理解しきれておらず、勝が手渡した様に『敵討ち頼み状』といったシステムがあるという事にすら驚くありさまである。
また、この報を持ってきたのは紀州出身の陸奥陽之助であった。文久元年、江戸でよく顔を合わせていた彼は、勝門人であり磐之助の件に関わっている乾十郎の友人であった。英語を使える女男が門下になって勝が喜んでいるなんていう話を聞き、「もしや」と顔を出したのがついこの間の話である。
自分が持ってきた情報で二人が『しんみり』するのが理解できなかった。陸奥は知らないが、寅之進は殺された弟の敵討ちを諦め、土佐の均衡を守った経緯がある。元来、いびつな藩政により抑圧され続ける郷士達の中には反骨精神の激しい者が多い。『事情』をとらえきれない直情的な輩の中には、いまだに寅之進に対して『女男にそそのかされ仇討ちを諦めた武士の成れの果て』等とまで言う者さえいる。寅之進は何も言わなかったが、磐之助の仇討ち成功に際して何か思う事があるのは明白だった。はつみは寅之進に声を掛け、遠慮がちな彼の手をひいて町へと繰り出した。
将軍警護の名目か浪士組と思われる警備が街中に配置され、不逞浪士など危険そうな輩へ睨みを利かせている様だったので、考えようによっては多少治安は安定している状態だ。通りゆく人々から聞こえる噂では、今日もどこかで浪士組が不逞浪士を数人検挙したとの事である。はつみと寅之進には幕臣勝海舟の門人であるという『お守り』があったし、検問で声を掛けられても証書を見せれば問題なく通り抜ける事ができた。 まずは学問の神である菅原道真公を祀った神社・大阪天満宮を参拝。その後はあまり土地勘も詳しくない事から大川、堂島川に沿う形で買い物や食べ歩きを楽しんだ。寅之進に新しい携帯筆を買ってあげたり、好きなお菓子を買ったり、茶屋に立ち寄って主人から女を勧められるなどのハプニングに笑ったりと明るく振舞うはつみ。更に暑いので船で川涼みしようかと提案するはつみに、寅之進は「はつみさんの方こそ、そんな余裕はないのでは」「自分の事は気にしないで欲しい」と心配する。はつみは寅之進に対し「陸奥がいるけど、寅くんの話をしてもいいかな?」「チャラそうだけど、意外と口は堅いし頭もいいから、状況はちゃんと理解してくれると思うから」と断りを入れてから、陸奥に状況を説明しつつ寅之進への想いを口にし始める。(「ちゃらい」ってなんだよ?え?)
はつみが自分を案じてくれる嬉しさを噛みしめる寅之進。一方陸奥は、実は乾十郎とは『尊王攘夷』の思想からつながっていた事もあり、改めてはつみの先進的な考え方に触れて視界が開けていくのを感じていた。
この後どうする?との話にもどり、折角だからゆっくり土地を見て回ろうとの流れとなり、神社参りはどうかという話になる。堂島川を渡って北曽根崎にある露天神社(お初弁天)で恋愛成就か、同じく堂島川を船で下り福島天満宮で再び学業成就を祈願するか…。モメながらも、結局両方の神社へ行く事になる。まずは近場の露天神社へ向け、渡し船に乗り込んだ。

(6月3日)大坂角力力士乱闘事件

【壬生浪士組・寅之進・陸奥】大阪乱闘
R15


露天神社を参拝し、大阪の土地勘を得る為まったり散策をしていたはつみ達。御堂筋と新御堂筋が分岐する付近にかかる『蜆橋』で人だかりができている事に気付く。
(6月5日)高杉、請われて藩政に復帰。政務座役・奇兵隊総督
(6月5日)馬関攘夷報復戦2戦、仏国セミラミス号、タンクレード号。
詳細

セミラミス号砲35門により前田村・壇ノ浦の砲台が沈黙。更に仏兵250名が上陸し砲台を占拠。 長州兵が槍弓で抵抗するが敵わず、救援部隊も軍艦からの砲撃により完全に阻まれた。 大組頭益田豊前率いる藩兵が新地から駆け付ける途中、壇之浦付近にて敵砲弾が部隊の真ん中に炸裂した。 甲冑姿の隊長は棒立ちになった馬から転げ落ち、なんと藩兵はそのまま退却して市民の笑い物になった。 仏兵は民家を焼き払い砲を完全に破壊し、撤収した。

(6月8日)土佐、間崎哲馬、弘瀬健太、平井収二郎切腹
(6月11日)先の勝門下生敵討ちにも関わった乾十郎の件で、陸奥が相談しにくる
(6月11日)高杉、自ら筆を振るって白石邸の本門に『奇兵隊』の札を掲げる。
『奇兵隊は陪臣軽率藩士を選ばず同様に相交わり、もっぱら力量を以て貴び、堅固の隊を整える』
(6月中旬)以蔵、京『鈴蘭』近辺にてお道と再会。匿われる。

【以蔵】求められるという事
R15


(6月中旬)高杉、拡大する奇兵隊を阿弥陀寺と隣の極楽寺へ移転。自身は西ノ端の入江和作の家に寄宿する。裏町堺屋の抱え芸者であったうの(此ノ糸)と出会う。
(6月18日)長州藩、馬関での攘夷戦を傍観する小倉藩に違勅だと迫り、幕府の命に従ったと返答されるや侵攻。 田ノ浦を占領して砲台を築き、小倉藩の罪を朝廷へ訴える。
(6月22日)英、生麦事件に際し薩摩藩へ向け英国艦隊(7隻)を伴って出港

【内蔵太】(下関戦争の事、土佐、柊の事など)


【陸奥・寅之進】非武力論者は腰抜けか(乾十郎の件。攘夷や開国、今後の事など)


【龍馬】男が成すべき事(坂本家養子問題と龍馬の攘夷思想)


(7月)何礼之、長崎奉行支配定役に抜擢され幕臣となる。多忙の傍ら、自宅に英語教育の私塾を開く。
(7月2-4日)英、薩摩汽船を拿捕。祐天丸に乗船していた村田経臣、五代才助らと共に英国捕虜となる。
詳細

薩英戦争勃発。台風。
サトウ、アレクサンダー、フェリーチェ・ベアト、チャールズ・ワーグマンら従軍。
小松、久光および茂久側近で総指揮にあたる。
アレク、捕虜となった五代らの通訳を行う際、長崎以来村田経臣と再会し驚く。

(7月5日)高杉、馬関大組から強壮の60名(本当は100名ほしかった)を選び先鋒隊編成。
(7月9日)高杉、妻雅子の周りでも『お祭り騒ぎ』となっていると聞き、上調子な藩政に苛立ちながらも 軽率な流行に同調しない様にと静かに諭す手紙を出す。
(7月11日)薪水消耗等のため鹿児島から撤退した英国全艦隊が横濱へ帰着
(7月)長州藩小倉藩の件につき、朝廷は小倉藩へ対し「違勅」として処罰する事を内定したが 会津藩や尾張藩が「幕府は攘夷を奉勅したがまだ戦端を開いていない。小倉藩の行為は違勅ではない」と 周旋した為、内定は取り消された。 攘夷を実行した長州と幕府の命を実行した小倉藩の対立。足並みそろわぬ朝廷と幕府の形までもが浮き彫りになる。
(7月12日)幕府、長州藩に対し小倉侵攻を詰問し、撤兵する様指示。 かたや朝廷からは『陣中見舞い』として勅使正親町公董一行が下関に入る。
(7月中旬)長州藩による小倉藩侵攻の件につき朝幕の足並みが全く揃って事が現実として浮き彫りになる
(7月15日)長州、『陣中見舞い』の勅使正親町公董一行が白川邸に入り、数日逗留
(7月24日)長州、小倉侵攻違勅問題につい幕府より使者が来る。下関に朝陽丸入る。
(7月29日)長州、朝陽丸事件勃発。
詳細

長州藩主、『将軍からの親書』として幕府使者より受けようとするが、これが『将軍直々の親書』ではなく 単純に幕府からの通達であった事が発覚。急遽、郡奉行が書簡を受理する事態となる。 奇兵隊士も激昂し、朝陽丸の士官、乗組員全員を上陸させて民家に収容し、これを拿捕する。
高杉は心底幕府に呆れ、白石邸でボヤきながらはつみの言動を思い出す。それを聞いた白石の 「先の世を見て来たかの様なお人ですね」という言葉にひっかかりを覚える。 白石は文久3年の春先、武市半平太という御仁を遠巻きに見た際はつみらしき姫男子を見た事を思い出していた。

【高杉】今生かぐや姫


(8月)身分を問わない奇兵隊と馬関大組の士族から成る先鋒隊の身分差による軋轢が早くも深刻化。 むしろ、先の攘夷戦にて失態をおかした大組側が奇兵隊を「匹夫」「烏合の衆」などとやっかみ刺激し、 奇兵隊はそれに呼応する形で「先鋒隊何するものぞ」と意気軒昂状態だった。 混合編成だった台場の警備などを隊毎に分けての警備編成へと切り替えなければならない程。
(8月)坂本龍馬、勝海舟から出府の要請あり。

仮SS/【龍馬】龍馬が成すべき事(兄権平に会う。親族問題。)


坂本家、つまり権平には嫡男がおらず、脱藩罪を許された龍馬に親族総出で『権平の養子となり妻を娶れ』と迫っていた。
(8月7日~11日)京相撲興行が大阪相撲と合同、祇園北林にて行われる。浪士組達は木綿黒紋付に白縞を着用して取り締まりを行い、『事の他行儀良し』と高評価を得ていた。先の乱闘事件からの和解案であったが、大盛況のうちに終了となった。
(8月9日)坂本龍馬ら、江戸へ向けて出港。はつみと寅之進は同行せず、京白蓮に滞在。

【内蔵太・以蔵】意中の人


(内蔵太に誘われ以蔵を見に行く。お道の事を初めて知る。天誅組及び海軍塾に誘うのを止める。)
(8月12日)祇園北林で行われた相撲興行だが、最後の2日間は『礼相撲』として壬生寺で行われた。
(8月12日)芹沢鴨、大和屋焼き討事件
(8月13日)孝明天皇大和行幸詔
(8月13日)長州世子定広、朝陽丸解放の説得の為白石邸に入り、高杉ら幹部と会議。
(8月)坂本龍馬、桶町千葉道場に現れる。数年前の千葉佐那子との『約束』を取り下げ、謝罪。

【龍馬、佐那子】紋付袖の行方


(8月16日)下関白石邸に泊していた世子、高杉の案内にて各台場を慰問。
詳細

たまたま近場の奇兵隊陣営を先に回り、次の先鋒隊慰問は天候不良の為先送りとなった。
先鋒隊が逆上し、400石の大身でありながら真っ先に奇兵隊に入隊した総奉行使番・宮城彦助(51)の 差し金であると邪推する。 宮城彦助は和歌にたくみな風流人で、西洋軍備にも明るく弓矢槍剣の古い戦法を時代遅れとしていた。 それが武士道を軽んじると誤解され、また先の攘夷戦の際、益田豊前の隊が敗走するのを大声で叱咤した事も 憎しみを増幅させる所以となっていた。だが高杉は宮城の編入を大歓迎し、諸事相談をする程頼りにもしていた。

(8月16)長州、教法寺事件。
詳細

先鋒隊一味が宮城の宿舎である教法寺を襲撃。宮城は不在であったがそのまま狼藉をはたらいた。 宮城の下僕が高杉らの元へ駆け込んで事件が知れるところとなり、勇猛な宮城は話を付けると言って 真っ先に飛び出す。案じた高杉は奇兵隊13名を呼び集め直ちに後を追った。 奇兵隊が押し掛けて来たと言うので先鋒隊は逃げ出したが、何人かが斬り合いとなり先鋒隊1名が殺される。
その夜、奇兵隊、先鋒隊双方の隊士らが甲冑装備をして各本陣にひしめく事態となったが、 高杉からの一報を受けた世子と総奉行が間に入り、深刻な衝突は避けられる事となった。

(8月17日)高杉、教法寺事件の責任を取るべく切腹を申し出るが、藩主の命を待てと留められる。 妻雅子へ遺言のつもりで手紙を書く。同時にはつみの事も頭をよぎるが、思いとどまる。
(8月17日)天誅組の乱
内蔵太、天誅組の幹部として紀伊へ向かっていたが幕府の反撃を察知し急ぎ戦場へ戻る。
(8月18日)818政変。
壬生浪士組、会津預かりとして出陣する。
天誅組主将中山忠光『逆賊』、『国賊』長州藩2000兵、七卿と共に都落ち。
(8月-)桂、京付近に単身潜伏し『正藩従合』を勧めようと奮闘。
(8月19-21日)長州に朝陽丸を拿捕され滞留中の幕史ら、先鋒隊の石川小五郎ら過激兇徒に全員惨殺される。
(8月23日)818政変の報、長州に入る。

【陸奥・寅之進】白蓮にて(京に起こった事、今後の立場など白蓮の人々も交えて)


(8月)京政変において久光の上洛が求められ、小松が先発として上京。守衛にあたる。
(8月26日)長州から落ちて来た三条実美ら七卿、周防三田尻に入る。
(8月27日)長州、教法寺事件の責任として奇兵隊員400石の大身・宮城彦助、切腹。

【高杉】奇兵隊、理想と現実(長崎で見聞きした『身分のない世』について)


(8月末)長州、高杉が周布らと協力して奇兵隊を山口政府ののどもと小郡への転陣を決定する。
(8月末)長州、朝陽丸事件と教法寺事件を経て俗論派が藩主へ直接人事を迫り、台頭する。
(8月)三本木吉田屋に壬生浪士組の近藤が改めに入る。幾松が肝を据えて対処したが、桂が潜伏していた。 桂、幾松に心からの愛と感謝の念を抱き表明しつつもはつみを諦めきれず、京を離脱する前に白蓮への言伝を頼む。

【桂】境界線


(9月1日)長州、周布ら藩主側近3名が失脚。謹慎。

【以蔵】甘味処の石造(名を変え『新たな人生』を歩んでいる以蔵。お道と初対面。)


(9月2日)勝海舟、上阪のため順動丸に乗り込む。望月亀弥太ら塾生の操船。龍馬は江戸に残る。
(9月2日)井土ヶ谷事件
対応に苦慮した幕府は後に幕府横浜鎖港談判使節団という名目でフランスに使節を派遣。
(9月)吉田敏麿、引き続き捕虜となっている朝陽丸の士官、乗組員達を諭し、穏便に江戸へ帰らせる。
(9月5-9日)長州、高杉、奇兵隊の転陣完了。電光石火の如く藩庁へ乗り込み俗論派を追放。
(9月10日)長州、周布らが復職し正義派も復職及び新人事が行われる。
(9月12日)長州、高杉、奇兵隊総督を解任される。

【新選組・白蓮】芹沢鴨という男
R15


突如、白蓮に『精忠浪士組』の芹沢らが乗り込んでくる。
詳細

今や土佐過激攘夷浪士の『母体』とも言える土佐勤王党の武市や、国賊となった長州の桂、高杉らと親交のあったはつみに『天狗』すなわち間者の疑いあり。芹沢直々に改めに来た。大目に伏せてほしくば金を出せと無心するが、はつみが女である事で趣向が変わった。 寅之進、陸奥が激しく抵抗し、刀を抜く乱闘寸前となるも、斎藤の通報により沖田と永倉が白蓮へ急行する。

【寅之進・陸奥・白蓮】勇往邁進


芹沢の鉄扇でぶたれ裂けた左耳の皮膚を手当てする。寅之進、陸奥、白蓮にも迷惑をかけた。 しかし武市や桂、高杉らとの関りを否定する事はできない…つまり、芹沢が言う『天狗』は強ち虚言ではない。はつみは京から引き上げ、白蓮とも縁を切ろうとする。しかし、それが却って咲衛門の『怒り』を買った。
(9月)新見錦、切腹
(9月16日)新選組、芹沢鴨暗殺

【沖田】芹沢鴨、暗殺
R18


(9月)桂、望みのありそうな諸藩を巡るも正藩従合まったく成らず。長州に戻り閉じこもる。

【武市】告白


投獄されるのは今日か、明日か…。武市は長年天袋の奥にしまったままであった一振りの短刀を取り出し、正妻・富を部屋に呼ぶ
(9月21日)土佐・武市半平太、投獄
(9月23日)龍馬(江戸)、沢村惣之丞と大久保一翁を訪ね、蝦夷開拓の構想に着手し始める。
(9月23日)来嶋又兵衛、中村九郎、村田次郎三郎、久坂玄瑞、山口帰着。
(9月)壬生浪士組、『新選組』へと改名。浅黄色と黒の隊服が導入される。
(9月)英・ワーグマンと小沢カネの子が横濱で生まれる。
(9月24-27日)長州、来嶋や久坂らの帰藩を受け御前会議が行われる。
高杉の『割拠論』はいまだ受け入れられず、高杉は再び『10年暇』の続きとして総辞職する。

【勝】未来志向


「おいおい、おいら一応幕臣だぜ?しれっととんでもねぇ事言うじゃないの…」
詳細

大阪にて。芹沢の改めを受け、勝から尊王攘夷派との関係を改めて聞かれる。田中新兵衛や柊智らからは『裏切者』と言われた事があった為、尊王攘夷の志士達からは広くそう思われている可能性を告げる。しかし間者めいた活動もしているつもりはないし、そもそも自分には昨今巷で『流行っている』『尊王攘夷』という思想は微塵も持ち合わせていない。であれば英語や国際知識を武器にしようなどと思ったりはしない。
天皇の存在や日本の文化、道徳心は尊いものだし日本人として守るべき存在、価値だと思っているが、通商条約など諸外国と対等に渡り合える外交力を発揮できる勢力であれば、それが幕府だろうが朝廷だろうがそれとも第三の振興勢力であろうがそうした卓越した能力のある組織に日本を任せるべきだと考えている。
「おいおい、おいら一応幕臣だぜ?しれっととんでもねぇ事言うじゃないの…」
…だが、尊王攘夷の旋風を巻き起こした武市らを今回の弾圧から救おうとしている事は確かだし、桂や高杉ら、長州に組した土佐の脱藩志士と個人的な繋がりはまだあると自分でも認識している。新選組がその小手先の繋がりを指して自分を『天狗』と言うのなら、それは間違いはない。自分は巷で言われている『天狗』なのかも知れない―と述べる。
勝は「厄介だねぇ」としつつも「けど、お前さんみたいな人間がこれから必要なのは間違いないからね」と頷く。
「で、どうすんだいお前さん。これからもおいらの所で励む気はあるのかい?」
「ま、おいらの力でどこまで出来るか分からねぇけどよ、できる所まで守ってやるさ。」
「その代わり、おまえさんのその知識、存分に振舞ってもらうぜ。」

江戸で龍馬が調節してくれている海軍操練所の決算も近い事もあり、今の内から神戸へ移動する事になる。

【寅之進】いい人(神戸滞在にむけ京白蓮へ挨拶と荷物整理に行く。)


【斎藤・沖田】新選組(新選組の誕生と新しい隊服)


【龍馬(権平)】露見(権平へ挨拶をした際、龍馬との見合い話を初めて耳にする)


【陸奥】押し掛け客(大阪から便船に乗る際、駆け込んでくる。勝門下となる。)


(10月1日)長州、休職の高杉に新知160石を与え世子奥番頭を任命。高杉は父の「育み」を卒し自立する。
詳細

長州藩主、親書をくだす。「たとえ防長二州が滅びようと一致団結、この艱難を乗り切ろう」 高杉は「そうせい公」が見せるリーダーシップを前向きに受け入れるも、軍備が今のままでは 決意も無駄になり長州は焦土と化すだろうと先読みしている。

(10月2日)七卿の一人沢宣嘉、奇兵隊ら10数名が三田尻から脱走。挙兵の為生野へ向かった。
(10月3日)神戸海軍操練所、建設決算される。

【勝塾】ミスター・ジャーナリスト


英国戦場カメラマン・フェリーチェ・ベアト、海軍操練所に現れる。
(10月1-5日)英・薩摩、横濱にて3回の談判を経て和睦成立。以後友好関係を築く。 村田経臣、五代才助ら捕虜となっていた薩摩人、釈放。脱藩扱いとなる。
(10月)村田経臣、五代と行動を共にし各国を巡る旅に出る。 (その後、長崎へ入る。英国武器商人グラバーと懇意になり、五代と共にグラバー邸にて匿われる。)
(10月)勝、はつみらと別れ、黒木小太郎・望月亀弥太らが操船する順動丸で京阪へ戻る。 ベアトと横濱奉行所の護衛らも乗せており、ベアトはそのまま横濱へと送られた。 順動丸は黒木らによる操船のもと、直ぐに神戸へ戻った。

【サトウ・シーボルト】First gift.


(10月6日)朝廷より、堂上へ立ち入り悪説を吹き込んだ藩臣・浪士の詮索方を命じる。 また、在京諸藩臣の中で藩邸および本陣以外の所に住む者はすべての使命届け出をも命じる。
(10月12日)生野の変。平尾国臣が挙兵。三田尻からの脱走兵らも加勢。 公家沢宣嘉、平尾国臣、逃亡。三田尻からの脱走兵ら13名、山口村妙見山のふもとにて自決。
(10月12日)望月亀弥太、千屋虎之助らが操練所に駆け込み、京阪滞在の土佐藩士らに帰国および捕縛の命令が出たとの報を告げる。汽船操練術取得の命が出ている龍馬らおよび勝門下生へはまだ出ていないが時間の問題と考える。亀弥太らはすぐさま在京中の勝の元へと駆け出していった。
はつみ、しばらく返信のない乾へ改めて手紙を出す。

【寅之進】身の振り方


【以蔵・柊】居場所(招かれざる客)


(10月24日)村田蔵六、山口帰藩。手当防御事務用掛に任命。
(11月1日)薩摩、大久保をして幕府より7万両を借りせしめ、英国遺族扶助の賠償金を支払う。
(11月13日)一橋慶喜、京にて小松を召し、公武合致を推進する。
(11月15日)高杉、世子上京用掛を任命される。名を東一と改める。 この頃から度々久坂と仲たがいを起こす様になる。
(11月)長州、世子定広の上京が決定し久坂らが上京。調整が急がれる中、肝心の朝廷が首を縦に振らない。
(11月末)勝門下土佐藩士ら、望月亀弥太郎、千屋虎之助、高松太郎、安岡金馬、池田寅之進らに対し土佐から直接帰藩命令が出る。寅之進以外の一同、大阪へ下り下知を待つ。寅之進ははつみに従うと言い、その為なら脱藩となろうが構わないと言ってはつみの傍に留まった。亀弥太は江戸に置いて来た荷物の整理をしなければならないと藩に申し出、許可を得て江戸へと向かった。
(11月22日)久坂に次ぐ過激派・来嶋又兵衛、遊撃軍の上京を願い出る。 政府、諸卿を三田尻から山口へ移し、来嶋又兵衛以下遊撃軍を三田尻へと転陣させた。流石の周布らも過激派を一旦諸卿から遠ざけ、山口からも遠ざける狙いがあった。
(12月) 龍馬からの書簡、京・勝の元へ来る。容堂の名を以て帰藩を命じられたとの事。
(12月6日)勝、龍馬を留め置く為の容堂宛の嘆願書を提出するも京詰め土佐役人に『とにかく帰藩』と払われる。
(12月)江戸にて。龍馬、躊躇う事なく脱藩を決意。
年明け早々に船で上洛予定の徳川家茂に操練技師として随行する為、出頭命令を無視。
龍馬以下海軍塾生らと待機する。
(12月)海軍操練所予定地にて。龍馬から『予定通り』船で大阪へ向かうとの書簡来る。 一方、乾からは返信が届かない。 帰藩命令の出ていないはつみは一人土佐へ帰藩する事を決意。皆から止められるが、春に別れて以来乾との連絡がぷっつり途切れている事にも土佐への不信感があり、行って確かめると同時に海軍操練所の先見性とそれに対する土佐のメリットなどをしっかり説明してくると決意。 はつみは寅之進の残留を説くが、その命令だけは聞けないと断固として控えようとはしなかった。

【寅之進・陸奥】土佐帰藩につき


(12月) はつみ、寅之進、陸奥。在京中の勝の元を訪れ、龍馬からの書状を手渡すと共に土佐へ帰藩する決意を説く。
詳細

勝は海軍操練所にいる因州鳥取藩士で龍馬とも桶町千葉道場時代からの知り合いである剣の達人・黒木小太郎を付けて行く事を推奨した上で了承の意を示した。はつみら、黒木が剣の達人だと初めて知る。
それでも、現在土佐では他藩からの訪問者の殆どは関所で留め置かれている為、藩内へははつみと寅之進二人しか入れないので十分気を付ける様にとの事と、同上の理由から大阪から土佐への便船は黒木が利用できない。そこで、宇和島から四国に入り陸路土佐の関所を目指す。宇和島藩の隠居・伊達宗城に拝謁してから土佐へ行くことを推奨した。先見の明に長け独特の価値観を持つ宇和島の賢者は必ずはつみを気に入るだろうと 確信しての事であり、またはつみらの身を守るために自ら筆を執って土佐へ向けた書を認めるだけでなく、 宗城公へ向けた紹介状を認める際にも、はつみへの助力を願った一文を添えた。
また、自ら志願した陸奥陽之助が道中護衛(勝曰はく『賑やかし』)として同行する事となった。

仮SS/【寅之進・陸奥】力不足


黒木と合流する為再び神戸海軍操練所へ戻る。

【寅之進】まもりたい…前半・後半


(12月)陸奥、馬をひいてくれた紀州藩士が父・伊達宗広(前藩主徳川治宝に重用された元500石の紀州藩士・国学者)の元部下であった事を知る。
詳細

幼い陸奥と紀伊田辺で幽閉生活を強いられていた際に隠居した父であったが、去年、家督を継いだ義兄の宗興と共に突如脱藩してからまだ戻っておらず、紀州には母妹らが残されたままだ。
戻らない父兄と困窮した生活を続ける母らの状況を少しでも知る事ができたが、流石の陸奥も落ち込む。藩士と別れた所で寅之進の洗濯物を持ったはつみが現れ、陸奥に礼を述べると同時に「知り会い?」と尋ねる。

【陸奥】あまのじゃく


翌日からはつみと寅之進が馬に乗り、陸奥が歩く事になった。
(12月18日)小松、貞姫君の近衛家御輿入れ御用係の大役を果たす。
(12月26日)小松、貞姫輿入れの祝賀を兼ね、公武合体派公卿・諸侯の忘年会を近衛家桜木邸で催す。
小松、この頃京の名芸妓・琴仙子と知り合う。
(12月27日)新選組、芹沢一派最後の一人、野口健司切腹
(12月29日)幕府横浜鎖港談判使節団(池田使節団)フランス軍艦に乗船し日本を出航
(12月末)長州世子の上洛どころか、朝廷は参与として一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城らを任命。
(12月末)はつみら、黒木と合流した後順調に便船へ乗り込み、宇和島藩に入る。入江の天然出島に宇和島城を望む美しい港であった。 勝の手紙を奉行所に届け出、返答が来るまで宿にて年を越す。

●文久四年/元治元年…はつみ23歳

(1月1日)神戸海軍操練所、だいたいの施設が完成するが肝心のドック建設の下知はまだであった。
(1月1日)はつみら、宿主の厚意で餅つきなどに参加し、雑煮を食べたり羽子板をして元日を過ごす。 寅之進は傷がまだ塞ぎ切っていなかったが、黒木に剣の講義を受けたりして過ごす。
(1月2日)はつみら、役人の案内を受け城の隣に建つ浜御殿へ移動する。宇和島隠居・伊達宗城に拝謁。 宇和島ではかの村田蔵六(現在は長州藩士となっている)による西洋研究や軍艦製造が進んでいた事もあり 伊達は子であり藩主である宗徳(養子のため宗城より13下)を同席させ、はつみの話を興味深く聞いた。

【伊達】世界水準(土佐の内情を『日本らしくない視点』から語る)

詳細

宗城ははつみの話や展望、分析力に関心と理解を示しつつ「私情で動けば貴方もまた私情に阻まれるだろう」と やんわりと諫言し、また、驚く事に西洋の文化や司法に関する価値観倫理観をごく自然に受け入れている点に注目。 土佐の事だけに執着するのではなくその才を伸ばし然るべき人物から学べとの助言をする。 (一応はつみは『記憶喪失』という土佐以来の設定を貫いている)
勤王党大弾圧の最中にあり理由のはっきりしない帰藩命令にあたり、容堂宛の書簡を持たせてくれる。関所まで宇和島藩の護衛が2人と馬一頭が貸し付けられた。

(1月2日)朝廷参与会議。薩摩藩小松帯刀・高崎猪太郎、越前藩中根雪江も陪席
(1月2日)新選組、将軍家茂上洛警護の為大阪に入る
(1月8日)将軍・徳川家茂、二度目の上洛(大阪着・勝門人ら操船。龍馬も同船) 龍馬真っ先に京・勝のもとへ向かい、はつみらが土佐へ向かった事を聞き『何故そがな無茶を』と愕然とする。
(1月10日)はつみら、土佐関所到着。宇和島藩の護衛達と別れる。 勝の言っていた通り土佐側の関所はかなり物々しく、他藩藩士は容易に通り抜け出来る状態ではなかった。 まるで水戸公の印籠の様に土佐見張り番に2通の書状を見せ、乾に取次を願う。関所の宿にて待機する。
(1月13日)島津久光、朝廷参与に任命される。 しかし薩摩のこれまで費やして来た朝廷を中心とする為の政策も空しく、再び幕府が力を盛り返しつつあった。
(1月21日)将軍家茂参内。右大臣に任ぜられる。
(1月)桂、状況打破の為上京。河原町藩邸に入る。
(1月)三田尻で燻る来嶋又兵衛、遊撃軍一同亡命し、上京しようと言い出す。 世子定広、高杉に藩主父子による直書を持たせ、来嶋の鎮撫に向かわせる。
(1月28日) 高杉、亡命上京を息巻く来嶋又兵衛を4日間説得するが5日目になって自らが代わりに亡命する。
詳細

埒が明かない事もあり、高杉は自らが暴発(亡命)して京にいる仲間たちから情勢を聞くと共に今後の方針を定めようと思うからそれまで堪えて欲しいと申し出る。来嶋はそれを承諾した。
「僕の得意とするのは真の割拠であり真の進発だ。ウワの割拠は不得意である。ウワの進発は聞くも腹が立つ」
故に、今回の脱藩はこの様な経緯故に『狂挙』ではない。

(1月28日)小松、近衛家貞姫輿入れの功により御花畑屋敷を小松の住まいに使用し、近衛家御紋を家紋として用いる事を許される。
(1月末)はつみら、半月ほど散々待たされた後、乾ではなく岩崎弥太郎が現れる。乾への目通りについて尋ねるが自分が承ったとばかり言い逃れ、はぐらかす。しかも例外なく陸奥や黒木は入国できず、帰国命令の出ていた寅之進は殆ど捕らえられる様な形で有無も言わさず『同行』を申し付けられた。
寅之進を人質に取られた様な形となったはつみは陸奥らと別れ、彼らについて土佐城下へと向かう。

【寅之進・陸奥】土佐帰藩


(2月1日)小松、長崎出張所の薩摩役人を介して英国商人グラバーより英国製汽船二隻を購入する。
(2月)小松、英国より釈放ののち脱藩扱いで長崎グラバーの元に潜んでいた五代才助・村田経臣と面会。 英国留学構想など語り合い、また事情が事情であるだけに脱藩罪免罪の処置をとる。
(2月2日)高杉、河原町藩邸に入る。桂、久坂、中岡らと会議し島津久光暗殺を企てるも頓挫する。

【桂、高杉、久坂、中岡】女傑評議6


(2月)英オールコック公使、賜暇を終え再来日。ニール代理公使、帰国。サトウら、命じられていた事務仕事を公使によって免除され、日本研究を推奨される。
(2月5日)はつみ、土佐城下到着後指定の宿に押し込まれていたが突然出頭命令を受け、南会所へと向かう。

【武市】届かない声


『捜査協力』の名目で色々と土佐勤王党や武市との事を『詮議』された。相手はしゃがれ声の小目付・野中太内。荒々しく威圧的にモラハラを行ってくる様なタイプだった。はつみは自身の正当性や然るべき書状を持っている事を大前提に、かつてない程の論戦を繰り広げた。

【乾・寅之進】現状打破


寅之進、藩命によりはつみの護衛役を解かれる。
詳細

「親族預かり」に該当するが天涯孤独の身の上の為当面の間、自宅謹慎を命じられる。 どうにかしようとしていた所、空にルシ(白き隼)を見つけ直感で捜索をしていたという乾と遭遇。周囲を警戒し、以後寅之進は自宅謹慎となりつつも秘密裏に乾から援助を受け、情報交換がすすめられた。

(2月)はつみ、後藤らの訪問を受け、在京中見聞きした事や神戸海軍操練所での事を聞かれる。
詳細

現れない寅之進について尋ねると『護衛役』を解かれたと聞き、それだけで彼が現れないのはおかしい。 何かいわれのない処分を与えたのではないかと突っかかる。
後藤らが退席した後、神頼みとも言える思いで総司の鳥笛を吹くと窓際にルシが現れた。 はつみは寅之進になら伝わるであろう『I am fine.』の一文を書き記し、ルシの脚に巻き付け 『お願い、寅くんを探して…』と願いを託し、ルシを送り出した。

(2月)乾ら数少ない勤王派上士と、それに協力する軽格ら及び町人が密かに至る所へ入り込む。
(2月)はつみ、寅之進や乾、坂本家への面会を要望するが一向に聞き入れてもらえない。
詳細

自分や寅之進に何の容疑がかかっているのかと聞けばそうではないと言うくせに、 寅之進の人間関係について尋ねる。その中で乾の関係なども尋ねられた。 勤王派であった乾が失脚させられているであろう事は歴史としても心得ていたが、自分と関わった事で歴史上には見られない動きも多くとらせてしまっているのも事実。歴史上にない、想像もつかない事態になっているのでは…と、連絡がつかない乾への心配も募っていった。

(2月)はつみの部屋の前にルシが停まる。
詳細

その脚には寅之進のものと思われる布切れが巻かれており、やはり寅之進は身動きできない状況にあるのだろうと考えた。しかしあまり詳細を書き記すのも万が一紙が落ちてしまった時など危険すぎる。寅之進もそれを案じ、あえて布を巻き付けてきたのだろう。何とかしてこの状況を変えて行かなければ…と思案する。

(2月14日)勝および龍馬ら門人、四カ国連合艦隊への対策の為長崎へ向かう。 大阪に留め置かれていた高松太郎ら、脱藩し龍馬らに随行する。
(2月)はつみ。後藤に対し勝や宗城の容堂宛の手紙はどうなったのかと詰問する。
詳細

自分達の質問ばかりでこちらの質問や要望には殆ど応えない後藤らに苛立ちが募っていた。不信感を露わにしきった辛辣な態度となり、後藤から「そんな事では罪を得ずとも身を滅ぼすぞ」と諫言を受ける。女子相手に叱りを入れたつもりだったが、そのような言い草は今のはつみには神経を逆なでる以外のなにものでもなかった。
「…それは不敬罪ってことにして一方的に殺すって事ですか?」
「…そうではない」
『不敬罪』とは、はつみが知り得る歴史通りとなればこの先武市が申し付けられる事になる理不尽極まりない罪状であった為、余計に頭に血がのぼってしまう。悔しさ、苛立ち、不安、心配…部屋の中で一人突っ伏せて泣いたその日の夜、後藤らの見張りの目を掻い潜り一人の来客が現れた。乾であった。

【乾・寅之進】天佑神助…前編・後編


鳥笛を乾に渡す。
(2月15-19日)坂本龍馬、佐賀にて下船し熊本へ横井小楠を訪ねる。
(2月18日)高杉、妻雅子に出奔の件について手紙を送る。一方で、国許で高杉の行動について非難の声が高まっている事が本人の耳にも届き、 毎日酒にうさを晴らし、死に場所はないかなどと思いつつ無為に日々を送る。

(2月20日)~『元治元年』に改元~

(2月28日)大島(西郷)吉之助、召喚により鹿児島へ帰る。
(2月29日)世子の書簡を受けて帰藩した高杉、即座に親類預けとなり、この日脱藩罪にて野山獄入牢となる。
詳細

『新地160石を以てお取立てになった格別のご寵愛を良い事に、自分だけの了見で潔白がましい
振舞を以て新地を投げ打つなど、古今にその例を見ない』
知行没収、雅子は親類(高杉家)に引き取られた。

(3月14日)大島吉之助、上京。

【乾・寅之進】性に合わぬ…前編・後編


土佐にて。ある日蟄居中のはずの寅之進が行方不明となり、横目が捜索に出る騒ぎとなる。
詳細

一方、後藤達によるはつみへの『協力要請』は続く。―が、はつみの部屋の周囲は少しずつ乾の息がかかった者達が紛れ込む様になっていた。乾は危険を犯しはつみに会いに来る。乾の古くからの友であり志を共にする小笠原唯八、佐々木三四郎、片岡健吉、そして土佐勤王党や武市の協力者であり失脚させられていた谷干城それぞれが、水面下にて各々慎重に動き、出来うるだけの力を尽くして協力をしてくれていた。
また、この時、かつて谷がはつみを襲撃した犯人であった事が明るみとなる。

【乾・寅之進】届かぬ想い
R15


(3月中旬)はつみ、乾に連れられ闇夜に紛れ馬で須崎方面へ向かう。 須崎は現代において武市の銅像が立っており、現地まで観光しに行った事を思い出す。
一方、乾は文久元年の横濱遠出ではつみと馬に乗った事を思い出す。
寅之進と合流。乾の手引きにより須崎沖に碇泊していた宇和島行の便船へ、密かに乗船。土佐を脱出。
寅之進、土佐脱藩。船上にて乾からの手紙を読み鳥笛を受け取る。
宇和島にて黒木、陸奥と無事合流。神戸へ帰る。

【寅之進・陸奥】想い届くまで


(3月23日)横井小楠『海軍問答書』を長崎の勝海舟へ贈る
(4月)高杉、獄中で孤独と悔恨に浸り、本を読み詩を詠い、師松陰の言葉に向き合う。
(4月2日)勝、長崎にて各国領事館を回り長州攻撃の中止を申し出た結果、出撃を2か月待つとの約束を得る。
(4月4日)坂本龍馬、勝海舟、長崎を発つ。途中熊本へ寄り、横井小楠の親族3名を預けられる
(4月)はつみ、寅之進、陸奥と以蔵の様子を見に鈴蘭へ行き、道の腹が大きくなっている事に驚く。

【以蔵・道】命の重み(以蔵の子)


詳細

しかも破水し産気ついた為、体調の悪い女将や右も左も分からぬ以蔵に代わり出産に助太刀、立ち合う事になる。寅之進や陸奥も大八車で産婆を連れて爆走したり沸かした湯を風呂並に冷まして運んだりと、産婆の言うとおりに必死に協力をする。
お産が佳境に入ると陸奥が貧血を起こし失神しそうになったりしつつも、子供が生まれたその時は以蔵も含め皆が感動を分かち合っていた。

屋外では『天狗』の疑いありとしてはつみを監視していた斎藤が一部始終を見守っていた。

【寅之進・陸奥】子孫を残すという事


(4月12日)勝、龍馬、長崎より帰阪する。
(4月13日)勝、摂海砲台、神戸海軍操練所巡覧の用で来阪中の若年寄稲葉正巳と会い、数か所に旧式の砲台を設置すると聞き激怒し時勢と海軍の必要性を述べる。
(4月)武市、獄中で花や蛍の差し入れに癒される
(しかし薄暗い獄中にあっては花が色褪せて行く様子に哀愁を感じる)

【武市】獄中の桜


(4月15日)勝、二条城へ出て意見を述べる。
(4月16日)勝、一橋慶喜に会って時勢と海軍の必要性を述べる。 神戸海軍操練所・勝門人らの軍艦操練による大阪湾の警備、稽古として朝鮮、上海、広東への航海許可。扶持は幕府から出る事となる。
(4月17日)桂、長州藩京都留守居乃美織江と議奏正親町三条実愛に拝謁。藩主父子いずれかの上京嘆願。
(4月)龍馬、はつみらと再会。

【龍馬】愛ある叱責


> (4月)後藤象二郎、開国派・吉田東洋遺策である『開成館』の建設・長崎貿易・洋式汽船購入を内容とする意見書を容堂へ提出。これがすすめられ、吉田東洋による改革の継承・発展を期した。
(4月18日)久光、京守護職を小松に託し鹿児島へ帰る。小松、そして大久保、西郷が台頭する。
(4月26日)京、見廻組設置される。
(4月)鈴蘭に再び柊が現れる。
(4月末)以蔵、自ら土佐藩邸へ出頭。帰藩。

【以蔵】真なる心


(4月)勝、江戸へ一旦帰府。
(5月6日)高杉、獄中に酔った周布政之助来る。
(5月10日)長州村田蔵六、鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかる。
(5月14日)武市、獄中同居となった伊藤礼平を戯れにクソ虫と呼ぶ。 このクソ虫が追放処分との沙汰を受け、出獄する。
(上士と思われるが痴情案件により捕縛された模様。とにかく阿呆でうるさかったらしいが好人物であり、同室中はすすんで武市の月代を手入れし髪を結ってくれていた。)
(5月)勝海舟、軍艦奉行並から『軍艦奉行』へ昇格。 龍馬らと共に以蔵にお祝いを用意。再度神戸海軍操練所へ誘おうと鈴蘭へ向かうが、以蔵は帰藩した後だった。

【龍馬・以蔵】責任


(5月)神戸海軍操練所、開設
龍馬、北添佶磨らによる『蝦夷開拓事業』が始動。
詳細

去年より大久保一翁と龍馬、北添佶磨らが話し合う中で構想されていた『蝦夷開拓事業』。
蝦夷は函館が開港され英国などの領事館が置かれていたが、広大な蝦夷大地の北側はかねてよりロシアからの不法占拠などが危険視されていた。蝦夷北海の防海を説く一方、京都に集まる『尊王攘夷派』の浪人たちを一斉にこの蝦夷北へ送り開拓しようという話であった。彼らは燻る攘夷活動へのエネルギーをふんだんに発する事もでき文字通り日本を守る事にもつながる。この事は閣老(老中)水野忠精も承知しており、浪士達の送り込みには神戸海軍操練所が越前藩より引き受ける船黒龍丸が使われる事まで決まっていた。

【龍馬】家族だから


(再会以来少し様子がおかしいはつみに龍馬が声をかけると、過去に2度、自分達の間に見合い話があった事を権平から聞いたと打ち明ける。龍馬は内心頭を抱え『権平兄さん…そぉいうとこぜよ…!』と悶絶しつつはつみに向き合った。権平は龍馬の想いまでは口を滑らせることは無かった様だ。)
(6月1日)高杉、出獄して座敷牢へ移るも、実家の奥二間を締めきって釘付けにし鍵をかけられ、面会謝絶。
(6月2日)龍馬、黒龍丸で江戸の勝のもとへ向かう。はつみ、白蓮に残る
(6月4日)周布、獄中の高杉の所へ行く等の罪に問われ50日間の逼塞を命じられる。
(6月)薩摩藩開成所・開設
(6月5日)京武器商・古高俊太郎、新選組の改めに遭い捕縛。大量の武器が押収され事情聴取。拷問にかけられる。
(6月5日)桂、池田屋へ入るも早く来すぎた為、一旦対馬藩邸に入る。
(6月5日)池田屋事件

池田屋事件…前編・後編


(6月5日)池田屋事件に巻き込まれ、望月亀弥太、北添佶磨、自刃
(6月上旬)高杉、座敷牢へ移るも奥間にて完全隔離され面会謝絶。
(6月10日)明保野亭事件。長州派土佐浪士達の幕府および新選組に対する感情は最悪なまでに悪化する。
(6月10日)長州藩士・井上(志道)馨、伊藤俊輔、イギリスから帰国。 横濱にて英オールコック公使らと面会し下関砲撃への猶予を交渉。受け入れられる。
(6月12日)明保野亭事件顛末。会津藩士柴司、切腹
(6月12日)池田屋事件の報が山口に入る。 周布は謹慎、高杉は入獄、桂は不明のため、過激派を止める者がいない。 来嶋と久坂が遊撃軍、有志隊を率いて進発。家老や諸隊も続々とこれに続く。
(6月14日)岡田以蔵、入獄。
詳細

勝海舟護衛時の殺人と、桜川はつみ護衛時に田中新兵衛と私闘に及んだ罪。 …との事だったが、武市の懐刀として土佐勤王党に深く『貢献』したと見られての見切り投獄であった。
(実際、土佐勤王党での罪は(史実と違って)一切ないが、以蔵の身分は低かった為早い段階で拷問適応となる。)獄中の同志達は、髪を切り毅然として黙している以蔵の心身に及ぶ変わりように驚く。武市は獄中書簡にて以蔵の様子を伝えられ、以蔵の様子に深く感心する。

【武市・以蔵】岡田以蔵、入獄


(6月16日)内蔵太、中岡、柊ら、長州にて脱藩浪士による『忠勇隊』に参加。
(6月16日)永代家老福原越後、参謀佐久間佐兵衛、竹内正兵衛、進発。
(6月17日)龍馬、江戸から下田へ移動し、蒸気機関修理の為碇泊中の勝海舟と合流。蝦夷開拓事業について話す。
(6月18-24日)英国ら四カ国が下関近郊調査の為出航。

【サトウ・伊藤】It’s a small world.EP1


サトウ、伊藤、井上らもこれに乗船し、互いの公文書を翻訳し合ったりイギリス留学の感想や航海中の様子などを話したりして、極めて穏やかにおよそ4日間を過ごす。
詳細

この時伊藤らは、1861年に横濱で発行されたというジャパンパンチの複製をロンドンで手にし、そこに書かれていた風刺は素直に 胸に刺さり、日本は変わらなければならない事を考えるきっかけともなったという。 サトウは『抑圧されたミューズ』の話をし、そこから桜川はつみの話へと発展していく。 伊藤も彼女をよく知っていたと聞き、サトウの態度が更に軟化するのを察する伊藤。 この時はつみとサトウ、アレクサンダーらの誼を知ったのであった。
姫島沖に到着すると伊藤らは7/6に再会を約束し、下船して帰藩した。 この時同船していたサトウの教師は『長州がこれまでの様な『尊王攘夷』を貫くのであれば彼らは十中八九切腹を申し付けられる事となるだろう。』と言い、サトウは厳格すぎる日本文化の一旦を生々しく耳にした事で、咄嗟に友達の無事を願うのであった。
サトウ、再会期日まで周辺の村等で薪水を得ながら下関周辺を測量・砲台監察。 姫島はじめ他の漁村も大抵は皆親切であったが、伊予の伊美という村は一切拒否した。

(6月20日勝、龍馬ら大阪に着く。
) (6月21日)内蔵太ら忠勇隊、京天王山に本営を置く。
(6月24日)伊藤、井上、藩庁にて海外の情勢を説き、攘夷が無謀なこと、開国の必要性を訴える。

襲撃

元治元年6月~7月

▲ TOP ▲
●元治元年…はつみ23歳

(6月24日)奸婦襲撃事件。柊智ら長州・水戸派攘夷志士による桜川はつみ襲撃事件。
現場を押さえた新選組が介入、戦闘となる。

【寅之進・陸奥・柊・斎藤】奸婦襲撃事件・前編


【沖田・寅之進・陸奥・土方】奸婦襲撃事件・後編


【新選組】天狗の呪縛


【内蔵太】背中の切り傷


治療中の背中越しに胸の一部が見え、内蔵太のはつみに対する性別誤解が解ける。

【桂・内蔵太・柊】過ち


(6月25日)勝、龍馬、大阪ではつみの遭難悲報を聞く。勝は大阪を出る事ができず、龍馬が駆け付ける。
(6月26日)長州寄組・国司信濃、進発。
(6月26日)龍馬、京・壬生の宿に入る。

【龍馬】背中の切り傷(龍馬、泣く)


(6月27日)御前会議が行われる。伊藤、井上は再度海外情勢と攘夷無謀論を説くが、まったく聞き入れられない。 攘夷論者からは命を狙われる。
(6月29日)井上、四カ国艦藩主から「攘夷熱を抑えがたい故」とする旨を毛利登人から伝えられる。
「『防長二州が焦土と化しても天勅を奉じて攘夷を遂行する』とは聞こえが美しいが 一同討ち死にし藩主一人が残る理由はない。この決心があるか?」との厳しい返答をする。
(7月1日)勝から悲報を聞いた小松が激務の中駆け付け、出来るなら今すぐにでもここを離れるべきと言う。 先月より長州兵が進発して京へ詰めかけており、朝幕と長州間の緊張が今にも弾けそう。
八坂神社奉納相撲のこと。 周囲がバタつく中、同じく去ろうとする小松を引き留め、小松だけにとある嘆願をした。

【小松】天狗の願い


薩摩兵5人、新選組5人の護衛、引き続き会津の蘭方医とお万里に付き添われ 神戸へと戻る事となった。

【沖田・土方】潮時


(7月5日)桂、内蔵太と柊を伴い神戸へ入る。桂の書状を持った内蔵太が操練所・勝塾宿舎を訪ねる。
詳細

はつみが女である事を知ってから初めてはつみと会う内蔵太。
はつみの容態がいくばくか良くなっている事に胸を撫で下すも、真っすぐ見つめる事もできない。
先日池田屋事件があり望月らの件があった為、これ以上目を付けられない様慎重に動かなければならない。
大所帯は避け、龍馬と内蔵太が付きはつみは籠に乗って出る事となる。
待ち合わせ先で桂、柊と会う。柊の非を全面的に非難しつつも、桂は意外にも柊を庇う一面も見せた。

【桂・内蔵太・柊】罰


【内蔵太】溢れ出す想い


操練所へ戻る。内蔵太、言いにくそうにずっと男だと思っていた事を告げ、「やっぱり!」とはつみに笑われる。その笑顔につい込み上げるものを感じた内蔵太ははつみを抱き締め「こがな細い身で…今までよう頑張ってきたな」と労う。大きな手で背中をさすってやり、そして走り去る内蔵太。
(7月5日)サトウ、約束の笠戸島において長州伊藤、井上と再会。

仮SS/【サトウ・伊藤】It’s a small world.EP2


まずは彼らが処分される事なく再会できたことを内心嬉しく思うが、彼らが持ってきた返事は『止むを得ず攘夷続行』との事だった。
(7月6日)本隊第一陣の永代家老・益田右衛門助、進発。
(7月8日)サトウら艦隊、横濱へ帰港する
(7月9日)後藤象二郎、小笠原唯八、大目付・外輪物頭 就任。
(7月13日)本隊・中軍・世子軍、五卿を擁し数隻の軍船を以て進発。岩国・吉川堅物、殿備として追従。
(7月14日)武市、獄中にて漢詩と自画像をしたためる。

人以仁義栄


(7月15日)はつみ、勝の手配で神戸より北にある有馬へ温泉療養に出る。(温泉好きの小松が薦めた) 寅之進、陸奥が同行。龍馬は海軍塾に残る。

ウワサのジョン万次郎


(7月19日)はつみら、有馬温泉の宿につく。勝・小松の計らいで先に温泉宿に入っていた中浜万次郎と出会う。 薩摩の藩学校・開成所にて英語教鞭を振るう為鹿児島へ向け移動中、大阪で勝と再会していた。勝と万次郎は咸臨丸渡米来の同志。はつみが遭難した事を受け勝が小松に申し出、療養期間中の3か月間、万次郎が英語指南をする事で3者同意となっていた。

東西奔走編

元治元年7月~慶応元年閏5月

▲ TOP ▲
●元治元年…はつみ23歳

(7月19日)禁門の変
長州、世子軍の到着を待たず来嶋久坂らを始め先発軍1200が暴発。攻撃を仕掛けた。
詳細

薩摩始め数倍の兵力を誇る幕府軍に阻まれる。
来嶋又兵衛、入江九一、戦死。
久坂玄瑞、寺島忠三郎、互いに刺し違えて自刃。
池田屋事件を生き延びていた桂小五郎、再び消息不明。
桂小五郎(16の時から)の養子、桂勝三郎(17)、負傷し大阪桜宮にて自刃
真木和泉、天王山へ退き同志と共に自刃。

(7月21日)四国多度津に寄港していた世子軍、京の異変を聞きやむなく撤退。 長州兵達は散り散りとなり陸路、海路算を乱して逃亡。
(7月)桂、乞食に変装して三条大橋の下などに潜伏。食事の世話など、幾松が一役買う。
(7月21日)蟄居中の高杉、井上聞多の訪問を受ける。

【高杉・聞多】長州激震


世子進発までの情報提供とはつみの話。禁門変の情報はまだ伝わっていない。
(7月22日)幕府横浜鎖港談判使節団帰国 鎖港・攘夷が不可能であると理解した模様
使節団、フランスで締結した協定を持ち帰るもあまりにもフランスに偏った内容。英国オールコック公使が外国同盟への影響・危機感を示す。
(7月22日)長州、長崎探索から帰藩した南亀五郎が四カ国連合艦隊の横濱出兵を報告する。
(7月23日)世子軍周防上関に投錨。長州世子軍および各隊、五卿らも続々と敗走し、帰国。京都の変、長州敗報をもたらす。
(7月23日)長州討伐発令。幕府、勅命により中国、四国、九州21藩に出兵を命じる。

【内蔵太・伊藤】窮途末路


(7月24日)乾、町奉行に就任
(7月25日)幕府、フランス協定を破棄する通達を出す
(7月26日)四カ国艦隊、下関へ向けて横濱出港
英旗艦ユーライアラス号を先頭に英国軍艦9隻、仏軍艦3隻、蘭軍艦4隻、米(仮装)軍艦1隻、総勢約5000兵力の艦隊
(7月27日)土佐、清岡道之助ら野根山23士、土佐勤王党のために決起。小笠原唯八(勤王派で乾の同志)が命じられて鎮圧にあたる。
(7月下旬)桂、京潜伏に限界を悟り対馬藩邸に駆け込み、対馬藩出入り商人・廣戸甚助の援助を受け但馬の出石へと逃れる。
(7月末)内蔵太ら、神戸海軍操練所へ辿り着き、同士からはつみが有馬温泉にいる事を突き止める。
(7月末)桂の恋人・幾松も対馬藩士・多田荘蔵に保護され下関に向かう。
(8月1日)幕府、尾張前藩主徳川慶勝を長州征長総督に任命。中国、四国、九州の21藩に動員令を発する。
(8月2-3日)四カ国艦隊、姫島沖へ随時到着。薪水を得る
(8月3日)内蔵太、柊、有馬温泉地区内のはつみが療養している宿に到達する。

