―表紙― 登場人物 物語 絵画

英国公使館年表


サトウ、ミットフォード、シーボルト、公使、チャールズ、ベアト等

※創作ネタは含まず
※基本的に西暦表記のため、使用の際には旧暦変換必須。
余裕が出来たら旧暦変換していきたい…
※最終更新2021.12.11 (ウィリアム・ウィリス、野口富蔵など追加予定)


1858
英国エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースにより日英修好通商条約締結。1859.07.01を以て長崎、神奈川、函館の3港が開港。



1859
03.01英国ラザフォード・オールコック、初代駐日総領事に任命される。(極東在勤のベテランと称されていた)
07.01英国オールコック領事、神奈川を視察
07.06英国オールコック領事、高輪東禅寺敷地内に暫定の総領事館を開設。幕府に軍馬を売却するなど要請。交渉は順調。
07.11英国総領事一行、江戸城登城。
07...英国領事館が横浜浄瀧寺の境内に建てられ、その周囲の横濱村に外国人居留地があてがわれた。
08...老シーボルト、息子アレクサンダー(13)と共に来日。(老父は放逐令が解除された事を受けての再来日)
始め本蓮寺に入った後、鳴瀧へ移る。
息子アレク(以下シーボルト)、父の動植物採集と研究(気圧高度計、自計寒暖計、湿度計のチェック)を助け、
更に家政を執りながら、マレイ語と日本語及び漢字の勉強に励む。日本語の習得に関しては、午後毎日、
オランダ語のできた二宮周三から学んだ。
二宮はことのほか熱心で、シーボルトはほぼ一日休むことなくこれらの事に時間を費やしていた。
二宮は『親切で特別熱心な若者』であったとしている。
日本の児童と同じ様に習字を習い、感じの訓や音も学ぶ。
08.18露海軍軍人殺害事件
09-10英国オールコック領事、函館へ旅行。
11.15仏領事館従僕殺害事件
12.23特命全権公使に昇格。これにより、高輪東禅寺の領事館は公使館へと昇格。



1860
01.29英国日本人通訳殺害事件。英国公使オールコック付きの通訳小林伝吉(洋装しておりかなり有名であった。)
01.30仏公使館焼失。誰も住んでおらず、放火とみられた。
03.24桜田門外の変
02.26蘭人船長殺害事件。日本の外国に対する賠償金支払いの初例となった事件。
09.11英国オールコック公使、富士山への登山を行う。記録上、外国人として初めて富士山登頂を成した人物となる。
その後熱海へ旅行するが、愛犬のトビー(スコティッシュ・テリア)が大湯間歇泉の熱湯を浴び熱傷で死んでしまい
村人達が手厚く埋葬した。
10.30仏公使従撲傷害事件
11.27英国人マイケル・モース事件
.....英国・アーネスト・サトウ(18)、日本に興味を持つ。
兄が貸本屋から借りて来たローレンス・オリファントによるエルギン卿使節団の中国・日本訪問に関する回想録を読み、
日本に興味を持つ。この頃ローレンス・オリファントは江戸公使館にて一等書記官を務めている。
『日本とは空が常に青く、太陽が常に照り続けている国。男達はバラ色の唇と黒い瞳を携えた魅力的な
乙女たちに伴われて座敷に寝そべり、築山のある小さな庭を窓越しに眺めながら過ごす。
神々の祝福を受けたかの様な、色鮮やかで、現世におけるおとぎの国というイメージ。』
間もなくして、今度は米国マシュー・ペリー提督の遠征記を読む。オリファントの回想録よりもずっと
冷静な体裁で書かれていたが、より一層日本のイメージを確固たるものにできた。
以後『他の事は考えられなくなった』程、日本への興味を深めていった。
11...老シーボルト、ロシアのリカチェフ提督と度々会見し、息子の将来を託すに至る。
シーボルト、ロシア海軍の幼年生徒及び提督付日本語通訳として採用される事となり、
本国からの正式採用通達を待つ事となった。
しかしシーボルト本人はこれを喜ばない様子を母宛ての手紙に書き綴る。



1861
01.14米国通訳ヘンリー・ヒュースケン殺害事件
01.24プロイセン、修好通商条約締結
02...シーボルト父子、江戸赤羽接遇所へ移る。
03.14露軍艦対馬占領事件
04.25英国画家チャールズ・ワーグマン、長崎来日
04...英国オールコック公使、モース事件後処理の為香港に滞在
香港滞在中に露軍対馬占領の報告を聞き、英国東インド洋艦隊司令官ジェームズ・ホープ中将と共に幕府へ協議。
ホープ中将が艦隊を伴って偵察へ向かった。
05...英国オールコック公使、長崎へ再来日。
06.01英国オールコック公使、英国画家チャールズ・ワーグマンら、長崎から江戸まで陸路旅をする。
06...シーボルト、ロシア皇帝から「12月、函館のビリレフ司令官の許に出頭せよ」との通知が届く。
07.04英国オールコック公使ら、江戸に入る。
07.05第一次東禅寺事件(英国)…水戸脱藩浪士14名による英国オールコック公使襲撃事件。
一等書記官ローレンス・オリファントらが負傷。
07.06シーボルト父子、現場を見に行く。シーボルト、以後しばらくこの光景が夢に出る様になった。
07...英国公使館を横濱へ移す。(公使が異動する事で領事館が公使館へと昇格する)
07...英国艦隊の軍艦が横濱港に常駐する許可が幕府より下りる。
07...英国・アーネスト・サトウ、母校University College Londonの図書室で日本・中国への通訳候補生を外務省へ
推薦する旨の募集告示を目にし、難色を示す両親を説得してこれに応募する。
最年少にして試験を首席で合格し、日本行きを希望する。
08.01英国・アーネスト・サトウ、正式に通訳候補生としての任を拝命。
※大学University College Londonは飛び級で卒業か。
08.13英国ジェームズ・ホープ中将、来日
08.14英国オールコック公使、ホープ中将、オリファント一等書記官(通訳。負傷の為帰国予定)と
幕府老中・安藤信正、若年寄酒井忠眦と対馬の露艦隊に関する会議を行う。
この時オールコック公使は幕府の弱体化という事実を知る。
08..シーボルト、母宛てに手紙を書く。
・明日は誕生日だがまったく嬉しくない。母と離れている月日を感じるから。
・江戸語を覚え、大変役に立っている。オランダの書物を翻訳している。
・奉行たちに西洋の事を説明できたりできるので、好まれている。
・住まいは要塞、いや牢獄同様です。
・地球儀を送ってください。日本人に各国の位置を説明したいので。
09.19イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去勧告。イギリス艦隊は対馬へ入り、条約違反を重ねて占領を行う
露ニコライ・ビリリョフ艦長に猛抗議した。函館の露領事館は形勢不利と見なしてようやく介入、
ビリリョフ艦長を説得し、露艦隊は撤退した。対馬に残された、あるいは建設されていた露関連のものは
全て解体され、その材料は長崎で保管された。
..... 英国オールコック公使は幕府から『新潟、兵庫、江戸、大阪の開港開市』について延期したい旨の
要請を受けては断固反対の姿勢を貫いていたが、幕府弱体の事情を鑑み開港延期の必要があると理解を示した。
翌年5月から開催されるロンドン万博へ使節を派遣する予定の幕府を強力にサポートし、
使節団が『招待客』として参加できるよう手配していた。それに加え、自身の賜暇帰国を利用して帰国し、
直接英国政府へ開港開市の延期の必要性について説明する機会を得る事とした。
11...英国・アーネスト・サトウ、通訳候補生として母国イギリスを出立。
当時、英国では『日本語を獲得する為にはまず中国語を知る必要がある』との概念があり、
サトウらもまずは中国・北京公使館にて業務を行いつつ中国を学んだ。
11...老シーボルト、幕府顧問を解かれ横濱にて息子のロシア海軍入りを待つ事になった。
この時老シーボルトの親友であるポルトガル名誉領事クラークも横濱におり、
彼の息子がロシア海軍に入る事を聞いて賛成しなかった。シーボルト少年の体調が良くなかった事と、
彼の母も同様に以前から極力反対の意を示していた為。
クラークの仲介によりシーボルト少年は急にロシア海軍入りを中止し英国公使館に勤める事となった。
11...シーボルト、英国公使館付特別通訳官に任命される。(年給300ポンド及び官舎が支給される)
「公使を始め他の同僚の人々に心から迎えられた。15歳の少年である私をサーを以て呼び、
your obedient servant(敬具)と署名された大切な辞令を手にした時は喜び」歓声を上げた。
私は役に立たない少年から一躍して立派な地位の公使館史となったのである。」
11...老シーボルト、安心して日本を去る。
「最後の抱擁して別れたが、翌朝悪天候の為、父が乗船している船がまだ碇泊しているのを見つけ、
和舟で近付こうとした。しかしこの時甲板に立っていた背の高い人影が引き返せと叫んだ。
それが父であった。彼は私を認めたたが、大波の為に私を乗船させようとしなかったのである。
これが父への最後の挨拶であった。」



