仮SS:高杉、小楠、そして桜川


 この秋、内蔵太は初めて外国人の団体を遠巻きながらに目にする事態に陥っており、彼らが高輪東禅寺を拠点(公使館・接遇所)とし幕府の若年寄らとの会議に臨むところや馬に乗り観光に出る様子などをよく観察していた。

 内蔵太に同行していた仲間の長州藩士らは『今すぐあれらを斬り殺すべきであり、観光などと称して江戸のあちこちを穢されるのは我慢がならない』と今にも襲い掛かろうとする気概を持つ者もいたが、もっとも漢気もあり攘夷への熱い志も持ち合わせていた内蔵太が彼らの暴走を食い止めていた。京の土佐尊王攘夷派、つまり『土佐勤王党』の一味が朝廷を動かした結果、帝から幕府に対し攘夷を迫る勅令を持った勅使一行が、もう江戸の近くまで来ており到着も間近だ。幕府にとっては大切な客であろう夷狄達をここで襲撃したりなどすれば、そちらへの対応に付きっ切りとなり勅使を受け入れられない状況にもなりかねないと考えたのだ。また、東禅寺での外国人殺傷事件が2度も起こっている事もあってか、夷狄達を取り巻く幕府の警備もかなり厳重であり、周囲には必ず警備が6人~10人が付き添っているという状況もある。これら総合的な状況に鑑みて
「ここは一丸となって足並みを揃えるべきじゃ。自分らぁ一部の者が軽率に事を起こすべきではないぜよ」
 と説き、まずはこれら見聞きしたものを桂らへ報告するべきと加えて納得させ、再び桜田藩邸へと舞い戻る。内蔵太が現在東下中の一行の様子をよく知っていたのは、同一行に追従している土佐勤王党員であり内蔵太とは安井息軒の元で共に学んだ同門である柊智からの書簡によるものだ。彼からの書簡は、江戸にいる内蔵太の様な者達にとっては貴重な情報源となっていた。
 また、内蔵太は長州藩邸においてはまた別の事が気になっていた。今、江戸にいるも引きこもっているという高杉晋作についてである。昨年はつみを介して出会った彼はこの春に上海へ旅立ち、『世界』を見てきたと聞いている。しかし一方で長州は破約攘夷を唱え、この夏には幕府の政治総裁松平春嶽が『生粋の開国派』と言われる横井小楠を召抱えた件についても激昂していた。その『高杉晋作』と『横井小楠』について、実は高杉が昨年より『長州の顧問として招き入れるべき人物』として、今となっては攘夷派から目の敵にされている『横井小楠』を引き入れようとしていたというのである。当然、横井が『開国派』であると言われているのを知っての事だ。  高杉は世界を見た上で改めて攘夷を唱えているとは聞くが『西洋の知識に基く軍備改革を取り入れた上での長州割拠』などと言っており、ここ日本において尊王攘夷を掲げる殆どのものは『彼の言う攘夷とは何なのか?』『開国派なのか?』と受け入れられない事が圧倒的に多かった様だ。藩政会議での議題にすらならず、高杉は自らの考えに向き合いたいと言って自室に引きこもってしまったという。  長州は彼をどう扱うつもりなのか?等と考えた時に、その高杉晋作と同じく理解に難しい思想を唱えている者が身近にいる事に気付くのである。  それが、桜川はつみであった。  とはいえ桂など視野が広く時勢の先端を行く様な者達は高杉の発言を理解している様であり、特についてははつみの存在や主張についても問題なく取り合っていた様にも思える。桂は高杉などが抱く思想について話をする時に『小攘夷』『大攘夷』といった言葉を使い、『大攘夷』とはすなわち高杉やはつみの言う『世界を知り世界の理を以て、世界に侵略されない強い日本となる。』とする、時世がいきつく最終的な攘夷の姿であると説明した。桂もその『大攘夷』をの思想を見据えているからこそ、かつて村田蔵六という蘭学や西洋医学を修めた秀才を長州藩士へと取り立てた過去がある。高杉もそのように小楠を迎えるべきだとしたのだろうが、小楠と幕府の距離感であったり時勢そのものの状況などによりけりで、小楠を迎えるどころか先進的すぎる高杉の思想は『まだ早い』として、藩からもなかなか受け入れられない状況にあった様だ。  この事を知った内蔵太は、できうるのであれば以前の様に高杉と会って話がしてみたいとも思う。何せはつみと同じ様な事を言う者という事であれば、直接『世界』を見て来たというその話とその先に見る『大攘夷』の構想などを改めて聞いてみたかった。  そして、どういうつもりで一か月も引きこもっているのか…。この事は内蔵太にとっては男として解せぬところであった。全てを覚悟し放棄した上で出奔し、自ら草莽の志士として己の思想にまい進するのであれば尊敬こそすれ、役目ある武士として、時世を憂う志士として3度の飯を食ろうているというのにすべてを遮断して『一か月も引きこもる』とは、果たして何を考えての事なのかと…。

※仮SS