仮SS:『守る』という事


 10月の始め、公武合体路線を明確にした薩摩国父・島津久光(三郎)の懐刀にして薩摩藩家老として幕府と朝廷から信任を受けめきめきと存在感を出し始めた小松帯刀が再入京した。尊王攘夷を掲げる長州と開国公武合体を掲げる薩摩の折り合いはこの頃から非常に悪くなりつつあり、土佐は尊王攘夷派としては長州を志を共にするものの、薩摩藩内にいまだ根強く存在する尊王攘夷派らをつなぎ止める役を担う様になっていた。

 そんな中、薩摩公武合体派の家老・小松とはつみが、白昼堂々往来の真ん中で会っていた事が多くの攘夷派志士らに目撃されており、またもやはつみに対するアタリが志士達の間で炎上する事態となっていた。

 そんなある日、とある事件が起こってしまう。

 ある日の朝、いつも通りに部屋を出て来たはつみは足元に『ぐちゃ』という感触と共になんとも言えぬ押しつぶされた様な動物の声を耳にする。え、と思い視線を落とすと、異常な感触を覚えた右足にどす黒い赤い液体が染み込んだ小さな麻袋を見つける。そして瞬時にそれが何かを察し、寓居内の全ての襖がその振動に打ち震える程の悲鳴を上げて尻もちをついていた。

「はつみさん!どうされましたか!?」

「何事じゃ…!?」

 別の部屋から弾き飛ばされたかの様に飛び出してはつみの元へ駆け付ける寅之進と、同じく言葉も気配もなく駆け付け瞬時に周囲を警戒する以蔵。そして自室から飛び出した着流し姿の武市、そして柊らが、はつみが尻もちをついている縁側付近へと一堂に会した。

 床に転がっていた見慣れぬ麻袋を調査しようと寅之進が手を伸ばすと、中で俄かに生き物が動く気配を感じる。麻袋から周囲に滲み出るほどに広がりを見せる赤い液体はどう見ても『血』であり、中で蠢く何かが時々『ギュ…』と鳴き声の様な音を上げるのが聞こえる。武市と視線を合わせ頷き合った寅之進は、ゆっくりと麻袋を開き、中を確認した。

「……っ…中にいるのは、ねずみです。」

「ねずみ…?」

 座り込んだままの体勢で顔面蒼白になっているはつみの側へ武市がやってきて、手を差し伸べる訳でも肩を抱く訳でもなかったが、そっと隣に膝をついて『大丈夫か』と声をかける。周囲には不審な動きが見られないと判断をした以蔵が刀にかけていた手を解いて警戒を解き、柊は目の前に起こった事態を一早く理解したのか特に慌てる事もなく、ただ、武市に寄り添われるはつみを冷ややかな目で見つめている。

「私が踏みつぶしちゃったの?でも、どうしてそんなところに…」

「いえ…どうやらこのねずみは何者かによって事前に斬られていた様です。恐らく、踏みつけた時に血が大量に出る様、細工をしたつもりなのではないでしょうか…」

「何?」

 珍しくも、その不動の眉間にシワを刻む武市。

「…どうやら悪意を以て置かれたもので間違いない様ですね…」

 寅之進が推測するには、どうやらはつみが毎朝必ずここに出てくる事を見計らった上で、いたずらに切り刻んだねずみを麻袋に入れ、放置して踏ませる…という、非常に悪質な嫌がらせなのではないかという話であった。一同は納得した様子で却って無言に陥ってしまうが、武市は更に、この異常性の高いやり口に何かしらの意味があるのではないかとも考え、ひらめいた事を口にする。

「……袋のねずみ、という事か…?」

 …はつみの状況を考えれば、はつみに対する嫌がらせである事も含め、なくはない推理であろう。武市の特別な庇護を受けているのだとしても、その周りには『はつみを敵とみなす』者がひしめいており、その周りにいる者たちからの警告であるという事だ。

 言葉を失うはつみに視線を向け、恐怖に慄きながらも寅之進が手にする麻袋を見つめるその横顔を見てから「…くっ」と喉を鳴らし、視線を落とす武市。抑えてはいるがその表情には珍しく怒りの色をにじませ、先ほどから冷たい視線ではつみを見ている柊へ向かって改めて顔を上げた。

