仮SS:寵愛


 本間精一郎が辻切に遭ったという報が流れてから暫くの間、土佐勤王党の内部でははつみに対する議論が前にも増して繰り返し行われていた。議論というよりも、あちこちで疑惑が噴出しては『あの間者を放っておいてよいのか』と武市に談判する者が続出しているという状況だ。

 あの事件の後、はつみと以蔵は現場に居合せた参照人として何度か奉行所に任意出頭している。勤王党員が騒いでいるのはまさにそのせいだった。本間を襲った犯人と言うのは当然、勤王党員からすれば暗黙の了解でありそこに触れる様な会話や噂は一切行わない。だが、何も知らないはずのはつみが『辻切り』の現場に駆け付けていたというのだから、それは色んな意味で格好の話題とも言えた。はつみを辻切の犯人と見立てる事を言う者もいれば、はつみは武市によって『保護』されている立場であるにも拘らず深夜に本間と逢瀬をし、誑かしている様な女であると言う者もいる。中にははつみが女である事を未だに知らず『これだから器量良しな女男の男色はタチが悪い』などと、あらぬ疑いを立てて非難する者まで現れていた。
 要するに、『相変わらず』真実など見極める事なく、ただ自分達のいい様に思うがままに好きな事を好きなだけ言っているという状態だ。

 そしてはつみが奉行所に出頭する時、その際には柊も『護衛の一人』として彼女に付いていた。奉行所内においてはつみらがどういう状態にあり、そしてその証言によって奉行所にどのような動きや気配があるかを鋭く読み解く『監視』を行う為だ。この『護衛と監視』役には他に田中新兵衛も担っていたのだが、今回新兵衛は訳あって、これに同行していない。奉行所に近付く事は控えているという状況だ。なぜそうしているのかという理由は、勤王党員が真の殺人犯へ『配慮』をしているのを考えれば、同じ勤王党員である新兵衛に対しての真実もおのずと想像がつく事である。


 更にもう一人。武市の一声によって普段とは違う任務を申し付けられている者がいた。池田寅之進だ。元々武市の周りには、直接彼の身の世話をする小姓のようなものはまだ付いていなかった。そろそろそれに見合った者を付けるべきであると周囲が騒ぎ、武市はまったくその気はない様であったがそうやって周囲が無駄に騒ぐのであれば『池田寅之進であれば受け入れる』と、武市本人が指名したのだ。
土佐においては、かの坂本龍馬などを始め多くの者から『小武市』などと言われる、誠実で真面目な青年だ。しかしこれまた『裏切り者』とまではいかないとしても、はつみに傾倒した者が何故再び武市に取り立てられるのかと、一部が騒ぐ事になってしまう。

「こまい事は気にするな。俺はおんしを評価しておる。…堂々としちょれ。」

「は、はい…!勿体ないお言葉です…!」

 ただ、はつみを庇護する立場であるとはいえはつみ本人とは距離を取っている武市が、このような状況でいつも以上に注目を浴びているはつみと近い関係にある自分をあえて起用する事自体に、何かしら意味があるのではと寅之進は考えていた。この様な状態にあっては当然、普段は気丈に振舞うはつみ本人も改めて周囲から何を言われているのか不安に思っているだろうし、或いは、また襲撃される事があるのではないかといった心配もしているだろう。しかしはつみが自らそれらを聞いたり、ましてや勤王党内部の動きを詮索する様な事はできない。
 そこで、はつみとの繋がりが強い寅之進を自らの側に置く事によって、内部状況を共有してくれているのではないかと…。柊がはつみに対して行っている『監視』を、武市は進んで、寅之進に『自分への監視』をさせているのではないかと感じてならないのだ。



 とある日。奉行所におけるはつみへの取調べは、柊達にとっては安堵すべきとも言える着地で収まりそうだった。第一発見者であるはつみや以蔵に聴取が行われるのは当然の事であったが、奉行所側の態度が初手からして軟化しているのは、死に際の本間の言動を間近に見ていた夜回り組による誠実な報告があったからである。本間の死に際の証言と聞き届けた夜回り組の偽りない報告によって、はつみや以蔵は守られていた。当然はつみの身の回りにおいて、最近不穏な噂の多い土佐一味と関連性が強い事なども調べ上げられていたが、実際には宿先も別で基本的には行動を共にしておらず、何より『不穏な噂』に関わる土佐内の内情についてほぼ把握できていない事が、少なくとも疑いの目を向けられるいわれのない証拠として作用した様だ。
 …頑なにはつみと会おうとしないが、細かに面倒を見てくれていた武市の配慮が功を成したと言うべきであろう。その事は、はつみ自身も身に染みて感じていた。