1862
01...シーボルト、英語の習得に励む。
01.21幕府文久遣欧使節(福沢諭吉ら)、ロンドン万博へ向け出国
02.13坂下門外の変
03.11将軍・徳川家茂、和宮と結婚
03.16-17老中首座・久世広周と秘密会談し、より詳しく日本の情勢を理解した。
03.23英国オールコック公使、賜暇により英国帰国。
05.27英国ジョン・ニール代理公使、着任。ニール代理公使の判断で公使館を東禅寺へと戻す。
ニール代理公使についてサトウ
『スペイン部隊に従軍した経験があり、他国に手領事の経験もある。
特に治外法権という制度の運用に関して経験が豊富だった。文才があり知見に富んだ報告書はよく書かれていた。
彼は背がかなり低く灰色の濃い髭を生やし額には薄い白髪が伸びていて、気難しく疑り深い人物であった。
しかし機嫌がいい時にはとても気さくであり、記憶しているオペラの一節を吟じる事もあった。
当時彼は55歳であったが、後に彼の命を奪う事になった病魔はすでに彼をむしばんでいただろう。』
06.06幕府文久遣欧使節、英国にてロンドン覚書締結。開市開港の延期決定。
06.26第二次東禅寺事件(英国)…東禅寺警備兵が英国ニール代理公使を夜襲し、英国警備兵二人を殺傷した。
再び、英国公使館を横濱へ移す。
06...英国公使館付医官ウィリアム・ウィリス、横濱に来日
..... アーネスト・サトウ、中国の役人が日本からの書簡をまったく理解できないという場面に遭遇。
この事から『中国語を学べば日本語が理解できる』という概念に疑問がもたれる。
結果、サトウ達はすぐさま日本へと送られる運びとなった。
08.06アーネスト・サトウ、中国北京公使館を発つ。
08.16シーボルト、16歳になり英国国家試験の受験を申請。その勉強に打ち込む。
09.02アーネスト・サトウ、中国・上海から日本へ向け出港
09.08英国公使館付通訳生アーネスト・サトウ(19)、来日
ボウリング場やビリヤード場のあるホテルのシングルルームに入る。
09.14生麦事件。報復行動を訴える外国人らを抑え、本国との連携を保ちながら冷静に対処する事に徹した。
(サトウもニール代理公使の冷静かつ毅然とした対応を称賛している)
以後、この事件の解決には翌年8月まで続く。
09...サトウ、日本語習得の為の教材集めに苦心する。(手元にあるのはパンフレットの様なものばかり)
教材となりうるいくつかの書籍に心当たりはあったが、そのほとんどが横濱では手に入らなかった。
老ウィリアム・メドハーストがかなり前に出版した日本語の単語帳を弁天通りと本町一丁目にある書店で
購入する事ができたが、これは役に立たないという事がすぐに分かった。しかしサトウは
メドハーストの中英辞典を持っていたので(恐らく中国勤務の時に入手したもの)少しながらも
漢字を理解しており、書き起こせばその辞書を以てその意味を理解する事ができた。
しかしホテル住まいで騒音がある事もあり、また代理公使はサトウ達に対し
「毎日出勤しできる作業はないかと聞くように」と命じられていた。殆どの場合は公文書のコピーや
会計報告書を作成する作業で、しかもサトウの字は平均よりもきれいだった事から
尚更事務作業を命じられる事が多かった。不備だらけの教材、時間のなさ、
日本語の習得はとにかく大変だった。
09...サトウ、友人ウィリスからも助言があり、勇気を振り振り絞って通訳生としての職務(語学勉強)に
重点を置きたい旨講義する。しかしこれを受けた代理公使はサトウを大層な怠け者と思ったらしく
「両方の仕事(事務作業と語学勉強)がおろそかになるくらいなら片方だけがおろそかになった方がよい
(事務仕事をしろ)」と言い放った。
また、代理公使はサトウ達の為に家を借りるつもりでいたが、最終的には公使館の建物として
使用していた長い二階建ての建物の部屋が割り当てられた。
09...サトウ、公舎のオーナーであったホーイという人物にぼったくられる。
サトウが日本に来たばかりで世間知らずであり、本の虫であると知ったホーイは
『ペニー・サイクロペディア』の未完本を、完成品を買ってもおつりがくるであろうという値段で売りつけた。
09...サトウ、海軍兵やワーグマン達と知り合い、ボウリング場などで交流を重ねる。
10.02幕府、英国オールコック公使の助力を得つつロンドン覚書を元に各国への開市開港の延期交渉が進み
『1868.1.1を以て開港開市』との決定で一定の解決に至る。
10...サトウ、公費でS.R.ブラウン牧師の授業を二週間ほど受ける事になる。
また、ポケットマネーにて地元日本人から『教師』を雇う事、午前中を語学勉強の為に使用する事を許される。
ブラウン牧師の授業は大変貴重であった。彼自身の著書である『口語の日本語』を用いて発音と文法を教授し
『鳩翁道話』という日本書籍の序文を読み聞かせ、日本語の構造について理解を深めさせてくれた。
10...サトウ、ボーイ(給仕)にしてやられる。
漢字に日本語のカタカナが譜ってある辞書が早く欲しかったのでその入手をボーイに頼んだのだが、
彼はまず「この近くにはないので神奈川まで行ってくる」と言った。そして1日外した後帰還し、
唯一残っていたものだと言う本を見せ、1分銀4枚(およそ2ドル)ほどを請求した。
当然ながらサトウはまだ日本の事には疎く、請求額を支払った。
2か月後、本屋でこの本の値段を尋ねたところ1分銀1枚半で売った事を聞かされる。
『本代の請求額』としてボーイに支払ったサトウであったが、その後彼は本屋へ戻り
『サトウが銀1枚半以上は支払わないと言っている』と言って強引に値切った様であった。
当然差分は彼のポケットに入ったという訳である。
またこのボーイは、サトウが椅子やテーブルを購入する際に支払った代金の多くを
(恐らく同じ様な手口で)着服した事も明るみになった。彼はついに着服金を返還するか左遷される事となった。
10...サトウ、公使館内に執務室を持つことができ、そこで存分に勉強する事ができた。
当時サトウらには二人の日本人教師がおり、一人は紀州和歌山の外科医である高岡要であった。
(もう一人の方は頭が悪く役に立たなかったとのこと)
サトウの同僚が体調不良で帰国した為、サトウは高岡を独占して勉強に励む事ができた、とある。
くずし文字から楷書に至るまで、高岡の適切な指導を得る事ができた。
習字も習ったが(御家流)こちらはあまり進まなかった様だ。
11.02サトウ、初めて地震を経験する。
「まるでとても大柄な人が硬い布地のスリッパをはいてベランダや通路を通ったのか」かの様に揺れた。
地震は数秒続いた後に少しずつ落ち着いたのだが、少し気分が悪くなり、長く続くと思われたのは
自分自身が震えているせいなのかとも思った。初めて体験した人の誰もがこういった恐怖を
覚えるだろうがかといってこの現象に慣れるという事も無い様に思うと言う。家屋を一瞬で薙ぎ倒し
数千人もの命を奪う様な大きな地震は暫く起こっていない。前の大地震から時間が空けば空くほど、
次の地震が大地震になる可能性も高くなる、と。
晩年サトウは長い間日本に滞在していたが、ついにこの大地震に遭遇する事は無かったとも述べている。
12...サトウ、シーボルト、ニ-ル代理公使に随行して江戸へ向かう。
依然として公使館は横濱に置かれており、サトウは江戸を訪れる機会が与えられた事を喜んでいた。
護衛兵団に付き添われた厳かな使節団は騎乗して出発。サトウとロバートソンは神奈川を通過する際に
ブラウン牧師を訪ねる為別行動をとり、後に馬を走らせて使節団へ追いついた。
(とあるが、度重なる外国人襲撃に皆が警戒しきっており、生麦事件の現場も近い所を二人だけで
駆けるとは当時にしてはなかなか猛者な行動であった様に思う。)
川崎では外国人を渡したがらない船頭とモメるあるあるが発生。周囲にいた警備にも助けを求めたが
彼らは逃げ去った。
しかしこの時、奉行所から息も切れ切れに追いついて来た役人が仲介に入り、一行は無事川を渡る事が出来た。
この日本人達は英国の代理公使が日本人の随行人を伴わずに出発したと聞いた奉行所が慌てて派遣した者であった。
梅屋敷と呼ばれる中継地点では『可愛らしい少女』のもてなしを受けたとある。
サトウ曰はく
「多少なりとも自己愛を持ち合わせた者であれば、東海道を旅する際はこの絵画の様に美しい景色を
有する梅屋敷という中継地点に立ち寄り、麦わら色の茶を飲んでパイプを吸いながら
女中と談笑したいとい欲求に抗えないのである」
との事。ヨーロッパ人は大抵ピクニック用のバスケットを持参し、ここで昼食をとった。
品川の遊郭街近くを通過した際には「いかがわしい店が立ち並ぶことで悪名高い界隈」と言っている。
一行は、今は使用されていないがもともと公使館としてあてがわれていたかの東禅寺に入った。
12...英国一行が到着した二日後、老中との対談の為彼らの屋敷へと向かった。
この頃サトウは、周囲の日本人が「御老中」と言うのをそのまま受けて『五老中』だと勘違いしていた。
「五人の老中」ではなく接頭辞である『御・老中』である事は後に分かった事で、
その時以来『御老中』と『老中』を使い分ける様になった。
(公使などが『御』といった接頭辞を彼らに用いるのは作法として正しくない事であった為。)
サトウはこういった場に相応しい服装を何も支給されておらず、金色の紐が付いた略帽を借り受けた。
(後にこういったものは価値のない安物であり『真鍮の帽子』の事も嘲る様になる、とある。)
この『真鍮の帽子』を被った6人の人員と立派な出で立ちの中尉に率いられた12名の護衛軍人による
行進は壮観であり、更にその周囲には40人ほどの日本人護衛が付いていた。当時外国代表は
随行員もなく半裸の車夫が引く粗末な人力車に乗って移動する事が一般的だったので、尚の事人目を引いた。
部屋に入ると三人の老中は右側に座り、その横には『御目付』が控え、更にその後ろには外国奉行が並んだ。
この時日本側についた通訳に「森山多吉郎」がいた。
東禅寺事件の賠償について話し合ったのだが本国の外務大臣ラッセル卿の訓令に基いてニール代理公使が
要求したものをすべて拒否し、殺害された二人の家族に対する補償である一万ポンドの請求を
三千ドルにまで値切ろうとした老中たちに対しニール代理公使は我慢の限界に達した。
非常に強い語句を用いた抗議を三時間行ったが、何の成果も無くこれは終わる。
(この瞬間であったかは記憶があいまいだが)この対談の中でシーボルトは
「sun of a gun(卑劣漢)」という言い回しを『鉄砲の息子』と直訳していたとある。
かくいうサトウも、ニール代理公使が川崎の舟渡でもめた船頭や逃げ出した警備兵達について
抗議した時にユースデンが「zij sloopen alle weg(彼らは皆逃げ去った)」と訳したのを聞き、
長くつまらない談話に緊張感を切らせていたサトウは笑いの刺激を受けてしまった。
そして「They all sloped away(彼らはみんなずらかったとさ)」と隣の人に囁くと、
老年の紳士たるニールは恐ろしく不機嫌な顔をして、サトウの無作法な行動を強く非難し、
今後あの様な厳粛な会談に列席する事は断じて許さないとまで言い渡した。
当時サトウはむしろほっとしたが、自分のしでかした事をもっと後悔するべきであり、
年長者への敬意もはらうべきであった。19歳の少年は少年だった。としている。

シーボルト、通訳形態に風穴をあける。
例の如く当時の通訳とはどの国の言葉であっても必ずオランダ語を介して行われていた。
しかしそれは非常に効率の悪い事であり、また翻訳の最中で間違い語彙が失われる事も多かった。
この会議に際しても、わざわざオランダ語を際して行われる通訳に双方難儀した。
ニール代理公使は英語と日本語を直接直通できる『通訳官』であるシーボルトを通訳とする事を
提議しようとしたが、彼の日本語が不十分でないという理由で拒絶されることを恐れた。
そこで会議が一時休憩となった際、シーボルトは懐中時計を日本の役人たちに見せ、
日本語を用いて彼らにその機能を説明して見せた。日本人はこれはよく理解しシーボルトの日本語力を認め、
彼が双方の通訳を行う事を承知した。
幕府が外国との談判の際に外交用語としてきたオランダ語を廃し、直接言語より日本語へ
翻訳するに至ったのはこの時が最初であるかも知れない、大業であった。
12...滞在中、サトウらは毎日江戸の郊外で乗馬を楽しんだ。
サトウが日本に興味を持つきっかけとなったローレンス・オリファントの本で紹介されていた
「王子のかわいらしい茶屋」や、甲州街道沿いにある十二社(じゅうにそう)という名の池、
鞠子への道中にある洗足池なども訪れた。目黒の不動尊にも足を運んだが、その最大の目的は
茶屋のかわいらしい少女達に会いに行く事だったという。江戸市中においては浅草の観音寺、
またもかわいらしい少女達が塩辛い桜の花を煎じた茶を提供してくれる愛宕山、
そして高台から都市を一望できる神田明神にも足を運んだ。芝と上野にある荘厳な霊廟は公開されておらず、
こういった場所は江戸が開市される1868年まで多く存在した。
各国公使館周辺には別手組などの屯所が設けられており、外国人が出掛ける素振りを
みせようものならすぐさま6人程がやってきてどこまでもついて来た。
彼らからは逃れられなかったとある。彼らは外国人が一般階級以上のものと話す事や
私邸に入る事を防ぐためにも遣わされており、必要以上の交流を望まない・行わせないという
思惑が見て取れた。
店に入って座る事、購入する事は認められていたが、老シーボルト事件にあった様に、
地図や大名達の公式名簿は購入厳禁とされていた。彼らが購入した者はただちに公使館へ送られ、
外国奉行から派遣されている公使館付きの官史に代金を支払い(恐らくここで品物の査定もされ)
ようやく品物を受け取るという手順で合った。プロイセンの代表であった人物が
大名の名簿を所望したが当然拒否され、しかし彼は梃子でも動かぬ勢いで1日中そこに居座った。
役人たちは走り回った挙句彼を説得する事は不可能という判断に至り、その時だけ特別に購入が
認められるといった事があったが、サトウいはく、実はそういった書物は日本人の教師などに頼めば
簡単に入手する事ができた、とある。この他、本等の出版もほぼ認められていなかった為、
本を丸ごと書き写すといった「たいへんな作業」もよく行っていた様だ。
当時サトウは横濱においては公使館から支給された海岸通りの第二十番にあった一角にて
ウィリスと共に暮らしていたのだが、この時小林小太郎という若い侍が幕府から派遣され
ウィリスの許で英語を学んでいた関係でよく会っていた。彼の実家へ足を延ばしたのだが、
この事を日本人護衛達は上層部へ報告し、次に訪れた時には彼らは江戸の別の場所へと
引っ越しをした後であった。また、この小林小次郎についても1863年春頃からぱったりと姿を見せなくなり、
以後彼の事を聞く事は無かったと回想している。(小林自身はどうやら日英関係悪化とみた
幕府側の意向で引き揚げさせられており、その後慶応義塾へ入社。
翌年幕府の洋学研究機関である開成所へ移り、その後も官史、英学者として順調に出世を重ねている。)