「…何ぞ知る事はないか」

 尋ねられた柊は何も知らないとするも、はつみに対する嫌がらせであったのだとしてもおかしくはないと言い切る。

「皆、武市先生の庇護を受けたものであるからこそ、これまで黙っておったのです。それが薩摩の家老と会っていたとあれば、堪忍袋の緒が切れた者がおったと不思議ではありませぬ。」

 柊の冷徹な返答を耳にしながらも、はつみはいまだ震える足元を抑えつけながら立ち上がり、寅之進へと近付いていく。そして麻袋の中のねずみがまだ蠢いている事を知り、先ほどまでは蒼白であったその顔が見る見るうちに赤く染まり、瞳から大粒の涙がこぼれて行った。柊の話は終わっていたが、そんな事よりも、とばかりに血まみれの麻袋へそっと手を添えている。

「…ごめんね、私の為せいで……痛かったよね……」

 自分への嫌がらせの為にあえて切り刻まれた状態で放り出され、そしてそれを知らなかったのだとしても、自らの足で踏みつけてしまった哀れなねずみに、心からの謝罪をする。周囲からの負の感情が自分に跳ね返ってくるよりも、無用に周囲を巻き込み傷つける形で自分に返ってくる方がよっぽど辛い。

「…この子を、楽にしてあげたい…」

「……わかりました。…俺が。」

 涙でいっぱいの瞳で訴えられた寅之進は黙ってうなずき、ねずみが入った麻袋をそっと地面に置く。刀を抜こうとしたが、はつみは自分の桜清丸を差し出し

「私のせいで傷付いた子だから…」

 と言って、寅之進に桜清丸を抜かせる。寅之進とはつみが行うねずみの供養を、以蔵はすぐ側でじっと見つめ、武市は険しい表情のまま立ち尽くし、柊はまたも冷ややかな目で眺めていた。




 ねずみを供養した後、着替えを済ませたはつみは武市に促され応接間へと移動していた。そこに他の者達はおらず、人払いをされた様だった。

 まだ一日が始まったばかりだと言うのに、はつみは三日三晩徹夜を決め込んだかの様に落ち込み、普段の湧き出る様な輝きはすっかり失せてしまっている。どういう訳か、春先に襲撃された時よりもよっぽど衝撃が大きかった様にも見える。そんな彼女を慰めてやりたい気持ちが胸に渦を巻く一方で、指導者として厳密に忠告をし、原因に対処しなければならないという使命がやや優勢となって武市を突き動かしていた。

「此度の件だが…柊の話では、おまんが薩摩の家老と茶屋で親し気にしておる所を見た者がおり、そこからよからぬ噂が流れ、おまんを追い出す為の嫌がらせに繋がったのではないかちいう話じゃ。」

「薩摩の家老…?」

「何ぞ、心当たりがあるかえ…」

 聞く前から、はつみには心当たりが無さそうな反応である事は直ぐに伺える。彼女が嘘を言う様な人物ではないという事は信じているが、彼女と薩摩家老の逢瀬を見たという者が彼女の独特な姿や有名な薩摩若家老の紋付きに刻まれた家紋を見間違えるという事も中々無い様に思える。だが武市の質問に真摯に向き合い思考を巡らせていたはつみは、最近、確かに薩摩藩士と再会した事を話し始めた。

「長崎遊学の時に出会った薩摩の方達と、偶然再会したんです。それで、お茶屋さんに入ってお団子を食べていました。」

 『逢瀬』ではなく『複数の人数で会っていた』という違いが生じているが、薩摩の人間と茶屋に入っていった等という状況的に早くも何らかの誤解や見間違いの可能性を察する武市。

「…その方の名は何と申される。」

「小松帯刀さんと、村田経臣さんです」

 その言葉を受けて、武市は鼻から静かに、深く息をついて述べる。

「…その小松という御仁こそが、皆が騒いでおる薩摩の御家老じゃ。」

「えっ、ええっ!?」

 家老といえば大名に寄り近く、藩政を握る参政と同等の地位を持つ非常に高い身分の事である。あの薩摩藩の家老ともなれば、一介の志士らが会おうと思ってもそう簡単には会えない様な人物である。正直、小松がいつか薩摩の家老になるという事は分かっていたが、まさかこんなに早く若い段階で家老に昇進していたとは思ってもいなかった。

「あの、小松さんが家老になっていたなんて知らなくて…。もしその事で皆さんを刺激してしまっていたのなら、本当にすみませんでした…。でも、小松さんとは本当に、再会を懐かしんでただけなんです。」

