仮SS:夏の病


 8月。土佐藩主は上洛を果たし、河原町土佐藩邸へ到着。そのまま妙心寺へと進む。しかしその土佐藩主上洛を成させた中心的人物である武市は、どうやってもこれに随行できない程に体調を崩し、藩邸にて寝込んでしまっていた。大坂で大流行していた麻疹ではない様であったが、同時期に脛にできた原因不明の湿疹が悪化して滲出し、糜爛状にまでなってしまった。慣れぬ土地と激変の藩政をめぐる心労、夜通しの会議と来客、移動などで激務が重なり、体力低下と共に免疫機能なども弱っていたのかもしれないとはつみは心配していた。
 已むを得ず土佐藩邸に残留した武市には、以蔵や寅之進、はつみの他、去年の終わりから『土佐勤王党』に血判し武市を盲目的に傾倒しきっている柊智(ひいらぎさとし)が付き、看病を行う。主だった分担としては、柊が武市宛の書簡管理や来客の伝言などを行う申し送り、そして直接武市の療養生活や身の回りに関わる調整を行い、寅之進も身の回りの世話を中心に動いた。はつみはといえば、自ら進んで闘病中の武市が口にする食事管理やその買い出しなどを行っていた。少し前までは吉田東洋から目をかけられていた事もあって反発する輩は当然いたし、当然、武市を妄信する柊などはかなりの鋭い口調ではつみが介入してくる事に反対意見を述べていた。しかし、病床の武市がかすれた声で『はつみ殿の好きなようにさせえ』『柊…心配せんでええ…あれとうまく付き合うてやってくれ…時世の事は、俺が復帰してから…ちゃんとやるき…』と弱弱しくも明確に発したが為に、柊らは唇をかんで閉口するしかなかった。

 閏8月1日を以て他藩応接役へと昇進するも頭痛は続き高熱も引かず、京で一番と言われる新宮良民の診察を受け、ようやく「きん(火ヘンに欣)衝脳」と診断される。
「ええことどすなぁ。これ、治療法がありまっせ。すぐにとりかかりまひょ。」
 具体的な病名と治療法があるという言葉に安堵する皆を見て、当時の医療水準による限界値に想いを馳せるはつみ。更に新宮は、明日治療に必要な道具を持ってくる為の準備が必要だといって、いくつかの漢方を処方すると早々に藩邸を去っていった。

 翌日、新宮が治療道具と称して持ってきたのは、なんと『130~150匹の蛭』であった。
「キャアアアアアアアア!!??!」
 土佐藩邸内の控えの間で編み目の細かいザルを見せられ、軽率に中身を除いたはつみは大声を上げて腰を抜かしてしまう。慌てて寅之進に支えられ柊からは冷たい目線で睨みつけられながらも、新宮による治療方法が『この130匹を超える大量の蛭に血を吸わせる』という怪奇極まるとんでもない医療行為である事を知る。『蛭医者』といってれっきとした治療名があるらしく、且つ『毒が回った血を適量吸わせて捨てる』と言う医師の説明から、はつみとしては昔見ていた医療ドラマにあった瀉血治療を見込んだものなのだろうと想像をしていた。

 額を覆いつくす程の蛭に昼夜問わず血を吸わせるという『医療行為』の最中、並行して下剤を飲ませ、あらゆる毒素を出すと言う荒療治。食事等に関して医者は特に何も言わなかったが、瀉血に加えて下剤を投与するのならこまめな水分補給や栄養価の高い食事が必要であるとはつみは考える。
 必然的に、身体的な世話は寅之進や柊に頼る事となっていた。はつみはこの酷暑の中にも関わらず、毎日2回市へと出かけ、旬の野菜や鉄分ミネラルが豊富な海産物、高価ではあったが必要案件と割り切って砂糖を買い、食欲のない武市が口に含みやすいスープなどにするなど療養食の管理に努めた。また、体の清潔も保つように心がけ、衣服や下帯が汚れればすぐに取り替える。毎日に体を拭き、歯を磨いてうがいをする。

