仮SS:最後の記憶


文久3年、4月。


先だって229年ぶりの上洛を果たした将軍・家茂公がまだ帰東せぬ内から、山内容堂は土佐の軽格ら殆どに帰藩命令を出し、自らも京を後にしようとしていた。武市は異例の大抜擢を受け京留守居役を受け持ったがその役職故に行動を強く制限され、かつ、武市の強力な同志であった平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太らは青蓮院宮令旨事件に際し建白書を提出されるも受け入れられず、捕縛となり土佐へ連行されている。帰藩した軽格の勤王派らも再上京を固く禁じられるなど、土佐勤王派、すなわち土佐勤王党への弾圧が名実共に執行されつつあった。
そんな中武市は、朝廷工作や藩政改革に加えて険悪な状況にある薩長の間を土が取り持つとして、この両雄藩を取り持つ役目も担っていた。桂小五郎から土佐が間を取り持ってくれるのならと条件を出して来たが、容堂公は薩摩と公武合体論を通して繋がっており、こうなっては武市以外に容堂公へ認知を説けるものは存在しない。
 武市は大義の為、まさに覚悟をして容堂の元へと向かう決意をしていた。


密かに帰藩へ向けた準備をする中、この日もはつみは寅之進といつもの様に買出しに出ていた。武市は部屋に差し込む暖かな春の陽を受けつつ、室内に活けたばかりの、桜の枝を見ながら想いふけっている。


2月のあの日…はつみがその決意と想いを見せてくれた日以来、こんな厳しい状況にあるというのに思考が定まらない事が多々あった。何をしていても、はつみの事やあの日の出来事が頭をかすめ、彼女の髪を、重さを、熱を、そして唇を思い出してしまう。そして情けないほどに「もし、あの時…」などと考えてしまうのだ。


武市とはつみは常に見えない壁に隔てられていたと言ってもいい。二人はお互いを想い合うが故に相手の立場を考慮し、武市は『大義を成す土佐勤王党の盟主』であり『妻を持つ身』である為にはつみと距離を取ろうとする事すらあった。はつみもまたそれで仕方ない、当然だと思い、ひたすら堪え忍んでいた。

丁度一年ほど前の東洋暗殺の頃より目に見える様な溝が出来たものの、はつみが武市を追いかけて京へ来てからは二人の関係は少しずつ変化していく。京に来てからも幾度と無く意見をぶつけ合う事もあったが、はつみは武市のそばを決して離れなかったし、武市ももうはつみを追い出そうとはせず、寧ろ、彼女を守るために自分の側に居させることにした。

京に来たはつみを寓居に住まわせたのも、以前から思想の違いや海外情勢に詳しい事などを受け、はつみを敵視しがちな血気盛んの同胞達からはつみを守る為である。


しかし、そんな『はつみの安全の為に』と思っていた行動も、いつしか自分でも気付かない内に主旨が違ってきている事に気付く。

これまで、目指す時世の為に他人の命を己の決断に委ねる事もあった。その重大な決意と苦悩に比べたら、はつみを自分の元から遠ざけ安全な場所へ送るだけの事など造作も無い事のはずだった。


親身になって何度もはつみを勝の元へと勧誘する龍馬に対しても、はつみは決してそれに首を縦に振ることはない。その事に、自分は内心胸を撫でおろしているのである。


はつみに『恋』をしている…。

長い間、自覚はあったものの錯覚だと思い込もうともしていた感情だが、もう自分でも否定する事が難しい程に、想いが溢れてくる。…そんな自分に、後が無くなってきた今になってようやく気が付いた。はつみの側にいるのは、はつみを守りたい為ではない。自分が『彼女の傍にいたい』と、そういつしか思っているからだと。


土佐勤王党への弾圧により、武市は敏腕だった補佐を多く失い勤王党員の殆ども容堂によってその活動を抑圧されている。もはや目に見えて、かつて京の裏事情を操っていたほどの力はない。こんな状況にあってもはつみの安全を思うなら、彼女を早々に龍馬の元へと送り届けるべきだろう。
今の勤王党、もとい自分の側に置いておくよりは遥かに安全であるし、はつみ自身にとっても、その思想も有する知識も、龍馬達のそれと共鳴する部分が多いはずだ。