 はつみが取調べから解放されると、先に解放されていた以蔵と共に柊がやってきて、不躾な様子でツカツカと距離を詰めてくる。そして何を聞かれたのか、何を話したのか、今後はどうなるのかと『毎回』尋ねてくる柊に対し、はつみは珍しくも露骨に不機嫌な様子で返す。

「特に問題ありません。本間さんとは江戸で知り合った仲で、あの日は本間さんに『人との話し方』について忠告する為に、彼がいると言っていた四条の町を探して歩いていた。そうしたら辻切の呼び笛が聞こえて、近くで騒ぎ声が聞こえてから駆け付けたら、血を流した本間さんがいた。…その報告を以て収拾がつく流れになりました。………何度も言わせないで。こんな時でも自分達の事ばっかりなんだね」

 そう吐き捨てる様に言って、柊とすれ違うはつみ。ここで役人から聞かれる事など、本間の遭難に関する以外に何があろうか。歴史上では本間を暗殺したのみならずその首を四条河原に梟首したのは土佐勤王党の一味によるものとされている。その土佐勤王党員でもある柊がここまで気にかけている理由はもちろん、『真犯人である土佐勤王党に容疑は向けられる様な事態になっていないか』を見定める為であろう事をはつみは当然分かっているが、だとしても、人の死に様についてこうも不躾に聞かれるのは非常に不快であり耐え難い。
はつみの辛辣な一言で心を刺された柊はいかにも不機嫌極まりない様子で彼女を追いかけていくが、暫くは黙々と歩き続け、やがてはつみの宿に到着するや否やくるりと振り返ってきた彼女とぶつかりそうになる。慌てて一歩下がったところで、目の前のはつみが真っすぐに、しかしどこか軽蔑するかの様な冷ややかな視線を投げかけながら一方的に話しかけてくる。

「―それから、奉行所への取り調べ協力は今回で終わりだそうです。柊くんも、『お勤め』ご苦労様でした」

 そう言って柊を置き去りにし、宿へと入ると、そのまま自分の部屋へ直行して閉じこもってしまうのだった。
 言い返したい事は沢山あるものの、暗黙の制約もあって全てを話す事が出来なかった。『言い訳』がしたかった訳ではないと自分に言い聞かせるが、はつみから言われた『自分達の事ばっかりなんだね』という言葉が、杭のように心に突き刺さっていた。




 一方、土佐藩邸。病から復帰し、『他藩応接役』としての活動を精力的にこなす武市。毎日来る人訪ねる人ありといった忙しい日々を過ごし、合間を縫っては密事的な会合まで多数こなしていた。自分に付かせている寅之進はどの会合であっても同席させ、はつみの事は一言も発言せずとも、その背中には『こちらの様子はありのままをはつみに伝えてやれ』『采配は任せる』と言わんばかりの堂々としたものであった。

 しかしその日、何やら大荷物を持たされて移動をしたと思ったら、来客や会合が極めて多い武市は土佐藩邸を出る事にし、木屋町通り三条にある四国屋丹虎を寓居とする事となった事を聞く。その名声と影響力は、藩邸内での対応では回しきれず、京に寓居を構えられる程に高みへと辿り着いていたのである。

 武市が寓居に入ったその日、本間精一郎の件ではつみと奉行所へ出向いていた柊が報告の為にと姿を現した。武市が藩邸から出る事はすでに聞いていた様だが実際にここを訪れたのは初めての様で、中庭への抜けた空間といい広々とした屋内を見て『武市先生に相応しい』などと口にしている。そんな柊の感想はほどほどに、武市は続々と寄せられる大量の書簡に目を通し仕分けをしながら引き続きの報告を促した。武市の作業を補佐している寅之進へと視線をやった柊であったが、何事もなかったかの様に視線を戻し、促されるがまま報告を続ける。