1863
01.30幕府文久遣欧使節(ロンドン万博)、日本帰国
01.31幕府同意のもと品川に建設されていた英国公使館が高杉晋作らに焼き討ちされる。
01...チャールズ・ワーグマン、小沢カネと結婚
02...サトウ、ブラウン牧師から『一人前』と認められ、卒業する。
04.21将軍・徳川家茂、第3代将軍・徳川家光以来となる上洛
.....フェリーチェ・ベアト(29)、横濱来日
06...サトウ、初めて公式文書を一人で翻訳する。
幕府から届いた、日本語原文とオランダ語の書簡。当時は必ずオランダ語を介してのやり取りであった。
書かれている事を正確に理解する必要があったため、三者によって三度翻訳された。
ユースデンによってオランダ語が英語へと翻訳される。
次に原文日本語をシーボルトが教師の力を借りながら翻訳し、
その次にサトウが翻訳した。
この時かけがえのない友人ウィリスがサトウの翻訳を読んだ時にあげてくれた称賛の声を忘れる事はないと言う
06.24英国ニール代理公使、幕府から第二次東禅寺事件と生麦事件に掛かる賠償金11ポンドを受け取る。
06...長州藩、攘夷期日に向け馬関海峡を封鎖する。
06.25下関戦争(攘夷)攘夷決行期日に基き、長州藩、アメリカ商船ペンブローク号を砲撃
07.06下関戦争(攘夷)長州藩、フランス通報艦キャンシャン号を砲撃
07.11下関戦争(攘夷)長州藩、オランダ東洋艦隊メデューサ号を砲撃。一時間ほど交戦する。
07.20下関戦争(報復)アメリカ軍艦ワイオミング号による砲撃。壬戊丸、庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させる。
陸上の砲台も艦砲射撃で甚大な被害を与えた。もともと貧弱だった長州海軍は壊滅的となる。
07.24下関戦争(報復)フランス東洋艦隊セミラミス号とタンクレード号による砲撃。
圧倒的な火力で民家を焼き払い、砲を破壊。
08...シーボルト、英国国家試験文官試験に合格。正式に英国公使館付通訳官となる。
08.06薩英戦争。
英国ニール代理公使、薩摩藩に対し生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」を求める為、
英国艦隊(7隻)を伴って出港。サトウ、シーボルト、ワーグマン、ベアトらも同行。
08.11英国艦隊、鹿児島着。薩摩は寺田屋騒動関係者の謹慎も解き、総動員体制をとった。
要求を記した書類は事前に作成されており、シーボルトと彼の教師らが翻訳したものが薩摩藩へ送られた。
08.15数日にわたる交渉は平行線を辿り、早朝、これを打破する為に英国側の周辺を徘徊する薩摩蒸気船を
拿捕する動きを見せる。この時サトウらが乗るアーガス号はジョージ・グレイ号に横づけし、
逃げずにいた船長の五代才助と松木弘安が捕虜となり、蒸気船は拿捕された。
これらの行動で交渉はついに決裂し、正午、鹿児島の砲台から一斉に砲撃が始まった。(以下、詳細は割愛)
08.16前日の戦闘で戦死した旗艦艦長や副長などの11名を水葬にする。
08.17燃料消耗等の理由により撤退開始
08.24英国全艦隊が横濱へ帰着
09.25孝明天皇による大和行幸
09.29天誅組の変
09.30818の政変。攘夷派公家(三条実美、東久世通禧ら)や長州の都落ち
10.14井土ヶ谷事件対応に苦慮した幕府は後に幕府横浜鎖港談判使節団という名目でフランスに使節を派遣した。
10...チャールズ・ワーグマンと小沢カネ、第一子が横濱で生まれる。
11.11薩摩藩士が横濱英国公使館を訪れ、第一回和睦の談判が行われた。幕府の仲裁を以て持ち越しとなる。
11.14第二回和睦談判。前回同様、次回持ち越し。
11.15第三回和睦談判。和睦派の薩摩家臣が幕府に歩み寄りを見せ、英国もこれに応じた事で和睦成立となった。
これらの戦闘と交渉を経て英国は薩摩を高く評価する様になり、薩摩もまた改めて英国欧米の優秀さを理解し
以後、互いに友好関係を深めていく事となる。



1864
.....ベアト、ワーグマン、「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」を設立
02.06幕府横浜鎖港談判使節団(池田使節団)フランス軍艦に乗船し日本を出航
02.22将軍・徳川家茂、2度目の上洛。
03...英国オールコック公使、日本再着任。ニール大佐、代理公使を離任し帰国。
サトウらに与えられていた事務仕事を大幅に免除し、に日本語及び日本政治・文化等の勉学・研究を推奨。
07.08池田屋事件
07.13英国留学中の長州藩士、井上聞多、伊藤博文、英国から三か月かけて横濱に入り帰国。
オールコック公使と会見し、下関砲撃への猶予を交渉。受け入れられる。
07.21下関砲台等の詳細調査の為、フランス、オランダ、イギリスの将校らが二隻の軍艦にて長州近郊へ
派遣されると共に、通訳としてサトウも貸し出された。井上、伊藤の二人もサトウと共に乗船している。
渡航中、サトウ、サトウの教師である中沢見作、そして井上と伊藤は様々な事について語り合った。
そして、オールコック公使が持たせた長い覚書を協力して翻訳した。
07.26日没後、姫島沖に投錨。
07.27早朝、8.7に周防沖の笠戸島で待つと約束し、伊藤と井上を小舟に乗せ、別れる。周防の富海へ上陸し、
8時に彼らが岸から離れるのを確認。中沢の話では、おろらく7割8割の確率で彼らは斬首され、
二度と会う事はできないだろうとの事だった。その後、サトウらも姫島へ上陸する。
住人は親切で沢山の魚を売ってくれたが、魚以外の食糧(野菜、果物、肉類)は無かった。
07.28島の北側へと投錨する。ここでも村の人々は親切であった。
07.29伊予の伊美では一切拒否され、更に西にある竹田津では問題なくカボチャやナスを仕入れる事ができた。
08.01夜明け前に抜錨し、砲台の射程圏内に入らない様、下関海峡の方へと進む。
海峡の入り口を半分ほど進んだ時、長州砲台が一斉に警戒砲撃するのを目撃している。
以後も慎重に距離を保ちながら田ノ浦近くまで進み、砲台視察や測量を続け、姫島へ戻った。
08.03姫島では住人らによる干渉はあったが皆友好的で、サトウは散歩を楽しむ程人々に馴染んでいた。
08.04豊前から4人の藩士が派遣され、サトウ達の行動を監視していた。サトウは気さくな様子で
どこから来たのかと尋ねたが、彼らはぶっきらぼうに「遠方から」と応えたのみで、
以後も殺気を押し殺すかの様子で監視を続けていた。
08.06再び下関を偵察する為田ノ浦まで進み、前回よりももう少し先へ進んだ。今度の威嚇砲撃には
実弾が込められており、サトウ達の少し前で海へ落ちた。夜に軍艦へ戻ると、翌日の期日を待たず、
そして『7割8割の確率で斬首』を乗り越えた伊藤と井上が戻ってきていた。
彼らは藩論を変える事はできなかったが、藩主が藩論を変えらる状況にないという言い分、
それを打破する為には朝廷と協議が必要となり三ヵ月かかるといった事情を述べる。
しかし公的な書類もなければ伊藤達が正式な使者であると証明できるものもなく、
これでは公的な対応はできないと返さざるを得なかった。
また、ごく私的な会話において、伊藤達は痛烈に幕府を批判するものであった。
幕府は長崎や函館などの有用な地を独占し、国内の流通や外国との貿易を独占していると。
サトウは幕府を批判する者と初めて胸襟を開いて語り合ったのだった。
伊藤と井上はその日の内に去っていった。
08.09下関視察艦隊、姫島沖から去る
08.10下関視察艦隊、横浜着
08...四カ国代表と幕府の間で長州に対する協議が重ねられる
08.20禁門の変
08.23幕府横浜鎖港談判使節団帰国
使節団、フランスと締結した協定を持ち帰るもあまりにもフランスに偏った内容。
英国オールコック公使が外国同盟への影響・危機感を示す。
08.25幕府、フランス協定を破棄する通達を出す。
08.27-29英国キューパー提督の旗艦ユーライアラス号を先頭に、英国軍艦9隻、仏軍艦3隻、蘭軍艦4隻、
米(仮装)軍艦1隻、総勢約5000兵力の艦隊が、随時横濱を出港した。
アーネスト・サトウ、キューパー提督付き通訳として旗艦ユーライアラス号に乗船する。
写真家フェリーチェ・ベアトも同乗している。
09.02第1次長州征伐開始
09.02英国艦隊、姫島着。天気良好の瀬戸内海は波も少なく空も海も青々としていた。
深夜までに全ての艦隊が到着する。
09.03薪水を得つつ、海岸に降りて散歩をしたりした。島の人達は友好的であったが、
見張りの侍とは相変わらず会話もままならなかった。
09.04四カ国艦隊、姫島を出航し隊列を組みながら厳かに瀬戸内海を進む。
15時半頃、馬関海峡を望む海域に投錨し、臨戦態勢で碇泊した。
09.05早朝、長州から格下の藩士二名がユーライアラス号に乗船してきた。
提督は彼らとの対話をしなかったので、通訳も兼ねてサトウが対応した。
艦隊を差し向けて来た理由を聞きに来たのだが、彼らは事態をよく分かっていない様で、
「これ以上進むつもりならば闘う準備をしなければならない」などと宣戦布告をして去っていった。
14時頃、軍事行動開始の為の準備に取り掛かる様号令がかけられる。
その直後、早朝の藩士二人と共に井上聞多、加えて下関奉行が乗船してきた。
井上は軍事行動を遅らせて欲しいとしてきたのだが、艦隊はすでに軍事行動開始の配置についている。
サトウが言える事は『平和的な解決を試みる段階はすでに過ぎ去った』という事だった。
16時10分、軍事行動開始。
09....四カ国艦隊の火力は圧倒的であったが、長州兵はその本隊や兵器が禁門の変に派遣されて
弱体していたにも関わらず驚異の粘りを見せた。いち通訳であるアーネスト・サトウも戦場へ乗り出し、
丘を登って敵砲台を占領したり荷物運び等もしている。
09.08ユーライアラス号にて講和会議。正午、備品搬入を手伝っていたサトウが旗艦ユーライアラス号へ戻ると
伊藤が乗船しており、四カ国艦隊側がユーライアラス号に場を設け、そこへ長州藩の全権を与えられた
家老・宍戸行馬と名乗った高杉晋作がやってきた。由緒正しき和装姿で自信満々堂々と現れ、
サトウはこの印象を『悪魔(ルシファー)の様だった』としている。
講和の先立ちとなる書類に不備があり、48時間以内に準備出来次第、再度場を設ける事となった。
09.09サトウ、二人の提督と共に彦島、串崎岬を視察。
砲台は外国人兵士らによって撤去済、あるいは撤去中であり、日本人は協力的であった。
09.10長州から講和使節の使者が来るも、宍戸(高杉)ではなかった。
しかし書類不備はなくこれを以て講和会議は進んだ。
外国人側は藩主との直接交渉を望み、その上で講和条件を述べた。
1、幕府と外国人間の問題が解決するまで砲台を作らない事
2、戦時中における諸外国の習慣に則り、賠償金を求める事
3、海峡を通過する外国船が薪水を必要としている場合、それらを購入する事を認める事。
長州使節はこれを承り、加えて海峡は潮の流れが速く天候も不安定になりやすい事などから、
危険に晒された場合は上陸も許可するとした。また、下関において直ちに開市し、
また外国人などを襲う輩が出ない様、町奉行らによる港の取り締まりと警護が徹底される様になった。
09.11サトウら、下関海岸付近を視察。ちらほら店が開いていたが法外な値段で取引された。
また人々は群れを成していく先まで付いてきて、友好的であった。
09.12『外国人の為の市』を朝6時から8時の間に開く事が決まる。
町の店で買うと外国人が物資を買い占める可能性がある為。
09.14サトウら、門司を視察。14時、宍戸行馬ら使節一行がユーライアラス号に乗船する。
藩主は帝の不興を買い蟄居中であり謁見する事はできなかった。
講和条約について、1と3については従うが2の賠償金については、攘夷の勅命を受け各大名に
指示を出した幕府に請求する様にとの事であった。筋道は通っており、幕府に請求する事で
今回の講和交渉は成立する事となった。
09.15サトウ、自由に散策する時間を手に入れ、バロッサ号に乗り換え滞在する。
09.20バロッサ号含むいくつかの英国蒸気船とフランス艦隊以外の艦隊が下関から去る。
09.21フランス艦隊も一隻を残して下関を去る。下関の役人からは残留するサトウに対し
為替や手持ち金なども融通してくれ、戦う事態になった事を後悔するほど良くしてもらった。
サトウは護衛を付けず市井の視察、会合を続けた。
09...伊藤がバロッサ号に乗船する。『商人』という男二人を連れていたが、明らかに高官の侍であった。
09...艦上で天然痘が流行り始めるため、横濱への帰還を急ぐ声が相次ぐ。
09...帰還に伴い、横濱へ行きたがっていた長州一行の話を進めるべく伊藤のもとを訪ねる。
ヨーロッパ風の夕食をご馳走になり、伊藤のもてなしを感じた。
10.054人の長州藩士(伊藤含む)を乗せ、サトウ達四カ国艦隊全ての船が下関を去った。
10.10横濱着。長州藩士ら英国オールコック公使らと会見。
{ここで長州と英国の間で武器の密貿易提携があり、実際に貿易は行われ、この事が第二次長州征討の一因にも
なるのだが…『密』貿易だけに、サトウはあえて日記に書かなかったのだろうか。知らないなんて事あるか?}
{この密貿易提携について耳にしたフランスが幕史へ耳打ちし、幕史はフランスに長州人を逮捕してくれと要請。
流石のフランスもこれは断り、そうしている内に伊藤らは再び英国船に乗って長州へと帰って行った。}
{この一連の事を勝海舟は日記に記しており「自らの手を汚さずフランス人を使って長州を征しようとする
『国賊輩』である」と痛烈に批判している。}
{以後、幕府は不審な荷物が下関へ渡されるのを何度も報告されている。}
10.14長州藩士ら、英国艦ターター号に乗船し帰藩。
10...英国オールコック公使、下関戦争の責任を問う為ラッセル卿から召喚要請。
10.22幕府と四カ国代表、下関戦争の賠償金について幕府が払う事で即解決。
11.21鎌倉事件
12.24英国オールコック公使、召喚命令に伴い解任、帰国。