これまで何度脱藩の有用性を説いても、武市が脱藩をしないと悟ったはつみは、諦めがついたのは開き直ったのか、今となっては武市と共に土佐へ帰る気でいる様だ。土佐へは来るなと何度も言ったが、彼女もまた、決して首を縦には振らない。

この状況で彼女と土佐へ帰ることは考えられない。危険すぎる。やはり、龍馬に託すしかないのだと…人知れず決心に至った。






昼過ぎ。
はつみが帰ってきたのを受けて、武市は彼女を中庭に呼んだ。


例の人を斬る一件以来はつみはかなり落ち込んでしまい、前にも増して影を背負う様になったが、今は外で買い物をするぐらいには回復してきた様であった。傷の方も深くはなく、日々の活動にも差し支えはない様だ。

武市の下にやってきたはつみは、買ってきたという和菓子を持っていた。年が明けてからは容堂の土佐勤王党に対する抑圧絡みで緊張が続いており、菓子を買ってくるという事もなかった。そういえば、彼女がこういった菓子が大好きだった事を思い出す。

…そんな事にも気付いてやれなかった事に、自分は不甲斐ない男だと改めて思った…。

はつみはその華奢な手に乗せたふんわりとしたひよこの様なまんじゅうを、嬉しそうに武市に差し出す。

「見て下さい!あんまりかわいくって買ってきちゃいました!中にはこしあんが入っているそうですよ。久しぶりに3人でお茶しようよ。」


2年前出会った頃の笑顔と比べたら、その笑顔もだいぶ控えめになってしまった…。恐らく、そうさせてしまったのは他でもない自分なのだろう…。

それでも、うららかな春の日差しの下で見るはつみの笑顔は、武市の頑なな決心すら揺るがしてしまいそうなほどに眩しく…そして愛しさを感じさせた。


しかしその様に感じられるのも、今まさに『決心』が付いた故に、なのだろう。


これが『最後』だと思うと、ここのところ忘れかけそうになっていたあたたかな感情が、すべてはつみに向けて湧き出てくる。

だが、真に守りたいと思うからこそ、今、決行しなければならないと、固く決意していた。




「…その前に、おんしに聞いておきたい事がある。」

「はい、何ですか?」

「実は先日、龍馬が来てな…おんしらを引き取りたいと言うて来た。」

何やら不穏な話の雰囲気に、晴天に突然雲が現れたかの様にはつみの笑顔が潜んでしまう。奥で茶を準備していた寅之進も静かに二人の会話を聞いていた。うつむいてしまったはつみを前に、武市は腕を組みながら話を続ける。

「…これが最後の機会と思うてくれ。俺は、おんしらは龍馬の元へ行くが一番いいと―」

「嫌です!私も一緒に土佐に帰ります!!!」

 触れてはならない琴線に触れてしまったかの様に、とたんに涙声になったはつみが武市の言葉を遮って叫んだ。先ほどまでの麗らかな雰囲気は一瞬で消し去り、暖かな春の日差しこそが場違いなのではと思わせる程の緊張感が、中庭にほど走っている。

今にも泣き出しそうに、その瞳に大粒の涙を溢れさせるはつみが、決して揺るがないとばかりに武市を見つめていた。そんなはつみに、武市は語りかける様に説得を続ける。

「…共に土佐へ来て、何をするんじゃ。俺と共に帰藩すれば予期せぬところからおんしにも嫌疑がかかるかも知れん。そうなると成せる事も成せぬ身になってしまうぞ。」

はつみが言っても聞かない事についても百も承知だった。こういった押し問答を少し続けた後、武市は観念した様に懐から一通の文を取り出し、それをはつみに託す。

「…わかった。…試す様な事を言って悪かったな…。此度の件、つまりおんしは俺と共に土佐へ戻ると伝える旨を書いておいた。龍馬もあやつなりに心配して申し出てくれたのだろうし、顔を立ててやらねばと思うてな。…明日、これを届けてきてくれるか?」

「―はい!わかりました!」

「うん。では、まんじゅうを頂こうか…」


はつみは、ともに土佐へ帰る事を改めて受け入れてくれた武市に喜びさえ感じているほどだった。何の疑いもなく武市から文を受け取ると、気を取り戻してお菓子の話をしている。

