文久元年、7月。江戸―
はつみは間借りしている旅籠の一室で、慌てて身支度を整えていた。今、一階の茶飲み所には長州の桂小五郎が来ている。彼とはつい先日顔見知りとなったばかりなのだが、尊王思想でありながらも海外知識や外国語のたしなみがある男装のはつみに注目してくれた様で、忙しい身であるにも関わらずわざわざこの旅籠にまでやってきて食事に誘ってくれたのである。
「長州の桂様…はぁ~、お美しい…」
「桜川様とはどのようなご関係なんだろうね」
「馬鹿、そんなヤボな事言ってちゃダメだよ!こうして眺めて居られるだけで幸せなんだからさぁ~」
待ち合いがてらに上がり框(かまち)へと腰掛け、出された茶を飲んでいる桂見たさに、仕事を放棄中の旅籠の女中たちが階段の影から熱視線を投げかけている。その横を、慌てて駆け抜けていくはつみ。桂の近くまで走っていくとほのか漂う金木犀の香りにフワリと包まれ、思わず胸が高鳴ってしまった。そして追い打ちをかけるかの様に、彼は整った美顔をこちらへと見やり、フと微笑む。まるで追っかけの『アイドル』と街中で遭遇したかの様に及び腰になるはつみであったが、辛うじて「お待たせしました!」と声を発し頭を下げて礼をとる。だが、その背後からは女中たちよる『きゃ~!』などといった心の声が殆どダダ漏れであった。
女達の反応を意に介さない桂は、茶を置いて立ち上がると改めてはつみに声をかける。
「急がせてしまったかな。急に来てしまって、すまない」
「い、いえ!大丈夫です!すみません!」
品高く優しい香りに包まれると同時に、自分にだけ向けられる柔らかな声と端正な笑顔…。彼と対峙する女性は皆勘違いを起こしそうになってしまうだろうなどと思いながら、なんとか平常心を装って江戸の町へと繰り出していくはつみであった。
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はつみにとっては思いもしない来客が訪ねて来るという非凡な一日の始まりであったが、江戸の街は今日も元気でしゃかりきな働き者たちで溢れていた。歩くだけで桂を振り返る者も少なくない中で、見眼麗しく有名人でもある桂の横で歩く事に未だ恐縮した様子のまま改めて礼を告げる。
「あ、あの、今日はわざわざ来て下さって有難う御座います!」
「ふふ。私もたまたま身が空いただけの事だから、そう畏まらないでほしいな。」
「(桂さんて江戸にきたばかりの私にも伝わってくるぐらい凄く有名な人だし、会いたくても会えないって人もいるぐらいなのに…。)」
自然と熱くなってしまう耳元を手で押さえ、ミーハーな気持ちを見透かされてはいないだろうかと桂を見上げてみる。彼は夏の眩しい日差しを浴びながらも、実に爽やかでやわらかな雰囲気のまま優しくはつみを見つめていた。空気を読む力に長けている桂の事である、小娘一人が緊張している事には当然気付いているだろうが、その事を咎めたり冷やかしたしする事もなく、ただ自然体のままに話しかけていた。
「本当に、いつでも男装をしているんだね」
「あっ、はい!性別を偽ってる訳じゃないんですけど、こちらの方が色々と動きやすくて。失礼な恰好ですみません…」
「全く失礼な事なんてないよ。動きやすいというのは単に足の運びやすさもあるだろうけど、それ以上に視線を集めてしまう、と言う事なのかな?」
「あ…実は、それもはあります…。女性の格好をするにしては髪も短いですし、世間知らずなところもますます悪目立ちしてしまうみたいで…」
「ふふ…私が思う限りでは、そうとも限らないと思うけれど。」
「え?」
「例えば、春に桜が満開だったら、皆足を止めて見とれるだろう?」
「う……え???」
そう言って、桂は隣に並ぶはつみへと視線を落とし、愛らしいものを見るかの様に優しく見つめて来た。うっかり視線を合わせてしまったはつみは反射的に真正面を向いて邪念を掻き消そうとしたが、耳が熱くなるのをどうしても抑えきれない。
