―表紙― 登場人物 物語 絵画

内部分裂





※仮SSとなります。 プロット書き出しの延長であり、気持ちが入りすぎて長くなりすぎてしまった覚書きの様なもの。
途中または最後の書き込みにムラがあって不自然だったり、後に修正される可能性もあります。ご了承ください。



1月下旬。容堂が京に入った事を受けてか藩主豊範はそうそうに土佐へ帰藩する事となった。…藩主を帰藩させた後の京で、容堂がその手腕を振るうのも時間の問題であった。土佐勤王『派』が藩政を掌握した当初から藩主の側近へと取り立てられていた谷干城に会った乾は、『佐幕派の上士たちの間の中で武市を斬るといった話がある』との話を聞く。

一方で、容堂の動きを警戒し強硬な佐幕派上士らを疎む下士らからも同じ様に敵を斬らんとする声が聞こえており、容堂により江戸留守居役に抜擢されその側用人も務める乾も斬ろうとの声があると。…実際乾は、容堂に直接仕える上士の中では異彩を放つ程の『れっきとした勤王派』であるだが、見境も無ければ土佐上層部の事情など知れる余地もない郷士達の間ではそういった事も見極められぬ血気盛んなだけの者も多くいる様だ。それは今に始まった事ではなく乾も自分の命が惜しい訳ではなかったが、不意に言葉を断ち、はつみの安否を思案してしまう。
「して乾君。おんしはあの開国娘をどう思うぜよ」
 谷が改まった様子で声をかけると、乾の視線はしっかりと谷を見据える様に動いた。
「…なぜ」
 ぶっきらぼうに一言だけで返す乾に怯む事なく、谷は続ける。  今年の春、土佐藩の尊王攘夷派が藩政を掌握した際、谷は藩主豊範の側近へと取り立てられていた。その周辺の話から、かつて吉田東洋が目をかけていた桜川はつみという『いわくつきの娘』が江戸で容堂公のお目見えとなったと聞くに及んだらしい。そして、その背後には他でもない乾の動きがあったと。郷士たちに乾が狙われているのはその噂を聞きつけた所以でもあるのではと言うのだった。
「あれが今まで首を斬られずにおれたがは、血気逸る郷士共に対し武市が直々に『内政へ絡む様子は見られん』ち言うてあれを擁護しておったからじゃ。…じゃがこれは立派な内政干渉じゃろう。―放っておいてもえいがかよ」
 どうやら谷は『はつみを斬りたい派』の人間である事を乾は察する。だが乾も引き下がる事は無かった。
「俺は俺の信念に基きやるべき事をやるまで。大義を前に命を惜しむ事なく、ただあるべき形へと向かう為に尽力しておる。おんしもよう分かっちょろう、果たして今この状況が『一藩勤王』であると言えるか。真に尊王思想を貫き我が土佐を一藩勤王と成すのであれば、今は何よりも容堂公のご理解を得なければならず、その容堂公の周りでは今、俺だけが勤王を説いておる状態じゃ。そして桜川は東洋殿から容堂公へ報告が行くほど非凡の才が認められた者であり、あれもまた、既に命を狙われておる身じゃ。その上で己の命を危ぶむくらいならば、そもそも武市を追って京へなど行かぬ。」
「桜川の覚悟などはどうでもええ。斬られればそれまでじゃ。」
「実際開国論者ではあるが、あれを斬ろうとする者らの中であれの話をよく聞いた者は、おんしを含めいかほどぜよ。あれの話を聞くに、一言目には必ず『帝ありきの日本』と言い、幕府よりも朝廷にて帝をお支えするべき、と明言する貴重な人材ぞ。容堂公に見えた時にも、他の者らでは持ち合わせぬ様な思想、価値観を以て、容堂公に勤王を解いておった。一君万民の思想はそこらの郷士どもよりもよほど明確な絵図を以て精神に根付いておる。それをおんしらは斬ろうち言うがか。流行り言葉に乗っかり気に入らぬ小物を斬るだけの馬鹿ばかりで、土佐勤王派と言えどまったくもって一枚岩とはならん事こそ遺憾に思うが如何か。」
 大局を見て正論を突き付け正義を説くのは、乾が若くして地元喧嘩組の総長へと押し上げられる程人心を得た理由の最もたる所である。他の地域で同じく総長に就いていた谷は、乾という男の真骨頂を目の当たりにして内心嬉しくも頼もしくも思う一方で、二心がある自分の内心について乾は『知らない』のだと谷は確信していた。