1865
01...英国ウィンチェスター臨時代理公使就任
04...サトウ、横濱領事館付き通訳官へ昇格
和英辞典の作成に取り掛かる(1876 年(明治 9 年)に出版)
07...英国ハリー・パークス公使来日。横濱に着任。ウィンチェスター氏は上海へ。
07.14将軍・徳川家茂、第2次長州征伐のため3度目の上洛。以後、死まで大阪城に滞在。
09...英国ハリー・パークス公使、帝の批准の必要性を説く
09...井上聞多と伊藤俊輔が薩摩藩士と偽って長崎へ潜入。亀山社中を通しグラバー商会で武器を購入。
薩摩藩邸に入り薩摩名義で武器購入をする二人だったが、長崎領事のラウダは『長州人』であると見抜く。
パークスへ報告され、幕府が長州征討に乗り出そうとする中、薩摩と長州が手を結ぼうとしている事を知る。
10...サトウ、会津藩士・野口富蔵(24)を秘書兼使用人として迎える。
彼は会津の若い侍で、藩主の命により英語を学ぶ為に函館へ行き、英国ヴァイス領事の付き人となった経緯がある。
明治二年にサトウが賜暇にて帰国する際にも同行し、野口の大学支援まで行ったほど、最も信頼した日本人従者。
10...各国公使、大阪在中の将軍また天皇の下へ行き批准を得る事、開港に関する交渉を行う事を決議。
随行する連合艦隊の準備が開始する。
10...英国横濱公使館に、幕府筆頭老中水野和泉守が訪れる。
11.01英国他、仏、蘭、米公使ら、兵庫へ向け横濱を出航。
11.04英国艦他、兵庫着。四カ国艦隊摂海侵入事件
・長州戦争の賠償金300万ドルを1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しする
・関税率改定
・帝の批准
11.05四カ国代理、各国公使の書簡を以て大阪(城下町ではなく手前の河口付近)に入る。
英国からはマクドナルド氏、シーボルト。オランダ政治的代表の部下ヘフト、フランス通訳のメルメ宣教師ら4名。
老中の小笠原壱岐守、阿部豊後守が対応。直接書簡を受け取った。この時メルメは公使の書簡を翻訳する際、
自分だけが各国代表の意見を代弁する権限を得ているかの様な文章を付け加えていた。
これらの文章は他の三か国の書簡には当然含まれていなかった。
老中阿部は9日に兵庫へ向かう事も約束。
一方サトウは大阪の官使に上陸に際する通達や薪水等について交渉をしていた。
各国団体に大阪奉行所から警備が付く事となり、また要求には全て応じるとの確認が取れた。
これにより、全ての船に上陸命令を通達する事ができる様になり、外国人たちは未踏の地であった
大阪の街に初めて足を踏み入れた。サトウはパークス公使や提督と共に町の端から端まで歩き、
市井の人々の好意的な好奇心の的となった。
基本的には兵庫に碇泊している。
兵庫に碇泊していた薩摩の汽船船長有川矢九郎らが英国旗艦に乗船してサトウらと会った。
以前会った事がある者もおり、意気投合。酒とたばこを痛飲して楽しんだ。
11.08老中阿部、兵庫に入る。
サトウとヘフトら、大阪視察。公使達が交渉や滞在に使う建物を見て回ったのだが、
案内されたどの建物・寺院も公使団が入るには小さかった。結局船上にて行われる事となる。
また、この日サトウらは舟に乗り随所にて官史らと口論をやり合いながら大阪城近くまで行こうとするが
最終的には引き返した。
11.09サトウ、シーボルト、薩摩有川らの汽船を訪ねる。彼らは非常に喜んで歓迎してくれた。
また、寝台に寝そべっていた『島津左仲』であると紹介してくれたが、後に知るところ彼は『西郷吉之助』であった。
11.10英国パークス公使、兵庫にて老中阿部と5時間に及ぶ対談。幕府側の言い分としては全て『不可』。
パークス公使らは改めて協議内容について述べた後、再考を促した。
11.13老中阿部は欠席し、若年寄の立花出雲が兵庫に入りパークス公使と会談。
将軍が帝に対し初めて批准を求めるが15日間の猶予が欲しいと言う。公使らは10日間の猶予を認めた。
11...英国旗艦に会津と細川の家臣たちが乗船する。
幕府の言う「人心不折合(民心が穏やかでない)」についてや、天皇の考えなど有益な話を聞けた。
11.15若年寄立花が再びパークス公使を訪ねるが、例の進捗について、将軍は頭痛のため未だ大阪から
離れておらず天皇の批准を得られていないと回答。パークス公使は「兵庫開港について速やかに
許否の確答を得られない場合、条約遂行能力が幕府にはないと判断し、以後幕府とは交渉しない。
京都御所に参内し天皇と直接交渉する」と突き付けた。
11.16一橋慶喜、無勅許における条約調印の不可を主張
阿部・松前老中は諸外国が直接朝廷と交渉をはじめれば幕府は崩壊する(幕府として諸外国に許可を出す)と主張
11.17朝廷、違勅として阿部・松前老中を解任
四カ国公使、突然の担当老中解任を受け、老中評議会に宛てて信書表明を提出。
「当初の通り10日間以内に返信が無ければ要求を拒否したとみなす」
この通達はサトウとメルメ氏によって兵庫奉行へ届けられたが、『大阪の評議会(老中)宛て』
だったにも関わらずメルメは『将軍あて』と虚偽の申告をおこない、宛名を隠す様に日本紙を巻き付けていた。
念のためサトウが官史らに確認を取ると「評議会あてだった」との正しい認識であった。
サトウいはく『常習的な嘘つきのために誠実という道を踏み外すのは危険な事である』と述べている。
将軍徳川家茂、帝に対し条約を批准する旨の建白書を提出。しかしこれは拒否された。
11.18将軍・徳川家茂、朝廷に将軍職の辞表を提出。江戸東帰を発表
11...将軍・徳川家茂、朝廷から呼び止められる。
11...老中二人が解任された事で戦端が開かれる可能性が高まった事は日本人にとっても外国人とっても
共通の認識であり、大阪港に碇泊していた日本の汽船はいずれも出航した。その内いくつかは
兵庫を通過しており、サトウとシーボルトは薩摩船に乗船。やはり同じ様な経緯故に離れるのだという事を聞いた。
11.24将軍・徳川家茂、将軍職辞表を正式に撤回
四カ国艦隊、兵庫奉行に対し明日全ての艦隊が大阪へ入り回答を待つと告げる。
11.25英国旗艦プリンセス・ロイヤル号にて。老中小笠原は『病気』で現れず、老中松平伯耆守が代理を務めた。
幕府、孝明天皇が条約の批准に同意したと回答。将軍家茂の強い要望に加え、彼のいとこである
一橋慶喜が自害すると宣言した事が大きいとの情報が四カ国側には入っている。帝の批准と関税改定。
3つの目的の内最も大事な天皇の批准を含む2つを達成した事、また兵庫港と賠償金については以前のまま
1868.1.1開港予定、賠償金300万ドルを幕府が支払うという形のまま収まった。
四カ国側は満足のいく形で決着となった。
この勅命の覚書は四カ国公使達のサインを記した後一旦大阪(城)へ送られ、深夜二時になって
再びプリンセス・ロイヤル号へと届けられた。座してこれを待っていたサトウは翻訳を命じられ、
関白によって書かれた『将軍に外交を任せる』といった旨の短い書簡であり、また老中松平は
この勅命は全国に発布されるとも約束した。サトウは翻訳の力量はもちろん
日本語の文語体に関する知識を披露する事ができ誇らしい夜であったとする一方、
例のフランス通訳メルメは教師の手助け無しにはこの書簡すら読むことはできなかったと付け加えている。
11...横濱に帰港すると、パークス公使が捕虜となり、米国代理公使およびサトウ、シーボルトらが
死亡したとの情報と共に、あらゆる偽情報が流れていた。その根源は『ジャパン・タイムズ』であり、
サトウは抗議の手紙を送ったが撤回などはされなかった。一つだけジャパン・タイムズが正しい情報があり
今回の交渉の当事者は知らされていなかったのだが、帝は勅命を出した際に
「兵庫及び大阪開港の約束を反故にせよ」と加えていたという事だった。これらは後に事実として判明した。
(幕府はこれを公にせず、外国語にはない曖昧な日本語表現で取り繕ったのだった)
12...サトウ、パークス公使の指示により江戸視察(民衆の反応調査)に出る。
また、パークス公使の一時的な居住地としてあてがわれた大中寺にも立ち寄っている。
都心に近く便利な場所にあったが小さな建物であった為公使館とする事はできず、泉岳寺前(門前)に
暫定の公使館とする平家建ての二棟が建設され、幕府から提供される事になっていた。
度重なる襲撃の経験から「公使館」ではなく「接遇所」と呼ばれた。
12...サトウ、横濱領事館に戻り通訳官としての任務に戻る
サトウ、この頃になると日本語が話せる英国外国人との事でかなり有名になっていた。
連日に渡り、サトウと面会するべくやってきた侍たちが横濱領事館を訪ねている。
12...英国パークス公使、家族を迎えに上海へ向かい、下関で高杉晋作、伊藤俊輔と会談する。年内に戻る。



1866
01...パークス公使、兵庫交渉で得た関税改定の仕事に着手する。
02...サトウ、横濱領事館付き通訳官ではあったが、パークス公使から重用される様になる。
03.06英国駐屯兵と窪田泉太郎によって指揮される日本精兵による模擬戦が行われる。
03...鳶の小亀事件(フランス水兵殺害)
03.20英国第二十連隊第二大隊は香港へ送られ、第九連隊第二大隊と交代した。
.....サトウ、「ジャパン・タイムズ」に匿名で論文を寄稿する。(5.6月頃か)

『英国策論』
・将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。
したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
・独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
・現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。

これは大きな反響を生み、匿名での寄稿であったにも関わらず『英国策論』という表題と名前付きで
増刷・販売が行われ、どの勢力、大名からも知られる事となった。西郷隆盛らもこれを引用し
「明治維新の原型になる」等と評した。