 はつみの言葉に偽りはないだろうと思いながらも、武市は人知れず根本的な事象を認めざるを得ない状況へと追い込まれていた。それは、まるで夏の夜に舞う蛍の灯りに更なる蛍が集まりゆくかの様な現象…。つまり、はつみ本人には政治的な野心は持ち合わせていないのに、その奇特な存在感故に、時勢の影響が押し寄せ始めているという事だ。吉田東洋のみならず、今となってはどこからかはつみの噂を聞いた三条実美や姉ヶ小路公知までもが『武市殿。わたしも桜川なる者に一度会うてみたい。なんでも、男装をした今生のかぐや姫とやらの噂を耳にいたしましてな。』などと耳打ちをしてくる有様であったし、その矢先に今度は薩摩の家老ときた…。

 彼女が女の道に仇たぬ者である事は承知であったが、かの吉田東洋が見込んで巻いたはつみという種が芽吹き、遂に花開き始めた。


 それはつまり、彼女の意思に関係なく、その才が攘夷と開国のはざまにおいて『政治の駒』として注目されるという事。

 どこぞに取り立てられ利用されるのであればまだ良し。

 だが最も懸念すべきなのは、命を狙われるという事だ。


 天誅の対象として。



 その先駆けとして、切り刻まれた袋のねずみが彼女の眼前に放り込まれた。この寓居内に置いておけば、自分の側にいれば守ってやれると思っていたのがあっけなく崩れ去った。同じ屋根の下で自分が寝て居ようが関係なく、彼女の寝首を掻こうと思えば掻く事もできたのだ…。

「…あの…武市さん…?」

 はつみが躊躇いを見せ始める程に彼女をじっと見つめていた武市は、口を引き縛り、頭を軽く横に振りつけながら視線を下に落とす。

「時勢の波と言うのは思っていたよりも激しく、強引で、あらゆるものを飲み込んでいくらしい…」

「時勢の波?……運命、という事ですか…?」

 珍しくも武市が漏らしたその本音の言葉は、はつみの胸の奥深くに突き刺さっていた。『抗う事ができない』とも聞き取れる言葉を武市の口から聞くという事は、武市をその運命から解放せしめんと一心で今ここに存在しているはつみには非常に厳しい言葉だった。勿論、武市がはつみの意図を汲んで発言している訳ではなく、彼なりに、全てが上手く言っている訳ではない事に対して深く思う所があっての発言であるという事は理解できているが。

「そうなのだとしても、私は抗います。運命に。」

「……」

 じっと自分を見つめる彼女の瞳に、消え失せていた輝きがわずかに戻り宿っている様な気がした。挫折や不安、恐怖を互いに味わいながらも、強い意思を以て未来を信じているといったその光。…この時、光源の影響なのかはつみの瞳の色が緑がかって見えた様な錯覚に陥る。ハッとして強く瞬きをしてからもう一度見るが、いつもの透き通った鼈甲色の瞳であった。不思議な現象に言葉せずも『見間違えか』…と思い直す武市であったが、どういう訳か、その時はつみが成そうとするものの一端を垣間見えた気がした。

…彼女は運命に抗おうとしている?

だが、その『運命』に一体何があるというのか…時勢に抗うという意味なのか。

その事と、自分を京まで追いかけてきて側にいようとする事と何の関連性があるのか…。


いずれにせよ、こんなにも露骨な逆境にもめげる事のないはつみのその決意の強さには胸を締め付けられる様な感動を覚えながらも、だからこそ、『危険』であると思わざるを得なかった。

 気を取り直し冷静さを取り戻した武市は改めて姿勢を正し、先ほどまで思わず垣間見せてしまった『一人の男』としての自分ではなく、指導者としての構えを見せながら、改めて忠告をする。

「…一先ず、おんしと小松殿の関係や先日来噂になっておる事の真相はわかった。間者云々の疑いもそうじゃが、逢瀬をしておったなどと噂が流れてはおんしや小松殿の名誉にもかかわる。今後そのような話を聞く事があれば、俺からも説明をしていこう。」