【内蔵太・柊】下関戦争・四カ国艦隊砲撃:はつみ経緯


詳細

よく話し合って決める。
案内人:内蔵太、柊
同行者:寅之進、陸奥、お万里
いざという時は海軍塾を抜ける覚悟も。龍馬には告げずに行く事を、万次郎に託す。
はつみの背中の傷にちなみ無病息災を願う為に『厳島』へ参拝、
湯治に行くとして、旅宿にて途中手形を発行。
はつみの背中には実際真新しい刀傷があり、お万里もいる為信用された様だった。
(参拝、湯治への途中手形の旅宿等による代理発行は割と通常運転でガバってた模様)
他の皆も柊監修の完璧な下男や商人となって、広島藩呉への船に乗り込んだ。

【内蔵太、寅之進、陸奥、柊、お万里】偽名


【陸奥、内蔵太、柊】安井息軒組


(8月4日)四カ国艦隊、馬関海峡を望む海域に臨戦態勢で碇泊
(8月4日)高杉、直ちに藩庁へ出頭せよとの命を受ける。
(8月4日)井上聞多、馬関沖に圧倒的威圧感で現れた外国艦隊と止戦交渉する様命じられる。
(8月5日14:00)井上聞多、下関奉行がユーライアラス号に乗船し軍事行動の停止を促すが サトウは『平和的な解決を試みる段階はすでに過ぎ去った』という返事しかできない状況だった
(8月5日)高杉、いきなり応接掛を申し付けられ、講和交渉使節となる。 湯田の旅館で「艦隊は下関にいるのに横濱へ行けと言われ、馬鹿馬鹿しいが命令だから船を待っている」 とする伊藤俊輔を見つけ、取り急ぎ英国との交渉経緯を聞く。とりあえず下関へ向かおうとする道中で、 止戦交渉を聞き入れられず引き返して来た井上聞多とも合流。
改めて藩主の意見と命を仰ぐ為、急ぎ山口藩庁へ向かう。
(8月5日)長州忠勇隊、再編成。隊長・中岡、第三伍長・池内蔵太(細川左馬之助)
(8月5日)16:10砲撃開始。下関戦争・四カ国艦隊砲撃。英国旗艦ユーライアラス号始め、英9艦隊、仏3艦隊、蘭4艦隊、米1艦、計17隻から成る四カ国艦隊。総砲門数288門、兵力5000人の上陸兵。
これに対し長州守備は
前田台場を総監赤禰武人指揮下の奇兵隊、長府藩報国隊、壇ノ浦台場を軍監山県狂介指揮下の奇兵隊、膺懲隊、新地に馬関総奉行の藩兵、彦島を荻野隊と長府藩兵、総勢2000、各種旧式大砲120門であった。
快晴の下関海峡に砲声が轟きわたる。前田砲台はたちまち沈黙した。
(8月5日)井上、敵が上陸したら小郡で支えると申し出ると受理され、第四大隊をもらい受け小郡代官に任命。 高杉、急遽罪を許されて政務座役に再任。井上、伊藤と共に小郡へ出張する。
(8月5日)勝海舟、龍馬、神戸に降りて来た中浜万次郎と再会。はつみらの出立を聞き頭を抱える。
(8月6日)龍馬、一晩考え抜いた結果、はつみ達の後を追わせてほしいと勝に申し出る。
詳細

池田屋事件を経て、勝が幕府から、慶喜から睨まれている状況は分かっている。 大義の為には見ぬ振りも必要だという事も分かっている。 しかしそれでも、あの子を放っておく事は出来ないと。 何かあった時は腹を切って一切の責任を負うと言って深く頭を下げる。
勝、四カ国連合と長州の様子をしっかり報告する事を条件に龍馬を送り出す。 英国は一度薩英戦争で実質『失敗』を経験しており、今回の連合艦隊はそれも踏まえ 『絶対に失敗できない』という状況でもある。長州が痛手を負うであろう事は 安易に想像がつくが、はつみの話が本当であれば『侮れない人物』がいるのも事実であり、 見方を変えれば『両者の実力値を客観的に得られる絶好の機会』である事は間違いない。
今の日本には、とにかく海外勢力の正確な情報が必要なのだ。
「無茶しやがってよぉ…絶対に捕まったりするんじゃないよ、龍さん。 俺ぁまだまだあんたとやりたい事があんだからよ」
龍馬、闇夜に紛れ身一つで神戸を後にする。

(8月6日)下関戦争。朝霧が晴れるのを待って壇之浦に集中砲火が行われた。
10時、2000の外国兵が前田に上陸。長州兵は頑強に抵抗を見せ、日没まで陸戦を繰り広げた。 しかし守備兵はついに陣を捨て、長府へと後退する。
(8月7日)長州兵は昨日の戦闘で力を使い果たしたかの様に動かない。 外国兵は海兵隊、雑役隊を上陸させて砲台の破壊や大砲の鹵獲に忙しく、砲声も銃声も起こらなかった。
(8月7日)小郡代官所に世子定広が駆け付け、会議が行われる。
詳細

世子、前田孫右衛門、毛利登人、山田宇右衛門、渡辺内蔵太、大和国之助、波多野金吾、 井上聞多、伊藤俊輔、高杉晋作が狭い部屋に顔を突き合わせる。 政府方が口を開くと、一か月かけて和平交渉の説得を続けて来た井上聞多が「それみたことか」と嚙みついた。
「外国と和を講ずるほかあるまい」
「焦土と化しても攘夷を行うと決議したではありませんか。今更何の面目があって和議を説くのですか。」
「手を尽くして国を救うのが臣子の分。いたずらに討ち死にするのが武士道ではない」
「…っ!?!?」
まさにその為に散々走り回っていた井上聞多だけに、血相を変えて部屋を飛び出す。 高杉が部屋を覗くと短刀を逆手に持ち腹を切ろうとしていた。 驚きこれを諫めていると、政府方が『世子がお呼びです』と言ってくる。行かぬと言うがしつこい。 井上を引きずって席に戻るが、その井上が世子と大議論を展開した。
流石の高杉も改めて井上を隣室へと連れ出し、和議にしようと説得する。井上は世子や政府方へ 言いたい事を言い終えると、講和使節の適任者として高杉の名を挙げた。 これまで『再三』会議を重ね猶予を貰った自分や伊藤では最早信用してもらえない。 かといって他に気骨のある者は高杉の他にはいない、と断言する。
世子はこれを即承諾し、井上の進言する通り、高杉を一時的に家老へと召し上げた。

(8月7日)高杉、家老首座宍戸備前の養子・宍戸刑馬として、講和交渉正使を命じられる。 杉徳輔、渡辺内蔵太が福使、井上聞多と伊藤俊輔が通訳として同行。夜、小郡を出る。 世子、20キロ西の船木御茶屋へと陣を進める。
(8月8日)はつみら、芸州広島藩・呉に到着する。
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数日前に瀬戸内海を四カ国の大艦隊が進んでいき、 更にはすでに下関で砲撃戦が始まっているとの話題で持ち切りであった。 興奮気味な巷の人々の話を聞きながら、引き続き厳島参拝と称して廿日市へ向かう。 長州に同情的な姿勢も見せる広島藩には協力者もおり、呉にいる内蔵太や柊の顔見知りや 同志らの協力を得る事ができた。そこからは徒歩で長州藩・岩国を目指し、宵闇に紛れて国境を越えた。

(8月8日12:00)魔王高杉、宍戸刑馬として英国旗艦ユーライアラス号乗船。第一回講和談判。 書類に外国慣例上の不備があり、48時間の猶予が認められる。
(8月8日)高杉と伊藤、国際法に則った書類に必要な藩主署名の直書をもらう為世子のいる船木へ向かう。 この時船木代官・久保断三が危機を告げてくれた。『長府藩・報国隊の連中が講和に反対し藩政へ迫った所、 政府方は高杉、井上、伊藤に責任転嫁して言い逃れをした為、連中は高杉達を狙っている』との事。 高杉と伊藤は久保から公金100両ずつを受け取り、闇夜を有帆村に逃れ潜伏した。
「毛利はもうだめじゃ。毛利の子孫を連れ出して一旗揚げようか」と高杉は長嘆息した。
(8月10日)第二回講和談判。高杉(宍戸)と伊藤は病欠という事で出席しなかった。
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井上、談判後、自身の安全も顧みず世子がいる船木へ単身急行。世子にはこの四カ国連合との講和談判が 決してあまいものではない事、それこそ武力行使となれば長州は焦土と化す可能性がある事を説き、 「講和会議の席に付いたからといって必ず講和が成るものではない。」
「しかるべき人で対応せねば外国人たちを納得させる事はできない。」
と覚悟させた。長州政府、壇之浦に布陣していた奇兵隊、膺懲隊を宮市へ転陣させる。 (兵を下げ外国側への戦意が無い事を示したか、幕府側を警戒したか)

(8月11日)はつみら、長州岩国に到達する。
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途中、内蔵太がおぶさってくれる。傷云々というよりも、2か月殆ど安静にしていた病み上がりのはつみに 道なき道を行く徒歩移動はやはりかなりの負担であった。元々少ない体力が更に落ちているのが明白だった。 背中の傷といえば時折ひきつり、背中を庇おうとして体の至る所にも不自然に負荷がかかる。 岩国は長州の中でも少々事情のある領地であった為内蔵太たちも足を踏み入れた事はなかったのだが、 特に何事も無く安定した山陽道を進み、大八車や駕籠を用いて防府三田尻を目指す事ができた。

(8月11日)井上、山県半蔵らと共に有帆村潜伏中の高杉らを連れ戻す。
(8月11日)乾、土佐大目付を兼任
(8月13日)小松、禁門の変、長州征討、四カ国連合艦隊長州戦争など、国難に対し打ち合わせる必要から 急遽鹿児島への帰藩を命じられる。別れの挨拶を受けた近衛卿父子は驚き引き止めるが、 小松は国許の命に背く訳にはいかず、よって近衛自ら久光に正式な書簡を発した。
『小松は朝幕間にとって最も重要な人物であるため一刻も早い再上洛を求める』
(8月14日)第三回講和談判。
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講和条件
・下関海峡解放、通航の自由と薪水補給の為の下関開港・寄港許可
・砲台の構築及び修築の停止
・賠償金請求
高杉、3つめの『賠償金請求』に関して頑強に反対する。そもそも攘夷を帝に上奏したのは将軍であり 長州はそれによりもたらされた勅命に従ったまで。故に賠償請求についてまずは幕府に責任があると主張。 これが認められ、賠償金に関しては幕府との交渉に委ねられる事となった。
講和条件とは別に、英国からの彦島租借要求にも断固拒絶する。
かくして講和談判は終了となる。
アーネスト・サトウ曰はく
「長州人を破って以来、我々は長州人を友好的に見る様になり尊敬の念すら抱き始めていた」
横井小楠の「外交論・第一義」、はつみが常々話していた「国際法に基づく外交思想」などが 高杉によって実現された瞬間であった

(8月14日)村田蔵六、外人応接掛に任命。下関に入る。

【龍馬】愛ある叱責


山陽道を進んでいたはつみ達一行、徳山(長州支藩)で三田尻行の船を探している最中に 同じく山陽道で追い付いて来た龍馬と合流する。(神戸から徳山まで山陽道約380km。8日で踏破の健脚!)
龍馬、はつみが無茶をするのはもう分かっている。だが相談もせずに飛び出した事を叱責した後、抱き締め、同行する。
(8月15日)下関では外国人の要求により、時間を定めて外国人の為の市が開かれる様になる。
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また外国人の安全を絶対的に保障する為、下関港近辺に定められた外国人遊歩区では至る所で 警備が徹底され、奉行所を始め奇兵隊員等も動員された。
サトウが「好きな時に一人で自由に散歩ができる程、安全な日々を過ごした」と記す程、安全保障された。

(8月15日)夕頃、はつみら、三田尻に到達する。
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ここに来るともはや内蔵太や柊と蛤門を戦い抜いた 多くの同志らとも再会し、より詳しい情報や協力を得る事ができた。下関では既に講和会議が進められており ひとまず休戦状態にあるという。急遽下関へ向かう船を調達する事ができたが潮の関係で今出るのを 逃すと次は明日以降になると言う。一行はこれに飛び乗り、下関到着を目指す。

(8月15日)勝海舟、風紀乱れる海軍操練所及び勝海軍塾に塾中掟を発布する。
(8月16日)講和協定の署名書が連合軍に渡される。
(8月16日)夜、はつみら遂に下関に到達する。関門海峡を越え壇之浦砲台などを横目に下関港へ入る。
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遠目からも四カ国艦隊の威圧感は凄まじく、小型の蒸気船が方向を変えゆっくりと近付いてくるのを受け はつみ達も総出で手に松明を持ち、出来る限り周囲を照らしながら長州紋の旗を半下。 すると小型蒸気船は引き返していった。

(8月16日)夜。内蔵太、予め示し合わせていた白石邸へ直行し『鬼椿権蔵』の名前で伊藤を呼び出す。
一度目は応じず出て来なかった為、『池内蔵太の名前を伝えてくれ』と改めて取り次ぐと伊藤が出て来た。

【高杉・伊藤】鬼椿権蔵


再会を喜ぶのもそこそこに、既に高杉によって講和協定が成立した事に安堵する一行。
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何故彼女を呼んだのかと問う高杉に、英国通訳アーネスト・サトウがはつみと知り合いだと聞いていた事や、長州が焦土にされるかも知れない中で藩の対応があまりにも不甲斐なく、しかしそれでも長州を守る為には小さな一石でも用意していたかったと率直に述べる。はつみは「ここまで来ておいて何だけどサトウとはただのペンフレンドなだけでそんな力などない」と言うが、「それでも君は特別だから。僕は英国を見て、物の見方、考え方全てが変わった。それよりも一年も前に聞いた君の言葉を何度も思い出していた。サトウ殿と知己であるという事が何らかの機会を設けてくれるかも知れないと期待せずにはいられなかったんだよ」と述べた。

(8月16日)積もる話はあるが、まずは皆、旅の疲れを癒してくれ。と言ってしれっと去る高杉。

【お万里】えすてさろん・びゅーてぃーはつみ


はつみ、風呂を用意してくれたと聞きお万里を誘って一緒に入る。 娘の身でありながら懸命に歩き通したお万里も疲弊していたが、よくはつみを気遣ってくれた。 はつみ、お万里をマッサージする。風呂場から聞こえる声に唖然とする男達…

【内蔵太】清貧の志士


はつみが風呂上りに部屋へと戻った際、フと、内蔵太の肩口に血が滲んでいる事に気付き引き止める。
詳細

「どわぁ!き、急に近付くなちや!」
股間を押さえ飛びのく内蔵太。構わず訪ねると、禁門の変で受けた傷が開いた様だった。大した事はないという。 まともな手当など受けていない様子。それなのにはつみを迎えに来ただけでなく道中おぶさってくれたり 人一倍助けてくれた。はつみ、傷の様子を見る。去年秋に初めて襲撃に遭って以来持ち歩いている 消毒用アルコール(高純度焼酎)に、用意してもらった熱湯と清潔な布を使って応急処置。
「傷口から化膿するのが一番大変。ちゃんとお医者さんに処置してもらってね。明日また消毒してあげるよ」
とお節介。その応急処置の様子、衛生概念をしっかり見届けるお万里。
(彼女はいずれウィリス医師のもとでナース見習いとなる)
手当てをしてもらえるだけで、もうたまらない内蔵太。

(8月17日)朝。サトウとの面会を要請し受け入れられた伊藤はユーライアラス号に乗船していた。

【サトウ・伊藤】Unexpected opportunity.


すっかり打ち解けた様子の二人であり、サトウは昨晩現れた三田尻からの小型船から上陸した者が女性を含む小一団であったとの事について『上層部の家族団体だったのか?』などと興味本位から訪ねる。伊藤はまさにその事で話があってやってきたと言い、先日やってきたのは桜川はつみである事、彼女は先だって襲撃を受け背中に重傷を負い暖かい湯に浸かる事で治療を促す『湯治』を行い、京周辺での戦禍は免れていた様だと伝える。

【シーボルト】meet again.


一方はつみ達。ここまで来たはいいが高杉が史実通りに自力でまとめてくれた為にはつみの出番は無い様に思われた。…が、講和会議の経緯や、異国人が港を練り歩き台場を視察し、市を利用する様子などは非常に興味深かった。外国人の為に開かれていた朝市を見学中、英国通訳官アレクサンダー・シーボルト、英国カメラマンフェリーチェ・ベアトと再会、歓喜する。

【高杉】邂逅


はつみらが白石邸に戻ると伊藤と高杉が来ており『鬼椿権蔵殿に会いに来た』と早速イジられる。昨日の高杉ははつみ達を気遣っていたのか随分他人行儀な雰囲気であったが、それは勘違いであり、むしろ今日の高杉は機嫌が良さそうに見えた。 伊藤がサトウとの面会を取り付けたと報告してくる。素敵な招待状。
(8月18日)高杉、政務座役馬関応接掛。井上、伊藤、楊井謙藏、馬関応接掛
(8月18日)はつみ、サトウの招待を受け旗艦ユーライアラス号に乗船。文通相手であったアーネスト・サトウと初めて対面する。

仮SS/【サトウ】First meeting. … EP1EP2EP3


仮SS/【高杉・龍馬】似た者同士


First meeting. etc


(夜皆で宴。シーボルトのリクエストで、おもいでのふわふわパンケーキを作る。大量のメレンゲ作り)
(8月)

シーボルトのピアノ


老シーボルトのピアノ。はつみが知る『現代』においては日本最古とされていた。
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はつみ、シーボルトの父が長州人にピアノを贈り、それが日本最古のピアノとして見つかった事を記憶しており、その事を伊藤に打ち明ける。
「熊…という豪商でシーボルトからピアノが贈られているらしい。『西洋の琴』と言われている」
「オールコック公使についている通訳官はシーボルト氏の息子である」
「少しだけどそれを演奏する事ができる」
「日本の人々に西洋の文化の一端を伝える事ができると思う。
西洋の人達にとっても長州への感情緩和に繋がるかも。
もしよければその豪商のお宅へ伺いたい。」
伊藤はその豪商と物体に心当たりがある様で、すぐさま内々に取り掛かってくれた。熊谷家は萩の豪商で勤王志士への支援を行っており、熊谷家に松下村塾生含む志士達が集う事もあった。攘夷が盛んになった背景からピアノを意図して隠している可能性もあった為、目立たぬ様単身、萩・熊谷家へ向かう。) 3日後、萩から船で熊谷家五代目当主の五一とスクエアピアノが下関・白石邸の離れに送られてきた。
シーボルト事件の少し前、熊谷家四代目五右衛門義比が老シーボルトから友情の証として授かったという。義比は亡くなり現当主は五代目・五一という。長州人よりも外国側でちょっとした騒ぎとなり、公使達まで下船してピアノを見学し、内部を覗くと、老シーボルトの直筆サインが書かれていた。
「我が友、熊谷へ別れのためにDr.フォン・シーボルト 1828」
オランダ語の為はつみには読めなかったがシーボルトがこれを読み、泣いてしまう。老シーボルトより贈られた1828年から弾き手もおらず数年が過ぎていたが、熊谷家で大切に保存されていた為、調律すればすぐによい音を出す様になった。

【シーボルト・サトウ・オールコック】Remember Nagasaki.(公使へ報告)


調律には、はつみと共に英国海軍からピアノ経験のある兵士が派遣され行われる事となった。
詳細

多くの外国人兵士達が建物の外、あるいは窓の外からその様子を見守り、サトウとシーボルトが間近で立ち合っていた。はつみが試しに一曲弾くと大変な盛り上がりを見せた。彼らにしてみれば驚くべきことに、はつみは紙と共に先日サトウからもらった鉛筆を取り出し、譜面まで書きはじめる。『1日頂ければ、即席だけど何とかお披露目できるかも』と言うはつみの言葉を受け、サトウとシーボルトは英国公使へ報告した。四カ国艦隊はこの日出航予定でいたが、日本人が弾くピアノに深い興味を示し、また、当時14才にして長崎へ来日し、15才にしてたった一人日本に取り残され、母国ではない英国公使館付きの通訳官となり、以後通訳としてオランダ語仲介を廃止させるなど英国公使館への素晴らしい実績を打ち立てて来た若きシーボルトへの労いも込め、滞在を1日伸ばす事が決定された。他の三か国も同様の興味を示した模様。サトウとシーボルトは珍しくハイタッチをして喜び合った。

1日時間を貰い、覚えている楽曲、弾けそうな楽曲を練習する。
一先ずメモ程度の楽譜を書き、歌詞も書く。サトウにもらった鉛筆で。
歌詞を英訳にしたら面白いのではと、英訳もしてみたりした。
途中、月琴を用意してもらったお万里ともセッションを試みる。楽器も楽譜も全く違えど『音感』は共通であったし、お万里には絶対音感が備わっている様であった。お万里ははつみとの『せっしょん』を心から楽しんでいた。
一方はつみ、ピアノは幼い頃から習っており、現代においては幼児教諭を目指していた関係もあり『ヤハマグレード』では4級を取得済みで3級を目指す所であった。指の鈍り、譜面の正確さやクオリティはこの際別として、早い段階からなんとか形にはなってきている。
龍馬ら一行と高杉、伊藤が付き添い、サトウ、シーボルト、ウィリス、ベアトもその様子を見学し、あるいは撮影したりした。

途中奉行所の役人が来て「西洋の音頭はやめるように」と忠告してきたが、サトウとシーボルトが『このピアノが父親と長州の友好の証である事、外国人がピアノの音色に祖国を想い馳せ喜んでいる事』などを伝えると、あまり民らを刺激しないようにとだけ言って通常警備へと戻っていった。奉行所は外国人への対応で強く出られない節もあり、少々不満そうではあった。(後に恭順派台頭した際のあたりが強くなる)

【龍馬】近くて遠い


龍馬、はつみの手を揉む。はつみが今までで一番遠く感じる。気分転換のなぞなぞ「近くて遠いものは?」「蕎麦屋!」)

【高杉】まるで『女装』


聞きなれぬ音色に導かれ、白石邸の周りに人だかりができる。奇兵隊が周囲を警備した。高杉が白石にはつみの為の着物を用立てさせ、それを着て演奏する事になる。

【内蔵太・伊藤・寅之進】惚れた好いた


内蔵太ははつみの着物姿を初めて見る。伊藤はお万里が気になっている。
詳細

『はつみは高杉が惚れている』為に割り切っているとする伊藤。 はつみ人気に愕然とする寅之進。一方でお万里の好意には気付いていない模様。
柊はこれ以上慣れ合うつもりはないといって去っていく。 はつみや、尊王攘夷に対する気持ちが複雑すぎる故。

【内蔵太・柊・陸奥】同士(安井息軒門下)


内蔵太が柊を追いかけた所へ陸奥が合流し、江戸・安井息軒門下生の会合が成る。
詳細

陸奥の吉原通い破門事件など一通りイジった後、『尊王攘夷』と『開国』について話し合い、柊は『少し一人で考えたい』として去っていった。内蔵太はその背中に向けて平然と待ち合わせ場所を告げ、「俺はとりあえずはつみの晴れ舞台を見てから行くき」と真っすぐな姿勢でいた。

音楽は国境、そして時代を越えて


翌日、朝の涼しい内に港へピアノを持ち出す。噂を聞きつけた多くの外国人が上陸し、または小舟で港近くまで漕ぎつけていた。 長州人は子供から老人まで大勢集まっており、藩政のもとしのぎを削り合う思想とは裏腹に、多くの人が西洋楽器による音楽会に興味を示している様だった。
詳細

宍戸刑馬(高杉)、伊藤、井上、アレクサンダー、サトウら外交官が最前列に招待され、公使も艦長や提督らと共に上陸し、遠くの安全な場所から見学している。熊谷家六代目当主五一は目立つ事を考慮し招待を辞退していた。
長州とオランダ、イギリスを繫ぐピアノに思いを込めてと表し、演奏。
どこからともなくルシが現れピアノにとまる。
ピアノの日除けの為寅之進が傘を持ち、タイトルを日本語と英語で書いた紙を曲ごとにお万里が掲示するスタイルをとった。
・ショパン/華麗なる大円舞曲
・海の街(はつみの大好きなギブリ映画から。)
・世界と約束(はつみの大好きなギブリ映画から。語り引き。禁門の変の後だった為、多くの人々が惜別の想いのもと涙した。)

【シーボルト・サトウ】Lose one's heart.


また泣いちゃうアレク。ウィリスに「かつては彼女に母のぬくもりを重ねていたかも知れない。でも今は…」と吐露する。
(8月22日)四カ国艦隊が2隻を残し他全て横濱へ引き上げる。はつみらもユーライアラス号に同乗。途中小舟で降ろされ、姫路藩へ上陸。
その後神戸海軍操練所へ戻った。

外交官のたまご


(8月)サトウはバロッサ号に移り長州に残る。もう一隻はフランス艦。フランス艦もすぐに引き上げ、 サトウを乗せた英国軍艦一隻のみ、更に半月ほど残留する。護衛も付けないで済む程穏やかで友好的な滞在。

【勝・龍馬】帰還


勝からめちゃくちゃ怒られる。しかしその後は非常に興味深そうにはつみらの話を聞いた。
(8月)伊藤、『商人』とする何者かを2人つれてバロッサ号に乗船。 だがサトウ曰はく「伊藤らの接し方からして明らかに商人ではない(恐らく藩主もしくは世子)」。
(8月)乾、『屏風囲い』にて武市を尋問。冒頭で『疝気』を見舞う。武市、この頃から腹痛{腹部のガンと予測}に見舞われている。
(8月28日)小松、鹿児島に入る。禁門の変を鎮めた功によって、感謝状、刀一腰、馬一頭を賜る。
(8月29日)高杉、石州堺軍務管轄。村田蔵六、政務座役事務掛。
(8月30日)幕府、長州藩主父子の官位、将軍偏諱の剥奪を発令。(この報は10月23日ようやく長州に入る)

【龍馬】兆し


龍馬や中岡が寄宿している京・河原五兵衛離れ宅にお龍の母親が住み、お龍が顔を出す様になる
詳細

ついにあのお龍が現れたと注目するが、龍馬はまったく意に介さない様子である。そこはかとなく訪ねてみても「ああ、あの娘さんかえ?」と名も知らない様子である。
これから知り合い親しくなっていくのかと引き続き注目するのだが…何時まで経っても龍馬にそのような素振りは見られなかった。

(8月)山口政府、下関の重要性に鑑み、下関各地を領地とする支藩の長府藩、清末藩に別の領土を与え 下関を萩藩支配地として統括しようと試みる。金の成る地故に長府藩は渋り、三万石の替地を要求。 あまりの高にこの交渉は一時お預けとなった。
(8月)下関、英国はじめ外交商船との密輸現場となる。武器など大量に搬入。 (高杉など無論承知であり下関で監督業務を行う)
しかし小倉藩がこれを見ており、以後、長州が武器購入を行っている等の情報が幕府へ逐一届けられる。
(9月)勝海舟、得体の知れぬ匹夫を雇い幕府の海軍を私物化している、などと保守派に睨まれていたが
海軍操練所の人気は高く、先日の横井小楠に続き大阪町奉行松平信敏からも家臣を預かってほしいとの 申し出があった。
詳細

人気はあるが海軍操練所に入れるものは『幕臣や諸侯の家臣など、身元が保証された者』であり、 龍馬ら浪人は正式には海軍操練所には属しておらず勝塾生として活動していた。 この頃勝が「幕艦観光丸乗組み仮御雇ならび手伝いの者」を文面にて示した在塾生は以下の通りである。
―仮御雇い―
・松平三河守家来道家帰一
●勝安房守家来黒木小太郎、多賀松太郎(高松太郎)、千頭義郎(千屋虎之助)、近藤長次郎、 新宮井樹(新宮馬之助)、鵜殿豊之進(白峰駿馬)
―御雇手伝い―
・津軽越中守家来工藤菊之助
・九鬼長門守家来前田又太郎
◆勝安房守家来横井左平太、横井忠平、岩男蔵之允
●…勝塾生(浪人)
◆…横井小楠親族

(9月)小松、更に役料高500石御加増を受けるが、国難にある為として奉献申し上げ辞退する。
(9月)小松、京近衛卿の要請に従い、上京する。
(9月)桂、潜伏中の出石に会津藩士と桑名藩士の姿ありと報告を受け、城崎へ避難する。
(9月)長州藩主の親論を布告。武備恭順親論。『幕府には誠意恭順をつくし、情理を明らかにして弁明するところ。 それでも防長へ乱入してくるに及んでは、死を以て鴻恩に報い奉らんのみ』
(9月5日)新選組、近藤自ら隊士募集の為江戸へ下る。
(9月5日)土佐、清岡道之助ら野根山23士、斬首
(9月5日)伊藤ら長州藩士4名、アーネスト・サトウが乗るバロッサ号に乗船し横濱へ向かう。 これにより、下関に現れた外国艦は全て横濱へ帰った。
(9月)長州、再び俗論派(恭順派)台頭。
(9月8日)岩国の吉川堅物が山口に出てくる。 京師動乱の『責任者』三家老を処分して朝廷幕府に一意恭順の意を示せとの意見。
(9月9-14日)伊藤ら、密かに武器貿易の発注を行う。 これをフランスが聞きつけ幕史に耳打ちし、幕史はフランスに逮捕する様頼むが流石にこれは断った。 この一連の事を耳にした勝海舟は日記に記しており「自らの手を汚さずフランス人を使って長州を 征しようとする『国賊輩』である」と痛烈に批判している。
(9月14日)、幕吏やフランスが手を打つ前に伊藤らは再び英国艦ターター号に乗り、長州へ帰って行った。
(9月11日)乾、後藤、武市尋問。東洋暗殺、盟、井上暗殺、本間暗殺等について。
質問は殆ど退助が行い、後藤は盟の事に少し口出ししたが殆どじっと観察。 この尋問を期に、武市は『下へ落とされる(格下げされて拷問適応とされる)』事を覚悟する。
(9月15日)勝、西郷吉之助・吉井幸輔と会見(長州征討、神戸開港、帰府について)
(9月)勝海舟、西郷に龍馬を引き合わせる

【西郷・海軍塾】


(9月)英オールコック公使、下関戦争の責任を問う為ラッセル卿から召喚(帰国)要請
(9月)『正義派』奇兵隊、膺懲隊、御楯隊と七卿御用掛野村靖之介が連名で政府に上書。 武備恭順の親論に沿う様訴える。
(9月)高杉、石州堺軍務管轄を解任される。翌日、政務座役辞表提出。菊屋横丁へ戻る。
(9月22日)幕府と四カ国代表、下関戦争の賠償金について幕府が払う事で即決
(9月24日)武市、自らのため毒薬を入手する。併せて弟田内衛吉への毒薬の差し入れを依頼。
詳細

獄外参謀島村寿之介は武市の服毒に異を唱え、士節を全うし『拷に死すべし』と言う。
それは『拷問』というものを考えればいかに難しい事か、毎日死ぬ間際の色んな拷問を繰り返されれば 舌を噛み切るやもしれぬ。と武市は返している。体力があれば堪える事もできようが、ふんばりも効かぬ 立ち上がる事にも苦労する病の体では耐えられないかも知れない、という思いがあった。
病による激しい下痢のため、出廷できない日も増えてきていた。弟田内衛吉もまた疝気気味であった。

(9月)桂、再び田結庄町角屋喜作方へ潜伏。 市井の人々にも気さくに応じるのだが、あまりにも品があり凡人ならざるその人柄に誰もが 『敬礼盡さざるなし』状態となるため、寧ろ人が集まったり噂になってはいけないとして 交際を控える様、廣戸兄弟から進言される。桂はこれを受け入れ、顔見知りの者とのみ会う様になった。
(9月25日)井上聞多、俗論派の刺客に襲われ重体。気丈にも毎日のように武備恭順を説き続けていた。
(9日26日)周布政之助、突如自決。 長州を今日の危殆に追い込んだ責任を痛感しており、ノイローゼ気味だった。
(10月)桂、潜伏地に桑名藩士来た為避難。弘瀬兄弟親戚大塚屋の周旋で西念寺に入る。 近くに料理で渡世する大塚屋新平という者がおり、桂を見て凡人ならざる人物と見抜き 以後桂の世話を親切におこなった。
また、世間の疑惑から逃れる為度々湯島村の温泉などへ行き姿をくらましたりする。
(10月5日)高杉、長男・梅之進うまれる。
(10月8日)神戸海軍操練所、将軍家茂巡察の記念碑を建立する。
(10月9日)俗論党政権進出。正義派の大多数が解任および謹慎等の処分を受け、俗論派が要職に就く。
(10月10日)奇兵隊総監赤禰武人、辞表を出す。勝手に和議を結んだ藩への不満と山県狂介との軋轢。
(10月)長州密貿易に関する幕府とフランスの対応が勝の耳に入る。 自らの手で長州のケリをつける訳でなく諸外国をも利用しようとする幕府の姿勢を痛烈に批判。
(10月19日)奇兵隊、膺懲隊、三田尻から周防佐波郡徳地へ転陣。赤城武人、本陣に戻る。
(10月21日)各地諸隊総督を招集、解任。諸隊解散令。皆応じなかったが、肝心の扶助は当然停止される。
(10月22日)鎌倉事件
(10月22日)勝海舟、大阪城代松平信古から江戸帰府の要請が下る。
(10月)中浜万次郎、鹿児島へ向けて大阪を発つ。

【龍馬、勝】(英国土佐訪問打診)


はつみ、勝の江戸帰府に伴い横濱行きを希望する。
詳細

先だっての長州にて交流を深めた英国外交官と再度会い、土佐への訪問を打診する計画。龍馬は今塾頭として神戸海軍塾を離れられない。はつみ、寅之進、陸奥が勝に同行し、神戸を発つ。

(10月24日)長州、宍戸九郎兵衛、中村九郎、佐久間佐兵衛、竹内正兵衛、野山獄へ投獄。他多くの『正義派』が解任・謹慎など申し付けられる。高杉父・小忠太も解任・謹慎となった。
(10月24日)勝、大阪にて目付徳永主税から江戸の保守派勢の台頭について忠告される。

仮SS/【寅之進・陸奥・勝】(英国土佐訪問打診2)


「おいお嬢。どう考えてもきな臭い風が吹いているみたいだが…大丈夫か。」
(10月25日)高杉、筑前へ向け脱走。長州諸隊と俗論討奸をはかるつもり。
今回は妻雅子にもしっかり言い含める時間はあった。
同日、井上を見舞う。
(10月27日)俗論政権となった長州藩庁、萩へ戻る。
(10月27日)高杉、いなかの神官の格好をして町を抜け出す。南へ一里半、柊村で身なりを戻し駕籠に乗る。 佐波軍徳地の奇兵隊陣営に赴く。山県狂介と片野十郎が逗留を勧めるが、去る。
(10月28日)はつみ、横濱着。勝と共に下船し、通行手形を発行してもらってから別れる。 横濱の町を回りながら英国公使館を探していたところ、サトウがはつみ一行を見つけてくれた。

【サトウ】Feel out.


サトウの宿舎に招かれる。土佐訪問打診
詳細

問題があるとすれば、土佐の二本差しの者には『攘夷』を遂行しようとする危険な輩が多いという事。
幕府の役人は幕府以外の大名が必要以上に西洋人と交流する事を望まない、好ましく思っていないという事。
そして最も残念なことに、現公使のオールコック公使は近く本国へ帰還するという事であった。
「オールコック公使が……」
「後任の公使、または公使が来る間の代理公使もまだ決まっていない状況です。地域における情報収集等ある程度のやり取りであれば私が単身で動くことも可能ですが、基本的に全ての外交は公使と本国によってその可否が決定されます。なので…」
「いえ、公務の事ですから…致し方ない理由である事、納得しました。英国側の事情も知らず、不躾に無理を言ってしまってすみません。」
だが、はつみからの申し出は正直とてもよいサプライズであった。実際に至る前の打ち合わせや情報交換など今後も擦り合わせて行きたいというサトウに、はつみは出来る限りの笑顔で首を縦に振る。
土佐の話とは別件だが、長州が英国に近付いている事をフランスが察知しており、その事を幕府に通報し幕府からフランスへ違反者の逮捕を要請する一幕があったらしいという情報が軍艦奉行勝海舟の元に入っている事を伝える。又聞きの話で詳細については知るところが無く申し訳ないのだが念のためご一報。サトウは至って冷静であり、詳細は話せないが思い当たる節はある、大変感謝すると述べた。
偽名は使わなかった。正直はつみと陸奥はの偽名はセンスが疑われるものであった為ほっとした。

ホテルに入る。次の公使がいつ来るか分からない。それを待っていたらきっと間に合わない…と目を伏せるはつみ。

【寅之進・陸奥】第一の目的


(10月29日)高杉、下関白石邸に潜伏。
(10月29日)サトウから夕食の招待状が届く。公式ではないが公使が夕食を希望しているとの事。寅之進、陸奥も同伴。

【寅之進・陸奥】うぃんどうしょっぴんぐ


プライベートの食事会なのでドレスコードは無いと言うが一応服屋を見て身なりを整える事にした。「どれすこーど…?」陸奥と横濱に来るのはこれが初めて、陸奥が横濱に来るのも初めてだった。

【ワーグマン、ベアト】Part-time job.


ショッピングの道中「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」というオフィスを見つけ、画家のワーグマン、写真家のベアトとの再会に至る。再会を喜ぶ一方、『プライベートだが目上の方との夕食会に着て行って失礼ではない服装』について尋ねる。これに対し、おちゃめなワーグマンがとある『アルバイト』を持ち掛ける。

【サトウ、アレクサンダー】Dinner time.


ホテルの一室へ招かれ、サトウ、アレク、オールコック公使とプライベートな夕食会。女性の社会進出、留学、大学入学の薦めなど。 夕食後、サトウが公使の了承を得、はつみと二人で話したいと申し出て港を二人で歩く。

【サトウ】The real reason.


はつみの真の目的、土佐の事情について話をし、その志についてサトウの理解を得る。だが、武市らの刑期が迫っている事など未来を知っているが故に急いでいた事、自身が未来から来た事などについてはまだ触れていない。

【シーボルト】I fancy that her.


シーボルトとオールコックの会話。馬で帰路を行く最中遠巻きにサトウとはつみが歩く姿を見る。

【寅之進・陸奥】未来日記


宿泊中のホテルに戻った寅之進が日記をつけているのを見て。はつみとの未来。

【サトウ、シーボルト】Rivals of love.


はつみら、定便船にて大阪へ向かう為英国公使館へ行き別れを告げる。手紙の送り先など尋ねられるが、伝えられなかった。
(11月)新選組、江戸での隊士募集時に藤堂の仲介で入隊した伊東甲子太郎一派、上洛
(11月1日)高杉、夕刻頃筑前へ向かう。
野唯人(福岡脱藩・中村円太)同行。大庭伝七(長府町大年寄で白石正一郎の末弟)も同行し 道案内をした後すぐに帰藩した。高杉、『谷梅之助』と名乗る。

【高杉】逃亡


(11月上旬)はつみら、大阪に着く。勝の書状を持って京小松邸・御花畑屋敷へと向かう。
(11月上旬)はつみら、御花畑屋敷に到着。小松に面会。文久3年に薩摩へ誘った事を諦めてはいなかったと喜ぶ。 海軍塾生預かりの件について正式な返答はまだであったが、軍艦の乗り手、英語を話せる人材などは 全国的に不足している事など。

【小松】御花畑に花来る


はつみと寅之進、白蓮へ顔を出す。続けて鈴蘭へ行きお道達の様子を見に行く。陸奥は小松に呼ばれる。 小松、浪人でありさほど実績のない陸奥にも気さくに話しかけ、様々に意見を訪ねる。

【陸奥、小松】頭脳派談話


そこへ龍馬が海軍塾生召抱えの件について話をしに現れる。勝がはつみに言った事、横濱での事。

【小松、龍馬、陸奥】女傑評議7


【お万里・寅之進】


【お道・以蔵】


【沖田】秋月熱に浮く
R15


市内検問をしていた新選組沖田、帰路道中のはつみと再会。海軍奉行勝海舟の門下生として無事通過するも 行き先が薩摩家老の元だと知り眉を顰める。襲撃事件以来はつみが『天狗』だとの疑いは一旦晴れた模様だが…。 沖田の体調を気遣うも、どこかよそよそしい沖田とそのまま別れる。

【龍馬】


御花畑屋敷に戻り、龍馬と再会。
横浜での斡旋活動の不運を慰める。自分も蝦夷の件を諦めていない。(だが武市には時間が無いと心中ではつみ)
一方、お龍とは…?江戸へ向かうなど。
(11月)西郷吉之助、総督府参謀として長州岩国に入る。処分を最小限にとどめる独特の方向。
(11月10日)勝海舟、江戸にて軍艦奉行を罷免され神戸海軍操練所の閉鎖が決定。何の役もない寄合となる。
(11月10日)高杉、月形洗蔵の斡旋で野村望東尼と出会う。大庭と二人平尾山荘潜伏。
(11月11日)長州正義派・家老・益田右衛門之介、国司信濃、切腹
(11月12日)長州正義派・永代家老・福原越後、切腹。野山獄に容れられていた4人の正義派参謀ら斬首。
(11月)長州諸隊、五卿を奉じ団結して「武備恭順」を貫こうと図る。
(11月15日)五卿を奉じた諸隊、下関へ転陣。長府、清末の支藩主に正義の回復を嘆願。
五卿、功山寺に潜寓。
遊撃隊(石川小五郎総督)江雪庵へと転陣。
御楯隊(太田市之進総督)修善寺へと転陣。伊藤俊輔の力士隊も預かっている。
奇兵隊(赤禰武人総督)覚苑寺へ転陣、徳応寺、長願寺に分営。
膺懲隊(赤河敬三総督)本覚寺へと転陣。
八幡隊(堀真五郎総督)清末領小月に駐在。
(11月15日)長州下関田耕村潜伏中の元公家・中山忠光、俗論派により絞殺。
詳細

遺体の処理中に夜が明けた為慌てて綾羅木海岸に埋められたが、翌日掘り起こされ綾羅木丘に埋葬。 病死と発表されるも正義派でこれを信じる者はいなかった。
忠光の側女・トミは長府城下・忠光の従者だった江尻半右衛門宅へ送られた後、 下関白石正一郎弟・大庭伝七のもとへと送られる。 のち、忠光の子供を身籠っている事がわかり実家の旅籠で出産する様戻される。 下関の実家へ戻った後奇兵隊がトミに接近した為、長府藩は事件が暴かれるのを恐れ 再びトミを城下江尻家へと戻した。(出産は5月)

(11月)幕艦『観光丸』にて「幕艦観光丸乗組み仮御雇ならび手伝いの者」として従事していた 神戸海軍操練所・勝海軍塾門下生ら、勝の失脚に伴い自ら願い出て解職。一旦散り散りとなる。
坂本龍馬:呼び返し(帰藩命令)に付き、逃げて江戸潜伏
千屋虎之助:在神戸
新宮馬之助:在神戸
高松太郎:呼び返しに付き、潜むて浪花(大阪)
近藤長次郎:在神戸
沢村惣之丞:在江戸
黒木小太郎、鵜殿豊之進(白峰駿馬)、前田又太郎ら:在神戸のち江戸へ向かう
…など。

【武市・以蔵】歴史の歪み


(11月18日)西郷吉之助、家老3名の首を検し、撤兵条件を示す。
・五卿を九州諸藩へ引き渡す事
・山口屋形(山口政事堂)を破棄する事
・藩主父子は謝罪蟄居する事
(11月18日)中岡慎太郎、長州にて忠勇隊総督を命じられる。
(11月20日)高杉、月形洗蔵から長州の情勢に関する手紙を受け取る。
詳細

『国賊』のそしりをうけた中山忠光も殺され、更には五卿をも引き渡し藩主父子に謝罪の上蟄居などを要求されているとの情報を受ける。何の後ろ盾もない高杉であったが、ただ正義の為には命など二の次。今こそが『その時』だと悟った。
「あなた様が成さねば誰に成し得る事ができましょう」
「うん。昔、同じような事を言った者がおる。『その時』長州に僕がおらねば成る事も成らぬとな。望東尼よ、そもじにはその心がわかるか?」
「…その方には今この時が見えていたのでしょう。あなた様の身内に宿る正義の炎が、それを見せるのです」

【高杉】正義の士


(11月)赤禰武人、政務座役就任
(11月25日)高杉、帰藩するにあたり望東尼から餞別の羽織、あわせ、襦袢と二首の歌を受ける。
(11月25日)長州藩主父子、撤兵条件を受け萩城を出て天樹院に蟄居。
(11月)西郷吉之助、長州への措置を手ぬるいと批判する九州諸藩を説得する為、小倉に入る。
(11月26日)英オールコック公使、本国からの召喚命に伴い解任、帰国の途につく。
(11月)高杉、長府に入り大庭家に一泊。萩政府および五卿、諸隊の動向、忠光の死、その側女・トミの事を聞く。
(11月27日)赤禰武人、萩へ至り藩主へ直言「武備恭順の正義派諸士を再登用するなら自分が責任を取って鎮撫にあたる」
(11月27日)高杉、奇兵隊本陣に入るが呑気な顔をした山県や福田に拍子抜けする。 「赤禰が工作を行っている、その結果を待ってからでもいいと思う」など五卿は正義を貫かんと挙兵した長州正義派を見捨てるつもりはないものの、撤兵条件の一つでもある五卿の九州移遷を巡る薩摩の工作は着々と進んでいる模様。 五卿が潜寓する功山寺へと集中していく。
(11月28日)田内衛吉、『疝気』が重くなり急激に蝕まれていく。(史実上では天祥丸を含み自決した命日)

【内蔵太・柊】偶然の再会


長州俗論派台頭を受け、身軽な内蔵太は柊を誘って東へ出、長州藩に友好的であった対馬藩を中心に情勢探索していた。出石に入った際、偶然桂と遭遇する。

【桂・柊】奇妙な師弟


桂、俗論党の台頭、聞多の遭難や周布の自決、家老3人の切腹、主要人物らの処刑を聞き気を落とす。
詳細

しかし高杉が抜け出し、諸隊も藩政の解散命令を無視し自力で勢力を保ち武備恭順を唱えているのならまだ望みはあるかも知れない。ならば歴戦を戦い抜いて来た内蔵太は長州へ戻ると言いきった。桂は内蔵太と共に戻ろうとする柊に『目や足が欲しい』と言い、召し上げる事とする。かの高名な儒学者・安井息軒のもとで学んだ彼らは志篤く、物事の成り立ちを理解し、また過ちに気付き新たな知識を得て正してゆく精神が育っていた。誰もが認める様な過激な尊王攘夷の志士だった内蔵太は時代の流れに気付き迷いながらもその清貧勇猛な士気を絶やすことなく、己の目で見定めようと刮目している。
柊は己の成長環境から刻まれた劣等感のもと、土佐の武市に盲目・依存し、知性は光るものがあるのにどこか極端で不安定だった。しかし今はしっかりと腰を据えている様に見えた。
内蔵太と柊は協力し、それぞれの立場から長州を支える為、一時的に袂を分かった。

(11月末)桂、柊、廣戸兄弟の実家を頼る。 潜伏先の出石から幾松を心配する。汲んだ廣戸甚助が京へ行き、幾松が下関へ無事逃れた事を知った。
(11月末)龍馬ら海軍塾生、薩摩小松の庇護にて大阪薩摩藩邸へ匿われる。
(11月末)「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」にて、ベアト撮影によるはつみの写真が販売される。 併せて風刺漫画・ジャパンパンチ初期の冊子も再出版され、固定キャラクターとして人気を博した『抑圧されたミューズ』のモデルとして徐々に広く認知され始める。
(12月)武市実弟・田内衛吉、獄中にておびただしい下血と発作を起こし、『病死』。
(12月)長州明倫館、廃止。
(12月)土佐、容堂が土佐勤王党の取調べを見る為入庁する日が増え始める。 これによって拷問は苛烈さを増し、身分を落とされて拷問適応にされる者も増え始めた。
(12月3日)月形洗蔵、早川勇、功山寺を訪ねる。 五卿は長州正義派を慮り「征長軍の解兵と引き換えなら九州行を考慮する」と態度を改める。 長州俗論政府は福岡藩に向かってはあくまで諸隊との対決姿勢を見せておきながら 赤禰達には巧みに言葉をもてあそんで懐柔を試みようとしていた。
(12月4日)中岡、小倉にて西郷吉之助と会談。
(12月9日)村田蔵六、博習堂用掛兼赤間関応接掛。
(12月)池内蔵太、下関で伊藤俊輔と合流。四カ国艦隊長州戦争以来、連絡を取り合う様になっていた。
詳細

以前京で見た、捨て鉢になって酒色に溺れる高杉とはまるで人が違う。講和の際は『真の攘夷』について まだ内蔵太自身が悩んでいた事もあり複雑な思いを抱いてしまったが、今となっては 伊藤達が彼に付いていく理由が分かった気がする。
『長州には眠れる虎、いや猛牛あり』
極めて内々密に桂の無事を伝える。伊藤も歓びに溢れそうになる感情を押し殺し、二人高杉のもとへ向かう。

【内蔵太・伊藤】雷電と共に


(12月11月)西郷吉之助、下関にて月形、早川、赤禰武人と会談。「諸事大幸」

【高杉】剛毅果断、時来たる(11日から14日までの出来事)


(12月11日)高杉、堀真五郎の宿を訪ねたところ野村靖之助(入江九一の弟・松下村塾生)も加わり挙兵の話になる。 意見が合わず掴み合わんばかりの大激論となったが堀が間に入り、結局その日は3人枕を並べて寝た。
(12月12日)高杉、堀、野村、功山寺へ向かう際中、昨日のように同志の間で激論になるのは (運悪ければ斬り合いになってしまい)無益ではないだろうかと堀が言う。高杉は笑って答えた。 「鎌倉時代の武士はこんなもんじゃなかったろうか」
(12月12日)月形、早川、五卿に謁見し九州へ渡る日時を決める様申し入れる。
詳細

五卿、諸隊幹部を収集し大会議を開く。長州正義の回復を見届け征長軍解兵を条件に10日の内に発つと告げた。
高杉、会議が終わって一同振舞酒を飲んでいる最中に飛び込む。 「五卿は正義派諸隊にとって掌中の玉である。俗論政府はそれを引き離そうとしている。 五卿が去れば諸隊を一網打尽にしようと企んでいる。謹慎中の正義派の命を保証するというのも 一時的な誤魔化しである。正義派諸士が処刑される時、福岡その他九州がどこまで長州の正義を助けるのか。
幕府と俗論政府が手を結ぶ前、すなわち今しかない。」

(12月12日)高杉、そのまま下関へ向かい伊藤・内蔵太と合流。
伊藤、内蔵太、即座に「やりましょう」。
詳細

伊藤は力士隊の所へ、内蔵太は自身が所属していた忠勇隊の元へと走っていった。 浪士組で結成されていた忠勇隊は中岡が隊長に任命されていたものの、中岡は現在五卿の身柄安全と 薩摩との間で奔走している。故にその機能はほぼ瓦解しかけていたが、高杉の挙兵に参戦の意思を見せる 石川小五郎の元、遊撃隊へと加わった。

(12月15日~3月)功山寺挙兵・元治の内乱
(12月15日)高杉、深夜。雪。功山寺挙兵
詳細

功山寺門前に集まったのは
伊藤俊輔以下力士隊約60名(太田市之進が力士隊を閉じ込めた為、壁を乗り越えた半数が挙兵に加わった)
遊撃隊総督・石川小五郎、以下、佐世八十郎、山県九右衛門(大和国之助実弟)ら、内蔵太。総勢およそ80名。
高杉が功山寺へ上って行こうとする時、先に大激論を交わした太田や野村らが『議論は違えど』と別盃して見送る。 五卿に別れを告げる為本殿へのぼり、五卿世話役の土佐浪士・土方楠左衛門と久留米藩士・水野丹後らが 煮豆の入った重箱と徳利を差し出す。間もなく三条実美が現れ、高杉は大音声で別れを述べた。
「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます」
山門へ下り馬上より先を見据える。紺糸おどしの腹巻に桃型の兜を首に引っ掛けていた。 奇兵隊の福田きょう平が駆け付け、馬前に膝を付き雪上に両手をつく。 獄中の苦しみをお忘れかと言って引き止めるが
「苦しみを恐れて何ができる」
と、高杉は昂然として隊を進めたのだった。

(12月15)桂、長州の情勢調査に柊を放つ。
(12月15日)高杉ら、遊撃隊と新地会所を包囲。総奉行と面会し小目付らを萩へ送還する事に成功。 高杉ら、伊藤、内蔵太を含む精鋭17名と共に速船で三田尻へ向かい、軍艦拿捕に取り掛かる。
(12月17日)天狗党、頼みであった慶喜本人からの追討軍を受け越前領で降伏。 捕らえられた800人の内まず400人程の首が飛ぶ。(次いで年明け3月に残りの斬首、処刑が行われる。)
(12月17日)長州五卿、九州へ渡る事を決意すると共に、藩主に対し最後の正義回復を勧告する動きを見せる。 三条西季知、四条隆謌の二卿が萩へ向かい、これに奇兵隊が随行し、美祢郡伊佐に入る。 二卿は萩入りを拒まれ長府へ戻るが奇兵隊は伊佐に残り、長府に残っていた御楯隊も後に奇兵隊と合流した。 以後、諸隊は沈黙を貫く。
(12月17日)高杉三田尻に入り「正義回復に同意なら錨を上げて馬関に来たれ」と軍艦明け渡しの説得を始める。
(12月17日)幕府巡見使の先遣隊が萩に入る。下関蜂起を聞き「長州で鎮圧できねば尾州兵を送る」と迫る。
(12月18日)幕府に迫られ慌てる俗論政府。暴徒に奪われるのを恐れ、正義派謹慎中の毛利登人、楢崎弥八郎、 渡辺内蔵太、松島剛蔵、前田孫右衛門、山田亦介、大和国之助の7人を野山獄へ投獄。
(12月19日)幕府に日和った俗論政府、前日野山獄へ入れた7人を一斉斬首。 加えて正義派村田次郎三郎、小田村素太郎、波多野金吾、瀧弥太郎を投獄。
(12月21日)高杉ら、戦闘なしで癸亥丸の拿捕に成功。これに乗り込み下関へ向かう。
(12月22日)幕府巡見使先遣隊、山口及び萩、長州藩主父子の様子を見た上で帰東。
(12月25日)萩藩主、諸隊追討令ならぬ諸隊『鎮静』令。選鋒隊や末家に諸隊の鎮静を下命。 最初『追討』とあった指令所を、後に藩主自ら『鎮静』へと書き直した。
(12月)『追討』令を受けた萩軍本隊、出動する。