07...関税改定。幕府、各国、改税約書に調印
07.18第二次長州征討・開戦
07.28パークス公使、シーボルト鹿児島訪問
08...サトウ、公使館員数名と第九連隊の士官3、4人と共に八王子・厚木へと小旅行に出かける。
高尾山を小型馬で登ったが下山時に道を誤ってしまい、関所の向こう側へと出てしまった。
通行しようとした訳ではなく単に間違ってしまっただけなので元の方向へ戻ろうとするが、
道理は分かっていても関所の役人は「外国人は通さない」と言い張って梃子でも動こうとしなかった。
最終的にサトウ来日以来の友人で大男であるウィリアム・ウィリス(医師)が子馬に乗って
突撃する素振りを見せ、役人たちは仕方なく一行を元の通路側へと通してやるのだった。
08...サトウ、英国海軍ジョーンズ大佐、チャールズ・ワーグマン(画家)らと
多摩川方面(外国人の遊歩区域)へ馬で小旅行に出る。溝口で宿泊し、関戸まで上った後に
問題なく船頭に川を渡らせてもらい、府中にある有名な神道の神社(大國魂神社)へ向かった。
宿泊先の寺へ向かう為に川を渡ろうとした際、船頭が「外国人は乗せない」と言い張って、
また梃子でも動こうとしなかった。埒が明かなかった為、サトウとワーグマンはズボンを脱ぎ
シャツをまくり上げ、対岸へ渡ると小舟を一隻拝借した。「これは乱暴狼藉!」と叫ばれたが、
構わず大佐たちのもとへと船を渡し、全員川を渡る事ができた。
08.07パークス公使、シーボルト、宇和島訪問
08...サトウ、同等『通訳官』であるシーボルトと共にパークス公使へ昇給談判を行う。
『雷が落ちる』ほど叱責され、母国の父親に『公務を続ける価値がない』と連絡をする。
大学支援の余裕はあるからと帰国を促され、その返答を以て辞表を出そうとした所で
ようやくパークスが昇給に応じてくれた為、サトウは公務を続ける事となった。
(年俸400ポンドから500ポンドとなった)
08.29将軍・徳川家茂、大阪城にて死去
09.28徳川(一橋)慶喜、禁裏守衛総督辞任・徳川宗家相続
10.16ミットフォード(29)、横濱へ来日(二等書記官)
11...ハリー・パークスは英国公使館の現状について、着任したばかりのミットフォードと以下の様な会話を行っている。
パークス公使「日本の政府が置かれている江戸に我々の公使館を構える権利を
(東禅寺事件などの為に)放棄している現状はすこぶる権威のない変則的な事態であると思う」
ミットフォード「まったくその通りだと思います」
かくしてパークス公使は英国公使館の移転に踏み切ろうとする。
11.26(慶応2年10月20日)
横濱大火
朝9時頃に鐘が鳴り響き、サトウとウィリスは屋上へ上がって家事の様子を確認。
サトウは帽子を被り不運にも最も古いブーツを履いて火元へと駆け付けるべく飛び出した。
町は既に荷物をかき集めて逃げようとする人々でごった返しており、火の勢いが激しい為
サトウも居留置の開けた所へと撤退する。現地人の区域は更に混乱極まっていた。
特に酷かったのは沼地に囲まれた小島で、唯一渡されている橋は人々で溢れかえり、
沼地を渡す小舟も人々でいっぱいな上、小島に残っている人を救助するべく戻ろうとする者はいなかった。
この小島には遊郭があり、出火元であった様だ。(後の発表では遊女400人が焼死したとの事。)
火の回りは異常に早く、いよいよ危機を察したサトウは風下にあるわが家へと駆け戻った。
ウィリスに逃げろと叫び、大切な英和辞典の原稿を真っ先に保護し、その後服や本、本、本を運び出した。
サトウの護衛達(野口ら)に加え駐屯軍の友人達も駆け付け、出来る限りのもの(主に本)を
安全な場所へ運び終えたが、再び火の手が迫って来た事を受け更に荷物を運び出す。
三番地に住んでいた友人達の『耐火性』の倉庫に保管した。
シーボルトやミットフォードらの家も同様に焼き払われ、アメリカ領事館までもが火に飲み込まれた。
日本の家事は想像以上の猛烈さで、『耐火性』だったはずの友人の倉庫も燃え尽きてしまい、
よってサトウの荷物もほとんどが失われてしまった。全てが失われたサトウはバケツに水を汲み
燃えそうな場所に水をかけるといった消火活動に取り掛かった。軍艦から水兵が降ろされ、
兵舎からは兵隊たちもやってきた。しかし彼らは規律ある行動を以て消火活動を行う事はできず、
ましてやどこかから拾ったのか酒盛りまでする軍人までいた。また、延々と燃え広がる炎に対し、
先回りして建物を破壊しておくといった対策も行われたが、炎が早すぎたせいか残骸を撤去する前に
燃え移ってしまい、効果がなかったという。
一日の終わりにサトウに残されていたのは着ていた服のみで、帽子もいつの間にかなくなっていた。
英和辞書の原稿、オールコック前公使による『口語の日本語』の原稿は守る事ができた。
ヨーロッパ人とアメリカ人らで家無しとなったのは総勢107人に上り、
『耐火性』を信じていた人達は皆サトウの様に全てを失う事態になってしまっていた。
火災による損失は英国政府や保険によって保障されたとの事。
11.30横濱大火、沈火
横濱では様々な物価が上昇し、特に外国人の衣類については横濱に技術者がおらず、
ハンカチ5枚買うのにも難儀した。
サトウもこの後二年ほど質素な服を着る事を余儀なくされた。
サトウはギルマン商会横濱支店の支配人であった友人トム・フォスターと同居した。
12.10サトウ、横濱領事館付き通訳官から公使館付き通訳官へと昇格
江戸高輪・泉岳寺下に英国公使館を移す。(接遇所)
ミットフォード曰はく新築された公使館は「二棟の細長い、今にも倒れそうな平家建て」であった。
二棟のうち一棟はパークス公使の公邸、もう一棟には公文書記録室の職員によって使用される事となった。
ユースデンは領事として函館へ派遣されており、移転してきた職員は第二等書記官ミットフォード、
会計補佐官兼医官ウィリス、通訳官シーボルトとサトウ、通訳生ヴィダルによって構成された。
粗末すぎて隙間風だらけの部屋、駐屯兵の夜騒ぎに悩まされる。ミットフォードは夜騒ぎに驚き飛び起き、
拳銃を持って「何事か!」と構える事態にまでなる程だった。パークス公使は横濱の方に住んでいた。
12.12サトウ、情勢調査の為、横濱から長崎へ向けプリンセス・ロイヤル号で出航。
日本人が旅行時に使用する藤の網篭に服を詰め込んで接遇所を出た。
(当時『高輪から横濱へ行く手段は軍艦を使う事が多かった』という。品川港?)
プリンセス・ロイヤル号での船旅は悪天候を極めた。
航路がそれに逸れ「香港へいくのか?」という程日本の海図からも投げ出され、やっとの事で長崎に入った。。
12.23サトウ、夜に長崎着
宇和島の家臣数名と会談。後の明治初期に横濱知事となる井関斎右衛門からは、
4人の大名によって行われる四候会議が延期されている事や四国や長崎における兵庫開港の反応、
前日のパークス公使による宇和島訪問の反応等を聞く。
12.24宇和島家臣井関と再会談。下関にイギリス軍艦を碇泊させているのは外国商船の為であり、
英国と長州は平和的関係にあるのは事実だが長州と幕府の戦いに介入するつもりはないと伝える。
また、兵庫交渉において詳細などを語る。土佐や肥後の藩士とも会談。
12.31ハリー・パークス公使恫喝事件。パークスが江戸の郊外の品川を騎馬で通行中、
人吉藩士岩奥八右衛門が道に立ちはだかり、刀を少し抜いていて恫喝してきた。



