仮SS:慕情と後悔の狭間で…前編・後編
R15



この日、はつみは寝付けないでいた。
手元にある火鉢に今晩だけで何本目かの炭をくべ、じわじわと燃える炭をじっと見下ろしている。


今日は色んな事がありすぎて…いや、色々と思っていた事が爆発した日であった為、その事を思い出していたらとてもじゃないがすんなりと眠りに就くことなどできなかったのだ。雨に打たれて帰ってきてからは、武市とは殆ど会話をしていない。
熱い風呂に入り、温かいご飯や汁物を頂き…そして武市には来客があったり作業があったりで部屋に入ってしまったきり。覚悟していた説教さえ結局なかった程だ。


「(…武市さん…今、何してるんだろう…)」

…無理にでも寝ようとすれば、武市のあの微笑みが思い浮かんでしまう。

正直夢ではないだろうかとさえ思える様な瞬間だった。
だが、夢ではない。
部屋の壁にかけられた濡れたままの襟巻きが、雨の中のはつみを暖かく包み込んでくれたという『現実』を証明している。



武市に対し、最初に恋心を抱き始めた瞬間から『叶わぬ恋』とわかっていた。彼はその誠実な性格を裏切らない『愛妻家』であり、妻・富との間に子供はいなかったが巷でも噂される程の鴛鴦夫婦。十代の娘が『運命的な恋』と称するにはあまりに辛く、追いかけるも浮かれるも自由に出来ない、忍耐を要されるだけの恋となった。

武市を追いかけて京まで来てからもその距離感を変える事はなかったが、この頃になると二人の事情も少し違うものになりつつあるというのは周囲だけでなく本人達でさえ『暗黙の了解』であった。
土佐にいる頃ははつみを避ける様な仕草さえ見せていた武市であったが、京まで来たはつみを受け入れるだけではなく同じ寓居内に住まわせ傍に置き、見守ってさえくれた。
しかしそれはあくまで『暗黙の了解』であり、自分達二人に関する色々な噂を聞く事もあったが結局噂は噂でしかなかったし、実際に何かあったかと言われれば決定的な事は何もないのだ。

…そうやって腫れ物に触る様にしてずっと触れてこなかったものに、今日はついに触れてしまった…いや、やっと触れられた様な気がしたのだ。

正直、今までにも『もしかしたら…』と思わせる様な事は幾度かあった。しかし厳しい制御下にあった恋心は素直にそれを受け入れたり考えたりする事は許されず、「何でもない」「気のせいだ」と否定し、自分の心が『期待』を抱かない様にするのに必死だった。

でも、今日の武市の様子は…。
誠実一辺倒でどちらかというと無骨な武士でもある彼が、何とも思っていない女性を相手にあんな表情をする事ができるだろうか…。自分が巻いていた襟巻きを優しく掛けてやり、多くの人が歩く往来で裾を摘ませるという巷の恋遊びで行う様な仕草を許すだろうか…。はつみ自身が恋愛経験の浅いうぶな女子だから、こんな解釈をしてしまうのだろうか…。


『どげんしてもと言うなら、おはんが身体を張ってでん土佐から連れ出せ!』


新兵衛の言葉が、更にはつみの背中を押し出そうとする。

新兵衛がはつみに何を期待してこう言ったのかは分からないが、はつみは『武市と本音で話すこと』が、この先の何かに繋がるのではないか…そう考える様になっていく。


しとしとしと…

雨が降る音を聞きながら、どれほど考え込んだだろう。



はつみはゆっくりと立ち上がると、まだ雨が降り付ける夜闇の縁側へと静かに移動するのだった。








寓居に住まう者は家人も下人も含め、殆どが寝静まっている様な時間。肌着に羽織姿で歩を進めたはつみは、そんな真夜中でもまだ灯りを付けて作業をしている武市の部屋の前で立ち止まる。

「(…武市さん、まだ起きてるんだ…)」

雨降りの夜風は刺すように鋭く冷たい。しかし身体が震えるのは、寒いからというだけではなかった。ドキッドキッドキッと早鐘の様に鼓動を打ち鳴らす胸を両手で押さえつけ、震える吐息で深呼吸をする。

思い切って武市の枕元に行き、直接話をしようと考えていたがそうも行かない様だ。本人が起きているのなら、最悪部屋に入る前に追い出される事もあり得る。


丁度今から一年ほど前だっただろうか。吉村や中岡らによる「子なきは去る」事件を思い出す。あの時の様に「自分には正妻がいるから」と追い返されるだろうか…。または、肌着に羽織という安易な格好で夜這いに来たはつみを見るなり呆れ果てるか、説教を始めるかも知れない。