 はつみが提供する療養体勢や食事について『それは蘭学に基づく対応かね?』と医者からも興味深そうに尋ねられ、勿論蘭学とは少し違うが、はつみが現代で受けた義務教育における家庭科で習った『五大栄養素』や『脱水症状』『清潔』『口腔ケア』などの基礎的な知識を口頭で伝えた。また、こうした栄養素を意識した日々の食事は身体の免疫力を高め、万病のもととされる『風邪』や『流行り病の脚気』にもかかりにくくなる事を加えた。杉田玄白の解体新書が数十年前に公開されている一方で、今、武市に行われている様なすさまじく野性的な医療行為が平然と行われる時世にあっては殆ど重視されないどころか周知すらされていない基礎知識であり、だからこそ、やってみさえすれば、例えばそれこそビタミンB1欠乏によって引き起こされる『流行り病の脚気』にもかかりにくくなる、或いは改善がみられるという事なのだと。

 はつみの説明には迷いがなく、且つ、人の身体についての基本的な機能を考えた時、口に取り込むものや水分への意識が身体の機能を高めるという自然な『イメージ』を彼らはその脳内に描く事が出来た様だ。寅之進は逐一筆を執って書き取り、医者も『日頃からの病気予防』という観点に基づくはつみの話を非常に興味深そうに聞いていた。他にも『病気になった人は基本的に隔離するのが良い』『患者の咳や痰、鼻水、吐しゃ物や排泄物にも「毒素」が含まれている為、看護者への二次感染も気を付けた方がいい』『日々の清潔から健康が保たれる。手洗いうがいはこまめに行い、毎日歯磨きをして口の中の『汚れ』をゆすぐ事や虫歯にならない事も非常に大切。』といった要点をはつみから引き出しては、素直に納得して聞き入れる様子を見せている。


 一方。若き秀才・柊は露骨に苛々した様子で複雑そうな表情を浮かべながら、少し離れた場所からはつみの事を観察…いや、『監視』していた。思想の食い違いとかで彼女とは相容れないというのは元からあった障壁である。しかしここまで憎悪して見てしまうのは他の理由もあった。思い返せば、かの『子無きは去れ事件』の時からはつみの事が気に入らなかったのだ。

『なぜこんな開国派の女が、武市先生のお側に???』

 そう思わざるを得なかった。正妻のいる武市が妾などを囲う妻への不義を嫌う事は身を以て分かっている事であるが、であればはつみの存在は武市にとって一体何なのか?と、そのやけに垢抜けた顔を見る度に自問自答してしまうのだ。

 また、女だてらに京にまでやってきた事についても非常に気に入らない。
『武市先生はこいつを京に連れてこようとはしていなかった。』しかし『女子の分際で図々しくも追いかけてきたせいで、佐幕派の天誅が横行する中で危険だから保護してやろうと武市先生が受け入れてやった。』と、またも、武市から手を差し伸ばされている事が気に入らなかった。大坂では同士の一味が佐幕派である土佐横目の一人に天誅を行った事が暗黙の了解で把握されている。そんな状況の中で何故、開国派であり吉田東洋の引き立てまで受けていた様な娘が『保護』に値するのか?しかも状況は更に周囲の混乱を招いている。武市ははつみを保護する上で更に手厚い手段を取り、かの剣豪であり武市の懐刀とも言える岡田以蔵と、武市がその人柄と利発さ、そして生い立ちまでを見込んで江戸剣術修行への道筋を立ててやった池田寅之進の二人を、あの女の護衛にと配慮したのだ。一体何ゆえ、そこまでする理由があるのか。
 かといって、開国派の手先かも知れないはつみを傍に置く武市自身を疑ったり、『女に騙されていると気付けないのか』などと、ある意味馬鹿にする様な懸念を抱いている訳ではない。はつみを傍に置くのは、寡黙で私情については殆ど話をしない武市なりの『意図』があっての事だと柊は思案し、そう信じている。

…だからこそ、腹が立つのだ。余計に。

 土佐の尊王攘夷派を一身にまとめ上洛へと導いた真の盟主・武市半平太ではなく、個人としての武市の私情に入り込んでいる『はつみ』の存在が、気に入らないのだ。

 一言で言ってしまえば、嫉妬のようなものだろうか。

 当然、柊本人はそのように自覚はしていなかったが。



 一方の武市はというと、4日間程蛭に血を吸わせながらも下剤に苦しみ、体に優しく消化の良さに徹した流動食と共に少量頻回の水分補給を続けていた結果、その容体は目に見えて良くなっていた。排尿の方も順調な様で、こちらは寅之進や柊によって支えられながらも自力でできる様になっていた。脱水などの心配もなさそうだと一息つくはつみは、食事にも固形物を増やしたものにするなど考え付く限りに工夫を凝らしていく。
 6日目には、医者も武市の容体が安定し快方へ向かているとして太鼓判を押してくれた。