「桜川と岡田さんに対する聞き取りは本日で終了の運びとなりました。主な取調べ内容は、終始において、第一発見者としての本間殿との関係や周囲の状況、桜川殿ご自身の行動について尋ねられたとの事です。『その他の事柄』については、事件の前後で怪しい人物などは見なかったかなど聞かれた様ですが特に心当たりはないとの事で、何事もなく終わった様です。」
 土佐攘夷派と言われる自分達が、ここ数か月における天誅騒ぎにおいて暗に噂されている事は武市も聞き及んでいる。柊が寅之進の存在を気にしてやんわりぼかしている報告の後半部分は、具体的には『土佐勤王党に関わる様な情報の有無』についての事であり、武市と柊の間では暗黙の内に話が通じていた。
 『恙なく』事が過ぎた事を報告した柊は、今も尚寅之進がいるが為に核心に至る話題を切り出せず不便に思う事を煩わしく思い、『お言葉ですが武市先生』と言って切り込んでいく。

「そこの寅之進殿はいつまで武市先生のお側に仕えさせるおつもりでしょうか?」

 尋ねられた武市本人だけでなく、思わぬ場面で急に名を出された寅之進もハッとして顔を上げ柊をみやる。柊は再度寅之進へと視線を投げかけていた為にしっかりと視線がかちあったのだが、どう前向きに考えても柊の視線は友好的なものではない。言わずもがな『早く出ていけ』と言わんばかりの雰囲気であったが、それに気付いてか気付かないでか、武市は再び書簡の仕分けを始めながら答え始める。

「その事じゃが…奉行所の件が落ち着いたのであれば、寅之進ははつみの元へ戻す」

「!!!左様ですか…!」

 あからさまに寅之進が『排除』される事を望んでいたとでも言わんばかりに眉をあげ、明るい表情を見せる柊。わざわざ寅之進へも視線を投げかけ、まるで勝ち誇ったかの様な表情で鼻を鳴らしていたのだが、続く武市の言葉に正反対真逆の表情を浮かべる事になってしまう。

「その代わり、はつみをこの寓居で直接保護するつもりじゃ。」

「「えっ!?」」

 反応する声が重なったのは、柊のみならず寅之進までもが、この武市の提案に驚き耳を疑ったからであった。普段であれば声が重なっただけで不機嫌そうに睨み返してきそうな柊であったが、この時ばかりは困惑と驚愕が入り交じった表情のまま、視線を武市へ釘付けにしている。

「よって寅之進、それから以蔵とおんしもこの寓居に入るがええ。」

「そ、それは勿論、仰せの通りに致します。ですが何故桜川を…?」

 武市の言う事には基本的に『御意』の柊が、この時ばかりは食って掛かる勢いでその是非を問うている。平常時であれば、この武市の言葉を心から光栄に思い、有難がって受け入れていた事だろう。そうあってほしかったと強く思う。しかし柊にとってもっとも忌々しく苛立たしい存在であるはつみ、寅之進、以蔵の3名全員が同様に武市の側にいる事を許されるのみならず、同じ屋根の下で同じ釜の飯を食う事になるとは…一体何の悪夢かとも思っていた。
 そもそも、側女にと差し出した女子を全員手つかずで帰らせる様な清廉な武士である武市が『女を招き入れる』という事自体、明らかに一線を画しているのだ。嫡男を産ませる為に差し出した女子たちの事はどうでも良かったが、その特別扱いの対象である桜川はつみには強烈な妬みを覚えてならない。

「あやつを妾になさるのですか?」

「…その話は今後一切するなと言うたはずじゃろう。忘れたか」

 思わず口にしてしまった柊の言葉に、普段感情を波立たせない武市の声にわずかな鋭さが込められる。直接投げかけられた柊はもちろん、隣で目を白黒させて話の展開を見守る寅之進を貫通して部屋中の空気がピリつく雰囲気を放っていた。興奮冷めやらずも慌てて閉口する柊にそれ以上の追い打ちをかける事はなかったが、武市も一旦閉口すると次に放つ言葉を考え始めてしまう。

