仮SS:It’s a small world.EP2


7月5日。サトウ、約束の笠戸島において長州伊藤、井上と再会。

まずは彼らが処分される事なく再会できたことを内心嬉しく思うが、彼らが持ってきた返事は『止むを得ず攘夷続行』との事だった。

二人は帰藩後藩主への謁見が叶い、四カ国連合からの公文書を手渡す事ができ、会議が行われた。四カ国連合からの文書には先だっての攘夷行動に対する謝罪や損害賠償、現在封鎖通行止め状態にある馬関の解放を求める内容が書かれており、これまで約1年かけ、幕府の勝安房守などを交え対話交渉を望んで来たがそれも敵わず、最終手段として直接長州へ報復攻撃を行う準備が進んでいると警告していた。長州と四カ国連合の軍事力は圧倒的な差があり、幕府は中立的立場にある。このままでは長州は焦土と化すとも書き加えられており、長州藩主以下会議では大いに動揺が広がり白熱した会議となった。

しかし会議が結論として出したのは『止むを得ず攘夷続行』であった。これはどういう事かと言うと、藩主らの言い分としては今回の攘夷行動はあくまで朝廷および幕府からの命によるものであり、文久3年5月10日を期限に攘夷を決行せよとの正式な命令書がある事を主張していた。元々長州藩主は外国に対しそこまで攘夷思想を持っていなかったが、近年帝や幕府から直接攘夷命令を出される事が増え、長州はその臣として命令に準じているに過ぎないと。故に今回の件に関して長州が独断で謝罪賠償などの話を勧める事はできず、この判断を朝廷または幕府へ仰ぐためには3か月程の時間がかかるとも述べていた。長州は身を投げ打って攘夷命令を決行したにも関わらず去年の夏(818)以降朝廷幕府から敵対関係を取られる形となっており、今まさにその抗議を行う為に兵挙げてを都へ向かっているという情報はサトウら外国勢の耳にも入っていた。

―とはいえ、井上と伊藤は何ら公式的な文書も持たず口頭でのみ説明するだけで、その様な口約束では西洋諸国の公使を納得させる事はできないと一蹴せざるを得なかった。

「文書が必要ならば2,3日あればすぐに用意できる。幕府からの文久3年5月10日を期日とする攘夷決行命令書も合わせて横濱へ送る事もできる」と伊藤らは言うが、幕府からの命令書をチラつかせる様に『文書こそが動かぬ証拠となる』思考があるにも関わらず今日この場に親書を持ってこれなかった事は、伊藤や井上が望む様な斡旋は失敗に終わったのだろうと思わざるを得なかった。

止戦交渉自体は失敗に終わるが、ごく私的な会話において伊藤達は痛烈に幕府を批判する。
幕府は長崎や函館などの有用な開港地を独占し国内の流通や外国との貿易を独占しているにも関わらず、勅命と諸外国との間で政治的手腕を発揮する事もできず流されるがままに攘夷の命令を下す。そしてその幕府の命に従ったのは長州のみであった。にも関わらず、幕府は朝廷と真に手を取り合う為の手段として長州を切り捨てたのだと。長州の藩主は先にも述べた通りもともと外国との流通に興味を持っていたが、今はこの様に、各方面との戦闘無しに後戻りはできない程真逆の方向へと進んでしまったと嘆いた。

井上(志道)は、諸外国は幕府を倒して都へと進み直接帝と条約を締結するべきだとも言い、サトウや同席していたダウウェル大佐らを驚かせた。サトウは幕府を批判する者と初めて胸襟を開いて語り合ったのだった。


伊藤たちが帰る際、にわかにはつみの話を持ち出して来た。
彼女に関する真新しい情報は無かったが、先ほど井上が勢いよく口を滑らせた討幕論は、自分達が海外留学をする前…つまり1860年に自分が江戸で初めてはつみと出会った時から、彼女が口にしていた思想に近い事を告げる。当時それを聞いた自分も非常に驚き、当時既に『尊王攘夷』は流行り病の様に草莽の志士らを焚き付ける激しい炎の様であったが、『世界列強と肩を並べる為に幕府の抜本的改革あるいはそれが成らぬなら新政権を打ち立てる』という彼女の思想はあまりにも抜きん出ており、ある意味、暴力的で短絡的な攘夷を決行し世間を騒がす様な輩よりも恐ろしい過激論者だと思ったと、今となっては笑い草の様に伊藤は語る。また、そのはつみの思想を殆ど当時から認め、そして彼は上海を見て世界を知り、はつみと語らった思想が間違ってはいないと確信した男が長州にも一人いた。
しかし現状、彼は藩の保守派からも急進派からも疎まれつまはじきにされつつあると。
サトウは驚いたが、素直に『そういった優れた思想と能力を持つ人材が公平に認められ、我々と平和的に交渉できる日が来る事を心から願っている。今の話は私とイトウとの間で行われた個人的な会話・情報交換にすぎないが、必要に応じて公使にも伝えていきます。』と述べた。






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