「い、いや…そういうんじゃないと思いますけど…」
『フフッ』と桂が微笑む声が小さく聞こえたのを敢えて聞き流しながらぎこちなく歩き続けていると、気を取り直した桂の方から隙間を埋める様に話を続けて来てくれた。
「こういった他愛もない会話も有意義だね。夏らしく天気もいいから、尚更だ。」
「は、はい…!(桂さんてこんなに美人なのに…なんていうか本当に気さくだし…意外とアウトドアな人なんだなぁ…お肌のケアとかどうしてるんだろう?)」
「今日は貴女と小難しい話をしたい訳じゃないんだ。ただ…そうだな、まずは美味しいうどんでも食べに行こうか。早くて旨くて安い。江戸の庶民達にも人気の『麺屋かわず』。知っているかい?」
「へぇ~…初めて聞きました!是非連れて行ってほしいです!」
「フフ。君は素直でいいね。じゃあ早速向かおうか」
そして歩き初めて早々に、伊藤俊輔と、高下駄を履いた着流しの武士に遭遇したのだった
「あれ!?おーい!桂さん!はつみさん!」
人通りの向こう側から声をかけられ、揃って顔をそちらへ向ける桂とはつみ。はつみにはすぐ見つけられなかったが、桂はすぐに伊藤俊輔の姿を見つけた様だった。
「おや、俊輔だ。今日は小言屋が朝から姿を見せないと思ってはつみ殿の所へ参じたと言うのに、今更私達の逢瀬を邪魔しに来たのかな」
「お、逢瀬?何を言ってるんですか桂さん!?」
「ふふふ…おや?俊輔の他にもう一人、よく知った顔が見えるね。」
そう言って、こちらに向かって人ごみをかき分けている伊藤へと視線を送る。一方で、はつみは伊藤の後ろから両袖に手を突っ込んで腕を組んだまま歩いてくる『桂のよく知った顔』を見つめていた。
背は低いのに、歩く素振りを見るだけで自信のようなものが伝わってくる。
面長の輪郭に釣り目、短めの眉が印象的な青年で、近付いてくる程に頬のあばた痕も見て取れた。
彼は、まさか………
思い当たる節があって緊張を隠せずにいるはつみに、既に顔見知りである伊藤が声をかける。「ああ、うん!偶然だね!」と上ずった声で返事をするはつみの横で、かの青年武士が桂と対峙し、会釈をしていた。
「桂さん、奇遇ですね。」
「ああ晋作。散策かい?」
―うわあ、やっぱり…『高杉晋作』だぁ……!!!
桂が発した『晋作』という言葉で、既にこの高下駄の男が何者であるかを察していたはつみは緊張と興味に満ちた面持ちで高杉を見つめる。かくいう高杉は、自分を尋常な熱量で見つめてくる『やけに線の細い青年』に気付きながらも視線を向ける事無く桂と会話を進めていた。
「まあ、今日は非番なもので、適当に過ごしておりました。…で、そちらの御仁は?」
―と、唐突に躊躇うことなく視線を向ける高杉。背は高下駄をはいた状態で自分と同じぐらいの様だが、なんて覇気のある表情、そして声をしているのだろう…。時代が彼への寵愛を惜しみなく世に見せしめるのはまだ先の事だと言うのに、既にカリスマの波動が放たれているかの様に感じられる。
そんな事を思っている内に、桂による紹介を受けたはつみは高杉に対して礼をし、名を名乗る…つまり、かの英雄と知己となる状況に面していた。
「とっ、土佐藩預かりの桜川はつみです。はじ、はじめまして…!」
「…高杉晋作と申す。」
「―はい!お会いできて嬉しいです!」
―高杉晋作。数え23となる彼は、長州世子の小姓役として江戸勤務となっていた。
ややぶっきらぼうな挨拶ではあったが、高杉の視線は堂々と、興味深そうにはつみを値踏みしている。帯刀し袴を着用しており長身でもある所から、一見『男・武士』の様にも見える。しかし振り返ったその顔を見れば何とも華やかな女子の様で、不意の驚きもあるが一瞬言葉を失ってしまう程だ。髪も肌もやけに明るく、やけに色艶のよい…いや、『男なのだから』健康的というべきか?髷を結んでいる様だがこれまたやけに個性的な結い方であったし、着物も内に着込んでいるのは異国の着物を模したものではなかろうか…?
