仮SS:春雨


文久三年、二月

 しばらく薩摩に帰っていた武市の義兄弟・田中新兵衛が武市の寓居に現れていた。

「武市兄さぁ、お久しぶりでごわす」

「新兵衛。健勝そうでなによりだ。」

 武市は依然と変わらぬ様子で新兵衛を迎え入れている様子であったが、はつみは先日の天誅について新兵衛に訪ねたいことがありそれはとても「歓迎」とは言えぬ気を放っていた。

 武市との談話が一段落した所で、新兵衛の方から声をかけてきた。


「はつみどんはちっと痩せられたか」
「…はい、多分少し…」

 以前は楽しめた雑談も今は続かなかった上、はつみの方からいきなり本題とも言える話題をふっかけてみせる。

「先日の天誅…新兵衛さんも関わっていたのですか?」

「こいは…急にどけんしたですか、はつみどん。」

「そうなんですね?」

「…はつみ。」

 とぼけている訳ではないだろうが、相変わらず飄々とした様子の新兵衛がこの期に及んではつみの苛つきを煽るかの様だった。


 はつみが言っているのは、1月の末に立て続けに起こった殺人事件の事である。

22日、大阪にて池内大学天誅
28日、公卿・千種(ちぐざ)有文の家来、賀川肇天誅

 この日以来、町ではまた土佐の勤王派が天誅で邪魔者を殺したと言った噂が流れている。とりわけその主犯を岡田以蔵とする噂は冤罪である事を考慮すると悪質であり、また、下士勤王派の党首である武市の立場を悪くするだけの行為である。関白近衛卿から天誅を控える様にと直接言われたのは武市であり、また、土佐勤王派の天誅による恐怖の象徴となるのも武市、容堂公や佐幕派上士らの目の敵となるのも武市なのである。
 容堂による勤王派弾圧の兆しが日々強くなる中で余裕の無くなっていたはつみは、少しでも武市の立場を悪くする事を平然と行う『考え無しの勤王派連中』に対し、非常に苛々した感情を抱き続けていた。

 正面から新兵衛に詰め寄ったはつみであったが、しばらく様子を伺っていた武市が声をかけると沈んだ表情のまま引き下がっていく。場に水を差し悪いと思ったのか、退席する始末である。

 「すまない」とはつみの代わりに謝る武市に首を横に振る新兵衛であったが、今のやりとりを見ただけでこの前の夏時よりも二人の関係が深く複雑に
なっている事を察した様だ。そしてそれよりも、はつみの様子が以前とまったく違う事の方が気にかかる。

 彼女はもっと、花が咲き誇るかの様な不思議な気があったと思うが…

今のはつみは相変わらず可憐ではあるものの、あえて言うなら雨後にしおれてしまった桜の様でもある。

「はつみどんの様子が優れん様子でごわすな…」

「…ああ…」

「兄さぁのこつば案じちょっとなぁ…」

「…ああ…」

「…やはり、勤王党は窮地に立たされとっとでごわすか…」

「……まだ策はある…。近々、一旦土佐へ戻るつもりじゃ。まずは平井らを救わねばならん。土佐でやっておく事もある。」

「ご出立とお帰りはいつでごわすか」

 武市は今思案している事がまとまり次第一旦土佐へ戻り、1日2日程度ですぐに京へ戻ってくるつもりだと述べた。武市から簡潔に話を効き出した新兵衛は、また顔を出すと告げると半ばはつみらに遠慮する形で早々に退出していくのだった。








新兵衛が寓居を去り、半刻ほどが過ぎただろうか…。

「新兵衛さんと武市さん、まだお話してるのかな。」

 部屋に戻っても何も手に付かない様子だったはつみが呟くと、書をしていた寅之進は「えっ」と少し驚いた様子で

「新兵衛さんなら早々にお帰りになった様ですが…」

と応えた。

「えっ!?」

 新兵衛に聞きたいことがあったはつみは、武市との会話が終わった頃を見計らって再び席に戻るつもりだった様だ。外を見ると、もう遅い時間ではあったがまだ日暮れではない。

「ちょっと行ってくる!」

「えっ!行くってどこへ…!」

「薩摩藩邸とか新兵衛さんが行きそうなとこ!」

「俺も行きます!」

 あえて武市に悟られない様裏口から出て行こうとするはつみを、寅之進も慌てて追いかけるのだった…。



 武市の寓居近辺は、去年の夏以来新兵衛とよく歩いたりもした為彼の行きつけの店や暇つぶしの場所なども把握していた。案の定、行きつけの酒処を2、3軒ほど回ったところで新兵衛の姿を見つけ、日も沈む前から酔っぱらいでざわつく店の端っこで彼と改めて話をするにありつけた。


