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江戸取引1





※仮SSとなります。 プロット書き出しの延長であり、気持ちが入りすぎて長くなりすぎてしまった覚書きの様なもの。
途中または最後の書き込みにムラがあって不自然だったり、後に修正される可能性もあります。ご了承ください。



11月。土佐藩主豊範が伴奉する勅使・三条ら一行が江戸に入る。武市は柳川左門との名を用い雑掌として同行したが、『輿』よりも高貴な者が利用する『乗り物』が朝廷からあてがわれ、江戸では勅使らと共に直接将軍に見える予定でもある程、今や勤王派の実権を握る人物となっていた。…周囲の皆ははつみが『武市を追いかけて江戸までやってきた』と勘違いしていたが、実は少し違う。京において三条卿、姉ヶ小路卿ら勅使と共に江戸へ行かんと準備をする武市を見ていて、はつみはとあるひらめきを抱き、それ故に江戸行きを決意したのであった。

 ある日、はつみは江戸留守居役にして容堂の側用人である乾退助と10か月ぶりに再会する為、鍛治屋橋の土佐上屋敷にやってきていた。常にはつみを守ろうとしてくれる寅之進と敢えて別行動を取ったのは、とある決意と、我ながら『卑怯』とも思える策を以ての面会となると分かっていたからであった。

 江戸には土佐の精神的支柱である前藩主・山内容堂がいる。彼は武市らの『幕府を顧みない朝廷工作』を苦々しく思いながらも、勤王派が勝手にとりなす工作のままに動く朝廷からの要請には出来る限り応え、且つ、今も公武合体として治政や開国策を講じていきたいとする幕府との間で奔走…いや、激走している。春嶽公などに愚痴の手紙を送るほど、武市達の活動には苦虫を嚙み潰したような感情でしかない様子であった。…つまり、『歴史通り』に武市との溝は修正不可能なまでの深まりへと進みつつある…という訳である。…もっとも、容堂の右腕として彼の不在中に土佐本国を取り仕切っていた吉田東洋が『尊王攘夷派』に斬られた時点で、決定的だったのかも知れないが…。
 はつみが自身の身に危険が及ぶと分かっていながら江戸までやってきた理由は、『武市と山内容堂の間にある遺恨を少しでも減らす為。容堂にとって武市は『利用価値のある人材、失っては困る人材である』と、歴史に無い角度から働きかける』事にあった。その為には、乾の力添えがどうしても必要だったのだ。