そういった真新しい要素があちこちに見られるというのもあってか、全体的に異様に垢抜けているというべきか…兎に角やけに『眩しい男』である様に見えていた。
また、あの桂が表情を緩めきって共に歩いていたのも気になる。桂の嫁事情については耳にしているが、まさか男色に走ったか…?と一瞬頭をよぎるものの、『土佐の桜川はつみ』だと自己紹介をしてくる相手の異様な輝きを前に、どうも何かが引っかかる。
…いずれにしても桂が『懇意』としている相手であるのなら出会いがしらに深入りするのは不躾かと思いつつ、この一瞬で様々な事に『気がかり』を得ていた高杉の視線は、自分が思っているよりも真直に桂へ突き刺さっていた様だ。桂は身内にだけ伝わる様な微細な表情の変化を見せ、『晋作は鋭いな』とでも言いたげに会話を続ける。
「こちらの御仁とは桶町千葉の坂本君を通じて知り合ってね。つい先日、江戸へ入られたばかりなんだよ。」
『御仁』。やはり男なのか…?と思いチラとはつみを見やる高杉。桂の手前、投げかけたい質問をぐっと飲み込んで形ばかりの会釈をし、これにて一旦お別れかと思った矢先、目の前の女男が思いもよらぬ提案を投げかけてきた。
「あ、あの!もしよかったらこれから一緒にご飯に行きませんか?これから桂さんと行くところだったんです!ね、桂さん」
「えっ?…あ、ああ…そうだね…」
この桂からこんなにも『何ともし難い』といった表情をいとも簡単に引き出すとは…。断る理由もない高杉は敢えて気を利かせずに承諾の意を示す。若干肩を落とした様子にも見えなくもない桂を見て見ぬふりして、四人は桂お勧めの料亭へと向かうのであった。
訪れたのは桂が馴染みにしているうどん処ではなく、個別の座敷がある飯処だった。桂といえば、こうなってしまってはと会話の手綱を高杉に握らせてやることにした。握らせてもらったとも気付かない高杉は、桂小五郎ほど忙しい人物が時を費やして会いに来る人物だというだけでも『桜川』という目の前の『青年』に対し、興味の赴くままに『江戸へは何をしにいらしたのか』などと尋ねる。
するとまつみは『一番は折を見て横濱へ行き自分の出身地なのかどうかを確かめ、可能であれば英国などの様子を見ておきたい』『少しだけ英語ができるので、横濱で更に研鑽を積んだり参考書を仕入れる事ができたらいいなとも思っています。』と答えたから、高杉の興味は更に深くはつみへと刺さっていった様だった。
お手並み拝見とばかりに、すかさず切り込んでいく高杉。
「異国の言葉を学んで何とする?」
「ん~、そうですね…外交に役立てるなんて大きなことを言うつもりはないですけど、それでも、広い世界の中で日本人以外の人達とも会話ができるようになったり異国の書物が読める様になるって、凄く素敵な事じゃないですか?」
「……君は開国派か?」
「晋作。」
態度に出やすい高杉からピリついた空気が発せられると、直ぐに桂が間に入り、助け舟を出そうとした。しかしはつみへ目配せをした時に、彼女が『大丈夫です』と言わんばかりに微笑えんだのを見て一旦引き下がる。それを受けたはつみは、改めて高杉の問いに応えてみせた。
「私はそういう、何かのくくりに属しているつもりじゃないんです。」
「ほお。世を憂い攘夷だ開国だとする議論をそのように申すか。随分と達観した言い方だな?」
桂と伊藤はいつでも一歩踏み出せる様にと目配せをしていたが、これまた意外な事に、この可憐な男装の少女の口も留まる事を知らなかった。それどころか、誰が見ても威圧感を察するであろう態度の高杉に対して、更に食い込んだ話を持ち出してゆく。
「高杉さんも、攘夷を成す前にまずは世界の事を知るべきだというお考えをお持ちですよね?」
「…今日知り合ったばかりの君に、何が分かる?」
先日、長州藩邸にて久坂と同席した折にも、彼女は大きな声に驚き萎縮する事はあっても持論を述べる事に対して一歩も譲る事なく、独特の話口調で渡り合っていた。今日は難しい話をするつもりのなかった桂も、可憐な男装娘のこのような才を目の当たりにする事は何度でも刺激を受ける様で…。高杉が威圧感は出しつつも機嫌を損ねている訳ではない事を考慮に入れつつも、やはり伊藤と示し合わせて様子を見届けるに留める。
「それは…すみません…。高杉さんは有名な人だから、聞いたような事をそのまましゃべってしまって…。」
「僕が有名?ハッ、桂さんの前でようも言うたな。新手の嫌味か?」
「そ、そんなんじゃないです!(そっか、この頃はまだ…)えっと…すみません言葉を間違えました。横井小楠さんの本をよく読んでおられると聞いていたので、私が一方的に注目していたって事が言いたかったんです。」
「む…?」