彼女は彼女なりに、残り少ない京での時間を少しでも明るくしようと勤めているのだろう。そんな彼女が一層、いじらく、愛らしく思える。


この日が共に過ごす最後の一日になるであろうと、武市だけが知っていた。








「ど、どういう事!?!?」


朝一番に武市寓居を出たはつみは、昼過ぎ頃、龍馬がいるという伏見の寺田屋にたどり着いていた。しかし、文を読んだ龍馬からの一言に心底驚愕して声をあげている。

文には、龍馬にはつみと寅之進の身柄を預けるといった旨が書かれてあった。はつみ達には土佐にはしばらく近寄るなとさえ書かれている。

そしてハッと顔をあげたはつみは、龍馬に断りも無く寺田屋を飛び出した。朝来た道を、全速力で駆けて戻る。



数刻をかけてやっと武市の寓居に戻ると、門が固く閉じられていた。武市の名や柊を呼んでも、彼らの気配どころかそもそも人の気配がしない。武市の部屋であった離れに続く裏門までもが閉じられており、無理矢理壁を乗り越えて中に入ると部屋という部屋を半泣き状態で全て見回る。

しかし当然ながら人気はなく、帰藩に向けてまとめてあった荷物も、武市の分だけ無くなっている様だった。

やはり、はつみが龍馬の元へ行っている間に帰藩の旅に出たらしい。


「―武市さんっ!!!」


絶望する前に再び駆け出し、今度は旅人が通る街道に向かってひた走り、最寄の関所へ向けて駆け抜けて行く。


「やだ…やだよぉっ、武市さん…武市さんっ…」!

泣きながら走る男装の少女を振り返らない町人はいなかった。通行手形を持っていないので関所を越えられては追いつけなくなる。そうなる前に…と、人目を集めようが、体力の限界が来ようが決して歩みだけは止めず、とにかく進み続けた。







「はつみさんっ…これ以上は…危険ですから……!」


陽も沈みかけた夕刻。

食事も水も摂らず走り続けたものの体力が及ばず、関所に辿りつく前についにへたれこんでしまったはつみに、懸命について来た寅之進が心から辛そうに声をかけた。

あたりは薄暗くなり、闇夜での長距離移動は治安が危ぶまれる。はつみの草履は擦り切れ、足袋も袴も砂埃や泥ですっかり汚れていた。はつみ本人も只でさえ体力が人より劣ると言うのに飲まず食わずで進み続けたせいか、体調不良を起こしかけており、流石の寅之進もこれ以上は無理と判断したのである。
彼がいなかったらここで行き倒れているであろうという状況だ。

「…ひとまずは龍馬さんのところに戻りましょう…おそらく…武市先生はすでに関所を越えていらっしゃると思います…」

寅之進の言う事をはつみも頭ではわかっていたが、感情が今ある事実を受け入れられないでいる。



絶対そばにいると決めたのに…

自分がこの時代に持っていた『希望』は、寅之進を救えた様にきっと武市を救いたかったからだと思っていたのに…


全てを投げ出しても受け入れてもらえないのなら、

全てを投げ出してでも付いていこうと決めたのに…!



「う…うぅ…っ…うわぁぁぁぁぁーーーーっ!!!」



はつみは両手を地面に叩きつけ、突っ伏す様にして泣き出した。



はつみが涙を流すのは何度も見てきた寅之進であったが、ここまで激情をあらわにして泣き崩れる姿を見るのは初めてだった。

それだけ、彼女にとっては耐え難い出来事だったのだろうと寅之進は察する。

そして、当然、自分ではとても慰める事などできないという事も。



辛そうな表情ではつみを見守っていた寅之進は、やがて彼女を抱き起こすと何も言わずに彼女を背負い、伏見の寺田屋に向けてまた長い道を歩きはじめるのだった…。





はつみは、獄に送られる事となる武市を必ず救い出す…

歴史を変えてみせると、一層その決意を漲らせた。



皮肉にも、明るく勤めようとした京での柔らかな語らいが、二人にとっての最後の記憶となるのだった…。








※仮SS