仮SS:First meeting EP2


 はつみの希望通りに従者達を丁重に宿に返した後、改めて船室へと移った。

  サトウは日本人をもてなす時の定例的な意味でワインはどうかと勧めた。母国では貴婦人が昼間からワインをたしなむのも割とよくある話だと思っての事だったが、はつみは殆ど酒を飲まない。
「では、お言葉に甘えて…」
  しかし断るのも無碍だと思い、ワイングラスを手に取った。

 ここからはサトウが聞きたかった事をはつみに尋ねていく形で会話が進んでいく事となる。
「この長州の地へ来る事は、大変な事だったのではアリマセンか?」
 と切り出し、長州の人たちとの関り、はつみの立場、思想へと、サトウの知的好奇心がそのまま彼女への興味と相まって質問責めとなっていた。しかしはつみは終始嫌な顔一つせず、時折笑顔すら交えながら誠実に受け答えをしていく。はつみは長州藩士と誼となった話をするにあたり、彼らと知り合う様になった1861年文久元年の話を切り出す。
 あの頃は尊王攘夷に追い風が来ていた頃で、水戸や長州、薩摩はその急先鋒であったと回顧する。
「私の思想は当時から『開国』ではあったのですが、朝廷寄りの尊王なのか、それとも幕府に忠実な佐幕なのか、それとも公武合体なのかという内政的な思想には殆ど関心がなかったんです。」
「『開国』論は内政的ではナイ…その反対…外交という事デスか?」
「はい!私が勝手にそう思っているだけなのですけど、分かりやすく言うと…あ、書くものをお借りしてもいいですか?」
 言われるがままに鉛筆と紙を手渡したサトウだったが、思わず指先が触れてしまい内心はつみよりも乙女の様に反応してしまう。はつみはというと何年振りかに鉛筆を目の当たりにして
「鉛筆だ~!書きやすい!」
  と歓喜の声を上げていただけだったが。これはこれで、サトウもすぐにこやかに反応して見せた。
「日本では筆書きが主流デスネ。私も筆書きを習っていマスが、いまだに上手く書けまセン」
「え~!サトウさん、習字まで習っているんですか?日本語も殆ど完璧だし、本当にすごいなぁ。私なんていまだにどれも中途半端で…あ、すみません、つい感動しちゃって。えへへ。続けますね?」
 照れた様に笑ったはつみは視線を用紙へと落とし、何やら図を描き始めた。はつみのチャーミングな会話、まつ毛の陰が落ち真剣に書き物をする姿を見られるだけでサトウは満足であったが、はつみが書き始めたものは更に彼の興味をそそった。


  今日本を席巻しているのは尊王、佐幕、公武合体といった幕府と朝廷の在り方に対する内政的思想、そこに攘夷や開国といった外交的思想が複雑に入り交じっているという構図を説明し始める。