 医者の見立てでは、ここまで治癒するのに10日程。更に、低下した体力なども含めて全快するまで12.3日程と見ていたとの事。加えてこれまでの経験上、治癒時の顔色や肌、唇の状態等が大分良好であるとの事で驚きを隠せない様子だった。はつみの食事療法や水分補給とやらが効いているのだと実感したらしい。
 こうして、額の上で150匹も蠢いていた蛭が、医者によってようやく取り払われるに至った。蛭の咬み傷には抗凝固作用などが含まれており、150もの咬傷からじわじわとした出血が続けば見た目にはかなり危機感を覚える様子に思えるが、直に収まるという。
 武市が一息ついたのは勿論、この数日間懸命に看病を続けていた寅之進や柊、そしてはつみも、色んな意味で安堵する表情を浮かべる。そして医者が帰った後、寅之進と柊が事務的な処理を行っている傍ら、はつみは蛭の跡が残る小さないくつもの傷口を高純度の焼酎で拭き、『消毒』してやるのだった。

「良かったですね、武市さん。あとは、この小さな傷と一緒に体の方も少しずつ良くなっていきますよ」

「……」

 額の傷を優しく消毒するはつみは無反応の武市が眠りに付いた事に気付き、フと和らいだ笑みを浮かべて声を潜める。京の蒸し暑さ故か若干の発汗やほてりが見られたが、蛭からも解放され容態も安定し、静かな室内でようやく心から落ち着けたのやもしれない。

 傷口の処置をしながら、武市が眠っているのを良いことにその顔へまじまじと視線を注ぐはつみ。男性らしいやや面長の輪郭に、少し火照った白い肌。今回の病で少し痩せた様にも見える。傷口を優しく押さえつつ額に掛かる前髪を指で流しながら、さらに間近に彼の顔を覗き込んだ。

「(意外とまつ毛が長い…)」

 そして凛々しくも美しい目鼻立ちは、寝ていても彼の生真面目さが伝わるかの様だ。清廉さ溢れる整った顔に加えて背も高い事から一部では『役者の様』とも言われる武市であったが、蛭の噛み跡が残らなければいいな…と願わずにはいられなかった。

「………」

 蝉の声と風鈴の音が心地よく響く静かな室内で、はつみは武市の前髪に触れたままじっとその寝顔を見下ろし続ける。

 胸の内に込み上げてくる感情と共に、ふと、静かな部屋に眠る武市へ視線を送るという状況から過去の事件を思い出してしまっていた。あの時は到底今の様な安堵した心持ちではなかったし、深夜だった事もあってここまで鮮明に武市の寝顔を見る事もできなかったが。

 …もし、自分が子供を成せる身体であったのなら、あの時二人はどうなっていたのだろう…

 あれから半年以上も過ぎているというのに、いまだにそんな事が脳裏をよぎる事があった。今この瞬間も含めて、その都度、彼女の心に影を落としている。だが今は、こうして激動の日々の中であっても、例え二人の視線が交わらなくても、武市の凛々しく力強い姿を見ているだけで心が奮い立つのを新たに感じてもいる。

 そう、側にいるだけでいい。彼の近くで支えられるならもっと良かったが、なかなかそうは上手くいかない状況である事は十分に理解出来ていた。それでも、本来であれば彼の側にいないで有るはずの自分が側にいる事で、その運命をわずかにでも変える事ができるのなら…と。

 指先に触れていた前髪をそっと流し、武市の寝顔から離れたはつみは囁く様に

「…おやすみなさい」

 と告げる。

 手桶を持つと、なるべく音を立てない様に注意を払いながら部屋を去っていった。


「………」

 彼女の気配が遠のいたと見計らった頃、武市の意外と長いまつげの下に閉ざされていた瞼が重々しく開かれる。まだ触れられていた感覚が残る前髪の辺りに手の甲を置き、よほどの事が無い限りは不動であるはずの眉間にしわをよせ、長い息をついた。吐く息と共に胸が大きく下がり、それと同時にまるでようやく解放されたかのように存在を主張する心臓が、勢いよく鼓動を打ちつけているのを感じる。そんなに暴れるな…と再度ため息をつきながら、重々しく開かれたその視界に先ほどまではつみが座っていたであろう布団の脇を映し込み、しばらく見つめてから再び目を閉じた。