1867年
01.01サトウ、アーガス号に乗船し長崎を出航。野口らも同行。ラウンド中佐の扱いが酷くて根に持っている様子。
01.02サトウ、鹿児島に入る。藩主とその父は喪に服していると聞く。イングランド人3人が勤める工場などを見学。
01.03サトウ、藩主の兄である島津図書らと会見する。
図書(29)への印象は「美男」「その知性は完全に子供であった」とし、主要な話は
彼に付いていた家臣・新納刑部、島津伊勢らによって行われた。所要の儀式が終わった後宴となったが、
サトウはこの酒席においてラウンド中佐に対し、藩士らとの会話を訳さないという『仕返し』に出た。
サトウ、宴後に書簡を翻訳する為に留まり、新納から長州と薩摩の関係について聞く。
またこの時湾には「オテントサマ」丸が碇泊しており、長州の桂小五郎が来ていた。
サトウは長州の友人達の事も含め話を聞きたいので会いたいと言ったが、桂は多忙を極める為
深夜にしか会う事ができそうになく、宿泊先へ行って寝て待てと言われた。
しかしサトウは日本式の布団で寝るのが嫌だったので断念した。(後に『軟弱だった』と回想している)
01.04サトウ、工場を視察する。ガラス、弾薬、大砲、陶磁器類。
17時、現地で友人となったサトクリフと新納の家を訪ねる。薩摩のフランスに対する印象などを聞く。
01.05サトウ、薩摩を出る
01.06サトウ、11時、宇和島着。お忍びでアーガス号を見に来ていた藩主・伊達宗徳と非公式に会合。
遠目ながら彼の家族(こどもたち)も目にする。その後、時間があったので上陸して町を散策すると
大勢が物珍しがってついてきたが、皆極めて節度があり、服装や何やらと質問をしてくるが
とても礼儀正しかった。サトウは日本人に対して己の心が温かくなる事を実感した。
01.07藩主と隠居・宗城(宇和島藩の精神的指導者であり四候の一人)が雨の中アーガス号にやってきて
大いに語り合った。彼らも幕府とフランスの関係に注視している様子だった。酔いが回ってきた隠居
宗城を重臣達が諫めて引き上げさせる一幕有り。
夜、砲撃指揮官・入江宅に呼ばれ宴に興じ、初めて日本式の布団で眠ったが快適に眠れた事に我ながら驚いた。
01.08射撃場と訓練を視察し、太閤秀吉から贈られた金屏風を見学。
隠居や藩主らと会食。ラウンド中佐が去った後、大量の酒・夫人を導入して唄え踊れの宴へと興じた。
01.09宇和島を出航。あまりにも急な出航で野口達は間に合わなかった。
01.10徳川慶喜、15代将軍に就任
01.11サトウ、兵庫着。薩摩の船を訪ね、小松帯刀と西郷吉之助が大阪にいると聞き、西郷への面会を希望する。
01.12サトウ、『整う』(熱い風呂に入った後浴衣を着て熱を冷ます心地よさを知ったらしい)
西郷、自ら兵庫に入りサトウと会談。やはり彼は以前薩摩船内にいた『島津左仲』だった。
サトウ、徳川慶喜が将軍職を拝命した事等、薩摩の兵庫港開港に対する考え等を知る。西郷は酒と肴を用意し、
五代の恋人ら女性を呼び込んだ後、パークス公使が自分たちの誰かに会いたいと言ってくれた人物は、
誰でも京から派遣すると約束して去っていった。
01.15サトウ、横濱着。横濱公使館(領事館)にてパークス公使に報告
01.16サトウ、高輪接遇所(公使館)に戻る。
01.30孝明天皇、崩御
02.07将軍・慶喜による各国公使会見招待の下見のため、サトウとミットフォードが大阪へ向け出港。
02.09サトウ、ミットフォード、兵庫着。
同じく碇泊していたプリンセス・ロイヤル号のウォルター・カー卿から、長州の桂小五郎の写真をもらう。
またこの時、孝明天皇が崩御した事を知る。(毒殺の噂についても触れている。)
02.11宇和島で船に乗り損ねた野口達と合流し、用意された馬と護衛九人を伴って陸路大阪へ向かう。
この大阪への道には1500人にも上る警備兵たちが並んで警護に努めており、
初めて重要人物扱いをされたサトウは『少し気恥ずかしかった』と述べている。
大阪へ入ると非常に丁寧なもてなしを受けた。役人は並んで待ち、対応は丁寧で、
あてがわれる建物もよりよい建物であった。室内のアメニティや食事なども西洋式を取り入れるなど、
外国人が快適に過ごせる様あらゆる配慮が行われていた。
02.12野口を大阪の薩摩藩邸、宇和島藩邸へと放ち、小松帯刀の訪問依頼と野口らを送り届けてくれた事への
謝礼を行う。その後護衛達と共に心斎橋筋を視察する。異邦人を見ようと人だかりができていた。
夕暮れまで存分に書店や反物商などを見て回った。
薩摩藩士・吉井幸輔と再会。小柄で薩摩訛りが強い
02.13観光して過ごす。
02.13睦仁親王、践祚(明治天皇)
02.14薩摩家老・小松帯刀、吉井と昼食、会談。サトウいはく小松は『最も魅力的な日本人の一人』である。
政治力に優れ礼儀作法も完璧で聡明であった。容姿も並み以上であったが口が大きかったという。
02.15川沿いにある薩摩・蔵屋敷(小松、吉井)を訪ねる。幕府と朝廷について。
井上聞多が昼食に同席する。
薩摩→幕府から弾かれている。また、自分たちが幕府に加担したのは当時幕府の不興を
買いたくなかったのもあったが、概ねは幕府がその権力を濫用しないか監視したかった。
パークス公使に鹿児島に来てほしい。
長州→騒乱状態にあるが幕府を倒す機運が高まっている。以前パークス公使が下関に立ち寄った時、
藩主は会談したかったのだがフランス公使がおり、事情があった為それが叶わなかった。
是非長州に来てほしい。
サトウとミットフォードはこれらの伝言をパークスに伝えた。
02.16柴田日向守と将軍謁見時の段取・作法などについて穏やかに打ち合わせ
02.17野口の取次で会津藩士4名と会談。
会津家老・梶原平馬、倉沢右兵衛、山田貞介、河原善左衛門。
軍艦バジリスク号を検分する為の紹介状を大佐宛てに書く。
02...会津家老梶原はじめ4名が再びサトウらを訪ね、大いに飲み明かし、下ネタまで言い始めた。
夜は宴をやろうと約束して、野口と共に一旦去った。
午後は大阪副領事館へ行くための小舟の検分に費やされた。
夜、会津藩士らと飲み明かした。現れた女性たちは美しくあっても醜くあっても、その白塗りと
お歯黒が台無しにしていると感じていた。また、サトウは日本の踊りや歌には理解しようとする知的努力と
訓練を費やす時間が必要であって、自分にはまだ退屈であると感じていた。楽しく飲み明かしていたが
幕府の役人に見つかり、しつこく帰宅を促されたので退席した。
02...翌日、大阪出航。
02...通訳生のヴィダル、自殺。
03...サトウ、横濱の友人達と箱根・熱海を旅行する。
03...サトウ、ミットフォード、高輪接遇所から少し先の丘の上にある『門良院』という寺の一部に部屋を借りる。
食事は近くにある薩摩御用達の万清という料理屋から和食を1日3回取り寄せていた。
またミットフォードは来日したばかりにも関わらず、その日本語習得はかなり進んでいる模様。
サトウも会話を元にした資料を作成したりと協力した。
接遇所にいた時よりも気兼ねなく様々な客人を迎え入れる事が出来、また出向く事も出来た。
三田薩摩藩邸の柴山らとも知り合ったが、彼らは後の『薩摩藩邸焼き討ち事件』に関わって命を落とす事となる。
04...中旬。各国代表、将軍慶喜謁見の為大阪へ向かう。
04...兵庫大阪開港後の様々な規定について連日会議が行われる。
04.29将軍慶喜、大阪城にてパークス公使と非公式会見。
サトウ、日本語書記官代理としてパークス公使と将軍慶喜の間に座り、通訳を行う。
将軍慶喜、パークス公使に絵画を贈る。
05.02将軍慶喜、英国公使、蘭公使、仏公使三者と公式会見
05...サトウ、宿舎としてあてがわれていた寺の囲いに人一人分が通り抜けられる穴を見つける。
以降、野口らと共によなよな大阪の街へと繰り出しては探索を楽しんだ。
05...サトウ、花町へと出かける。
宇和島の家臣であり以前共に朝まで飲み明け暮れた松根の息子(松根内蔵)の案内であったが、
やってきた遊女たちは皆悲鳴を上げて逃げ去ってしまい、松根が説得しても戻ってきてくれなかった。
無理強いはせず、むしろそういった町で実際に女性を見る事が出来た事に満足していた。
後日再び案内されていくと、前回とは違い芸者とのひと時を楽しむことができた。
サトウいはく「恐らく、幕府側が受け入れる様話を通してくれたのではないかと思う」との事。
また、松根は大名の家臣であった為外国公使館の人物に対し過度に接待(近づこうと)する事を
よく思わない幕府から疑念を向けられたが、勇敢にもサトウ達を案内し続けた。常に行動を共にし、
白昼堂々茶屋にも同行してくれた。松根本人も幕吏の目が気になっていた様だった。
江戸・横濱の生活様式とは異なる部分が多く、また服装や方言が異なる事も女性に違う魅力を加えていた。
他、寺院や劇場を訪れたり茶の湯(茶道)を体験したりもした。堺にも繰り出している。
花屋が多く、牡丹展が行われていた事にも触れている。
05...各国公使達は交渉内容に満足し、横濱帰港の路につきはじめる。
商業に適さない新潟港の代わりに佐渡の夷港を開港、また敦賀か七尾も開港の候補に挙げられた。
05.18パークス公使、大阪を出発。陸路にて敦賀(現在福井県)へと向かう。
05.18パークス公使らの後、朝9時。サトウ、画家チャールズ・ワーグマンと共に陸路(東海道)江戸へ向かう。
同行者は野口らに加え、現地の公使館護衛(別手組)10人と、幕府外国方の官史2人。
2人は道中の滞在先を手配する為、宿の一覧表や旅行日程(16日予定)を管理する為に同行した。
海沿いの幹線道路を示す「東海道」は、地元民のみならず参勤交代の大名達がよく利用し、
有名な伊勢神宮をはじめとする数多くの高名な寺院にもつながっており、様々な観点から最も重要で、
最も利用者の多い道路であった。また東海道を舞台にした「東海道中膝栗毛(弥次さん喜多さん)」が有名で、
子供たちはこの中で出てくる53の中継点一覧を暗記していた。
遥かな旅路であったが、サトウは陸路での帰還を願い出た理由として
『日本におけるすべてを知りたいという底なしの好奇心』
『冒険を愛するゆるぎない心』
『軍艦での生活が嫌だ』
と3つを挙げている。特に3つめの件については、どれだけ時間がかかっても自分の足で歩いて
踏破する事を好む為であった。(明治以降の飽くなき登山家としての片鱗である)
日本人は優れた旅人であり、書店には様々な情報が詳細に掲載された観光ガイドブックが多く売られていた。
かなり優れた地図も簡単に手に入り、非常に重宝したという。
・旅の仕来りとして、高貴な人物は『御昼休/オヒルヤスミ』の他『御小休/オコヤスミ』として午前と午後に一度ずつ休憩を挟み、
更に景色の良い場所でも休憩を取った。サトウ達もその様に案内された。
・宿泊先でも、同行する幕府の外国方達の通達もあって満足のいく対応をしてもらえた。
草津の宿で風呂に入った際、かわいらしい少女が「高貴な背中を洗う名誉にあずかってもいいか」と言ってきたが、
入浴の際に女性に世話をさせる習慣のなかった彼らは丁重に断った。
・石部においては『イングランドの通訳のための小さな休憩所』という看板が立っていたのでそこでも休憩した。
恥ずかしそうに振舞うかわいらしい少女たちが対応し、少し(サトウとは違う趣向の)風変わりな恰好をしていた
ワーグマンを見て「本当は中国人では?」という大論争が起こった。
・ワーグマンはよく絵を描いて渡し、またこれが喜ばれた。
サトウ達の旅装を書いたものもあれば街の風景を書いたもの、少女たちの姿を書いたものもあった。
自分たちが書かれた事を知った少女たちが恥じらう様子は何とも微笑ましかった。
・女中達は必要以上に遠慮しなくなるまで時間がかかったと言う。高貴な人々は自分の給仕を連れて歩き世話をさせ、
女中達は部屋に近付く事も許されていないとの事だった。つまり、サトウは自分たちの地位が高くなって
しまった事を後悔し、また、高貴な大名達が少なくとも人前では自らの威厳を保たなければならない事を
残念に思った。という。
・府中において、侍の子弟が通う藩校を見学した。30人程の子供たちが国語の本を前に座り、年上で地位の高い生徒が
音読したものを復唱し、その様子を6名程の教師が監視していた。サトウらは靴を脱ぎ帽子を置いて、礼をして
立っていたのだが、この挨拶は無視された。案内してくれた人から正しい作法を教わり、頭を床に付けるという作法で
やり直すと、彼らも礼を返してくれた。この礼を取る際、相手よりも先に頭をあげる、あるいは相手よりも後に
頭をあげる瞬間にどちらかが服従している様な恰好になる事は外国人にとっては勿論、日本人にとっても
懸念される事であって、これはこの作法に慣れ親しんでいるはずの日本人であっても、相手の様子を礼の最中に
横目で確認しているのを目撃した事があるとサトウは言っている。
・大きな町を通過する際には常に住人達が大挙してサトウらを囲み、祝日であるかの様な騒ぎになった。