「とても分かりやすいデス。ホトンドこの通りだと私も思いマス。例えば…伊藤はこの辺りでショウか?」
 そういってサトウが指したのは『内政思想:尊王』『外交思想:開国』のあたりであった。はつみは「そうですそうです」と意図が伝わった事を嬉しそうに表現し、更に大きく今現在の長州の思想は『内政:尊王』『外交:攘夷』であり、同じ「尊王」でも攘夷か開国かでまた意見が違うという事を話す。はつみが時世を見てきた感覚でいえば、国内の武士同士で争ったり天誅という暗殺が行われた先にあるのは大体『内政的思想』が『尊王-対-佐幕または公武合体』という構造であった事が大きい様に思えたと言う。勿論、開国開国と大きな声で言っている者や外国人そのものが襲われる事件も多かったが、当時、そして現時点であっても、国内の日本人同士が政敵とみなした相手に対する天誅(殺害事件)や事件が目に余るほど横行している。帝が発した『攘夷』でさえ、帝は『公武合体』での『攘夷』を望んでいたにも関わらず一部の武士達は『尊皇攘夷』だと暴走し、自分たちの思想のいいように取り上げ、勤王派・佐幕派・公武合体派と幾度にもわたって同士討ち、内乱、政変が繰り返されてきた。
そんな中。
「私は土佐にいた頃から『開国』の思想は強く持っていました。日本の美しい道徳心や独自の文化を保護した上で、海外の優れた政治体制や産業、インフラ、教育などを取り入れ、ワンランク上の国家を目指せばいいと考えています。その時『内政』が…つまり朝廷や幕府がどうなっているのか、そこまでは言わないようにしていました」
「Hmm. その話を聞くと、確かに政治的関心があるというヨリは思想家や学者という印象がアリマスね。」
「まったく同じことを、土佐の吉田東洋という方や前藩主の容堂公、長州の桂小五郎という方にも言われました。」
「スミマセン、名前を控えさせて頂いても?」
 そいう言うとサトウはスラスラと『土佐吉田東洋』『土佐隠居容堂』『長州桂小五郎』と書き綴り、また話の続きを促す。
「長州の人たちは私の考え方について長い目で見てくれる人もいれば、内政思想に絡まないと割り切って接してくれる人もいて。その頃知り会った桂さんや高杉さん、俊輔くん達は多分私の事を、内政に絡まないし影響力もない、ただの外国被れの変わり者という所で譲歩して交流してくれた方達なんです。そんな彼らも単純に、異国の物には興味があったりしたんですよ。私がプリンを作った時なんかは普通に「おいしい」って食べてくれてましたし…上海へ行って、イギリス産のコートを買った人もいるくらいなんです。異国の物でもいいものはいいって思える心がある。だからきっと、開国をしても清の様に日本が侵略される訳ではなく、日本が日本であるまま外国と対等でいられるという道筋があれば、そしてそれを強固な説得力のもとに推し進めてくれる政府があれば、新しい時代はすぐに訪れるのかなぁって思ったりするんです。」
「彼らは日本が侵略される事を恐れているのデスか?」
「恐れてるって言ったら、彼らの気質上波風立っちゃうと思うんですけど…。よく聞くのはやっぱりアヘン戦争での事が多いです。書物も出回ってたりするんですよ。阿片で骨抜きされた清はそのまま国を乗っ取られたって。」
「Hmm.」
「あっ…すみません。阿片戦争の是非を問いたい訳ではなくって…ごめんなさい」
「sure. 勿論分かっていマスよ。お気遣いありがとうございマス。貴女は思慮深い方なのデスね。」
「いえ…」
「なるほど…確かに絶妙なバランス感が問われるところですね。実際長州は攘夷やクーデターを起こしておきながら、その裏では伊藤や井上たちを我々の国へと送り出している。その先にどういった思想があるにせよ、『今』攘夷を実行しておきながら我々の技術や政治、産業体制に興味があるという事は明確です。そしてそれはかの雄藩薩摩でも同じ事が言えますね。彼らは我々との戦争を経て大きく変わった。積極的に新しい知識を取り入れようとしています。」
 そうなんです…と相槌をうったまま黙ったはつみに視線を向けると、はつみは片手を顎のあたりに充てて何やら考え込んでいた。少しばかり何か考える様な躊躇う様な表情を見せていたが、その内小さく細い指を図面の上へと滑らせ『勤王、公武合体、佐幕』と続く次の空白を指し示した。
「…そうなってくると、やっぱりどうしても、もう一つ大きな思想が芽生え始めるんですよね…」
「え…」
 はつみが言わんとする事を直観的に察してしまったサトウは、ぞわりと鳥肌が立つのを感じてしまう。彼女の経験とは少々切り口が違うが、サトウもこれまで外交官見習いとして多くの公的場面、戦争を経験してきてきた中で思う事があった。まだ誰にも打ち明けた事のない、あくまで個人的なものであったが…
「幕府を倒し、新政府を自ら作り出そうとする勢力…もしかしたらもうずっと前から、それを見越して動いている人もいるかも知れないけど」
 どういう訳か分からないが、はつみがその言葉を発した瞬間、サトウは彼女を抱きしめたい衝動に駆られてしまう。まったく場違いな行動であるという事は理性で分かっていたし、故にそんな間違った衝動は抑え込むこともできた。しかし肌の粟立ちが引くと同時に心臓はひたすらに早鐘を打ち鳴らし、彼の中にいるより直情的な彼が自分を支配しようとするのを他の自分が必死に抑え込むといったまさに混乱めいた図が頭に浮かぶ。
「…私も、あなたの考え方には非常に興味がありマス。」
 サトウはすんとして平静を装い、両手を結んで机の上に置く。こちらへ視線を送るはつみと見つめ合うと本心からそう思うと伝えた。先に『思想家か学者の様だ』と述べた通りはつみの思想はどこか浮世離れしているというか『俯瞰』という言葉がしっくりくる、つまり他人事の様にまとめている印象ではあったが、机上の空論だと跳ね除けるにはいささか妙な説得力がある様に思えた。何より、状況を打破し日本を正式に開国させるにはどうしたらいいのかを考えた先に行きつく『新政府の樹立、つまり倒幕論』の原型的な所にたどり着く発想に思わぬ共感を得た事は、本当に彼を驚愕させた。そんな思想を語る日本人が現れただけでなく、それがまさか、この見目麗しく華奢な乙女であるはつみだったとは…。