いくら話を掘り下げたからとはいえ、高杉からしたら『今日会ったばかりの相手』から突然、彼の思想の核心に近い所を突かれるのは内心驚きに値する事だった。それも、実際に高杉は藩内での主張において『真の攘夷の為に西洋を知る為にも横井小楠を迎え入れるべし』との声もあげている。これはかつて、桂小五郎が蘭学に通じた大村益次郎を長州に招いた事を受けての事だったが、当時は藩論としてそれが理に適っていたからこそ成し得た事であった。今現在においては、藩論は確かに当時と付かず離れずの『幕府寄り』、厳密に言えば長井雅楽が周旋している『公武合体論』となっているが、高杉の周囲にいる者達はこぞって破約攘夷を掲げ、水戸藩との間で取り交わされた成破の盟約が遂行されている途中だ。そういった中で高杉の案を…つまり筆頭開国派として知られる横井小楠を招集するという案を実行する流れにはなり得ない、少なくともそれは今ではない、という状況なのだ。かといって、高杉本人が『開国派』などと認定されて糾弾されている訳ではない。それは、去る安政5年の有事において帝の勅許も無しに修好通商条約をとりつけた事で朝廷の尊厳を傷つけた幕府の罪を糾弾し、日本を夷狄から守るべしとする高杉の姿勢を、仲間達も知るところであったから。更に言えば、高杉を含む有能な長州藩士達が師と仰いだ吉田松陰もまた、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」とする孫氏子の言葉を用いて異国を知ろうとする所があったからだ。
「横井さんの開国論については高杉さん程詳しくはないんですが、西洋列強との外交における心得や、西洋の富を利用した富国強兵論にも触れておられると把握しています。日本が開国し、和親条約のみならず修好通商条約まで結んだという事実は、これを改めて撤廃する同意を諸外国から得る以外に消し去る事はできません。だからこそ、まずは彼らと対等となりうる世界の知識や外交力、貿易力などを国として付けていくのが早急な課題だと考えていて…。そこに目を付けていらっしゃる高杉さんのお話を、是非聞いてみたいと思っていました。」
はつみの口調は落ち着いていて、本人にその気はなくても今この時代の国の行く末を憂う志士達からすれば興味深いものであるだろう。今は破約攘夷のもと成破の盟約の為に奔走している桂も考える所がある様だし、高杉などは尚更、思う所が大いにあるのか腕を組んでじっとはつみを見つめていた。『本気で語っているのか、はたまたこちらの機嫌を取るだけのおべっかなのか』を見極めるかの様に。
会話の狭間に訪れた絶妙な合間を狙ったかの様に、伊藤がもう一押しの声を入れる。
「はつみさん、高杉さんに聞かせてあげてくださいよ。この間話してた、幕府の事どう思ってるかっていう話。久坂さんも面食らってたやつですよ。」
「こら、俊輔…」
「いや是非お聞かせ願いたい。」
無茶振りの伊藤に常識人の桂、そして我道をゆく高杉とテンポの良いやり取りを見てフフッと笑ったはつみは、『私の個人的な意見なんですけど…』と前置きをしてから話をしてみせる。
あの久坂も面食らったというはつみの意見とは、要約するとこうだ。
―幕政改革が急を要するとされる今、思う事は。
『真の攘夷と開国論は必ずしも相反しないし、そこに幕府が必ず必要なのかと言われれば必ずしもそうではない。』『国が一丸となって西洋諸国と渡り合う国力を得る為には、まず封建制度を脱却し、幕府に替わる新しい形の政治機関が有効だと思う』
この話が終わった時、高杉は雷に打たれたかの様に瞬きを繰り返していた。よく見れば鳥肌まで立っていると気づいた者は、流石に居なかったが。
「ね?こんな事を顔色一つ変えずしれっというなんて、末恐ろしい人ですよねぇ!」
今この時代にいる人達は幕府批判の声をあげこそすれ、それは幕政改革を望んでの事である。200年以上もの間君臨し続けた絶対的な政府機関たる幕府を『倒す』、鎌倉の時代から続く封建制度を『終わらせる』などという発想は、あまりにも突拍子が過ぎるものであった。高杉は腕を組んで「現実的ではないな…」などと言いながらも、それ以上はどこか言葉を探しているかの様に口を紡いでしまう。伊藤あたりはもっと良い反応を期待していた様で、『あちゃぁ…』とでも言いたげに肩を竦めてはつみへ視線を送ってくる。はつみは顔を膨らませて『どういうこと!?』と目配せをしていた。
この後、話も一区切りついただろうと場を取り繕ったのはやはり桂であった。先ほどまでの小難しい話題は文字通り横に置いて、元来彼が話したいとしていた他愛ない会話が繰り広げられてゆく。江戸では恙なく過ごせているか、夏祭りが多い時期だが見に行ったか…。伊藤も交えて和やかに談笑は勧められたが、高杉は不機嫌になる訳ではないものの妙に黙りこくっていた為、彼と初対面であったはつみとしては気になってしまっていた。
「(高杉さん、怒らせちゃったかな…)」
黙する高杉を気にかけつつ、桂の物腰柔らかさや伊藤の人懐こさに助けられつつ、どこか落ち着かない心持ちで昼食を楽しむのだった。
※仮SS