特に大名の城下町である亀山では晴れ着を着た侍とその子供たちで道路がいっぱいになり、みな嬉しそうであった。
若い少女たちの中にはおしろいで顔を塗りたくっていたにも関わらず極めて美しい人もいた。
・この地域では珍妙な方法で移動する人々をみかけた。一人の男が担ぐ二本の竿に荒縄をつけて作られた網に乗って
移動する子供たち、小型馬を二人乗りする女性たち。関から桑名へと続く平野では、小さな乗り合いの車も見た。
これは1869年以降に大流行した人力車の原型とも思われ、成人6人程が乗る事ができた。(大八車かと思われ)
これに対し、己の威厳というものに無頓着だったワーグマンはこれに乗ろうと言い出した。
富田から桑名まで少なくとも5マイル(約8キロ)を移動し、天保銭三枚を支払っていた。
小向の茶屋の店主が万古焼という急須を見せてくれた。手でこねたものを素焼きした陶磁器で、質は良くなかった。
また、内側にも外側にも指紋がついていた。
05.22サトウら、徳川の重臣が世襲で治める桑名城下に入る。おびただしい人が押し寄せ、
サトウ達は脇道にそれてなんとか御用宿に到着した。万古焼や美濃の石、名古屋の扇子を売る商人たちが押し掛け、
サトウ達は買い物をして過ごした。
・桑名から宮までは尾張湾を船で渡った。粗末な小舟で7時半から11時過ぎに対岸へ到着し、この日は名古屋で
過ごす事を提案したが、追従する幕府外国方が事前準備したリストに名古屋は入っておらず、また尾張藩主ほど
有力大名の町に入る為には許可が必要であるため、再び押しかけて来た商人たちを相手にしながらこの返事を
待つ事となった。またワーグマンの絵の評判はここにまで届いており、彼は扇や唐紙を突き付けてくる人達に
圧倒されていた。サトウも書き添えをした。しかしこれが後になって売られている事を知り、
この仕事を請け負う事をやめた。
・その日の夜(名古屋?)は宴を開き、追従する護衛達も呼んで歌い踊り飲み食いした。皆かなりの量を飲んでいた。
・翌日、有松を通過し、長崎オランダ商館の館長が年に一度江戸へ向かう際、大昔から必ず立ち寄るという店に入る。
毎年の購入記録が記された帳簿を見せてもらい、サトウ達も『慣例』に倣って買い物をした。だが商品には一つ前の
中継地点名である『鳴海』と書かれていた。支払いについてはいつも通り野口、そして幕府の外国方2人が適切な
値段での購入を済ませてくれていた。この店は火縄銃などの銃火器を置く事を許されており、町の家も平均よりも
立派なものが多かった。
・知立では値段を吊り上げられそうになり、立場では地元名産と言われて出された蕎麦の質が正直あまり良くなかった。
ワーグマンの名声はここにまで届いており、彼はサトウ達が麺を食べながら瓢箪の酒を飲み干す傑作を生みだした。
先日の宮において瓢箪が空にならない様注意していたのは彼だったのだが…とツッコミを入れている。
・(恐らく浜松藩城下に入っている)矢作川の橋が落ちていたので船で川を渡り、町に入った。
奉行所の護衛達によって出迎えられ、「下に下に」をやりながら、サトウ達は乗り物に乗って入城の為に前進した。
これはむしろ作法であり、自分の足で歩いて入城する事は無作法と考えられた。
・翌日は雨が降っておりサトウ達の籠には油紙がかぶせられた。検問がありここでは誰であっても籠を降りて
検分させなければならなかったが、第三者が籠の扉を半分そっと開けて通過するという事で互いに譲歩しあった為、
穏便に通り過ぎる事ができた。
・城下町に差し掛かったところで、黒いパンケーキの様な帽子を被った河内守の家臣たち、護衛たちが出迎えていた。
彼らは仰々しく列を汲んで「シタニロ、シタニロ」と叫んでサトウ達の籠を案内した。やや近寄り過ぎていた
若い侍に距離を取る様厳めしく警告するさまは、目を見張らされるものがあった。
・宿に到着すると有力商人たちが丁寧にもてなす様にと命令を受けてやってきたりしたが、大名の家臣たちは
監視役や衛兵を台所に夜通し待機させていた。
・翌朝も同じ様に行列を汲み、城門を通過する際にそこにいた高官が別手組に名刺を見せ、サトウ達に渡す様
頼んでいた。町の外れで隊列が変わり、四人の黒い帽子を被った正史たちが行列を取り仕切った。
彼らは河内守の領地を離れるまで付いて来た。
総じて、河内守がサトウ達を丁重に扱う様にと触れを出していた事は明確であった。
・先日の雨がより一層風景を美しくしていた。そして、この日と前日、幕府の第三連隊の精兵たちが京・大阪にいる
将軍慶喜を守る為に江戸から行軍中であった。
・町を出たサトウ達は徒歩で天竜川へと向かい、ワーグマンがスケッチを行った。その際サトウは幕府の外国方から
「恐らく道中で野蛮な者に遭遇するだろう」「できれば遭遇したくないのだが」と告げられた。
日光の徳川家康の墓を訪ねて帰還する途中の例幣使の事で、彼らはどの大名よりも位が高く、遭遇したら
誰もがひざまつかなくてはならなかった。この後田んぼ道をつっきって近道をしている。
・正午前に見附に入り、昼食を取る。通りには外国人を一目見ようと群がった可愛らしい少女達でいっぱいだった。
宿泊先の主人は礼装のローブを纏って現れ、低くお辞儀をした。乾燥させたシラスの稚魚を醤油につけて揚げると
とても美味しかった。完璧に礼節をわきまえた二人の少年が給仕としてあてがわれた。
・翌日、例幣使の一行はまだ通り過ぎていなかったらしく彼らは隣町の袋井で一夜を過ごす事になりそうだったので
サトウ達は遭遇しない様急いで先を進んだ。野口の話によると、例幣使は『主に対する敬意が足りない』といって
金銭を巻き上げる事が多々あったので、侍も含めてほとんどの人達が彼らを避けて通るとの事であった。
05.27アーネスト・サトウ襲撃事件
陸路江戸へ向かう道中のサトウとワーグマンが日光例幣使一行から襲撃される。(恐らく掛川)
急いで進んだ甲斐があって相当早く進んでいた。立ち寄った宿には長崎へ向かう途中の薩摩の男が訪ねて来て、
例幣使と随行者たちの所業について軽蔑の念をあらわにしながら教えてくれた。随行者は基本的には京の
下層の者達によって構成されており、この時に限って権限を与えられているのだと言う。
彼らは18時頃袋井に入るだろうと言われていたが、18時になっても彼らは現れず、結局就寝するまで
現れなかった。ワーグマンやサトウ、野口らはそれぞれ別室があてがわれ、同行者たちも一人を除いて全員が
少し離れた別の建物に滞在していた。
深夜1時15分、「サトウさん、サトウさん、剣を取りなさい。奴らが来た」と言われ、目を覚ました。
サトウの剣は騎兵用で実践向けではなかったがそれでも威嚇の為に使う事にした。暗闇を這って剣を取り、
また日本人の一人に手を引かれて別の部屋へと移動し、その角でこれからどうなるのだろうと思いつつ
息を殺して立ち尽くした。一緒にいた護衛は「護衛達が来てくれればいいのだが」と言った。
やがて激しい物音が響き渡り、それはサトウが寝ていた部屋の庭から押し入ろうとしているかの様だった。
三分もすると音はしなくなり、「サトウさん」という野口の叫び声が聞こえた。
野口が灯りを以て現れた事で賊は逃げ出した様であった。サトウを起こしてくれたのは、同行者の中で
一番年下であったマツシタであった。。サトウ達は野口がいる部屋へと戻った。庭側から戸が押し破られており
立ち尽くしていると残りの護衛達が駆け付けて来た。彼らは戦闘用の外套を纏っており、抜き身の刀を以て
鉢金も被っていた。(戦闘準備する暇あったんかい…)彼らはサトウが来ていた寝巻用の赤いズボンを見て
「それを隠すか脱いでほしい」と言ってきたが、危険が去った後だったのもあってサトウは笑ってしまった。
ワーグマンは奥の通路で見つかったが、探しに来た者を危うく拳銃で撃ってしまうところだった。
野口は、戸を蹴破る音で飛び起きて帯を締め、刀と拳銃を持って駆け付けたという。
何人かの男が詰め寄り「蛮族を出せ」と迫ったのに対し、「蛮族などいくらでもくれてやる」と言い返した。
その毅然とした態度と声色を前に男達は逃げ出した。全部で12人ほどの集団で、2人は長剣を持ちその他は
短剣を持っていた。また、被害にあったのはここだけではなく、ワーグマンが泊まっていた部屋の
はす向かいに当たる部屋の蚊帳が細切れにされていたが、中の人達は脱出出来ていた。真っ暗闇であったが
灯篭を消して眠っていた事が相手に場所を知らせないという意味で功を成した。
男達の一人が提灯を落としており、やはり例幣使の一味であるという結論に至った。
翌日、幕府外交方の2人に対し今回の襲撃者を処罰する様要請した。彼らは離れた場所で休んでいた為
危機が去るまで駆け付ける事ができず、何らかの勇敢な行為で埋め合わせをしたいと願っていた。
従者たちがやる気に満ち溢れていたので、もしサトウが合図をすれば彼らは例幣使たちの滞在先を
襲撃しただろうと確信していた。
例幣使の下から戻って来た外国方2人は、身柄の引き渡しを拒否されたと報告した。だが書面での謝罪と
京都に戻った後に行動を起こした者達を罰すると言う確約を得る事はできるとの事だった。
サトウは旅路に戻りたかったのもあり、その内容に応じた。直ぐに旅立ちたかったが、交渉が
長引いたせいで二晩目を過ごす事になり、夜は皆で宴を過ごした。
翌朝事態は急展開を見せ、例幣使の襲撃犯たちはこの町を支配する大名に引き渡され、城の者が
その身柄を拘束したとの事だった。その事を記した証書が届いたのは暫く後の事で、外国方の一人は
従者を連れてその複写を大阪へと届ける為に発った。例幣使側の長官は襲撃者3人とこの地に残り、
これらを以て例幣使を出発させてもよいかとの事だったので、サトウはこれを『完全勝利』として
彼らの出発を認めた。
例幣使らが去った15時頃、サトウ達も逆方向へと歩み出した。
数か月後、襲撃者達は罰せられた。2人は死刑、4人は流罪であった。パークス公使はサトウに処刑を
見届けるよう進言したが、サトウはこれを辞退した。自分を手にかけようとした人物の処刑を見に行く
という事は、まるで仕返しをしている様で、恐らく相手も嫌だろうと思っての事だった。
だが、処罰自体は当時の状況を考えれば適切であったとも言っている。
・日坂、金谷を経て大井川を渡った。百人の荷物運びが裸になって乗り物や荷物を対岸へと運んでいた。
サトウらは四角い輿の様なものに乗り込み、12人の男達に担がれて川を渡ったのだが、
その内の一人が深みに足を取られかけたのを見ていて、これがいかに大変な仕事かを理解する事ができた。
・その日の宿では店主が殊更丁寧にもてなしてくれた。宴を開きひときわ賑やかな護衛が、例幣使の
落ち葉の様なコートを嘲る歌を歌った際には、サトウ達も同感だった事もあって大いにうけた。
・府中(後の静岡)に入る。茶の紙の通商の中心地であった。
・翌朝、当時日本最大だった『大学校』を訪問。前回視察した学校と同じで、先輩生徒が読み上げたものを
子供たちが復唱している形だった。これを毎日続けているという。サトウは『暗記力を養うには有効かも
知れないが論理的な思考を育む事はまったくできない』と評している。
また、この日『唯一無二』と言われる『富士山』が見え、左手にあった山々の間から富士の尾根が続くという
『たまらない光景』を眺めながらの旅路となった。。
・興津で昼食を取った宿では、景色の良い部屋に入った。左手側には伊豆の青い岬がもやに隠れて見えなくなるまで
海の方へと伸びていた。右手には久能山の低い丘の先に日本の詩で有名な三保の松原が見え、部屋の背後の窓からは
雪を被った富士の三町が周辺の山々の間から覗いているところが見え、そこから更に首を伸ばすと箱根の近くにある
二子山の二つの尾根が見えた。
・その宿からしばらく進んで道を曲がると、目の前に富士の姿が現れた。ワーグマンは立ち止まって水彩画をはじめ、
サトウはその時の絵を晩年になっても持っていた。
・倉沢では有名なアワビやサザエなどを酒と共に楽しみ、危険を乗り越えた強い友情で結ばれた同行者たちも
一緒になって楽しんだ。ここから蒲原までの海岸線をあゆむ道のりは、途中に点在する小汚い漁村さえなければ
日本で最も美しい風景だっただろうと言っている。
・翌日入った富士川の川岸にある宿では、サトウ達を出迎える準備が完璧に整っていた。ワーグマンがかつて
オールコック前公使と長崎~江戸を陸路踏破した際に利用した宿である事を覚えていた。
・道中、伊勢神宮と讃岐の金毘羅への巡礼から江戸への帰路の途中だと言う12歳と14歳の少年と出会った。
背中に担いだ風呂敷に、油紙でできた神社のお札を沢山入れていた。
・芦ノ湖南の箱根という山村に入る。石で塗装された杉並木を歩いた。当時関所の機能観点からも湖に侵入する事は
認められていなかったが、サトウ達は食い下がって『水泳が得意ではない』などと言って二時間ほど行水を
楽しんでいる。
06...サトウ、17時頃小田原の宿を確保したと同時にパークス公使からの緊急帰還を促す手紙を受け取る。
籠と人を雇い夜通し「ええや、おい」の掛け声を聞きながら走り抜け、翌朝10時に帰還を果たす。