 部屋にやってきた乾は颯爽と上座へと向かって歩いたが、かしこぶって両手を付き視線を落としているはつみをチラと見てから立ち止まる。定位置へ座る事無くはつみの真前に胡坐をかくと、
「何をかしこまっちょる。顔を見せろ」
 と、声をかけた。それが乾の不器用な優しさなのだと今となっては気付きながら、どんな顔をして顔を合わせたらいいのかわからないまま事ここに至ったはつみは、固い笑顔で彼と視線を合わせる。相変わらず不動の表情のままは見つめた乾は突然はつみの顎を持ち、左右に向かせて様子を見た後に改めて声をかけた。
「…襲撃されたち聞いたが…特に不自由はしておらん様じゃな」
「あっ……うん…あの…お手紙全然書けなくてごめんね」
 まずずっと気が引けていた理由の一つは、これである。江戸遊学において土佐へ戻る際、乾からは明らかな好意を伝えられた上で『文を送る様に』と言われていた。彼にはいまだ返しきれない程の大きな恩がある訳だが、手紙を送る事ですら達成できずにいた事を常々申し訳なく思っていたのだ。…そういう意味では、常に乾の事を頭のどこかで意識していたという事でもあった。
「色々あった事、お手紙で直接伝えられたらよかったんだけど…坂本家の事とか…東洋さんの事とか…色々ありすぎて…本当にごめんなさい。」
「吉田様の事は、おんしが襲撃にあったち話と同時に聞いた。手紙の事はどうでもええ。おんしが狙われたがは偶然ではない、勤王派の仕業じゃとおんしも分かっちゅうじゃろう。なのに何故、今、武市の側におる。」
 武市達は表向きには『土佐藩の勤王派』という認識の下活動しているが、その実態は『土佐勤王党』と言われる組織であり、藩法では禁じられた『徒党』に属するものである。容堂公の御前、ひいてはその他佐幕派上士である寺村道成らの前であっても正々堂々と『一藩勤王の大事』を唱えるほど土佐上士きっての勤王派である乾は、『土佐勤王党』の一員であり武市の右腕とも言われる間崎哲馬とのやり取りで彼らの情報を知り得ていた。しかし、彼らが幕府をないがしろにして執り行う朝廷ありきの策の為に振り回される容堂には、この徒党の存在を伝えてはいない。はつみについては今もなお土佐勤王党に加盟していない様であったが、それでも京においては武市と行動を共にしておるだけでなく、『天誅』の対象となった人物らとの関連性を疑われつつも『武市の庇護のもと』武市の寓居に直接匿われている等の報告も受け取っていた様だ。察するに、ほとんどの事を改めて報告せずとも彼ははつみの状況の大半を把握している。―思想の事もあるだろうが、恐らくは特別な女の事だから…放ってはおけないという気持ちでいてくれているのだろう。
…今からその好意に付け込んだ頼み事をしようとする自分に嫌気を覚えつつも、はつみは神妙な表情で話を進める。
「…土佐は一藩勤王を成し得ていない。東洋様と勤王派が分かり合えないままあの様な決着になってしまった事を、いくら遠く離れた江戸にいたからといって容堂公が承知するはずがないから…。」
 乾は腕を組み「ふむ…」と言わんばかりにはつみの発言を聞いている。彼が発言をしようとしないのを見計らい、はつみは更に核心へと踏み込むべく話を続けた。
「でも、まだ分かり合える部分はきっとある。武市さんは今となっては他藩との懸け橋という意味でも『土佐の顔』となりうる人になったし、容堂公にとっても朝廷で大きな権力を持つ三条卿をはじめとした多くの人達から必要とされる武市さんの存在は捨て置けないはず。二人の思想がもう少しずつでも歩み寄れたら、きっといい未来が開けると思うから…」
「それで、根なし草のおんしが容堂公の御前に乗り込むちゅうがか。」
「…―!…はい…」
「今日俺を呼び出したがは、俺にその橋渡しをさせる為かえ」
 相変わらず単刀直入な話を好む乾は、話の全容を察した所でずばりと物申して来た。彼の胆力ある不動の表情は、眉間にしわを寄せて全身に力を込めつつ全てを受け入れんと気構えするはつみへ容赦なく注がれてゆく。唇をかみしめて深く頷くはつみに、乾はまた一つ、短刀直入に問うた。

「武市のためか?…惚れておるのか。」
「ち、ちがっ…」

 はつみが乾に対し最も気が引けていた理由―それは、思想も何もかも越えて、ただ一人の男性として武市へ想いを寄せていたという事実である。―いつから感付かれていたのだろう。真っすぐな視線で躊躇う事なく図星を突かれ、思わず顔が赤くなり声がうわずってしまう。そして乾も鈍感ではない様で、何かを悟ったかの様に沈黙を漂わせている。
 彼ならきっと相談に乗ってくれる…と甘え切っての今回の申し出だったが、ここで突き放される可能性も十分にあり得る。大事な事を乾に言わせてばかりでは駄目だ、自分からしっかりと願い立てねばと思い直し、はつみはひるんだ心を持ち直すかの様に姿勢を正すと、再び綺麗に指を付いて深々と頭を下げた。

「…お願いします。私を容堂公に会わせて下さい…!」

 乾は、いつも触れていたいと思って見ていた絹糸の様な髪がサラリと畳を掠めるのを柄にもなくぼうっと見ていた。不動の表情の下に渦巻く複雑な感情が込み上がってくるのを実感する。彼女が抱く、自分にはまだ理解しきれない視野と思想、それを認めていた東洋。思想が違うのに追いかけてくるはつみを懐に匿う武市と、その武市の為ならと我が身の危険を冒してでも『女だてらに』『志士の如く』知恵を巡らせ、他の誰もが歩もうとしない独自の道を切り拓こうとするはつみ…。
 男女の小事が大事を変えるなどあってはならない、真に勤王の精神を示さねば土佐一藩が立ち上がる意味はないとも思う一方で、どういう訳か、はつみの腹を割り切った挙動が寧ろどうしようもなく好ましく映ってしまう自分にも気付いていた。
「女だてらに。…まぁ、嫌いではないが。」
 …東洋からの報せは兼ねてより度々容堂の耳に入っている。中浜万次郎の再来として目をかけていた『逸材』、つまりはつみについても、報告はされている事だろう。代々馬廻格として藩主に仕え、現江戸留守居役として容堂公と直接見え発言する事も許されている乾の立場を以てすれば、直接掛け合ってみる事自体は可能だ。容堂本人が東洋の報告を重宝していれば、あるいははつみが武市の側にいる女であるという事を逆手にとって『勤王派の内情を探る機会』だと逆に利用する価値があると見るなりすれば、一介の町娘に過ぎないはつみが乾の推挙を通して容堂公の目通り、もしくはお忍びとして対峙する事も決して『不可能』と言いきれないだろう。