 東洋が暗殺されたあの日、桜川はつみを急襲したのは他でもない自分であるという事を。

「なるほど、ようわかったき。おんしの言う事も確かに一理ある」
 悟られれば厄介である事は事実だがさておき、実際乾の言う事に道理はあった。谷の考えでは開国論自体が好まぬ所ではあったが、かといって今の土佐が『一藩勤王』と言うにはほど遠い現状にあるとするその危機感は、時勢や藩政を見渡す者であれば懸念すべき第1項である。容堂公をはじめとする土佐佐幕派は薩摩らと同調し『幕政改革を促す事での公武合体』という思想を持ちつつ、実際は勢いのある武市ら攘夷派を『様子見し利用しつつ』『均衡を保ちながら』その出方だったり時勢を見極めてから処遇を決めようとしている。更に、容堂公がいよいよ江戸から出る事で藩主豊範を土佐へ帰藩させ、京在中の『勤王派』へは容堂公自らが対峙するという今の状況では、薩摩の同胞が討ち合った寺田屋事件がいつ起こっても決しておかしくはない。…そうさせない為に勤王派の面々は水面下にて朝廷工作を行っているが、これも極めて、非常に危険な橋渡りである事を谷も心得ていた。乾が言いたいのは、恐らく桜川はつみの存在というのが、藩内における尊王攘夷派と公武合体派の間となりうるという所なのだろうが…。

「互いに命捨てる覚悟の上、一藩勤王の道を参ろう。」
「いわずもがな。俺は俺のやるべきことをやる。」
「はっは、乾君らしいのう」

 かくして、谷干城は藩主山内豊範に付いて土佐へと帰っていった。

―その矢先、乾と谷が話していた懸念の一つが早速実行に移される事となった。隠居にして土佐の絶大な精神的支柱である山内容堂が、河原町藩邸に土佐軽格15名らを呼び出し、身分も省みず朝廷に対する行き過ぎた工作を行う事を良しとしない大叱責を行ったのだ。これには土佐勤王派の『徒党の如き』『勝手極まる』政治斡旋をやめさせる目的もあってこその、類を見ない直接の大叱責だった訳である。…だが、『自分は上士だから大丈夫』だとでも思ったのか、武市の右腕とも言える平井収二郎という上士は容堂大叱責の直後であるにも関わらず公卿衆らと会って政治工作など行い、これが露見する。いよいよ容堂の怒りを買う事態となってしまった。
 容堂が怒っている理由は直近に起こった事件にもある。容堂の友人である池内大学が、容堂と時事談議に及んだその帰りに斬り殺された。そして容堂が軽格15人を召しだして大叱責を行ったその日にも、公卿・千種(ちぐざ)有文の家来、賀川肇が斬られている。両者とも『天誅』であり、恐らく土佐の尊王攘夷派の仕業であろうとの噂が一気に広がっていたのだ。
『自分が上洛すれば土佐の過激派を必ず押さえる事ができるだろう』
 江戸を出る際、幕府関係者や薩摩要人らにそう言い切って上洛した容堂は顔に糞泥を塗られたようなものである。そして土佐は容堂を以てしても制御不能であると見放された結果、藩政は『郷士ら』によって完全掌握され、徳川への恩顧も忘れ去って時代を逆行する『尊王攘夷』へと突き進み…時代逆行であるや故に、『世界』によって土佐が滅ぼされるという未来まで見える。

土佐藩内における『内部分裂』…つまり、土佐勤王派への『弾圧』が始まろうとしていた。







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