【高杉】船上クリスマス(大庭伝七に遺書にも似た書簡を書く)


(12月26日)高杉、癸亥丸で下関に入る。遊撃隊の本陣を光明寺へと移す。 かつて久坂の光明党が本拠にした寺。
(12月26日)高杉、馬関割拠。矢原村の吉富藤兵衛に軍資金借用を申し入れると、即座に一先ずの200両を用立てた。 また、西ノ端の豪商入江和作も惜しみなく援助を行っている。
(12月27日)幕府巡見使の報告を受けた西郷吉之助、遊撃隊の事は見ぬふりして征長兵を解く。
(12月28日)萩軍、伊佐に陣取る諸隊に道を空ける様求めるが、諸隊は動く気配がなかった。
萩軍2000、諸隊700、長州の真ん中で睨み合っていた。
赤禰武人が奇兵隊から姿をくらませ、山縣が指揮を執る。
(12月)下男に変装していた柊、萩にて村田蔵六(大村益次郎)に極秘面会。 村田蔵六、桂小五郎の潜伏先(但馬)について把握。柊、一通りの情報を得、直ちに離脱する。
(12月)薩摩西郷、小松、大久保ら、幕府からの独立割拠と雄藩連合を模索し始める。薩長同盟の兆し。

【龍馬】長州と土佐の違い


詳細

高杉が挙兵した事を聞き、盛り上がる元海軍塾生一党と胸を締め付けられるはつみ。
長州と土佐の違い。長州の藩主は「そうせい公」と言われているが決して優柔不断なだけではなくその心は常に正義派と共にあった。そして彼らに対し常に信頼を示し寛大であり続けた。
その結果、高杉と言う一大傑出した時代の寵児が生まれた。
土佐は上士下士の隔たりの深さは元より、藩政に逆らうものはことごとく弾圧され、武市らの為に決起した23名の有志も有無も言わさず処刑された事は記憶に新しい。才ある多くの者は藩を見捨てて他藩へと抜け出し人材不足も甚だしい。高杉の様に少ない兵でも天を穿つ程の士気をもって立ち上がり、かつ周囲をも巻き込んで改革に挑める者は土佐にはいない。いるとすればそれこそが武市半平太ただ一人であった。
「容堂自身は賢者とまで言われているのに、今を以てすれば土佐下士以下に生まれた志ある者は皆はずれくじを引いたな」と、陸奥が言った。はつみも激しく同意であった。

【小松】ひみつの花園
R15


(12月)小松の御花畑にてはつみから小松だけに長州の件(四カ国艦隊砲撃時の様子と高杉の事)を話す事に。
詳細

龍馬らは大久保といつも通り話合いをし、はつみは敢えて、小松を遊びに行くかの様に連れ出した。大久保ははつみ周りの男関係を鋭く見据えながらも冷ややかに見ぬふりをしている。

小松、はつみから長州の話を聞く。『確かにそいは秘密にせんといかんこつでごわすな…』としつつしっかりと話を聞き、長州の情報把握に努めた。そして小松もここだけの話をはつみに聞かせてくれる。村田経臣らが英国留学へ行く。はつみもどうか?と。あと、近々西郷が結婚する事もこっそり耳打ちで教えられる。はつみもどうか?と。

(12月)英ウィンチェスター臨時代理公使、就任
(12月)桂、廣戸の親戚塩屋重兵衛の斡旋により、住居を許される。 出石町宵田町に家を構え、廣戸の別家と称し、荒物商を開店する。 人は雇わず、直蔵の妹・スミ(13)が炊事および店用に従事した。

●元治二年/慶応元年…はつみ24歳

(1月1日)桂、子供らと花合わせなどして遊び、子供達に菓子などを配る。
(1月1日)中岡、中岡、河原の陣で奇兵隊らと迎春。
(1月2日)高杉、再び新地会所を襲撃。今回の襲撃で実質的な武器食糧を徴発する為だがそれらは既に他所へ運び出されており殆ど収穫はなかった。
(1月)高杉ら遊撃隊、下関中から有志を募りすぐさま100名を越える町民らが集まった。伊藤が統括し『好義隊』と名付け、高杉ら遊撃隊と行動を共にする事となる。
(1月6日)諸隊絵堂攻撃。伊佐で沈黙していた諸隊が不意に絵堂の萩軍を急襲し、陣を大田へと進めた。
(1月7日)御楯隊小郡攻撃。小郡勘場を襲撃、代官を捕らえ物資を奪った。さらに進んで山口へと入る。
(1月)町民、庄屋ら、萩政府の御触れを無視し高杉遊撃隊および諸隊の支援を行う。
詳細

去年功山寺の挙兵以来動転する萩政府は領内に触れを出して諸隊へのいかなる支援も厳禁とした。しかし領民はまったく聞き入れずそれを無視し、諸隊を積極的に支援する。
~例~
7日、小郡の大庄屋・林勇蔵、560両相当の銀を提供
8日、庄屋同盟
地下役人他豪農ら28人が「庄屋同盟」立ち上げ。小郡1万戸、4万人の統一戦線が成る。
林勇蔵「諸隊追討令につき厳重御沙汰なる中で諸隊支援を引き受け申す以上は決死の覚悟」
庄屋秋元新蔵「お家来方でやれないなら私どもの手で百姓一揆をおこして正義を回復しましょう」

(1月10日)井上聞多、湯田にて謹慎中のところ、吉富藤兵衛、秋元新蔵らに救出、迎えられる。 兵数数百人ともなる『鴻城軍』結成
(1月14日)五卿、功山寺を出て筑前へ渡る。中岡追従。
高杉、五卿を見送った後で遊撃隊らを佐々へ進軍させる。
(1月14日)深尾丹波に「武市瑞山上士昇格に便宜を図った」疑いがかけられるが乾がその罪を被って大目付・軍備御用兼帯を解任される。
(1月15日)中岡、五卿、黒崎到着。
(1月16日)鴻城軍佐々並攻撃。鴻城軍、御楯隊が協力し、佐々並に陣していた萩軍を潰走させる。
(1月16日)高杉ら遊撃隊、奇兵隊と共に赤村奇襲。萩軍は算を乱し明木の本営へと逃げ込んだ。
(1月17日)高杉、諸隊と萩へ入る。

【高杉】「回復私議」


(1月)武市、逮捕を受けた時と詮議の重点が変わってきている事を悟る。
(1月)後藤象二郎、大目付役を解かれる。詮議(拷問組)再開。

【武市】覚り


(1月20日)薩摩スチューデントら15名、薩摩・羽島の藤崎家に滞在し英国船を待つ。
村田経臣、留学メンバーとして語学勉強を進めると共に、英語力を活かし責任者五代才助と 船の斡旋者グラバー、その他関係者との応接役・通訳を務める。
(1月20日)長州藩主父子、祖先の霊に対し藩内の擾乱を謝罪するとの名目で祭祀を布告。
(1月21日)諸隊、萩俗論政府から申し入れの28日までの休戦協定を受け入れる。
(1月22日)幕府、長州処分の最終案を上奏。勅許が下される。
(1月)小松、この頃芸妓の琴を身請けし、京御花畑屋敷に住まわせる。
(1月)小松、西郷、鹿児島へ帰る。
(1月25日)萩軍先鋒隊が明木から萩へと撤退。癸亥丸が萩沖へ回航し、空砲を討ち続け威嚇する。
(1月28日)西郷、小松を仲人とし岩山八郎の娘・糸子と結婚。
(1月28-29日)長州藩主、湯田に入り巡視。萩政府、俗論党追放。
(2月1日)中岡、吉井幸輔に五卿待遇改善を求める
(2月1日)萩政府、藩政改革成る。先鋒隊解散命令。 長府藩主、清末藩主、萩城に入る。俗論党専横の罪を問うと共に正義派諸士の登用を進言。 村田次郎三郎、波多野金吾、小田村素太郎、瀧弥太郎ら、野山獄から放免。
(2月)武市の詮議再開する。
(2月)対馬商人・廣戸甚助が下関の幾松を訪ね、幾松は桂が出石に潜伏している事を知る。
(2月)廣戸甚助、村田蔵六より路銀50両を受け幾松と共に出石へ向け出発するも、大阪で博打をし逃亡。 幾松、なんとかして一人で出石へ向かう
(2月)土佐、親族預けの勤王党員を『疑いあり』として次々に出頭命令および入獄させる。
(2月21-23日)新選組、山南敬助脱走および切腹

【沖田】山桜、散る…前編、後編
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(3月)サトウ、横濱領事館付き通訳生から通訳官へ昇格。英和辞典の制作に着手する(明治9年完成)
(3月)長州、明倫館再開。村田蔵六、兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館に入る。
(3月3日)夜。桂、出石にて幾松と再会する。
(3月)村田蔵六、近代軍事専門家・責任者となる。干城隊復興
(3月5日)高杉、表向き『藩主に逆らった逆賊』であるため、自ら『沈滅の人となり、万一合戦が起こった時は直ちに馳せ参じましょう』との姿勢で藩政から退く。参与となった前原彦太郎(佐々八十郎)へ長大な手紙を書く。
詳細

・長井雅樂の航海遠略策から4年間の苦難の軌跡
・防長割拠建策(先に伊藤へ見せた「回復私議」に基づく人事案や諸隊の今後等)
・馬関開港問題(開国派時代の趨勢であり我より先んじて開くべき。その後「浮浪遊説の徒」に注意)
以後、改革直後の政策や人事・軍備などは高杉の助言がほぼそのまま採用される。

(3月8日)容堂、入庁。南会所へ入る。島村衛吉取り調べ。
(3月11日)小松、西郷、上京。
(3月)新選組屯所、西本願寺移転
(3月)桂、帰藩にはやはり廣戸兄弟の助けが必要で、弟直蔵と柊を大阪へ派遣し兄・甚助を捜索させる。
(3月16日) 諸隊、10隊に整理され、萩藩正規軍となる。
御楯隊:大田市之進・三田尻/兵:150のち230
鴻城隊:森清蔵・山口/兵:100のち150
遊撃隊:石川小五郎・須々万のち高森/兵:250のち330
南園隊:佐々木男也・萩のち出雲/兵:150のち200
膺懲隊:赤川敬三・徳地/兵:125のち175
奇兵隊:山内梅三郎・赤間関/兵:375のち400
八幡隊:堀真五郎・小郡/兵:150のち200
南(第二)奇兵隊:白井小助・岩城山/兵:100のち125
集義隊:桜井慎平・三田尻のち船木/兵:50のち120
荻野隊:守永吉十郎・小郡/兵:50
(3月18日)神戸海軍操練所・完全閉鎖
(3月)柊、神戸にて海軍操練所が閉鎖している事を知る。 対馬藩邸で落ち合う事にして廣戸弟と別れ、大阪及び京へ潜入。廣戸兄を捜索しながら情報収集にあたる。
(3月20日)土佐・島村衛吉、『下に落とされ』拷問となる。
(3月21日)新選組、土方、斎藤、伊藤が隊士募集の為江戸へ下る
(3月22日)藩主父子江戸拘引について、広島藩、宇和島藩、大洲藩、龍野藩が幕府への協力を断る。
(3月22日)薩摩スチューデント、英国留学へ向け出港。船を待った2か月の間、薩摩スチューデントの一人が自殺している。
(3月)乾、中岡との手紙のやりとりは続いている。
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京や各藩の動向、大宰府へ移った五卿の事、西郷の人柄など。 昨年の勝の失脚と共に、はつみらが所属していた神戸海軍操練所が廃止となり、海軍塾生はその殆どが操船人員として京・薩摩家老小松帯刀に引き取られた事も知る。

(3月22日)武市親族、出養生願を提出。
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疝気は悪化する一方で、腹のしこりは痛み手足はやせ衰え、背中にはゴツゴツとした骨が張る。詮議の為に少し座っているだけで直ぐに発作(下痢)起こる為、なかなか出廷できずにいた。武市は病死するよりは拷問死・服毒死の方がマシだと考えている。

(3月22日)長州藩主父子江戸拘引について、広島藩、宇和島藩、大洲藩、龍野藩が幕府への協力を断る。
(3月23日)島村衛吉、拷問死。締め木による圧死。
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監察方は最初から殺すつもりかの如く大拷問を行い、武市の耳にもその断末魔の叫びや唸り声、拷問機の音が聞こえた。遺体は親族へ下げ渡される形となったが、藩庁からは『厳刑が予定されていたが山田獄舎へ戻った後病死した。首も落とさず渡す恩情の処置』とうそぶいた説明があった。
この時島村を拷問していたのは野中太内という、過去にはつみを詮議した事もあるしゃがれ声のモラハラ男。今年1月から大目付となっていた。

(3月24日)高杉、伊藤と外遊を志し長崎行。前原から公金千両を受け取る。萩政府が与えた名目は「横濱での英学修行、時世探索」以降は脱藩扱いとし亡命の形を取る。
(3月25日)武市、上番三人から『拷問死』について聞く。
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下横目も含め数年キャリアのある彼らが言うには明白な事実を自白しない時は強い拷問にかける事もあるが、絞め殺した事などなかったとの事。武市、審議を定める横目が拷問で絞め殺した事を『牢にて病死』とうそぶいた事にも『苛政』と非難。

(3月26日)島村衛吉を獄門死させた野中太内、大目付と外輪物頭の役職を解かれる。
(3月26日)祇園で火事が発生する。新選組も出動する。
(3月27日)乾、謹慎を命ぜられる。
(3月27日)後藤象二郎、再び大目付役となり再登板する。武市は東洋の甥でもある後藤を警戒している。

【武市】苛政


(3月)高杉ら、長崎から横濱へ向かう船を待つ間、英国商人グラバーの所で英語を習う。
(3月)高杉ら、グラバー邸で英国領事ラウダの訪問を受け、忠告される。 『第二次長州征討の情報あり。また今度着任するパークス公使は信用の厚い人物なので ヨーロッパへ行くよりも彼と話し合って馬関の開港などに着手した方がいいのではないか』
(3月)高杉、外遊を中止し帰藩
昨年夏頃、下関領地を巡る萩藩と長府・清末藩の交渉話をぶり返し、開港を説く。 この動きに長府・清末の攘夷党が騒ぎ、一時には高杉、井上、伊藤を暗殺せしめる雰囲気となる。
(3月)池内蔵太、この頃長州帆船癸亥丸(ランリック号)に乗り込み、軍艦操作の訓練に励んでいる。 開港を説いた高杉らが狙われている噂を聞き、高杉らを探す。
(4月1日)幕府、長州藩主父子の江戸拘引が行われない場合は将軍が進発すると諸藩へ伝達

【乾】寤寐思服


(4月1日)乾、謹慎が解かれ江戸へ兵学修行。洋式(オランダ式)騎兵術修行を命ぜられる。
はつみへ手紙を書きたかったが、薩摩の元へ手紙を出す事は流石に憚られた。 結果、互いの所在地が分からず再び手紙ができなくなる状況へとなっていった。
(4月2日)武市親族、出養生願却下される。
(4月)高杉、南部町に小さな家を借りて捫蝨処(もんしつしょ)と名付けひっそりと移る。 うのと同棲を始める。(高杉の支援者・入江和作が高杉の為にうのを身請けした)
(4月6日)桂、捜索の為に出た弟直蔵と柊、そして大阪対馬藩邸で途方に暮れていた兄甚助を喜んで迎え入れる。 甚助は土下座をして謝った。幾松は桂がとりなしてもずっと横を向いていた、と、スミの逸話。 桂、柊と廣戸兄弟の協力を受け、帰藩を決意。弟直蔵が先発で大阪へ向かう。

(4月7日)~『慶応元年』へ改元~

(4月)伊藤俊輔、井上聞多、高杉の捫蝨処に転がり込む。長府と清末の攘夷党に狙われた。 高杉らを案じ捜索していた内蔵太が合流。噂は内蔵太の耳まで届くほど、話が漏れている事を知る。

【高杉、内蔵太】頑固と素直


賊徒に襲われ井戸に逃げ込んだ高杉を救出する。色々と話をし、気が合う。亡命するまで。
【高杉IF】高杉晋作異聞奇譚
かぐやの君高杉晋作IFルート。
現代逆トリップ編(工事中。近日再公開)

(4月)高杉、村田蔵六へ密かに桂の動向を確認し、そのままうのと従僕民蔵を連れて四国へ亡命。
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内蔵太を誘うが、内蔵太は高杉と話をした事で一層、龍馬やはつみらと共に行く決意をしたと告げる。 高杉は大らかにその心情を受け入れ、大いに励む様肩を叩いて去っていった。 井上聞多、別府へ向かい潜伏。伊藤俊輔、下関外浜町の船宿伊勢屋に隠れる。

(4月14日)薩摩大久保、板倉勝静へ薩摩藩は第二次征長への出兵を拒否するとした建白書を提出
(4月)高杉、亡命生活を始める。『備後屋助一郎』と名乗り、商人を装っていた。
詳細

1日中ばかになった様に眠りこけ、道後温泉に7日間入浴。金毘羅に参詣後、 讃岐榎井村の日柳燕石のもとへ潜伏。潜伏先から入江和作へ手紙を書き、民蔵に届けさせる。
「しばらくはこの地にて潜遊し、後に但馬、城崎まで行こうと思っています」

(4月)高杉、前原に手紙を書く。
・先日受け取った洋行資金の為の千両を、後続洋行予定の三名へ渡したので別途証文をご確認下さい。
・井上、伊藤について無比の人物である故、疑惑等起こっても何卒鎮撫頂きます様お頼みします。
(4月16日)桂と共に下関へ向かっていた廣戸兄弟が幕史の尋問に遭う。
詳細

甚助が尋問を受け、弟に目くばせで「逃げろ」と指示し大人しく縛についた(疑いはなく後に釈放される)。 直蔵は逃げ出し桂のいる宿舎へ駆け込み急遽対馬藩邸へ逃げ込む。
桂、柊ら、夜になって赤間関茶屋平五郎の舟に乗って大阪脱出を試みる。

(4月17日)桂、柊、なんとか大阪を脱し神戸に入る。
(4月18日)幕府、(第二次)長州征討進発令。 「毛利大膳親子等容易ならざるの企あるの趣相聞え、更に悔悟の体なく、且御所より仰進ぜられし趣もあり。 かたがた征伐仰出され、5月16日進発す」
(4月19日)桂、四国へ渡り金毘羅に詣でてから下関へ向かう。
(4月22日)萩政府、高杉、楊井、井上、伊藤の応接掛を罷免。開港する予定はないと布告。
(4月25日)龍馬ら海軍塾生、小松、西郷らと共に「胡蝶丸」にて鹿児島へ向かう

【龍馬】新天地


しかし、『何か』を恐れ怯え不安に駆られているはつみ
(4月)高杉、榎井村潜伏中、潜伏人とは思えぬ傍若無人な振舞で日々を過ごす。 丸亀藩の勤王醤油商越後屋へ赴き、出入りの勤王志士と歓談したり夜は琴平の花町で遊び回る。 いかな詮索の目から離れた地であっても、だんだん世間の目に付き始めていた。
(4月26日)桂、柊、下関に戻る。潜伏していた伊藤がすぐさま合流し『両目に涙』
(4月末)井上聞多、桂帰還の報を受け潜伏先の別府から帰還する。
(4月30日)桂、柊、下関で中岡と会談する。
(4月末)高杉、燕石らの薦めで讃岐を脱し、象頭山のふもと松里庵の近くへと拠点を移す。 以後、逸話として、『大阪の書店で『徒然草』を買おうとして捕まりそうになった』『(大阪を経由して)出石の桂の下へ行った可能性』などがある。
(4月末)高杉を逃した翌日、日柳燕石、美馬君田、高杉晋作を匿った罪で高松藩に捕らえられる。 (慶応4年正月、官軍として侵攻してきた乾ら迅衝隊によって釈放される)
(5月)仏公使ロッシュ、英国公使不在中に幕長戦争に際し厳正中立を約し、未開港場での密貿易中止を宣言。
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この時オールコックは前年12月に公使を解任されており、次期公使パークスはまだ着任していない。 既に幕府へ接近していたフランスはこれを機に幕府が有利になる様な工作を行ったのであった。

(5月)小松、海軍塾生に交易事業を行わせる為、その手習いとして全員を山川港へ案内する。
詳細

長崎鼻と言われる南九州の南端にある港で、日本全国及び琉球など薩摩の公益事業の要となる大港。 ここを取り仕切っているのも小松であり、大交易社『やまき』を運営する大豪商浜崎家が所有する 巨大な造船所や千人風呂と言われる巨大すぎる温泉、たくさんの船、荷物、人夫でいっぱいの港と 大変な煌びやかさと賑わいを見せ、実は日本一の遊女屋ともされた東海楼など。
そして、この主要の地を領主として治め先頭に立って切り盛りしているのがこの小松なのである。

【小松、龍馬、武市】『大航海時代』の到来


かつて、イギリスなどの西洋人が航路を切り拓き、アメリカ大陸やインドを発見。交易事業を以て世界の一体化が急速に広がった時代について想い馳せるはつみ。『やまき』の浜崎にも興味を持たれこの話をするが、この事業がもっと早く土佐にも入っていたら、武市の目に見せる事が出来たなら…と次第に口を紡いでしまう。
一方、待ちに待った夜がやってくると、塾生たちはさっそく東海楼へ上がってゆく。なんと、今日は全て小松のおごりだという。

【寅之進・小松】一途


遊郭へは行かず、はつみとともにいる事を選ぶ寅之進。小松が二人を夕食に誘う。長崎での話で盛り上がるが、はつみが席を外した際、小松は寅之進におちゃめな質問をする。

【陸奥・駿馬】遊女選びのこだわり
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遊女の似顔絵帳を見て決めている時、似顔絵で指名してから実物を見ては取り消し…を繰り返している陸奥に「何をそんなに拘ってんだよ」と声をかける駿馬。
(5月)容堂、頻繁に南会所へ入り詮議を傍聴。これを知った武市、判決が近い事を予想する。
(5月10日)公卿・亡中山忠光の側女・トミ、俗論党監視下、江尻家にて忠光の娘・南加を生む。 奇兵隊、早くもこの情報を掴む。
(5月)村田蔵六、ミニエー銃1000挺購入の使者を長崎へ送る。
(5月)坂本龍馬、薩長連合の為熊本の横井小楠、大宰府の五卿、そして長州下関へと出る。
詳細

なんと横井とは決裂に至ってしまった。引きこもっていた横井は『かつての長州』のまま見聞を改めておらず、薩長連合などあり得ぬと龍馬の主張を突っぱね、むしろ幕府が二度目の長州征討を行い長州を滅ぼす事に賛成の様子だった。龍馬は横井を一晩掛けて説得したが結局は『霊験の無い神と同じ』と言い捨て、袂を分かった。

(5月13日)桂、萩にて10か月振りに藩主に謁見。薩摩藩との接触を進言。
(5月16日)将軍家茂、(第二次)長州征討につき江戸城出発。
(5月19日)奇兵隊、長府城下江尻家を襲撃。
詳細

幽閉されている中山忠光側女・トミとその娘・南加を救出し、吉田町の奇兵隊屯所に匿う。
{高杉が救出したと見かけるが、流石にまだこの時点ではまだ亡命先から帰ってきてない気がする。}
以後も俗論党からの追手は続き、トミは奇兵隊に守られながら各地を転々とする。 俗論党はトミが捕まらないので兄弟が捕縛され長府に投獄された。 トミは実家から逃亡支援を受けながら、旅一座に紛れ込んで移動したりと大変だった様だ。 ある時ついに追手が迫り、娘を筵にくるんで船底に隠したがバレてしまった。 しかし『娘』であった為に『許された』という。
娘・南加は明治3年6歳の時に忠光の実家・中山家へ引き取られ、トミも乳母として随行した。 この頃伊藤博文が恋文を送ったがトミはなびかなかったという。
南加は三条実愛の息子と結婚し、かの愛新覚羅溥傑の妻・浩の祖母となった。
{ちなみに中山忠光は明治の終わり頃に下関・綾羅木あたりに幽霊として現れ
ここでも激しめにやらかしてる模様w}

(5月20日)武市出廷。体調はまずまずで下痢は無かったが、吟味場所に布団を敷いての取り調べ。
詳細

この時は個々の事案への詮議ではなく、全体的に『茫漠たる国事への違反』といったテイで詮議が行われた事を武市もすぐに察知する。『謀反』『徒党』といった国事犯へ対する言葉が連なる。それは容堂が『勤王』であれば『正義』『精忠』といった言葉として出てくるはずのものであった。また「三条実美に討幕を申し出た事があるだろう」と言われ、武市は心底驚いている。後の吉村虎太郎こそ討幕の先駆けとなったが、武市が三条らと関わっていた頃にはかの長州ですらその様な思想には至っていない中での『なすりつけ』の様な審議であった。
武市は当時の時勢などについて弁論するが聞き入れられる様子ではなく「これに違いない」と遮断される。
―御見付予告―
「御見付」とはいわゆる一方的な断罪であった。自供も証拠も無い、『見込み』で罰するものである。武市は『万策尽きた』として、妻富への手紙に重罪の予告を静かに書き綴った。また、この時より体調が悪化。痛み、下痢、発熱に見舞われる。

(5月)小松、長崎出張に伴い海軍塾生らを同伴させる。亀山に宿舎を借り亀山社中を起業させる。

【グラバー・小松】ダイカンゲイデース!


ジャーディン・マセソン商会長崎代理店―グラバー商会―に、小松が人を連れてやってくる。
詳細

グラバーと小松は昨年より軍艦購入などにおいて取引があり、今年の2月に至っては薩摩スチューデントを極秘裏に英国留学させる際に密接なやり取りを行ってきた、いわゆるビジネスパートナーの様な関係であった。その小松が連れて来たのは、うら若く随分とあか抜けた一人の少女であった。『もしや』とその碧眼をきらめかせるグラバーに、小松は『桜川はつみ殿じゃ』と紹介をする。グラバーは、とある幾筋の関係者から彼女の事を聞き、知っていたと興奮した様子で言う。

(5月)はつみ、寅之進、小松に誘われ大浦慶の元へ行く。ピアノが置いてあり、それを披露する。

【大浦慶・寅之進】


(5月)英会話塾を開いている何礼之と再会する。(100人を超える門人がいる)
陸奥、白峰駿馬らが入塾する。更に陸奥は英国人宅へ給仕し、妖艶な英国婦人から可愛がられ英語を教わる。

【陸奥】誤解を招く美男子


【小松】こまつといっしょ


(5月)小松、はつみ「だけ」を遠乗りに誘う。三社巡り。
詳細

諏訪神社、松森天満宮、対岸の伊勢宮神宮など。
諏訪神社、松森神社には以前長崎遊学の際に龍馬と来たことがあったが、対岸の伊勢宮神宮は初めてだった。
その事に喜ぶ小松。「おはんにはもっと、新しか場所に連れて行ってやりたか」(そん時はおいが…と一人デレる)
小松の薩摩弁について聞く。(セーブしている。本気の薩摩弁はマジで分からない)

(5月27日)桂、正式に帰藩を承認される。政事堂用掛および国政方用談役に就任。藩政を掌握する。 柊、引き続き桂に仕える。
(5月28日)武市、引きずられる様にして何とか出廷。後藤象二郎より御見付を受ける。 「偽りを申し党を結び、お上を軽蔑し、京の高貴の方へ取り入り、隠居へ非礼な事度々あり。 この上は当罰あるにつき心得よ」

【武市・以蔵】獄中闘争の終わり


(5月)萩政府、宇和島藩から書状を受ける。 幕府がオランダ公使に面会した際の始末書の写しが同封されており、それによると外夷との密計だの密貿易の暴露だの長州を讒訴する忌々しき内容であった。
(閏5月1日)桂、坂本龍馬からの招集に応える為下関へ下る許可を得、移動。
(閏5)土佐、土佐勤王党関連の詮議総仕上げとばかりに更に多くの士が出頭及び投獄、出廷となる。
(閏5月4日)龍馬、下関にて桂とともに西郷・中岡の到着を待つ
(閏5月5日)龍馬、下関にて内蔵太と再開。軍艦操練に励んでいる事を聞き大いに喜び期待を寄せる。 内蔵太、ここで龍馬と共に行く事を申し出る。(史実より早い)
はつみの思想を聞き、高杉を間近に見て『真の攘夷』が分かったと言う。龍馬、快諾。
(閏5月)英ハリー・パークス公使、来日。ウィンチェスター代理公使、上海へ異動
(閏5月)武市、牢番より話を聞く。
「長州征討の為大阪出兵を間近に控える藩主豊範が、容堂に忠義の士の出獄を伺った。すると容堂は激しく叱りつけ、その不忠、悪人ぶりを説き、豊範は実父である前前藩主豊資の屋敷で泣いた」と。武市は「たとえ嘘の話だとしても涙がこぼれ申す」と言った。

【武市・以蔵】余生


【武市】不鳴蛍焦身


(閏5月10日)土佐、村田忠三郎、久松喜代馬、岡本次郎ら自白組、まとめて出廷。判決。
(閏5月11日)土佐、武市半平太切腹。自白組斬首。
詳細

去る酉年以来天下の形勢に乗じ、密かに党与を結び、人心扇動の基本を醸造し、 爾来、京師高貴の御方へ容易ならざるの議屡々申上、将又御隠居様へ度々不届の義申上候事共
総て臣下の所分を失し、上威を軽蔑し、国憲を粉紊し、言語道断重々不届の至、 屹度御不快に思召され、厳科に処されるべき筈之所、御慈恵を以切腹これを仰付けらる

他、
御預け一名…小南五郎右衛門(元上士。苗字刀取上)
牢舎九名…園村新作(元上士)、森田金三郎、山本喜三之進、島村寿之助、小畑次郎、安岡覚之助、河野万寿弥、小畑孫三郎、島本審次郎
斬首三名…久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎
継続二名…檜垣清治、今橋権助
名字帯刀剥奪、城下禁足…岡田以蔵
(不明一名…吉永良吉)

武市に近しい存在であり圧倒的な剣技を持っていた故に、勝海舟護衛時の人斬りを理由として見切り発車的な逮捕を受けた以蔵であったが、結局自白組等からも各種事件において『以蔵が絡んだ』とする名が出る事は無かった。
しかし藩の体面を保つ為にか『徒党に参加し悪事を傍観した士道に背く行為』を罰せられ、実家へ立ち寄る事も許されず城下追放の処分となった。京へ行こうとも思ったが、武市の墓の守をしようと彼の遺体が送られる吹井へと向かった。

(閏5月12日)武市、吹井にて葬儀が行われる。葬列は先頭から延々と12㎞を越える程連なっていた。 以蔵、それを遠くから見つめる。武市の姉が以蔵を見つけ富を呼びに行ったが、戻った時にはもういなかった。
『病死』した武市の実弟・田内衛吉は下横目殺害2件に関与していた。
詳細

田内衛吉が関わった殺人についてその事を以蔵も知っていたのだが、拷問に耐えて自白しなかった。衛吉も以蔵が捕まった時点で「自分の事を喋られて拷問行きじゃろう」と覚悟していたが、ついに最後まで何も話さなかったのである。こうして軟禁生活を送る中、武市から衛吉や姉・富宛てに届く獄中書簡にも『以蔵、思いの他頼もしき(何の証言もせず頑張っており)心より感心』との報告も幾度となくあり、以蔵が武市親族からの信頼を得る要因となっていた。(史実とは真逆)
ちなみに田内衛吉が昨年10月、病死のひと月前に初めて拷問適応となったのは、以蔵ではない自白組が3名出て来た影響であった。この3名も史実では以蔵が自白した事によって投獄となった者達である。しかし今回以蔵が自白しない関係で彼らの投獄時期に変動が出たが、結局は歴史修正の因果が及び別の調査の切り口から事が露見し逮捕。拷問適応で自白へと至った。
(結局歴史修正の波が及んだ)

※歴史修正とは『結末=生死』へと帰結する。
詳細

例えば起こるはずの事件が起こらず、事件で死ぬはずだった人物が生き永らえるフラグが立ったとしても、歴史改変が確定している寅之進や以蔵らの様に桜清丸の加護が無ければ結局フラグは消滅し、何らかの形で死を迎えるという事。はつみや寅之進、以蔵などが意識的もしくは無意識に関わりその言動が変わった人も存在するであろう中、それでも全体的な時勢としての支障が出ず概ね『歴史通り』に時代が進むのはこういった歴史修正が大小関わらず多方面で生じている為。
武市の場合は、幽世に存在する断ち切るべき運命の糸は実際殆ど変容していた。今にも切れそうにほつれていたが、今一歩解放へは及ばなかった。その為、妻以外の女性への恋心(はつみへの想い)も含め獄中での言動にも大幅な変容を来たしてはいたものの、結局は『歴史通り』に命を落とした。武市のフラグが立っていないのもそうだし、武市に大きく関わる容堂のフラグを立てきれなかった事も起因している。
また、もし獄中にて以蔵(歴史改変フラグ成立済み、桜清丸の加護取得済み、改変確定)と武市が深く関わる事があり、以蔵の影響・間接的な作用から武市の運命の糸が切れたとしても、そこには桜清丸やはつみの存在が無い為、武市には歴史修正の波が及ぶ事となる。判決が変わって切腹を免れたとしても他の勤王党らと同じく永牢のまま間もなく獄中病死となるか、同じく上士の勤王党員小南の様に名字帯刀剥奪親族預かりなどの処置で自宅へ返されたとしてもやはり間もなく病死となっていた。ただし、はつみ(桜清丸)との再会が間に合えばIFルートもあるかも知れないが、はつみは慶応3年頃までは土佐には入れない身の上になっていたし、富らに遠慮してわざわざ会いに行く事もしないだろう…。
武市のIFルート確定フラグの1つは、投獄よりも前にある。文久3年春に『彼の頑なな誠意』を振り切って遂にはつみと相思相愛となり、体を重ね、その上で土佐へ帰り投獄へと進むというものだった。2つめは容堂。元治元年、勝海軍塾に所属する土佐藩士達は帰藩要請に対し完全に無視・脱藩する事を決め、その一部は勝と共に四カ国連合艦隊関係への対処のため長崎へと向かう。一方はつみと寅之進は帰藩し武市の状況を見知る為にも帰藩の道を選ぶ。この時起こるイベントで、後藤に対して最後の容堂フラグを立てる必要があった。(容堂のフラグは3つ。全て東洋関係)
はつみが行ってきた武市の歴史改変への様々な対応は、ほんのあと一歩のところまで迫っていたのだった。

(閏5月13日)容堂、盟友の宇和島隠居・伊達宗城へ獄処理を終えた事を手紙で知らせる。 「自国の処置に3,4年も月日をかけたのは{彼を殺す事に}決断がつけられなかったから。赤面の他ない」 と大嘘をついている。獄の処置と武市を殺す事に容堂がどれだけ腐心していたかは知るものぞ知る。
(容堂は6月8日にも、盟友松平春嶽へ武市切腹の報告を行っている。報せたくて仕方ない程勝利を満喫していた)

【陸奥・寅之進・小松】慶応元年閏5月11日


閏5月始め。はつみの様子がおかしい事を心配する陸奥や寅之進達。切り出す陸奥に『宇和島へ行きたい』と相談。
詳細

しつこく理由を聞くと土佐勤王党の顛末について知りたいのだと言う。いずれにしても小松に黙って長崎を出る訳にはいかないので話をしに行く。土佐の乾と連絡を取っていたが今年に入ってから連絡が途切れている、と説明する。はつみは宇和島の伊達宗城と面識があるという事で自らの出立を望んだが、土佐はこの数年関所の取り締まりが極端に強化されており(勤王党弾圧の影響)特に亀山社中のはつみや寅之進ら土佐藩士らは脱走・脱藩の身であるため危険すぎる。意外にも陸奥の挙手により彼が出向く事となった。
(文久江戸でも情報を得る為にかなり行動派となる彼であったが、今回ははつみの為にという気持ちが強い)
黒木小太郎が再び同伴する。はつみは陸奥が勉強を中断する事を申し訳なく思い自分が編纂中の単語帳と
ずっと愛用している英語辞典を陸奥に渡す。(両方とも安政6年の頃から使っている。かなり使い古されている)
「ごめんね陸奥…外国語の習得はとにかく単語習得が命だから!これで少しでも足しになれば…」
「センキュー。助かるわ」
内心、がぜんやる気に燃える陸奥。
船の中で単語帳を開く。なんかいい匂い…スーハーしている所を黒木に見られる。
必要な通行証(手形)は小松が発行してくれた。

(閏5月13日)中岡、西郷吉之助と鹿児島出港

朧月編

慶応元年閏5月~慶応2年6月

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●慶応元年…はつみ24歳

(閏5)以蔵、武市の墓や未亡人となった富が住まう武市生家がある吹井付近で度々その姿を見せる様になる。

【以蔵・富】真心


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以蔵は富たち親族に声を掛ける訳ではなく、生家と墓から遠からずの場所にある老齢の 桜木のもとにフラッと現れると数日そこで過ごし、居なくなったかと思うとまた現れそこで過ごす。
富、以蔵も生活に困窮しているのではと声を掛けたのだが、彼は必要以上に接近する事を躊躇っている様であった。 彼にも何か事情があるのだろうと無理強いはせず、彼が桜木の下に現れる理由は分からないままであったが それ以上深く関わろうとはしないままに時が過ぎてゆく。
以蔵がそこで過ごしている間は夜が開ける前から誰もいない武市の墓を参り、一凛の花を添えた。 富、その花に毎日気付き、遠くから以蔵に頭を下げていた。

(閏5月17日)土佐{表向きは藩主からだろうがその本質は容堂により}異例の論功行賞。
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徒目付・土居弥之助、弘田久助…御組入り
徒目付・岸本円蔵…白札昇進
岡崎喜久馬…米4斗拝領
大監察らは御酒頂戴

(閏5月)宇和島へ来ていた陸奥、黒木。早速武市ら処刑の噂を聞く。
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あまりにも早く情報が入ったのでどうするか迷うが、2,3日滞在してより情報を集めてみる事となる。
陸奥、黒木、宇和島隠居の伊達宗城から突如呼び出しを受け拝謁に至る。 神戸海軍操練所及び勝海舟の件、長州の武器購入不可の件、薩摩及び長州、京の動き、そしてはつみの事。 土佐の攘夷派弾圧に対しはつみが取った行動と、土佐周旋時の英国の反応。その顛末などを話す。
(宇和島はこの後慶応2年6月頃に英国公使パークスを招き、会談に至る)
土佐の巨魁が墜ちた事は直接容堂から知らされた宗城も周知の事であった為、確実な情報となる。

(閏5月)陸奥、黒木、武市の訃報を携え長崎亀山へ帰社。北添佶磨、訃報を携え下関にいる龍馬の元へ出る。

訃報


愕然とするはつみ。
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その日から翌日の間は部屋から出て来ず食事も摂らなかったが3日の朝には大量の洗濯物を済ませて干し、
「洗濯物と入浴、手洗いうがい歯磨き、部屋の掃除は定期的にやる事!」
「衛生状態を保たないと病気に罹りやすくなるからね!当番制にします!」
と張り切っていた。顔を見合わせる寅之進や陸奥ら隊士。一先ず宇和島の件も含め小松へ追加報告に行く。
(閏5月21日)下関、西郷来ず。中岡切腹をはかるも桂に叱責され留まる。

(閏5月)桂、伊藤、坂本龍馬、下関にてオランダ公使ポルスブルックと会見。
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昨年宇和島伊達公よりの手紙にあった 『密貿易と幕府の件』について。これについて詰問すると『それは小倉藩によるものであり、その証拠に外国奉行が見せてくれた小倉藩の申立書(密告書)を手帳に写してある。見せてもいい。幕史はそれをオランダが申し立てたと言っているのだろう』との事。
「しかれば小倉藩への問責を行う機会となった折、立ち合って下さるか」
『承知した』
こうして、一旦長州は怒りの矛を下げる事とした。龍馬は長州の徹底論じる姿に改めて敬服する。(実際、小倉藩は下関に卸される『怪しい積み荷』について何度か幕府へ通報している。)

(閏5月)村田蔵六の武器購入失敗の件にて(幕府から目を付けられ、長州名義ではグラバーであっても周旋できなかった)桂、薩摩が協力するというのなら薩摩名義での武器購入が可能にはならないかと龍馬に相談する。
(閏5月22日)将軍家茂、江戸城より上洛・参内。長州再征を上奏するも勅許は得られず。
(閏5月)松本良順、新選組の屯所西本願寺を訪問。集団診察を行い、衛生状態等の改善を指示。 沖田、労咳との宣告を受ける。

【沖田、土方】不治の病と恋の病


(閏5月25日)龍馬、桂、内蔵太ら、長崎から沢村惣之丞が単身かけつけはつみの書状により武市の処刑を知る。

【龍馬、桂、内蔵太】土佐の巨魁、墜つ


(閏5月29日)中岡、西郷を追って京へ。龍馬、内蔵太、北添と共に一旦長崎へ戻る。
(閏5月)以蔵。今日も吹井武市生家を見渡せる桜木の下にいる。

【以蔵・富】真心2


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その日、富は遠くからやってくる3、4名の上士の姿を見つけ、何か言い付けなどがあるのではと怯えた。
案の定彼らは生家及び墓へ向かってやってきて、その表情などからして明らかに『個人的な』用件である事が想像できた為、富や使用人たちはますます『なんの用なのか』と怯えてしまう。しかしそこへ以蔵がかけつけ、何を言うでもなく彼らの進路方向に立ちふさがった。

何やら大声で以蔵を罵り道をゆずる様にと叫んでいたが、会話は殆ど聞こえない。下男の丑五郎がこっそりと近づくと、どうやら以蔵は上士らに『何用ですろう』と言って譲らず、何を言われ脅しを受けてもただじっと彼らを睨みつけているだけだった。以蔵は大小持ち合わせておらず丸腰で、太い枝をその腰に差しており、その事を上士は大笑いもしていた。だが、やがて諦めた上士らは気分を害した様子で帰っていき、すなわちそれは、明らかに『大した用事』ではなかった事が伺える。

一体何をしに来たのか…考えたくもない。一部始終を見聞きした丑五郎は富へ報告し、富はすぐさま以蔵に声をかけようと表へ走ったが、彼は上士たちを『見張る』かの様に別の場所へと向かって歩きだしてしまっており、追いつけなかった。そして、それから何日か姿を現す事が無かった。
以蔵を心配し、毎日桜の木を見つめる富と武市姉たち。

(6月)小松、はつみの憔悴を案じ、連れ立って鹿児島へ戻る。景色がよく静かで天然温泉のある山荘。

【小松】こまつといっしょ2


中庭には姫沙羅の花が満開だった。
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今日は、とことん二人でいようと言う。小松の琵琶(若い頃かなり入れ込んだが窘められて押し入れに押し込んで以来、十数年ぶりに弾いてくれた)、乗馬で遠乗り、ルシと狩猟、温泉、そして何気ない会話。(ルシは小松に懐いている様子。討幕派の要の一人であり、小松はキリスト教に対し今の日本で出来る限りの配慮を見せる為)
夜、鉢皿の水に浮かべられた姫沙羅。眠るはつみの髪をそっと撫でる小松。
翌日、朝食時には小松の姿はなかった。静かな森を散策するなどし、自分に向き合い、時に泣きながら過ごす。昼過ぎになるとまた顔を出してくれる小松。
小松は、気に入ってくれたならこの山荘はいつまでも好きに使ってくれていいと言う。

(6月)龍馬、内蔵太、長崎に入り小松がはつみを連れて行った事を知る。

【龍馬、内蔵太、寅之進、陸奥】生離死別


小松がはつみを寵愛しているという話になり、武市が去った後ではつみも精神的な疲弊が見られ、支えが必要だった…などと、とりとめもない話。そこで内蔵太は、寅之進や陸奥ら話で初めて、はつみと武市が懇意であった事を知る。
(6月)小松、長崎に戻り龍馬らと再会。小松は自分の権限ではつみを鹿児島の別荘へ匿ったと改めて説明。龍馬も今のはつみには静かな時間が必要だろうと納得し、同意する。加えて長州での事(西郷来ずの件と武器購入の件)を小松に話し、小松はこれを了承。
龍馬、はつみの事は小松に託すとし、寅之進や陸奥には社中での翻訳作業等を含めた運営業務中心に任すと告げる。西郷と話す為内蔵太と共にすぐ京へ向かう事を告げる。
(6月5日)高杉帰国。下関に入る。白井正一郎に手紙と菓子が届く。
(6月)龍馬、京へ向かう船の上で内蔵太に大蝦夷の話をする。新時代にこそはつみが活きるという話。

【龍馬、内蔵太】


内蔵太が想い抱いていた尊王攘夷に対する『疑問・矛盾』が晴れる。龍馬が思う『はつみにふさわしい』男。
(6月)以蔵、富に迎えられる。

【以蔵・富】真心3


ある梅雨の日、例の事件以来ずっと姿を現さなかった以蔵が例の桜木の下に現れた。
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既に武市姉らにも相談をし心を決めていた富は、丑五郎を連れて以蔵の元へと自ら駆け付け、厳しい台所事情があるにも関わらず墓守として家内へ迎えたいと申し出る。以蔵は心底躊躇いを見せ逃げ出そうとさえした程だったが、丑五郎に背を押される様にして家の居候となったのだった。

そしてこの時以蔵の髪型はまた以前の様に伸び放題であったが、一度髪を切った事とはつみや勝、お道などの影響で顔へのコンプレックスは若干影をひそめつつあった。武市後家に迎え入れられた以蔵は離れを与えられそこに住まう事となったが、夕食時に現れた以蔵は濡れた体を拭ったついでに髪も拭い、総髪にまとめ上げられた姿だった。富たちは以蔵の顔をほとんど初めて見た様なもので、一瞬誰なのか分からない程驚く。富らの反応にやはり顔を隠した方がよかったかと一瞬戸惑う以蔵だが、はつみ達と同じ様に、富たちは以蔵を受け入れてくれた。

また、同日駆け付けた武市姉・奈美も交えて以蔵の話を聞く。彼はやはり、武市の墓を守るつもりで桜木の下に居座ったりしていた様だった。時折いなくなるのは出稼ぎに出ていたとの事。
武市への献身や衛吉の事などもあり、武市姉らは以蔵を迎え入れる富らに出来る限りの援助を続けた。城下に住まう岡田家とも良好関係となる。弟の岡田啓吉が家督を継いでいたが追放処分にある兄・以蔵と直接連絡を取る事はできず、武市姉が時々取次用立てるなど支援してくれた。

(6月25日)龍馬、内蔵太、京薩摩藩邸にて長州の為の薩摩名義での武器購入を西郷に要請。受理。 これに対し西郷は薩摩軍上京の際の兵糧米の調達を長州へ依頼。龍馬ら、再び長州下関へ向かう。
(7月)龍馬、内蔵太。高杉と再会し薩長連合について説き、薩摩の現状と武器購入に関する薩摩の返答を話す。 高杉の体調があまり良くない。軽い風邪で、亡命中ブラブラしすぎたツケが来ていると笑っている。

【龍馬、桂、高杉、内蔵太、柊】女傑評議8


7月)桂、龍馬らと再会。はつみの様子を訪ねる。高杉も土佐で処刑があった事は聞いていたが 内蔵太同様にはつみと武市が極めて個人的に懇意である事は知らなかった。
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居合せた。柊が文久2年時の二人について話す。二人は結ばれていた訳ではないが、心は通い合っていたと。
武器購入に関し薩摩の了承は得られ、逆に薩摩から兵糧米の手配依頼があった事に付いて桂は引き受ける。 先月、西郷が約束を反故にした件について改めて敬意を話し、桂に上京し西郷に会う事を勧めるが拒否される。

龍馬、内蔵太、一旦再び京へ戻る。
(7月16日)高杉、下関にて。大田市之進への手紙に「悪病に困らされた」と書く。この頃から体調が低迷がち。
(7月16日)桂、井上聞多と伊藤俊輔を武器購入の為長崎へ派遣。亀山社中が周旋。
(7月17日)井上、伊藤、大宰府着。三条実美らに拝謁。
伊藤→薩摩藩士吉村荘蔵、井上→同山田新助と変名。
(7月21日)井上、伊藤、長崎着。亀山社中千屋虎之助、高松太郎が迎える。
近藤長次郎の案内で二人を安全な場所=薩摩藩邸へ匿う。小松と会談し快く受け入れられる。
(7月21日)伊藤、井上、薩摩藩士としてトーマス・グラバーを訪ねる。
軍艦購入にあたり近藤長次郎が専任で斡旋の任に付く事となる。
早速問題が生じ、二人に購入指示を出した桂には軍艦購入の権限が無かった為、桂も桂で海軍局に対し奔走。
(7月)高杉、下関にて土佐浪人・田中顕助と会談。例の刀?『高杉の弟子』と自称し始める。
(7月30日)高杉、山縣狂介への手紙に体調不良を書く。
(8月1日)鹿児島へ帰藩する小松、薩長親睦を見据えて近藤、そして井上聞多を伴う。
(8月)英国領事ラウダ、軍艦や武器購入を行う薩摩藩士は長州藩士である事を見抜く。
薩摩と長州が手を組んでいる事を横濱のパークス公使へ伝える。
(8月6日)高杉、一年前から着工していた桜山招魂場が完成。日本初の招魂場
{ちなみに靖国神社の旧名は『東京招魂社』。桜山招魂場はその原型と言われる。}
(8月12日)小松、井上を大久保一蔵らに会わせる。薩摩名義での軍艦購入、西洋留学についてはリスクが高く、
よくよく対策が必要との事で先送りされる事となる。(一先ず武器だけ薩摩名義で購入、運搬となる)
(8月)桂、海軍局と話をつけ、軍艦購入の許可を得る。
(8月21日)小松、井上、近藤を伴い再び長崎に入る。伊藤が買い込んだ銃の積み込みや運搬などに尽力する。
(幕府の目がある為、実は非常に警戒が必要な作業である。)
(8月)小松、はつみの件について特に気にかけている寅之進や陸奥、海軍塾生たちに対しては
鹿児島の静かな山荘で養生している事を告げ、彼女の身の安全は保障するから、今は
そっとしておいてやろうと言う。
(8月27日)伊藤、井上、近藤長次郎、銃を満載した薩摩船胡蝶丸・開門丸が三田尻へ入る。
かくして、4000挺の新式ミニエー銃3000挺のゲベール銃が無事長州に搬入された。
馬関碇泊中のイギリス軍艦の人々も密かにこの報を聞き、喜んだ。
井上、(村田蔵六も無しえなかった)大量の武器購入に尽力した近藤を藩主父子に合わせる段取りをつける。
(8月)近藤長次郎、長州藩主父子に謁見。後藤祐乗作の赤胴の三具(目貫、笄、小柄)が贈られる。
(8月)近藤長次郎、井上、伊藤とユニオン号の仮約内容について確認する。
・薩長及び摂津、越前など航海貿易
・その際、京摂、鎮西その他の情報収集に努める
・船の運用・修理費は薩摩名義、支払いは長州
・乗組員は亀山社中。(つまり船員人件費等は薩摩)
井上、伊藤はこれを承知。
(9月)サトウ、会津藩出身の野口富蔵を迎え入れる。(護衛・秘書・使用人として)
野口は『藩命』で会津を出奔し、函館英国領事館に勤め、英語を習っていた。
後にサトウが帰国する際に同行させ、サトウが用立てて大学へ行かせる程、信頼関係を築く。
(9月6日)高杉、用所役
(9月8日)近藤長次郎、長州藩主父子から薩摩の協力に感謝を示す書状を預かり、
薩摩藩主父子へと送る大役を担う。
伊藤と共に長崎へ向かい、更に小松と共に蒸気船購入の為の斡旋を続ける。
(9月)亀山社中にてユニオン号購入会議。
社中会議の結果、引き続き近藤が長州父子の書簡を持って鹿児島まで行き、
高松太郎と千屋虎之助がグラバー商会での購入手続きを進める事となった。
(9月11日)高杉、萩招集。意見書を上書。
『藩主父子の気魄奮起こそ、俗論の再興をおさえ防長の危機を乗り越える要』
(9月13日)兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件)
計8隻から成る諸外国四カ国艦隊(今回は米国艦はなし)が兵庫沖に現れ、朝幕に対し3箇条を要求。
・長州戦争の賠償金300万ドルを1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しする
・関税率改定
・帝の批准
この3つについての回答を幕府に求める為、艦隊は兵庫沖に碇泊した。
この交渉を終えて四カ国が横濱へ帰港するまでおよそ一か月の間、幕府は朝廷と外国による
板挟み的状況に苦境を極める事となる。(各日付詳細は英国公使館年表にて)
(9月16日)乾、片岡健吉宛の書簡で幕府を批判。
(9月17)公的書簡を携えた各国代表と通訳(英国・シーボルト、仏・カション等)が大阪へ入る。
仏・カションが色々とやらかす。
殆どのヨーロッパ人が大阪港初上陸となり、各国に対し幕府から護衛がつけられる。
サトウ、パークス公使らと港街を可能な限り端から端まで歩き、市井の人の好意的な好奇心の的となる。
(9月20日)老中阿部、兵庫に入る
サトウら、大阪にて公使館候補となる建物を探すがいい物件を提示してもらえず断念。
また小舟にのって川を上り大阪城を目指したが、至る所で一触即発の雰囲気になったので断念。
(9月21日)将軍徳川家茂、長州再征の勅命を受ける。
薩摩大久保、すぐに松平春嶽等に会うなど長州征討阻止の動きを見せる。
(9月21日)サトウ、シーボルト、有川の汽船で『島津左仲』と偽名を使った西郷吉之助と会う
(9月21日)英・パークス公使、兵庫にて老中阿部と5時間に渡る対談

【龍馬・西郷】


西郷から英国の通訳と会ったと話を聞く。
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龍馬:勝先生の話じゃあろんどんのお偉いさん方と幕府の間で協定が成された上で正式に開港延期になったはずじゃが
金を積めばゆさぶれるもんなんじゃなあ。『こくさいほう』いうがはそがぁに軽いもんかよ。
然るべき手続きをとればどんな事柄の決定も「平等に」訴える事ができるいうがが『こくさいほう』か。
それとも、日本人はこくさいほうがまだよう分からんちゅうてナメられちょるんかのう?

