仮SS:椿の押し花


文久3年3月、季節外れの雪の中、武市と椿を鑑賞した。美しく咲き誇った椿を見る目はどこか物悲しく、それは暗に、二人の心が寄り添っている様でそうでない在り様を映し出しているかの様でもあった。

「…武市さん」

「ん?」

「…好きです。絶対に一緒に土佐へ帰りますから」

「……おまんもまっこと、強情なおなごじゃな…」

 先日の事があったのに性懲りもなく…と武市は困った様に言う。

「いいんです。私がここにいる意味は、武市さんに受け入れてもらう為じゃない…貴方を土佐から遠ざける為なんです。…でもそれだけじゃ辛いから…言いたい時に言うって決めたんです。あなたの事が好きだって…」

 土佐から、そしてこの道の為に斬った者達から逃げるわけではない。『日本国という大義名のために出奔』するのだと説いても、武市は土佐勤王党への弾圧の兆しが見え隠れする土佐へ帰藩する道を選ぼうとしていた。至誠であるがゆえに、筋道を通さねば大義はならずと考えるが故、彼は弾圧の指導者たる山内容堂の懐へとあえて飛び込まんとしていたのだ。

 だが、はつみの心身を賭した説得がまったく響いていない訳ではなかった。武市は『一緒ならきっと乗り越えられる。私が必ず、支えて見せるから』という涙ながらの言葉に今にも絆されてしまいそうだった。武市の中に芽吹いた初めての恋心は、彼が誠実であるが故に自らその存在を欺き、常に押さえつけ、見ぬふりをし続けてきた。しかしその小さな小さな温かさは、時世の渦の中心で冷徹冷血にならざるを得なかった彼の心を温め続けた。どんな夜でもはつみの声を聴くと心が休まるのを感じた。顔を見ればなにも無くとも安堵し癒されるのを感じた。…自分を好きだと言われれば…口づけをされた時は…あえて己の心を凍てつかせなければ、彼女を傷つけてでも遠ざけねば、一線を越える手段に身を投じてしまいそうだった。そうなってしまっては、将来有望たるはつみ自身にも弾圧の手が伸びるだろうとの一心で、彼女を拒んだというのに…。今も変わらず、音も無く武市の心を大いに揺さぶるのである。


彼女が自分への想いを包み隠すことなく口にする様になったのは、あの口づけを交わした日からだった。そんなはつみの話を聞きながら内心激しく葛藤していたが、まるで己を見失わない様にと黙って椿を見つめる。かたやはつみも、もはや武市の反応を期待する事はなかった。武市を脱藩へ導く為にこれまであらゆる説得を試みたが万策尽き、追い詰められた矢先、ついに彼の寝所へ自ら乗り込んでいった。しかし「帰りなさい」と言われた夜を経て『受け入れられる』事を諦めた。その代わり、自分が鬼となり悪女と罵られようとも、土佐や土佐で武市を待つ正妻富から彼を奪う事になるのだとしても、武市を土佐から解放するのだと心に決めた。そのために共に土佐へ行き、共に戦う…一度だけの口づけをこの恋の想い出にし、それ以上の事はもう求めないと、あの夜に決めたのだ。


 だから二人の想いは、交錯を通り越して再びすれ違おうとしていた。


 そう、すれ違おうとした、その時の事だった。



 …しばしの沈黙の後、彼の低く優しい声が雪の中に掻き消えそうな程小さく聞こえる。

「おんしに…触れてもええか…?」

「…!」

 ハッと振り返ると、じっと椿を見つめていた武市が視線だけをこちらによこし、その不動の表情をにわかに困惑めいた色に染めてはつみの反応を伺っていた。それまではまるで投げ槍気味に武市への想いをぶつけていたはつみであったが、途端に力の抜けた、少女の表情に戻ってゆく。

「…はい…」

 はつみは一気に弾け踊り出した心臓の鼓動を抑え込むべく胸元へ手を添えたが、思いもしなかった事に緊張のあまり震え出してしまう。呼吸が粗くならない様に意図して呼吸を繰り返しながら、そっと瞳を閉じてその時を待つ。

 ―ざく…と雪を踏む音がすぐ傍に聞こえ、武市が近づくのが感じられた。

 ―が、しかし、武市が触れたのははつみの髪だけだった。はつみが瞳を閉じている事が彼を安堵させたのか、優しく慈しむ様な視線ではつみを見つめ、可愛らしい頭のかたち、絹糸の様な明るい髪を愛でる様にゆっくりと撫でる。彼がはつみの髪を感じている時、はつみもまた、その大きな手の温かさを感じ…今すぐにでも、武市の胸元に飛び込みたい衝動でいっぱいになっていた。

「(…武市さん…)」

 はつみの心を覆いつくそうとする衝動を感じ取ったかの様に、彼の手のぬくもりがスと引いた。目を閉じたままのはつみの眉が切なげに八の字になったかと思えた矢先、武市はそっと、はつみの耳元に椿を挿してやった。そして今度こそ『もう仕舞い』とばかりにもう一度だけ髪を撫でると、名残惜しそうな雰囲気を指先に残しつつ、ゆっくりと手を離したのだった。


 はつみは暫く瞳を閉じたままで、心に幸福感と切なさが渦巻き涙が溢れそうになるのを堪えて居た。機を見てそっと瞳を開け、さっきよりもずっと近くで少し気まずそうに自分を見つめている武市と視線を合わせた。彼に応えようとして微笑むが、ぽろぽろと涙がこぼれてしまう。

「…もう……」

 髪に飾られた椿に触れ、ただただ『子供扱いしないで』とばかりに笑ったはつみに、武市はいまだ鮮明にはつみの感覚が残る手を握りしめる。

「…っ…………はぁ……」

 武市のため息ははつみを迷惑がってのものではない。熱に浮かされ今にも弾けそうな胸を減圧するかの如く漏れ出た、ひどく叙情的なため息だった。

「………火に当たろう。そろそろ体が冷えるじゃろう」

「はい」


 はつみはこの椿から押し花を作成し、以降大切に持ち歩く。
赤い椿だが花びらの付け根から中腹にかけて白が差した、珍しい色味の椿だった。






※仮SS