 寅之進は先ほど武市が放った鋭い一言が気になっていた。『今後ははつみを妾だのとする発言はしない事』。武市が柊とそのように口約束を交わしたのであれば、恐らく年の始めに起こった『子無きは去れ』事件の顛末について、彼らの間で内々に語られたことだったのだろう。あの事件ではつみが一人の女性としての尊厳を著しく傷つけられた事は寅之進も知っていたが、直接武市の下へと怒鳴り込みにいった龍馬から聞いた話にはそのような事は触れられていなかった。武市は武市で、やはり色んな意味ではつみの事を守ろうとしている。…はつみの事を見守っているのだと感じたのだ。

「では…何故…」

「…何故か分からぬのであれば、はつみと話をせよ。さすれば分かり合える事もあろうと、再三言うたであろう。」

 どうしても煮え切らない柊の絞り出す様な声に、武市は静かに言葉を返す。だがその目には揺ぎない意思の光が宿っていた。


 はつみに関して、以前から開国論者である事を始め、井口村永福寺事件での郷士との対立や、吉田東洋、本間精一郎といった勤王党とは相容れぬ形で逝った者達と交流があった為に良くない注目を集めていたのは事実である。

 しかし彼女と話せば、その思想の根底には、天皇を中心とした日本が世界と対等であるべきという確固たる信念があることがわかる。昨今では『国情の事実』を理解することなく直情的に『夷狄打ち払うべし!』『奸賊斬るべし!』と刀を振り上げる者の方が圧倒的に多く、生きづらい世に行き過ぎたお祭り騒ぎの要領で過激な打ち壊しや略奪などに走る一揆と同じ様な感覚で『草莽の志士』気取りとなっている輩も多くいる。とはいえその圧倒的な勢いが今の『尊王攘夷』旋風を巻き起こしているとも言えるが、実際、幕府と朝廷の在り様を揺るがせた『開国騒動』から『将軍継嗣問題』に絡み、安政の大獄へと続く一連の事件を発端とする『尊王攘夷』の根幹を真に理解できている者は意外と一握りである。

 例えば、米国のマシュー提督率いる艦隊が現れ開国を迫ってからの幕府の対応は、世界に対してあまりにも無知で無能をひけらかすものであり、特に外圧に怯んだ結果事もあろうか無勅許で条約を結んだことは、厳しく糾弾されるべき行為だった。とはいえ、寛大な帝は始めの『和親条約』の際に外国の圧力に対処せざるを得なかった幕府を労い、その無勅許さえもお許しになったのである。始めの黒船来航時、幕府の弱腰外交による失態が日本中で大炎上するという事態に陥らずに済んでいたのは、寛容なる帝の御心遣いがあったからこそだったのだ。しかし、数年後にまたも幕府による事後報告での無勅許で締結された『通商修好条約』に際した帝は、この条約では日本の資源が搾取され、この神国や民が外国人によって蹂躙され淘汰される危機を感じるとし、非常に強い懸念を示された。加えてこの頃には将軍継嗣問題も絡み、もとより外交面において後手後手であった幕府内外では極めて複雑で様々な思惑が渦巻く事態となってしまう。結果として、全ての問題をいっしょくたにし幕府の意向に沿わぬ者すべてを屠らんとする勢いで開始された『安政の大獄』と言われる大弾圧が世を震撼させ、極めつけには、弾圧の主導者であった幕府の大老が江戸城外桜田門にて暗殺されるという前代未聞の時変まで起こり、時世の流れがさらに混迷を深めたのは記憶に新しい。

 武市がこれらの事を鮮明に理解する事ができ、西国や長崎においてその裏付けとなる事実確認をする事によって確固たる理解を深めるに至ったのは、驚くほどの広い視野と俯瞰的な思考でこれらの事を理解していたはつみから聞き及んでいたからに他ならない。殊更、外様藩である土佐藩、それも下層階級の武士農民という立場にあっては上方から情報が流れてくる頻度は少なく、その上信憑性に不安がありながらもそれにすがるしかできない状況で受け取る事ばかりであった。その為、妙に論理的で具体的である為に信憑性すらも感じさせる彼女の話は、非常に興味深く引き込まれるものだった。