(9月23日)将軍徳川家茂、大阪へ下る。
(9月23日)老中阿部は欠席し、若年寄立花出雲が兵庫に入り、パークスと対談。
将軍から帝へ批准を求める為15日の猶予が欲しいと言われ、10日の猶予を認めた。
(9月24日)龍馬ら、西郷と共に京から大阪へ入る
(9月25日)若年寄立花、パークスと対談。将軍は頭痛の為未だ京都へ向かっていないと伝える
これに対しパークスは「速やかに確答を得られない場合、条約遂行能力が幕府にはないと判断し
以後幕府とは交渉しない。京都御所に参内し天皇と直接交渉する」と突き付けた。
(9月26日)高杉、馬関越荷方対州物産取扱引組駈引兼蔵元役
『対州』とはカモフラージュであり、用談役桂小五郎の補佐役として薩摩船が運んでくる
武器取引実務を担う事となった。
(9月26日)高杉、谷仙蔵へと改名。桂、木戸貫治へと改名。
(9月26日)一橋慶喜、無勅許における条約調印の不可を主張
対し、阿部・松前老中は諸外国が直接朝廷と交渉をはじめれば幕府は崩壊すると主張。
(9月26日)西郷、龍馬、兵庫を出て長州・鹿児島へ向かう
(9月29日)朝廷、違勅として阿部と松前二人の老中を解任
突然の外交担当老中解任を受け、四カ国公使、老中評議会に宛て改めて信書表明を提出。
「当初の通り10日間以内に返信が無ければ要求を拒否したとみなす」
(9月29日)将軍・徳川家茂、帝に対し条約を批准する旨の建白書を提出。しかし拒否される
(9月29日)龍馬、長州にて下船。大久保による『非義の勅命は勅命にあらず』の書簡を桂に手渡す。
薩摩への兵糧米手配の決定を聞き、再び帰京。
(9月30日)将軍・徳川家茂、建白書拒否を受け将軍辞任と東帰を発表
一橋慶喜、徳川家茂を説得。切腹を覚悟で朝廷に勅許を求める
将軍・徳川家茂、松平容保および朝廷から呼び止められる
(9月)以蔵、吹井武市家の離れに住まい、武市が残していた書物などを読みながら、桜の木の下へ出て警備をする。武市が知ろうとしていた事を知りたいと、以前高杉から受けた助言を思い出しての事でもあった。

【以蔵・富】真心4


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富や使用人たちの内職もよく手伝い、家の事で男手が必要な面においても進んで手を貸した。ちょくちょく日雇いにも出て、数日後に帰ってくる。ある程度手持ち銭が溜まると富へ手渡す傍ら、誰かに発送している様子であった。富が『差し支えなければ教えて欲しい』と聞くと、京にいる妻子へわずかながらも送っているという。妻子がいる事に心底驚く富。恐らく武市も知らぬ事であっただろう。今日への仕送りは郵送代だけでかなりかかってしまうので、本当に時々にしか送れない様だった。返事など受け取っている様子がないのを見るに、どうやら見返りも求めず一方的に送っている様子である。富はその献身ぶりに感動し、以蔵が稼いだ金は自分達にではなく京へ送る様にとも言うが、以蔵は特に言い返す事はなくとも、富と京への入金を止める事はなかった。
富は以蔵から受けた金銭に手を付ける事無く、大切に保管した。

(10月2日)木戸、下関にて谷(高杉)と会談。
(10月3日)坂本龍馬、薩摩への兵糧米の件で萩に現れ、政府は木戸にこれを一任する。
(10月7日)坂本龍馬、木戸に会う為下関に現れる。木戸、谷(高杉)と兵糧米の件で相談。
(10月7日)将軍・徳川家茂、辞任と東帰を正式に撤回
(10月8日)英国旗艦プリンセス・ロイヤル号にて老中松平伯耆守が通達を行う
×長州戦争の賠償金300万ドルを1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しする
〇関税率改定
〇帝の批准(開港と将軍・幕府に外交を任せる事への同意)
(10月9日深夜)関白により古代日本語で書かれたこの公式書簡はサトウによって翻訳された
詳細

『翻訳の力量はもちろん日本語の文語体に関する知識を披露する事ができ誇らしい夜であった/サトウ』
あれこれ小手先で不誠実を働いていたフランス宣教師メルメはこの古代日本語を訳す事ができなかった。
3つの目的の内最も大事な天皇の批准を含む2つを達成した諸外国らは順次横濱へと帰っていった。

【小松】こまつといっしょ3
R15


小松が山荘に現れ、兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件)やこれに伴う幕府への警戒などを受け、近々兵を率いて京へのぼらねばならない事をはつみに告げる。
詳細

はつみの意見を尊重しており、通訳として同行を願うが…それとは別に離れたくないという想いも率直に告げ、抱こうとする。おいではおはんを癒すこつはできんでごわすか?と。しかし小松には正妻がおり、京御花畑屋敷には愛妾の琴もいる。はつみも彼女らとの面識がある。それもあって、到底小松を受け入れられなかった。
しかし後日(10月15日)、小松が出立の際には龍馬との合流の為に同行する事を希望する。小松のお蔭でいくばくか心を落ち着かせるに至った。しかし一方で、小松の想いが露見した事で居づらくなったのも確かであった。

(10月)サトウ、帰港した横濱においてジャパン・タイムズによるサトウ・シーボルト殉職説など偽情報を知る。
詳細

中には正しい情報もあり、帝は先日の批准を示した際に「兵庫及び大阪開港の約束を反故にせよ」と 加えていたという事だった。これらは後に事実として判明した。
(幕府は摩擦を避けてこれを公にせず、外国語にはない曖昧な日本語表現で取り繕ったのだった)

(10月)サトウ、パークス公使の命で江戸に出て、今回の作戦を受けての市場調査を行う
町は落ち着いていたが老中が解任されたなどの情報は入っている様だった。
(10月)『日本語を話す』サトウの存在感は江戸中に広がりをみせ、佐幕・勤王関係なく多くの侍が彼を訪ねてきた
(10月12日)パークス公使、上海へ家族を迎えに行く途中下関に入り、高杉晋作・伊藤俊輔と会談
(10月)高杉、木戸、坂本龍馬、井上聞多、伊藤俊輔、会談
木戸、坂本から薩長同盟について話を振られるが首を縦に振らない。
(10月13日)坂本龍馬、京へ向かう為下関を去る。
(10月15日)小松、海軍一隊を率いて鹿児島を出港。兵庫開港要求事件の件にて、京非常時の守衛勅命の為
詳細

(と見せかけて長州再征の動きへの牽制も込みか)
はつみ、龍馬と合流する為同行を申し出る。小松のお蔭でいくばくか心を落ち着かせるに至った。
しかし一方で、小松との事が露見し居づらくなったのも確かであった。

(10月16日)小松、長崎に立ち寄り、近藤長次郎がまとめた薩摩名義による長州軍艦購入案の通り軍艦を購入。

【寅之進、陸奥】合流


長次郎に外国留学の件について話をする。その気があるのなら何よりも先に龍馬や小松へ相談する様にと。
(10月18日)近藤長次郎、グラバーよりユニオン号を受け取り鹿児島へ向け出港する。
(10月21日)龍馬継母・伊予、死去。
(10月)はつみ、薩長感情緩和の為長州下関上陸を希望。小松これを受け入れる。
長崎で亀山社中に復帰。寅之進、陸奥と合流。

【寅之進・陸奥】


(10月)はつみ、下関で寅之進、陸奥と共に船を降りる。

【高杉・木戸】運命の影


高杉の体調がしばらく良くない事を知り、結核を心配する。

【寅之進、陸奥、柊】


木戸直下で活動していた柊と再会。京にいたころよりも落ち着いた様子
(10月)大阪薩摩藩邸(京薩摩藩邸の龍馬)へ下関入りを知らせる手紙を発し、それまで桂や高杉に 長崎や鹿児島での事を話す。
詳細

今や薩摩に二心はなく京朝幕の間において全力で長州征討を行っている。
小松は表向き西洋艦隊の開港要求の件で警備をする為に兵を率い京へ向かったが一橋慶喜が将軍家茂と共に 勢い付ける長州征討を牽制する目的もある。その為主要人物が京を離れる事はできない様だと説明。
これらの説明に対し木戸は、大久保による『非義の勅命は勅命にあらず』の手紙の写しを受け取っていただけに 一定の理解を示すが…

【木戸】


ゆっくり話がしたいと、遠乗りに連れ出される。柊が同行
詳細

薩摩の所にいる流れは分かる、だがいつまでいるつもりなのか。小松の所へ行くつもりなのか? もし、私が全てのしがらみを越えて西郷の所へ行くと言えば、 君は全てのしがらみを捨てて私の所へ来てくれるのか?
この問いに対し、はつみは『取引』と割り切って関係を結んだ乾との事を思い出す。
しかし木戸には取引の事は言い出せなかった。

(11月1日)はつみ、再度木戸を説得しようとするが、木戸は藩政のため萩へ帰還との事。

【木戸】連れられて、萩


詳細

優しい木戸が、ついにはつみを避ける様な素振りを見せていた。
しかし避けきれない情もある様で「…萩まで来るというのなら、話を聞くよ」と 機会を与えてくれた為、はつみも任意で付いていく事にした。
下関から船で萩に入る。日本海側の町に来るのは初めて。道中は時世の話をせず、穏やかに過ごした。 萩城を右側遠くに臨みながら城下町を横切り、比較的立派な料亭へと案内された。 木戸が誼にしている所なのか、案内された部屋には木戸の香の残り香が感じられた。 ここでなら、薩長の事もゆっくり話せると木戸は言う。
木戸は毎日姿を見せた。薩摩との会談について、木戸はその必要性と薩摩の行動には理解を示す様になる。 しかしその使者となる事は認めず、あくまで別の適した人間を立てようとする。 自分がしがらみを捨て去るのなら、君も何も言わずに私の所へ来てくれるか?と再度聞かれるが、 はつみはまたも、この問いに応える事も、『取引』を持ち出す事もできなかった。

(11月)近藤、幕府の長州訊問使随行任務に際し、沖田と話をする。

【沖田】二兎追う者


長州へ行く任務に際し、一層の命を賭す覚悟を告げる近藤。沖田の病に際し、京に居続けるか、天然理心流試衛館を次ぐか。どれかを選ばなければ『立ち行かない』状況である事を真剣に話す。病気さえなければどちらも選ぶ事ができるのに。『二兎追う者は一兎をも得ず』と自らを皮肉る沖田。
(11月4日)新選組近藤、伊東ら、幕府の長州訊問使と共に広島へ向かう。 日野への手紙に、万が一の際には天然理心流を沖田に継がせると書き記す。
(11月8日)近藤長次郎、薩摩名義・長州支払で購入したユニオン号と下関に入る。
桂が不在の為初面識の高杉が取り合うが、この時既に『随分才子之様』と 才におぼれがちな近藤の様子を表し、的確に見抜いている。
(11月)フとした事から、柊は木戸が来るまで料亭の下の階や入口付近で待機している事を知る。

【木戸・柊】天狗の真実


詳細

声を掛け、寒いので中に入る様にと言うが不愛想に断る。―が、柊と話したい事もあると言って無理矢理連れ込んだ。
「おんしのそういう所がまずよくない!」と真っ赤な顔で怒られる。長州四カ国砲撃時に別れも告げないままに去って以来の再会。当時木戸は行方不明であったしどの様な経緯があったのかと尋ねるが、話そうとしなかった。はつみは思い切って武市の件について話始めるが、柊は聞きたくないと突っぱねる。
「ごめんね…」
旅館の女中が木戸の到着を告げ、柊は部屋を出て行った。
すれ違った木戸は別室に柊を連れ出し『君は今でも彼女が裏切り者だと思っているのかい?』と尋ねる。返答はないが思う所があるのは明確であった。やはり一度きちんと話しておく必要があるだろうね、と、はつみのこれまでの言動について話始める。
彼女が、いかにして武市を救おうとしていたのかを。

【木戸】
R15


はつみは木戸との事を考え、自分と乾の『取引』とそう変わらない状況なのに何故自分は 『取引』を申し出ないのかと自問する。
詳細

乾がよくてなぜ木戸はダメなのか…
彼を前にすると『先程までそこにいたのだろうか』と残香を感じる程明らかに意識してしまうのは、幾松の存在だった。
柊と別れ、少し遅れてやってきた木戸は、はつみが『取引』について考えているなど露知らず噂に聞いていた『ピアノ』演奏を聞きたいと熊谷五一に約束を取り付けたから出ようと言う。
木戸と共に熊谷家へ訪れたはつみは、シーボルトのピアノで演奏を披露。
抱きしめられ、「抑えきれない想い」を突き付けられる。
だが、はつみはずっと気になっていた幾松の事を、敢えて空気も読まず木戸に尋ねた。

(11月)近藤長次郎、伊藤俊輔と共に藩主拝謁のため萩へ向かう
(11月)木戸(桂)を説得し続ける為、木戸と共に萩へと向かったはつみを心配する寅之進と陸奥。
高杉は木戸の見かけによらない頑固さを指摘し、はつみも手を焼いているだろうと推測。 また、寅之進らから武市の件に関するはつみのこれまでの行動などを聞く。

【高杉、寅之進、陸奥】女傑評議9


(11月)木戸が訪れ、もうすぐ近藤長次郎が萩に入り、藩主謁見が住み次第下関へ戻る事を告げる。 そして『先日』の話の続きをしようとするのだが…

【木戸】萩取引
R18


(11月)伊藤、近藤を連れて桂と会見。
(11月18日)近藤長次郎、伊藤に連れられ長州藩主父子に拝謁。軍艦購入の労を労われる。 近藤はついに西洋留学の支援等を長州藩へ申し出、個人的に褒美を無心してしまう。
(11月)木戸、近藤長次郎とユニオン号条約確認を行うが話がかみ合わない。
詳細

もっとも、近藤は長崎にて事前に井上、伊藤に了承を得ているはずであったが 木戸および長州海軍局と長次郎薩摩側の認識違いが深刻に。
また、武器購入の件などで再度長崎へ出向く事となった伊藤につき、長次郎もすぐ長崎へ向かうと言う。 木戸は長次郎が薩摩との仲介役である事と今回のユニオン号条約に関し今後薩長間に緊張を持たせる 可能性があると不安視し、一先ず薩摩側へ使者を放ち新たな仲介役を立てる様手配する。

(11月)一方のはつみ。気分を変えようと思っても部屋に染みついた香が息をするたびに木戸を思い出させる。
詳細

武市を救えなかった喪失感、虚脱感、自分に対する苛立ちと困惑。更に事ここに至って突然 自身の周りで恋愛関係のごたごたが表面化し、己の存在意義や自己肯定感が今にも崩れ去ってしまいそうだ。
それもそうだ。価値観も異質すぎる自分などの知識や語学力など誰も期待などしていない。 彼らが見ているのは所詮、自分が風変わりな『女』だという性であり体なのだと。

(11月)木戸、ユニオン号条約確認の為下関へ行く。はつみを伴う。
詳細

下関にて近藤長次郎とユニオン号条約確認が行われるが話がかみ合わない。 井上、伊藤に了承を得ているはずであったが、木戸および長州海軍局と長次郎薩摩側の認識違いが深刻に。 木戸、近藤が薩摩との仲介にある事に不安を覚え、不要な摩擦を控える為に京小松へと使者を送る準備をする。

(12月3日)龍馬、内蔵太、下関に入る。近々西郷よりの使者・黒田了介が長州に入るとの事。 また、事情を聞いた龍馬がのユニオン号条約の件に介入する事となる。
(12月)木戸、はつみ、柊の3人、下関に戻る。

【龍馬・内蔵太】


【柊】憎愛の果てに
R15


【内蔵太】


(12月16日)幕府大目付長井尚志、広島より帰京の途につく。
(12月)薩摩藩士・黒田了介が西郷の使者として長州上関に入る。龍馬・内蔵太が案内人として下関まで同行する。
(12月中旬)龍馬ら、黒田、下関に入る。
(12月22日)近藤ら、長州入国を断念し帰京。更に会津へ向かい報告後、屯所へ帰還。

【沖田】初恋は成就せず


薩摩と関係を持っているはつみの事は、諦める様にと通達される沖田。「これは命令だ、総司」
(12月28日)木戸、黒田ら8名、京へ向け出港。龍馬はユニオン号の条約文改定作業が重なり、出港延期となる。

●慶応二年…はつみ25歳

(1月)高杉晋作、坂本龍馬に拳銃S&WM2Aを贈る

【高杉】下心ではない


はつみにも、以前の髪飾りではなくリボルバー銃と装備用のショルダーホルスターを渡す。これが思いもよらず、胸や身体のラインを浮き立たせるもので、高杉をはじめ龍馬らも思わず鼻の下を伸ばす事になってしまった。
(1月10-17日)龍馬、三吉慎蔵ら、下関より船に乗り、神戸に入る
(1月18-19日)龍馬ら大阪薩摩藩邸に入り、龍馬は三吉らと共に大久保一翁を訪ねる。 はつみは歴史上の観点から木戸の状況を『ある程度』分かっていた為、先に伏見寺田屋へと向かった。

【沖田】思い出となるように
R18


詳細

薩摩の通行書を使って入京するはつみを見つける永倉。検問中の沖田に声をかけ、時間を作ってやる。沖田ははつみに追いつき、思い切って腕を引くと『改める』と言って、茶屋へと入っていった。部屋に入りどうしたのかと尋ねるはつみを押し倒す。沖田は辛すぎる初恋に泣いていた。
「貴女の全てを知りたい。貴女を思い続けるのではなく、せめて…思い出となるように…」

(1月21日)薩長同盟

【桂】
R15


(1月23日)寺田屋事件・坂本龍馬襲撃事件

【龍馬】寺田屋事件


お龍のいない寺田屋事件が勃発する。

【西郷・半次郎】


(1月24日)新選組近藤、伊藤、松平容保より再度広島出張の命を受ける。 近藤、伊藤は別行動をとる。ひと月ほどで帰還する。 この頃から伊藤はついに尊王活動を行い始める。
(2月)鳶の小亀(フランス水兵殺害)事件
(2月5日)土佐、後藤象二郎主導で建設が進められた開成館、開館。 貨殖、勧業、税課、鉱山、捕鯨、鋳造、火薬、軍艦、医、訳の十局に分かれた極めて壮大な規模。
(2月15日)土佐仕置役(参政)後藤象二郎、大目付小笠原唯八、鹿児島視察。 開成館のより有効な運営方法を探る為
(3月)サトウ、シーボルト、パークス公使に対し昇給を交渉する。
(3月4日)龍馬ら、薩摩藩船「三邦丸」にて大坂出港西郷、中岡、三吉ら同行
(3月6日)下関にて三吉と別れる。
(3月8日)龍馬ら、長崎入港。近藤長次郎の墓参り。
(3月9日)龍馬、はつみを残し、寅之進、中岡、西郷と鹿児島へ向かう

【龍馬・寅之進】守護者心得


自分達は『守護者』であると話し合う龍馬と寅之進。最も彼女を理解し、もっとも近くにいて、彼女を守り続けるのだと。

【内蔵太】恋人未満
R18


詳細

一番始めに『嫁になってくれ』と言った内蔵太の想いがはつみに届く。武市とは結ばれる事なく死別し、色んな男に抱かれてきたはつみはもう自分のそういう感情が分からなくなっていた。だが、内蔵太がそう言ってくれるのは…前向きに受け取れそうな気がしていた。身体を委ね、相性の良さに翻弄され、束の間の安らぎを得た様な心持ちになれた。

【内蔵太】続・恋人未満
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【陸奥】蚊帳の外
R15


詳細

はつみの心が外を向くのを陸奥なりに待ち続け、友情を尊重し続けた結果が、はつみと内蔵太の情事を部屋の外から耳にして欲情してしまうという情けない現実だった。自分とした事がどこで間違ったのか…彼女の意思を思案し尊重しすぎたのが間違っていたのか…。陸奥は漏れ聞こえるはつみの嬌声を聞きながらがむしゃらに手淫に没頭する。

(4月30日-5月2日)ワイルフェフ号沈没事件

【内蔵太】君の背を押す


(5月)長州藩主、再び山口へ戻り藩庁も萩から山口へ戻る。
(5月)勝海舟、軍艦奉行に復帰
(5月)サトウ、『英国策論』を匿名でジャパン・タイムズへ寄稿。
詳細

・将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。
したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
・独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
・現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から
諸侯連合に移すべきである。
これは大きな反響を生み、匿名での寄稿であったにも関わらず『英国策論』という
表題と名前付きで増刷・販売が行われ、どの勢力、大名からも知られる事となった。
西郷隆盛らもこれを引用し「明治維新の原型になる」等と評した。
また、はつみが以前より明言していた幕府の現状・幕府にとって代わる新政権の台頭など、
『興味深いが夢物語だ』その様にも言われていたはつみの言葉が現実味を帯びて来た事の現れ。

(5月13日)乾、江戸滞留継続の命が下りる。
(5月13日)神戸開港要求事件に際し、関税改定が行われる。幕府、各国(英、米、仏、蘭)改税約書に調印
(6月)はつみ、第二次長州征討とユニオン号の立ち回りについて龍馬へ進言。早めの出港を目指す。
(6月6日)高杉、海軍総督兼丙寅丸艦長に就任
(6月7日)薩摩より2人の使者が至り、ユニオン号が完全に長州のものとなる。命名:乙丑丸。まだ姿を現さない乙丑丸について、『近く下関へ入る為現在準備に取り掛かっている』と告げる。
(6月7日)長州追討勅令

転機

慶応2年7月

▲ TOP ▲
●慶応2年…はつみ25歳

(6月7日~8月)第二次長州征討・四境戦争
(6月13日)高杉丙寅丸出航直前、乙丑丸及び龍馬以下亀山社中一行が下関へ入港。龍馬を船将とし、新宮馬之助(寺内)、千屋虎之助(菅野)、沢村惣之丞(前河)以下15名+はつみ、寅之進。
(6月13日)長州、高杉丙寅丸、大島奪還のため下関出航。
(6月)高杉、『どうせ戦場へ出るのなら僕の船に乗れ』とはつみを丙寅丸へと攫う。田中顕助、溝渕広之丞、山田市之丞らが同乗。甲板にてはつみに『君は何者だ?』と深い意味で問う。
三田尻で一泊し、膝枕を所望。

【高杉】三千世界の鴉を殺し… 前編/ 中編/ 後編


(6月)丙寅丸が幕府軍艦を奇襲。作戦は大成功を収めるが、高杉の身に起きた変化を目の当たりにする。

【高杉】奇襲、丙寅丸【挿絵付】


(6月)高杉を追って船室へと飛び込み、血痰を吐く姿を目撃する。
高杉『労咳だろう。まだ誰にも言っていない』とする秘密を見た見返りとしてはつみの秘密へと迫る

【高杉】ぬしと朝寝がしてみたい
R18


(6月17日)小倉口開戦。乙丑丸(ユニオン後)にて龍馬らも砲撃参加。
(6月17日)英・パークス公使、鹿児島訪問
キング提督、トーマス・グラバー、アレクサンダー・シーボルト、ウィリアム・ウィリス等追従。
(6月27日)英・パークス公使、宇和島訪問
(7月)サトウ、ウィリスらと高尾山方面へ小旅行に出る。関所でモメる。
(7月)サトウ、ワーグマンらと多摩方面へ小旅行に出る。舟渡でモメる。
(7月5日)イギリス軍艦が土佐浦戸を通過。『侮りを受けるべからず、先制攻撃』とばかりに大騒ぎとなるが、容堂が窘める。なおイギリス側では、長崎商人のグラバーから土佐の者との取引申し出などもあったなどと聞いていたが…やはり土佐は危険だとの印象を受ける。
(7月7日)後藤象二郎、中浜万次郎ら12人を伴って長崎へ発つ。従者横山、池道之助等。商用目的。
公武合体、開国論者へと傾倒しつつある後藤は藩政内において浮いており勤王党関係の者達からも狙われている。少し土佐を離れる狙いもあった。
(7月20日)将軍徳川家茂・逝去
(7月21日)高杉、病状悪化
(7月27日)小倉赤坂激戦
(7月29日)高杉、馬関口陸海参謀就任
(7月)土佐後藤、長崎にて貿易の推進にあたる。従者道之助、ロシア人音楽団に遭遇し衝撃を受ける。
(8月1日)小倉城陥落

才気飛翔編

慶応2年8月~慶応3年9月

▲ TOP ▲
●慶応二年…はつみ25歳

(8月)龍馬、はつみら長崎へ帰着。
(8月20日)慶喜、禁裏守衛総督辞任・徳川宗家相続
(8月20日)長州征討中止の勅命、『天下公論』の開催決定
(8月20-30日)蟄居中の岩倉具視による「天下一新策」「列参運動」。薩摩・大久保の接近
(8月)はつみ、小松と龍馬に対し、英国商人グラバーのもとで世界の交易について学ぶ事を望む。

【小松、龍馬、寅之進、陸奥】才気飛翔


詳細 小松ははつみが輝きを取り戻しつつある事を心から喜び、彼女はその可能性を大いに試すべきだとしてすぐに打診。龍馬も笑顔で送り出す。グラバーによれば英語力については申し分ないとして商会の事務方及び運営手伝いをする運びとなる。
はつみ寅之進、陸奥がこのインターンシップに選ばれた。
(はつみは自らの選択、寅之進は必然とはつみに付いていく、陸奥は押し掛け) 早速実践として日々の内勤事務から交易の手法を学び、日本を含む世界の地理、物産、運航ルート、そして交渉・接待術など熱心にグラバーから学ぶ。また、グラバーははつみの様に容姿の『美しい』外国人や多彩に才気溢れる女性は西洋での社交場や交渉面で非常に有利であると共に身の危険が生じる可能性なども説く。有利・不利どちらも含め、社交界へ出た時の為のマナー講習や相手を丁寧にあしらう方法、身を守る方法などを学ぶ事となった。
できるならピアノも腕を磨き続けるといいだろうとも個人的な助言を行い、西洋に出て東洋出身のアクトレスを目指してはどうかなどとも言った。

【寅之進、陸奥、グラバー、白峰】


【龍馬】灯台下暗し


はつみは輝いてこそ、才気に羽ばたいてこそはつみであると、そう願い続けていたはずなのに…。
(8月26日)土佐後藤象二郎、中浜万次郎以下6名、グラバーと共に上海へ赴き軍艦を購入。
(8月28日)容堂、尊攘派に指示を出し大宰府調査のため佐々木三四郎らに西国探索方を命じる。 佐々木三四郎、中山佐衛士、毛利恭助ら上士に加え 島村寿之助、佐井寅次郎、藤本潤七など下士攘夷派も加えられている。
(8月30日)廷臣二十二卿列参事件
→失敗、列参した公家22名が処罰される。『一大事の時に何も忠言せずこの様な時になって列参とは不敬の至りである/孝明天皇』
(9月)木戸貫治、藩命により木戸準一郎と改名
(9月)土佐後藤ら、上海から長崎に戻る。
(9月4日)高杉、白石邸にて血痰を吐き、病状について周囲の知る所となる。
(9月8日)公使館付二等書記官A.B.ミットフォード来日
(9月12日)三条制札事件。藤崎吉五郎と宮川助五郎ら土佐藩士8人と新選組原田左之助らが斬り合う。 安藤正勝がしんがりを務め奮闘。藤崎斬死、宮川捕縛(後に奉行所行)
(9月13日)土佐足軽安藤正勝、騒ぎが大きくなる事を憂い、藩邸にて自刃。
(9月17日)高杉、勤王派弾圧(乙丑の獄)により姫島流刑となった野村望東尼を救出。筑前藩士6名を向かわせた。下関で病床に伏せる高杉と再会した望東尼は、以後、彼の愛人おうのと共に看病にあたった。

仮SS/【高杉】恋をしている


恩義を忘れず救出してもらえた事に感謝し、そして高杉という稀有な御仁に再会できた事を毎日噛みしめるように喜ぶ望東尼。そして、高杉が真冬に挙兵を決意したあの時の会話を今もしっかりと覚えていた。おうのが買い出しに出ている合間を見て、彼に問う。
「今生かぐや姫とは再会できたのですか?」
 敢えてそれを聞いたのは、何となく答えを察していたからだった。恐らく彼はそのかぐや姫との間に一つの区切りをつけ、或いは抱いていた疑問に答えを得て、今は心安らかになっているのだろうと。高杉ははつみと再会した際の事を話し、殆ど誰にも話した事のない偽りのない気持ちを口ずさんでいく。そこへ高杉宛ての荷物が届いた。長崎グラバー商会からと言われ首を傾げるが、差出人にはつみの名前があった事で高杉は驚きすぐに小包を開いていく。中には朝鮮人参などで作られた高価な漢方薬が入っていたが、まず先に、同封されていた手紙へと目を通し始めた。
…その時の高杉の微笑ましい顔ときたら…。望東尼は老婆心に微笑ましく見守る一方で、少しだけ『焼き餅』のような心がある事も自覚する。そんな少しだけ複雑さを交えた視線に気付いた高杉は、何食わぬ顔をしながら鼻で笑い、手紙の内容について言及する。
「…噂のかぐや姫からじゃ。この間会った時は随分と暗い顔をしておったが、今では英国の商会で才を振るっておるそうじゃ。見ろ、漢方まで送ってきおって、文でも再三無茶をするなと言うておる。相変わらず世話焼きな事じゃ」
 『仕方のない奴だ』とばかりにはははと笑いながらも、喜びがあふれているのは十分に伝わってくる。
「…恋をしておるのですね。その方に。」
 微笑みながらも、つい口元からこぼれた言葉に望東尼自身も驚いてしまう。不躾な事を申したと頭を下げようとしたが、高杉は何ら不快な様子を見せる事なく寧ろ意外なほど素直に返してくれた。
「…ああ、そうじゃな。」
 それが、正妻だとか愛人だとかに向けられる感情とはまた違うものだという事は、意外なほど素直に微笑み返した彼を見て直ぐに察するに至った。そして、そんな彼の笑顔を観た望東尼もまた、老婆心ながら高杉に対し、恐らく彼がかぐや姫に抱くのと同じ恋のような気持ちを抱いてる事を自覚したのだった。
(9月18日)小松、妾・琴との間に嫡男・清直生まれる(京)
(9月23日)土佐、大宰府へむかった佐々木らが土方楠左衛門らに会い情勢を聞く。薩長同盟を知り、慌てて帰藩の途につくべく踵を返す。佐々木ら上士組は容堂への報告の為帰藩し、下士寿太郎らはそのまま京へと向かった。佐々木らもまた、容堂への報告の後京への探索を命じられる。
(9月24日)中岡、西郷信吾(西郷吉之助実弟)と入京
(9月28日)乾、江戸騎兵術修行の命が解かれる。
(9月30日)土佐佐々木ら、京にて中岡と面会。『列強の脅威』を教えられる。龍馬にも会う予定だったが会えず。
(10月15日)小松、朝廷から求められ西郷と共に兵を率いて上京。慶喜による幕府強化の政局打開の為。三邦丸(みくにまる)にて西郷と共に。長崎などへ立ち寄る。
(10月20-24日)横浜大火。
詳細 遊女400人が焼死する大火災であった。日本人居住地、外国人居住地も焼き払われ、死傷者が出た。
防火性と言われた外国人の倉庫も漏れなく燃え、友人の倉庫へ出来る限りの荷物を運びこんだサトウも結局は着ていた服と靴、自ら守った辞書の原稿と前公使オールコックの原稿以外は全て失ってしまった。まだ燃えていない建物を壊して延焼を阻止する措置も取られたが、火の回りがあまりにも早く殆ど無意味だった。物という物が焼き払われ、向こう2年ほど、横濱の全ての物価が上昇する。
サトウはギルマン商会横濱支社の支店長であった友人トム・フォスターとしばらく同居し、後に高輪公使館(接遇所)へと異動(移動)となった。
(10月20日)土佐下士島村寿太郎ら、京にて大久保一蔵らに会う。
(10月26日)中岡、土佐同志への所論「竊に知己に示すの論」執筆
(10月27日)高杉、病状悪化、療養専念の為、馬関口陸海参謀解任され桜山東行庵にて療養。
(11月)龍馬、しばらく長崎に滞在する。
(11月)乾、薩摩藩士の吉井友美らと交流。吉井が島津久光の代理として土佐を訪れる事となる。
(11月4日)サトウ、横濱領事館付き通訳官から公使館付き通訳官へと昇格
長崎のグラバーから一通の手紙が届く。『土佐の侍と上海渡航した際の報告及び土佐への軍艦売却、その後の報告』『薩摩出資の亀山社中から4人のインターンを迎えた件とその後の経過』とする内容で、後者の件に関しては小松からの文書も添えられておりこれを公使の為に訳したのがサトウであった。思わぬところではつみらの名前が出た事で、思わず内心歓喜してしまう。報告に含まれることでシーボルトの知る所ともなり、報告事項以上のものを感じ取り興味を持ったミットフォードがおもしろげに首を突っ込む事態となる。ウィリスに至っては、四カ国艦隊長州戦争講和条約でのサトウやシーボルトの様子、先日の薩摩宇和島訪問時にグラバーからはつみの所在を聞いたシーボルトの反応など目の当たりにしていた事もあり、『愛の戦争』故に任務に支障が出ないかを心配していた。


【サトウ、シーボルト、ミットフォード】VS. ?
(11月)英、公使館を高輪泉岳寺前に用意されていた平家二棟へと移す。
詳細 二棟のうち一棟はパークス公使の公邸、もう一棟には公文書記録室の職員によって使用される事となった。第二等書記官ミットフォード、会計補佐官兼医官ウィリス、通訳官シーボルトとサトウ、通訳生ヴィダル。英国駐屯兵の他、別手組と呼ばれる、前公使館東禅寺時も警備した組織が護衛として常駐した。この住むには環境が宜しくなく、立付けも悪く隙間風が酷かった。また夜になると酔った常駐兵達がラッパを鳴らして飲み騒いだ。ミットフォードなどは夜中に飛び起きて拳銃を構えるほどだった。
こうして公使館はこの高輪の建物へ移されたが、パークス公使本人は横濱領事館の方に住んでいた。
(11月8日)サトウ、情勢調査と鹿児島・宇和島等訪問の為、護衛の野口ともう一人を連れ『憧れの』長崎へ向かう。火災直後で服も少なかったが、日本人が使う竹籠に荷物を詰め込んで一刻も早くと船に乗り込んだ。
(11月17日)サトウ、長崎に入る
悪天候で航路が逸れに逸れ、『香港へ行くのか?』と言う程日本の海図から投げ出され、9日間彷徨った挙句ようやく長崎に到着した。私用ながら…としつつ、真っ先に衣服の店に向かい確保した。7日間滞在し、宇和島、薩摩、肥後、土佐の藩士、グラバーやはつみらと会う。


【サトウ】I've been waiting...
(11月24日)中岡、義兄北川武平次から父小伝次の死去を聞く。大阪屋与兵衛のスタジオで決意の写真撮影。
(11月)中岡、土佐同志への所論「愚論窃に知己の人に示す」執筆
(11月26-27日)英・パークス公使、恫喝事件


【サトウ】据エ膳食ワヌハ男ノ恥?R15
(11月26-27日)(西暦では1.1)サトウ、野口らと共に長崎を出航。翌日鹿児島着
『オテントウ丸(丙寅丸)』が碇泊しており長州の桂小五郎が来ていたが会えなかった。薩摩の近代工場を見学。ガラス、弾薬、大砲、陶磁器類。英国人が何人か技術指南として働いていた。
(11月28日)徳川慶喜の弟・昭武が清水家を相続。徳川昭武と名乗る(14歳)。民部大輔としてパリ万博参加などを含む訪欧使節を命ぜられる。
(11月)アレクサンダーFシーボルト、英国政府の慣例に習い賜暇取得の運びとなるが徳川昭武ら使節団の通訳としてパリまで同行する事となる。
これに際し、はじめて、はつみに手紙を出す。思い切ったラブレターのツモリだったが『貴女の写真が欲しい』の一文以外は殆ど攻めていない内容。
(11月30日-12月1日)サトウ、鹿児島発。翌日宇和島着


【サトウ】Today is a very peaceful day.
藩主がお忍びで見に来るなど、なかなかユニークな出迎え。四侯会議の一人である隠居・伊達宗城とも会う。宇和島の雰囲気は、精神的主柱である隠居から市井の人に至るまで皆明るく好意的で礼儀正しかった。
(12月)土佐後藤象二郎、谷干城ら、長崎にて蒸気船2隻(箒木ははきぎ)(空蝉うつせみ)(胡蝶)購入。他、ライフルや胴乱なども買い付けた。
(12月4日)サトウ、宇和島発
(12月5日)徳川慶喜・15代将軍就任


【シーボルト】Love letter.
(12月)グラバー邸にシーボルトからはつみ宛ての手紙が届き、グラバーが悩まし気に笑いつつ写真撮影などの世話を焼く。グラバーいはく「私も君の写真が欲しいと思っていたところなんだよ」。写真撮影中陸奥らの冷やかし(焼き餅)が入り、コントの様な写真を撮る。
(12月6日)サトウ、兵庫着。薩摩の船を訪ね、小松帯刀と西郷吉之助の所在を知り、面会を希望する
(12月7日)サトウ、『整う』(熱い風呂の後に浴衣で外気冷却する心地よさ)
西郷、自ら兵庫に入りサトウと対面。やはり彼は以前薩摩船内にいた『島津左仲』だった。西郷は慶喜が将軍職に就任した事や兵庫開港への考えを述べ、パークス公使が自分たちの誰かに会いたいと言ってくれた人物は、誰でも京から派遣すると約束して去っていった。
(12月10日)サトウ、横濱着。横濱英国領事館にてパークス公使に報告
(12月11日)サトウ、高輪英国公使館(接遇所)へ戻る
(12月14日)中岡、西郷吉之助寓居での赤穂義士伝を読む会に出席
(12月)乾、水戸浪士(相楽総三ら)を独断で江戸藩邸に匿う。山田喜久馬、真辺正精、小笠原謙吉(小笠原唯八の弟)にのみこれを打ち明ける。
(12月)乾、刀鍛冶の左行秀を義侠心のある男と見込み、水戸浪士の件を打ち明ける。
―が、後に裏切られる。
詳細 この頃土佐藩は購入した西洋銃を元に日本製の新式銃を作る計画があり、その製造責任者に行秀を配していた。左行秀は容堂や東洋らもその腕を認める刀鍛冶であった。容堂は『今様政宗』と高く評価し彼の刀は広く『土佐政宗』とまで言われた。銃器製造責任者として乾と関わる事も多く、その中で義侠心有りと見込んで秘密を打ち明けたのだが、左行秀は後にこの事を寺村左膳に密告してしまう。乾と左膳は文久の頃より真向から思想が合わない事でも有名であった。
(12月25日)孝明天皇・崩御
その訃報は4日間伏せられた。

●慶応三年…はつみ26歳
(1月11日)民部大輔ら訪欧使節団、出港。アレクサンダー・フォン・シーボルト随行。はつみの写真を胸に。
(1月3-5日)サトウ、ミットフォード、各国公使会見招待の下見のため大阪へ向け出港。兵庫着。先に碇泊していたプリンセス・ロイヤル号のウォルター・カー卿から桂小五郎の写真を貰う。この時、孝明天皇が崩御した事、崩御から4日間その情報が統制されていた事、毒殺の噂がある事を知る。幕府側の対応が明らかに変わり、大変礼儀正しく細かに配慮してくれる印象。
(1月)龍馬下関に入る。中岡と合流。


【高杉】相縁奇縁R18
「妻には愛情、妾には慕情、尼には母心。
 それとは別に、尊く親愛の念を抱く人がいる。
 わかるか?…君だ。」
(1月9日)龍馬一行、下関を出て長崎へ向かう。
(1月9日)明治天皇・践祚


【サトウ】小松トイッショ
(1月10日)サトウ、大阪にて小松帯刀、吉井幸輔と過ごす。小松は『最も魅力的な日本人の一人である/サトウ』
(1月11日)サトウ、小松帯刀、吉井幸輔と過ごす。長州の井上聞多も同席する。
(1月12日)サトウら、柴田日向守と将軍謁見時の段取り、作法などについて穏やかに打ち合わせ。
(1月13日)サトウら、野口の取次で会津藩士4名と会談。軍艦バジリスク号見学の手続きをする。
(1月)サトウら、先日の会津4名と家老の訪問を受け大いに飲み明かす。下ネタまで言い出す。
午後は大阪副領事館へ行く為の小舟の検分に費やされたが、夜また会津藩士らと飲み明かす。


【サトウ】Without any regrets.R15
(1月中旬か)サトウら、江戸英国公使館(接遇所)へ戻る。通訳生のヴィダルが自殺していた。ウィリスが駆け付けており、まだ心臓だけは動いていた彼を看取っている。本の少し前まで夕食を共にし普通に会話もしていた。一方で腎臓関係の持病への悩みや日本での生活に慣れない様子など見られた所もあり、精神の異常を来たし魔が差して自殺に至った…とする他なかった。
(2月)龍馬、後藤、長崎にて清風亭会談。
後藤は藩命により薩摩や上海を視察し、海外貿易について研究をしていた。
これまでの(特に勤王党に係るもの)遺恨や脱藩罪を越え、手を取り合う事を誓う。
この事は上士として土佐勤王党盟主武市半平太を支え奔走していた谷干城も承知の上である。
谷に関しては今となってようやく、当時はつみが言っていた事、言おうとしていた事の意味が
分かるとまで言う。
しかしはつみは後藤を受け入れられず、しかし反対する訳もなく、粛々と対応した。


【龍馬】遺恨
はつみ、引き続きグラバーの下でワールドワイドな研鑽を積む。
(2月)サトウら、横濱の友人達と箱根・熱海を旅行。
(2月)サトウ、ミットフォード、高輪公使館(接遇所)近くの『門良院』に部屋を借りる。
食事は近くにある薩摩御用達の万清という料理屋から和食を1日3回取り寄せた。
ミットフォード、日本語習得が驚くべき速さで進んでいる。もう殆ど一人でも問題ない。
(2月)龍馬、中岡、土佐脱藩罪を許される。
(3月5日)中岡、鹿児島の先端工場を見学(後日久光に謁見。五卿への伝言賜る)
(3月中旬)各国代表、将軍慶喜謁見の為大阪へ向かう。
(3月)名古屋辺りで『伊勢神宮の御札が降りた』事で『ええじゃないか』が始まる。
全国へひろがってゆく。
(3月下旬)兵庫大阪開港後の様々な規定について連日会議が行われる。
(3月25日~4月15日)徳川慶喜、大阪にて各国公使と会見。
詳細 (3月25日)徳川慶喜、英国パークス公使と非公式会見。
サトウ、日本語書記官代理としてパークス公使と将軍慶喜の間に座り、通訳を行う。
将軍慶喜、パークス公使に絵画を贈る。
(3月28日)将軍慶喜、英国公使、蘭公使、仏公使三者と公式会見
サトウ、宿舎(寺)の囲いに人一人が通れる穴を見つけ、隙あらば野口と共に町に出る。
サトウ、宇和島家臣松根の息子に案内され、花町へ出かけるが、遊女に悲鳴を上げて逃げられる。松根や野口が説得するが無理強いはせず、遊女を見られただけで満足した。後日ふたたび花町へ案内され、芸者とのひと時を楽しんだ。
サトウは先日の事を受けた幕府側が話を通してくれたのではないだろうかと感じていた。とはいえ、幕府は外国人へ過度に近づこうとする事を良く思っておらず、松根息子はある意味疑惑を向けられる事を覚悟で、サトウが大阪の街を楽しめる様案内していたのだった。
他、寺院や劇場を訪れたり、茶道を体験したり、堺まで足を延ばしている。
(4月)土佐寺村左膳、再び容堂の側用人となる。
(4月)支払いでアメリカ・ウォルシュ商会の松尾豊作と薩摩の間でモメていた大極丸について、土佐後藤象二郎(岩崎弥太郎・土佐商会)が金を出しひとまずの解決。
(4月上旬)土佐藩・海援隊発足
(4月13日)中岡、京阪にて海援隊への1300両を斡旋する(公卿板倉筑前之助から高松太郎へ)
(4月14日)高杉晋作、死去。


【高杉】君に降る花、そよぐ春風
(4月15日)各国公使達は交渉内容に満足し、横濱帰港の路につきはじめる。商業に適さない新潟港の代わりに佐渡の夷港を開港、また敦賀か七尾も開港の候補に挙げられた。
(4月15日)パークス公使、大阪を出発。陸路にて敦賀(現在福井県)へと向かう。
(4月15日-4月下旬)サトウ、画家チャールズ・ワーグマンと共に陸路(東海道)江戸へ向かう。同行者は野口らに加え、現地の公使館護衛(別手組)10人と、幕府外国方の官史2人。2人は道中の滞在先を手配する為、宿の一覧表や旅行日程(16日予定)を管理する為に同行した。
(珍道中詳細、英国公使館年表にて)
(4月)陸奥と白峰、グラバー邸でのインターン及び連絡係を終え海援隊の元に戻る。海援隊はまともな運航前から船の調達等にて資金繰りが厳しく、すでに京で斡旋している高松太郎や白峰駿馬らに続き陸奥らも(いろは丸乗船後に)大阪へ滞在する事となる。珍しく「キメ」にくる陸奥。


【陸奥・寅之進・白峰】好敵手2
(4月19日)いろは丸、海援隊、初出航。
「今日をはじめと乗り出す船は、稽古はじめのいろは丸」
 はつみ、グラバーの厚意で大阪へのお使い視察と称し、龍馬らといろは丸に同乗


【龍馬】海援隊、始動
船長:小谷耕造
士官:渡辺剛八、佐柳高次、腰越次郎
文司:長岡謙吉
会計官:小曾根英四朗、龍馬、陸奥、はつみ、寅之進
全38名。
他、見習い水夫及び火夫。いろは丸の元も共乗組員大洲藩の者達は長崎で全員降りていた。陸奥、先日結構キメて別れたのにすぐはつみと再会する事になり、盛大にボヤく。
(4月23日)海援隊、いろは丸沈没事件
23時頃。岡山藩六島沖付近にて、いろは丸と紀州の軍艦明光丸が衝突する事故が発生。衝突しいろは丸の腹に突っ込む明光丸。ワイルウェフ号や内蔵太の最期を思い出したはつみが血の気を失い海へ落下。
すかさず龍馬が追いかける。


【龍馬】いろは丸事件・ルシの奇跡R15


【サトウ】Terrorist Attack.…EP1/EP2
(4月24日)アーネスト・サトウ襲撃事件
陸路江戸へ向かう道中のサトウとワーグマンが(恐らく掛川にて)日光例幣使一行から襲撃される。 終始共にいてサトウをリードしてくれた一番年下の別手組:マツシタを始め、野口を含む全ての護衛達のお蔭で助かったが、安堵したサトウは赤いパジャマズボンで危機を乗り越えた事に気付き、その緊迫さと間抜けさのギャップから思わず笑ってしまう。気が立っていた護衛達は「早くそれを隠してくれ」と鼻息荒くしていたが、サトウが無事で笑っていた事や、その後襲撃に関して徹底的に先方へ異議申し立てをした事で間接的に警備達の見立てと気概を立ててくれた事もあり、相互的に大きく信頼関係を育む一件にもなった。
(4月24日)朝4時、いろは丸沈没。陸奥ら36名は明光丸に乗り移っていた。(3人が火傷、死者はなし)
昼まで周囲を捜索するが、明光丸は一旦福山藩鞆の浦へと入港。協議班と捜索班に分かれる。
(4月下旬)サトウ、夕方小田原に着いた頃パークスから緊急帰還を促す手紙を受ける。
速足の籠に夜通し揺られなんと翌朝10時に帰還を果たすも、誰でも代理の効く仕事だった。
(4月28日)山内容堂、寺村左膳ら四賢侯会議に出席するため藩船夕顔に乗り込み土佐を出立
(5月4-21日、23日)四侯会議
(5月)乾、四侯会議の失敗を嘆き討幕を啓発する中岡の手紙を受け、諫死の覚悟で上京を決意。
(5月18日)乾、近安楼で谷干城、中岡、福岡藤次、芸州藩船越洋之助らと小宴


【乾】女傑評議10
(5月19日)乾、容堂に目通り願うが『討幕論』につき容堂に意に添わず会う事を許されない。
(5月21日)乾、中岡、谷ら、小松帯刀邸にて、帯刀、西郷吉之助、吉井幸輔らと会談。薩土密約を締結。
乾が江戸土佐藩邸に匿っていた水戸浪士の西郷への移管も条約内に含まれる。
(5月22日)薩摩、藩論を武力倒幕へ統一する。
(5月22日)中岡、土佐の勤王志士に勤王討幕の志ある者は門閥を越え乾を盟主とせよする激文を飛ばす。
(5月22日)乾、いまだ藩論を討幕へと決定しない容堂に対し、時勢を説く。
更に、藩論に逆らう形で江戸藩邸にて水戸浪士を匿っている事を告げ、覚悟を述べ、了承を得る。
乾、中岡らに銃の購入を命じる
(5月23日)容堂、帰国願いを出す。
(5月24日)将軍・慶喜、(以前から問題になっていた)兵庫開港の勅許を得る。
(5月25日)中岡、福岡藤次の支援のもと『陸援隊』結成。
亡高杉奇兵隊を参考に薩土討幕盟約に基いて発足したもので、龍馬の海援隊と併せて『翔天隊』とす。
京白川の土佐藩邸を拠点とし、尊王攘夷の思想を持つ土佐藩、その他浪士が77名が所属。
谷干城、田中顕助らが名を連ねる。
薩摩藩から洋式軍学者鈴木武五郎が派遣され、支援隊としてかつて天誅組も頼った十津川郷士50人と合同で洋式調練を行った。
この陸援隊の内部には新選組など幕府方の密偵が入り込んでいた。
(5月27日)容堂、乾と共に土佐へ帰藩する。
(6月2日)乾、容堂と共に土佐へ帰国。
容堂、寺村左膳、真辺栄三郎、福岡藤次らを名代・山内兵之助補佐として京に置く。
(6月頃か)サトウ、港を一望できる高輪の丘に大きな高屋敷を借りる。


【サトウ】Come on a my house.
詳細 港を一望できる丘の上にあり、様々な大きさの部屋がいくつもつくられ、広い庭がついていた。
二階にはサトウの寝室と日本人向けのゲストルームがあり、階段が3つあったので万が一襲撃に遭った際には
逃げ出す事が可能だった。一階にはヨーロッパ人向けのゲストルームと1つと、応接室が2つ。
使用人の為の部屋が一つに書斎が一つあった。
書斎には円形の窓があり海を覗く事ができ、四角形の窓からは庭を覗く事ができた。小さな食器棚と本屋紙を
収納する為の棚が沢山あった。事務作業を行う為の机と小さなテーブルがあり、サトウと日本語教師の為の
椅子が1つずつ、そして公使館付きの中国語の教師のための長椅子も一脚あった。大きな洗面台と台所もあり、
近くには二階建ての建物があり(恐らく『離れ』)、そこには使用人と若い日本人が住んでいた。
後者には英語を教えるつもりだった。食事は引き続き万清という有名な店から取り寄せていたが、
ビールだけはイングランドのものを飲んだ。
家の事は野口が一切を取り仕切り、各種料金の支払いや修繕、来客の対応などを行った。
食事の給仕とその他雑用を任された14才の少年がおり(既出の『若い日本人』か?)
彼は武士であったので出かける際には刀を二本差す事を許されていた。
その他、30歳くらいの女性が床掃除(家具が少なかったので掃除はすぐ終わった)、朝夕の雨戸締り
衣類の繕いなどを担当し、また家の住人の為に米を炊いたりなど何でもしていた。
門番もおり、彼は庭の掃除や馬丁など召使いの役割も担った。
また、サトウがでかける時はいつでも幕府の護衛が二人ついた。彼らはこの年の始めに陸路で
大阪から旅をした時に同行し、友情を育んだ護衛達6人であった。彼らは離れに住んだ。
(6月9日発13日着)後藤象二郎、容堂の要請により坂本龍馬と共に上京。(この時船中八策)
容堂は朝廷と幕府、双方の譲り合いにより円満な事態収拾を期待していた。
一方、中岡はこの様な考えを持つ者に対して痛烈な批判を説き始めていた。
(6月13日)乾、大監察(大目付)、軍備御用兼帯となり大幅な軍備改革に取り掛かる。
(6月13日)佐々木三四郎の京都出張問題。藩論の行く末。
(6月13日)後藤象二郎、容堂の要請により坂本龍馬と共に上京。(この時船中八策)
容堂は朝廷と幕府、双方の譲り合いにより円満な事態収拾を期待していた。
一方、中岡はこの様な考えを持つ者に対して痛烈な批判を説き始めていた。
(6月14日)長崎・浦上四番崩れ(隠れキリシタン摘発事件)
元治2年(慶応元年)の頃、長崎の外国人居留地に大浦天主堂というカトリック教会が建てられた。 フランスのベルナール神父はここで隠れキリシタンと出会い(使徒発見)、江戸初期:島原の乱以降 ひたすらに隠れ口伝でのみ受け継がれてきた信仰の指導を願い出たと言う。 これを機に長崎周辺に潜んでいた隠れキリシタン達はひそかに大浦天主堂を訪れ、 神父の教えを受け持ち帰り、広めていた。
活動が広がり信仰心を抑えきれなくなったのか浦上村などでは仏式の葬儀を拒むものが現れ、 これが原因でキリシタン勢力の存在が露見したという。長崎奉行所は武装して浦上村へ乗り込んでいったが 信徒たちは無抵抗で縄を受け入れ、棄教を迫る役人達から厳しい拷問を受けた。 …というのが史実であったが、はつみはこの辺りの事には殆ど詳しくなく、『実際には史実とは違う事件が起こっている』事や、『その事件が行方不明になっているルシと関りがある』とは気付けなかった。
詳細 長崎奉行所が浦上村の信徒を捕縛し拷問せしめた翌日、長崎に滞在していた各国公使及び領事が長崎奉行所へ強く非難するが、同時に信徒を捕縛した役人達が何者かの襲撃にあったとの報告が飛び込んできたという。
信徒らを拷問の最中、空から黒い何かが降ってきて次々に役人たちを襲った。真っ赤な目をした黒鳥だったとの報告もあったが、信徒を取り締まる男達が一瞬にして地に膝を付くほど、圧倒的な襲撃だったと言う。恐れおののきキリスト教の呪いだと言う者に対し、各国はとんでもない侮辱である事を主張し断固抗議。黒鳥の正体も所在も分からぬままであったが、信徒たちは各自控えを取られた後ひとまずと留置は取りやめられ、それぞれの村へと帰らされた。黒鳥の件はともかく、長年キリスト教を廃止してきた幕府はやはりこれを認める訳にはいかない。諸外国との摩擦も強くなり、大きな悩みの種が具現化した形となってしまった。
(6月)乾、佐々木三四郎と協力して土佐勤王党員6名を釈放。
土佐全土の勤王党が乾を盟主とする討幕を決断。
乾は推されて、武市と似た立場・土佐勤王の盟主となる。
更に町人袴着用免許以上の者に砲術修行允可の令を布告した。
(6月15日)佐々木三四郎、容堂の許可を得て京へ向かう。
全権委任の形ではないが、上京の上大義のある方向が見えれば決行せよ、との事


