仮SS:終わりと始まり


 閏8月9日、武市が書いた『新兵設置』『大政奉還、王政復古』に係る建白書が土佐藩主の名で提出され、三条ら尊王攘夷派の公卿をはじめ志士の間で話題になっていた。しかしこれに突っかかって来たのが諸国をめぐる勤王派・本間精一郎であった。

 土佐の主導権はあくまで江戸に座する容堂にあり、現在上洛している土佐藩主でもなければ当然、藩を裏で牛耳っている武市半平太でもない。その容堂は薩摩らと同調し公武合体論を推し進めており、容堂が将軍に見え幕府に意見するはあくまで『幕政改革』に係る意見であって尊王攘夷を根幹とした思想は取り合っていない。この様に藩内が一枚岩となっていない状態でなされた建白書にどれだけの価値があるのか。只でさえ政治手腕に長けた薩摩が公家の一味と結託し和宮降嫁などといった強力な公武合体策を押し続けている中で、土佐の上辺工作はどこまで信用できるのか―。

 といった事を尊王攘夷志士達の間で説いて回っているという噂が、とある飯処で夕食をとっていたはつみ、寅之進、以蔵の耳に入ったのである。

 はつみよりも武市ら周辺の実状に詳しい以蔵は、これについて

「藩邸の者らぁは『本間がうそ吹いちょる』『妨害行為じゃ』と憤っておった」

 と言う。こんな事を公卿衆などに吹聴されてれては、土佐藩の取り付く島もなくなってしまうだろう。これは吉田東洋の時と同じく、土佐勤王派にとって極めて重大な壁であり障害であると認識されても已む無しの自体である。
 また、本間は見栄えの良い煌びやかな身なりをしていたが金子に事欠いていた様で、背後に付いている公卿の名をあげて金品を貢がせるといった品の良い噂も出回っている。最近、はつみの挙動の監視も兼ねて行動を共にしていた柊や新兵衛についても、ここのところ『所用がある』と言って別行動をとっていた。もちろん今日も彼らの姿はない。

「…本間さんを捜しに行こう。」

 様々な要因が繋がり、胸騒ぎを感じたはつみは寅之進の制止も聞かず夜の町へと駆け出す。本間に会い、本気で注意を促すつもりでいた。夜道を駆けながら、先を行くはつみに寅之進が声をかけた。

「ですが本間殿と合っているところを誤解されでもしたら、今度ははつみさんが危険な目に遭います!」

「心配かけてごめんね、寅くん。…でも…本間さんを死なせるわけにはいかないの。」

 近く、本間が天誅に遭う事を知っているのははつみだけであったが、寅之進や以蔵も『そういう状況になってもおかしくない』とは既に肌身に感じていた様だった。もう何度目の天誅となるだろうか…。はつみは武市の庇護を受けてはいたが、直接同行する事を許された訳ではない。土佐勤王党とは一線を置いた状態で、時折武市が宿に様子を見に来るだけで結局何をするでもなくここに滞在し続ける日々。土佐の勤王党がいつどこで何を話し合いどんな工作を行っているかは知る由もなかったが、はつみにだけ分かる事があった。

 東洋暗殺以降数か月の間、京阪で行われる天誅の殆どは土佐勤王党が主犯だと言われているという事。

 本間精一郎が彼らによって暗殺され、梟首されるという事。

 その暗殺には、田中新兵衛、そして岡田以蔵ら数名が直接関わっているという事。

 その瞳に強い意思を漲らせるはつみを見て、寅之進はぞくりと体を震わせた。自分の弟と、そして自分自身にも災いと危機が降りかかった井口村事件。あの時、土佐の男達のどんな罵詈雑言にも負けずに立ち向かい何よりも寅之進の命を守ろうと奮闘していたはつみの姿と、自分を抱き締めていた腕の締め付け、身体の密着を思い出す。
 自分だけが特別でない事は分かっていた。そして、あの時のはつみと同じ気が今目の前にいるはつみに再び宿っているのなら、きっと彼女は行動をやめるという選択はしないだろう。

