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三千世界の鴉を殺し…前編





慶応2年6月。

 第二次長州討伐・四境戦争を迎える長州からの要請を受け、龍馬以下亀山社中一行はユニオン号こと乙丑丸を譲渡する為に下関へと入港した。


 ほんのひと月前、ワイルウェフ号の沈没により池内蔵太や黒木小太郎らといった多くの仲間を亡くした亀山社中一味であったが、その死を嘆き悲しみ休む時間はなかった。時世の荒波は尽きる事無く押し寄せ、今また、幕府軍による長州征討という生きるか死ぬかの大波に向かって船を立てようとしている。事ついに今日の四境戦争へと至り、龍馬ら一行も『軍艦を用いた次世代海戦』へ初陣を飾る気合は十分であった。

 『軍艦があっても乗り手がいない』
 この懸念はいまやどこの藩にあっても付いて回る問題であり、独占的利権として海軍伝習所や蕃書調所、幕府海軍などを設けている幕府でさえ潤沢な人材を蓄えている訳ではなかった。その中にあって、既に数年前から軍艦操練の技術と知識を学び続けて来た上に一つの組織として統率力・結束力もある亀山社中の人材は重宝されているという訳だ。

「Thank you for comi~~~~ng !お~い!!!」
 港に駆け付けた伊藤俊輔の出迎えを受け、一番に上陸した龍馬も笑顔で彼に近寄っていく。西洋風に固い握手を交わした後、早々に高杉(谷)の元へと案内された。速足で歩きながら適度な会話を続ける。
「海軍総督、それから丙寅丸艦長にも就任され、もう間もなく出陣されるところじゃった。」
「ほうじゃったか、それは間におうてよかったぜよ!や~はつみさんが急げ急げちゅうてのう」
「はつみ、君もよくまたこんな戦場まで来たねぇ」
 伊藤独自の気さくさに見せかけて放たれたその言葉には、ワイルウェフ号事件からひと月も経たぬ今、気持ちの方を案ずる色が深く含まれていた。龍馬らもそれを耳にしつつ、見守る。はつみは返答をするが、やはりその笑顔はかつての彩を失ったままだ。
「うん、無理言って乗せてもらったんだ」
「大砲飛び交うかも知れない戦場へすすんで来る女子なんて、君ぐらいかもね」
「ははっ。でも、前回の時は俊輔君が手紙で呼び出したんだからね?」
「あっはは!そうだったそうだった、sorry!」
 気さくな伊藤にはつみも場に応じた表情で返す。彼女が『御返し』とばかりに言ったのは、今からおよそ2年程前の元治元年夏、四カ国艦隊による長州報復戦争の講和会議前後に至った時の話であろう。
 ―当時の詳細を今ここで回想するのは止めたが、あの時は内蔵太、そして柊などもこの件に絡んでいた。その二人はもういない訳だが、はつみは情緒を乱すことなく伊藤の語り掛けに付き合えた様だった。
「頑張ろうね!」
 一見差支えのない知己同士による会話に思われるが、会話が終わったあと伊藤は意味深に龍馬へ視線を送る。龍馬もその視線の意味を察するかの様に頷き、少し苦笑がちに微笑んで見せた。

 彼女と初めて出会った文久元年夏、そして元治元年四カ国砲撃講和直後の再会時に比べてその輝きが段違いに失われている事…。今、龍馬らが視線を合わせた理由はこれである。伊藤のみならず誰もが気付き、そして懸念している事であった。


 高杉の元へと一行を案内しながら、伊藤は思いを巡らせる。
 彼女の輝きを例えるなら、高杉などは不意に『今生かぐや姫』などと漏らした事があった。
 出会った当時のはつみは春桜の陽気を纏う男装の麗人という一点だけを取っても、どこか浮世めいた異常な異質さを放っていたが、決して大げさな比喩ではなく、実際伊藤の目から見ても彼女が異質であるというのは明確だったのだ。そしてその異質さが最も輝きを放ち周囲を惹き付ける瞬間があった。女性である彼女が時世を語るというのでお手並み拝見程度に耳を傾けたが、蓋を開けてみればとんでもない思想を抱いた人物だったのである。