【乾】英雄の器
時世を見極めきれない容堂は乾を再び大目付へ昇進させ、軍備御用を兼任させた。土佐藩内は未だ藩を挙げての思想統一には至っておらず、小八木ら佐幕派や寺村ら公武合体派などがこぞって乾ら勤王派と対峙している形ではあったが、乾は京にて独自に締結させた『薩土密約』に備え、いつ『倒幕』となっても動ける様、長州の英雄高杉晋作の軍事を目の当たりにしてきた中岡から助言を受けつつ大がかりな軍備改革と人事斡旋に取り掛かっていた。
今後について語り合う乾、佐々木、小笠原。
「長州には高杉晋作という藩改革と防衛にひと肌もふた肌も脱ぎ活躍した御仁がおられたそうじゃ。 我が藩にその類の英雄がおるとすれば、それはおんしじゃ。乾。」
「土佐・勤王の盟主となれ」


【乾】女傑評議11
土佐きっての武力倒幕派会議が解散となった後、小笠原が佐々木にコソコソと肘打ちする。
佐々木は「あ~」と目を泳がせた後わざとらしく咳払いをし、乾に声をかけた。
「俺はこの後すぐにでも京へ行く。」
「おう。斬られんよう気ぃつけや」
苦笑する佐々木は、また小笠原と視線を合わせた後で仕方なさそうに話を続ける。
「あ~、その、桜川はどうしちゅう?」
「(ヘタクソ!!!)」
あまりに直球すぎる佐々木の問い質しに小笠原が心の中で悲鳴を上げた。
(6月15日)中岡、後藤から大政奉還を聞く。
(6月)以蔵、城下禁足と士分剥奪を解除・許されるとの報せ来る。
(6月17日)谷干城、小目付のまま軍備用・文武調役兼帯となる。
(6月17日)佐々木三四郎ら、京に入る。同行していた仕置役・猪内は出立前に容堂から 『福岡藤次を帰国させよ』との命を受けていた。後藤象二郎の無責任ぶりから二人の仲が悪くなっており 龍馬と共に大政奉還を練る後藤に対して福岡は中岡・薩摩に近付き討幕論に組している状態だった。 容堂はそれを警戒していたのだった。
しかし猪内はこの密命を佐々木に打ち明け、福岡を京へ留めおく相談をする。
(6月22日)英、幕府の官史らと共に新潟視察へ出航。
パークス公使、サトウ、ミットフォード、野口、リン・フー(ミットフォードの中国人給仕)
(6月22日)中岡、龍馬の仲介により、小松帯刀、大久保一蔵、西郷吉之助、後藤象二郎、福岡藤次、 寺村左膳、間部栄三郎による幕府排除と王政復古の為の薩土盟約(先日の薩土密約とは別)が成立。 もちろんこの条約の中には、土佐容堂の思想とは異なる『討幕挙兵』に関する項目もあったはずであった。 『倒幕』を目指す薩摩や中岡らにとって『大政奉還』は正直どうでもよく(いずれそうなる)、 『土佐が挙兵する事』が重きと期待を寄せていた。
(6月25日)中岡、坂本龍馬と岩倉村の岩倉を訪ね、密談
(6月26日-7月4日)英、函館を経由して新潟港到着
(6月27日)中岡、この日より陸援隊白川藩邸へ入る。
(7月)以蔵、いまだ城下の実家へ戻る事もなく、大小すら持ち合わせずいつも通りに墓を守り、 武市が残した本を読み、内職を手伝い、数日ごとに日雇いに出ては武市家に金を入れる (あるいは京鈴蘭の為に僅かずつの金を貯める)といった生活を送っていた。 富の叔父である島村寿之助から乾が奨励する砲術修行への参加を勧められるが、以蔵は武市の墓を守りたい と言って乗り気でない。それよりも武市の妻である富が家財を没収されいまだにこんな困窮した 生活を送っているのはどういう了見なのかと、もっともな苦言のみを一言残して去った。
そんな彼に対し仲間内の間では失望の声もあがるが、もっとも土佐勤王党が絶頂期であった文久2年の時ですら以蔵は 武市の身を守る事に専念しておりその剣を振る事は無かった。今大小を持ち合わせていない事を見ても 『以蔵にはもとより世を憂う思想が稀薄だったのかも知れぬ』とも言われ、以後声を掛けられる事はなくなる。
しかし富は、武市が残した本などを読みふける以蔵の姿を見ていて、彼らが思う様な事は決してない、以蔵には以蔵の 強い想いがあるのではないかと感じ取っていた。
そして、京で以蔵が武市を守る事に注力してくれていた事を知り、改めて礼を述べた。


【以蔵、富】真心5
(7月)何礼之、幕府の開成所教授職並に任命される。
(7月5日)夜、イカルス号事件
(7月6日)英艦イカルス号水兵殺害事件が勃発する。事件は人々が活動を始めた翌7日の早朝に明るみに出る事となり、駆け付けた奉行所の者が英国領事館へ出向き『外国人が殺されたがどこの国の者か分からない』『昨晩の人出や衣服からイギリス人の可能性が高い』と捜査協力に訪れた所から始まった。殺されたのはイカルス号水夫ロバート・フォウド28歳と船大工ジョン・ハッチングズ23歳。イカルス号は英艦、二人もイギリス人であった。ここまで詳しい情報がグラバー邸に入ったのは更に翌日、7日なっての事であった。同日、長崎奉行所の俗事方・桐山子之助の耳にも入る事となる。
 この報はグラバー邸にも急遽舞い込むがはつみは「英米兵士殺傷事件」「攘夷、天誅ではないか」としか聞いておらず、この事件があの『イカルス号事件』だとは最初気付けなかった。
(7月6日)英公使、佐渡到着。サトウのみ日本式で陸路移動。陸路を好むサトウはこれを喜んだ。
(7月7日)英公使、佐渡・金鉱山見学。
(7月7日)長崎、グラバー商会に勤務するキングズと召使のキタローがイカルス号事件被害者が殺された2名に心当たりがあるとして事情聴取を受ける事となる。二人が『ヤマ』へ出かけた5日夜、事件現場で外国人二人が酔いつぶれていた。『ヤマ』から戻ってきたのは更に夜の更けた11時頃であったが、二人はまだその場で寝ていた。血は見ていない。どこの船の者かまではわからなかったと供述。他の日本人参考人らと概ね同じ内容であったという。
(7月8日)英公使、加賀・七尾上陸。
(7月8日)後藤象二郎、真辺栄三郎、大政奉還論献策の為土佐帰藩。容堂の許しを得る。
(7月)長崎に碇泊する全ての外国船から水兵が上陸し、各自警備体制に入る。
(7月9日)後藤象二郎、真辺栄三郎、寺村左膳、高知城二の丸にて藩主豊範に拝謁。許しを得る。
(7月)寺村左膳、参政となる
(7月10日)英、サトウ、ミットフォードが陸路大阪へ向かう事となった。外国人未踏の地をゆく冒険の機会に心を躍らせるサトウ達。
(7月11日)サトウ、ミットフォード、陸路大阪へ。佐野、阿部、その他20人程の護衛が同行。上司も幕府官史もいない解放された冒険が始まった。
(7月)サトウ、ミットフォード、旅の終盤、幕府官史(若年寄平山の部下)と合流。大津経由か宇治経由かでモメる。
詳細 平山から、初夏の大阪来訪時には閉ざされていた石山寺に案内する様にと命令を受けているそうで 彼らは宇治経由の道を進めて来た。しかし大津の方が道のりは短く、サトウ達は早く大阪へ戻りたかった 事もあり大津経由を希望した。しかし不自然に宇治経由を勧める彼らと話が合わず、不信感を募らせる。 大津経由を断行するサトウだったが、ミットフォードが譲歩の姿勢を見せ、宇治を経由したい理由を 包み隠さず話し、その旨を納得のいく書簡にする事で妥協するとした。
官史達はようやく、パークス公使が以前大阪から陸路を進んだ際、御所に近い伏見を通過した為に 『御所が汚された』などと言う侍たちが騒いだ為。と白状し、その旨を書簡にしたためた。 サトウ達は『完全に勝利した』とのこと。
ちなみに平山が見せてくれると言っていた石山寺はぴたりと門を閉じ、一切足を踏み入れる余地がなかった。 平山の言葉は、サトウ達を宇治経由させたいが為の嘘だった。
(7月)長崎奉行所と長崎英国領事館は事件当日前後、周囲全ての店、人の出入りなどを徹底的に攫ったが『白い服を来た不審人物』と『事件発生直後、海援隊の横笛丸、南海丸が出航した様だ』という証言以外出て来なかった。 長崎奉行所と英国領事館はこれを以て土佐藩海援隊を容疑者とし、幕府もそれを受け土佐へ通告し、また幕府直轄の外国奉行(若年寄)平山らを土佐および長崎へ派遣する事を決定する。
(7月17-22日)乾、土佐藩銃隊設置の令を発する。
乾、北條流弓隊は儀礼的であり実戦には不向きとして廃止。
士格別撰隊、軽格別撰隊などの歩兵大隊を設置し、近代式銃隊を主軸とする軍備改革を行う。
(7月22日)サトウら、伏見着。御用達の宿にて『外国人二人を殺す為に、大津に200人が集まっている』と話す
土佐人の会話を野口が聞いている。知ってか知らないでか、幕府官史達はサトウ達の命を救ったのだった。
(7月)7月上旬に長崎で起きた『英米兵殺害事件』がなかなか解決されない内に、その容疑が海援隊士へ向かっている事をグラバー商会に務めるはつみや寅之進の耳に入る。同時に海援隊・土佐商会にいた白峰駿馬がグラバー邸に転がり込み、情報提供や協力を乞う事態となった。この時になってはつみはようやくこれが『あの』イカルス号事件である事に気付き、どちらに付くのではなく真実が明るみになる様、海援隊と英国米国間で情報の相違がない様尽力したいとグラバーに申し出るのだが、しかしグラバーはどう転んでも海援隊側の味方をする訳にはいかず、はつみがどうしてもと言うのなら一時的に商会勤務を終了し、海援隊へ戻ってはどうかと提案した。事件が無事解決され、はつみが望むのであればいつでも受け入れるとまで言ってくれた。
これを受け入れ、はつみは一時的にグラバー商会のインターンを終了。すぐさま京の龍馬へ長崎と英国側の見解状況を報せるべく、寅之進や駿馬と共に土佐商会へと向かった。


【寅之進・陸奥】イカルス号事件のはじまり…前編・後編
(7月23日)サトウら、大阪着。
サトウら、ハリー・パークス自らの来訪を受け、イカルス号事件について聞く。
(7月24日)乾、参政(仕置役)へ昇進。軍備御用兼帯・藩校致道館掛を兼職。銃隊を主軸とする士格別撰隊を組織(迅衝隊の前身)
(7月)普、ヘンリー・スネル襲撃事件
(7月25日)龍馬、西郷吉之助を訪問
(7月27日)パークス公使、大阪城にて将軍・慶喜と会見。隠れキリシタン摘発事件、イカルス号事件について。
(7月27日)龍馬、伊達宗城に謁見
(7月28日)西郷吉之助、サトウを訪ねる。幕府とフランスの関係、『討幕』について
(7月28日)はつみ、土佐船にて大阪着。英国イカルス号事件と共に海援隊に嫌疑がかかっている旨が京へ伝わる。
仕置役由比猪内、大目付佐々木三四郎、急ぎ大阪へ下り、神戸から土佐へ帰藩。
坂本龍馬はおよびがかかり松平春嶽に謁見する為、はつみや佐々木らとは別行動をとる事になった。
、 これについて長州及び中岡らは『幕府による土佐攪乱の策』とし、これを真に受け土佐で話し合いの場を持つ事を『愚策』と言い放つ。
詳細 これから土佐に行く龍馬や佐々木らを前にして、幕府役人や英国外交官らが土佐で介しその土佐の地で交渉する事を『愚策』と言い放つ中岡。 「天下の物笑い、国家之大恥」と言っている。幕使などが土佐に来れば必ず議論が巻き起こり、1日1刻を競う様な今時世においては土佐はきっと乗り遅れ京出兵なども出来なくなり、他藩との同盟も果たせなくなり、天下回天の事業に支障を来たす。事件は幕府に被せておけば良く、下関戦争において外国より請求された賠償金を幕府に支払わせた故・高杉の例などを挙げ『御国之流は馬鹿正直之弊』等と酷評した。しかし数年前に下関で高杉がやってのけた交渉術とは、時世の展開も英国(外国)側の日本に対する理解も、そもそもケースそのものが今回とは違うという事を踏まえ、はつみが真っ向から対抗した。また、長州四カ国報復戦争の事を挙げるのならば、薩英戦争での事も挙げなければならないと一切の引けを取らなかった。薩英戦争においては幕府が英国に対し生麦事件等に関する賠償金を支払ったが、それ以降の直接的な交渉は薩摩と直接行ってくれと言われ、英国は薩摩へ艦隊を向かわせた。互いの理解もほとんどない時世だった事もあり話合いにすらならず開戦の火蓋は切って落とされ、補給の無い英国艦隊は一旦引きはしたが薩摩の地も大きく焦土と化した。そして最も注目するべきは、その後、薩摩は使者を出し横濱公使館において幕府を介することなく和議を結んだのである。その際、拿捕された船に乗船し捕虜となっていた五代才助や村田経臣らもこの和議を以て解放されている。そして何より、それ以来薩摩と英国は互いを認め合って関係を構築し、今まさに政権を覆さんとする程の大きな軍事力と財力を持つ雄藩へと一気に成長した。薩摩と英国が直に話合い、折り合いをつけて未来に向けた和議を結んだ事。これは今土佐がやろうとしている事ではないのか。幕府が絡むのは、薩摩や長州の様に幕府の認知していない所で藩と諸外国が接近し力を持つ事を嫌っているが故に無理矢理首を突っ込んできていると考えてもおかしくはない。これを愚策というのであれば、今薩英戦争を経てここにいる薩摩の御仁らに対しても『幕府に押し付けず自分達で解決に導いた事は愚策であった』と言えるのかと、淡々と詰めていくはつみ。
二人は安政時代に出会った頃からウマが合わず、攘夷に燃える中岡と『世界の中の日本』や『国際法』の存在が視野にあったはつみの意見は常にぶつかり合っていた。「尊王」という共通点や、武市や龍馬、乾、そして長州や薩摩の要人らといった共通の知人がいたが故に辛うじて殺し合いにはならなかったというだけで、二人の『ケンカ』についてはあの武市ですら何度も「それ以上はやめておけ」と呆れて口を挟み、龍馬も苦笑いを浮かべながら仲介に入っていた程だ。今は中岡も海外情勢についてつぶさに調査を入れている様であったが、であれば尚更なぜ、子細な状況や相手の出方を省みる事もなく外交は全て幕府に被せろなどと言い切るのか…お望みの武力倒幕が成ったとしてその後に控えるのは世界との共存、外交なのである。まさに日を追うごとに日本国とその封建制度の実態などについて研究され理解を深められている今、そんな対応をしていたら近い将来において世界に対し立場がなくなるのは『土佐』そのものなのである。もとより外交の力在り方について思考を巡らせているはつみは珍しく苛立ちすらも感じていたが、無論、中岡の方も望んでグラバー商会などで事務方をしているはつみの開国被れっぷりには昔から気に入らなかったのもあり、二人の衝突は周囲を硬直させるには十分なほどの迫力が見られた。
はつみはこの事件に際し、時世の状況的に開国黎明期よりも更に高度な外交的対応が求められる事、その為には語学の壁を越えていく事は必須である事を挙げ、結果的に、薩摩の様に土佐と英国が認め合える顛末となる様心身を尽くすと述べた。故に、中岡が心配する様な『土佐のいない維新』となる事のない様、どうか気に留めて欲しいと丁寧に薩摩の吉井らに対し申し出たのだった。


【龍馬】中岡VSはつみ
今回も龍馬が仲介に入る。武力倒幕は極めて最後の手段であると考え、何とか政権革命をゆるぎないものとしつつも大きな国内紛争は回避できないかと他の道を模索している龍馬からすれば、やはりもっとも価値観が合うのははつみの言い分ではあった。実際に今回の件で渦中となっているのは自分達の海援隊であり、いわれのない容疑をかけられ、それを幕府に丸投げにして本当に信用に足る結末へと辿り着けるのかといった不審もある。更には今後も西洋との貿易取引やそれに必要な信頼関係などを考えれば、わざわざ土佐にまで話合いをしにやってくるという英国公使を無下に追い返す訳にはいかないと考えていた。…だが一方で、幕府という大木を倒し新しい芽が育ってこそ後の外交の話が成立するのだという中岡の絶対目的達成ありきの主張も分からなくはない。天下回天が成らなければ、全ての意味が無くなるのは極論だ。
そんな心境で得意のお茶濁しで仲介に入った龍馬は、一足先に用事を済ませてくると言って中岡とその場を退席する。回天の志士・中岡の弁舌は周知のとおりだが、噂に聞くはつみの激論を初めて目の当たりにした佐々木や由比、同席していた薩摩の吉井は唖然としたまま、龍馬らに促されるがままに各々解散となった。


【小松】こまつといっしょ4R15
佐々木は、一旦松平春嶽の下へ走る龍馬に先駆け土佐帰藩する為、薩摩の船をかりるべく吉井と薩摩藩邸へと向かう。これにはつみが動向を申し出、小松との面会取次を吉井に望むのであった。佐々木は薩摩の実質舵取りを行っている家老に会いたいなどと言い出すはつみに驚くが、それがまたすんなりと受け入れられた事で更に驚愕する。更に吉井は、わざわざ自分を通さずとも小松自らが『はつみが自分に会いたい時は何も気にする事なく自由に身一つで御花畑屋敷へ来てほしい』としている事に言及。はつみははつみなりに理由があって節度を保とうとしているが、いずれにしても佐々木には度肝を抜かれる会話であり、初めて知ったはつみと小松の実態であった。
 道中、佐々木ははつみに対し『乾に何か言付けはあるか』と、含みのある様子で声をかける。それは極めて個人的な感情に基く『含み』であり、佐々木の様子から何となく察したはつみは少し困った様に笑顔を見せた。
「…そうですね…わざわざ気にかけて下さって有難う御座います。乾に手紙を書こうと思うんですけど…この後少し、乾の事をお尋ねしてもいいですか?もうずっと連絡も取れてなくて、乾が今どこにいるのかも知らなかったから…」
 どこか思わせぶりとも感じさせる可憐な笑顔に、佐々木は「お、おう…」と答えるので精いっぱいであった。
詳細 はつみは久しぶりに再会した小松に挨拶をした後、イカルス号事件の対応は土佐にとって一大事であり、この事が政権改革の支障とならない事を願っている事をまず申し上げた。彼はいつもの様に真摯に話を聞いてくれている様であったが、真摯に受け止めるが故に、包み隠さずこうも返して来た。
「じゃっどん、時が来たれば我らは即座に立上がりもす。いかな理由があろうとそん時土佐が明確な立場をとらねば、我らは土佐抜きで物事を構えにゃならんでごわす。」
「その時は…薩土密約に基き、土佐の乾が必ず立ち上がります。」
 戦の無い討幕…つまり完全な大政奉還を目指す龍馬に付き添うはつみであったが『土佐には薩摩らと思想を同じくする乾退助がおり、そして広く補佐をする中岡慎太郎がいる。天下回天の事については必ず、彼らは結果を伴う行動を起こします。時が来た時、もし土佐が英国や幕府との対応にグズついて身動き取れずにいる様であれば、乾にGOサインを出して下さい。彼は絶対に、約束を反古にはしません。』と強く主張する。 小松達にしても薩土密約を取り交わした乾の行動には期待をしている所でもあり、しっかりとはつみの言葉を受け止めた後で「しっかと心に刻んでおきもんそ」と返した。
 忙しそうに、早くも席を立とうとするはつみを思わず引き留める。見つめ合った一瞬、前回正妻や琴の存在を理由に頑なに拒否された事を思い出し咄嗟に手を離す小松。あれからはつみとの事を考え、後悔と共に現実を受け入れねばならないと己を律しようとした。しかし…
「おいの目には、凛として咲き戻る君は美しさの極みじゃっど。こい見えちょっても、君を美しいと思う他の男たちがいる現実に、腹が立って仕方なか。焦りも感じもす」
 と言う。
 同時刻、土佐佐々木ら土佐藩士らを薩摩船「三邦丸」で送る手はずを整えたと報告に現れた吉井が、部屋の外で入室する機会を伺う為に耳にしたその内容に口元を抑え茫然とする。後から茶器を持って現れた琴に気付くと、慌てて彼女を伴い、部屋の前から去っていった。
(7月28日)その日の内に大阪へ下った佐々木らであったが、移動の為に用意された薩摩船「三邦丸」が碇泊する神戸湾には幕府の軍艦回天、そしてイギリス軍艦バジリスク号などが顔を突き合わせて碇泊しているという状況であった。
(7月29日)はつみ、龍馬と合流。龍馬、松平春嶽に謁見。イカルス号事件についての容堂への書簡を預かり急いで薩摩船「三邦丸」へ乗船するべく大阪・神戸へと向かった。
(7月29日)サトウ、大阪薩摩藩邸に西郷吉之助を訪ねる。
(7月)陸奥、長崎にて商法の愚案を書き終わる。
(8月1-3日)龍馬、佐木三四郎、薩摩船「三邦丸」にて大阪出航→土佐着。龍馬ら上陸は赦されず、土佐藩帆船夕顔丸へ乗り換える。佐々木三四郎土佐上陸。イカルス号事件問題で走り回る。乾とも会合。


【乾】一日千秋
佐々木、預かっていた手紙を乾へ渡す。
詳細 佐々木、英国公使艦隊に備え須崎湾岸にて武装待機する乾と会合。
乾は後藤象二郎の仕事の雑っぷりが招く現状に不満であった。彼は薩土盟約(乾が行った薩土密約とは別)を以て薩摩に大政奉還案を認めさせたはずが、建白案そのものに力を入れるあまり薩摩側が提示した『出兵』について軽く考え過ぎていたのだ。この大政奉還案を土佐・容堂が受け入れた事を薩摩や中岡、乾らがおおいに喜んだのは『土佐容堂が出兵を認めた』と思ったからであり、後藤のいい加減な詰めの甘さで『大政奉還案は採用するが出兵の項目を削除する』とする現実を今になって知らされ、薩摩は呆れ果てている、土佐の大恥だと、不動であるはずの表情に怒気を滲ませている。後藤本人はと言うと『容堂公からその様に下知された事にボク自身も困っちょる』などと言っているそうだ。
話は変わって、佐々木がはつみから預かった手紙と共に彼女の話しを持ち出す。乾の表情が一瞬佐々木の手元に釘付けになり、素知らぬ様子で手紙を受け取り、「ふーん。で?」と、あくまでついでとでも言わんばかりの飄々さで佐々木の話を聞いた。
龍馬と共に彼女の上陸も認められておらず、今は土佐帆船・夕顔丸で待機しているという事。京からこちらへ来る直前に中岡とやりあった事、長崎ではこの1年あまり英国商人グラバーの下で研鑽を積んでいた様だ、など。相変わらず「ふーん」としか言わない乾。佐々木はそんな彼が今度は手紙を読みたがっているのを何となく察し、『城へ急ぐ』と言って彼を開放してやるのだった。
乾、外に出て手紙を読む。乾の昇進祝いから始まり、土佐勤王党の人達を開放してくれた事への礼、そして、他の勤王党員らと同じく罪を解かれたと聞いた以蔵の事が綴られている。はつみや龍馬達の思想は、乾はじめ中岡、薩摩などの『武力倒幕』とはわずかに違っているからこんな事を頼むなんてお門違いの話かも知れない。しかし、もしまだ以蔵がどこかで燻っているなら、どうか気にかけてやって欲しい。彼と話し、彼に相応しい場所を与えてあげて欲しい。勤王党の人の中には以蔵の事を『何も変わらない』『何もやらない』と言う人もいるかも知れないが、彼は他の人が成し得ない様な変化をその人生に見出し、今に至っている。彼がどう変わったのか、土佐において本当の『上下一体』とはどういう事なのか。どうか、乾がその目で見て確かめ、そして彼に示してあげて欲しい。宜しくお願いします。―といった内容。
乾、文から目を離し遠くに見える夕顔丸へ視線をやり『それだけか。』と人知れず苦笑するのだった。
(8月1-3)英、パークス公使、サトウ、ミットフォードら、大阪出航→徳島着。
(8月4日)パークス公使ら、藩主阿波守(蜂須賀斉裕)と息子淡路守(蜂須賀茂韶)に謁見
(8月5日)パークス公使、サトウ、バジリスク号にて土佐・須崎に向かう。
(8月6日)乾、東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告。諸部隊を砲台陣地、および要所の守備に配置。
イカルス号事件の為英国軍艦バジリスク号が須崎沖へ入る為、不測の事態に備えての命であった。
詳細 幕府の軍艦回天丸が碇泊しており、先の陸路旅で草津から合流したキツネ平山の部下二人と再度合流。
土佐の戸川という者と大目付の二人が現れ、嫌疑がかかっている南海号という小型スクーナーは現在浦戸湾に碇泊している事を告げる。南海号は事件当時下手人が乗り込んで出航したといった嫌疑がかけられていたが、これについては海援隊士にも船にも証拠となるものは見つからなかったと報告をする。
後藤象二郎、バジリスク号にてパークスと会談。先ほどの報告内容に加え土佐の者が犯人でなかったとしても全力で捜査を続けると告げるのだが、パークス公使は土佐者が犯人であると信じて疑わなかったので彼を威嚇した。しかし威嚇しながらも『土佐とは友好的関係でありたい』などと随分不思議な言い回しをしていたとサトウ。また、パークスの怒りは平山にも及び、まるで使い走りの様で役に立たないと激怒した。更にはサトウに対し、彼の護衛である野口達が幕府のスパイだと思っているなどと言ってのけた。
(8月6日)サトウ、後藤と会談。後藤はパークス公使の態度に抗議を示し、いつか問題になりかねないと忠告。
サトウも常に罵詈雑言を吐くパークス公使の通訳・仲介にはうんざりしていたので
「もし本当にそう思うなら彼に直接諫言した方がいい」と返した。
(とてもできた事ではないが、と。)
(8月7日)サトウ、事件の容疑船とされている南海号を検分。海援隊達は土佐船夕顔丸に移動している。
詳細 事件当時(当時の検死結果・被害者の死亡推定時刻7月6日21~22時頃)、翌朝の4時半に南海号が出発したが故に嫌疑をかけられていたのだが、実際には7月7日の22時まで出航していない事を示す証拠を提示される。サトウがこの事をパークス公使に報告すると、不満そうであった。
この後、英国と土佐の友好関係を築き上げると言う典型的な外交の場が設けられる事となった。
(8月7日夜)バジリスク号にて後藤がパークス公使に謁見。
詳細 新たな議会の『コンスティテューション(構成・憲法)』について英国を参考にしており、また幕府が長崎などの有力な港町に『ギルド』を設け、不当に掌握しようとしている事についても罵詈雑言を吐いて非難した。パークスは一転して後藤を気に入り、永遠の友情を誓った。後藤はイカルス号事件について月に一度は必ず報告の手紙を送るとし、また最後に、なんと彼はパークス公使の乱暴な言動に対してはっきりと、時間をかけて丁寧に抗議した。パークス公使はこれを聞き入れ、感情を抑える事ができたので誰も傷つかずに済んだ。
(8月7日)木戸準一、伊藤俊輔、丙寅丸で長崎へ向かう。
(8月9日)パークス公使、サトウに領事と同等の権限を与え、長崎行を命じて江戸へ帰る。
幕艦回天丸も長崎へ向け出港。サトウ、野口と共に土佐の帆船夕顔丸に乗船して出航待機。
容疑をかけられている海援隊の隊士として夕顔丸に乗船していた龍馬、はつみ、寅之進と再会する。
サトウ、この頃から右手の指にひょう疽ができ煩わされる。
はつみとの再会を喜ぶ。佐々木などに医者の派遣を依頼しようかと提案するが長崎で英国医に診てもらうという。
持ち歩いている消毒用焼酎で一旦表面だけでも消毒。
サトウ、はつみがかつて持ち出した土佐会談について持ち出そうとするが、はつみはその話について
自分が出来る事はもうないと話を終わらせた。その様子に、少しひっかかるサトウ。


【サトウ】Worry about you.
(8月9日深夜)サトウ、後藤の部下(佐木三四郎)に起こされ、小舟で高知へ向かう。
(8月10日)サトウ、高知城下開成館にて、土佐の精神的指導者である隠居・山内容堂に謁見。後藤も同席。
詳細 開誠館で容堂を待つ間に服を着替えたサトウは、後藤の『同僚』を紹介される。(誰だ気になる)
上階へと通されると容堂は部屋の前で立っており、つま先に指先が触れそうな程深くお辞儀をしてサトウを出迎えた。後藤やその『同僚』らも跪き控えていた。容堂はサトウの名を聞いたことがありますと言って話を切り出し、サトウも光栄にも謁見する機会を与えてくれた事に感謝すると返す。そして本題のイカルス号事件について、容堂は先日後藤がパークス公使に報告した事を保証した上で、もし犯人が土佐の者であれば逮捕して処罰し、もし土佐の者でなかったとしても追及の手を緩める事はしないと述べた。また、幕府から、今回の犯行は土佐の者によるものだという確固たる証拠がある為犯人を罰する様にとの忠告を受けたと言う。勿論土佐の者が犯人であると判明した暁にはすすんでそうするが、幕府がいう「確固たる証拠」というものが一体何なのかという点については明瞭にされていないし、見当もつかないと言った。
これに対しサトウは、まだ提示していない証拠があるのかも知れないし、ひょっとしたら幕府と英国の間で不快な話合いを避ける為に嫌疑の目を土佐に向けようとしているのかも知れない、と返す。すると後藤が幕府に対して凄まじい怒りを表し、幕府に対しても(この怒りを)わからせてやると言った。
容堂は更に、イカルス号事件について英国は大変立腹しているので、穏便に落着させるために妥協すべきだと忠告する手紙をも受け取ったが、自分はその様な事をするつもりは一切ないと明言した。土佐藩の者が罪を犯したのであればそれを罰するのは当然だが、無実であるのならば毅然と無実を宣言するつもりだと。
サトウはじめ英国の見解では、宇和島藩の家臣・島根が彼の主君伊予守に対し『パークス公使が幕府から「土佐藩が犯人で間違いない」と告げられた』という事を伝えた事を受け、(この様に断言する)幕府は嫌疑を裏付ける証拠を持っているとしか思えない、と答える。
その『証拠』について土佐に示されたものは件の南海号に掛かる嫌疑であったが、これについては容疑をかけられる様な証拠は何もなかったと報告済みでもあると容堂。
サトウは、現段階においてこれ以上述べられる事はないが、もしこれで犯人が土佐の者でなかったとしたら英国はかなり恥ずかしい思いをする事になるだろうと告げた。
この後は、先日後藤が言っていた様に英国のコンスティテューションや議会の権限及び選挙制度などに対する質問が行われる。幕府に代わる新しい議会をイギリス的なコンスティテューションを踏まえて設立しようとしている事が明白であった。また容堂らは、サトウらに対し帝の顧問官として新政府設立の準備の手伝いをしてほしいとまで言うのだった。
その後食事を取る事になったが、容堂は席を外した。暫くしてサトウが辞去する際にもう一度だけ数分会話をし、贈り物をもらった。これは謝絶するべきだったのだがこれは接待の一部であるし受け取らないという事は大変な失礼にあたるとの事なので、パークスの許可が得られなければ返すという条件で受け取った。
容堂は長身で、かすかにあばたの痕があり歯が悪く、急いでしゃべる癖があった。彼が酒好きという事は異国人であるサトウですら書物などから知っていた程有名で、容堂の体調がかなり優れない様子は酒のせいだろうと安易に推測できた。また彼は、『偏見に捕らわれず物事を見極める事ができる人物』に見え、『決して保守的には見えなかった』との印象をうけつつも、薩摩や長州の様な抜本的な改革を望んでいる様には見えなかったとしている。
町の中を歩く事は安全ではないと言われ、流石のサトウもこれまでの様々な事情から『土佐の男は最も危険』という結論に至っていた事もあり、その助言に従った。浦戸から屋形船に乗って帰還となったのだが、その際好奇心に駆られた多くの人々が小舟にのってついて来たという。ヨーロッパ人を一目見ようと、中には掴みかかってくる者もおり、そこに秩序はなかった。この様な状態で高知を歩けば大混乱が起こる事は容易に想像できた。
屋形船では、かつてはつみからパークス公使による土佐訪問の斡旋が打診された事を後藤に告げるも、サトウが思っていた通りはつみと後藤の間には何かしらの『隔たり』がある様に感じられた。


【サトウ・後藤】(仮SS)Encounter too late.
(8月12日)龍馬、サトウら夕顔丸、長崎へ向け出港。下関へ寄港。
(8月13日)夕顔丸、長崎へ向け再出港。
(8月15日)夕顔丸、夕方長崎着。
サトウ、木戸準一郎と伊藤俊輔の訪問を受ける。
木戸は温和な印象だったが、軍務においても政務においても極めて強い勇気と意思を兼ね備えている印象をうける。長州藩主はこれまで一度たりとも政府転覆を目論んだ事などはないと言っていた。(以後、イカルス号事件についてサトウによる検分・調査が行われる。詳細は英国年表にて)


【木戸】


【乾、以蔵】活人剣・真
(8月15日)土佐、乾が吹井の武市生家を訪れ、以蔵と話をする。何も話す気はないと黙する以蔵であったが
先日土佐沖に異国の船がやってきて、龍馬やはつみらも一緒だったと切り出す。
詳細 今日ははつみから話を聞いた故に話をしにきたのだと言うと、その瞳に光が灯る様に変化が見て取れた。
以蔵がここに留まる理由は何だと聞く。武市の墓を守っているつもりだと返す以蔵。
見た所大小も持ち合わせていない。それでどうやって守るつもりなのだ?
大小については買い付ける金がない。しかし大小は無くてもいい。自分の剣は『活人剣』であるが故
そこの木刀で充分であると。
『活人剣』とは何の事かと問う。
はつみから言われた。武市先生に育てられたその剣で武市を守れ。大切な人を守る為の剣、
人を活かす為の剣なのだと返す。
乾、はつみの言っていた事が分かった気がした。取調べの時にはなかった熱がそこには籠っている。
それを確かに掴むため、乾は中庭へ裸足になって出、手合わせを申し出る。
皆が一度は迎えに行こうとするその腕前を見せて見ろと。
乾と以蔵は1つしか違わず、乾は柔術の達人と言われそれなりに多少は腕に覚えありであった。
しかし以蔵には歯が立たず攻撃を1つも当てる事はできなかった。それでいて毎回、喉元に木刀を
突き付けられる訳である。間違いなく武市の懐刀と言って過言ではない。圧倒的な強さだった。
「以蔵。別撰隊へ来い。おまんの剣で土佐を、この国を守れ」
そう申し出た。
上士に虐げられ続けた自分が、上士から手を差し伸ばされている。
武市が言っていた『一藩勤王』『上下一体』それはあの時は上辺だけのものであったが、
今度こそそれが成るのか?
この乾という上士のもとで、あらゆる事が『変わっていく』のか?
―しかし…と、気がかりそうに、奥で心配そうに此方の様子を気にかけている富へと視線を送る。
それに気付いた乾は更にこう申し出た。
「さしあたっては給金も出る。」
それも立派な理由だ、恥じることなどないと真っすぐに言う乾に、以蔵はようやく首を縦に振った。
乾、早速以蔵に城下へ来る様要請。
富に対し、武市の墓には『すべてのカタがついてから、改めて参る』として去っていった。


【以蔵】自己肯定
(8月16日)以蔵、城下乾の下へ赴き、軽格別撰隊へと編入。圧倒的な剣技を誇ってひとまずの歩兵伍長となる。
詳細 砲術も習う事となった。以蔵の強さについては圧倒的で、一先ずの乱取りが行われたが以蔵は乾が自らそれを悟った様に、誰にも負ける事はなかった。真剣を以て勝海舟やはつみを守り抜き、その飛び抜けた技量がありながらも天誅などの無為な殺人やその他犯罪はしなかったという実績(はつみの影響による歴史改変)もある。これについては上士も下士も関係なく、皆が認めない訳はなかった。
また、幼い頃より重長い前髪で顔を隠し陰鬱そのものの気を放って気味悪がられる事も多かった以蔵であったが、実に清涼美形な青年へと成長していたのを知って皆が明るく声を掛けてくれた。子供の頃、上士から無用に目を付けられ虐められるきっかけとなるこの顔を潰してしまおうとまで考え、顔を隠し己を否定するだけでなく気配を消す様に生きて来た彼は歪んだ顔面コンプレックスの塊であり、まったく自己肯定感のない心を抱えていた。そこへきて、一般にしてみれば他愛もない「おんしゃええ男じゃのう!」といった軽い『表面』についての評価とはいえ、彼にとって、土佐地元にあって上士から下士まで様々な人達からそのように気軽に認めてもらえる事は、非常に大きな『肯定感』となり、人として人並みの自信、自尊心を取り戻していく事に大きく繋がる出来事であった。
以蔵は実家にも訪れ両親や弟啓吉とも再会するが、家督はそのまま弟に譲り実家には戻らなかった。苗字について『岡田』とする許しを乞うたが、仕来りなど度外視で『許すも何もない、当然の事だ』と受け入れられ、再び岡田姓を名乗る事となった。岡田でありたいと思った背景には、京にいる子・岡田直人の事が頭をよぎっていた。
(8月17日)サトウ、木戸、伊藤、玉川亭で長い時間、穏やか且つ深く政治談議する。
『自分たちが生きている内に両国が交わる事はないだろう』(残念ながら、というニュアンス)
サトウ、ジョセフ・ヒコ(彦蔵)を訪ね、土佐で大政奉還案という話がある事を聞く。
(8月17日)サトウ、長崎税関所にて土佐・横笛号への嫌疑に着手する。
(8月18日)以蔵、励む。乾はそんな以蔵の精神を更に見極めようとしていた。
詳細 何より獄中拷問にあっても何も漏らさなかった心根の強さについては是非もない。あとは武士としての物の考え方がどれだけ芽吹くかなど課題はある様に思えたが、次第によっては更に取り立てるつもりでいた。学が無く武に突き抜ける以蔵が若く無鉄砲だった頃の自分に似ているとも見えた。(年齢は1しか違わないけど)そんな自身が若い頃に読みふけって深く影響を受けた孫子の書を以蔵に与え、読み込む様、個人的に指導する。
そんな乾に対し以蔵は、流石に220石もの大身である彼がここまで良くしてくれるその心情を汲み、興味のない孫子も素直に手にする。だが、一つ気にかかっている事があった。
ある日以蔵は珍しくも自分から声をかけ、乾にその事を打ち明ける。
文久2年秋、勅使東下に随行して江戸に赴いていた以蔵は、はつみが何らかの理由で上士である乾と一線超えた事を察し、衝動的にはつみに手を出した事がある。その頃の以蔵にとって上士はその存在自体が嫌悪の対象であった。しかしその上士に関してもはつみに関しても、間に武市という存在があったからこそ、私怨を押さえ、見て見ぬ振り、何も思わぬ振りを続けていた。故に、天誅渦巻く時勢の真っ只中にあって『武功』を立てる事もできず歯がゆくもある日々を過ごしていたのだ。圧倒的な剣技を持ちながらも人を殺さない…つまり天誅には加担しない。ただひたすら武市の護衛に勤める。仲間から誘われる事も当然あるが天誅はしない、自分は武市を護衛する為に剣を振るうと言い続けるうちに誘いは来なくなり、勅使東下江戸に入った頃には疎外感さえ感じつつあった。(実際には仲間たちは疎外していた訳ではなく、以蔵が武市の護衛専任である事をようやく惜しみつつも受け入れたという事だったのだが、内向的な性格で自己肯定感が無に近い以蔵はそんなポジティブには考えられなかった)
そこへ来てはつみと上士・乾が何らかの理由で通じたと知るや、それまで積み重ねてきた諸々の何かが一気に崩れ去り、常に無に近かった感情が自制が効かない程に沸き上がり、剥き出しとなり、噴き出た。
「上士が良くて何故俺はだめなのか」
と歯止めが効かなくなってしまったのだった。事後、自分の下で衣服を乱し涙しているはつみと、強く握り過ぎた腕が赤くあざになっているのを見て、逃げ出した。はつみに抱いていた良く分からない感情が『恋』だったという事にその時気が付いた。以降、仲間たちからの疎外感だけでなく武市に対しても顔向けできないと思い込み、武市と共に江戸から帰京するのも忍びなかった以蔵は、出奔した。
(自制の効かない者達との天誅に加担せず自分をよく護衛してくれた以蔵を武市は心配しており、翌年文久3年2月に脱藩罪を許され京にいた龍馬に以蔵を見かけた際には彼を頼むとも言付けている。龍馬は3月頃に以蔵と再会し、勝海舟の護衛として周旋している。)
―その時の事を、以蔵は乾に打ち明ける。文久2年の秋、武市の為に一身を投げ打っていたはずのはつみと何があったのか、否、何をしたのかと。そしてその後はつみとはどうなったのか、はつみが本当に辛い時何をやっていたのだ、武市の事はどうにもならなかったのかと。
時世への興味や理解は回天する志士らには及ばず興味も示さない以蔵ではあったが、彼もまた考える事は当然あったのだ。その生い立ちから考える事をやめ学ぶ事もやめたという経緯もあるだろうが、寡黙ながらも切り出す言葉は常に要点を捕らえ、着眼点は鋭い。元来地頭は効くのかも知れない。乾もまた常から堂々としているという意味では不動の心を持つ人物であったが、これには少々驚いた様子を見せつつ、嘘偽りなく江戸取引以降の実態について明らかに聞かせた。
以蔵は理解を示し、上士であるはずの乾を、武市と同じ様に一人の人間として信じる事にした。『上下一体』という言葉が初めて以蔵の奥底から成立する。
乾からはまるで『返す刃』の如くはつみについての感情をつつかれ、結局、当時の様子も含め打ち明けざるを得なかった。この時、京にいる女性(道)との間に子がいる事も打ち明けている。そして、これはこれで男子特有の盛り上がりを見せたのだった。乾ははつみについてまだ諦めてはいないといい、以蔵は呆れる。
「あれはそこらの女の様に言い含めて貞操を保てと言って聞く様な女ではない。あいつがふしだらなのではなく、乾殿も含め多くの男達が、そしてあの武市先生でさえもその心を意図せず掴まれる様な異質な雰囲気がある。そばに居て文字通り『虫が付くのを避ける』でもしないと手中に収めるのは無理だ。あの龍馬でさえはつみを掴み損ねている」
と、珍しく持論を述べた。乾も珍しく笑い「あれが土佐に着た頃は『かぐや姫』だのと言われておったな」と言う。加えて「だが、ボクはなかなかいい線を行っていると思うぞ。そういう『感触』がある」「だがどうして、確かに坂本は強敵かな」等と言って更に以蔵を呆れさせ「いずれにしても、あれの事は時世の事に取り掛かり命が残っておればこそ、そん時に考えるぜよ」と言って場を締めた。


【乾・以蔵】女傑評議12
(8月18日)サトウ、土佐目付佐々木三四郎より、事実無根を主張する海援隊が捜査協力を拒否したと聞く。
(8月19日)サトウ、横笛号を呼び戻す事に消極的な奉行所に不信感を抱く。
(8月19日)寅之進、惣之丞、とある理由から海援隊と別行動をとる。
(8月20日)長崎奉行所、嫌疑がかかっている横笛号とその船長・乗組員の二人を調べる事に同意。
(8月20日) 容堂、後藤象二郎と寺村左膳に大政奉還案建白書の作成と提出時期の調整を指示。
出兵については『暫時御見合』とした。
容堂、乾にアメリカ留学を内示
(8月21日)乾、軍備用兼帯致道館掛を解職される。以蔵はそのまま別撰隊に所属。
(8月24日)仏公使ロッシュ、大阪にて徳川慶喜に面会。長崎浦上キリシタン事件について抗議し、話合いが行われる。
(8月24日)龍馬、横笛号と船長ら二人を呼び戻し取り調べを受けさせる事に同意する。


【陸奥・サトウ】(仮SS)公私混合
(8月26日)サトウ、犯人検挙が進まない状況に対し以下の措置を取ると宣言。奉行所もこれに同意。
捜査対象を土佐を含む全ての藩へと拡大。事件当時の全ての船、全ての娯楽施設利用者などの洗い出し。
夜の間は外国人居留地に全ての侍を中に入れない。緊急の用の際には付き添いがいる事で入場可能とする。
捜査対象が全域となった事で、取り調べは残っているものの海援隊と英国(サトウ)の緊張がやや緩和する。
(8月26日)木戸、伊藤、山口へ帰る。サトウ、長州5の一人遠藤謹助(31)を今後同行させる事に同意。


【木戸】可愛い人、君の為にR15
(8月)京にてええじゃないかが広まる(サトウいはく人込みで前に進めぬ上料亭の主人達も持ち場を飛び出している)
(8月)陸奥、商法の愚案を龍馬に見せ大絶賛を受ける。
(9月1日)サトウ、長崎税関所にて容疑者である土佐・横笛号の船長と船員二人の取り調べに立ち会う。
(9月3日)龍馬、奉行所にて横笛号船長ら二人の取り調べに立ち会う。
(9月3日)後藤象二郎、寺村左膳、大阪で相撲見物の西郷と会い、会合に至る。
出兵の事を聞かれるが『詳細は京にて』とはぐらかす。
(9月4日)後藤象二郎、寺村左膳、西郷そして小松と会合する
(9月5日)長崎警備の為、幕府から290人が長崎に入り駐屯する。
(9月7日)イカルス号事件で海援隊への聴取。とまずこの日は不問となる。
(9月7日)京にて。後藤象二郎、西郷吉之助、小松帯刀と会合。
『薩土盟約』は解消となり、西郷らは土佐抜きで20日までには挙兵する。
土佐において建白するならご勝手にどうぞとのテイ。
後藤象二郎、熱を出して寝込み、寺村はとりあえず建白書の草案に手を付けた。


【乾・以蔵】只有赤心明
(9月9日)江戸で乾からその義侠心を見込まれていた土佐刀鍛冶の東行秀が京における乾の討幕活動に腰を抜かし、 己に嫌疑がかかる事を恐れた。乾が匿っていた水戸浪士の事を書状の写しと共に江戸土佐藩に通報し、 その報が京・寺村左膳に届く。寺村らはただちに動き、乾は勤王党員の島村寿太郎から脱藩を勧められるが 『すでにその件については容堂をし処分の沙汰があるのを待つのみ』と返して堂々としていた。
容堂もまた乾を評価し庇っている事から、この件についてはまったくの不問となった。
(9月9-11日)長崎諏訪神社、秋の大祭「くんち」が縮小された形で開催される。
(9月10日)薩・長・芸三藩連盟成立
(9月11日)英米水兵襲撃事件、史実上存在しなかったはつみらの介入により事件そのものが起こらず。
詳細 「くんち」の神輿を見る為に波止場を歩いていた土佐商会・郷士島村雄二郎と田所安吾が泥酔した英米人に絡まれ、これを侮辱と受けた島村らが堪え切れず斬りつけるという事件だったが、たまたま同じ場所にはつみと寅之進が同じ居合わせた事で水兵らに英語で対応する事ができ、『絡まれてモメたがその場で和解』という形で納まった。
(9月12日)この件について英米側からサトウに報告が行き、イカルス号事件の二の舞になるかも知れなかったこの事件について『場を納めた参考に』という名目ではつみと寅之進が税関所へ呼ばれ、当時の様子等についてサトウと話す事となる。事態に驚いた陸奥と龍馬も無理矢理ついて来た。
税関所にはサトウと英国長崎領事のフラワーズ、補佐官のロバートソン、幕府代表若年寄平山とその部下、土佐藩大目付で後藤象二郎の部下である佐々木三四郎の他、昨晩の英米兵2人と米国領事館の関係者が顔を連ねていたが、少なくとも外国人たちは決して敵対的な態度ではなかった。
英米兵2人に関してはシラフに戻っており、はつみと寅之進に対し礼儀正しく礼をしたほどであった。
はつみの報告はすでに外国人側で行われた英米水兵たちの供述と同じ、もしくはそれ以上に丁寧なものであり、最後にはつみは『国際的に良い関係と治安を保つ為には勿論公的な条約や法律が必要でありそれが大前提だが、それらを問題なく機能させる為には互いに歩み寄り理解しようとする一人ひとりのモラルが大事。イカルス号事件が解決しない対処として日本人側に制限を設けるのは尤もであり、そういった当然の流れや少々の無礼で直ぐに侮辱、あるいは斬る殺すといった発想へ至る侍たちの厳格な思考について、世界に共存する人類を受け入れようとする思考へと導く必要性を感じている。
しかしその一方で、ここ数年でようやく外国人を受け入れ始め、世界を知ったばかりで変貌の途中である彼らに対し、外国側にもいましばらくは譲歩を賜り、安全を意識した最低限節度ある行動を願いたいと思う』と、自ら英語と日本語を駆使し、想いを伝えた。
その場にいた誰もが、はつみの心から両者間の平和的交流を願う丁寧な申し出に一時茫然とし、水兵二人は鼻を赤くして涙を流していた。
その後、恙なく場はお開きとなり、水兵二人は寅之進を誘い、土佐商会へ赴くと島村と田所を誘ってランチにでかけた。
寅之進いはくガールフレンドの話などをして打ち解けたらしいが、深くは教えてもらえなかった。
またサトウは『こんなに心打たれる事はなかった』『彼女こそ外交のミューズだ』とその日の日記に書き記した。


【龍馬・陸奥】遠い存在


【サトウ】1867.9.Oct.
(9月13日)はつみや寅之進という史実外からの介入により、イカルス事件が早期決着となる。


【海援隊・サトウ】イカルス号事件、解決 by capturing the criminal…前編・後編
詳細 イカルス号事件の勃発から二か月、サトウや龍馬らが長崎についてから一か月が経過しようとしていた。
この日、8月19日から別行動をとっていた寅之進と惣之丞がとある報告を行った。