それでも…と意を決して、室内の光が滲む障子に触れる。


「…誰かおるのか」

「…っ!」


 コト…と、筆を置く様な音と共に武市の声が静かに低く響く。心臓がドキンッと跳ね上がり、はつみは名を名乗るどころか指を掛けかけた障子から弾かれる様にして一歩距離を取ってしまった。只でさえ複雑な心境の心が極度の緊張に折れてしまいそうだ。やっぱり引き返してしまおうかどうかと迷っている内に武市が立ち上がり、不審に思ったのかこちらに近付いてくるのを感じる。

「…誰ぞおるがじゃろう。」

「………あっ…あの……」

「………はつみか…?」

低く警戒をする様な声色だったが、はつみが漏らした声を聞くなりすぐにその警戒は解かれた様であった。ビクビクと震えているはつみに代わり、武市自らが障子を開ける。

「あ………」

「…なっ……?」

女性の肌着姿など、妻以外で見たこともない。流石の武市も思わず露骨に視線を逸らし、言葉を見失ってしまった。

「あのっ…わたしっ…」

武市から説教を食らう前に今にもその場から逃げ出してしまいそうであったが、先ほど心に決めた意思が最後の歯止めとなり、なんとかその場に踏みとどまる。しかしそれが精一杯で、自分が何をしに来たかなど言い出せる訳もなかった。


武市は視線を横へ逸らしたままロクにはつみを見ようとしなかったが、込み上げた感情をゆっくりと冷ますかの様に、一つ長い息を吐く。そして気を改めた様子で姿勢を正すと、自分が着ていた羽織をそっとそのか細い身体にかけてやり、

「入りなさい…」

そう言って、はつみが入り易い様にと更に障子を押し開けたのだった。





文を書いていたらしく、部屋の中には墨の香りが漂っていた。手元に小さな灯りがあるぐらいで、間に人が二人ほど座れる程度の距離を開けて向き合った相手の顔がチラホラと闇に見え隠れする程度である。部屋の奥の方には武市が使用している布団が敷かれていて、それが不意に視界に入ってしまったはつみは露骨に顔を背ける様にして視線を逸らしていた。

「……まずは…俺の言いたい事は分かっておるな。」

武市は火鉢をはつみの傍へと押しやりながら問う。

「はい…突然、こんな夜更けにこんな格好で…すみません…」

「まったく……」

やはり、開口一番で出てきたのは説教であった。しかしいつも龍馬達を叱っていた時の様な懇々とした説教はなく、あえて『はつみが全て重々承知でここへ来た』事を理解し尊重してくれた様でもあった。
溜息をつく場面も見られたが、

「…おんしにはいつも驚かされる…」

と、珍しくもそんな自嘲する表情を見せてくれるのである。


ほんの時折だけ武市が見せてくれるこの表情は、本人にその気はなくてもいつもはつみを惑わせた。今も、緊張で高鳴るばかりだった左胸が締め付けられる。ついさっき、自身の羽織を掛けてくれた時点ですでにはつみは顔を赤くする程胸の動機が収まらないというのに…。


それを分かってか分からないでか、武市は珍しく更に言葉を続けた。

「あれを思い出すのう。…丁度去年の今頃じゃったか。」

「…もしかして、吉村さんや中岡さん達の…?」

「ああ。」

はつみもつい先ほど思い出していた一年前の事件を、武市も懐かしそうに思い出している様だ。…あの時ははつみも『巻き込まれた』という立場でありながらもそれなりの覚悟をして武市に語りかけようとしたが、武市は妻を連れ戻すことを最優先とし、はつみには『帰りなさい』と告げた。
…正直、はつみには辛い思い出でもある。

「…でも、今日は『私の意思』でここに来ました。」

「…そうか…そうだな…」

武市はまた自嘲するかの様な笑みを見せ、表情を隠す様に少し俯く。


至誠の人である武市が自分を弄んでいるとは到底思えない。しかし夕方のあの視線・微笑みといい、普段は滅多に見せる事のない自嘲の笑みといい…。

何か、彼の中で変化があったのだろうか。

普段は不動の武市もこんなはつみの『夜這い』には心が揺れている様でもあった。それとも、もともと何か話たい事が武市にもあったのか…訪ねてきたはつみを見るなり追い返さず、あまつさえ部屋に入れたのは普段の彼の姿勢からは想像しづらい事でもある。