「確か、先日の天誅においが関わっておるかちゅうこつじゃったか」

それを聞いて何とするかとの応えに、はつみは

「新兵衛さんが関わっているのなら、あなたに言っておきたい事と更に聞きたい事があります。」

と率直に応えてみせる。『大分焦っているな』と見て取った新兵衛であったが、彼女らになら別段隠すことでもない為あっさりと頷いてやった。

「そうだど。おいもその場におりもした。」

「………」

「…で?言いたいこつとは何でごわすか」

「…新兵衛さん方は、武市さんの状況をお判りですか?」

 隣人相手にも大声でしゃべり立てる酔っぱらい達のお陰で二人の会話はある意味閉鎖的な環境で続けられる。

「土佐勤王党は今や武市さん一人の肩にぶら下がっている状態です。」

「うん」

「元藩主の山内容堂さんから弾圧をかけられつつあって、武市さんの右腕だった平井さんをはじめ、多くの人達が処罰を受けたり土佐へ帰ったっきりの再入京を禁じられたりしています。今は、京での出来事一つでいつ武市さんに言いがかりがつけられるかわからない状況なんです。」

はつみは至って真剣でもっともらしい事を言っている様であったが、新兵衛からしてみればやはり、以前の様な聡明さが欠けているという印象であった。以前はもっと客観的に物事を見、意見を述べる尊敬すべき娘であったが、今はどうも盲目的になりつつあるというか…武市の事しか見えていない様に見えた。

「…なるほど…はつみどんの言いたかこつは分かりもした」

 つまりは『天誅の容疑が武市に向けられるから控えてくれ』と、そんな事をはつみは言いたかったのである。彼女は察しの良い新兵衛にホッとした様な表情を浮かべるも、それは次の言葉で直ぐに打ち消される事となった。

「じゃっどん。こいは土佐勤王党の為の天誅じゃなか。」

「そんな…新兵衛さん!」

 机上のものがガチャンと音を立てて揺れる程、はつみは前のめりになって新兵衛に詰め寄る。しかし新兵衛は強い信念のもと、顔色一つ変える事はなかった。

「武市さんを助けて下さい…!」

「勘違いしてはいけんぞ、はつみどん。そいは土佐の内部の問題であっておい達が介入すっべきものじゃなか。…兄さぁ自身がよーく分かっとうはずでごわそう。」

「それは分かっています!でも今は例え些細な事であっても武市さんをもっと追いつめるきっかけになるかも知れないんです…!そんな時に…天誅の首謀者だなんて噂がまた流れたら…!」

 若干取り乱し気味のはつみを寅之進と新兵衛が落ち着かせようと優しく努めるが、はつみは新兵衛が首を縦に振るまでそれに応えるつもりはない様だった。
だが、それは新兵衛とて同じ。

「こいばっかいは分かってくいやっせ、はつみどん。土佐の事は、おはんらがやらねばならんこつでごわそう?それが筋じゃと兄さぁも思っとうはずじゃ!」

 机越しにはつみの両肩を掴み、目を覚まさせる様に話しかける。

「おはんはそげん弱か娘じゃったか!?どげんしてもと言うなら、おはんが身体を張ってでん土佐から連れ出せ!」


 流石に熱く語り出した男性の声はあたりに響いた様で、隣で騒いでいた酔っぱらい達は、可愛らしい男子の肩に掴みかかっている新兵衛を何事かと視線を送っている。目立ちすぎたかと手を離す新兵衛であったが、そんな中で更に注目を集めるかの如く、はつみも声を荒げてしまった。