そもそもはつみはこの海援隊に深く関わる事件を『歴史上の出来事』としてある程度記憶していたため、犯人は土佐藩士ではなくどこか別の藩士だという事だけは分かっていた。しかし、サトウらがあれだけ細かに洗い出しを行ったにもかかわらず犯人に辿り着けずにいる様に、これといった情報は見受けられず、自分が持つ情報を打ち出す為の切り口を見い出せずにいた。これは『未来の知識』である故にはつみもその事を誰にも相談しようがないまま、その時できる事をするだけだった。
だが、待ち望んだその切り口が、『先日から我々を尾行している者がいる』と言う寅之進からの不審者報告で見いだされたという訳だ。はつみは早速、その報告を元に『とある仮定』と称して『海援隊・土佐藩士以外の犯人疑惑』を打ち立てる。そして逆に不審者を張り込むと同時にしばらくは彼らを泳がせる。彼らを見かけた日時、場所、様子などを詳細に書き記す事にしたのだった。海援隊や土佐商会の全員がこれを知ると逆に気取られる可能性が高まる為、寅之進が不審者の報告をしたその場に居合わせた龍馬、はつみ、寅之進、陸奥、沢村惣之丞、高松太郎、そしてイカルス号事件解決の為に共に走り回っている佐々木三四郎のみで対処した。
はつみの仮説とは、事件の勃発から一か月が経過した所で急にイギリスによる検挙の動きが厳しくなり、それまで嫌疑を逃れ雲隠れしていた真犯人が事件解決への経緯を気にしているのではないかというもの。
8月19日以降、寅之進と惣之丞は、海援隊とは別行動をして慎重に彼らの素性を探り続けており、この日9月13日ついに、件の不審人物が福岡藩の藩士である事、そしてほぼ間違いなく、故意的に海援隊の動きを探っている様子を突き止めたのだった。
(9月14日)乾の盟友・過激尊王家の小笠原唯八らが上京。
佐々木三四郎も散々言っていた事だが、寺村に対し『建白失敗時の挙兵』ついて尋ねる。
『暫時御見合』だが、容堂や彼らの建白はとかく「討幕軍を動かすことなく国政を改める事」であると。
詰問され、寺村は閉口した。
(9月14日)サトウ、平山、税関所にてはつみらの福岡藩士に関する『相談』を受ける。
詳細 税関所に現れたのは、はつみ、寅之進、陸奥の三人であった。(龍馬は武器購入の取引へ)
はつみ達はこの後奉行所へも同じものを提出する予定だとして、福岡藩士らに尾行された日時や場所、様子などをまとめたリストを手渡した。リストには、はつみ達の行く先々でこそこそと様子を伺うか大胆に通行人のふりをして通り過ぎ、食事をしている時にも偶然を装って何度も左右前後の席などに居合わせるなど明らかに不自然と思われて仕方ない行動歴が満載であったが、サトウはこれを自分達が預かる必要性について尋ねた。海援隊の身が危ない為取り締まってほしいという事であれば当然、自分達には関係ないものだと思ったのだった。
はつみはイカルス号事件の発生からおよそ一か月間、犯人検挙への進展が無かった事を口にした。そしてその後、幕府の主導で土佐藩海援隊に容疑がかかる事となり、イギリス公使パークス自らが事件解明の為土佐本国まで検分に出る事態となった。そして事件解決の為に公使館から遣わされたサトウや幕府若年寄の平山、そして海援隊責任者である龍馬が一同にして長崎入りしてから一か月が経過する。これはイカルス号事件の真犯人の心理状況を考えればか気が気でない事態になったという事である。あくまで仮説にすぎないが、彼らはイカルス号事件の進展について、サトウ達が『真犯人』に辿り着くかどうかを見極めようとしていたのではなかろうかと。嫌疑がかかっていた海援隊を尾行して話を漏れ聞こうとしていたと考えれば海援隊への尾行の様子にも辻褄が合うし、寧ろそれ以外、土佐及び海援隊が福岡藩士に追跡される様な事は一切心当たりが無いのだと。
一理あると頷き、サトウはリストを受け取る事にした。事件の検挙に繋がるものは状況解析、物的証拠の収集は勿論ながら、犯人の心理などからその行動を推察する事にも『センス』が問われるものである。尾行に気付いた護衛の優秀さに加え、そこから現実的な可能性を探る発想力、それに説得力を添える為のここまで徹底された書類を出された事は嬉しい誤算とでもいうべきか、実に賞賛すべき事であった。サトウは即座に行動へ移るとして、奉行所へはこのリストを元に、海援隊とは別に英国として福岡藩士への聴取を求めるとしてはつみ達と共に行くとまで言い出した。
必要な書類を用意する為、午後に再び会う事を約束して一旦はつみ達を帰らせる。そこで平山はリストの信憑性を疑ったが、サトウは構わず公式書簡の手続きへと移った。先日の土佐藩士と英米人のイザコザを収めたはつみの手腕といい、今回の事といい、事件勃発当初からこれまで何ら解決の糸口も見出せずにいる『政府』の人間が呈する疑惑と比較してどちらの助言を受ける事が賢明かなど、火を見るより明らかであった。
(9月14日)午後、サトウ、平山。土佐佐々木三四郎およびはつみらと合流し、長崎奉行所へ福岡藩への聞き取りを依頼。
(9月14日)海援隊、蘭商人ハットマンとライフル3000丁の購入契約を結ぶ
(9月15日)長州・遠藤がサトウのもとに合流。(サトウ、イカルス号進展により出航せず)
(9月15日)長崎奉行所、福岡藩の長崎聞役(留守居役の様な役職)栗田貫を呼び出す。
詳細 治安上、海援隊士を不要につけ歩く福岡藩士の割り出し及びその理由を明確にする様指示。
またこの件を受け、英国領事同等権を持つサトウからイカルス号事件への関与について取り調べの要請がある旨が伝えられた。この日はサトウ、平山らも同席しており、はつみらが作成した台帳(リスト)も添えられ、福岡藩長崎聞役・栗田に突きつけられた。
栗田は平常を装っている様であったが目に見えて顔色を変え、奉行所から飛び出すと藩へ報告しに行った。
同席していたサトウと平山、そして佐々木三四郎は手応えを感じ、報告を待つとして税関所へ戻る。
夜中になって奉行所からの遣いが現れ、イカルス号事件の犯人及び全貌が判明した事を告げられた。
それは思っていたよりもだいぶ早い、まさに急展開といったものだった。
(9月16日)サトウ、英長崎領事フラワーズ、幕府若年寄平山とその部下、土佐藩佐々木ら奉行所にて福岡藩からの報告およびイカルス号事件関与の報告を受ける。
イカルス号事件真相:詳細 ・犯人は福岡藩藩士・金子才吉、42歳。英伝習生として航海・測量術を学んでいた。
・犯人は事件の二日後に狂乱状態で自決している。
・彼と同行していた伝習生7名が自訴している。
・7月6日、七夕の祭の最中。午前2時頃の事。金子を含む伝習生ら8人は丸山廊に入り寄合町まで来た時、外国人二人が酔いつぶれて寝ているのを提灯の灯りで認めた。その時、金子は突然刀を抜き二人の肩先めがけて斬りつけた。仲間たちは突然の凶行に驚くが既にどうしようもなく、その場を去って宿舎である播磨屋敷へと戻った。しかし金子は同行せず一人『山』に上ってしまった。
・7月7日の午後、伝習生の一人である富永のもとへ人夫が遣わされ、『迎えに来てくれ』と書かれた金子の名刺が手渡された。富永は金子が空腹でいると思い鮨を詰め、金子が潜伏している戸町屠殺場近くの薪置き場へ向かう。しかし金子は差し出された鮨を食べず、積み上げられている薪を捕手と見なすほど精神錯乱状態であった。富永は播磨屋敷へ戻る様説得するが応じず、砲台番の詰所へ行くと言うので海岸まで共に向かった。そこで『某がいるかどうか調べてきて欲しい』と言われたので丘を登ってその人の所在を調べて来たのだが、戻って来た時には金子は小舟に乗り一人漕ぎだし逃走した後であった。富永は大声で呼び戻したが金子が応じなかった為、寄宿して聞役栗田貫に報告した。
・同日の夜8時頃になって突然金子が戻ってきたが、聞役栗田は大事になると思い水の浦の福岡藩屯営所へ金子を送り気分を落ち着かせる為に座敷に居れ、役所書記仙田文次郎に監視を命じた。
・7月8日深夜、金子は仙田の刀掛けから大刀を奪い、腕をかき切った。死にきれず更に喉を突いて自殺。
・7月11日、金子の遺骸は丸棺に入れられ藩船蒼準丸にて福岡藩へ運ばれ、南茶園谷長栄寺に埋葬された。
・金子は事件前から気分不揃となり精神異常をきたしていたとも。
・事件当夜、伝習生の一人である粟野慎一郎(のちの駐露匿名全権大使。子爵)は、事の次第を内々に聞役栗田に報告していたのだが、栗田はこれを不問にし、あまつさえ箝口令をしいた。
・この度事件が発覚し、既に死亡している金子以外の伝習生ら7名は自訴した。
・また、海援隊の様子を見ていたのは先に出た役所書記・仙田文次郎。彼は金子がまさに狂乱の末自決したその場にいたが、その理由もとい彼が連れてこられ、海援隊の様子を見張る様に言われた理由がイカルス号事件に関わっているとまでは知らなかったという。だがその後、サトウらが長崎入りして以降イギリスによる追跡が厳しくなった事に危機感を抱いた栗田から、英国人らとも決して関わるなと内々に命を受け、もしやイカルス号事件に関係があるのでは…と察していたという。イカルス号事件の犯人はあくまで金子ではあるものの、その罪を隠した栗田については、おおよそはつみが予想した通りの心理的行動であった。
報告の後、サトウらが自訴した伝習生7名および聞役栗田、書記仙田に対し聴収を行う。


【サトウ・龍馬・グラバー】As a diplomat.
彼女の今後について三者三様に希望を語る。殊更グラバーははつみを褒めたたえていた。グラバーは龍馬と商談があるとして席を離れ、残ったサトウがはつみに声をかける。はつみがグラバー商会にはまだ戻るか決めていないといった話について、「もしはつみが望むのであれば英国公使へ正式に紹介する事もできる」と告げる。女性が外交官として抜擢された例はいまだ世界でも事例の無い事だが、女王を頂く英国では世界に先駆けて女性の社会進出にも前向きに取り組んでいる。パークス公使ははつみの実力を認めるだろうと告げた。


【陸奥・寅之進・サトウ】恋と友情
サトウは陸奥と寅之進に対し、二人の事は恋のライバルであり友人でもあると思っていると伝える。すると先ほどまで意気込んでいた陸奥が面白い程露骨に怯んだ。サトウや寅之進は笑い、陸奥もまんざらでもない様子であった。
(9月18日)海援隊、芸州藩船「震天丸」に武器を積み長崎出港。三条実美名代・戸田雅楽同船。
(9月20日)海援隊、下関に入る。伊藤と会い高杉の墓参りをする。龍馬、木戸に手紙を書く。
(9月20日)大久保一蔵、長州山口にて長州父子に謁見
(9月22日)海援隊、下関出航
(9月22-24日)中岡、軍隊編成方法について記した「兵談」大石弥太郎へ送る。
高杉の洋式部隊及び奇兵隊の影響
一方、在京保守派土佐上士(小八木五兵衛らか)、幕使の嫌疑を恐れ白川藩邸から陸援隊の追放を計画。
(9月24日)海援隊、土佐に入る。積み荷卸作業。
(9月24日)大久保一蔵、薩摩帰京。
長州、討幕参戦決定。
「譴責の身分ながら朝廷の危急により藩境を越えて加勢に駆け付ける」との決意。
後藤象二郎ますます孤立・緊張するも、すでに脇役である寺村左膳は女や家来を連れて松茸狩りに出かけている。
(9月24日)海援隊、ライフル3000丁を土佐藩へ売却する。龍馬、6年ぶりに土佐上陸。


【龍馬】坂本家


【龍馬・以蔵・武市】墓前対話


【武市・富】愛情と恋心
武市の墓を見舞い、富や以蔵と再会。武市に現状報告などを行う。
武市への想いは、自分が思った以上に整理がついていた事に気付く。
以蔵と再会し、彼が本当に生きている事、足の脛などに拷問の痕がみられる事など色んな意味で号泣。
また、富から『武市からの預かりもの』と共にその想いについて告げられ、更に号泣。


【龍馬・武市】未来へ2
龍馬、一人で武市と酒盛りする。


【以蔵】
龍馬が武市と語らっている間、はつみは以蔵と二人、今後や乾について話す。
道と直人の様子なども聞かせる。
(9月)後藤象二郎、イカルス号事件解決に際し京から長崎へ急行の途中、土佐に入る。
後藤、城下にて龍馬と会談し、はつみへ長崎同行依頼を出す。
墓前対話後のはつみ、「他の人に頼んでほしい」と頑なに拒絶する。


【乾・龍馬】世界へ咲き誇る桜
乾と龍馬が後藤とはつみの件についてはなす。龍馬がはつみを説くと言うが、乾が自ら請け負う。


【乾】取引という名の私情R18
乾がはつみを呼び出し、料亭へと連れて行かれる。
何度閨を共にしても、どうしても彼女と同じ夢を見られそうにない…
まるで青二才の様にきしむ胸の内を押し殺す様に、平静を装って。


【龍馬】R15
料亭から出た所で、ずっと店の対面側に立って待っていた龍馬と鉢合わせする。
龍馬、はつみに駆け寄ると言葉に詰まった様子ではつみを見つめ、往来にも関わらず抱き寄せ口付けた。周囲が一挙にしてざわめき、はつみも驚いて龍馬を突き飛ばす。突き飛ばされた事などどうでもよく、しかし不意に香った乾の香りに眉を歪める龍馬。そのまま手を引いて鏡川を渡り、才谷山へと向かった。(6年前、脱藩への同行を誘った場所)


【乾、龍馬】和解
はつみ、後藤、乾同席で容堂に拝謁。
イカルス号事件解決、英米水兵との揉め事回避などについて、英国のアーネスト・サトウから公式かつ丁寧な手紙が届いているという。土佐の面々と話をし、土佐の意を受け入れる。
(9月25日)後藤、はつみ、陸奥、長崎へ向け土佐出港。龍馬、寅之進ら、大阪へ向け出港。
(9月27日)後藤ら、長崎に入る。
(9月29日)乾、歩兵大隊司令に任ぜられる(武器が到着した為戻された?)
(9月30日)英・パークス公使、ミットフォード、長崎に入る。
(10月)乾、以蔵と話をする。


【乾、以蔵】実力主義・土佐正宗
乾、以蔵への期待を込めて刀を授ける。
世間的には少々いわくつきの刀であったが、『土佐正宗』とも異名を取るそれは良質な刀である事に違いはない。乾も以蔵もそのような事は気にしなかった。無言ながらも興味深そうに刀を見ている以蔵に「ちょっと抜いてみい」と言う乾の言葉通り、一旦腰に差した後中庭に降りると、居合いの型をとって引き抜いて見せた。一流の剣士に振られる一流の刀のきらめきが何と鋭く美しい事か。
「君に振られたがっちょる様に見えるな」
乾は愉快そうに笑った。
(10月1日)長崎、土佐・英会見。
仕置役(参政)後藤象二郎、大目付佐々木三四郎、御雇外国御用掛兼通詞はつみ、通詞陸奥陽之助
英国公使パークス、英国長崎領事マーカス・フラワーズ、二等書記官(兼通訳)A・B・ミットフォード
公使館付通訳官アーネスト・サトウ
公使の肩なめにウィンクしてくるミットフォード。
長崎奉行所から事件の顛末について説明がなされ、英国および土佐も概ねこれに同意を示した。土佐及び海援隊への容疑は文字通りの濡れぎぬであった訳だが、土佐側はこれについて英国を追求する事はなく、むしろこれをきっかけに土佐と英国の間で友好的な関係が結ばれる事を幕府管轄奉行所面々の前で堂々と臨んだ。須崎での対談において後藤の人格には一目置いていたパークスは心からこれを歓迎し、両者握手を以て会談終了となった。


【サトウ・ミットフォード】逃ガシタ魚ハ大キイ
大政奉還の件が迫り急ぎ大阪へ帰る土佐一行。サトウとミットフォードは少しの時間ながらはつみと話をする事ができた。ぎこちない様子のはつみに色々と訪ねる時間はなく、およそ2か月後の兵庫開港の際に再会できる事を望むと伝えて別れた。一連の様子を見ていたミットフォードが「君は天才的な外交の素質を持っているけど、ロマンスに対してはやっぱりまだまだだね」とロマンス上級者としての見解を、サトウに述べ始める。


【陸奥】やっぱ無理だわR15
男と女の友情なんて成立すると思うか?
(英国人劇作家オスカー・ワイルドの名言だがこの時彼はまだ20歳にもなっておらず、
恐らくまだこの名言は世に出ていない。彼よりも先にそんな哲学思想に行き着いてしまった陸奥陽之助・笑)
(10月3日)はつみ、陸奥、後藤らと共に大阪へ向け出港。
サトウらは幕府若年寄平山や福岡藩との談判により、引き続き滞在。


【陸奥】ギクシャクすんの禁止
船旅中:やっと自分の気持ちに対し素直になった陸奥だったが、当然ながら過度に意識してしまい
ギクシャクした感じに…耐え兼ねてわざと苦言を呈す陸奥。にわかに戻る二人の空気。


【陸奥】R15
下関で薪水調達後通過。(武力討幕関係の派閥問題が懸念された為は上陸しなかった。)
穏やかな瀬戸内海の船旅。高杉の大島奪還戦。時代の寵児、高杉、龍馬。そしておまえ。
龍馬とはつみの関係が進んでいる事を察知する。自慰


【陸奥】セッ●スしようぜR18
そろそろ神戸かという3日目の夜、何食わぬ顔ではつみの船室に滑り込む陸奥。
色々述べた後で、要するに「セッ●スしようぜ」と言ってくる。
「…は?」


【陸奥】成立してしまう男女の友情
手を繫いだまま目を覚ますふたり。ため息を付く陸奥と苦笑するはつみ。
美しく愛しい、そして尊敬できる女など他にいないのだと、今回の事ではっきりわかった。
―結果、自分らしくもなく至極ぶっきらぼうに体の関係を求めてしまったが……
やはり、壁は越えられなかった。
それでも友情は失われていない。このかけがえのない友情を『受け入れる』他なかった。
(10月)(後藤が戻ってすぐ)山内容堂名義にて老中板倉勝静に大政奉還建白書を提出。
寺村左膳・後藤象二郎・福岡孝悌・神山郡廉らが名を連ねる。
(10月8日)乾、容堂へ建言をするも『退助また暴論を吐くか』と笑って取り合わなかった。
乾、大政奉還の手応えを得た小八木政躬や寺村左膳により歩兵大隊司令及び全役職をはく奪され、再び失脚。
小八木五兵衛は山内始祖豊一の頃より藩主を支える600石取の大身である。
郡奉行・仕置役などを歴任し強固な保守派であり、かつて革新派であった吉田東洋とも対立。
当時ここに尊王攘夷の急先鋒たる武市半平太らを交え、藩内三派の勢力が均衡状態にあった。
これを打破したのが土佐勤王党による東洋暗殺であった。
(10月)英国公使一行、長崎を出て横濱に帰着。
サトウは高輪の自宅に入り、幕府および諸藩要人らと交流を再開。
(10月10日)中岡、正親三条実愛を訪ねる。実愛、五卿との義絶回復の出願を決める。
(10月14日)大政奉還。
鎌倉時代から約700年続いた武士による政治が終わりを告げる。
(10月18日)乾、谷干城宛てに書簡を出す。以前密告を働いた左行秀を警戒せよとの事。
(10月)英国公使館、外国奉行・石川利政から大政奉還の報せを受ける
(10月)英国公使館、老中・小笠原壱枝と会見し、大政奉還を上奏した長い公式文書を読む。(サトウ翻訳)
勝海舟も居合わせており、内戦が引き起こされる事を強く懸念。
酒井藩の家臣・金子は討幕派が大阪へ兵を集めていると言い、薩摩はすでに5000を導入。
いまだ『国賊』である長州も薩摩に呼応し、大政奉還を建白した土佐の兵も集いつつあると。
『前将軍家茂は慶喜によって毒殺された。これを信じる者は向かい島に集結せよ』とする
怪文書まで出回っているという。ただ報酬を求めて集まる者もおり食い止める術がないとも。


【小松】
京近衛家から譲り受けた御花畑屋敷で大久保と対談する小松。
土佐後藤の後ろには坂本龍馬がいる事を話題にする大久保。不穏な空気を受け止めながらも、
自分は坂本の操船技術と柔軟な思考と商人根性、そしてその隣にいる桜川らの外交力など
今後必要になるだろうから、彼らとは穏便に関係修復を図りたいなどと告げる。
今は幕臣だが、長崎留学の際交流のあった何 礼之などは通詞としての実力も人格も優れており
いずれ取り立てるつもりでいる等とも言い、武力討幕を遂行した後は外交関係に力を入れる
方向性に揺るぎはないと言う。人材は育ちつつあるが開国黎明期の今は即戦力が一人でも必要。
「…そいが信頼に足る『男』であれば、御尤も」と一言放つ大久保に、苦笑する小松。
とはいえ、実際、小松が統括する薩摩の貿易事業も外国との取引を主力に大きな利益を得、
その財力が今の富国強兵を遂げる薩摩の実態へ繋がっている。
『薩摩スチューデント』を英国へ密留学させ人材育成に取り組んだのも小松だ。
彼の多岐に渡る手腕あってこそ大久保や西郷も思う様に動けている。
いくら能力が高いからと外交に女を起用し、外国の宗教にもある程度譲歩しようする姿勢に
『柔軟がすぎる、甘すぎる』と思う所もない訳ではなかったが、小松を信頼する気持ちに揺るぎはなかった。
「おいは小松どんを信じもんそ。」
(10月)英国公使館、土佐の後藤から『大政奉還を建白したのは土佐である』とする手紙を受ける。建白書の写しを同封。改革の主なものは、
・主要都市に科学と文学を教える学校を作る事。
・ 諸外国と新しい条約を交渉する事などであった。
また彼らは議会に関する習慣等について詳しく聞きたいと言ってきたが、(貴族である)ミットフォードが特にこの事に詳しいので、兵庫開港の折に大阪で彼から話を聞けるだろうと応えた。
(10月)乾、薩土討幕の密約に基づき、場合によっては勤王派同志数百人と共に脱藩し討幕を行う決意。
(11月1日)中岡、正親三条実愛に会い武力倒幕を主張。
(11月5日)サトウ、ミットフォード、神戸開港大阪開市に向けラトラー号にて大阪へ向かう。
(11月7日~)サトウ、ミットフォード、大阪着。翌日上陸。
『ええじゃないか』で歩くのも困難なほど踊り狂う大阪の街。
全ての人が赤い服を着て、青や紫のものを着る人もいた。
踊り狂っている人々の大半は頭に赤いランタンを付けていた。
連日、外国奉行や若年寄らと会談。まだ来日から12か月しか経っていないミットフォードが
素晴らしい日本の言語力を証明。サトウの助けが無くても一人で通訳・会話をすることができた。
大阪城の裏手にある伊賀守(板倉勝静)の屋敷が公使館一行滞在場所に提供され、この他に公使館職員や兵士達が入る建物を4棟程増築する様願い出た。その後神戸へ移動。そこでは外国人居留地を作る為に多くの人が行列を成して盛り土や木材を運んでいた。
(11月10日)はつみ、龍馬を京から連れ出し長崎へ向かうと言い出す。
龍馬、大政奉還が実現した辺りからはつみが何かを恐れている事に気付いており
中岡などに叱られながらも『すぐもどるき』とはつみに合わせてやる。
龍馬は戦無き改革を望んではいたが、現状は兵も集まりつつありかなり緊張状態にある。
はつみを戦禍に巻き込まない様にする事も考えていた為、一旦はつみと長崎へ向かえるのは
むしろ好都合だと考えていた。


【龍馬】二人旅、再び
後を後藤および陸奥らに任せ、中岡には 「戦をするちいうても今は大政奉還や外国勢も兵庫大阪の開港開市で注目し、集いつつある。
機を間違えばこちらが不利になる。はやるなや」
「世界に認められ、資源と人材が守られ日本人同士の遺恨も残らん改革でのうては意味がない」
「改革後にあるんは世界と繋がる日本の姿じゃ。忘れるなよ」
と釘を差し、二人で一時的に京を出る。
はつみは全くこれに同意で、しっかりとそれを述べてくれる龍馬に感動すら覚える。

槿花一日

慶応3年10月~慶応3年11月

▲ TOP ▲
●慶応三年…はつみ26歳

(11月)乾、郡奉行・仕置役などを歴任する強硬な佐幕(保守)派・小八木五兵衛らにより全職解任、完全失脚。
※小八木五兵衛は山内始祖豊一の頃より藩主を支える600石取の大身である。強固な保守派であり、
かつて革新派であった吉田東洋とも対立。ここに武市半平太らを交え藩内三派の勢力が均衡状態にあった。
これを打破したのが勤王党による東洋暗殺であった。


【龍馬】黄色水仙の花言葉R18
(11月)何礼之、軍艦役主格・海軍伝習生徒取締就任
(11月15日)運命の日を長崎で迎える。
はつみが何かに緊張している事を悟る龍馬は、唐突に自分の『笑顔』について話始める。


【龍馬】仮面R18


【龍馬】幸福と掩蔽の日々…前編R18・後編R18
(11月15日)大阪の海援隊士達とは別に白蓮に滞在する寅之進、陸奥。
連日、中岡から『龍馬はまだ帰らんがか!』と矢の催促を受けており、
この日ついに近江屋へ呼び出される。


【寅之進・陸奥・中岡】近江屋
(11月18日)サトウ、大阪にて薩摩の吉井幸輔と会談。


【サトウ・小松】Japanese diplomat…EP1
詳細 薩摩、土佐、宇和島、長州、芸州が同盟を結成したと聞く。
肥後、有馬もこれに続く見込みで、西国諸藩は団結している様に思われた。
しかしサトウが気がかりなのは大政奉還を成したのは土佐であると、土佐の後藤から
直接主張を得ている事である。イカルス号事件解決の際にも、彼らやはつみが
大政奉還策の為早々に長崎を去ったのは記憶に新しい。
大政奉還は幕府が朝廷に、つまり帝に対して最大限恭順の意を示し、討幕派らとの武力衝突を
避ける為の最大にして最後の策であったはずだと英国は理解している。
これによって帝の兵を名乗る薩摩らが朝廷に従わない幕府を倒すという大義名分は失われる。
薩摩は振り上げた拳の降ろし場所をなくしており、その状況を作った土佐をどう思っているのか。
にも拘わらず、同盟軍に土佐がいるとはどういう事なのか。
それに関連して、はつみの現状、安全も気にかかっていた。
…彼女を口説こうとしている男がいる様だというミットフォードの言葉も忘れたわけではない。
思案しているサトウに吉井は続ける。
「内政状況が安定しなければ、諸藩は幕府と諸外国との間に争議をもたらす為に外国人を襲うだろう」
つまり開港に併せてここ大阪神戸湾に集まろうとしている諸外国に対し『撤退した方がよろしい』と、
捉えようによっては内政干渉ととれる言動を拒否するとも取れる言い回しに、サトウは
「幕府は既に国を支配しておらず、その様になった場合でも彼らは責任を負う必要がなくなる為
諸藩がその様な事で目的を達する事は出来ないだろう」
と答えた。厳密には、幕府が大政奉還を行い各大名への影響力も軍事力も低下しているのは明白だが
帝や朝廷あるいは幕府に取って変わる別の組織が今後外交の窓口となるとする条約は結ばれていない。
つまり現段階では、まだ国としての外交窓口は幕府であるという条約が有効なのであった。
にも拘らず『幕府にはもはや権限がない』とする様な事をサトウが述べたのは、吉井の発言が
率直に脅しと聞こえたからに他ならない。その様な原始的な脅しに屈してはならないのが
西洋人の威厳、プライドであり、しかしそこへ暴力での解決を安易にちらつかせては
西洋外交官の名が廃るといった所以であった。
最終的にもし戦争になったとすれば諸外国側が圧倒的に日本を制圧できるのも目に見えているが、
少なくとも英国はそれに至るまで何度も何度も根気強く国際法に則って話し合いの場を設けていた。
論理的に『そのやり方では根本的な解決にはならない』という事を示したいのである。
『このまま倒幕革命が立ち行かぬ場合、自分達の仲間である諸藩が幕府をゆする為に
あなた達外国人を殺害するだろう』とは外交上とんでもない発言である。
政治的な意図があるとはいえこの様な言い方をするのは、『尊王攘夷』が荒れ狂っていた頃に
その主張を一方的かつ極端な暴力や殺人といった手段でのみ遂行してきた未開国・日本人の
考え方からなんら変わっていない。開国をし政治的文明的改革を起こそうとする側の人間にも
まだこの様な『人を斬って捨てて首を挿げ替える。話を押し通す』といった考えが抜けない者が多いのだ。
吉井個人として見れば、彼は決して排他的な思想を押し出している訳ではない。
外国人にも友好的な方である。しかし以前にも、革命に際し外国人と必要以上に慣れ合う事、
外国の協力を得る事は好ましくないとした発言を場の流れではなく己の主張としてしたのを
サトウは覚えていた。その上この様な脅しめいた警告を挟んでくるあたり、やはり今、彼に対して
土佐の事など踏み込んで聞くのは間違いなく良くないだろうと結論付ける。
話ができるとすれば、サトウが知る限り最も魅力的で友好的、外国との各種やり取りにも実績があり
政治手腕にも長けた小松帯刀だろうが…。
「ところで小松殿は元気にしていますか。長崎での事件解決の詳細など伝えたい事があるので
是非取次を願いたいのですが。」
サトウが小松との面会を望むと、その旨しかと伝えるものの小松は非常に多忙につき
返答が遅くなる可能性を示しつつ、吉井は引き受けた。
イカルス号事件の事は、英国側の調査に長崎薩摩藩邸からも積極的に協力を申し出ていただけあって
その決着や経緯、賠償がどの様に着地するのかといった事には注目がよせられていた。
吉井、そして小松も、長崎でのイカルス号事件解決の際に桜川はつみが一躍したとの情報を既に得ている。
サトウが小松に話したいのは恐らくあの娘の事も含めての事なのだろうと内心察していた。
…今年の夏頃、桜川が土佐へ出る前に小松と対峙していた所をつい立ち聞きしてしまった件もある。
吉井はやれやれと人知れず息をつくのであった。
(11月)龍馬、はつみの汗ばんだ背を撫でながら京へ戻ると提案する。


【龍馬】月の人R18
元からはつみを長崎に届けたらすぐにそうするツモリだったが、
2人の事情が事ここに至り黙って行く事はできなくなっていた。
はつみ、龍馬に桜清丸を見せるが変化は見られない。
歴史上の命日である11月15日は過ぎ、龍馬は今生きている。
龍馬が京へ戻りたがる理由もよくわかる。
しかし本当に戻って大丈夫だろうか…。
悩むはつみを前に、龍馬もまた思案を巡らせる。出会った時からこれまで、ずっと思っていた事を。
(12月1日)龍馬、長崎を出港。はつみも付いてくると言って聞かなかった為
『もし戦が始まったり身に危険が及んだ時は、薩摩の小松に庇護を願い出る』事を約束して京へ向かう。
薩摩とは大政奉還と武力倒幕の方向性の違いから少々距離を生じさせている現状だったが
今は外国語や外交そのものに通じた人材が喉から手が出る程欲しいに違いないと踏んでいた。
小松が…薩摩がはつみを拒む理由はないと、龍馬は考えていたのだった。
(11月29日)パークス公使ら英国公使館一行、兵庫湾に入り大阪に上陸する。
以後サトウは、この大阪城裏手に新築された公使館設備か、神戸の外交人居住地、神戸湾に浮かぶ英国艦、そしてそれらのおよそ中間地点に存在する大阪英国副領事館のいずれかに、臨機応変に宿泊する様になった。

運命の日

慶応3年12月

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●慶応三年…はつみ26歳

(12月5日)坂本龍馬・中岡慎太郎、暗殺


【龍馬】運命の日、白蓮にて

幕府終焉編

慶応3年12月~明治元年10月

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●慶応三年…はつみ26歳


【小松、半次郎】(小松御花畑屋敷に匿われるも幽閉に近い状況となる)


【寅之進、陸奥】(ルシについて。陸奥、『正義』の為に屋敷を出る)


【乾、以蔵】土佐の命運
(12月6日)アーネスト・サトウ、英国公使館付き一等通訳官となる
薩摩吉井幸輔が大阪英国公使館に駆け付けサトウと面会。至急ウィリス医師の派遣を要請。理由を聞いたサトウは公使公認の下、ウィリスと共に大阪薩摩藩邸へと駆け付け『彼』の治療に取り掛かる。詳しく事情を聞くサトウが気にかかったのは『黒い鳥』の存在であった。長崎でイカルス号事件の少し前に起こったキリスト教徒摘発事件、これに係る事件として摘発する役人が黒い鳥による猛攻撃を受け十数名の死傷者を出したという事件に似ていると思ったのだった。


【サトウ】Chaotic days.…EP1・EP2・EP3
(12月7日)大阪開市・兵庫開港
陸奥、白峰等、天満屋事件に関わる。


【陸奥・斎藤】天満屋事件
(12月8日)長州藩主父子、三条実美、岩倉具視らの赦免決定
陸援隊、岩倉具視の密命を受け鷲尾隆聚を擁して高野山へ向かう
(12月9日)会津公、京守護職辞任の意向を取り下げていたが慶喜により解任。御所を出る。
代わりに薩摩、長州、土佐が御所警護に入る。
王政復古
各親王、諸公卿、容堂、伊達、島津ら諸侯、一部の大名らがその場に連なった。
関白、伝奏、議奏といった朝幕間を結ぶ為の官職も廃止され、
総裁、議定、参与(三職)によって新しい政府が構成される
(12月10日)朝廷、尾張徳川慶勝および越前松平慶永および徳川慶喜に辞官納地の勅旨を与える。
(12月12日)開市開港の日からここまで、アーネスト・サトウはじめ英国公使一行はサトウの独自調査や市井での噂、サトウの従者であり会津出身の野口富蔵、長州木戸から同行要請を受け預かっていた遠藤謹助らによる報告でしか物事を知り様がなかった。
そこへ外国奉行石川利政(河内守)が大阪副領事館に現れ、サトウはここ一週間の激動について詳しい状況を知る事となる。
(12月12日)陸援隊挙兵。『官軍』を盾に紀州藩を恭順させる
(12月13日)徳川慶喜、将軍を辞し大阪城へ入る
サトウ、ミットフォードは京橋のあたりでこの行列を目撃した。暫く見守っていると突然沈黙が訪れ<全ての日本人がひざまずいた。サトウ達も脱帽する。慶喜は疲弊し、悲し気な表情をしていた。その後に続いた伊賀守(板倉勝静)や豊前守(新見正興)はサトウらに気付き、笑顔でうなずいて見せた。この行列には会津と桑名も続いていた。彼らの行列の後からついていくと、同じく行列を見ていたパークス公使、ロッシュ公使と合流。会見を希望したが慶喜は今日は会見は行わず明日以降正式に招待すると声明を出した。
長州の下へ走っていた遠藤が再び王政復古に伴う新政府の実態などについて報告した。
『皇族の血族である有栖川と山階、宮廷貴族(公家)の正親町と岩倉が総裁(大臣に相当)に任命され、尾張、越前、芸州、薩摩、土佐の諸侯は議定(内閣に相当)に任命された。参与(次官に相当)には宮廷貴族の一人である大原などが任命され、議定に選出された諸侯の配下から三人ずつが選出された。岩下、大久保、西郷らである。御所は薩摩と芸州が護衛し、京都の治安維持は長州が担っていた。また、かつて818の政変で都落ちした宮廷貴族を迎える為に、薩摩の汽船が筑前へと向かった。』それは三条実美、東久世通禧、三条西、壬生、四条らの事であった。
(12月14日)慶喜、六カ国公使と会見。
…というのも、慶喜は先日言った通りすぐさま外国公使らと会見するつもりはなかったが、パークス公使はこれを待つ事ができず催促する親書をサトウに書かせ大阪城へ送る様指示した。その最中にもサトウには薩摩大阪藩邸留守居役である木場伝内からの機密書類が届くなど多忙を極め、親書が発送されたのは午後に入ってからであった。しかしそれすらも入れ違いで外国奉行石川利政(河内守)と旗本・塚原昌義がサトウを訪ね、慶喜が明日パークスと会見する事を望んでいると伝えに来た。これにはどうやらフランス公使ロッシュが抜け駆けて慶喜との会見にかこつけた為、公平を保為に慶喜はこの様な使いをよこしてきたらしいとの情報も入り、ミットフォード曰はく『嫉妬し合う女の様に争っている』とするロッシュとパークスの関係からみても普段から『怒り癖』の強いパークスが大激怒したのは言うまでもなかった。外は雨であったが、パークスはサトウらを連れて急遽大阪城へと向かい、『幸運にも』まだ将軍との謁見前であったロッシュと対峙した。『どちらが先に慶喜と会見するべきか』と一悶着起こすパークスとロッシュ。
会津公と桑名公が将軍慶喜との謁見を終え去っていった所で、言い争う公使二人とその通訳達は謁見の間へと通されていった。慶喜は『将軍』から『上様』へと戻す宣言を記した公文書が発行された。これにより英国においても『大君』から『上様』表記へ変更となる。
(12月17日)石川河内守、『薩摩一派の強引な政権交代』に対し反発する大名(阿波、肥前、肥後、筑前その他)の抗議書を提出し、全国会議の開催を要請。抗議書を見る限りでは戦争を起こそうとする様子は感じられない様にも見えた。
(12月18日)サトウ、黒田嘉右衛門と共に薩摩藩士・木場伝内と会う。抗議書が出されたのは事実であると認め、サトウは「薩摩ら5藩は他の反対派大名が干渉してくる前に既成事実を作りたがっている」とこの時理解する。旧幕府要人らは「本当に戦争になるのか?」という見通し不明の状況であったが、薩摩一派が兵を集めている事は明白であったため、慶喜を守る為に旧幕府側も徐々に兵を集めつつあった。 会津などは500人が動員されており、新選組300人を伴って淀城付近(京へ真っすぐに続く伏見の道)に兵を配置し、長州兵らが詰めている西宮にも小浜藩などが配置している。
木戸、藩命により上洛する。


【木戸】(龍馬・中岡の墓碑の文字を書く)
クィン、ホッジス、江戸・田町にて薩摩砲兵隊前を通過時に攻撃される。負傷者なし。
(内政の硬直状態により吉井の示唆していた『挑発行為』が本当に行われようとしている)
(12月20日)はつみと寅之進の身柄が小松帯刀と共に大阪薩摩藩邸中屋敷へと移される。


【小松】こまつといっしょ5
(12月20日)江戸、薩摩庇護下浪人ら(相楽など)江戸城二の丸に放火
(12月21日)陸奥、神戸開港大阪開市に伴い大阪滞在中のサトウを訪ねる。


【陸奥、サトウ】Japanese diplomat…EP2
陸奥が単身、大阪英国公使館を訪れサトウとの会談を望む。新政府を国際的に承認させるの為の問答。陸奥はそれまで坂本龍馬やはつみの陰に隠れていたが、イカルス号事件の際にはその非凡な才をサトウ達に知らしめるに至っている。また『新政府』と自称する組織が樹立した様子であっても、その外交的処置として彼らは何のアクションもしてこない。つまり彼らの中に世界に連なろうとして正しい判断を出来る者が殆どいないという所でもあった。薩摩の木場伝内とは近々既に約束を取り付けておりもしかしたらその時に外交面における話があるのかも知れないが、同じ薩摩でも先日の吉井の様な時代錯誤な発言をする者もまだまだ多い。古からの世襲職を打破できない保守派の巣窟である朝廷・公卿衆が真の意味で世界を見据えた抜本的な改革ができるとも正直思えない。そんな中で陸奥の着眼点、そしてその行動力は大いに期待できるものであった。


【陸奥、小松、サトウ】Japanese diplomat…EP3
陸奥の去り際、小松と木場伝内が大阪英国公使館に現れる。元々はつみらと共に保護されていた陸奥は小松らの元から逃走した形となっていたが、小松はこれを問題にする事はなかった。むしろ陸奥の実力は既に知っていたし、サトウに訪ねた事柄の着眼点にも感心さえした。陸奥にまとめさせ、小松が岩倉に推挙するから同行する様にと申し付ける。
小松はというと、サトウに対し先日のウィリス医師の派遣に際する配慮の例と、はつみの今後について相談をしにきたという。ここだけの話だが十中八九武力倒幕を目指す戦争が近日中に勃発する。はつみは既に大阪へ避難させているが、その後の身柄を英国公使館で保護してもらえないかといった大胆な発案であった。これには隣で聞いていた陸奥だけでなく大阪藩邸留守居役の木場伝内までもが驚いていたが、小松ははつみにとってそれが最善であり、また英国にとっても彼女の才を利用できる利点があると確信している様子だった。あくまで物腰柔らかく爽やかに提案を示す小松であったが、真っすぐに堂々と的確に要点を告げ聞き手の興味を惹きつけその気にさせるプレゼンは、なるほどやはり類を見ない有能人物であると思わずにはいられなかった。
(12月22日)サトウとミットフォード、以前からの約束通り再度木場伝内へ会いに大阪薩摩藩邸中屋敷へ行く。小松は既に京へ発っていた。開国、新政府樹立に際する質問リストを受け取るがその全てに対し『帝は京都に公使達を招き、その場で前将軍に対し外交を行う権利を放棄する様宣言する事』の一つ返事で返した。この日はつみと会う事はできなかった。今彼女に外の状況を報せる事は極力避けている、つまり殆ど幽閉している様な状態である為で、件に対し英国側から正式に可とする返答があり次第面会謝絶を解除するとの事だった。


【サトウ、ミットフォード】Clear the first hurdle.
(12月23日)サトウ、ミットフォード、薩摩家老小松帯刀から桜川はつみ庇護の要請があった事をパークス公使に進言する。イカルス号事件よりも前、英国が大名との直接的な交流を模索していた頃に土佐訪問の打診を持ち込み、近日においてはマセソン商会長崎代理店(グラバー商会)にて約一年インターンとして国際ビジネスとマナーを学び、イカルス号事件に際しては両国の間を取り持った異彩の才女。前上司であり前公使でもあるオールコックからも個人的にその名を聞いており、チャールズ・ワーグマンが発行する風刺冊子の人気キャラクターである『抑圧されたミューズ』のモデルとなり、フェリーチェ・ベアトの写真で見れば実に写真慣れもした美少女であり、『我が英国公使館』付の優秀な通訳官達がこぞって骨抜きにされているという事もパークスは知っていた。英国人ではないアレクサンダーが15歳にして通訳官(sir)として採用され、17歳の時には英国の国家試験をパスして正式な英国公使館付き通訳官となったという前例もあった。はつみを迎える事は英国としては問題はない、とパークスは返答をした。
(12月22日)江戸薩摩藩邸焼き討ち
(12月24日)徳川慶喜、朝廷に将軍職返上を奏請
(12月25日)江戸、旧幕府軍による江戸薩摩藩邸焼き討ち。旧幕府軍軍艦と薩摩軍艦の海戦勃発。
死者、薩摩藩邸使用人や浪士64人、捕縛された浪士112人。
旧幕府側・上山藩9人、庄内藩2人。相楽らは薩摩の軍艦にて西宮へ合流。
(12月27日)五卿帰京。参内
(12月28日)西郷、谷干城を呼び出し薩土討幕の密約に基き乾の上洛を促す。谷、即座に土佐へ発つ。
(12月29日)サトウ、石川河内守と会談。江戸で騒動が起こった事を聞く。

●慶応四年/明治元年・はつみ27歳

(1月2日)サトウ、江戸から来た提督の話により、江戸城放火からの一連の騒動が本当の話である事を知る。
(1月3日)戊辰戦争開始・伏見戦争
挙兵に際し山内容堂は強烈に異を唱える。『全国会議』と言いながら実際には殆ど薩摩に連なる西国諸侯しか集まっておらず、その中の採決で決まった事なども猛然と批判した。春嶽公なども容堂に並び異を唱えたものの、岩倉が「わかった、ならば土佐は慶喜に付くがよろしい」と突き放し、会議の休憩中に土佐後藤も挙兵を認めざるを得ない状況を容堂に説いた為、容堂は閉口せざるを得なかった。以後、容堂がこれらの方針について口にすることは無くなり、病気と称して引き下がった。
陸援隊、高野山に布陣して紀伊、大和の勢力を牽制。
サトウ、夜に大きな火の手があがるのを見ている。同行する長州藩士・遠藤が戦争の勃発を告げた。兵庫では薩摩の船を押さえるべく旧幕府軍の軍艦が海上封鎖していた。慶喜が陣頭指揮を執るという噂も流れている。
政府、『七事務局(七局)』を発足。
神祇、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、制度による『七事務局』を発足し、「七局」と略称される。
また、これらとは別に国政の統一のために総裁局が設置された。
詳細 陸奥、岩倉具視と面会。先日サトウに話を聞いた件を意見書としてまとめ、しかるべき段取りを説き、『諸外国に認められる』政府の在り様を説く。この新政府樹立と開国にあたり最もたる具体的かつ効果的な外交政策の他、その英会話力、ずば抜けて切れる頭脳を買われて、陸奥は薩長土の派閥を越え己の実力と行動のみで『外国事務局御用掛』へと大抜擢される事となった。その上、この陸奥の進言を元に帝による政権宣言と大阪での諸外国対応などが実現される事となる。

また、陸奥はこの時自分の英語力ははつみと共に学び、外国の知識や先進的な価値観なども大筋ははつみから得たものである事を表明する。(もちろん長崎で英国婦人のボーイとなって英語や文化を学んだ事もあるのだが)
はつみの驚異的とも言えるほどの先進的な価値観や知識、まるで地図を見下ろしているかの様な論理的思考力、そして苦難続きの時勢の中で根気よく数年に渡って勉強を続けてきた英語力とその先の時代を見据えた信念は、遡る事安政の頃、吉田東洋に始まり、容堂、木戸、小松、西郷、乾、後藤、伊達宗城、イギリス公使(パークスや前任のオールコック)とその外交官(サトウ、ウィリス医師、シーボルト、ミットフォード)、英国商人グラバー、幕臣勝海舟、何礼何、現在薩摩藩校英語教師を務める中濱万次郎などなど、彼女に会った事のある幾人もの要人が認める所でもあると説く。
また、日本は開国を是としても世界情勢・社交的に決定的な行き遅れ感があり、国外及び社交的な場へ出席すれば笑われ或いは煙たがれる事は否めない。そのような日本人の印象をどの様にして覆していくのか。その適任が彼女であるのだと陸奥は強力に推した。
岩倉や三条などは女性採用に関しては完全に保守派であり、一旦持ち越される事となった。

これらの陸奥の進言については、木戸や小松、そして実際に英国などを見て来た伊藤や井上など若くして外交の窓口として活躍する者達も同意であった。宇和島元藩主であり新政府の要職を勤め上げる伊達宗城も、元治元年時に初謁見して以来はつみには一目置いており、彼自身が楠本イネの女医活動を推奨していた様にはつみに関しても『やらせてみるといい』と賛成の意を表した。
一方、大久保や西郷は岩倉らと同様女性の公認採用には後ろ向きで、薩摩から出仕して英会話塾などをさせるなどの案を出す。特に大久保は頑なであった。これに対し陸奥へ助太刀するかの如く対峙した伊藤などからは、英国をはじめとする西洋諸国や米国に見られる『女性の社会進出』への取り組みなど国際的な課題に切り込む事で日本の存在感を打ち出せるという新たな見解を、文久2年に発行されたジャパンパンチに掲載された『抑圧されたミューズ』の記事を手に力説する。伊藤にとっては彼自身はつみの才に対し最初から異質で果てしない印象を抱き実際その片鱗を見てきたというだけでなく、同じく当時からはつみと似たような思想を抱き、その思想がまさに日本の夜明けをもたらさんとする直前で逝ってしまった高杉晋作の意思も背負っているつもりだった。高杉も手にしたこのジャパンパンチの『抑圧されたミューズ』に関しては小松らも数冊を保持している為当然認知しており、大久保西郷らも目にしていた様だ。木戸に至っては生前の高杉から聞かされており、皆、事ここにきてその風刺の意味を深く突き付けられるに至る。
更に陸奥は、慶応3年にジャパンタイムズに掲載され全国大名および政府関係者らにも広く知られた『アーネスト・サトウ作・英国策論』について、はつみは文久元年の時点で殆どこれと同様の見解を示していた事も指摘。これについても伊藤、木戸はその思想を当時直接はつみから聞いたクチで、小松などは英国策論についてはつみに訪ね、驚く程具体的に話を聞く事ができた事を回想。
更に同慶応3年の長崎イカルス号事件とその最中にあった英米水夫と土佐藩士のいざこざ等、英国通訳官アーネスト・サトウと共に見事解決へ導いていると力説。これは英語力だけでなく国際司法の在り方を理解し、どうすれば諸外国が納得し『法のもと平等な判決』を導き出せるのかという事を彼女がよく理解している事、そして今新政府に必要な外交官として必要な人柄と思考力を備えているという事以外のなにものでもないとした。
また彼女が、そして龍馬らが大政奉還案を推していた真の理由は、土佐の大政奉還派のそれとは多少異なる思想がある事にも言及。土佐、特に容堂は徳川恩顧の藩であるとの意識が強く、その為に幕府に対し歩み寄りを見せ徳川家を生かす道を探っていた。現に今この瞬間も、容堂とその側近である公武合体派の寺村左膳、佐幕派の小八木政躬らに対し、土佐本国にいる勤王・討幕派の党首・乾およびその名のもと鳥羽伏見に参戦した土佐諸兵らの意向は噛み合っていない。しかし龍馬やはつみの大政奉還案とはあくまで国際的な日本の立場や、内戦が勃発した場合のその損害を推し量ってのものであったと主張。国際的感情や司法に照らし合わせた時に『慶喜自身に『罪』はない。むしろ、過去の幕府の政策の非を認め、いたずらに内戦を起こし民を巻き込む事を恐れ、帝に恭順の意を示した。幕府最高責任者たる将軍として自ら幕府を終わらせ退いた、孤高にして最後の将軍である。その慶喜を更に厳罰に処しようとする日本の新政府の目指すものとは何か』『未開国日本の理不尽なハラキリ制度。そして話し合いではなく暴力と殺人によって意見を押し通す政治。『開国』をし西洋の政治を見真似しても結局は変わらない蛮人の国』…等という諸外国が受けるであろう悪印象を回避させ、ゆくゆくは条約改定および新条約締結の際大きく相手の出方や日本に対する見方を変える事になるだろうと想定していた。更に諸外国来日の第一目的が『貿易・外交』である事も踏まえ『世界規模からみれば小さな島国にすぎない日本の国内紛争により、貴重な日本の資源や諸外国に渡り合える有能な人材を失わない為』つまり『日本が分裂し互いに国力を削り合う様な無益な戦をしない為』『国力が削られた時、国ごと資源・人材・全てを持って行かれる事への懸念』の総合的手段として、戦無き討幕・大政奉還を推していたのだと説明。
そういう意味で、龍馬ら海援隊やはつみらとは見つめる方向が少しだけズレ続けていたのだ。これらは龍馬も散々説明してきた事であったが、彼らと繋がりの強い土佐公武合体派、容堂の思惑を払拭しきれず賛同を得られなかった。しかし今となっては武力倒幕派の望み通り戦の火蓋は切って落とされ、彼らの宿願はようやく芽吹いたという訳だ。そこへようやく聞き入れられる余裕もでき、これまで龍馬の腕として動いていた為表には出て来なかった陸奥の思いもよらぬ鋭い弁舌や小松の強い説得、木戸の同意もあり、大久保・西郷は理解を示しはつみの採用を『ある程度まで』容認する事となる。
残るは公卿衆である。公卿衆といっても『古来より帝の膝元で家名を継いできた』というだけの者達は眼中にない。つまり、主に岩倉、そして三条実美ら五卿らといった『信念から行動を起こせる』『実績ある』人物であり名実ともに武士にも劣らぬ気骨ある公卿衆に、『女性士官』を納得させる事であった。案の定特大の渋面を浮かべる岩倉に反し、意外にも三条や東久世などは文久2年時の武市とその傍にいたはつみらの事をよく覚えており、公知が暗殺される前にも語り合った事などを振り返り、当時彼女が言っていた通りの世が訪れているという現実を受け、既に一定の理解を示そうとしている。
残るは、こうと決めたら揺るがない頑固な岩倉への説得であった。
(1月4日)京・土佐藩兵、藩命を待たず薩土密約に則って参戦。
土佐軍は官軍として錦の御旗を授かる。大目付・本山茂任、樋口真吉ら、伝奏の為、土佐乾の元へ出立。