そんな風に思わず勘ぐってしまうはつみの心境を察したのか、武市はフと気が付いた様に再びいつもの表情に戻った。

「…」

「……」

緊張感が漂うものの、張り詰めたり重たい雰囲気ではない。しかし随分長く感じる程に、無言の間が続いてしまう。

「…新兵衛も言うておったな。…はつみの気が冴えないと。」

武市が、沈黙を破った。

「え?」

「…俺もそう思う。」

言葉を失い思考が停止したり盲目したりして、以前の様に『他人事か』とでも言わんばかりの大極を語らなくなった…と。新兵衛からも『お前はそんなに弱い娘だったか?』と言われたが、それと同じ様に武市も言うのだろうか。
そして更に武市は続ける。

「…俺を案じておるのだな。」

「…」

「じゃが俺の事よりも自分の事を考えろ。」

武市の言葉が少し強く感じたのは、それだけ彼もまたはつみの身を案じてくれているからなのだろう。はつみはそんな武市に対し、今まで以上に親身になって言葉を返す。

「…でも、もう弾圧の手がそこまで来ているんです… 武市さん、今からでも『未来』は変えられます…お願いです、私の話を聞いて下さい…」


まるで『定め』を知っているかの様な物言いに、武市はフ…と小さく息を付く。かつて物事の吉凶を見定めていた陰陽師でもあるまいし…いや例え陰陽師の様な能力があったとしても、人に『先の世』が分かるわけはない。そんな事は確認せずとも分かり得ている事であったが、それでもはつみを見れば「そうなのかも知れないな」と不思議に思える気持ちもあった。
しかし、やはり武市は首を横に振るう。

「一度土佐を離れて、機会を伺いましょう?」

「脱藩はせぬと、何度も言うたであろう。…土佐には守らねばならぬものが多くあるのだ。…わかってくれ。」

そう。脱藩は今までにも何度か進めたが、その都度武市の返答はこの様に一刀両断とも言える潔いものであった。脱藩をすれば、一藩勤王のもと尊王攘夷を訴えるという武市の思想だけでなく土佐勤王党の同胞、親戚、姉弟、そして妻・富に厳しい処罰を課す事となってしまう。
特に、一人で家を守っている妻・富を案ずる気持ちは当然武市の中でも大きいものだろう。

…はつみはこの答えを聞く度に『嫉妬』という感情を否定できずにいたが、これまでは冷静さを欠く事なく話し合いを続けてきた。

しかし、今夜は違う…。

本心を打ち明け『身体を張って』話する為に、押しかけてきたのだ。



「…絵画をする様に…ありのままを見据える事はできないのですか…」

震える声で述べるはつみに、武市は無言で視線を寄せる。

「『何かを成す為には何かを捨てなければならない時がある。』それは武市さんが一番悩んで出した答えだったじゃないですか…!」

そう、武市は一藩勤王の尊皇攘夷を唱える為に、暗に人を斬った…。
東洋を斬った時、『大義』のもとに得たものがあった一方で、容堂の信頼を失っただけでなく、剣士として、そして人としても何かを捨てたのだ。

人を屠る事で確かに勢いを付けることは出来た。
しかし、それが本当に正しかったのかどうか…誰にも悟らせない様努めていたはずの心を、何故かはつみは知っている…。


「武市さん。その思いを私にも背負わせてください。大切な人を…大好きな人達を傷つけてでも、私にはその道を選ぶ覚悟があるのだとあなたに証明してみせます!!!一人では押しつぶされそうな後悔や罪悪感でも、二人でならきっと乗り越えられるでしょう…?」


はつみにとれば命の恩人でもある坂本家との絆の事を言っているのだろうとは、武市も安易に想像がついた。彼らを捨ててでも、自分に付いてきてくれると言う……。…だが彼女にそんな事をさせてはならない。
直ちにそう思う武市ではあったが、京へ来たはつみを受け入れたその日からどうも自分の意思が揺らぐ瞬間が多くあるのも事実で。


『二人でなら…』


そんなはつみの言葉に、夢を見てしまいそうな自分がいた。
情けなくも、その夢を見る一瞬はつい笑みがこぼれてしまいそうになるほど「幸せなもの」だと思えた。

武市の頑なで凍てついたかの様な心を春のひだまりが溶かすかの様に、熱が浸透してゆくのがわかる。
溶けて柔らかくなったそこが、ドキンと鼓動を打ち鳴らす感覚。

はつみと出逢って、武市はこの感覚を初めて知った、とても心地よく、幸福とも歓喜とも言える暖かな感情。
はつみが色んな表情を見せる度にそのひだまりは武市の胸に宿り、彼に自然な微笑みや慈しみ、そして恋しく想う心を湧き起こさせる。