「私だって…私だって好きでこんなに焦ってるんじゃない!私に何ができるのか、どうすればいいのか沢山沢山考えて…それでも私だけの力じゃどうしようもないから、こうしてお願いにきてるんですっ…!」

「はつみさん、落ち着いて下さい…!」

 隣に座る寅之進にグッと腕を掴まれ、我を失っていた訳ではないもののはつみは俯いて唇を噛みしめた。膝の上で握りしめられた拳は小刻みに震え、やり場のない焦りや怒りを握りつぶそうとしているかの様だ。

「…ちっと言い過ぎた…すまん…」

「……」

「…厳しかちゅうこつば言う様じゃっどん…」

「…ごめんさい…ちょっとカッとなってしまって……少し頭を冷やします…」

 はつみは悪いと思いつつも居たたまれなくなって席を立ってしまった。新兵衛の言う事の方が筋道が通っていると自分でも分かっているが、武市の命運を知っているが故に『なんとかしたい』と思う気持ちは結果的にはつみから冷静さを奪い、雁字搦めにし空回りさせるばかりであった。


 はつみが店を出て行く様子を、新兵衛と寅之進が見つめる。早く行ってやりなさいと目で合図を送る新兵衛に対し、寅之進ははつみの分まで丁寧に礼を返して彼女を追いかけた。


 残された新兵衛は改めて酒を飲みつつ、武市やはつみ達の行く末を彼なりに案じるのだった…。






店を飛び出したはつみは少し走ったところで雨が降っている事に気が付く。

「はつみさん!この時期の雨はお身体に障ります。傘をお持ちしますから待ってて下さい…」

雨中で立ち尽くし空を見上げていた所、後ろから追いついてきた寅之進がそう申し出てきた。無言で空を見上げるはつみを気にかけつつ、寅之進は近くに傘を売っている店がないかと駆けだしていく。はつみは雨の中をとぼとぼと歩き、鴨川のほとりで立ち尽くした。

「……。」

頭では分かっているのに無茶を言いつけてしまった新兵衛、自分の我が儘にいつも付き合わせてしまう寅之進、そして、その命運を知っていながら導くことのできない武市…

彼らに対し、申し訳ない様な暗い気持ちでいっぱいだった。

自分はどうしたらいいのだろう。
分かっている事は、このままでは何もできないまま武市が弾圧の手にかかってしまうという事だけである。考えても考えても、最前の道筋が一向に思い浮かばない…。

しとしとと冬時雨を注ぐ夕暮れの空がまるで自分の心を写しているかの様にも思え、雲間から降り注ぐ雨をぼぉっと見上げていた。
その時だった。


「…はつみか…?」


背後から、思いもしない声がかかる。

振り返るとそこには、傘も差さないで立ち尽くす武市の姿があった。振り返ったはつみの顔を確認するなり、真っ直ぐにこちらへと歩み寄ってくる。

「武市さ…」

「新兵衛に会いに行っちょたがか」

表情はいつも通りの武市であったが、その声には少し熱が籠もっている様にも感じた。「怒り」という程ではないが、何か気に障ったかの様な声色だ。はつみは率直に頷いてみせると、武市は更に詰め寄ってくる。

「…新兵衛の事は信頼しておるが、今は特に軽率な動きをしてはならぬ時だと心得なさい。…おんしの身を守る為じゃ。」

「……」

「一つ言葉を間違えればおんしにまで土佐の手が回ってくる。土佐以外の者からも目を付けられる事があるかも知れぬ。」

どうやら武市は寓居にはつみがいない事を知り、昼間の事を思い出して新兵衛や薩摩藩士らに会いに行ったのだとすぐに察して出てきた様だった。今は土佐だけでなく、薩摩や長州、そして会津らが絡んで三つ巴の様な形で緊張が続いている状態でもある。はつみが自分の事で無茶をしないか、或いははつみが他藩の者に目を付けられないか心配だったのだ。