「正直今聞いただけでももっと掘り下げたい話題が沢山あります。ですが、今日はこの辺りにして…」
「あ、もうかなり長いをしてしまいましたよね。サトウさんが凄くよく私の話を聞いて下さるから話しやすくて、つい…。長居をしてすみませんでした。」
 はつみはサトウに皆まで言わせず悟った様子で席を立ち、去ろうとした。しかしサトウはスッとはつみの進路方向へ立ち入り彼女の正面に立つ形を取ると、彼女に触れようとした手を一瞬宙に浮かせて躊躇った後に後ろ手に隠し、時世を語る時とはにわかに違った表情で引き止める。
「いえ、まだ…ワインもありますから。この後は…そうデスね、お互いの親睦を深める時間を、私に頂けないでショウカ。」
「へ…?」
 サトウの表情と声がとても柔らかく、はつみが想像していた『英国紳士』そのものの優雅なふるまいだったのもあって思わず目を白黒させてしまう。サトウは慣れた仕草で椅子を引くと、そこへはつみをいざなった。抵抗することなくストンと座ったのを笑顔で見届けると、ワインを取り出して空いたグラスに注ぎ、そして再び自分の席に座るとワイングラスを持ち上げる。
「改めて…私は貴女との出会いに心カラ喜び、感謝していマス。」
「あっ…はいっ…」
 先ほどまでの流暢な語り口とは打って変わって、はつみはつい顔を赤くし落ち着かない様子でワイングラスを持ち上げる。知的な彼女を見た後でのそういった仕草はキュートそのもので、サトウは目を細めて微笑んだ。
「この友情が末永く続く事を願いマス」
「はい…嬉しいです。私もそうありたいと思います。」
 『友情』という日本語表現がはたして今己の胸中に確実に芽生えている感情に相応しいか否かというのは、当然サトウ自身も分かっていた事である。しかし己の立場というものもあり、ましてや彼女の立場というものもある。日本人女性と結婚したワーグマンの様に彼女と結ばれるには、互いに複雑すぎるしがらみをクリアしなければならない立場なのだ。そして、彼女の事は文久2年の頃から一方的に知っていて長い事知り会いの様な錯覚を起こしがちだが、今日初めて会ったのである。サトウの冷静で落ち着いた性格的にも、英国紳士として「がっつく」様な姿勢は見せたくなかったのだ。だから今はまだ、ただお互いの話をしようと…ワインを空けるのだった。