【乾】土佐迅衝隊、進発
(1月4日)大阪・土佐堀薩摩藩邸が焼け落ちる。
この日パークスと緊急会見を行った伊賀守(板倉勝静)は、慶喜の京入りを阻止しようとした薩摩兵が伏見に火をつけたと言う。鳥羽・伏見どちらにおいても待ち伏せされており、旧幕府側は撤退する事となった。
(1月5日)パークス公使、再び伊賀守(板倉勝静)を訪ね、慶喜の相談役でもある永井玄蕃守(永井尚志)も交え会談。旧幕府軍の総司令は竹中丹後守(竹中重固。若年寄並陸軍奉行。竹中半兵衛の子孫)敵は薩摩と長州兵士、その他浪人との事。 鳥羽と伏見で押し返されたので、武田街道からの巻き返しを図ると言う。旧幕府軍1万に対し相手6千。…もう少し上手くできなかったのかとサトウは思っている。
(1月6日-9日)土佐・谷干城、土佐へ帰藩。
佐幕派らは薩摩の挙兵と共に土佐が朝敵となりうる事態に怯んでおり、乾の失脚が解かれる
乾、薩土密約に基き雄藩と共に勤王の志のもと挙兵する事を一方的に宣言。
深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成。
岡田以蔵、遊撃精鋭隊という一小隊の隊長へ取り立てられる。
実家、富、京へ、短くも非常にしっかりとした手紙を送る。
(1月6-7日)慶喜、大阪城を退去し江戸へ。
陸援隊、京へ帰還し御親兵となる。
(1月6日)朝、サトウは牧方や橋本から火の手が上がっているのを見て戦闘が近付き、大阪城も攻撃対象であろう事を察する。江戸城裏に新設された大阪英国公使館では重要文書を軍艦へ避難させ、その上で顛末を見守る事となった。夕食後、パークス公使が仏ロッシュ公使のもとへ出かけ旧幕府軍の使者から通達を受けた。もはや旧幕府の保護は受けられない為、自分たちの身は自分達で守らなければならないとする回覧書を出す事態にまでなったが、まずは重要書類等の保全に務めた。
(1月7日)朝4時に起こされフランス公使からの通達を受ける。敵(薩摩ら)は本日の早い時間に大阪へ突入してくると思われるので、夜明け前には逃げ出さなければならないとの事だった。小舟はまだ一隻も来ていなかったが、野口達が何とか小舟を確保してやってきた為、そこへできるだけの荷物を載せて9時頃に出発させた。石川河内守が駆け付け、力になる事ができないと告げた。サトウとパークス公使は石川と共に大阪城の正門の外へ行き、なんとかして荷物を運ぶ人手を得る事ができた。しかしまだまだ船が足りない。石川と共に大阪奉行所へ駆け込んだが当然ながらそれどころではなく船は確保できないと言われた。あのいつも穏やかながらにどっしりと肝の据わった風格を放つ石川が泣きそうな顔になっている。結局城で荷物を保管してもらおうという事になったが、公使館へ戻ると5隻の船が到着しており、パークス公使が満面の笑みを浮かべていた。
10時頃にそれらの船と全ての重要書類等は出発する事ができたが、サトウは残りの持ち帰るべき備品も持ち帰る為にその場へ残った。サトウと共に残ったのは野口富蔵に加え、昨年の大阪陸路移動の際からずっと苦楽を共にしてきた別手組の6名であった。
正午ごろ、サトウ一行は残りの船とともに出発し外国人居留地へと戻り、公使館の荷物などは全て移され、公使館の機能は副領事館へと移された。このように大阪の町で基盤を築き上げていた英国は市井の人々の協力を得る事もでき、ある程度の生活水準を保つことが出来ていた。しかし各国は天保山に設営された臨時テントで寝泊りし、良質な睡眠が得られないどころか食料不足まで懸念する事態となっている様であった。
(1月7日)新政府、慶喜追討令発布。
(1月8日)サトウ、 第九連隊二大隊から護衛を連れて空の大阪城や立ち去った後の公使館を視察。目下異常は見られず戻った所、フランス兵達が民衆から石を投げつけられて発砲し、8、9人を殺害していた。彼らの公使館は略奪に遭っていた様だ。サトウが大阪へ行った時は人々は皆笑っており、敵意など感じなかったし公使館もそのままだった。大阪の人達は外国人の国籍を見分けられる様になっていたのだ。
昼食後、パークス公使、サトウ、ウィリス医師は天保山へ向かった。ウィリスは会津の負傷者の治療に向かった。会津の兵達曰はく『勝てない戦いではなかったが津藩主・藤堂高潔が裏切り、また総大将の竹中が投降した』と言った。また兵は十分に訓練されておらず、『歩兵に至ってはまったく役に立たず羊の群れの様に一人が逃げ出せば全員がそれに続く』と言った有様であったと聞く。
パークス公使は他の公使達と同様に神戸へ下がる事を決断した。他の国は国旗を降ろしたが英国は降ろしておらず、その旗が辱められない様、サトウは副領事代理のラッセル・ロバートソンや第九連隊二大隊の護衛達と共に大阪に残ると申し出た。
(1月9日)パークス公使ら、一時的に神戸へと撤退する為船に引き上げる。
サトウは個人的護衛及び第九連隊二大隊の護衛達と共に大阪副領事館に残る。8時半に大阪城から白い煙のちに黒い煙が上がるのを大阪副領事館から見る。大阪城を視察にいき、火災が発生しているのと同時にすでに撤退した後の公使館が略奪されているのを目撃した。
正午、正午、副領事館へ戻ると京へ偵察に出ていた長州藩士遠藤が戻っており、大阪城には長州藩士が200名程入っていると教えてくれた。そしてパークス公使からの命令書が届き、サトウ達も共に神戸へと引き上げる事となった。
(1月10日)神戸に転がり込んだサトウ達は、幕府の奉行や税関などが使用していた建物を保護という名目で占拠した。この日、慶喜追討令の噂が外国人らの耳に入る。また、サトウの旧友であった柴田日向守が部下らを伴って大坂号へ乗り、昼過ぎに江戸へ向かった。
(1月11日)備前(神戸)事件
14時頃、行軍中の備前兵が、行列の前を横切ったアメリカ水夫に向け発砲。その後目に付く限りの外国人を殺傷しようとした。各国から軍が投入され、逃走する備前兵らの追撃と外国人居留地の入り口占拠が行われる。サトウ、ウィリス、ミットフォードらも拳銃を持って軍人らと共に備前兵を追跡し、銃撃戦に参加。一斉射撃と銃戦のすぐそばにいて奇跡的に無傷でいた敵方の荷物持ちを見つけ、捕虜とした。サトウ、パークス公使に対し、備前がこの件に取り合わないのであれば日本全土の外交問題として取り上げる事を勧告するべきだと主張。捕虜にはこの旨を記した書簡を(一応)持たせて解放した。
長州兵100名が神戸と兵庫守護の為現れたが、危うく戦闘になるところであった。サトウが取り持ち、この地への駐留は必要ない事を求めて受理され、衝突は回避された。これに加え、兵庫と神戸にあった汽船を安全の為の物的保障として拿捕する。
(1月12日)サトウ、薩摩の吉井幸輔から政治会談の要請書簡が届くがあまりの混乱・多忙ですぐに取り合う事ができなかった。この時グラバー商会のワンポア号が入港し『薩摩から800人の兵が乗っている』との噂があった為これに乗船し対処するが薩摩兵は一人も乗っていなかったなど、情報錯誤し混乱を極めていた。
また、外国人は汽船を拿捕した理由を述べ、その上で人々に平穏に日常を過ごす様求めた。更に、武装していなければこの駐留地を通過してもよいとするといった宣言も行い、サトウ翻訳し作成した張り紙が一帯に張られていった。先に集っていた長州兵達は英国とは友好関係にあり、すぐに理解を示し応じてくれた。
一帯への張り紙と通告を行いやっと居住地へ戻ったところ、薩摩の吉井が寺島と共に会いに来ていた。以前小松や陸奥、木場伝内らに『帝の新政府を諸外国が正当性のある組織であると認める方法』について話した所であったが、吉井らは薩摩兵は帝の兵だからを通過させてほしいといった交渉をしに来ていた。戦いが勃発し慶喜が去った事は確かな様だが、薩摩の兵が日本の元首である帝の兵であると証明・保証できるもの、それを成立させる条約等は今の所なにも成されていない。故に帝の政府は正式な使者を諸外国公使へ送るか、諸外国の公使が帝に謁見する機会を設けるべきであると述べたのだと説明する。それについては岩下、後藤、東久世通禧らが正式な使者として派遣される予定であると言い、事の成り行きは理解した為急ぎ戻り新政府に通達すると言う吉井ら。また、帝とその新政府は諸外国に対し公平に接するが、英国はかねてより薩摩、長州、土佐を始め日本との友好関係を築き上げてきた実績がある。故に、これからもその友好関係は変わらず、好意的に接したいと述べた。
(1月13日)サトウらの元に肥前国の家臣がやってきて、拿捕した宇和島の汽船について問い合わせてきた。あれは肥前が宇和島から借りていたものだったそうだが、拿捕の理由を述べると納得してくれた。しかし他の諸外国がつまらぬ事で喚きたてた為、サトウは諸外国に対する日本人の評価が下がりかねないとして嘆く。
長州の指揮官から備前のその後の動きについて話を聞く事ができたが、彼らの行き先は不明のままであった。
(1月13日)土佐、土佐迅衝隊600人、土佐を出陣。北山越え(参勤交代ルート)からの進軍。
「高松、川之江、松山を鎮撫せよ」四国(自国以外)を東から西まですべて鎮撫せよとの勅命。
谷を城下へ走ら、2軍を設けて西部鎮撫を指示。以後丸亀藩、高松藩、松山藩と極めて無駄なく鎮撫する。
(1月14日)帝の使者として東久世通禧が兵庫へやってくる。
岩下、寺島、伊藤、その他随行者を連れていた。その中には陸奥、薩摩の五代友厚、土佐の中井弘蔵もいた。フランス公使ロッシュは、外国人代表と帝の使者との間を取り持ったのがイギリスであった事に苛立ちを隠せない様子
(1月15日)東久世通禧らと各国公使の会見が行われる。
東久世と通訳伊藤は極めて冷静かつ丁寧に外国人公使達からの質問に対応していた。雨あられの様な質疑応答の末、東久世が新政府を承認するのかといった質問を公使達に投げかけると、煮え切らないフランス・ロッシュが喚くシーンも見られた。しかし英国だけでなくイタリアやドイツなども昂然と対峙し説得を試みた結果、全公使一致で『新政府を承認し本国政府へ通達する』と明言した。これに東久世は心から満足の意を示した。
その後、彼らを送る軍艦を待つ間、伊藤・陸奥と私的な会話をするサトウ。伊藤は『外国人が京へ行く事に対しもはや何の問題もない』と答えており、サトウは無関心を装ったが内心では好奇心に心が震える様であった。二世紀にもわたって頑なに外国人を排除し続けた都とそこにある建築物を是非見てみたいものだと思わずにはいられなかったのだ。


【陸奥、サトウ、伊藤】Her secret.
また、必然と言えば必然か、はつみの話も話題に上る。彼女が英国公使館預かりとなるであろうといった話は伊藤の耳にも入っている様であった。陸奥が言うに、伊藤と示し合わせた上でここだけの話だが、はつみに新政府の役職を与えようとする動きがあるのだと言う。
・ ・ 船の上で「あいつ、色々知ってる様でやっぱり知らない事もあるんだな。」と伊藤に語り掛ける陸奥。
「…武市や高杉さんの事は伝えて良かったんかな」
「まあ、色々もう昔の話だし今更何か弊害がある訳でもありませんから」
笑って言う伊藤に、こいつはやっぱどっか肝が据わってるなァと感心すら抱く陸奥であった。
一方サトウは諸事事務仕事が終了し就寝時刻になったにも関わらず思考が巡り眠れず…いや、ようやく一人で思考に没頭できる時間になったからこそ思案が止まらずにいた。
(1月15日)陸奥、東久世らによって作成された諸外国と会談した新政府への報告書と公使達を京へ招き帝への謁見を正式要請する書簡を託され、大阪を出る。
(1月16日)東久世の要望により、英国艦オーシャン号を案内する。
備前事件に関して要請する内容をしたためた書状を手渡す。
フランス公使ロッシュ、ブラント氏に代理公使の権限を与え、横濱へ向け出港。
(1月17日)各国公使、東久世ら一行と会談。伊藤、臨時で税関管理官および神戸長官(奉行)となる。サトウ曰はく『伊藤は当時の日本政府に関与している者の中では珍しく英語に堪能だった為、引く手あまたであった』
(1月18日)パークス公使、ブラント代理公使、東久世一行と会談
開港に関するすべての条約、協定、合意を皇族仁和寺宮から得るべく、そのための交渉。
また帝の政府は諸外国に対し、厳正中立である事を求めていると、外国側は理解する。
(1月17日)仏ロッシュ公使、江戸城にて慶喜と会見し再挙を勧告。公使としての権限を『公使代理』としてブラント氏に与えているにも関わらず、自身は公使として慶喜公に会見しあまつさえ内戦を煽るという問題行動。
(1月18日)パークス公使宛てに、旧幕府の小笠原壱岐から外交文書の書式に則った書簡が届く。
薩摩の五代と寺島がパークス公使と会談。公使達の京入りは一か月以内には達成される。
負傷兵治療の為外科医を一人貸してほしいと要請し、パークス公使も人道的な観点からも是非そうしたいと述べたが外国人全てに掛かる大事件であった備前事件の収集が収まっておらず、この返答次第では協力しかねると返答した。また大阪の公使館については城の裏に新築されたものは破壊されてしまった為、新たな場所を提供される事となった。五代らは戦力増幅の為にイギリスから軍艦を買おうとしていたが、サトウは、帝の政府が諸外国に対して局外中立の要請を出しこれが宣言されれば、どの国も日本に対し軍艦を売り買いする事ができなくなるだろうと伝える。(戦力の増減は起こらない)
(1月19日)東久世の書簡、伊達伊代守(宇和島)と三条実美の書状により、備前事件における交渉に決着がつく。
(日本側の正式な謝罪と、一斉射撃を指示した指揮官の処罰)
仁和寺宮が外交担当機構の長となり、東久世通禧、伊達伊代守、三条実美はその補佐を務めるとの事。
負傷兵治療の為の外科医師派遣要請が外国側に受け入れられ、ウィリスとサトウが現地へ赴く事となった。
更に、書簡には『局外中立』を要請する正式な通達があり、これは各国公使に送付された。
(1月19日)迅衝隊本隊、無抵抗開城の丸亀城に入る。土佐300年ぶりの快挙。
京より錦の御旗を伝奏した大目付・本山茂任、樋口真吉ら、勅令と共に到着。
以蔵の実弟・啓吉が軍飛脚を使わず自らの足で土佐軍に追い付き、富からの荷物を手渡す。


【以蔵】肥前国河内守藤氏正広
武市の遺刀『肥前国河内守藤氏正広』。
以蔵は富からこれを預かり肌身離さず参戦するが、一度も使用する事は無い。
(1月20日)サトウら再び大阪へ入る。 大坂城は焼け落ちて無くなり、石造りの部分とタイルだけになっていた。
その日は京へ上る舟が準備できないといった丁寧な説明と謝罪が五代から行われ、問題なくこれを了承。
夜は五代が用意した宴会を心行くまで楽しんだ。
(1月21日)乾、在京の容堂や上士らを説得する為、軍を率いず自らが丸亀を発つ。身辺護衛として岡田以蔵同行。


【乾・以蔵】大志:土佐勤王、成る
(1月24日)深夜、サトウら、伏見に入る。
(1月25日)サトウら、出迎えに来ていた小松帯刀と合流し共に北上。
御所裏の相国寺に入り、これを島津藩主忠義と西郷が出迎える。
午後、ウィリスは負傷兵の治療にでかけ、サトウは護衛を連れて三条通りの書店を散策した。
(1月25日)六カ国、局外中立宣言
木戸、小松帯刀、新政府の徴士及び総裁局顧問となる。
(1月27日)サトウ、備前事件の顛末を聞きに西郷を訪ねる。午後、薩摩藩主と謁見し、その後町を散策
(1月29日)サトウ、相国寺にて木戸と再会。
日本人と外国人の間で騒動起こらない様、或いは起こった際の対応について白熱した議論が交わされた。
大久保一蔵とも会談。
(1月30日)サトウ、ウィリス、パークス公使から急遽帰還の伝令来る。
しかしウィリスは負傷者の治療が一通り終えるまでは帰還命令を延長してもらう様折り返し要請する書簡を発送。ウィリスはその返答を待つとし、サトウ一人が帰還命令の為大阪へ出立する事となった。(とはいえ観光がてら五条大橋まで歩き景色を堪能するなどしながらの帰還であった)
(2月1日)木戸、小松、外国事務局御用掛を兼任。
木戸、はつみの身柄について小松へ質問。
(2月2日)ウィリスに引き続き負傷兵治療の滞在を許可する旨の伝達が届く。
(2月7日)迅衝隊、上洛。乾らと合流。
(2月7日)パークス公使、宇和島隠居伊達宗城と会談。夕方再度宗城を訪ね、フランスの迷走を聞く。
この頃ロッシュは再び神戸に戻ってきていた。
宗城は空気を読みながら雑談としてはつみの事を持ち掛ける。
(2月8日)伊達宗城がパークス公使を訪ね、各国公使に澤主水守を紹介する。(818で都落ちした公家の一人)
一見人を寄せ付けない風貌だが好人物であり、のちに彼が外交を担当した際にはサトウ達は彼を好んだ。
夜にも伊達宗城とパークス公使の夕食会が行われ、帝への拝謁などについてが話題に上がった。
(2月9日)備前事件の責任者二名、兵庫永福寺にて切腹。直前に五代と伊藤が嘆願に来たが受理されなかった。
処刑にはサトウ、ミットフォード、各国公使館から選ばれた一人らが同席した。
(2月9日)新政府、東征大総督府を設置。東征大総督に新政府総裁・有栖川宮熾仁親王が就任。
東海道・東山道・北陸道の鎮撫使を改め『先鋒総督兼鎮撫使』をその指揮下に加える。
後、鎮撫総督は先鋒総督へ改められ参謀として以下の人事が行われる。
・御親征東海道先鋒総督軍参謀・西郷隆盛
・御親征東山道先鋒総督軍参謀・乾退助
(2月)130名程の元幕府旗本が、その身を帝に委ねる為に京へ入った。
即座にこうして意思表明をした者達の中には、新政府から要職を得られる者もいた。
(2月)各国公使、大阪の安全を確認しそれぞれの大阪公使館へと戻る。
小松帯刀、伊達宗城が友好的にパークス公使を訪ねて来る。


【小松・サトウ・伊達】Heal my mind.
小松帯刀、伊達宗城、パークス公使、サトウの間で桜川はつみ及び池田寅之進の英国公使館出仕および留学候補生についての話がまとまる。坂本襲撃事件以来のはつみの様子、公職信任の見通し、給与、出向後の相談窓口をサトウ、小松とするなど。サトウは何も言わなかったが、この件に関し土佐が殆ど顔を出さない事が少々気になっていた。―とはいえ、個々の所混乱と多忙と知的好奇心を極める事態が続いていたサトウにとって、はつみの今後についてこうして話が進んでいく事は一種の癒しの様にも思えていた。
(2月)英国公使館への来客は極めて多岐に渡り、土佐の後藤や薩摩の中井らも現れた。
また後藤は、容堂が斃れた為、この戦で名医との評判を広げた名高いウィリス医師の派遣を望む。
公使館は人道的かつ友好的にこの要求を受け入れた。
一方、後藤からははつみの話は出なかった。はつみの今後の行方については知っているのだろうか、それともはつみが薩摩の管轄にある事は間違いなく、関与しない方向でいるのか…今はまだ不明であった。
(2月13日)乾、土佐軍の大隊司令兼総督も兼任する。
乾、佐々木からはつみの身柄は薩摩にあるとの報告を受け、一旦安堵する。
以蔵には妻子の元へ行く許可を出すが、乾のもとに留まった。
(2月14日)西本願寺にて、各国公使・代表と日本の高官らの間で重要会議が行われた。
日本側の出席者は伊達宗城、東久世、醍醐大納言、尾張、越前、薩摩、長州、土佐、芸州、肥前、肥後、因州の家老たち。開国外交の促進、京における帝への拝謁、日本国内における外貨為替、大阪兵庫(神戸)の土地売買についてなどが話し合われた。
ロッシュ公使は断固として新政府の申し出を拒否
仏は度重なる不審外交もありサトウは仏の通訳に目を光らせる。
(2月14日)英国ウィリス医師、書記官兼通訳官ミットフォード、京土佐藩邸に入る。
容堂は肝臓からの出血があり重篤であったが次第に持ち直す。
(2月14日)乾ら東山道先鋒総督軍が東山道へ出陣。
(2月15日)堺事件
土佐藩士がフランス水兵十数名を虐殺。その日の内に京へ急報が入る。
(2月16日)堺事件については混乱が激しく、伊達宗城と東久世も満足のいく説明ができずにいた。
土佐に対する遺憾の意を示す為にフランス公使館を訪ねた二人であったがロッシュ公使から拒否される。
イギリスとオランダ以外の国は大阪の公使館を去り神戸へ戻った。
(2月17日)イギリスも公使館からパークス公使が去ったが、ラッセル・ロバートソンとサトウとその他護衛達を大阪副領事館に残した。犠牲になったフランス人水夫たちの遺体が手違いでイギリス軍艦へと送られたが、その後フランス軍艦へと送られた。
(2月17日)はつみ…もとい、女性の公職着任と英国公使館派遣に否定的だった大久保、小松と木戸にこれを打診する。仏と新政府の関係は元より稀薄ではあったが堺事件を機に諸国との信頼関係が崩れるのを良しとしなかった。当然これは小松を筆頭に政府外交問題として最善を尽くす次第だが、心証にあたるところではつみという駒は有効であると判断したとキッパリ言う。つまり、女性を人質代わりに差し出すという『日本古来よりの人質政策』的な観点からはつみの役割を見出したという訳である。その上彼女の人格や能力、英国外交官らの彼女に対する印象からしても、彼女に一時的にでも公職を与え政府関係者として出向を命ずると考えれば、人質としての箔もつくだろうと。無論、はつみの人格・能力的には問題もない事は大久保も承知であった。この論点で言えば、同じく否定派の岩倉も納得をする可能性は高い。
小松と木戸はこの新時代黎明期に至りその逆を行く思想・考え方には反対の意を示したが、実際のところ英国が『捕虜』に対し一貫して人道的な対応を取っている事、サトウなどを始めとするはつみの理解者、支援者などの存在も踏まえ、万が一政府が一方的に彼女の身柄保障を放棄する時が来たとしても苦境に陥る事はないのではないか。この際大久保が言う様な考え方や思想は問題とせず、彼女に相応しく安全な場所でその能力を活かす仕事が出来るのであれば、今はそれで十分なのではないかと落としどころを見出した。
小松や伊達により、パークス公使との調整や同意はまだ口頭ではあったがほぼ進められている。
かくしてこの件は大久保を通して改めて、かつ直ちに岩倉へ提案される事となった。


【小松・木戸・大久保】過去あってこそ拓かれる未来
(2月17日)大阪にて、小松を通してはつみに『外国事務局御用掛英国通訳事務、留学候補生』任命の打診が来る。
板垣へ改名した乾からの陣中手紙も薩摩藩邸に届くが、はつみの現在の状況(実質軟禁状態)から一度小松経由ではつみの手元に渡る事となった。一時は騒然とした大阪も今は戦禍から脱した等戦況に鑑み、小松に思い切って新選組・沖田の事を訪ねてみるが…。


【小松・乾・寅之進】新たな時代へ
(2月)勝海舟、陸軍総裁・軍事総裁へと昇進する
(2月18日)パークス公使、大阪英国副領事館へ行き賠償について新政府との会議が必要である旨を指示し、犠牲者たちの葬儀に参列した。サトウはその旨伊達宗城らに通達し、そののち、大阪にて小松や吉井と合流し、宴に興じた。


【小松・サトウ】小松トイッショ2
フランスと新政府の関係は元々強硬かつ幕府寄りなロッシュの態度もあって微妙であった。この折に政府総裁顧問でもある小松がサトウへこの様に接触してくる事の意味は、勿論サトウも察した上で接待を受け入れる。幾つかの店をはしごしたが、その際、店の店主に拒否される事があった。些細な所から再び露見する開国への弊害。しかしこの後改めて薩摩藩邸で語りあかしたサトウと小松は互いの信頼関係を確認し合う。そしてその絆のもと、サトウはおよそ4ヵ月ぶりにはつみと再会するのであった。
(2月18日)乾、美濃大垣に到着。ここで次に目指す甲府への攻略を練る。
岩倉の助言もあり甲府出身の先祖・板垣信方の『板垣』姓へと改名する。
(2月19日)堺事件の最中、まさに京土佐藩邸で重篤状態にあった容堂の治療を行っていたウィリスとミットフォード、無事に大阪副領事館へと下る。しかしウィリスは治療の為京への滞在延長を希望し、サトウはその旨パークス公使に交渉する為、パークスが乗船中の軍艦へと向かった。堺事件に際し会談中であった小松、伊達宗城と再会し、仏ロッシュ公使の要求内容を聞く事ができた。
・虐殺に関与したすべての人物を処刑する事(土佐20人、一般人20人)
・被害者遺族に対して15万ドルを支払う事
・大阪外交担当筆頭(皇族山階宮)が謝罪する事
・土佐大名、山内土佐守が須崎においてフランス軍艦に乗船し謝罪する事
・武装した土佐者を全ての条約港および町から排除する事
サトウ、これを聞いた後で一旦大阪へ戻り、ウィリスが再び京へ行くのを見送った。
(2月20日)サトウ、公使らと共に神戸の居住に入る。
(2月21日)サトウ、伊達・小松と会談。ロッシュ公使の要求は受け入れられる事になるが、最後の条約港および町からの一斉排除は厳しすぎるという事でイギリスとしても内容の変更を求める事にした。ロッシュ公使との話合いは進み、処刑が行われる事、山階宮がロッシュに謝罪の書簡を送ると同時にロッシュ公使を京へと招待する事が決定する。
(新政府と諸外国の交渉が始まったばかりの頃はその信頼関係によって英国に先を越されたともあって『公使の誰であっても先駆けて京へ入る事を断固として認めない』と言っていたロッシュだったが、結局これが本音だったのだと悟るサトウ。仏と土佐の事件であるにも関わらず新政府の高官らがこぞって英国パークス公使およびサトウに相談を持ち掛けてくるという事は、恐らく誰もがその様に思っていた様に思える。)
(2月23日)堺事件の土佐藩士11名、堺にて切腹。
土佐の犯人は20人あまりおり、仏以外の諸外国公使及び代表らは『犯人らは等しく全員処罰されるべき』という共通の尤もたる認識があった。しかし切腹の儀は日本文化をあまりにも知らないロッシュ以下仏人にはとてつもなく恐ろしい儀式にて、殺害された仏兵士11人と同じ人数となる11人が切腹を終えた時、ロッシュは処刑の中断を指示した。仏が当事件の被害側である故、仏がよいと言うのであれば誰もそれ以上の詰問をする事はできなかった。このあまりにも利己的すぎる顛末に英国外交官らは深く呆れたため息をついた。
(2月25日)山階宮、パークス公使らと会見のため神戸に入る。
帝への拝謁につき諸事申し合わせが行われた。
(2月26日)イギリス公使館員全員、及び騎兵護衛隊、第九連隊二大隊歩兵ら。帝拝謁のため大阪上陸。副領事館に入る。サトウの護衛達は殆どが徳川の者であったため、連れてこなかった。
(2月27日)英国公使一団、小松及び肥前藩士らに護衛されて馬で伏見へと向かう。18時着。
(2月28日)10時発。肥前、尾張らが護衛。土佐後藤象二郎、薩摩中井弘蔵が挨拶に来る。野次馬でいっぱいだったが、秩序が乱れる事は無かった。美しい知恩院が宿舎としてあてがわれる。肥後、阿波、尾張が護衛を務めた。ウィリスが合流し、土佐隠居容堂の容態は危険な状態から持ち直したとの報が入った。
天皇、仏始め各国代表と会見へ。各国公使ら初参内の初日。
(2月29日)パークス公使、様々な人の下を訪問。
山階宮、仁和寺宮、三条実美、岩倉具視、肥前藩主、長州藩主。長州とは長らく友好関係にある事をお互いに祝福し合った。知恩院に戻り、後藤象二郎、伊藤俊輔と謁見の段取りについて会談。また、英国から直接帝に拝謁できるのはパークス公使とミットフォードの2名となった。貴族でありかつ女王陛下に拝謁した事がある者が選ばれた形だが、英国および諸外国外交官の中で最も実力と実績のあるサトウが選ばれなかった事をミットフォードが抗議した。
(2月29日)小松、謁見が恙なく行われていくのを確認し、はつみへの辞令通知の為陸奥と共に大阪へ向かう
英国は謁見を済ませた後間を置かずに横濱へ帰る事を伝えており、その前に辞令を出す流れとなっていた。
(2月30日)パークス襲撃事件。天皇の御所目の前、参内中の事件である。天皇謁見は延期となる。
英国公使護衛の騎馬隊の槍は役に立たず、土佐・後藤と中井が抜き身を放ち、まさに斬るか斬られるかの捨て身で下手人とやりあった。英国を護衛していた肥後300の兵達は皆いなくなったが、後藤らと日本人の馬丁は冷静かつ勇敢に行動を共にした。サトウも茫然と一連の流れを見ていたが、気が付けば自分が乗っていた籠をひいていた馬も前足の辺りを斬られていた事に気付く。
18時、徳大寺、越前宰相、東久世、伊達、肥前領主が急の遣いとして現れ、心から謝罪の意、悔恨の意を表明した。これに対しパークス公使は激昂する事もなくつとめて冷静に対処した事がサトウには意外でもあり、また大変感心に至る出来事であった。日時見合わせの為、一行は暫く知恩院にて留まる事となる。
小松、陸奥と共に3月1日付けのはつみへの辞令の為大阪薩摩藩邸に至っていたが、早馬によって参内途中のパークスが襲撃に遭った事を知る。またサトウからの手紙を受け、無事である事と公使の様子などについても報せを受け、一旦安堵する。
(3月1日)はつみ、寅之進、『外国事務局御用掛・英国通訳事務、留学候補生』および、その護衛役を拝命。


【陸奥・小松・サトウ】政府公認・女性通訳官


【寅之進】尽忠
(3月1日)行軍中の迅衝隊は二つに分かれ、板垣は甲州街道を全速力で進撃する。
(3月1日)新選組、「甲州鎮撫隊」として江戸を立つ。翌日日野に入る。土方断髪。
(3月)ミットフォード、襲撃犯に会い話をする。彼は『自分はどうなっても構わない、命は惜しくはない』としながらも『外国人がこの様に理性的で優しい者達である事を知っていたら、襲撃を企てる事はなかった』とも言った。やはり日本人における『外国人=日本を乗っ取る穢れた蛮族』といったイメージは中々払拭されるものではない事を痛感するミットフォード。帝に謁見する事を許された今となっても新政府及び公卿衆の中にはいまだ邪悪な視線を投げてはそそくさと隠れる様な者もおり、まだまだ手放しで歓び安堵できる状況ではない事を改めてサトウらと語り合う。
(3月3日)英国公使一行、改めて参内。英国公使パークス、ミットフォードが天皇に拝謁。
(3月4日)英国公使一行、大阪へ向け出発。パークス襲撃事件の犯人、処刑される。
(3月5日)板垣ら、全速力で東山道を駆け抜けた結果甲州鎮撫隊(新選組)より先に甲府城入城を果たす。
(3月5日)英国公使一行、大阪に入る。はつみ、小松に連れられ薩摩藩邸を出る。


【寅之進、陸奥、小松、サトウ、ミットフォード】New chapter in life.…EP1・EP2
大阪英国副領事館にて英国公使館一行と合流し、パークス公使に見える。
英国は明日にも横濱江向け出向との事。小松と陸奥は京へ戻らねばならぬ為、ここで別れとなる。龍馬の事、その後の保護期間といい、今後の事も含め小松があれこれと心配し心を砕いてくれた事に礼を告げる。陸奥は相変わらずで小松の手前控えている感じもあったがはつみが声をかけ感謝の意を伝えると破顔しそうになるのを堪える様子が見られた。小松がもじもじしながら
「西洋には『はぐ』という習慣があるそうだが…」
と述べるとはつみは直ぐに察した様で微笑み、小松、そして陸奥とハグをし、再会を誓って別れた。
(3月6日)英国公使一行、横濱へ向け出港。
サトウの従者である会津出身野口富蔵、そして幕府の警備組織である別手組からの護衛達6人も共に帰還。
木戸からの要請で同行をしていた長州の遠藤はいつの間にか長州へ戻った様だった。
ミットフォードは一人大阪に残る事となる。諸外国公使らは随時横濱を帰還する予定で、大阪の公使館は殆ど無人となる見込みであるため、ミットフォードはこの大阪に外国人たった一人で残り、事務仕事、翻訳、来客対応、相談、接待、日々の生活事など全てを一人でこなす事となる。(給仕のリン・フーは横濱か)革命が起きて間もない新政府からの来客・相談は途絶える事無く、且つ、京におけるハリー・パークス襲撃事件も記憶に新しい様に、尊王攘夷志士もいまだ多く潜んでおりミットフォードは常に銃を携えながら仕事をした。
(3月6日)甲州勝沼の戦い。板垣率いる官軍・東山道先鋒総督軍が甲陽鎮撫隊と交戦。2時間で官軍勝利。
また、『板垣信方』の子孫たる板垣の鮮やかな勝利に、地元民たちがこぞって協力を申し出た。
(3月8日)はつみ、英国公使館一行と共に横濱公使館へ到着。パークス公使から辞令を言い渡される。
日本政府より信任の出向職員として公使館及び領事館付き通訳官とする。基本的にはパークス公使が滞在する横濱領事館にて通訳及び翻訳作業、諸事務等をメインワークとする。直属の上司はサトウ一等通訳官とし、諸事彼の指示を仰ぐ様にとの内容。


【サトウ・寅之進】New chapter in life.EP3
新生活準備。洋服。給与体制の確認。はつみと寅之進には新政府から手当てが出ている為、二重取りになる事が発覚。英国公使館からの給与は辞退を申し出る。また、サトウの提案ではつみには女性給仕が必要ではないかという話になり、江戸に知り合いはいるかと聞かれ直ぐに千葉佐那子が思い浮かぶ。しかし自分の給仕をさせるとなると申し訳ないといった気持ちもあり、支払う給与の問題もある。また、武家の娘でもある佐那子を突然外国風の強い環境に呼び出す事も何となく憚られる。それに、龍馬の事もある。いずれ会いに行かなければならないが、とてもじゃないが給仕の話は出せそうにない。暫くは自分の生活ペースを自分で掴むために給仕は必要ないとした。
また、宿舎があてがわれたのは『公使館員となった』はつみのみであった為、寅之進の部屋も探す事に成ったのだが…
(3月9日)サトウ、江戸での情報収集を一任され高輪の自宅に戻る事になり、平静を装いながらも内心喜々としながら「膨大な書類の翻訳作業と、情報収集を行うにあたって彼女の知己である勝海舟との再会を期待する為」等と理由を付け、翻訳、報告書作成等の引継ぎを行う事も加味してはつみらを一時的に同行させた。
(3月10日)サトウの自宅に入る。


【サトウ】She came to my house!
高台に建つ立派な家に近付くと、門前を清めていた中年男性へ向かって野口が駆けだし、サトウが帰還した事を告げた。中年の庭師の男性が嬉しそうに駆け寄りサトウに挨拶をする。はつみを見て「えっ、もしや奥様ですかい!?」と勘違いをし、サトウはまんざらでもなさそうに破顔して否定する。野口は追い払う様に「早く皆に知らせて来てくれ」と言い、庭師は笑顔のまま家の方へと走っていった。続けてサトウは護衛の6人を振り返ると丁寧な礼を述べ、一人ひとりと握手をし、後で女中から酒と食事を持って行かせるからくつろいでいてくれと言って離れの宿舎へと送り出した。玄関に到着するとサトウは野口にも休む様にと言い渡し、家事手伝いと思われる女性に酒と食事を準備して野口や護衛達に振舞って欲しいと告げる。野口が『護衛の方はこちらへ…』と引き止め、寅之進と別れたはつみはサトウに案内されるがまま室内へと入っていった。
(3月11日)サトウお気に入りの書斎で、翻訳対象の書類の山といくつかの報告書類の書き方など仕事の引継ぎを行う。…かつてサトウを日本へと惹きつけた『エルギン卿使節団の中国・日本訪問に関する回想録』に出てくる一節が、目の前で現実になっている様な感覚に捕らわれる。ふとした瞬間にはつみと視線が合い、丸い日本窓から穏やかな風が入り込んで彼女の前髪をかすかに浮かせた。サトウの理性は一瞬気を失ったのか、その一瞬は間違いなく彼の衝動的な本能が彼を支配し、二人の距離が不意に近付いていく…
(3月12日)サトウ、はつみと寅之進(野口と別手組2名)を連れ、会う約束をした勝海舟のもとへ行く。
江戸はまだ外国人に開市されておらず、人々はいつも通りの生活をしていた。しかし薩摩や長州の兵があちこちを徘徊している気の抜けない状態であった。サトウは夕方以降に活動を開始し、夜の闇を利用して勝や知人らと会うようにしていた。勝との再会を歓びながらも心のどこかで遠慮気味であったり受け入れてもらえるか心配で不安な気持ちも入り交じっていたはつみらであったが、こんな状況が続いているにも勝は関わらず変わらずあっけらかんとして『よう!』と片手挙げて歓迎してくれる様子であった。思わず泣いてしまうはつみの側へ自ら歩み寄り、肩を抱いて頭を撫で、「話はおおかた聞いてる。おまえさん、よくやってるよ。大したもんだ」と褒めてくれた。もらい泣きしている寅之進も引き寄せ「男を慰める役なんざ勘弁願いてぇが、ま、おまえさんも可愛い弟子だからネ」と、両手に弟子たちを抱えて満足気にサトウへ頷いて見せた。


【勝・寅之進・サトウ】道違えても師弟
江戸が戦場になる事を危惧している勝は、以前長州征討の件などで西郷と話合った事などを引き合いに出し、彼に直接働きかけてみるつもりであるとサトウに打ち明けていた。サトウは諸外国が江戸に重きを置くのは将軍の居城江戸城の元に悠然と発展した素晴らしい都市とそこに花開いた日本独自の文化、文明そのものの価値、そしてそこに住まう大勢の日本人の営み故にであり、この江戸が焼き野原となり人々が去り、または失われ、文明がリセットされる事は絶対に避けるべきであると熱く話す。かつてはつみが龍馬と共に『大政奉還』で戦無き革命を目指したのも、世界から見れば小さな日本の限られた土地、資源、人材を内戦でいたずらに失われる事を懸念しての事であった。はつみも強く同意する一方で、まさに今、無血開城のシーンに立ち会っている事に気付く。
(3月13-14日)勝海舟、西郷吉之助会談
(3月14日)五箇条の御誓文発布
(3月15日)江戸総攻撃中止
勝の元から帰る時に不穏な空気に囲まれる。野口や別手組の護衛が突然倒れ、続いて寅之進やサトウ、勝までもが倒れて行く。強烈な眠気に襲われている様で、膝をつく勝めがけて真っ黒なルシが急降下してきた。再び舞い上がり急降下の体制を取るルシに対し、はつみは咄嗟に桜清丸を抜き放ち、撃退する。。


【勝・サトウ・寅之進】あの世R15
犬にも喧嘩売られて今度は鳥かい。次は猿にでもやられるのかねぇ?


【寅之進】慣れない痛み
サトウ自宅。離れの部屋で忠櫻録を付けながらはつみの部屋の灯りが消えるまで見守っていたが、長身の影が見え胸が痛む。野口と話す。


【サトウ】Complex mind.R15
思った通り、浦上四番崩れから坂本龍馬、勝海舟と『黒い鳥』という共通事項を意識するサトウ。襲われる人物の共通点は『幕府』ではないかといったところまで一気に推察が進んだ。それとは別にはつみの『純白のペット』が黒檀の様に黒く怪しい姿になっていた事、そのペットを自ら撃退した事ではつみが落ち込んでいるのだと思っていたが、もっと未知なる真実があり、それ故に彼女は悩みそして異質であるのだと知る。
(3月18日)はつみ、サトウと共に横濱公使館へ戻る。


【板垣・サトウ】Problem occurred.
戦前にいる官軍総督の板垣からの手紙が届いており、パークスが預かっていた。
スパイを疑われるという展開に、どこか身に覚えが…。


【沖田】桜咲くR15
(3月末)公休を利用し、寅之進と二人で『千駄ヶ谷池尻橋』を目指し外出する。
(4月)「ええじゃないか」「世直し」と称した農民集団による打ちこわし、関東にて広がりを見せる。
この頃、農民集団は宇都宮に迫っていた。これを新選組ら旧幕府兵が利用し近隣に潜む。
(4月1日)宇都宮の戦い
打ち壊しの農民集団が宇都宮城に達し被害が出ていると新政府軍に通報が入る。
進軍する新政府軍と潜伏していた旧幕府軍らが対峙した。
(4月5日)西郷、横濱でハリー・パークスと面会。その後はつみとも久々に面会する。
西郷は江戸城総攻撃回避の会談が行われているその裏に、はつみとサトウの影がちらついている事を知っていた。龍馬との会話を回想し、「何故はつみを表に出させようとするのか。どんなに能力が高くとも女であるに違いなく、受け入れられず、そして非力故に必ず命を落とす。奥にした方がはつみも龍馬も幸せなのではないか」と言ったが、龍馬はいつも笑って「うん」とは言わなかった。「彼女はまるで明後日から来た様な人で、その異質さは我々の知る所ではかぐや姫そのものだ。誰もが彼女を輝かしく見つめ、時代ですら彼女を離そうとはしないだろう。彼女が表舞台から降りたいと思ったとしても。」と言っていた事が今でも忘れられない。坂本の事があった時、はつみは薩摩の元でゆっくりと女としての人生をゆけばいいと思っていたが、坂本が言った通り、はつみが何か無そうとしなくても周囲の人間が、時代がはつみを求めていた。…そして前例無く政府公認の女性外交官として英国公使館の職員となり、恐らく歴史的な事であっただろう江戸総攻撃中止の決断が成された会合の裏にはその姿があった。総攻撃中止はあくまで勝との会話、己の意思から導き出した日本にとって最善と思える処置である。…だが、自分の負けだと思った。『時代が彼女を離さないだろう』『時代の寵愛を得る者に、男か女かは関係のない事』これについては、認めざるを得ないと。
それを全て受け入れた上で、西郷ははつみに英国留学を勧めた。これまでの様な密留学ではなく、公式に認められた上で出国し世界の大学で学ぶべしと。はつみの肩書に『留学候補生』とあるのは単なる箔付けではなく、小松や伊達宗城らは最初から本気でそう考えている様だとも付け加えた。はつみは英国公使館での仕事もまだ始まったばかりでお役にも立てていない。海外へ行く事はいつかはと考えてはいたが、今はまだ具体的には考えられないと告げた。西郷は昨日今日の話でそれだけ現実的に見据えられるのも大したものだ、ゆっくり考えなさいと言い、最後に『いずれにしても大人しくしている様に。無茶をして命を落とす事のない様に』とだけしっかりと目を見据えて伝え、去っていった。もしかすると、植木屋での事も把握しているのかも知れないと察するはつみ。
はつみは龍馬の知らざる逸話を聞かされた事もあって動揺を隠せずにいた為、サトウが西郷を送る事に。サトウ、西郷に龍馬の事を聞く。もちろん西郷も龍馬の事は知っていた。その上であの様な話をしたのは、腫れ物のように扱って時間薬を待つには時間がかかる。乗り越える強さが必要ではないかと告げる西郷。それにもしサトウがはつみを見染めているというのであれば尚更、その上で堂々と、彼女をさらえばよか。とまで言う。西郷が人望厚く慕われている事は知っていたが、サトウとの付き合いの中では談笑する事はあっても主要な話が終われば宴会の最中であっても席を外し帰ってしまうなど、どこかビジネスライクなところがあるというのが彼に対する印象であった。その西郷がここまで親しみ深いまなざしで笑うのは初めての事であり、その流れで、はつみが公的に英国留学を志す際には是非英国にも支援を願いたいとサトウに申し出てきた。真っすぐに頷くと西郷は片手を差し出す。サトウはその手を力強く握り返すのだった。


【西郷・サトウ】英国留学のススメ

(4月7日)幕末のイースター・満ちる月


【ルシファ】賛美歌 第112番


【寅之進】生きる運命
(4月11日)江戸城明け渡し
(4月11日)榎本ら旧徳川軍、軍艦を多数を率いて函館沖へ逃れる
(4月15日)徳川慶喜、水戸で謹慎に入る


【勝・サトウ・寅之進】粋な男
(4月)サトウ、横濱英国領事館へ黒い馬と共に入る。はつみが可愛がり、寅之進は名馬だと感心した。
勝がサトウへ信頼と友好の証として馬「フシミ号」を贈ってくれた。(江戸総攻撃回避尽力への礼も含)また、はつみにも上質な銀細工の簪が贈られ 「折角いい女なんだからもっと小綺麗にして、過去やシガラミに捕らわれたりせず人生を満喫しろよ。洋風もいいが、日本式の美も男をコロッとイかせるもんだぜ」といった、相変わらずばっさりと江戸っ子気質な手紙も添えられていた。寅之進には短刀が贈られ、また同じく「シガラミや依存に捕らわれず己の人生を生きよ」「自分の人生は自分で切り開け。お前はお前が思っている以上に成長し、かつての亡霊もとっくに追い越し未来へ向かって生きている」と添えられていた。勝の言わんとする所を察した寅之進は男泣きする。勝はというと、幕府側の総窓口として表に立ち続けると同時に、慶喜及び幕臣たちの世話をする為、赤坂と駿府などを忙しく行き来する様になる様だ。暫くサトウ達とは会えない、会わない方がよいと判断しての事なのだろうと、サトウは言った。
(4月)陸奥、『人材登用』についての意見書を兼ねた辞職願を提出。
(4月19日)新政府軍、宇都宮城を一時撤退。旧幕府軍大鳥が宇都宮城に入る。
(4月22日)壬生安塚の戦い。
(4月23日)新政府、宇都宮城奪還。土方、被弾し戦場離脱。
(4月23日)英国はじめ各国公使一行、信任状奉呈の為横濱を出港
パークス公使、アダムズ一等書記官、サトウ一等通訳官、上級通訳生j.j.クィン。
他、野口、リン・フーら個人的護衛・給仕ら。
(4月25日)兵庫投錨。サトウらのみ大阪上陸。大阪英国副領事館にてミットフォードと再会。
木戸や小松らと再会し、個人的に陸奥や伊藤らとも再会。
会議の事前打ち合わせとしてキリスト教に関する意見交換なども行われる。


【ミットフォード・伊藤】Mittford's monopoly.


【陸奥】待ちきれなくて


【木戸・小松】意外な組み合わせ
(4月25日)近藤勇、斬首
(4月25日)板垣、日光東照宮が戦禍に巻き込まれる事を回避する為、現地の住職を説得。
日光山での決戦を望んでいた大鳥ら旧幕府軍であったが会津方面へと移動した。
(4月26日)大阪にて。日本側が礼砲を放ち、パークス公使らも大阪上陸。信任状奉呈の式典の取り決めや信任状その他書類の翻訳などに忙殺される。実力の高い通訳が足りない為、寅之進や野口も臨時に駆り出される事となった。
サトウはこの度帝に謁見する参列者リストに抜擢されたが、はつみや通訳生などは当然ながら大阪待機となる。来客任との会談が重なり謁見会場である西本願寺出立刻限を前に慌ててイブニングを着込むサトウと鉢合わせてしまう。


【サトウ】『I'm going to be 10 minutes late.』R15
(4月)なじみ深い料亭・白蓮へ現状報告の手紙を送付する為の許可を得たはつみ。しかし大阪副領事館での翻訳作業もあり場を離れる事はできず、白蓮、そして鈴蘭に向けて手紙と気持ちばかりの手当を包んだものを寅之進に託した。野口富蔵と共に京白蓮へ向かい、入京する事に特別な感情を抱く彼から会津藩士としての想いと、会津を『脱藩』する事となった理由、そして今思っている事などを聞く。再会する白蓮、そして鈴蘭の人々。


【寅之進・野口・白蓮】数奇な生き方
(4月29日)板垣ら土佐迅衝隊、今市に入る。日光警護の彦根藩と周囲を警戒する。
(閏4月1日)永倉新八らた旧幕府軍靖兵隊ら60名、今市へ進攻し50名が死傷する。
撤退する靖兵隊を鬼怒川を渡ってまで深追いする土佐兵、高徳にて追い詰めるが
永倉ら残兵10名が猛攻。援軍に向かっていた以蔵の隊が追い付き、撤退となる。
以蔵VS永倉
(閏4月1日)英国公使、西本願寺にて天皇へ信任状を奉呈。夜は晩餐会が行われる。
はつみは大阪副領事館に残り寅之進と共に書類の翻訳業務などを行った。


【寅之進】
(閏4月2日)公使一行と公卿及び新政府要人らが大阪に戻り、碇泊中のロドニー号にて昼食会が行われる。
女王陛下の誕生日を祝して祝砲が放たれたのち、和やかかつ賑やかな昼食会となる。
(サトウ曰はく「西洋の猫が見たいと言う貴人や黒人が見たいという貴人達の通訳と対応で大変だった」)
外国人と話したがるおしゃべりな貴人達の為に、はつみも外国事務局の通訳としてこの昼食会に出席する。
はつみは小松やサトウからリクエストを受け、船上楽団のピアノで急遽演奏披露する事となった。
ショパン/華麗なる大円舞曲
(楽団によるアンコール『幻想即興曲』!?楽譜があっても無理!
ショパン/英雄ポロネーズ楽譜ありピアノ全盛期に演奏経験ありだが久々すぎてオクターブも届かないし
色々無理なので左右連弾で。演奏後汗だく指つる。
外国人及び伊藤達からスタオベ。次々にハグやハイタッチされ日本人唖然。指つる)


【小松・サトウ】水上のピアニスト
(ちなみにサトウははつみが弾く海が見える街が凄く気に入っている)


【ミットフォード・パークス・伊達】心からの称賛


【木戸・寅之進・伊藤】焦燥


【三条・東久世・小松・サトウ】武市と高杉から継ぐ縁
(閏4月2日)昼食後、キリスト教に関する白熱した会議が執り行われた。結果的に6時間にも及ぶ会議となる。はつみは伊達宗城からの指名で伊達と木戸二人の通訳に付く事となった。木戸ははつみを個人的な傷心から政務に支障のない程度に避けている様であったが、伊達の思惑もあって長時間はつみと対面せざるを得ない状況となり、距離によって抑えられていた想いと傷心が攪拌されていく。繊細な木戸の心が解れていくのをサトウもまた感じ取っていた。。この時、木戸とはつみが出会った江戸遊学時代の話になり、桶町千葉道場に出入りしていたと聞いた伊達宗城は千葉佐那子の名前を出してくる。安政2年、宗城がまだ宇和島8代藩主であった頃に、19歳であった佐那子が江戸宇和島藩邸にて剣術指南として出仕していたと言う。宗城の娘の長刀指南であったが14歳にして小太刀免許皆伝となった実力は並みの男子(おのこ)をも凌駕する程で、現藩主宗徳も立ち合ったが佐那子が勝ってしまったという逸話が飛び出す。はつみは佐那子の活躍話に目を輝かせ、接待する側である事もうっかり忘れて大変うれしそうに宗城の話を聞き込んでいた。その様子が、木戸を含む周囲の人達をまた朗らかなそれへと導くのであった。


【木戸・伊達・サトウ】心からの称賛・馨香
(閏4月3日)公使一行、横濱へ向け大阪を出立。
引き続き新政府要人との応接の為ミットフォードが残る事となったが、ポケットマネーで雇った現地日本人では
殆ど仕事が軽減されないとしてはつみの派遣を所望するが色々と揉め、最終的に寅之進が臨時勤務する事となる。


【寅之進・ミットフォード】Get away far from.
(閏4月)サトウ、基本的に江戸(自宅)勤務となり市井の視察及び政府要人らや知人らと情報交換を行う様指示される。
一等書記官のアダムズが同行。


【サトウ】I can't say I miss you.
(閏4月16日)陸奥が辞表時に書いた意見書の内容が『中外新聞』に掲載される。
儒学に倣い明治新政府の方針を称賛した上で「自分の様に能力のない者が外国事務局判事の重職を得てしまっている」と(思ってもいない事を)書く事で、能力本位の人材登用が行われていない事を訴えている。
(閏4月20日)第一次今市の戦い
宇都宮から進軍した板垣支隊は日光東照宮での戦闘を避け、今市で大鳥軍と対峙する。
板垣は壬生城へ出張中。谷干城などが指揮を執った。
(閏4月21日)新政府、政体書発布
『政体書』が太政官より発布され、『三権分立』を目指した体制となる(七局は廃止となる)
中央政府として太政官を置き、これの権力を『立法』『行政』『司法』の三権に分けた。
『立法』議政官
『行政』行政官・神祇官・会計官・軍務官・外国官
『司法』刑法官
という形で『七官制(これを太政官とよぶ)』が設立される。
議政官上局に議定参与、下局に議長および議員を配置。
行政官は行政事務を総括する。(総裁局の後身)(立法府)
神祇官・会計官・軍務官・外国官はそれぞれの管轄における行政事務を分担し、
それぞれに知事(長官)、副知事(次官)、判事(書記官)としてついた。
刑法官は司法府となる。
はつみは引き続き、そして寅之進が新たに『外国官付属・英国通訳事務、留学候補生』を拝命。寅之進の大阪での活躍を目の当たりにした三条、東久世、伊達、小松ら要人と、大阪に残留し政府要人らとの信頼関係を築き上げたミットフォードからの推挙により、はつみ同様に取り立てられた。(『判事』ではなく『付属』という緊急措置的な役職に疑問を抱くサトウ)これを受け英国公使館でも寅之進を職員として正式に採用し、当面の間はミットフォードの秘書として大阪勤務に当たる事を命じられた。
(閏4月~)会津戦争・白河口
(閏4月)陸奥の意見書、新政府発布の政体書などの情報が江戸に入る。同送で寅之進からはつみ宛ての手紙が届く。ミットフォードの仕事は思っていたよりも大変で、彼は見せかけの柳腰な態度からは感じさせない忍耐強さを持っていると感心している様子であった。寅之進の能力を上手く使ってくれ、特に翻訳業務では存分に能力を発揮できている模様。ミットフォードがポケットマネーで雇っていた日本人は解雇され、代わりに給仕役として、京白蓮からお万里が手伝いに来てくれているという。白蓮の稼ぎ頭でもあるお万里が出仕の為に大阪へこれたのは、何より咲衛門の『親心』と、はつみや寅之進への感謝と期待からであった。


【寅之進】手紙
(閏4月29日)三条実美、東久世通禧、東京奠都に先駆け江戸に入る。
(閏4月)ウィリアム・ウィリス、新政府の要請を受け「横濱軍陣病院」にて負傷兵の治療にあたる。
数日に一度江戸高輪の藤堂屋敷跡に作られた軍事病院に赴き(薩摩医石神が駐在。サトウもよく様子を見に行っている) 日本人の医者に西洋外科的指導を行いながら集中治療が必要な患者を横濱へ搬送させる。
(5月3日)田安亀之助(6)に徳川家相続の朝旨伝達。
(5月)はつみ、英国の仕立て屋と相談して仕上げた『仕事服(オフィスカジュアル)』が完成する。
寅之進の洋装も仕立てており、大阪へ贈った。
(5月6日)奥羽越列藩同盟
(5月6日)第二次今市の戦い
今市に残る土佐兵は驚くべきことに以蔵小隊を含む4小隊と砲一門のみであったが、板垣はすでに増援の手はずを整えており計画的投入のため各方面へ指示を飛ばしていた。旧幕府軍を迎撃し持久戦を展開する4小隊に対し、板垣は鼓舞して戦況にあたる。土佐兵はすさまじい銃撃戦で敵兵の接近および侵入を防いでいた。しかし、朝6時に到着するはずの援軍は正午になっても来ない。板垣は作戦変更をし攻勢へと転じる決断。以蔵隊に敵東背面へ回り込み奇襲をしかける指示を出す。
(5月7日)サトウ、勝と会う。
江戸で得た様々な文書には、いまだに根強く外国人排除を訴えるものもあった。
帝が外国人に謁見の機会を与えた事に否定的なものもあった。これらについて勝に質問し、興味深い話を聞く。
サトウ達が信任状奉呈の後に大阪を出た直後に公家衆と大名の間で会議が行われ、公家衆の一部から
『今こそ外国人を排除する時』との声が上がったと言う。大名達はこれに沈黙し、帝も黙したと。


【寅之進・ミットフォード】英国公使館職員として
はつみからのサプライズ餞別が大阪副領事館・寅之進の元に届く。ミットフォードやお万里も新ためて寅之進の出仕を祝したのだが、本人は政府への出仕についてはそこまで喜ばしいものではなかった。勿論、英国は好きだし翻訳や通訳の仕事も嫌いではない。だが、はつみの側にいて彼女を守り支える事だけを考えて生きてきたから、今の状態は何だか地に足のついていない様な心地であると。これを機に、ミットフォードは少しだけ真面目に『自分の人生』についての話を持ち掛けた。
(5月)英国パークス公使と『女同士の様な嫉妬』による衝突を繰り広げていたフランス公使ロッシュ、
幕府敗退を受け帰国。後任のウトレ氏が着任。
(5月)陸奥、会計官権判事となる。(京都の左大臣関白近衛忠煕邸内に本衙が設けられている。) 小松帯刀(外国事務局判事)が米軍艦ストーンウォール号の名義変更および引き渡し要求に成功したが 新政府には金銭が足りず、その金銭工面の為に陸奥陽之助が抜擢され、会計官権判事へ異動となった。
陸奥は大阪の商家相手に費用を集める事に成功し、名を挙げる。
また、無派閥でここまで取り立てられるのは異例。
(5月)サトウからの報せを受けたミットフォード、伊達宗城と会談し『今こそ外国人を排除する時』とする一部公卿の意見に対する完全な否定の意を受ける。
(5月15日)上野戦争