今日の夕方も、そして今も…
はつみが感情を包み隠さずぶつけてくる仕草、言葉は確実に武市の心に届き、揺さぶっていた。



「…だめだ…」


なんとか取り戻した普段の表情には戸惑いの色が見え隠れし、土佐で家を守ってくれている正妻の顔を思い浮かべては頭を振りつけ耳元で囁き続ける『誘惑』を振り払おうとする。しかしはつみの真っ直ぐな言葉と感情は更に武市を引き込もうとした。

「今を乗り切って、未来を見据えて下さい、武市さん…!生きていなきゃ何も成し得ないんです。土佐勤王党の仲間だって、お富さんだって、あなたが生きていればこそと思っているはずです!」

「だめだ…」

「また土佐に返り咲ける日まで一緒に頑張ろう?絶対に、何をしてでも私が武市さんを支えてみせるから…!」

「やめなさい、はつみ…この話はもう…」

はつみの言葉を受け、武市の中で人々の顔が浮かんでは消えていく。

吉田東洋、本間精一郎、岡田以蔵、土佐勤王党の仲間達、龍馬、土佐の仲間…


そして容堂、富…はつみ…


割り切っていたはずの気持ちや、押し込めていた想いが溢れてくる。


「胸を張って土佐へ…お富さんの元へ帰れる様…それまで私が必ずあなたを守るから…」

「-やめろっ!」

制御できない程溢れ出る想いの洪水に耐えかね、感情的になってバンッ!と畳を叩き、声を荒げてしまう。

ビクッと反応を示すはつみだったが、驚くのと同時に視線を奪われる。

武市の頬を、一筋の涙がこぼれ落ちていくのが見えた。


武市自身も驚いたのだろう。すぐに目元を拭っている様であったが、こんなにも感情的になった事に自分でも心底驚いている様で文字通り言葉を失っているかの様だった。

ほんの一時の間を置き、消え入りそうな声で「すまぬ…」と一言述べたが、それとほぼ同時に自分の視界が回転するのを感じる。


「…っ!?」


正面から身を委ねてきたはつみがそのまま武市の首もとに抱きつき、柔らかな衝動を以て押し倒していた。



背中に畳の感覚を感じ、身体にはつみの体重とぬくもりを感じた。肌着と肌着での密着は安易に体格の違いを感じさせ、首筋にははつみの柔らかな髪がさわさわとくすぐる様に絡みついてくる。

「はつみ…っ」

「…私はどんな時でも武市さんの味方だよ…一人で全部背負い込もうとしないで…私にも話して…」

「……っ」


-言えるわけがない


はつみの身体を支えようと浮かしかけた手を握りしめ、クッと唇を噛みしめた。


そんな事、言えるわけがない…
土佐勤王党の盟主として、土佐の一藩勤王を先駆けた者として成さねばならない事がある。正妻富の夫として、貞操を守る義務がある…

はつみへの想い故に己が使命から道を反れてしまいそうだから、ずっと見守っているだけだったのだ…。
それを今更…
使命から逃れるだけでなく、はつみを今以上に危険な道へと引きずり込む事になってしまう。



不動とも言える武市の鼓動が火を付けられたかの様にドッドッドッと早鐘を打ち鳴らす。

その熱と鼓動ははつみの胸にも響いていた。

…自分の咄嗟の行動に驚きつつも、頭のどこかではとても落ち着いている自分が居るのも感じている。はつみはそっと頭を持ち上げると、間近に武市の顔を見下ろした。

彼は怒っているだろうか…
そう思ったが、自分を見上げる武市の表情は今までに見た事も無い様な、辛く切なそうで、そして戸惑いの色を色濃く浮かばせていた。吸い寄せられる様に視線が合い、何か言いた気に揺れている。

「………」

「………」

薄闇の中、間近で見つめ合ったまま沈黙が続く。
武市の手ははつみに触れる事なく握りしめられたまま。
はつみの胸は武市の身体を押さえつけつつも、その熱く伝わる鼓動を感じ続けている。

