仮SS:漢気 坂本龍馬編


ある曇天の日。武市寓居の玄関から中庭へ続く小道辺りでバタバタと物音がしはじめた。

「(ようやく来たか…)」

 武市は手にしていた筆を置き、縁側へ出ようと立ち上がる。約束はしていないが、来客がありそうな気がして…否、かならず来ると思って、この数日間を過ごしていた。忙しくしているのだろうか、来るのが少し遅いとすら思えるくらいだった。


「なぜ人斬りをさせた!?半平太ぁ!」

「おいやめろ!無礼じゃぞ!!」

 騒がしくばたばたと走り回り、中庭から姿を現したのは、いつもの朗らかな雰囲気とは打って変わって激高した様子の坂本龍馬であった。縁側を飛び越え、草履も脱がぬ内に室内に上がり込むと、武市の胸倉を掴み罵倒する。咄嗟に柊が押し離そうと間に入るが、龍馬の力の前に柊はひどく非力で部屋の角へと吹き飛ばされてしまった。

「おんしは…はつみさんに罪人紛いな事をさせてでも、そのやり方が正しいち言うがか!」


やはり、先日の騒動をどこかから聞きつけたのだろう。龍馬は酷く取り乱していると見えるが、武市はあの日以来むしろこの時が来るのを待っていた。


だがたとえ武市相手だろうと引かない時は引かない、そして怯まないのが龍馬である。格別な計らいで上士となった武市に対し、周りの郷士達はますます武市を『持ち上げる』ばかりだった。しかし龍馬は変わらず武市の『幼なじみ』であり続けた。対等の視線で意見をぶつけ合うこともできた。そんな存在である龍馬が、武市には拠り所でもあったのである。

「…頭ごなしに言うな。おんしには俺の気持ちなどわかるまい」

「おぉわからん!わしには武市さんの考えゆう事がまったくわからん!じゃがそれももうどうでもいいき。はつみさんはわしが引き取る!」

またはつみを『奪う』という発言だ。だが、乾に言われた時は身構え心が拒絶するかの様な反応を見せたものであったが、今回こうやって現れた龍馬がそのような事を言ってくれるのはむしろ期待通りだと言わざるを得ない。


「―俺もそのつもりだった。はつみらぁを連れて行け、龍馬。」

「へっ!?」


龍馬の言わんとする事を逆手に取り、要点だけを返す武市。核心的な所であっさりと同意を得た龍馬は思わず言葉を無くし、そんな龍馬に武市はいつも通り厳しい顔つきで再度繰り返した。

「はつみと寅之進を預けると言うておる。あれと寅之進は勤王党員ではないき。帰藩命令もまだ出ておらん。二人まとめてお前が面倒を見てやれ。」

「え…ちょ…どういう事じゃ?はつみさんを手放すち言うかえ…?なぁ武市さん、わしはおんしがはつみさんの事を―」

「どうもこうも無い。ただ…はつみに人を斬らせたのは事実じゃ。そして、結果的にそうさせたのも俺自身である。…俺はただ、はつみにとって一番良いと思われる形をとって京を出ようと思うただけじゃ。」

「なっ…?!それは帰藩の事を言うちょるがか…?」


この状況の中で藩の命令どおり『帰藩』しようとする武市に、龍馬は再びその肩を掴み寄せて押し迫った。

「武市さん!おんしゃ本気で帰藩するつもりか?!なんでじゃ…これまで、はつみさんが危険も恐怖も省みずおんしの側におって忠告し続けたがは、こうなる事を避ける為やき!」

「わかっちゅう。」

「今土佐に帰ったら、間違いなく容堂の思うつぼじゃぞ! 武市さんは自分が置かれゆう状況をわかっちゅうがか!?」

「わかっちゅう。」

 にわかに苛立ちの色を浮かべるものの動じない武市に、龍馬はついに我慢の限界に達し、畳に拳をたたきつけた。

「わかっちゅうわかっちゅう言うて、全然わかっちょらん!!!ならば何故はつみさんを残してまで帰藩するんじゃ!?おんしゃ死ぬつもりか!?!?!?」

「……」


しばらくの沈黙が二人を包み込み、中庭からホトトギスの鳴き声がのんきに響き渡った。

そして一つ息をついた武市は、春の陽に眩しい中庭の花を見ながらすべて割り切ったかの様な…いや、自分に言い聞かせるかの様な口調で静かに言う。


「…俺を守ろうと剣を抜いたはつみを見て改めて思うた。今までは守ってやっているつもりで側に置いておいたが、守られていたのは俺の方だったのだと。…それも、ずいぶん前からな…」