「寅之進はどういた?おんしに何かあった時、今の俺では…」

「『今の俺では』何ですか…?」

垣間見えてしまった武市の弱気にはつみは敏感に反応を示した。

「そんな弱気な事、言わないで下さい…いつでも見守っていて下さい…傍にいて下さい!」

普段は決してそんな隙を見せない武市なだけに、はつみももろくなった心が軋み、不安で壊れかけるかの様だった。いつもは懸命に押さえ込んでいる武市への想いが溢れ出てきてしまう。

「武市さんが自分を押し殺して土佐のためにって頑張ってたこと、私たちが一番近くで見ていて知っているのに…何もできない…!それなのに考えても考えても状況は悪くなるばかりで…!」

「…」

「武市さんのためにって…決めたのに…!私が『ここ』にいるのは、その為だって思ったのに…!」

「…はつみ…」

「どうして…どうしたらいいの…!?」

ボロボロと溢れる涙を、降り注ぐ冷たい雨が隠し流していくかの様だった。その場にしゃがみこんでしまったはつみは両手で顔を覆い隠し、止まらなくなった嗚咽のままにかみ殺す様な鳴き声を漏らし始める。

武市は無言のままであったが、しばらくするとはつみの頭に暖かなものが被せられた。

「……?」

顔を上げると、武市が袴が汚れる事も気にせずにしゃがみ込んでおり、自分が巻いていた襟巻きを雨に濡れるはつみの髪に、肩にと優しく巻いてくれている…。

そしてはつみと目が合うと不器用ながらも、優しく微笑んでくれた。

「ありがとう…苦労を掛けて、すまぬ…」

 優しく愛情の籠もった声、そしてはつみだけを写し込む様な、まっすぐな視線だった。



…こんな事風に、自発的な好意を目の当たりにする事は初めてであった。

『愛妻家』とも言われた武市だが、ほんの時折、一瞬だけ、心が通じ合っているかの様に思える時があった。直接、面と向かって、好意を示してもらう事はなかったが…今日の今ほど、彼の気持ちを感じた事はなかった。

驚く様な表情をする一方で、不安と焦燥で限界まで張りつめていた心が一気に絆されていく。彼の優しい温かみに触れて、はつみの瞳からは更に大粒の涙が溢れていく。ぽろぽろぽろぽろと零れては、寒さや恥ずかしさで紅潮した頬を流れていった。

武市ははつみの肩を優しく掴み、上に引き上げると自力で立たせる。

「……ここでは風邪を引く。…帰ろう。」

「…………はい…」






武市に巻いてもらった暖かな襟巻きをぎゅっと握りしめ、はつみは頷く。寓居への帰路を、武市ははつみに合わせた歩幅で歩み出し、はつみはその後を追いかけ、その袖を握りしめた。

「………」

武市は繋がれたその裾とはつみの手元へと静かに視線を落とすと、そのまま構わぬ様子で歩みを続けた。…普段なら『往来で男女が~』と耳にタコができるほどに龍馬を説教していた彼が、である。


雨が全てを洗い流してくれたらいいのに…

雨があがったら、全てが晴れやかに澄み渡ればいいのに…




そう思わずにはいられず、はつみは止めどなく涙を流し続けるのだった…。







傘を持って現れた寅之進が、そんな二人の後ろ姿に視線を送っていた。冷たい雨に打たれながら、はつみの為にと用立てた傘をグッと握りしめる。

…こんな事は遠の昔に分かっているはずだ。

分かっていながら、傍で居るだけでいいと思いながら、それでもこんなやりきれない気持ちを抱いてしまう自分は彼女の傍にいない方がいいのではないだろうか…。

度々そんな風に考えてしまう程、心が辛い。

…それでも、はつみが微笑むとその都度心が癒された。はつみが自分を大切だと言ってくれる言葉は嘘ではないと信じられた。


彼女が必要とするなら、自分はいつでも傘を差しだそう…

どんな雨の日でも。


それが、はつみに晴れやかな微笑みをもたらすきっかけとなるのなら…。




「武市先生、はつみさん!」

寅之進はあえて遠くから声をかける様にして駆け寄った。傘を広げると雨に濡れる二人にそれを差し出す。


三人は身も心も雨に打たれ、家路を辿るのであった。







※仮SS