【佐那子】(仮SS)再会。龍馬の面影
公休を使い、品川港からもそう遠くない事もあって千葉佐那子の元へ向かう。一人で街を歩くのは、思い返してみれば殆ど経験のない事であった。目立たない様いつもの和装男装で来たが、道がさっぱりわからないのもあり結局人を雇って籠を利用してしまった。
まず龍馬の事、互いの事、宇和島宗城の事など。
(5月20日)木戸、長崎に入る。浦上四番崩れ事件によって露見した隠れキリシタン処分(流罪)について。
信徒の中心人物114名を津和野、萩、福山へ移送することを決定
(5月30日)沖田総司、死去


【沖田】初恋・最終話
(5月30日)京勤務、会計官として名を挙げた陸奥から手紙が来る。


【陸奥】手紙
(6月)多忙を極めるサトウの事務手伝いをするべく、はつみは木曜日以降の週末に高輪へ派遣される事となった。大阪で一人奮闘するミットフォード同様、サトウも野口や護衛、使用人など一通り揃ってはいるものの来客、通訳、そして大量の翻訳と報告書作成には手を焼いていた為、救援要請を出していたのだった。ダメ元で出した要請が通り歓喜するサトウは、高輪自宅のゲストルームをはつみ専用の部屋として女性向けの家具などを購入し一通り揃えてやった。はつみは毎週木曜朝に横濱を発し、日曜夕に品川を発する英国の定期帆船に乗り、サトウが品川から自宅間をフシミ号もしくは駕籠などで送迎をしてくれる事となっている。英国紳士が見眼麗しい洋装の女性を馬に乗せ颯爽とゆく姿は巷でも語り草になった。


【サトウ】to live together.
(6月5日)小松帯刀、大阪・神戸より横濱に到着。
小松は新政府の軍資金などについても一任されており英国オリエンタル銀行と次々と大きな取引を行っている。
英国横濱公使館に立ち寄るとパークスに挨拶を済ませ、はつみに面会。許可を得て遠乗りに連れ出した。


【小松】こまつといっしょ4
普段の生活に支障は無いか、寅之進がいなくて不安はないか、など。
サトウの事務手伝いをする事になったと報告し、はつみは特段苦に思う事はないが、新政府の御役目を頂いている割には普段通訳や事務手伝いしかこなしていない。自分が英国領事館に出向しているという事実について、何か…新政府側のうまみになる様な国際的な情報を提供したりするべきなのだろうか…などと、小松に打ち明ける。
小松は笑い、君が思っている以上に君は英国と我々の懸け橋となってくれていると告げる。
「本音を言えば、おはんと共に異国の仕事ばしてみたか。
じゃっどん、おはんはもうおい一人の手に収まる様なお人ではありもはん。」
…と、切なそうに言う。
「…おいが独り身やったら、はつみどんはいつでんおいん側におってくれたとじゃろうか?」
「情けなかが、薩摩でおはんに言われた事が忘れられん。…おはんとおいはもっと早うに知り合うちょったんに、おいは何故…」
沈黙ののち、話題をそらすかの様に英国留学のすすめと通訳以外にやってみたい事はあるかなど、将来の仕事について話を振って来た。はつみも何とか調子を合わせ、私情を抑え貴重な時間を割きながら寄り添おうとしてくれる小松と会話を続ける。はつみは自分が土佐にいた頃からこの時代の人達にはもっと広く平等に教育の場が必要である事を説いていた。特に自分は幼児教育に興味があり、横濱に増えつつある外国人ファミリー等に付いて事を話する。
やりたい事について、はつみは『在学時』の自分を思い出す…。
また、何礼之について尋ねられる。旧幕臣だった彼は江戸にいるらしく、取り立てるつもりの様だ。
(6月)薩摩スチューデント、村田経臣、森有礼ら、英国から横濱に帰国。
(6月)何礼之、幕臣であったが小松帯刀により取り立てられる。開成所御用係を拝命
(6月1)サトウと共に、連日において小松、大隈、経臣、勝らと会う。


【小松、経臣】役人に向かない人
村田経臣が小松に連れられてはつみに面会した。はつみにとっては万延2年の長崎で出会って以来の懐かしい顔である。経臣は薩摩が英国に派遣した『薩摩スチューデント』へ小松により抜粋され、およそ2年ほどの留学を終えてつい最近帰国したのだという。
去り際、経臣は外国官判事への取り立てを辞退し、薩摩軍として北陸へ向かう事を告げる。
「俺も役人に向いてなさそうだからな。」
(6月24日)板垣、諸藩混合部隊800を率いて白河城より棚倉城へ出撃、攻略。
(6月)陸奥、会計官権判事を免ぜられる。
会計官総裁であった三岡八郎(由利公正)とソリが合わず、口角沫を飛ばし大に激論する事数回に及びついに会計官を免じられた。
(6月)陸奥、大阪府権判事となる。後藤象二郎の周旋を受けた。


【陸奥】また手紙
(7月)サトウと共に日本橋の辺りを散策したり人と会ったりする。


【サトウ、小松、佐那子】A certain British youth's crush.…EP1・EP2
東京開市に向け外国人居留地として築地(現在中央区明石町)があてがわれており外国人滞在の為に建てらえた巨大なホテルがあった。この商業地区は活気があり、道路は人で溢れ、新政府派の侍が沢山いた。一方今はもう明け渡された江戸城下の大名屋敷付近の町は死んだ様だった。
(7月3日)旧幕府の外国奉行役人であった川勝近江がサトウをたずねる。
かつて横濱の奉行を務めた水野若狭や徳川の家臣杉浦武三郎などは、新政府によって外国人居留地に関する仕事を任される予定だという。彼らは2月に恭順を示した130人の幕臣の一人であり、川勝はそうしなかった事を後悔している様だった。
はつみ、サトウを連れて桶町千葉道場へ顔を出す。先日佐那子を訪問した際、はつみが英国公使館で働いている事に興味を示していた事や外国人に会ってみたいと言っていたのを受けての事であった。大変驚く佐那子であったが、日本語を話し丁寧な物腰、日本人のマナーにも精通するサトウに対してはすぐ感心した様子を示した。次第に打ち解けて話をする様にもなり、佐那子が14才で免許皆伝となった北辰一刀流小太刀の型も見せてもらう事ができた。サトウも大変喜び『伊達宗城に会う事があったら必ず今日の事は伝えましょう』『友人の画家が君を知ったら間違いなく君を描きたいと言うだろう』などと大絶賛であった。
(7月4日)サトウが小松と中井の訪問を受け、同席する。木戸の上京が間近である事を聞く。
また、大政奉還で容堂や後藤らが提出した原本を見せられ、後藤が外国人と友好的すぎる、または
幕臣らの反感を煽りかねないとして削除された項目があった事を知る。
・フランス語と英語の顧問を一人ずつ雇う事
・英国から軍事顧問を招聘する事
・将軍を廃した後、徳川をその他の大名と『同じ』地位にまで格下げする事
また、新潟港に入港し旧幕府軍に武器提供を行う外国船があるとの報告を受け、サトウも『何かの間違いではないか』と困惑を示した。局外中立宣言にある中、フランスは既に一部抜け出したフランス軍人が旧幕府軍へ加担している事が問題となっており、それに加え一体どこの国が?英国および西洋列国側でも対処する必要があるが、新政府としては局外中立宣言に則りその外国船へ通告および港を封鎖する事が出来ると言う対処法を伝えるが、『国際法』の効力というものがよくわからない中井は何故それが可能となるのかなかなか理解できなかった。
イカルス号事件等において手腕を見せた事が記憶に新しいはつみは当然理解できており、はつみの砕けた話を聞いた小松も理解を示す。中井だけでなく多くの日本人にとってみれば、これまで開港、鎖港で散々モメて来たというのに何故『中立宣言』で『簡単に鎖港通告ができるのか』と考えた故に理解に苦しんだのかと思われた。
(7月)梅雨明けを待ち、サトウの高輪自宅に一台のピアノが搬送される。楽団から買い付けた。
(7月9日)サトウ、勝を訪ねる。
この前日に小松が勝の元を訪れており、その時の話の内容がよかった様でいくばくか緊張が解けている様子が伺えた。新政府に押収された駿府城であったが再び徳川家(亀之助)の為に明け渡されたとの事。しかしそこに居ついていた者達の立ち退きが遅れており、実質徳川が得ているのは八万石にすぎないとも言っていた。勝は徳川の幼い家主やその保護者らが家臣たちの普請や生活の為に困窮しない事を願っている様であった。
(7月)何礼之、小松帯刀に随行上京を命じられ、大坂に転出。外国官判事となる。
(大阪では私塾も再開させる)


【小松・何】英国留学のススメ・再
(7月)大阪開港
(7月)寅之進、大阪に来ていた『白蓮』主人・咲衛門と再会。
帰還が迫っていた事を受け、お万里から同行許可を切望される。


【寅之進・ミットフォード・お万里】
(7月)ミットフォード、寅之進、お万里、フランス艦デュプレックス号にて横濱へ帰還。
(7月)お万里、ミットフォードとはつみの口利きでウィリスに紹介される。
詳細 ウィリスは長州四カ国艦隊砲撃時にお万里の姿があり、はつみの背中の傷の治療に携わっていた事を覚えていた。
はつみのもとで培ってきた基礎的な清潔・予防観念や栄養学、借り受けた英米対話捷径や英単語帳などで地道に独学を進めていた努力などが見込まれ、ナース見習いとして迎えられる。
(7月)新政府から外科医療の依頼を受け忙しいウィリスに、ミットフォードの推薦で寅之進が通訳として付く。
ミットフォードは寅之進の人柄と実力を認め、またはつみへの依存を見抜き一人の男として自立させようとする。
(7月)寅之進、はつみが毎週週末にサトウの家へ通っている事を知り落胆。
その上、寅之進は既にウィリス医師団の通訳として会津へ同行する事が決まっていた。
ミットフォードは寅之進を慰めつつ、以前寅之進から『手の届かない高嶺の花』の意味で聞いていた『かぐや姫』について調べていた。


【寅之進・ミットフォード】有意義ナ恋愛ヲ推奨
(7月16)会津戦争:二本松の戦い
以蔵、薩摩による独断の奇襲攻撃に巻き込まれる形で進軍。
この奇襲攻撃は積極攻撃を好む薩摩が板垣の慎重かつ合理的采配に反して行われた説。
以蔵、本宮からの二本松城進軍時に二本松少年隊の部隊と応戦。
城下においては二人の少年兵を保護した。
(7月17日)江戸を東京と改称
(7月23日)西郷、薩摩藩北陸出征軍総差引(司令官)を命ぜられる。鹿児島進発。
(7月)会津・二本松城、長岡・長岡城陥落
(8月)明治天皇、京にて即位式。江戸へ発つ
(8月)民部大輔らパリ使節団に随行中のアレクサンダーから、民部大輔らが帰国の途につくとの手紙が来る。
アレク自身は賜暇継続のため欧州に残り帰郷。年内中に弟を連れて戻る予定であるとの事。
これによりシーボルトが戻り次第、サトウの賜暇が認められる事となった。
(サトウの後任を任せられる者がいなかった為、サトウの賜暇取得は先延ばしとなっていた。)
小松と連絡を取っていたサトウはこれを機に改めてはつみに『英国留学』について話をする。
はつみは昔、教諭になる事をぼんやりと考えていた時期があり、今はこの横濱村にいる
すべての子供達に向けた英会話塾や、ゆくゆくは幼稚園の設立などに携わりたいと打ち明ける。
サトウはヨーロッパの大学には教育学部もある事を伝え、それも踏まえ留学を考えてみてはと勧めた。


【サトウ】Recommend to study abroad.
(8月20日)会津戦争:母成峠の戦い
濃霧戦。旧幕府軍は母成峠の要所三点に台場を設け、更に天然要塞である勝岩付近にも布陣。
新政府軍土佐迅衝隊は勝岩に進撃し、そこで大鳥配下の伝習第一大隊、新選組と激突。
(以蔵VS斎藤)
(8月20日)ウィリアム・ウィリス、新政府大総督府より西洋外科医派遣依頼を受け、会津へ向け出立。
寅之進、お万里が通訳兼護衛、ナースとしてウィリス一行に従事する。


【寅之進】戊辰戦争を望む
以後、ウィリスからパークス、サトウへの報告書、寅之進からはつみへの報告書などが随時届く。
(帰還は11月頃)
詳細 ウィリスはヒューマニズムに則った医療行為を示すだけでなく、これを機に戊辰戦争の様子、
人々の様子や風評、生産物や物価の影響など出来る限りの事柄を調べ上げながら会津へ向かう。
またこの会津へのルートは『外国人にとって未開の地』でもあり、そこへ自らの姿を以て
西洋人の姿とヒューマニズム精神を認めさせる事により、今後の外交が友好的円滑に
すすむ様になる事を目的ともしていた。
その意を汲んだ寅之進はウィリスの為に真心尽くして逐一奔走し、必然的に道中及び現地での
調整役を務める事となった。あちこちで取材および下調べ、通訳を行い、実質ウィリスの右腕となっている。
武士としての『作法・心構え』、一方で『西洋人の文化および性質』にも通じており、
寅之進のとりなしで深刻なすれ違いや問題が起きたりする事も無く、旅と各地での医療行為は
恙なく進められた。
お万里はウィリスの英語に戸惑う様子も見られたが、実践を通して教えた事もそうでない事もよく覚え
ナース及び助手としての技量をめきめきと上達させていった。業務の後もよく周囲を手伝い、
メモしておいたウィリスの英語を寅之進に訳してもらって勉学に励むなど、これまで学を修める機会の
少なかった日本の女性の潜在的な知的能力の高さと適応力についても証明したと言い、
また賞賛すべき努力家だとも褒めていた。
(8月21日)蝦夷の北方をロシアが占領したとの情報が英国公使館に入る。
サトウとアダムズがその真偽を確かめる為、軍艦ラトラー号で北陸へ向かう。


【サトウ、ミットフォード】He not good at flirting!
急遽横濱へ来たサトウと再会するミットフォード。ラトラー号出港までの間『まぁ積もる政治談議は置いておいて』としてはつみの事を斬り込む。先日新政府からの要請で東北戦争負傷者治療の為に出立したウィリス医師団の専属通訳・寅之進の話を挙げつつ、はつみが毎週サトウの所へ通っているにも関わらずまだ『何もなっていない』様子の彼に『寅之進が浮かばれない』と天を仰ぐ。内心刺さりつつ極めてオーバーであると呆れるサトウに、今回の北方視察を挙げ『いつでも無事に戻ってこれる訳ではないし、彼女がいつまでもフリーでいられる保障もないんだよ』と発破をかけるミットフォード。英と仏の艦隊に限ってその様な事は…と返しつつも、はつみに関しては確かにそうである事は否めない。ずっと一緒にいるし、時々良い雰囲気にもなっている様な気がして慢心があったかもしれないと心に引っ掛かりながら出航となった。…そんな矢先、視察先の稚内近く、宗谷湾でラトラー号が座礁するというアクシデントに見舞われた。
(8月22日)戸ノ口原の戦い。会津軍、白虎隊を投入。新政府軍、猪苗代を突破。十六橋を制す。
西郷頼母の婦女一族、集団自決の様子が発見される。
他、市中内においても200名以上もの婦女が自決。
(8月23日)会津戦争:会津攻防戦
新政府軍、江戸街道と進撃し会津城下へ突入。
土佐迅衝隊、北出丸へ向かうが山本八重ら鉄砲隊の抵抗に遭い、途端に死傷者を出す。
板垣の盟友にして、官職を辞して馳せ参じていた小笠原唯八
(大総督府諸道軍監 土佐藩・牧野群馬)
若松城内から狙撃され負傷。25日戦死。(その距離700m以上。旧式武器が殆どであった
会津内においてその距離を狙撃できる銃を持っていたのは、女ながらに銃隊を率い
自らも自前のスペンサー銃を操っていた山本八重のみであったと言われている。)
小笠原唯八の弟であり迅衝隊小笠原三番隊隊長・小笠原茂連、銃隊の弾に被弾し戦死。
戸ノ口原の戦いから飯盛山へ退却していた白虎隊士中二番隊、城下の戦況を見ながら
今後の方針を激論の末、一斉自決。
(8月25日)会津戦争、涙橋の戦い。婦女隊参戦。
会津新選組斎藤一、城外において粘り強くゲリラ戦を展開
(8月)サトウらが乗船するイギリス戦艦ラトラー号が稚内近くの宗谷湾で座礁。
サトウ、北の海に取り残される事を考えた時、真っ先にはつみの事を思い浮かべる。
(8月27日)明治天皇、即位礼紫宸殿の儀
(9月1日)サトウ、アダムズ、仏デュプレックス号に救助され帰還。ロシア占領の事実はなかった。
(9月4日)小松、外務大臣の前身である玄蕃守(宰相)となる。
(9月)何礼之、一等訳官に就任。
(9月8日)明治へ改元
(9月)明治天皇の御東幸について小松に先発の名が下るも病気の為辞退。明治天皇より御下賜品を拝受。
(9月20日)明治天皇、江戸へ向け京を発つ。伊達宗城や木戸らが随行。
サトウ、東京奠都と東北戦争終結への見込みが強まる見通しである事を受け、江戸と横濱の往来が盛んになる。
これに併せてはつみの週末江戸出勤も臨機応変に対応せよとの事。
(9月22日)会津降伏
(9月22日)東京在中の三条、東久世ら主催で帝の誕生日を祝う盛大な宴に英国公使館の面々も招待される。
はつみも通訳として同席。小松が玄蕃守(宰相)に就任するも、病気の為天皇の行列に随行する事を辞退したとも聞く。東京奠都という一大事を控えた天皇の御東幸に参列できないとはよほどの病である事が想像に容易い。はつみは『歴史上』の事もあって心配になり手紙を送る。
(9月23日)翌日、横濱で英国海軍第十連隊第二大隊の視察が行われ、三条実美ら(長岡良之助、東久世
万里小路マデノコウジ、大久保、中井、伊藤など)が横濱サトウの一等書記官公邸テラスから軍事演習の様子を
見学したりした。はつみも通訳として同席。ピアノ演奏を所望され、楽隊からピアノを借り受け披露する。
その後、公使公邸にて昼食会が行われ、先の帝謁見時のパークス襲撃事件において命をかけて闘ってくれた
中井に剣を贈呈した。中井が上機嫌になってその場で装備するなどし、英国人達も大変満足そうにしていた。
(9月24日)サトウ、ミットフォード、勝海舟を訪ねる。慶喜は徳川家を相続した亀之助に先だって駿府へ移り、勝の妻もまた彼らの為に駿府にいるとの事だった。70万石の明け渡しが進んでおらず、勝は家臣たちの為に11万石に相当する清水の土地を獲得したいと苦心していた。また、勝からは、8月19日に幕府艦隊を率いて『脱走』した榎本武揚らに仏官ブリュネが同行したという話も聞く。サトウ達は最近ブリュネが昇格したという情報を聞いたばかりなので、その信憑性を疑ったが事実であった。ブリュネにはカサヌーヴという士官と他数名の兵士が同行したという。
(9月25日)東海道陸路横断の頃からサトウの護衛を務めている旧幕府警備隊・別手組の一人である佐野育之助がやってきて、この度江戸において外国人の護衛を続ける様朝廷から命令があった事を報告し、護衛を務めていた16人すべてがこの任務にあたる事になったと改めて挨拶をした。もちろん任意での事であったが、全員がこれを拝命したい、サトウを護衛する任を続けたいとする意向であるとの事。長い旅、襲撃、戦争勃発の瞬間など様々な場面を共に切り抜けてきた彼らとは特別な友情で結ばれており、彼ら16人だけでなくサトウも心からこれを喜んだ。
(9月27日)庄内藩降伏。東北戦争終息。
(9月)西郷、江戸から京を経て鹿児島へ戻り、療養する。
(10月上旬)ウィリアム・ウィリスら医師団、新発田より会津若松に入る。
(10月4日)朝廷より凱旋の令を拝し、御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊は凱旋の途につく。
(10月6日)サトウ、アダムズ一等書記官、スタンホープ大佐、絵師チャールズ・ワーグマン、英国公使館付医官シドールとフランス艦デュプレックス号で朝食後、江戸へ向かう。到着するなり武田信玄という日本人医者がシドールに同行を願い出て、下谷にある藤堂屋敷に建てられた軍事病院へと連れていかれた。
(10月7日)ウィリアム・ウィリス一行、会津に入る
(10月8日)アダムズ、ミットフォード、マーシャル、ワーグマンは吉原へと向かった。吉原近辺は外国人が入り込まない様厳重に管理されていたのだが、解放されての事だった。
(10月9日)サトウ、高輪の自宅で盛大に宴を開催。神明前から芸者を3人、太鼓持ちを2人を呼び、真夜中まで大騒ぎを続けた。サトウの護衛達も同じ様に余興として演じ、その精度には彼ら自身も満足した様だった。
(10月)サトウ、再び藤堂屋敷へシドールに会いに行くと、そこは『総合病院』へと変貌していた。明るい人柄の薩摩医師・石神と出会う。また、この日は上野戦争の現場検証として黒門へと出向いたが目の前で閉じられてしまう。小一時間ほど抗議したがサトウ達よりも石神の方が苛立っている様であった。門には銃弾の痕がついており戦闘の激しさを連想させた。石神と戻り、楽しい時間を過ごした。
(10月12)翌日、薩摩の中井と会う予定があったのだが他の薩摩藩士(七左衛門と七次の兄弟)がやってきて、吉原へ行こうと説得されてしまう。連日吉原へ行く事を断っていたサトウに、はつみが声をかける。奇しくも、その日はつみ本人はまったく忘れている様であったが彼女の誕生日であった。
居合わせて話を聞いてしまったシドール医師が、吉原へ行く連中に調合していたミストゥラ・ヴィニ・ガリチ(滋養強壮剤)をサトウにも手渡し、グッと肩を揉んだ後ウィンクをして去っていった。しかし自宅でははつみへのプレゼントを用意したミットフォードらがいまかいまかと待ち構えているのであった。


【サトウ、ミットフォード】明治元年の誕生日

―東京奠都―

(10月13日)東京奠都。明治天皇が西国諸藩兵3300名に護られながら江戸城(千代田城)に入る。
朝10時、ジャパンタイムズのリカビーを迎え、サトウ、ミットフォード、ワーグマン、はつみ、野口ら護衛たちは泉岳寺前の高輪接遇所前の空き地から遠くに見える行列を見る。天皇の乗り物である『鳳輦』に興味を持つ。帝が座る台座のそばを馬ですすむ伊達宗城がサトウらに続き、友好的にうなずいてみせてくれた。
また、この時の為に『台場を作って見える様にしたい』と言い出したパークス公使には『日本の文化で天皇の行列に対し台の上から見る事は許されない。やめた方がいい』と丁寧に忠告していた。
(10月)小松、9月22日付けではつみから送られた手紙にようやく返信する。暫く伏せっていたが足痛と腹痛は少し良くなった為、体を起こし自分で筆を執った。はつみを心配させない様な事ばかりが書かれており、英国の大学へ留学し、実力に相応しい実績を得るよう、心を砕いてくれているのが伝わる。


【小松】
京御花畑屋敷にて、足痛腹痛をおさえてはつみに返書をしたためる小松。側室の琴、慶応2年に生まれ2歳となる長男が支えていた。
(10月19日)ウィリアム・ウィリスら医師団、会津若松を出て再び柏崎へ向かう
戦の死傷者が集められている。
(10月19日)会津から凱旋の土佐藩兵らが順次到着する。
(10月24日)土佐藩迅衝隊大軍監・谷干城が東京に凱旋
(10月26日)旧幕府軍、函館を占領
(10月27日)サトウ、町田と昼食を取る為に高輪(品川)のホテルへ向かう。
中井、大久保、吉井と合流。吉井は1日に若松を出発し帰還していた。
ウィリス達がいる会津はすっかり雪深い季節となっている様である。
「金札」という新紙幣の事が人々の間で話題になっていたが、税金支払いに対応していなかった為に流通しないのではという指摘があった。これに対し中井は否定したが、銀行制度を整備し三井の様な大企業に権限を与えて金貨および金塊を貯蔵させ、それを元に紙幣を発行させるやり方があるかも知れないと返した。いずれにしても徳川が殆ど財産を持っていなかった事を知った新政府にとって非常に重要な問題だ。幕府は帝に対しても多くの予算を割いていなかったので、どちらも財政難なのであった。
(10月28日)横濱英国公使館に、旧幕府軍が函館を占領したとの報が入る。
(10月29日)御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督・板垣退助、東京へ凱旋。
(10月30日)迅衝隊大軍監兼右半大隊長司令・片岡健吉ほか迅衝隊530名が土佐に凱旋
(10月30日)高輪のサトウ、薩摩の中井の訪問を受け、新しい紙幣についての相談を受ける。
詳細 その後は現在の外交について話し合った。中井は以下の事を述べた。
・日本人の間にはいまだに外国人に対する根強い不信感が存在する事は確かである。
・諸外国の代表を住まわせておく事は必要であり我慢する必要があるが、必要以上に関わり合うべきではない。
・新政府にとって現在外国公使達が横濱に住んでいる事はこれ以上ない程喜ばしい事であり
いかなる案件に関してもその意見を聞く事は現在まったく検討していない。
日本政府にとって各国公使とは大名の留守居の様な権限を持つものだと思われている様だとサトウ。
また、横濱や長崎で外国人が享受できる快適な住居と生活、そして安全は、 横濱が外界から切り離されているからこそ成立する。
そういった意味では横濱や長崎は上海等と同じ『治外法権』にも及ぶ地域であるのだと認識を強くする。
その後、金杉の町長と3,4人の役人と共に能と狂言を見に行く予定だったのだが、横濱からの伝令で旧幕府軍が占拠した函館へアダムズらが向かうのと同時にはつみもそのメンバーに含まれていると聞き、急遽フシミ号を飛ばして横濱へと舞い戻った。 (10月30日)函館在住のイギリス人およびフランス人保護のため、軍艦サテライト号とヴェヌス号が急遽出港する事になる。英国公使館からは一等書記官であるフランシス・オッティウェル・アダムズが向かう事となり、その通訳としてミットフォードが。そして恐らく多くの外国人やキリスト教徒らを軍艦に保護する際通訳のできるスタッフが必要になるだろうと踏んではつみが抜擢されていた。そこへフシミ号を2時間飛ばしてきたサトウが横濱公使館に入る。同行しようとパークス公使にかけあったが東北戦争が終結した今彼の存在は江戸外交に必須であるため承認を得る事ができなかった。
横濱出向時に凱旋中の板垣からはつみ宛の手紙が届くのだが、急遽である為サトウに返信の発送を頼む。


【サトウ・ミットフォード】An expedition.
10月30日、はつみ視点


【板垣】英雄の凱旋
10月30日、板垣視点
(11月2日)会津藩主父子、千住移動。松平容保は鳥取藩が、松平喜徳は福岡藩が監視する事になった。
(11月)板垣、江戸城にて明治天皇に拝謁。
(11月3日)民部大輔ら、パリから横濱へ帰国する。アレクは故郷ドイツへ立ち寄り年末頃に再来日予定。
(11月4日)はつみら、函館に入港する。土方ら前線の様子(松前城攻略)なども聞く。
(11月5日)板垣、谷ら、他土佐迅衝隊442名、土佐帆船夕顔丸等にて土佐へ向け出港
(11月)アダムズら、榎本武揚と面会。
彼が『選挙』によって総裁に選ばれ『蝦夷国』を宣言しようとしている事を知る。
(11月)進撃中の土方らが去る11月5日に松前城を攻略したとの報が入る。
(11月7日)榎本から新政府へあてた『嘆願書』を受け取る。しかし中身は嘆願書などではなく
これらの事が後になって新政府との間で少々問題となる。(特に岩倉)


【柊】
柊は長州ではつみらと別れた後、亡き内蔵太の言葉を頼りに蝦夷まで来ていた。
山本琢磨に再会し、コンプレックスで雁字搦めな上に武市や内蔵太、桂、
そしてはつみといった喪失感ばかりが募っていたその心を、キリスト教徒となっていた山本や
その宣教師に救われたのだと聞く。
そして元の秀才ぶりを活かしロシア語そしてはつみの影響で英語も学ぶ傍ら
キリストの教えにも耳を傾け、まだ洗礼は受けていないが今では信徒であると告白した。
今なら、素直に己の言動を恥じ悔いる事ができる。
はつみの行く末の幸福を祈ることが出来る。
武市や内蔵太の想いを受け入れ、理解を示す事が出来ると。
はつみはルシファ…もとい、天草四郎の話をした。


【土方】軌跡R15
深夜、今はもういないはずのルシの気配に導かれ、屋外へ。いつだか見た事のある椿の小径をゆく。
詳細 その先は見知らぬ大名の城であった。
外の様子はよく見えなかったが、はつみが通る先にいる者は皆なぜかよく眠っている。
警備中とみられる者も明らかに不自然な状態で眠っている様だ。
遥か遠くでルシらしき声が「ケーン」と聞こえる。
その声に導かれる様にして、思うがままに先へと進んでいった。
とある一室を覗き込むと、大机に地図を広げ見ている洋装男の後ろ姿が目に入る。
『まさか』と思いながらも思考が追い付かないままに立ち尽くしていると、
部屋の入口でモタつくはつみに向って男が声を発してきた。
「なんだ?報告があるなら手短に―……?」
振り返った彼もはつみを見て驚きを隠せない様だ。
―もう長い間、彼の整った顔が感情で変化するのを見た事が無かった。
そう、彼は新選組副長…旧幕府軍陸軍奉行並、土方歳三であった。
「…桜川か?」
「はい…土方さん、ですよね?」
「………本物か?」

―略―
二人は古い友人であったかの様に楽しく会話に花を咲かせ、夜も更けていく。
はつみがあくびをし始めた事に気付いた土方が、そろそろ寝るか…と東の空へと
視線を移してから再び視線を戻した時、はつみはいくつかの赤い花びらを残して
忽然と消えてしまっていた。
土方は唖然とした後、彼女が据わっていた椅子へ近付きおもむろに手を添えてみた。
…確かに暖かい。今日の会合で初めて知った、彼女の優しく華やかな香りもまだ残っている。
「…本当に、寝落ちしたら神隠しにあっちまうのかよ…」
流石の総司もそこまでは知らなかっただろうよ、と、一人クククと笑う。
「…いい土産話ができた。」
戦いの真っ最中であるとは思えない程の、心が解放されたひと時であった。

はつみは気が付くと、函館で自分に宛がわれたベッドで横になっていた。
はつみが行方不明になっていた等といった問題が起こっている様子は見られず、
静かで落ち着いた夜明けだ。
…ついさっきまで、確かに土方と語り合っていた実感が残っている。
あれが夢ではなく『奇跡』だったと思える証拠に、枕元にはどこから舞い込んできたかも
わからない赤い花びらが2,3枚散らばっていた。
彼はこれからこの地で厳しい冬を越え、そして『幕府の終焉』を体現する一人の人間となる。
四郎も…否、かつてルシファだったものの残滓も、きっとはつみの目を通して見ていただろう。
(11月8日)函館にておおよその情報や避難希望の外国人らを得た英国・仏国、函館を出港。


【ミットフォード】I want to know you more.
船室にて、死にゆく定めの土方の事を考えていると、ミットフォードがやってくる。同じイギリス人だというのひサトウとは正反対の『積極性』ではつみからロマンス話を引き出そうとしてくるのだが、しかし彼が言う『君の事が知りたい』と言うセリフにはロマンスの意は込められていない。ミットフォードはまるで『竹取物語のかぐや姫』の様なはつみの周囲の恋愛模様に興味津々なのであった。
(11月)はつみ、遠くへ続く海と空を連日見つめ、色々な事を考えた結果、英国へ幼児教育等を学ぶため留学を決意する。直ぐに周囲へ口にするのではなく、まずは大阪で療養中の小松へと手紙を出そうと、船室でペンを執った。
(11月12日)アダムズらが函館から帰還する。
榎本からの嘆願書は『不介入』として開封される事はなく、そのまま政府へと送信された。
(11月15日)土方らの江差攻略を支援する為に出ていた榎本武揚の開陽丸が悪天候に見舞われ座礁。
救助に入った神速丸も座礁。
(11月15日)ウィリアム・ウィリス、寅之進、お万里などが会津での医療活動から横濱へ戻る。
はつみ、寅之進に英国留学への決意を伝える。寅之進には一番にこの決意を伝えた。


【寅之進・お万里】帰る場所
(11月17日)小松からの手紙が届く。時期、期間、ステイ先などはサトウに相談する事を勧められ、諸経費等については諸事小松の方で動いてくれてるという。はつみと寅之進の現在の肩書は『外国官付属・英国通訳事務・留学候補生』であり、はつみが留学を決意した際にはサトウが協力者になってくれる約束をすでに取り付けてあるとの事であった。寅之進ははつみとは長年苦楽を共にしただけでなくはつみの『従者・護衛』として貫いたその人格も信頼に足る人物であると評価されている。加えてグラバーやミットフォードの元で西洋の公的な仕事をこなし、それに通じる英語力を体得した経歴は新政府の人材中にあっても大変貴重なものであり、出来る事ならはつみと共に英国大学へと進学し更なる高みを目指してほしいと書かれてあった。驚き、はつみと見つめ合ったあと、小松そしてはつみへの感謝に涙をにじませる寅之進。
手紙の続きは再びはつみへの想いに触れており、『女性の身には辛いことが重ねて起こる中でも幾重にも考慮を繰り返し決意してくれた事、君という女性を世界へ送り出す大任に関われる事、はつみの花咲爺になれる事、すべてを愛しく嬉しく思う。』とまで書かれていた。心から小松の病を心配するはつみに、サトウは彼の見舞いに行く事を共にパークスへ掛け合ってくれると提案してくれた。


【サトウ・寅之進・小松】花咲爺
(11月18日)サトウと共にパークス公使へ会いに行き、正式に英国留学の許可を得る。
パークス公使は『玄蕃頭』である小松からの正式な通達がすでに届いていた事を告げ、公職に仕える立場にある者が公的に認められる形での留学となる旨がしっかり伝えられているとの事。パークス公使も『抑圧されたミューズ』たるはつみを母国へ迎える事を歓迎してくれている様であった。また、サトウの賜暇に合わせての出発となる旨も急遽取り決められた。サトウが小松の病状とはつみとの絆などについてパークスに掛け合ってくれ、はつみは英国留学への準備に係ると共に大阪にいる小松の下へ急遽見舞いへ行く事が許される事となった。寅之進も同行する事となり、後日になるとウィリスの計らいでお万里も一時帰省が認められ、同行する事となった。
また、乾や陸奥など各方面へも、英国留学の時期と挨拶を伝える書簡を送信する。
サトウは両親へ向けて手紙を送った。

―東京開市、新潟開港及び、西暦1969年1月1日―
(11月19日)東京開市、新潟開港及び、西暦1969年1月1日
東京における外国人の通商と居住が認められる。
(11月19日)旧幕府軍追討令


【サトウ】(仮SS)This early in the morning.R15
東京が開市され各国公使の明治天皇謁見の日付も4日後に迫っている。そういった変化のせいか日本人側の来客に拍車がかかる中、西暦のNew yearを迎えた。サトウはこの大変気に入っている高輪自宅を借用して2年目となるが、西暦のNew yearをこの自宅で迎えるのは初めてであった。はつみの英国留学の話も現実となる傍ら、函館から帰って来てからどこかはつみが儚く、そしてもはや『抑圧されたミューズ』といった憧憬の念ではなく一人の『レディ』として現実的に想い始めている事に気が付く。それは、彼女の英国留学に際し両親へ手紙を綴った事で意識が変わったのだと納得する。ある朝の会話をきっかけに、サトウの想いが溢れる。
(11月)以蔵、乾らの承認を得て土佐を出立。京『鈴蘭』へ至る。
(11月23日)各国公使、東京にて天皇に拝謁
パークス公使、サトウら及び主要士官12人が江戸城にて帝に拝謁する。
前回帝に拝謁できたのは公使とミットフォードのみであったが、今回はサトウ含め
多くの者が拝謁を許された。これを聞いたパークスが急遽海軍大佐や司令官、士官らを
同行させたいと言い出し、当日にも関わらず参列者リストは倍の30人近くとなる。
彼の「急遽」はこれまでに何度もサトウらを悩ませ苦労させたが
はつみと寅之進も急遽、通訳官として同行の形を取る(拝謁はない)。
謁見後の要人らとの昼食会に参加した。

未来へ

明治元年11月~明治2年2月

▲ TOP ▲
●明治元年…はつみ27歳

(11月下旬)はつみ、大阪にて療養中の小松やパークス公使の承諾を得て、
小松の見舞いと土佐へ挨拶をしに一時帰還する。(船で大阪経由)
―一時帰還:大阪・京―


【小松】R15
小松は花咲爺ではなく花咲兄だと泣いて笑うはつみを抱き締める小松。


【以蔵】甘味が苦手な甘味処の主人
小松から以蔵が鈴蘭に戻っていると聞いたはつみは、すぐに再会の為向かった。
短髪が定着した様子の以蔵が売り子をしている。
お道もはつらつとしており5歳になった直人は以蔵に懐いている様だった。
龍馬の命日が近く、以蔵とともに墓参りに出る事となった。


【白蓮】
お万里が居なくなった後は、お万里とはまた違った陽の美貌で知られた琴が看板娘となっていた。外国人に対応できる店として周知され一時期嫌がらせを受ける事もあったが、陸奥をはじめ伊藤や木戸、小松、後藤など新政府の要人が非常に親切にしてくれた為、今ではそういった事はなくよく商売させてもらっていると満足し、心から感謝している様であった。お万里の事を頼みますと、深々と


【陸奥】あまのじゃく
折角再会できたのにはつみは少し顔色が悪く、具合も悪そうだった。
『そんなんで海外留学なんかいけるのか』『ひと月近く船で波に揺られるんだぞ』と。
不安になる様な事を言うなと尤もな事をいう寅之進に舌打ちし、
『本当に俺がいなくて大丈夫なのか?』とどこまでも上から目線の陸奥。
―一時帰還:大阪~土佐―(往路船内)
大阪からの船の中で月経が再開した事に気付く。
ここ数日の体調の悪さは疲れなどではなく、月経に伴うものだったと結論。
(12月3日)岩倉具視、各国公使に局外中立撤廃を要請するが、公使達は函館を見据え慎重な姿勢を崩さない。
これらの件に尽き、各国公使館は連日の会議、明治政府との対談や調節が行われていく。
(12月)サトウ、薩摩の鮫島誠蔵から手紙と品物(送別の品)を贈られる。
「薩摩領主は貴君の厚意と仕事に対して感謝の念を述べる様私に仰せつけた。
領主は二つの箱を贈呈する。その他のものはわずかながらではあるが大久保、吉井、
そして私からの感謝の念を伝えたく贈るものである。
我々が過ごした日々を記憶に留めるものとして、どうか受け取ってほしい」との事。
―一時帰還:土佐―


【坂本家】幸せの形
坂本家に到着したのはちょうど龍馬の命日だった。栄と伊予、龍馬の墓を見舞う。
体調がすぐれない理由を知る乙女達。権平は相変わらず一言多く乙女が怒ったが、
二人とも目を潤ませてはつみの幸せを願った。


【武市家】
武市の墓を見舞い、富から以蔵と肥前国河内守藤氏正広の話を聞く。
はつみもまた、京で会った以蔵の話をする。


【板垣】二人の距離
髪を切った板垣と初めて対面する。もはや誰もが板垣を英雄とあがめていたが、本人はまったく変わらず、今は一君万民に則った治政が行われる為の骨組みを思案していた。会津の父子や会津兵達への処罰にも寛大とし、特に列強諸国に対し国力を上げていく中で 日本民族間の遺恨を残し将来再び内部分裂という事があってはならないとするものであった。 そんな板垣の思想に対し、はつみは心から賛同し感動し、尊敬に至る。
…板垣は二人の関係についてはつみに訪ねる。 帰国後、正式に土佐の外交員にならないかと声を掛ける。取引ではなく、正当な交渉。
―一時帰還:土佐~大阪―(復路船内)


【寅之進】掌中之珠R15
土佐から大阪を経由した際、小松から寅之進もはつみと共に留学する様にとの達しがある。
復路大阪からは再びお万里が合流し、共に横濱へと戻る。
(12月中旬)はつみ、寅之進、お万里、横濱へ戻る。
(12月28日)六カ国公使、局外中立撤廃を告示
(12月下旬)アレクサンダー・シーボルト、弟のハインリヒ(17)と共に再来日する。


【シーボルト】Siebold's return.
少年期に突如母の下から離れ、ホームシックになり、親族すら誰一人としていない環境で成長したせいか真面目過ぎる兄アレクとは違い、ハインリヒはコミュニケーション力に長け、伸び伸びと明るい性格であった。そしてはつみを気に入ったふりをして恋人の有無を聞いたりタイプの男を聞いたり、更には脈が無い事をボヤくふりをして『だったら兄の恋人になってくれたらいいのに』等と軽口を叩き、奥手な兄アレクの援護射撃を試みる。
(12月)


【陸奥】(仮SS)友人からのプロポーズR15
前回の大阪での再会で納得できなかった陸奥。直接横濱へ乗り込んでくる。
(12月末)高輪のサトウ自宅にて、年末年始を和式で過ごす為の準備に取り掛かる。


●明治二年…はつみ28歳
(1月1日)サトウ、ミットフォード、アレクらと和式の年末年始を過ごす。


【サトウ、シーボルト、ミットフォード、寅之進】謹賀新年
詳細 高輪のサトウ自宅にて『日本の作法に則って』日本の新年を迎えた。
・米のケーキ(餅)にミカンとシダを添えたものを準備し、乾燥させた葉っぱを書斎の床間からぶら下げた。
・訪ねて来た人と雑煮(揚げた餅をひたすスープ)を食べる時の為に絹の座布団を用意。
・新年の1日目には餅を一個、二日目には二個、三日目には三個食べる。
・屠蘇(とそ)と呼ばれる新年に振舞われる飲み物(甘い酒に香辛料を混ぜたもの)も提供する。
・この屠蘇を、上から下へ徐々に狭まっていく陶磁器のコップを台に載せ、それに注ぐ。
・家の使用人たちがかわるがわる訪ねて来て、新年を祝い、御歳暮を貰った事を感謝した。

(1月2日)夜、サトウは護衛や別手組達、公使館筆記役の小野清五郎、ミットフォードの教師長沢、家の使用人達も招待して宴を催した。サトウとミットフォードは上座に用意された白い金襴の座布団に座り、客人たちは部屋の両側と下座に並んだ。本来であれば主催者は座布団に座るべきではないのだがサトウやミットフォードが膝が硬い為申し訳ないが了承してほしいと言った。
・少々真面目な話をした後、レストランから酒や夕食が運び込まれ、楽しい催しとなった。
・芸者、野口の妻、横濱の大変賢い少女もやってきた。(大変賢い少女って…?)
・皆おどけて踊り、言葉あてをして遊び、歌い、新年に行われる踊りの一種である「萬歳」もやった。
・とてつもない量の酒が飲み干され、深夜0時には各自満足した様子で去って行った。
(1月4日)はつみと寅之進、サトウやアレクと共に勝海舟を訪ねる。勝は紀州屋敷に身を寄せている。


【サトウ、勝、シーボルト】禍福は糾える縄の如し
サトウの後任ともなるアレクを紹介し、函館の旧幕府軍(反乱軍)に対する見解を語る。
勝の茶目っ気からはつみの話にもなる。はつみの目指すところ。
「おまえさん達、恋のらいばるってやつかい?」
勝から脇差を贈られ、最後にサトウと二人で話す。龍馬の話。
そして何度も惜別の念を告げながら別れた。
紀州屋敷には紀伊家家臣の竹内老人も同居しており、彼は大名間で回覧されていた報道や
様々な書簡の写しをサトウに提供してくれていた。彼にも挨拶をしに行くと、
紀州の高名な藩士であった伊達五郎(伊達宗興。陸奥陽之助の義兄)と出会った。
侍たちの間ではサトウやアレクは政府筋の人間(外交官)としてかなり有名人であったが、
伊達五郎は極めて個人的に2人の事を知っていた様だった。
というのも、弟の陸奥から桜川はつみの話があり、桜川はつみの話になると
その周囲にいる男達への愚痴が始まるのだと笑って言う。
しばらく談笑をし、丁寧に別れを告げた。伊達はサトウやはつみ達の旅の無事を祈って別れた。
(1月同日)はつみ、寅之進。東久世主催によるサトウ送別会に呼ばれ高輪のホテルへと向かう。
ミットフォード、アレクの他、備前岡山藩主池田、公家大原侍従(重実)
木戸、町田、森、語学学校(幕府が開設した蕃所調所)の教師で最近江戸において刊行された
新聞編集長・神田孝平、宇和島藩士都築荘蔵(温・あつし)が招待されていた。
とても心地のよい宴だった。
・備前の若い藩主は丁寧に挨拶をし、この送別会をきっかけにお見知りおき願いたいと述べた。
・サトウは名誉なことに、常に東久世の左側にいる事を許された。
・夕食後、彼らはサトウの健康を願って大量のシャンパンを飲み干し、航海が快適なものである様祈った。
・明治政府から、金の鎖がついた時計を6つ贈られた
・都築は伊達宗城の名義でしたためられた惜別の手紙を手渡し、それとは別にハーツレット条約集を
一部手配できないかと訪ねて来た。サトウは笑顔で手を尽くす事を約束した。
・町田、個人的な護衛達、木戸など様々な人からも手渡された。
・夕食の後、木戸は内密に、朝鮮の港を開く事が日本にどの様な影響をもたらすかと聞いて来た。
→実利は少ないだろうが朝鮮の人々の目を国外に向けさせるという人道的なメリットがあると答えた。
他。
(1月5日)サトウ、横濱へ移る為、江戸とこの自宅に長い別れを告げる。
公使館の護衛を務めたロンドン騎馬警官たちの前を通ると、警部とその部下たちが
快適な旅路を祈ってくれた。
ミットフォードの教師中沢、個人的な護衛を務めた4人は中継地点の梅屋敷まで
一緒に来てくれ、そこで惜別の杯を交わした。
東久世はサトウの出発を惜しむ手紙を送り、帝も円滑な外交関係を樹立する上での
サトウの功績に対して感謝しており、大きな漆塗りの用箪笥を贈呈したいと述べているとの事だった。
木戸もサトウへ再度手紙を送り、ヨーロッパで日本について何か見聞きする事があれば何でもいいので
教えて欲しいと依頼した。また、手紙をくれれば必ず返信するとも約束し、
快適な船旅と共に英国に無事に到着できることを祈っていた。
(1月6日)版籍奉還案の為京へ向かう板垣であったが、定刻よりも数日早く船を出し そのまま船を大阪経由で横濱へと向かわせていた。
この日、はつみらが横濱へ帰還するなり直ぐに知らせを受け、彼が滞在している洋風ホテルへと向かう。


【板垣】同床異夢R18
『…ごめんね、乾…』
あの日、はつみがそう言った意味をようやく理解するに至った。


【シーボルト】With the utmost love.R15
再来日して以降ずっと渡しそびれていたという、可愛らしい白のベアドールを渡される。首にはアレクがよく付けているスカーフと同じモスグリーン色のリボンが結ばれ、瞳もアレクと同じグリーン色をしていた。マルガレーテ・シュタイフというドイツの人形メーカーで長年愛されている熊の人形であるという(後のテディベア)。彼の故郷はオランダのライデンであるが、戸籍はドイツであり(『フォン』は父シーボルトが賜ったドイツ貴族階級を意味する)、生まれた時からこのクマの人形が身近にあり愛着があったという。黙とする表情が時に誤解を招きやすいアレクであったが、少年だった頃から花やこうした可愛いもの、そしてお菓子が好きだった事を懐かしそうに、そして友好的に話すはつみ。それだけの事なのにアレクサンダーはハインリヒと練習した『ベアドールになぞらえて愛を語る』事ができなくなってしまい、変な沈黙の合間に見つめ合ったはつみを思わず抱きしめていた。若い精一杯な感情で抱き締められ、いつかの手紙で写真が欲しいと言われて以来何となく察していた事が今も彼の中では現在進行形なのだと知る。間近に見つめられ口づけの気配を感じ取ったので咄嗟に口元を抑える仕草を見せるが、泣き出しそうなほどに切望する視線で『お願いです…今この時だけ、貴女の唇に触れる事を許してください』と言われ、あまりに突然の事で唖然とする内に唇を奪われてしまった。


【サトウ、ミットフォード】Princess Kaguya.
宿舎の二階から横濱の海を眺めるサトウに、アレクサンダーがはつみと会っていると話しかけるミットフォード。少し前には土佐の英雄板垣退助も来ていたとも切り出す。知っている、とするサトウは『自分には介入する権利がない』と言い、はつみとサトウの現状について聞いたミットフォードは『ミューズは気まぐれかな』と肩をすくめた。ミットフォードは英国公使館の目の前にあった泉岳寺にまつわる『赤穂浪士』の話をきっかけにいくつかの日本の古い物語に興味を持ったが、その中に、まるではつみの事かと思わされる様な『竹取物語』という日本最古とされる物語があった事を持ち出す。『かぐや姫は「姫」ではなく「ミューズ」だった。だから人間の男と結ばれる事はなかったのだよ。…はつみもそうなのかも知れないな。一番初めに彼女を『抑圧されたミューズ』と揶揄したチャールズはかぐや姫の事を知っていたのかな?ハハ』はつみの事情を知るサトウは深く息を付き、その物語の顛末に想いを馳せた。


【ウィリス、サトウ】Mixing up public and private.
出港前、いわゆる『職場健康診断』をしてもらう為ウィリスの元へ向かうはつみと寅之進。長らくきていなかった月経が再開した理由も分からなければ、再開した事による大きな体の変化等も見られなかった。病気を患っている様子は見られず、妊娠もしていない、背中の古傷も痕は大きく残っていたが後遺症はなく、健康な女性の身体であると診断された。…だが、それとは別にはつみは今年で28才である事を確認し、少し首をかしげるウィリス。日本人と西洋人とで体の老化傾向に関し差異がある様に思われる事は周知されているものの、はつみは随分と若々しい肌を維持している様だと述べる。フと漏らした自分の言葉が相応しくない事に気付き、医学的にアンチエイジングのヒントがあるとすればそれを知りたかっただけだなどと言い換えるなど、齷齪してしまった。―これらの診察結果は公使館に控えられる事になっており、はつみのマネジメントも兼ねているサトウはウィリス立ち合いの元そのカルテを見ていた。兼ねてより、ウィリスはサトウやアレクらのはつみに対する感情を見て見ぬ振りをしていたが、事この様な事態に至り、公私の感情の区別が極めてつけにくい状況にある事を懸念していた。はつみは政府から押し付けられた人質の様なもので、当てが割れた公職は広告的な役割しか持たない。政治的価値はない様に思われるが、サトウ達の側に置いておく事で何かしらのカードになり得ることを彼らの中には期待している者もいる。そんな中で理性を保ち適切な関係を維持する事ができるのか、或いは二人の愛がすれ違った時、業務や留学に支障が出る事はないか…といった事を述べるウィリス。サトウは、かつて長崎でイカルス号事件に際していた時も陸奥陽之助から『公私混合だ』と啖呵を切られた事があると言い、悩む時もあったが結局は彼女との関係がどうなろうと仕事の際には知性と理性で振舞うしかない、想いを止める事はできないと悟ったと言い切るサトウ。先ほどのウィリスも思わず診察に関係のない話を持ち出してしまったあたり、彼女にはそうした不可思議で寄せ付けられる様な科学では証明できない『魅力』があるのだろうとも理解を示し、賜暇期間中、つまりはつみの留学期間中も含め『悔いのない休暇を』『休暇中の事は間違いなくプライベートだ。ただ、はつみに取っては公職の肩書の元に為さねばならない学業がある事を忘れてはならないが…』と意味深に伝えるウィリス。サトウは来日以来の友人であるウィリスへはつみのカルテを返し、複雑そうに微笑んで頷いてみせた。
(1月14日)京・円山端寮において薩摩大久保、吉井、長州広沢、土佐板垣が版籍奉還の会合。
(このあと1月20日に薩長土肥4藩の藩主、新政府に対し版籍奉還の上表を提出。)
(以後、5月までの間に、わずかな藩を除く262藩主が同上表を提出)

(1月14日)アーネスト・サトウ、賜暇のため帰国。
野口富蔵、桜川はつみ、池田寅之進が留学のため同行。
パークス公使を始め、公使館職員の面々に最後の別れを告げる。ミットフォードからは花束を受け取り、アレクサンダーからは手紙を受け取った。そしてサトウのエスコートを受けP&O社が所有する804トンの蒸気船オタワ号に乗り込む。
船にはパークス夫人も帰国の為に同乗し、丁寧にあいさつをした。
出港時、多くの人達に見送られながサトウが泣いているのを目撃し、はつみもついもらい泣きしてしまう。涙に滲む視界の端に、ひと際大きな体格をしたウィリアム・ウィリスの姿を遠目に認め、大きく手を振る。その隣に、龍馬に似た背格好の男性を見た気がして慌てて目を擦り付けたが、次に視線を向けた時にはその姿は無かった。


イギリス留学



エピローグ…かぐやの君




かぐやの君~後日談:英国留学編~
かぐやの君~後日談:明治百花繚乱編~
以下、明治2年まで一旦工事中。近日公開

尚、早くまとめて欲しいキャラクターや読みたい小説がある場合、
リクエストやご感想を送ってもらえると優先度があがるかも…

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小説仮SS の違いについて
どちらもキャラクターイベント用の小説タイトルであり
『個別イベント』とも言います。
『小説』は添削校正作業などが完了した『完成体』
『仮SS』は小説並の文字数ではあるものの、
覚書・下書きといった文章のまま公開されたもの

特に『仮SS』について、
該当タイトルの詳細を一旦把握したい時には適していますが、
走り書きの文章を添削していない為に読みにくかったり
史実調査や前後の繋がりに不足・不備があったり
箇条書きや過分な会話がダイレクトに入っていたりします。
膨大な小説のネタや構造は大量に脳内補完されている為、
小説化への作業が追い付かないが少しでも
世に出してしまいたい…とする作者の苦肉の策(泣)

▶詳細
該当する時事説明やプロットをその場で読む事ができる。
『仮SS』のショート版。


『小説』『仮SS』だけを見たい場合は
新着SSリスト』をご覧ください。

人物別
各章
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