「すみません…お手数をおかけしてしまって…」

 一方で『周囲を刺激しない様に』『くれぐれも身を守る様に』と、冷静な声で伝える武市。はつみを責めている訳ではないというのがその誠実な言葉や姿勢からひしひしと伝わってくるが、この様に忠告される事自体、今回が初めてではない。だが深刻さが今までとは段違いであるという事を、はつみもしっかりと理解をしていた。武市にしてみてもこの話をする度にはつみが『自由』である事を否定している様で心苦しいものがあったが、控えた行動をする事が彼女を守る事にも繋がるのだという事を信じるしかない。


「それから、これは今後のことだが…」

 そう言って、帝の勅令を伝える勅使一行とそれに伴奉する土佐藩主に同行し、しばらく江戸へ行く事を明かす。はつみに対して政治的な話は一切してこなかった武市であったが、はつみの緊迫した表情を見るなり、彼女はこの勅使らと共に土佐藩主が伴奉する事、武市ら勤王派が随行する事の意味を理解できている様だった。暫くの沈黙が続き、その間ずっと、はつみは辛そうに言葉を詰まらせている。

 …勅使東下にて将軍に対峙し、勅令を以て攘夷と親兵設置などを迫るのが今回の勅使東下である。ほんの半年前にも薩摩が伴奉して勅使が東下したが、これが世間では『尊王攘夷の旗揚げ』と言われていた事に反し、実際には開国の混乱に際した幕政改革や将軍家茂の上洛を促し公武合体論を推し進めるものであった。その為、現状の様に多くの尊王攘夷派から、特に長州藩からの反発を生み、時勢に多大な影響を与えるものとなっている。

 土佐が伴奉する今回の勅使東下は、武市の人生にとって最高潮の部類に入る出来事であっただろう。『柳川左門』という変名を使い『雑掌』という立場で随行したものの、東下中の移動では『乗り物』と呼ばれる高貴な人が乗り込む特殊な輿があてがわれ、勅使である三条や姉ヶ小路らの背後に付く実質的な主導者としての立場があった。朝廷を動かしたという事は日本を動かしたと言っても過言ではない。更に江戸においては将軍家茂公の御目見えにまでなり、一報で、公武合体派である容堂の疑惑や苛立ちを決定的なものにする…。

 この『歴史の一大事』がついに眼前に迫ってしまった事に焦りを禁じ得ないはつみは、それ故に言葉を詰まらせていたのだった。当然、武市本人に言う訳にもいかない。

「…おんしを江戸へ連れて行く事はできん。しかしもはや、ここへ置いていく事にも不安が残る…」

 心配だからといって、心通わせるという事などはあってはならないとも思う。…いや、『彼女に限って』通わせてはならないのだと自分に言い聞かせていた。自分の傍にさえ置いておけば皆が遠慮をして彼女と距離り、結果的に彼女の安全が保障されるのだとタカをくくっていた。だが傍にいすぎれば己を保てなくなる事に、とっくに気が付いていた。だから、安全を保障し自由にさせてやる事が保護者の役目だとでも言わんばかりの態度で、結果的には彼女と向き合う事なく放置し続け、今日の様にいとも簡単に状況悪化を招く事態に陥った。その一因が自分にもあると考える。

「土佐へ帰るか」

「……」

 柊が聞けば『最初から土佐へ送り返しておけばよかったのに』と激高するであろう。しかしもはや、それしか彼女を守り切るすべはない様にも思っていた。はつみが時世に見染められ輝きを放ち続ける『今生かぐや姫』なのだとしたら、今日、政敵ともなり得るやもしれぬ薩摩の家老と出会った事と同じ様な事はこの先幾度も起こりうるだろう。いや、吉田東洋に引き立てられた過去がある時点で、彼女の運命においてはそうなる事が恐らく定めなのだ。土佐に帰ったからとて、土佐においても尊王攘夷派と佐幕派の対立は続いており安全が保障される訳では決してない。しかし、日本中からあらゆる主要人物が集まる帝のお膝元たる京に留まるよりは…と考えての発言だった。

 だがはつみは無言のまま、首を横に振っている。

 行動を共にする事はできないと言う武市に視線を上げるはつみの表情は、まるで何かに押しつぶされそうな、今にも泣きだしそうなものであった。彼女は真摯に武市の言葉を聞き入れている様であったが、武市が発する何かが彼女を追い詰めているであろう事はもはや明白だ。

 指導者或いは保護者としての責務を果たさねばならないと心構えていた武市の心が揺らぐ。


「……はつみ…」

 彼女は一体何と闘っているのか?
 一体何をしにこの京にやってきて、何故自分の側にいようとするのか?
 内側から湧き出る様な輝きと知性で、見る者の多くを虜にしていたその笑顔を暗くさせるのは、一体何なのか?