 そして彼女が土佐の郷士達から『開国論者』『異国被れ』などと言われる最もたる原因となっている『英国の言葉を学ぶその理由』についても、時世に対する高度な理解があればこそ理解されるものだった。これもはつみの話を聞いた上で武市が理解した事の一つであるが、まず、世界に存在するのは幕府が内々かつ独占的に交流してきた蘭国や隣国清だけではなく、世界の海を制覇した英国や思想に富んだ仏国、英国から自由を以て独立を果たした米国などといった遥かなる先進国が数多く存在するという事。そして彼らが実際に日本へやってきた事で時世は開国の動乱を迎える事となったが、日本人が西洋人を夷狄として警戒した発端は、清における英国との阿片戦争の燦燦たる様子や西洋諸国による租界、つまり植民地化、金銀を始めとするあらゆる資源の搾取といった情報を得ていた一部の識者による警告や噂の広まりがあったからこそだった。つまり、清や蘭よりも強大な国力を持つかの国と直接交渉をし『真なる国防』へと活かす為に、かの国の言葉や文化を学び、それを基礎教育として導入し人材育成をするべきだというはつみの主張は、恐ろしい程の先見の明を以て理に適っているのだ。

 孫子の言葉を借りれば『彼を知り己を知れば百戦殆うからず』。これを実践している稀有な存在、それがはつみであるという事も、素直な目と耳で彼女の言動に心を傾ければおのずと理解できるはずなのだ。実際、既に京坂や幕府内において存在力を発揮している雄藩の中で、特に薩摩や長州などはこういった世界情勢に対して深く理解しようとしする動きが見られる。多くの志士達に影響を与えた吉田松陰も、真の攘夷の為に西洋の実態を学び得しようとしていたし、藩としても西洋の卓越した造船技術などを獲得しようと独自に動いていた様だ。長崎に極めて近い薩摩などは、賢明な斉彬公の采配により多くの西洋技術や貿易による富国強兵が導入されて久しい。そして土佐で言えば、はやり中浜村の万次郎ことジョン万次郎の存在が異彩を放っているだろう。しがない漁村で学も無く漁師をしていた万次郎は、海上遭難の果てに米国船に救助され、かの国へと渡った。清や蘭によってもたらされる限定的かつ真実かどうかも分からない情報でしか世界情勢を知り得なかった幕府は、琉球にて帰国を果たした万次郎を徹底的に調査し、その果てに、当時の土佐藩主であった山内容堂に掛け合い、万次郎を幕府の御家人、つまり幕府直参として取り立てたという極めて異例と言える経緯がある。
 …それだけを見れば、賢明な容堂公の右腕として藩政改革に挑んでいた土佐藩政・吉田東洋も、広く外へ目を向けた視野の広い人物であったと言えるだろう。万次郎が土佐に帰国した当時は開国の動乱を迎える前であったにも関わらず、真っ先に彼の重要性を見出し、独自に彼を調査した報告書を書かせた上で、土佐の海防ひいては国防に至る軍備改善点等に着手している。まだ開国騒動の前の時代であったとはいえ、夷狄の事など気にもしていなかった東洋が富国強兵や教育改革に着手し始めたのもまさにこの頃の事だ。郷士に対する差別や過小評価ぶりは酷いものであったが、その目耳にした人物の才が本当に国益となりうると判断したのであれば、万次郎の様な極めて身分の低い人物であっても引き立てるという度量があったのも事実。そしてそれは幕府が直参として取り立てる程、理に適った先見の明ある引き立て出会った事は既に証明されている。
 その万次郎の再来として、東洋はどこの馬の骨とも分からない、記憶の一部を失ったという奇抜な娘であるはつみをも引き立て、才を伸ばす支援をし、傍に置こうとしていた。

 …その事を、武市には理解できていたのだ。
 はつみと共に過ごした日々の中で、改めて刮目する部分もあったと言っていい程に。


 武市の脳内を色鮮やかに巡る、数年にわたるはつみとの友好関係の中に築いた信頼は思想を越えた存在として武市の中で大きくなっていた。そして、今目の前にいる柊しかり、血気逸る周囲の郷士達から『間者は排除するべきではないか』等と打診される度に、彼女が『政治的野心のない学者風情』であり『斬るべき相手、敵ではない』と諭し続ける抑止力とするための根拠にもなっている。
―といっても、いつ暴発するかも分からない程勢いのある彼らがその抑止に従うのは『ほかならぬ武市の言葉だからこそそれに従っただけ』に過ぎない。故に一旦ははつみへの注意をそぐ事に繋がったとしても、常に彼らの中の疑念として燻り続け、事ある毎に疑惑と摩擦が生じているのだ。根本的な解決をめざすのであれば、やはり互いが歩み寄るしかないのだが…。