 はつみが自分に目を付けた事自体が、彼女の筋読みの鋭さと度量をそのまま現し、合理的で理に適っているという事である。 それでこそ、自分が惚れた女なのだと思った。

「…話はわかったき。顔をあげろ。」
「―!!!ほ、ほんとうに…?」
「ああ、おんしは吉田様も目をかけちょったき、無下にもできんじゃろう。必ずしも約束はできんが、容堂公に掛け合っちゃろう。」 「あっ、ありがとう…ありがとう乾!」
 こんな時でも相変わらず呼び捨てで呼んでくる風変わりな女子だと改めて思いつつ、浮かれて頬を紅色に染めるはつみを制す様にすかさず制する。
「じゃが一つ、条件がある。」
「条件…」
 動きを止めて乾の発した言葉を神妙な表情で受け取るはつみ。直感で伝わったのだろうか、察しの悪いはつみとのこれまでのやり取りも悪くはなかったが、察しを得た時の様子も嫌いではないとばかりに、乾は変わらぬ表情のままずいと距離を詰めて来た。正座をするはつみの太ももに手を置き、無表情に近いそっけない表情から真っすぐ情熱的に射抜く視線ではつみの視界を遮った。

「俺の口添えで容堂公がおんしに会う事があったらば、そん時は俺の願いを聞いてもらうぜよ」

「……」

「おんしはおんしの願う所を、俺は俺の願う所を所望する。これを取引じゃと受け入れゆう気概が、おんしにはあるかえ。」

 彼の望む事は…2通りではあるが、なんとなくは予想がつく。恐らくは、自分の体を望むか、それとも人生そのものを望むか…彼がそう言ってくるのは今に始まった事ではなく、彼と出会った3年前から言い続けてくれている事だ。自分を娶ったとしても恐らくは子を産めない、武家の嫁としてはきっと相応しくないと伝えたが『関係ない』『子なら外で作る』と、はつみの時代の価値観からは想像もつかない様なとんでもない事もしれっと言ってのけた。3人目の正妻を娶り乾家を相続した後でも同じ思いでいてくれているとは思いもしなかったが、去年の江戸遊学時に彼本人が打ち明けてくれた事でもある。
 …故に今のこの展開を予想していなかったわけではないが、心臓を鷲掴みにされた感覚に陥ってしまった。『歴史にはなかったかも知れない動きをしなければならない…』常々そう考えていたはつみは、乾が自分に好意を持っており、助けを求めればある程度の便宜を図ってもらえるかも知れないと『都合のいい期待』を自覚して、今ここに乾と対面している。…であれば、この時代に生きる男性の『ニーズ』に沿うべくそれなりの覚悟をしなければならない事は、ここへ来る前に腹をくくっていた事だ。太ももに乗せられた手の意味、そしてその熱さを汲んで、乾に負けじと真っすぐな視線で頷き返す。
「…わかった。大丈夫。」
 このドクドクと激しく胸打つ心臓の動きが一体どの感情を表しているのか、はつみにはわからなかった。…そうまでして自分を欲してくれる事への昂りなのか、或いは、好きでもない男に抱かれるかも知れない事への恐怖が現実となる予兆に震えての事なのか…。

 はつみの覚悟を見届けた乾はそっと手を引くと『追って沙汰を出す』と言って部屋から出ていく。しばらく茫然とした後に部屋を出たはつみは、上屋敷の門前で乾家の提灯を持った下男に声をかけられた。
「桜川殿。乾様が駕籠をご用意されちょるがです。ご利用の旅籠までお送りしますき」
 乾家の家紋が入った提灯と共に行けば少なくとも帰り道は安全であろうとの配慮なのだろうか。屋敷を振り返ったはつみは乾の気配を感じはしなかったが深々と礼をし、駕籠に乗り込んだ。
「…乾…」
 乾の好意に甘えて不躾な願い事をしておきながら複雑な心境に陥るのは、極めて自分勝手であろう。乾がどういう気持ちであの条件を出して来たのかははつみには知る由もない。





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