 …であれば、自分のやる事はただ一つ。

 はつみが成す事を、全力で支え、身を挺して守り通すだけだ、と。

「…わかりました。ですがここは変装でも何でもして、とにかく慎重にいきましょう。何よりも貴女を守る為です。」

「…ん、わかった。」

 当然無茶とも思える行動を共にしてくれるだけでなく、助言を挺してくれる寅之進の存在がいかに心強い事か…。はつみは真っすぐに寅之進を見つめ、唇を引き縛って深く頷いて見せた。宿で落ち合う約束をし、探索に向けて適切な着物を調達してくると行って出て行った寅之進に変わり、その場に残った以蔵へと視線を向ける。

…そう、歴史上ではあらゆる天誅にて『手柄』を上げ続け、人斬りと言われた以蔵…。

「以蔵くんは、私と一緒にいてくれる?」

「…ああ。」

 だが、彼はここにいる。…更に言うならば、先日大坂で聞いた土佐藩下横目の暗殺にも彼は関わっていなかった。

「以蔵くんの剣は…活人剣だよね」

「……」

 腰に差した大に手をかけた以蔵は手慣れた手付きでカチンと音を立て鯉口を切り、ほんの少しだけ刀身を覗かせたが…。薄暗い部屋のわずかな火の灯りを照らし返すそれに視線を落とした後、再びパチンと音を立てて鞘に納めた。

「…ようわかっちょらん。じゃが、おんしを守るために俺はここにおる。…守る為ならば誰ぞ斬るやもしれんが。」

 そう答えた以蔵に、何故かはつみは泣きそうな顔をして…だがとても嬉しそうに二度三度と頷きながら以蔵に近付いていった。彼が本当に付きたかったのは自分ではなく武市の側であり、武市と共に『お国の為の働き』を成したかった事はよくわかっている。今もきっと、そう感じているだろうと思っている。それでも以蔵ははつみの話をその心に刻み、理解しようと努め、はつみの傍にいてくれていた。

…歴史を越えて、どの天誅にも加担せず、ここにいてくれているのだ。

「ありがとう、以蔵くん…」

 ふいに近付いたはつみの距離感は、この時代の武士からすればその貞操観を誤解される程に近いものだ。だがはつみにとっては、今もここにいてくれる寅之進、そして以蔵の存在が泣けるほどに心強いものでありやましい気持ちは微塵もない。ただ以蔵の両腕に手を添え、そっと瞳を伏せて俯き、彼の存在を感じながら感謝の念を表している。

「……」

 前髪の隙間から目の前に迫るはつみの俯き顔を見つめる。その表情を見れば、自分の言動は彼女にとって正しいものであるという事は一目瞭然だった。手を添えられた両腕が熱を帯びた様に熱くなり、とっくの昔に捨てたはずの何かが胸の奥深くにじわりと沸き起こる気さえする。武市と共に大坂、京へと来て以来、自分の居場所はここで合っているのか、やはり自分など必要とされていないのではないか、考えている事は果たして正しいのか等と思う事も人並みにあったが、全てが肯定された様な気さえした。



 機転の利く寅之進が用意した着物は夜の闇に紛れる様な濃い色のものが多かった。容姿的に目立ちがちなはつみには変装用の眼帯や頭に巻く手ぬぐいまで用意したくらい、慎重に慎重を期している。更に探索には主にはつみと寅之進が聞き込みを行う事とし、以蔵は少し離れた場所からはつみ達を付けたりする者がいないかなど、周囲を監視する事となった。そして誰と示し合わせた訳ではなかったが、以蔵にはルシというはつみの相棒が付いていく様だった。以蔵が外に出ると彼の上空を飛び回り、いずこかへと飛んで行く。そして、以蔵が歩み始めるのを遠くからでもしっかりと見据えており、彼と同じ方角へ向かって空を切り、遥か高みから彼を見守っているかの様でもあった。

 その日、はつみたちが本間を捜しに町へ繰り出したのは夜も深まった頃の事であった。雨が降り、人目を避けられるという意味では好条件であったが、もし今夜天誅を企てている者がいるとするならば彼らにとっても好条件の一夜という事になる。本間本人が言っていた「四条あたりで待ってるよ」の言葉を頼りに花町周りの飲み屋を渡り歩くが、ただ色の濃い服装をしているというだけで、怪しまれない様、決して焦らず、自然な会話をしながら周囲へ神経を張り巡らせた。土佐の勤王党と思わしき顔ぶれもなく捜索自体は順調に4.5軒回ったところで夜も深まり、そう簡単に探し人に会えるわけではないか…と引き上げ時を考えていた時の事だった。
 バシャバシャと音を立てて近付いて来たのは、外でずっと周囲を伺ってくれていた以蔵だ。笠を被ってはいたが髪が雨に濡れて煩わしそうにしながらも取り急ぎ報告をしに来てくれた様だった。