自分を受け入れている訳ではない、でも拒絶するのを躊躇う…

そんな狭間で揺れている武市に、はつみは少し悲し気にも微笑んで見せた。

「…武市さん…」

「……っ…」

そっと瞳を閉じ、武市へと落ちるはつみの影が濃くなる。
その前髪がふわりと額を撫で、吐息が間近にかかるのを感じた刹那、
柔らかく暖かなものが武市の唇に触れた。





重なり合った唇の端から、熱い吐息がにわかに漏れる。
溢れ出そうになる衝動を理性で押し殺すかの様な、震える吐息。

ここまで「本音」をさらけ出しても動かせない武市の心を感じ、はつみは更にクッと顎をあげて口付けを交わしながらもその瞳に涙を浮かべた。

そっと口元から離れると同時に、その涙が武市の頬の上へ落ちる。

再び視線が合うと、それまでただ震えて握りしめられるばかりだった武市の手が、そっとはつみの両肩へと添えられた。熱く、無骨で、大きな手。少し震えて、はつみの細い肩にそっと添えられるだけだった。

そのまま抱き締めて欲しい…

願うかの様に、そのまま武市への柔らかな口づけを続ける。武市の手は何度も力を入れかけては戻りと迷いを見せていたが…やがてそのまま、はつみの身体を押し上げ、壊れ物を扱うかの様に優しく丁寧に座らせてやるのだった。

体勢を起こされる事によって唇は自然と離れ、はつみは顔を上げずそのまま俯きぽろぽろと涙をこぼし続けていた。

「……」

そんなはつみを見て武市は今も尚心が揺れ動き、今にもその身体を再び引き寄せてしまいそうではあったが…視線を逸らし、ぐっと気持ちを抑え込む。


…これ以上引きずり込んではいけない…

はつみには、その知識と才能で開けるはずの、もっと相応しい「道」がある…



ただ、その一心で。




「…泣かれると辛い……」

 静かに低く放たれた言葉に、はつみは直ぐに応じた。

「…じゃあ、泣かさないで下さい…全部武市さんが悪いんだからっ…!」

ぐすっと鼻をすすり憎まれ口の様な口調ながらも、彼女からの返答が返ってきただけ少しばかり心がほっとするのを感じる武市。


「………土佐へは来るな。」

「そんな事、聞くわけないじゃないですか…私はどんな事でもする…その為に「ここ」にいるんです…」


例え今回が駄目で武市が帰藩する事になったとしても、共に土佐まで付いていく覚悟も勿論出来ていた。土佐で何ができるか、残された時間は少ないだろうが今からでも模索する意義は十分にあるだろう。

だが、武市は首を横に振った。


「…帰りなさい。」

「………」



あの日と同じだ…

あの日も、「帰りなさい」といって視線を逸らした…。




結局変わらない。


変えられないのだ。



彼の運命を…自分の全部をなげうっても……!





「…っ!」

はつみは涙を拭うことなく駆け出し、乱暴気味に障子を開け放つとバタバタと音を立てて縁側の向こうへと駆け出していってしまった。当然、追いかけたくても追いかけ分ける訳にはいかない…

はつみの全身全霊を込めた想いを、はねのけてしまったのだから…。

どんなに彼女を想っての事だといっても、自分にはもう…いや、初めからはつみを追いかける資格などなかったのだ。




「…いるのか…」

「………は、はい………」


誰に言うでもなく問いかけた武市の声に、はつみが空け放った障子の向こうから返事が返ってきた。灯りを手にし、酷く沈んだ表情で現れたのは寅之進だった。

「も、申し訳ありません……声が聞こえたので…何事かと…」

彼にとって目撃してしまったのは不可抗力だったのだろう。立ち聞きをしていたのは彼の意思だが、しかし武市はそんな寅之進を咎める気などなく、むしろそこにいてくれた事に心が安堵した。


「…はつみを見てやってくれ。」

「…え、でも………」

「…おんしには難儀をかける…」

「武市先生…」


はつみだけでなく、自分だけでもなく、武市も傷ついていると…自分の様な若輩者に頭を下げる武市を見てそう思う。武市は自分に「はつみの傍にいてやってくれ」と、江戸まで連れて行ってくれた。京に入った直後も、そして今も…


深々と礼をして駆け出す寅之進であったが、武市がなぜそこまで頑なにはつみを受け入れないのかまでは分からなかった。富の事があるにせよ、一藩勤王という思想があるにせよ、なぜあそこまではつみを拒絶するのだろう。


二人が出逢うのが遅すぎたのか…

相手を気遣うあまり、二人の距離が縮まるのが遅すぎたのか…





部屋の灯りを消し、闇夜に沈む武市、

複雑な想いを胸にはつみを追う寅之進、

雨の中ずぶ濡れになって泣きじゃくるはつみ…


慕情と後悔の狭間で、皆が同じ様に考え、涙に雨に濡れる夜であった







※仮SS