 ほどよく酒気を帯びた場は楽しい語らいの一時をもたらした。更にワインが進むと、はつみは一層『饒舌』な人格を覗かせ始めていた。

 ほろ酔いで饒舌になっている彼女に
「なぜ女性の身でありながらこの様な活動をしているのか。」
「恋人はいらっしゃらないのか?」
  と思い切って尋ねたのだが、どうやら聞き出すのが遅かった様で核心的な話は何も聞けなかった。というのも思いの他早くから酔いが回っており、3杯目のグラスが空いた時にはサトウの思いきった質問の意図などなんのその
「土佐の人たちに…認めてほしいんです…武市さんに海外を…見せたいんですぅ…」
  と、殆ど寝言の様につぶやくだけだった。やがてテーブルにつっぷしたはつみに
「大丈夫デスか?」
  と尋ねると
「うん~…はぁ…目を閉じると…きもちいい……」
  と言って、そのままものの3秒も立たない内に寝息を立て始めてしまった。

 正直この時サトウは紳士でいる事の瀬戸際にいて、彼女の「寝言」は聞いてはいたがもはや思案を巡らせてはいなかった。はつみを一旦自分のベッドに寝かせるが、すぐ自分の真下で寝息を立てる無防備な寝顔を『今が好機』とばかりに何秒も見つめた。指先で前髪を分けるとサラサラと絹糸の様に左右へ解けていく。

 そのまま腕を組み口元に手を当て、部屋の中を2往復3往復と歩き回り、自分の中の紳士を押しのけてのし上がろうとする男の本能が初めてこの身を乗っ取ろうとしている事に対処するべきか迷った。他の紳士や理性が彼を抑えきれなければ、この手は今すぐにでもはつみの胸元へと伸びていくだろう。

 およそ4年前になるだろうか。―18の頃、エルギン興使節団の日本訪問に関する回想録を見た時、日本という国は常に青空が広がる天候に恵まれた土地で、男たちはバラ色の唇と黒い瞳をした乙女たちを伴って寝そべり、色鮮やかに風情のある美しい庭を窓越しに見つめながら過ごすという、まるでこの世の楽園、おとぎ話の様な話を見た。非常に色鮮やかなイメージを持ち、同時に興味を抱いた。
  それから書物を通して徐々に日本の姿を知り、19の時に地球の裏側であるここ日本へと己の足で上陸した時には、イメージしていた色鮮やかさよりも抑圧された政治の中で素朴に暮らす日本人の姿が印象的だった。
 それでも日本への興味は尽きる事はなかった。晴れの日の空や海、街並み、遠くに連なる山々の陰は非常に美しく開放的であり、人々についても市井の人などは外国人珍しさでよく自分を見に来ていたが殆どの人達が礼儀正しく親切であった。だが、実際に『バラ色』の様に見えたものは無かった。横濱の外国人居住地には競馬からボウリングまで様々な娯楽があったが、その中には春を売る様なみだらな場所も存在していた。サトウはそこへ足を運ぼうとは思いもしなかったが、『そういった』生理的衝動がまったくなかった訳ではない。特に、ジャパン・パンチでハテュミという者の存在を知り、写真で彼女の顔を知り、手紙を通してその人柄を知り、こうやって会った事もない人への想いが募る様になってからは…。要するに、今まさに、無防備に眠るはつみの半開きの唇が『バラ色』に見えていたという事だ。エルギン使節団の回想録を書いた人も『バラ色の口唇をした乙女』と表現してしまう程、日本で恋に落ちた…あるいは情熱的な夜を過ごしたという事だったのではないかと、さえ思う。18歳だった自分は様々な知識を身につけ始めていた自覚はあったが、まだ何も知らぬ初心な青年だったのだ。

 口づけをするだけなら…いやむしろ、そういう行為で体の相性を確かめあった後で正式に恋人となるというのもイギリス式として有りなのでは?そんな考えが浮かんではかき消され、また浮かんではかき消される。しかし最後に立ち塞がるのは決まって『外交官』であろうとする自分だ。他国の人と恋人でもなければ合意でもなく、ただ目先の欲情だけでこの様な行為に及ぶなど、愚の極みではなかろうか。知性を重んじる者として一生恥ずべき事になりはしないだろうか?何より、傷付くのは彼女であるという事を忘れては紳士の風上にもおけぬ。そんな事をしていては、日本人の一部の人たちが自分たちを恐れて呼ぶ「野蛮人」そのものと成り下がってしまうだろう。
「………Pheeew...」
 己の中に昂ったものを吐き出すかの様に長いため息をついた。意図して肩の力を脱力し、何故か涙が出そうなほど熱くなる目の奥をグッと押さえつける。恋焦がれつつも困った様な表情で彼女を見下ろしたサトウは、布団を彼女の体にかけると部屋の灯りを消し、そっと船室を出ていくのであった。