「…おんしは何故、そがぁに傷付いてまで俺の側におるんじゃ…」

 だが、はつみはただ、目を伏せて唇を噛み俯く。不動の表情に困惑の色をにじませながらも更に投げかける言葉を探す武市は、ふいに立ち上がったはつみを追いかける様に顔を上げ、その動きを視線で追う。はつみは武市の隣に立つと少しためらう様子を見せ、暫くすると突然その場に座り込み、そして、武市の左腕を抱き締めて来た。

「―!?…っ…な…」

 自分でも驚くほど心臓が弾かれ、一瞬で全身が熱くなるのを自覚する。そして一瞬の内に、年はじめの『子無きは去れ事件』での事がまるで昨日の事の様に明確に甦り、脳裏をよぎってゆく。あの時はつみを深く傷つけたと分かっていながら、もし、あの時、彼女に触れていたら……と、夜明けの虚空に思い描いては掻き消す日もあった。はつみの事を必要以上に見たり考えたりしないと自らに言い聞かせながら、やりきれない自分を自覚してまた、彼女と距離を取ったりして……。

 『恋』を知らなかった武市でも、『恋』に迷走する情けない自分に気付いていた。

 もう見て見ぬ振りは出来ない。そこに『男女の感情』がある事を、もはや否定できない。


 はつみの体温が、袖を通して直に伝わってくる。引き寄せる腕はか細く、そして頼りなさげに震えていた。一歩を踏み出し、彼女の頬に…心に触れたい、守りたいと思う。守りたいと思うのは、家族や仲間、ひいては日本国を守りたいと思うのとは少し違う。

 男として、女を守りたいと思う。

 遥か古来より続き今に至る、ヒトとしての性。本能だ。


 だがそれでも尚、武市からはつみに触れる事はなかった。ただ、彼女を受け入れ、存在を感じ…彼女の言葉を待つ事しかできなかった。


「……私が、無力だから…」

「…うん…?」


 武市の腕にしがみついたまま掻き消えそうな声で呟くはつみ。武市は彼女へと視線を向けるが、はつみはうずくまる様に武市の腕を抱き締めたままだ。

「…でも、諦めない…私に出来る事を、します…」

「………」

「…私が、武市さんを守る」

 まるで自らに言い聞かせるかの様に呟いたはつみはその場に立ち上がり、武市と目を合わせる事無く部屋を出て行った。一人になった武市は、彼女の言動を冷静に受け止めている様でいて、どこか茫然としているだけの自分にも気付く。

 今のはつみの発言は、彼女が頑なに語ろうとしない真実への糸口の様にも思えた。自分がはつみを守っているつもりになっていたが、果たして、はつみの方こそ自分を守ろうとしていたという事なのか?

…一体何から…?



「武市先生。宜しいでしょうか。」

 はつみが出て行ったのを見ていたのだろう。早速柊が部屋の外に現れ、入室の許可を乞うてきた。ハッと我に返った武市は、腕に残っていたはつみの暖かさも踏まえて思考を切り替えようとする。本来ならば彼女の追うべきであり今こそ話し合うべきだと心のどこかでざわついてはいたが、強靭な理性がいつもの様にそれらを抑え込んでいき、そして次の瞬間には、入室してきた柊に対しいつもの姿勢、いつもの声色で対応するに至っていた。

「…寅之進らは行ったか?」

「はい。岡田さんと共に桜川を追っていきました。」

「そうか…。」

 日中、2人が付いて行っているのならば心配はいらないだろうと頷く武市に、今度は柊が尋ねる。

「ねずみの件の下手人については如何なされますか。」

「ああ…勅使ご一行の東下が間近に迫っておる。あまり大事にはしたくない。…だが、出来る範囲でいい、何か情報があれば知らせてくれ。」

「は。」

「これから三条様の所へ向かうき。おんしも付いてまいれ」

 気持ちを切り替えた武市は、いつもの様に指導者らしく毅然とした態度で部屋を出て行く。

 大義のために奔走する武市の強い意志と、彼を想い運命と闘おうとするはつみの気持ち。互いに相手を守りたいと願い、その想いを感じ取れるほど近づきながらも、心の根底ではまだすれ違い続けていた。







※仮SS