「畏れながら…申し上げます…」

 基本的には武市の言う事に対して『御意』の姿勢を崩さない柊が、かすかに声を震わせながら申し出た。発言を促す武市に頭を下げ、寸前まで言い出すべきかどうかを迷った挙句、ようやく思い切った様子で真っすぐに武市を見つめ返す。

「武市先生が桜川を寵愛しているという噂が全くの事実無根であるというのなら、この事に関しては土佐へ追い返す事が最も自然な対応ではございませぬか。」

「…寵愛?」

 不動の眉にわずかな歪みを見せる武市。部屋には再び静寂が訪れた。外の風が窓を揺らし、かすかな音だけが耳に届く。緊迫した表情を浮かべる寅之進も、敢えてその発言を試みた柊も、固唾をのんで武市の続く言葉を待っているが、彼はしばらく無言のまま柊を見つめ、その沈黙が言葉以上に重く、柊を圧倒し続けていた。

「………っ」

 もう十分なほどに沈黙が流れた気がしたが、それでもまだ武市は一言も発さない。静かで真っすぐな圧に屈しそうになる柊は、何をされた訳でも、何を言われた訳でもないのに苦々しそうに顔をゆがめ、思わず視線をそらしてしまう。かくいう武市も、柊を黙殺したい訳ではなかったのだが…他人から不意に言われたその言葉が自分にどのような感情をもたらしているのかを、純粋に理解できていなかった。ただ、その二文字が脳の裏に焼き付きでもしたかの様にずっと巡り巡っている。―だがひとまずは、

「…そのようなものではない。じゃが、確かに私情のようなものを挟んでおるのは確かやも知れん。」

 それは一体何なのか、納得させて欲しいと願わんばかりの柊の視線が真っすぐに届く。

「あやつが京に来た理由はわからんが、政治的な目的ではないことは確信しておる。恐らくはこの俺に、直接用事があるのじゃろう。」

「…武市先生を執拗に追い回す不躾な女だという事だけは理解できておりますが」

「そういった見方がある事は理解できるが、言葉を控えろ、柊。」

 柊とはつみの仲…というよりは柊のはつみに対する態度が不穏である事は以前から分かっていが、あまりに身もふたもない言い方であった為に思わず苦言を呈す武市。閉口する柊を見つめ、話を聞く気があるのかを見定めて仕切り直した。

「…あれは、女子の道にあだたぬ女子じゃ。我らの活動に支障のない限りは、暫く好きにさせようち考えちょる。」

 『―そういう意味では、私情とも言える』などと上手い事まとめてしまう武市に、柊は耳を傾けながらもやはりまだ納得がいかない様だった。否、もはや、ただ単に柊が求める答えではない事に納得がいかない状態なのかも知れないとすら思える程、彼は静かに逆上しているのかもしれない。

「しかし左様であれば尚更、今まで通り別宿におれば良いのではありませぬか。わざわざこの寓居に呼びつける意味がありましょうや?」

「では聞くが、おんしらは俺のおらぬ所でははつみや寅之進、以蔵らあに大層無礼な口をはたらき、春には襲撃もあった。これについてどう思うか。」

「っ!…それは…」

 武市としては、そもそも政治改革には直接関わりの無いはつみを保護する事についてここまで掘り下げた話をするべき事ではないと思っていた上に『寵愛』などと言われ、反射的に心外だとも思った事もあり、柄にもなく冷静さを欠きつつある…という自覚はあった。しかし柊の方も収まりが利かないのであれば、それこそとことん話をして擦り合わせて行くしか無いとも考える。

「その上で、今はつみを外へ放てばどうなる。俺の目の届かぬ所であれば何をしてもいいち思うちょる輩が、抜き身を放ってはつみらの背中を狙うんが目に見える様じゃ。無論、それがおまんじゃとは言わんが…。」