 約30分が経過したころ、サトウの船室前にはつみの同行者である坂本龍馬という男とお万里という少女が現れていた。
 サトウが使いを出し『はつみが酔いつぶれてしまったので、宿泊させてもいいのだが心配であろうから必要であれば迎えに来てほしい』旨を伝えていたのだ。彼はもう二人の従者(寅之進・陸奥)が来るとうるさくなるので、代表して自分が迎えに来たと笑いながら言う。日本人は平均的に小柄な印象であったが、この坂本龍馬という男は自分と同じくらい高い身長を有していた。それでいて日本人らしく彼も『剣術』を学んでいたのだろう、パッと一目見ても、鍛えられたしっかりとした体躯であるという事はすぐに理解できる。
「そこはおまんの船室じゃろう?わざわざここで待っちょったがか?」
「まっちょ?…ああ、ナゼここで待っていたのか、という事デスか?」
「ほほほ、おう。土佐弁にはまだ慣れちょらんかったか」
 龍馬と他愛ない会話をしながら室内へと招き入れたサトウは、相変わらず無防備に寝顔を晒すはつみの前へと彼をいざなう。
「申し訳アリマセン。はつみ殿が酒に弱いとは知らず、ワインを勧めてしまいマシタ。」
「いやいや、日本人といえばわいんやびーるを振るまえば誰もが喜ぶもんじゃき。仕方にゃ~ぜよ」
 龍馬の対応はまるで懐に飛び込んでくるかの様な爽やかさで、そのクセが強く取っつきにくい印象の『土佐弁』も彼が話せば逆に魅力的にもとれる。はつみも相当魅力的な女性だと思っていたが、ここまで感情が追い付くのに3年程かかっている。その点、何の前触れもなく出会って間もないこの坂本龍馬という男は親近感を抱かせる天才だと思えるほどだった。
「…船室前で待っていた理由は…お察しクダサイ。」
「ああ~~~なるほどのぉ…」
 頭を掻いて『そういう事か』と察した龍馬は困った様な笑顔をサトウへ向け
「まあまあまあ、大事なんは、おんしがわざわざ部屋の前で待ちぼうけしちょったっちゅう事じゃき。」
 と、肩を叩き、ウィンクを送る。その意味深なウィンクは先ほど公使オールコックからも送られていた為、サトウは濃厚な土佐弁に翻訳が追い付かないまま思わず苦笑いを浮かべた。
「…スミマセン、少し頭の中で言語整理を……」
「はっはっは!ええちええちぃ!おまんは見た目通り、真面目な男じゃのう!」
 龍馬は豪快に笑い、そんな彼の遠慮ない声が室内に響いても尚爆睡を極めるはつみの頬をぺちぺちと刺激して起こそうとした。お万里は男たちの心情が分からない様で小首を傾げている様子だったが、そのまま日本人形の様に入り口付近で控えている。
「こりゃだめじゃ!仕方ない、わしがおぶさって帰るき。お万里、すまんが手伝っとおせ」
「はい!」
 爆睡して脱力極まるはつみの腕を引っ張って上体を起こし、お万里に手伝ってもらいながらようやく背負う事ができた。日本人には馴染みのないベッドの上、というのがまた慣れない作業であった様にも見える。サトウははつみの手荷物をまとめ、また、自分の鉛筆のストックを3ダース取り出して手荷物に乗せたが、2ダース戻した。それを見ていた龍馬が
「はつみさんへの贈り物かえ?どうせなら3つともやったらどうぜよ」
 と恐らく『ケチ臭い事をするな』というニュアンスで言うので、サトウは『本当にこの人は色んな意味で懐に飛び込んでくる人柄だな』と思いつつも
「コレハ日々の消耗品ですから。1ダースだけなら手紙に包む事もできマスし、すぐまた贈るきっかけがデキルでショウ?」
 と、ついつい乗せられる形で本心をのぞかせてしまう。龍馬は眉をあげると「はぁ~!」と驚愕の声をあげた。
「おんしゃ、さっきの一瞬でそがな事まで考えちょったがか?っはぁーげにまっこと頭の回転の速い男やき…」
「(げに…?)立場上、イツデモお会いできる訳ではないノデ…」
「そうかえそうかえ。ああ、わしらはもう暫くここに滞在するき、そがな事言わんと明日も明後日も会いに来たらえいがじゃろう。」
「は…」
 思わぬ誘いを受けキョトンとするサトウに、龍馬ははつみをおぶさったまま目の前まで近づいてきてニヤリと笑う。
「はつみさんは手ごわいぜよ?頭はええがこじゃんっと鈍感やき。何人もの男が撃沈しちゅう」
「こじゃ…?」
「さっきのおんしの様に、常に生殺しの憂き目に遭っちゅう男もおるぜよ」
「ナマゴロシ…?!」
「いやいやいやいや、ほんに殺しをしちゅう訳じゃないぜよ?」
「だ、大丈夫です。何となく意味は分かりマス…」
「そうかえ。まっ、本人は気付いてか気付かんでか『こがな様子』じゃしなあ?」
 目の前でくだらない冗談めいた会話が繰り広げられているのにはつみ本人はどこ吹く風の爆睡であるのを強調すると、龍馬とサトウはそれぞれの感情による表情のまま見合った後、噴き出す様にして笑い合ったのだった。