身の事だけではない、思想や国内外の情勢、強いては容堂の動向についてはつみはいつでも忠告し、意見を述べていた。結局自分とは平行線を辿っていたが…時勢は彼女が言う通りのものとなっていった。

はつみの言う事に耳を貸し、過去に下した決断を回避していたなら…どうなっていたか?

…いや、そんな「もしも」を考えるのは今やるべき事ではない。武市にははつみも大切であったが、土佐にも守るべき者がいるしここまで共にやってきた勤王党の仲間を見捨てる訳にもいかない。そして何より、ここまでの行いを否定するという事は…己の理想の為に死んでいった者達、その手を血で汚した者達に、冥土でかける言葉すら失くす事になる。


人の命を奪ってまで進んだこの道を、降りる訳にはいかないのだ。


「俺は土佐は抜けられん。」


多くは語らなかったが、帰藩命令に従う武市の決意は変わらない。


黙ってその言葉を飲み込んだ龍馬はしばらくその場に座り込んだままであったが、やがて両膝をパンと思い切り叩くと勢いをつけて飛び上がった。立ち上がった龍馬は、いまだじっと中庭を見ているだけの武市に言う。


「…わかった。ほんなら、わしは『外から』なんとかするき。…きっとはつみさんも必死になって何か案を考えるはずじゃ。」


「ああ…そうしてくれ…」


 武市の言葉を受け取った龍馬は、しばらく伏見の寺田屋にいるからいつでも連れて来いと行って寓居を出て行こうとした。龍馬も納得はできていないのだろう、出て行く足音がドタドタと響き動きが粗雑になってしまっている。縁側を降り、草履を履いて出て行こうとする龍馬に武市がその背後から声をかけた。

振り返ると、立ち上がった武市が縁側まで出ており、
少し離れていながらもまっすぐに龍馬を見据えている。


「龍馬…俺に何かあったときは…はつみの事をたのんだぞ」


「…なんぜよ、急に改まって…」


少し前にも同じような事があった。今ほど深刻でもなかったが、縁起でもない事を冗談で言うほど、武市は器用な人間ではない。それにはつみの事でこんな風に誰に対してでも話す柄でもない。それらを分かっていながら、龍馬はあえて少し軽口を含んで返す。

「…わしにははつみさんはよう釣り合わん。武市さんでないといかんぜよ。」

「そんな事はない。…俺は、あやつには何もしてやれんかった…」


ここに来て切な気な自嘲の笑みを浮かべる彼に、龍馬は拳を握り締めて遠くから声を放った。


「…アホぉが……そがぁに言うくらいなら、一晩ででも抱いてやれ!」


「ばっ…な、何を言うがか!?こんな時に…!」


「早く行け!」と言い残して奥へと去ってしまった武市に、龍馬は背を向けた。


本当に…武市は理想が高い上その理想の為に頑固で…仕方のない男だ。

しかしそれ故に彼は多くの者から仰ぎ見られ、更に有言実行のその姿勢は身分さえも問わず多くの者から支持を集めまた期待をも寄せられた。そんな彼だからこそ、はつみが必死についていこうとしているのを黙ってみていたのに…。

その武市からはつみを頼むといわれ、誇らしくもあったが、逆に一人の男として悔しくもあった。




しかし今はそんな事を気にしている時ではない。

「絶対に…なんとかしちゃるき…」

武市に『何か』が起きなければ、それでいいのだ。それでいてもしも、この先はつみが自分に振り向いてくれる時が来たのなら、武市には何も文句は言わせない。

…今はそれでいいではないか。

そんな事を考えながら、猛烈な速さで走り去るのだった…。








※仮SS