「何をしちゅうか、半平太…しっかりせえ」

 誰に言うでもなくそう呟き、心頭滅却でもするかのように、深く静かに呼吸を整え鼓動を鎮めようとするのだった。



 そして7日目の朝。
 目覚めと共に清々しく起き上がる事ができた武市は、はつみらがやってくる前から縁側に立ち、差し込んでくる朝のひかりを浴びて目を細めていた。額の出血も止まり、発熱中ずっと悩まされていた頭痛もすっかり治まっている。凄まじい高熱にうなされた体の節々がまだ少し軋むが、この分であれば明日には完全復帰できるだろう。座っての作業であれば、今日にも作業を再開できそうだ。
 ようやく復帰するからには、寝込んでしまった分を取り返す為にも、時世に対する奮闘に奮闘を重ねる日々が始まる。だが今朝のわずかな間だけは、情けなくも病に倒れ、ただの一人の男として周囲の者達に支えられたただの日々に想いを馳せる事に己を許した。そして特に思い返すのは、率先して身近の世話をしてくれた柊、寅之進、そしてはつみの事だった。

 皆よく尽くしてくれたが、はつみの動きは相変わらず、独特であったと思わざるを得ない。昼夜問わず水をこまめに含ませてくれた事、毎日体を拭いて召し物を取り換え、歯を磨き、枕に敷いた布も取り換えられた。その様に寅之進へ指示をしたのも恐らくはつみであろう。そして出てくる食事については特に思い当たる事があった。口に合わなかったという事ではなく、いつも口にするようなものとは全体的な雰囲気が違うと思えたのだ。身体の回復具合に併せて口に含みやすく、そして食べやすいものへと調整してくれていたのも伝わっている。
 彼女を信用して好きなようにさせてはいたが、医者の見立てよりも早く回復できたのは、日々の世話によるもの、そしてはつみの存在とその知恵の効果が大きかったのでは…と、軽快になった身体があればこそ身に染みて感じてしまう自分がいた。

そして、彼女がまた、己に新たな変化をもたらしたとも。

自分の嫡男誕生を巡る事件があって以来、彼女となんでもない会話ができたのは正直楽しくも嬉しいひと時でもあった。病床にあって『ただの一人の男』になったからこそ、向き合う事が出来たのだろうとも思う。

―そう。自分は嬉しかったのだ。



「―武市先生!」

 そうこうする内、いつもの様にあさげを持ってきたはつみと共に着替えを持つ寅之進、そして来客人の伝言などを書にまとめた柊の三人が、縁側の向こう曲がり角に姿を現す。清々しい朝日を浴び、着流しを整えて悠然と立つ大柄の男をその目に認めた柊は直ぐに駆け付け、寅之進とはつみもすぐその後に続いた。彼らがこちらへ駆け付け、各々が心配する言葉をかけ終わるのを待ってから、武市は言う。

「ありがとう。世話になったな。柊、寅……はつみ」

 落ち着いた声で一人ひとりに視線を合わせながら礼を述べる武市に、途中までは目を輝かせて応じていた柊の表情が一気に曇る。その視線は、言葉を無くしながらも顔を真っ赤にして頷くはつみに向けられ、その次に、やや斜め下へと視線を逸らして頷き部屋へと戻っていく武市の横顔や背中へ向けられ、そして再びはつみへと移り変わっていく。
 彼女が赤面して言葉を失い、ハッと我に返って慌てながら武市の後へと続くなどといった挙動不審に陥っていた理由は、武市がはつみを『名の呼び捨て』で呼んだからだという事はすぐに理解できた。昨日までは確実に『桜川殿、はつみ殿』と、言うなれば他人行儀とも言える一線を感じさせる対応だったはずだ。それが…今は明確に「はつみ。」と、彼女に直接、視線を落として述べていた。

 規律を守り言動を正す事を是とする武市が、女の枠に収まらず破天荒かつ異なる思想を持つはつみを『保護』する、『私情』の部分。それははつみが『無粋にも押し掛け、入り込んでいる』のではなく…『武市の心の内部から湧き出ている』ものだとしたら………?

 柊の中にドクドクと迫る何かも、彼の心に新たな変化をもたらさんと胸を締め付けてゆく。


「えっと…お顔の色も本当に良くなってますね!でも外もまだまだ暑いですから、あまり無理はしないでくださいね」

「うん」

「あと、水分補給も忘れずにしてくださいね。忙しくてもごはんはちゃんと食べなきゃだめですよ?」

「ああ…」


 今、目の前に広がるごくごく私的で平穏な空間を見て、柊は黙っているしかできなかった。




※仮SS