「向こうで数人の足音を聞いた。怒号からして誰ぞ追いかけちょる。」

「……っ!」

 はつみはハッと息をのむと雷に打たれた様に引きつって硬直し、その顔にはたちまち恐怖や困惑といった色が染み広がっていく。寅之進が優しく声をかけた事で正気を取り戻したはつみは、辛そうに眉間を歪め、泣き出しそうな声でこの時を告げる。

「…きっと本間さんだ…助けなきゃ…」

 こうなった時の打ち合わせも既に済ませてはいたが、またもや非常な歴史を目の前に突き付けられるはつみは大きな重圧めいたものをずっしりと感じ、体が震えはじめる。腰の桜清丸は何の反応も示していないが、代わりの道しるべとなるべく力を分け与えてくれたのは、同じ様な状況を共に乗り越え、今も尚歴史を越えて存在する寅之進であった。

「はつみさん、大丈夫です。気を強く持ってください…あの時の様に」

「寅くん……うん…そうだよね…」

 真正面から真っすぐに視線を送り頷く寅之進と視線を通わせ、はつみも気丈に心を奮い立たせる。

「貴女のお側には、俺達がついていますから。」

「……」

 『天命』とも言える使命感に燃える寅之進の真っすぐな言葉に以蔵も言葉なく同意し、再び雨の中へと一歩二歩歩み出すと「いくぞ」と声をかけた。肩越しに振り返った視線で寅之進やはつみらは視線を合わせて頷き合い、各々も一歩踏み出していく。そして手筈通りに寅之進は単身町の闇へと走り、はつみと以蔵は『目的地』と思われる場所へと向かって走り出したのだった。

 月明りもない闇夜に紛れて見辛くはあったが、時折ルシの姿が屋根の合間に垣間見える。以蔵が騒がしい物音を聞いたという方角へ向かって暫く走っていたがとある時点で突然以蔵に止められ、そこからは足音を忍ばせ周囲の暗闇に神経をとがらせながらゆっくりと進んでいく。そしてついに、降りしきる雨の合間に人の気配を感じる事ができた。水たまりを激しく踏み鳴らす音と共に、物がぶつかり倒れる音、そして何人かの男の声だ。

「いた…!」

 まるで敵を見つけた猫の様にはつみが緊張を示すのその口元を、咄嗟に手で押さえ包んだ以蔵が物音の先に神経をとがらせている。今行くのは非常に危険だと判断した様で、『どうしたの以蔵くん?早く行かなきゃ…!』と飛び出そうとするはつみを抑え込んでいる。

 その矢先、遠くで『ピィーーーーーーー!!!』と甲高く鳴る笛の音が雨模様の空に響き渡った。

 奉行所の夜回り組などの呼び笛の様だ。どうやら、陽動として別行動を行っていた寅之進が『通報』に成功した様だった。彼は夜回り組を見つけ、少し離れた場所から大声で『辻切だ!』と叫んで町全体の警戒を押し上げるという策の実行に移っていたのである。

ひとつ呼び笛が鳴るとあちこちで共鳴しあう様に笛の音が上がった。雨が降っていて聞こえづらくはあったが、極端に視野も悪い夜分に異常事態を伝達するには最も効果的だと言えよう。

「…気配がのうなった。逃げたか…」

 以蔵の研ぎ澄まされる感性は、先ほどまで捉えていた気配が霧散した事を感じ取っていた様だ。突然鳴り響く呼び笛に驚けば計画を中止して解散するか、最悪、絶体絶命に陥っている本間を危機一髪で救えるかもしれないと考えての策だったが、どういった形であれ功を成した様だった。ついに駆けだしたはつみを追いかけながら「行き過ぎるな」と珍しく張る以蔵の声が、背中に投げかけられる。しかしはつみはその声を受けながらも、込み上げる涙を雨水に打たれるがままに流しながら、『気配』があった一角へと向かって走り続けていた。