 『世界が日本に航海と貿易の利を求め目を付けた今、日本は世界の一つである事を自ら認め世界を受け入れなければならない。しかしそれは決して異国に屈するという事ではなく、尊き血筋である天皇を頂きその元に花開いた文化や道徳精神、日本国が日本国たらしめんが為の伝統と精神全を以て、世界の一因となるという事。全ての子供や若者たちに対する教育を見直し、産業革命および殖産興業を促進して貿易を拡充させ、富国強兵し、世界の列強国、その他国々と対等に外交を行う強い国家に成らなければならない。現状世界列強との格差著しい日本が開国を拒否する事はほぼ不可能であり、対等かつ友好的な外交ができなければ世界から一方的に搾取され、孤立するだけの立場となるだろう。』
『攘夷とは夷狄を打ち払う事を指すが、真の攘夷とは日本を世界に認めさせ、世界の中で日本国を保つという事。不平等条約や治外法権をむやみに認めず、海外列強と同等の立場で渡り合っていくという事。その為に彼らと平等に外交する為の適切な能力と判断力を持つ政府であれば、その形は幕府である事に拘らない。朝廷だけでは政治がままならないと言うのであれば朝廷を擁した新勢力の存在でもいい。日本は世界からは逃れられない。世界と交流を続けた列強の発展は日本をはるかに上回っているという事を、まず知らなければならない。けれど、日本は『まだ世界を知らない』だけであり、日本国民の知能や民族性が世界の人々に劣るという訳では決してない。』

 ―…文久元年の当時、彼女はこの様な事を平然と言い切った。日本に住まう女性がここまで思想や時事を語る時点でもはや異質であったが、それに加えてまるで事象の地図でも見下ろすかの様に独特な語り口、だけども聞き手の心を掴む様な心地よい声で、彼女の言わんとする事が耳から脳へと響き渡ってゆく。女性である事は普段隠している様ではあったが、性別に捕らわれぬ抗いがたい魅力、そして才を惜しげもなく発揮する瞬間であった。
 そしてその思想は、当時で言えば横井小楠や亡き吉田松陰、そして高杉晋作といった面々がそれに似た思想を唱えていた、時世がまだ追い付く事のなかった最先端も最先端のものだった。当時は異国と戦う為に異国を知ろうとしたというだけで『開国論者』とのそしりを受け、迫害されるかの如き仕打ちを受ける事もしばしばであった中、この思想を真の意味で理解し継承せんと長州藩内で一人奮闘していた上海帰りの高杉が、彼女に強く強く同意し、そして惹き付けられるのも『一目惚れ』程に早いものであった。当時の桂や周布、久坂なども、松陰が残した思想を踏まえ世界の事情を把握しようとしつつも、幕府があまりにも朝廷をないがしろにする対応を続ける為に開国論には閉口しがちであった。故に『対幕府』を念頭に置いた思想・政策に走り、『攘夷』こそが帝の真の本意であると掲げて開国論著しい幕府要人や異人に敵意を持つ言動が繰り返す。それが、文久元年、2年の当時に土佐や長州、水戸らが中心となって巻き起こした『尊王攘夷』という大きな渦なのである。

 開国(富国強兵)論をかざすはつみや高杉が明確に『天誅』の対象とならなかったのは、『尊き血筋である天皇を頂き』『列強に屈しない日本を作る』とする点を主張し、幕府に傾倒する姿勢が見当たらなかった為であろう。はつみに至っては『諸外国と対等に外交を行う能力があれば幕府に固執する必要はない』『幕府以外の政権でも構わない』とする発言を平然としており、当時としては過激すぎるその発想・発言に誰もが度肝を抜いたものである。この時伊藤は『はつみ君は昨今尤も過激な尊王論者であり開国論者だね』と評し、桂や高杉辺りが深く頷いた所までを強烈なセンセーショナルを以て今でもはっきりと覚えている。
 後の英国極秘留学の際でも、彼女の言葉を思い出す程であった。

 咲き誇る春桜の如き華やかさ、その輝ける彼女を知っていれば知っている程、今の彼女を見て心配しない者はいないだろう。

 彼女がここ―戦場―へ来たのは死に場所を探しているからなのかもしれない…
 誰も口にはしなかったが、そんな事を懸念してしまう程に。


 そうこうする内に、一行は高杉がいる白石邸へと辿り着いた。


●三千世界の鴉を殺し…中編●





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