 外はもう陽が暮れようとしていた。明日の昼過ぎに龍馬達の寄宿先へ伺うと約束をし、桟橋をゆく龍馬達に手を振りながらサトウは思うのである。
「(Mr.坂本は、はつみに想いを寄せて撃沈したという『何人もの男』には含まれてはいないのだろうか)」
 彼の事で知っている事は、はつみが在籍する海軍塾で筆頭を務め、はつみの上司とも言える人物である事。そしてはつみと同じ土佐の出身だという事。これだけはつみと所縁もあり彼女の事を大切にしている様子も伺えたが、サトウのごく個人的な感情に気が付いてもそれに対して特に動じる様子は見られなかった。むしろサー・オールコックと同じく『よしなに』といったニュアンスのウィンクを送って来たくらいだ。素直に受け止めれば『はつみの事は一上司として見守っている』これ以上でも以下でもないという事なのだろう。
 普段ならこんな惚れた好いたといった人間関係に思案などしないといった所だが、しかし何か気にかかった。坂本龍馬という人間は他人の懐に飛び込む天才であるのは身を以て知ったが、それだけではない様に感じたのだった。


翌日19日。
サトウは約束通りはつみ達の寄宿先を訪ねた。坂本龍馬、池田寅之進、陸奥陽之助、お万里といった面々と知り合う。内蔵太という侍も同席していた。申し訳ない事にはつみは昨日のワインで二日酔いを起こしており、若い従者(寅之進・陸奥)や侍(内蔵太)から「ヘンな事してねーだろうな?」と迫られたが、はつみ自身が潔白を証明してくれた。同時に、昨日の手荷物に入っていた1ダースの鉛筆の礼も告げる。詳細は龍馬から聞いたと言うと従者たちの鋭い視線がまた突き刺ささり、しかしはつみは気付いていない様子で「私も何かお手紙で贈りますね」等と言うものなら、彼らの視線がまるで鉄の矢の如く更に鋭く突き刺さるのを感じた。文通の継続はとても嬉しいが、これからは彼らによる『検疫』を通らねばならない事を察してしまったのだった。