「……っ…勿論です」

「改めて聞くが、あやつの言動によって我らの情報が漏れたり、策を阻害された事が過去にあったがか?」

「…いえ…」

「おんしは何の罪もなければ政敵ですらない者から思考を取り上げ、斬る事が正義じゃと思うか?正義がないのにその場の感情にて斬ったとて、天に恥じる事なく大義を全うする事ができるか?」

「……いえ…」

 武市の言葉は暗に、裕福な柊の実家を常習的に踏み荒らす上士の存在を思い出させる様でもあった。梼原の実家は城下からは遠く離れた梼原村の元豪農だった。だが、金がそこにあるというだけで強請りたかってくる上士によって家が傾きかけた事もある。金を出さないというだけで暴力三昧の上強奪してゆく事を赦される上士。城下から離れており情報操作がしやすいと悪知恵を働かせ、上士というだけで悪事を強制的に口止めしたりもみ消そうとする事も日常茶飯事であった。そんな事が暗に許される理不尽な藩政を覆さんとして、幼いころから神童と言われていた自分は早くから江戸と土佐を行き来し、研鑽を続けて来たはずなのに、まさに今、土佐の瘤(こぶ)であった無能上士らと同じ理不尽の轍を踏もうとしているのだと。

更に、武市の淡々とした声がもう一押しとばかりに続く。

「俺にとっての大義とは、すなわち尊王のもとに藩を挙げ日本を改革し、帝を御守し夷狄に備えるということ。それが揺らぐことはない。おんしが抱く大義も同じじゃちいう事もようわかっちょる。じゃが人には人の、それぞれが考える使命がある。先日俺の病を治した医者しかり、町で団子を売る茶屋しかり、京まで俺を追いかけて来たはつみしかり。わかるな?」

「…は。」

「…新兵衛にも言うたが、はつみの事は俺が責任を持つ。じゃからというて、おんしがあやつの成そうと思うておる事に手を貸す必要はない。ただ俺は、おまんやそこの寅之進らぁ若い衆の成長が楽しみであるのと同じぐらい、あやつが成そうとしちょる事を見てみたいとも思うておる。そしてその為には、俺の目の届く所で便宜を図ってやろうとも思うておる。」

「…桜川が『女の道にあだたぬ女』であればこそ、ここまでお話下さった武市先生のご真意を皆がみな理解するのは難しいでしょう。少なくとも、妾を囲っているという良からぬお噂は広まってしまうかと思われますが…それでも宜しいのか。」

 感情を押し殺し『御意』に徹しようとする柊の懸念は尤もであり、武市は困ったものだと言わんばかりに軽く頷きながら目を伏せ、息をつく。

「…そうじゃな。じゃがまさにその事がはつみを斬ろうとする者への抑止力となるのであれば、それでもよかろう。些末な個人の事に過ぎず、真実はこの寓居に住まう俺やおまんらが知っておる。この先その様な噂を申す者がおれば、これからはお前や寅之進が先頭となってそれを否定してくれればよい。」


 自分の側から離れようとせず何かしら羽ばたきを見せようとするはつみを放り出す事はできなかった。だが、柊から鋭く問われる事がなければ、自分でもここまで向き合う事はなかっただろう。はつみの事は気にかけているのは事実だが、考え過ぎない様にしている事もまた事実。一個人、一人の男として認めてはならない感情を、故意的に、そして無意識の内に見ないようにしている。

 故に『寵愛』という言葉には思いがけず心を揺り動かされてしまったが…。

 『武市が妾を囲っている』との噂は甘んじて受け入れ、この京で何かを成そうとする彼女を見守る事を決意したその証として、桜川はつみの寓居への転入を決めた。


 柊は武市の言葉を聞き終えた後も、しばらくその場で唇を噛み続けている。心中では言い返したい思いが渦巻いていたが、それを口にする勇気はなかった。結局、自分の抱いていた疑念や不満は、武市の一言一言によって霧散し、武市が示した信念の前に押し流されていくようだった。

一方、寅之進は武市の決断を黙って受け入れる一方で、自分が再びはつみの側に戻ることに歓びを覚えるとともに、改めて不安を覚えていた。はつみが抱える重責、そして自分が果たせる役割について考えながら、静かに頭を下げる。

「…御意にございます。」

 柊と寅之進は武市への忠誠を新たにし、共にその場を後にしたのだった。






※仮SS