「―っ!本間さん…本間さんっ……!!!」


 策は成した。彼を見つける事もできた。


 だが、彼を救う事はできなかった。


 駆け付けたはつみは、路上でうずくまる人影に飛びつくとしっかりと抱き止め、痛みにうめくその人の顔を見やる。

「……あんたか…」

 大男がはつみのか細い腕に抱かれるようにして顔を上げ、振りつける雨が前髪や返り血に汚れた肌を自然と洗い流してくれることを期待しながら、ただ雨に打たれ続けていた。釣り目気味の流し目ははつみを見つめ、この様な状況となっているにも関わらずまだどこか挑発的で、はつみを誘惑しているかの様な色を帯びている。紛うことなく、本間精一郎の顔だ。そんな彼の瞳を、はつみもまた、雨など気にせず大粒の涙をこぼしながら見つめていた。

「呼び笛が鳴ってたな…あれは、嬢ちゃんの仕業か…」

「はい。でも…間に合わなかった…もっと早く本間さんを見つけていれば…」

 抱き締める間にも、打ち付ける冷たい雨の中に本間の熱い血が流れ伝っていく感覚が、手に太ももにと伝わっていく。はつみの返答を聞いてか力なく『へへへ…』と笑う本間に構わず、彼の傷はどこなのか、とにかく圧迫しなければと問いただしている。しかし運命を受け入れんとばかりに止血など必要としない本間は、傷口の辺りを抑え込もうとするはつみの手を取り、すっかり血の気も失せて震え強張る己の指を絡める様にして握り込む。雨の濡れ方ではない、もっと粘り気のある

「あったけぇなぁ…」

「本間さん!早く傷の手当をしないと!」

「…なあ、落ち着けよ…ねんねする子供の横で、そんな大声出したりしねえだろ…?」

 泣き叫ぶはつみにあやすような声をかける。そのような状況ではないが、彼にとっては最早どうでもいい事の様だった。はつみは首を横に振り、しかし本間の言葉を尊重して適切な声量で声をかけ続けた。

「寧ろ寝ちゃだめです…!早く止血をしなきゃ…!」

「ククク……なあ…ありがとうな…遅かれ早かれ…こうなる事はわかってたんだ…」

「どうして…?いや、お願い、何処を斬られたのか…教えてください…!」

 終末の予感があった事を話すには、これまで多くの同志や知己を得ながらも基本的には一匹狼で生きて来た事、時勢についてを根底に話をしなくてはならない。だが、そんな時間はもうない事は分かっていた。それよりも、こんな状況に居合わせていては彼女の今後が心配だなどと脳裏をよぎる。どうすれば、限られた時間で彼女が無事でいられる策を伝えられるだろうか。
 終末の予感をしながらも、まさか痛恨の念に駆られるより女の事を考えているだなんて想像もしていなかった。それどころか、会話をしながらも出血箇所を探そうと体をまさぐるはつみの手の動きにいやらしさや自分が彼女に対して望んでいた感触を得てしまって笑いが込み上げてくる…。と同時に、傷つけられた臓器から逆流した血液がゴボリと口から吹き出す。

「―しっかりして!本間さんっ!!!」

 再度、悲鳴の様な声で名を呼ぶはつみ。血が出過ぎているのか急速に意識が遠のきそうであったが、抱き抱えられて視界に入る空を、白い鳥が飛んでいるのが見えた。そして『ケーン』という鳴き声がどこからともなく響いてくる。

「…夜回りらが来るぞ。」

 そしてまるで引き寄せられるかの様に周囲の変化に気付いた以蔵が、小さくも鋭く空気を切り裂く様な声を発した。夜回り組の呼び笛が近くまで迫っていたかと思った矢先であったが、直ぐにバシャバシャと複数名が駆け付けてくる音と共に小さな灯りがこちらへ向かってくるのが見える。

「こっちだ!声が聞こえたぞ!」

「―おい、誰かいるぞ!大丈夫か!!!辻切か!!!」

 2人組の夜回りが一行を見つけ、油紙で囲った提灯を差し向けながら駆け足で近付いて来た。はつみは逃げ出すどころかむしろ声を上げて呼びつけ、彼らに助けを求めている。犯行現場を見つけた彼らは露骨にギョッとした顔を浮かべて互いに見合わせていたが、一人が周囲を見張る間にもう一人が膝をついて今にも息絶えそうな本間の様子を確認し、はつみにも問答を投げかけるのを遮って、本間が言葉を漏らす。