 サトウは持参したワインの他、はつみやお万里の口に合えば…と、イギリス産の紅茶を持ってきてくれた。はつみは悲鳴を上げる程これに喜び、さっそく煎れようと言って、二日酔いの頭痛をこらえつつも嬉しそうにお勝手(キッチン)へと走っていった。紅茶にあんなに喜ぶなんて…と感慨深くときめいていると、また男達から鉄の矢を浴びせられるのだった。

 はつみ達の立場を考慮した事もありここで大いに時世を語らうなどといった事はしなかったが、友好的交流として健全に時を過ごす事ができた。日本人の『友人』はいたが、それはサトウにとって教師であったり仕事仲間として培ってきた絆の事だ。彼らの様に、まるでティーンの頃からの友人の如く話し笑ったのは本当に久方ぶりの事だった。しかもはつみの仲間(寅之進と陸奥。二人ははつみの従者ではないとここで知る)はサトウと1つしか歳も違わない者同士であることが判明し、このおかげもあってかなり打ち解けた手応えのようなものもあった。
 彼らははつみが作ったクッキーやパンケーキ、プリンなどを何度か食しているという話題になった。日本人が提供する異国風の料理は何度か食したことがあったが、及第点も含めて合格に至る料理は決して多くなかった。とはいえ彼らは純粋に「うまかった」と言っているので興味は沸いてしまう。はつみは本来の材料ではない日本にあるもので作っているのでサトウが知っている物とはまた違うものになっているかも知れないと謙遜したが、せっかくなので是非頂きたいと申し出てみた。

 結局長らく居座った後、その日の夕食も招待されてしまった。はつみがサトウをはじめ皆に手料理を振舞ったのだ。
 もちろん『プリン』や『パンケーキ』も作ったそうなのだが、デザートの前に和食を幾つか作ってくれていた。定番の白米の他、アジのつみれハンバーグ、揚げ出し豆腐、シラスのかき揚げ、根菜の甘辛煮、出汁巻き卵、そして日本版プリンとも言える茶碗蒸しが振舞われた。食した感想は、実においしかった。正直できる事なら船に作り置きをしておいてほしいと思った程だ。はつみが心配していたプリンやパンケーキも、材料が足りないあるいは他のものを代用した感じは確かにしたが、まったく差し障りのない、素直に『おいしい』と思える出来栄えであった。特にプリンのカラメルソースやパンケーキに添えられた果物を煮詰めたジャムソースは、それなりにレシピを知っていなければこうはならないのでは?と思える程、西洋の風味を感じた。はつみは長州の日本酒をリキュール代わりにしてフランベをしたという。その知識は一体どこから得たのか…と感慨深くなるたび、彼女は土佐へたどり着く前の大半の記憶がないのだという事を思い出す。サトウは自分でも面倒臭いと思う時がある程リアリスト(現実主義者)を自負していたが、本当に、このはつみと言う女性は摩訶不思議な人だと改めて思うのだった。
 しばらくすると伊藤と宍戸(高杉)が現れ、一堂に会してしまう。彼らは去ろうとしたのだが、龍馬が率先して間に入り、はつみの手料理や酒を共有するのだった。これは本当に偶然であり、あくまでプライベートだと互いに了解しあった上で同席する事となった。サトウの印象では宍戸は初めて見た時はまるで悪魔の様な尊大な態度であったが、ここでは実に気前のいい酒が好きな青年である事がわかった。

8月20日、はつみらは先駆けて帰還の途につくフランスの軍艦に乗船し、伊勢沖まで送られた。
 知人との別れは幾度となく繰り返してきたが、こんなにも後ろ髪を引かれる別れは始めての事であった。はつみとの別れはもちろん、彼女と共にあった海軍塾の同士達…彼らともまた、会って食事を共にしたいと思う。
「サヨウナラー!」
 海上を滑り出したフランス艦の甲板にいるはつみ達に手をふって別れを告げるサトウ。彼女達も笑顔で手を振り返し、美しい青空と煌めく海の向こうへと遠ざかっていくのだった。



【First meeting, EP3】







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