「なあ、お廻りさんよ…こいつは、俺の大事な人なんだ…わかるだろ…?」

「本間さん…」

 被害者である自分が直接見廻りに対して証言できる機会が来るとは、犯行現場に居合わせているはつみの今後を懸念していた本間にとっては望むところだった。

「こいつは何も知らねぇ…知らねぇ事をあれこれ掘り下げて…こいつを困らせるのだけは…やめてくれ。……後生だぜ」

「…しかし…」

「…ったく…頭のかてぇ男は…これだから嫌いだよ……」

 本間は最期の力ではつみに口付けしようとしたが敵わず、自身の深い血で真っ黒に染まった手をバシャリと路面へ放り出してしまう。残されていたわずかな力も今ので全て使い果たしたかの様に、自分の意思で体を動かす事すら出来なくなってしまった。ただ無理に動かした反動か、再び込み上げてきた体内の血液が口から大量に流れ出てしまうだけだった。

「…だめだ…体が…言う事ききゃあしねぇ…ゴフッ」

「―本間さんっ!!!」

 それでも、彼が何をしようとしていたのかは見ていて瞭然だ。『恋人』であるはつみが泣いて「早く人を呼んで下さい!」と言い放つのを受け止めた見廻り立ちは、顔を見合わせて頷き合うと一人が駆け出し、仲間を呼びに行ったのである。残った一人ははつみと共に怪我の場所を探りながら、本間に犯人の証言などを求めていた。

 はつみや見廻りの男が怪我の手当てとか犯人がどうとかと騒いでいるのは聞こえていたが、怪我の手当てだのとそんな事よりも最後まで伝えたい事がある。もう限界が目前まで来ている事は誰よりも自分で把握していた。掲げた志に後悔はなく死ぬ覚悟も出来ていたし、はつみが犯人ではないという事だけは伝えられたので満足もしている。ただそれでもまだ心残りがあるとすれば、目の前の健気で可哀そうなお嬢さんに、ただ、赤裸々に想いを伝えたいだけだった。

「江戸で…」

 かすれた声で何かを伝えようとする本間の声を聞き届けようと、見廻りの男は咄嗟に黙り、はつみは彼の顔へと耳を近づけた。『気が利くな』とばかりにフと笑い、はつみの影によって顔を打ち付けていた雨が遮られ、夜回り組の弱弱しい提灯の灯りに照らされた彼女の顔が良く見えた。自分の為に泣いて赤く腫らした美しく垢抜けた瞳、雨露を湛え滴らせる長いまつげ、滑らかで愛らしい頬、そして血色の良い張り艶で見る者を虜にするであろう形の良い唇…その唇にもう触れられないのは残念に思いながら、ただ、女をとっかえひっかえがちだった自分にしては随分長い事想っていた事を、最後の一息に乗せて囁く。

「あんたを…抱いときゃあ良かったなぁ…」

「……本間さん…本間さんっ!いやぁ……!」

もはや痛みもない。声も聞こえない。
だが急速に狭まり薄暗くなっっていく視界の中心には、ただ一心に自分を覗き込む…美しいはつみの顔があった……。



 一向に雨脚が弱まる事の無い夜空を、ルシが白い翼を羽ばたかせ空高く舞い上がる。まるで解き放たれた魂を導くかの様に『ケーン』と甲高い鳴き声を放ち、そのまま夜の闇へと消えていく。





 遠くの夜空の下ではまだ、現場を探し回り警戒を高める呼び笛が鳴り響いていた。一部の地域にはまだ連絡が到達していないのだろう。一方で、現場に辿り着いていた見廻りの仲間達は流れ出た血に染まる路面に膝をつき、はつみが彼を抱き締めているのを良しとしたまま、本間の脈や目元に触れてその死亡を確認。全員が手を合わせ、黙とうした。

 はつみの胸に身を委ねる様に事切れた本間は、京師に名の知れた志士が志半ばに遭難したという無念極まりない状況であるにも関わらず、誰が見ても微笑んで見えるほど穏やかな死に顔をしていた。






※仮SS