しかし『緊急』さが求められる仕事は、誰でも代用が効く様な仕事だった。
06.26将軍慶喜、兵庫開港の勅許を得る。
07...幕府関係者の訪問も増える。
07...サトウ、高輪の高屋敷を借用した。
港を一望できる丘の上にあり、様々な大きさの部屋がいくつもつくられ、広い庭がついていた。
二階にはサトウの寝室と日本人向けのゲストルームがあり、階段が3つあったので万が一襲撃に遭った際には
逃げ出す事が可能だった。一階にはヨーロッパ人向けのゲストルームと1つと、応接室が2つ。
使用人の為の部屋が一つに書斎が一つあった。書斎には円形の窓があり海を覗く事ができ、
四角形の窓からは庭を覗く事ができた。小さな食器棚と本屋紙を収納する為の棚が沢山あった。
事務作業を行う為の机と小さなテーブルがあり、サトウと日本語教師の為の椅子が1つずつ、
そして公使館付きの中国語の教師のための長椅子も一脚あった。大きな洗面台と台所もあり、
近くには二階建ての建物があり(恐らく『離れ』)、そこには使用人と若い日本人が住んでいた。
後者には英語を教えるつもりだった。食事は引き続き万清という有名な店から取り寄せていたが、
ビールだけはイングランドのものを飲んだ。
家の事は野口が一切を取り仕切り、各種料金の支払いや修繕、来客の対応などを行った。
食事の給仕とその他雑用を任された14才の少年がおり(既出の『若い日本人』か?)、
彼は武士であったので出かける際には刀を二本差す事を許されていた。
その他、30歳くらいの女性が床掃除(家具が少なかったので掃除はすぐ終わった)、朝夕の雨戸締り、
衣類の繕いなどを担当し、また家の住人の為に米を炊いたりなど何でもしていた。
門番もおり、彼は庭の掃除や馬丁など召使いの役割も担った。
また、サトウがでかける時はいつでも幕府の護衛が二人ついた。
彼らはこの年の始めに陸路で大阪から旅をした時に同行し、信頼関係を築いた護衛達6人であった。
彼らは離れに住んだ。
07.15長崎・浦上四番崩れ(隠れキリシタン摘発事件)
07.23パークス公使、サトウ、ミットフォード、野口、リン・フー(ミットフォードの給仕)ら、
幕府の官史らと共に新潟視察へ出航
07.27英国北陸視察一行、函館寄港。
08.01英国北陸視察一行、函館出航。
08.03英国北陸視察一行、新潟着。上陸。1864に横濱奉行だった白石下総守(白石千別)が現地の奉行として現れた。
当時と情勢が違う事もあって、彼とはよき再会となった。
※12年後にも東京で再会し、白石の息子がサトウの書斎を管理してくれたのだが、サトウの家で自殺を遂げる。
サトウ、新築の旅館で昼食をとる。
七夕の時期で、紙のランタンを持った少年たちが道を埋め尽くしていた。
08.05英国北陸視察一行、佐渡に上陸。目的の金鉱山は陸の反対側であった為籠を用意してくれていたのだが、
パークス公使は日本式の移動や寝具、食事を嫌った為サトウに篭で行く事を命じた。
サトウは寧ろこれを喜んだ。佐渡の風景を楽しみ、官史達と楽しく一夜を過ごした。
08.05長崎イカルス号事件
08.06英国北陸視察一行、金鉱山を見学。
08.07英国北陸視察、加賀(現在石川県)の七尾に上陸。奉行の阿部甚十郎が対応してくれたが、
彼は若く長崎留学の経験と多少の英語力があったので当時としては見聞の広い人物であったのだが、
公使達と交渉を行ったり提案をする権限は持ち合わせていなかった。
そのため金沢から然るべき人物が来るのを待つ事となった。
08.09加賀藩の家臣・佐野、里見がバジリスク号に乗り、パークスと5時間対談(寧ろ聞き役)した。
一悶着あった後、サトウとミットフォードが陸路で大阪へ向かう事になった。
彼らはいまだ外国人が踏み入れた事のない陸路をゆく冒険に身を投じれる事を心から喜んだ。
08.10サトウ、ミットフォード、陸路にて大阪へ向かう。佐野、阿部、その他20人程の護衛が同行。
上司も幕府官史もいない解放された冒険が始まった。
サトウ達は豪華な篭を用意してもらっていたが、自分たちの足で歩いた。
途中丁寧に用意された休憩や差し入れを受けつつ18マイル(約29キロ)を踏破し、志雄の村に入る。
素晴らしい夕食を出されたが宿主は謙遜しきっていた。
08.11陸路大阪、16マイル(約26キロ)を歩き津端に入る。加賀家臣・里見と常川の歓迎を受け多くの人達に囲まれた。
凍った雪がまぶされた美味しいメロンとりんごを振舞われた。
民衆にも姿が見える様是非歩いてほしいと要請されたが、旅装が誇りまみれでくたびれていた為乗り物にのる事にした。
宿舎ではまるで二人の王に謁見するかの様に恭しく丁寧に対応された。
加賀大名の特使と会見し、こちらもまた丁寧に対応してくれた。ミットフォードが素晴らしい美辞麗句を述べ、
使者だけでなくそこにいた全ての人を大いに満足させた。宴の際には政治的な話も出たが、これもまた互いに
満足し合える内容となった。
08.12津端にて、午前中は漆器や陶磁器を見て回り、午後は馬に乗って金沢の港町「金石」へ向かった。
(だが河口にあったあけっぴろげの何もない土地だったそう)
夜、再び里見や常川らと会談。七尾港においてある程度の交易をおこなう様大名に進言するという方向になったとの
事だった。また彼らは、以前サトウがジャパンタイムズに匿名投稿した『英国策論』を読んだといい、全面的に
支持していると伝えて来た。
08.14陸路大阪、朝8時に出立。道中加賀藩士らと共に食べ、歩き、永遠の友情を誓いつつ松任を経て20マイル
(約32キロ)踏破し、小松に入った。
08.15陸路大阪、金沢と大聖寺の境界で護衛らが交代。この町は通りに人がおらず、皆静かに軒先に座っていた。
武家の娘は礼装をしており、銀色の花の冠を被り、鉛のおしろいを塗りたくって紅花の紅を差していた。
また、この地にて、前日から同行していた加賀藩士の岡田と新保と別れた。
少し進むと越後長岡藩に入った。しかし護衛が来ておらず、準備が整うまで茶屋で待つ様勧められた。
サトウ達は先を急ぐ旅路でもあった為自分たちだけで行くと主張したが、最終的には大聖寺で別れた加賀藩士の
岡田・新保が10人程集めて来てくれたのだった。彼らは大聖寺の兵ではないという事で、越後領内における
サトウ達の護衛として随行してくれた。
少し歩くと越後の目付一人がサトウ達を出迎えに来た。ここで加賀藩の者達とは本当に別れる事となったが、
彼らは越後の出迎えに無礼だとも言って去っていった。
実際、越後では不遇だった訳ではないが常に距離を置かれていた。
案内された金津の宿からは、町が色付きのランタンで彩られていた。
08...滞在した寺院では大変優れた客間があてがわれ、テーブルと椅子が用意されていた。
ビールやシャンパンの製造も秀でていた。
08...陸路大阪、人口4万人の福井に到着。ここでも通りは人払いされていた。軒先に不自然な形で人だかりがあり、
恐らく故意的に配置されたのではないかとサトウ。だがこの町ほどかわいらしい少女たちが多くいるところを
知らないと、これもサトウ。
本願寺派の寺院の大広間に案内される。長崎で外国人に対応した経験のある若者以外は誰も近付いてこなかったが、
家臣らと思われる者達は離れた場所からサトウ達を見ていた。
08...福井を去る時に露払いをした護衛はサトウ達を馬鹿にしたという。
府中に宿泊したが、良い部屋は閉ざされダストシート(汚れ避け)らしきものが床に広げられていた。
(土足で家内にあがる習慣のある外国人への対応だったのかも知れないと理解を示しつつ、
失礼である事には変わらない。)
08...栃木峠に差し掛かり、越後の失礼な護衛と別れを告げて彦根藩に入った。
彦根大名井伊掃部頭の家臣たちが出迎える。旅路に必要な様々な料金が良心的すぎた為に、サトウ達は
ビールやシャンパン、魚などの代金を払おうとしたのだが彼は頑なに受け取ろうとしなかった。
中河内で宿泊。
08...長浜からは幕府からの史官・塚原寛次郎(塚原但馬守の兄弟)外国人衛兵10名が護衛を務めた。
昼食を取った高宮ではサトウ達が日本の習慣を理解している事を知り、一転して丁重に扱われた。
宿泊費等の料金を支払うとしたが、やはり頑なに受け取ろうとしなかったので、感謝の意を示す書簡をしたため、
江戸においても現地の藩士に謝意を伝えると約束した。藩堺からは藩の護衛は外れ、幕府から使わされた塚原ら
外国人衛兵のみがサトウらに付いていたが彼らは熱心ではなかった為、見物人にもみくちゃにされるなど
旅路に影響が出た。
08...陸路大阪、草津に入る。サトウがよく知る幕府外国奉行支配組頭の高畠五郎、米田桂次郎(英語が達者)が合流。
若年寄平山図書頭の指示で、以前見る事の叶わなかった石山の寺を見せてくれる事と、その為の便利な
経路(宇治方面)を案内してくれるとの事だった。
些細な事から、平山が指示する石山寺経由の宇治方面か、もともと予定していた早く大阪に到着する大津方面かで
意見が分かれてしまう。些細な嘘とはっきりしない理由故に何かしらの陰謀を感じ取ったサトウ達は
宇治経由を認めなかったが、ミットフォードが『旅路を変更する理由』を明確に書簡にしたためてくれれば
従うと譲歩したので、高畠達は書簡を用意する事となった。その書簡も訳が分からない遠回しの内容だった為に、
3回書き直すのを朝3時まで繰り返した。その書簡には「以前パークス公使が大阪から陸路を行く際、
京に近い大津を通過した事で大問題が生じた為、今回は宇治経由にしてほしい事をミットフォードに要請した」と
簡潔に書かれていた。これはサトウ達にとって『勝利』であった。
08...結局、サトウ達は宇治方面へ行く事となり、例の石山寺にも立ち寄ったが、石山寺の僧侶は外国人を見るなり
その門をぴたりと閉ざしてしまった。若年寄平山の言葉もまた嘘であった。
炎天下にいくつも丘を越えて歩き、16時に宇治へ着いた頃には疲れ果てていた。
2時間休んで18時に乗り心地の良い小舟に乗って川を下り、ようやく伏見に到着した。
御用達の宿に宿泊したが、この時野口が「外国人二人を暗殺する為に大津に人が集まっている」等と話す輩が
いた事をサトウやミットフォードに知らせている。若年寄の平山や高畠らがこの事を把握していたのかは
分からずじまいであったが、結果的にサトウ・ミットフォード達は彼らに救われたのだった。
数週間後、それは土佐の者達である事を後藤象二郎から聞く事となる。
08.22サトウ、ミットフォード、大阪到着
08...普ヘンリー・スネル襲撃事件
08.26パークス公使、大阪城にて将軍慶喜と会見(サトウ、ミットフォード)
7月に起こった長崎・隠れキリシタン摘発事件について。将軍慶喜は少々疲れている様に見え、
その脇には板倉(伊豆守)と平山が控えていた。サトウ達は平山に『キツネ』とあだ名をつけた。
08.27西郷吉之助、サトウを訪ねる。幕府とフランスの関係、そして『倒幕』について。
08.28サトウ、西郷吉之助を訪ねる。同上
08.31パークス公使、ミットフォード、サトウら、夕方徳島着。サトウのみが上陸し、
あてがわれる部屋やその数、食事、大名の城での作法などについて段取りを行う。
09.01パークス公使ら、藩主阿波守(蜂須賀斉裕)と息子淡路守(蜂須賀茂韶)に謁見。
09.02軍事演習披露。非常に友好的な滞在となった。ミットフォードらは横濱へ帰還し、
パークス公使とサトウらはイカルス号事件の為土佐へ向かう事となった。
09.03パークス公使、サトウ、バジリスク号にて土佐須崎に入る。幕府の軍艦回天丸が既に到着しており、
そこから高畠と米田がやってきた。『キツネ』の若年寄平山は高知に出ているという。
後藤象二郎と会見。土佐が下手人である証拠はなかったと報告するが、
パークス公使は土佐の仕業であると信じて疑っておらず、威嚇的な態度を取った。
またその後に現れた平山にも使いものにならないと激怒し、またサトウの秘書たち(野口や小野)らは
幕府のスパイであるなどと言ってのけた。
09.04サトウ、後藤と会談。パークス公使の態度に抗議を示し、いつか問題になりかねないと忠告してきた。
サトウも罵詈雑言を吐くパークス公使の仲介役にはうんざりしていたので「もし本当にそう思うなら
彼に直接諫言した方がいい」と返した。
09.05サトウ、事件の容疑船とされている南海号を検分。犯人ではないという証拠(アリバイ)があった。
その夜、バジリスク号にて後藤がパークス公使に謁見。『新政府』とも言える新たな議会の
コンスティテューション(構成・憲法)について英国を参考にしているという。
また、幕府が長崎や兵庫などを掌握しようとしている事についても罵詈雑言を吐いて非難した。
パークス公使は後藤を大いに気に入り、永遠の友情を誓った。
後藤はイカルス号事件について月に一度は必ず報告の手紙を送るとし、また最後に、パークス公使に対し
彼の乱暴な言動に対してはっきりと、時間をかけて丁寧に抗議した。
パークス公使はこれを聞き入れ、感情を抑える事ができたので誰も傷つかずに済んだ。
09.07パークス公使、サトウに領事と同等の権限を与え、彼に長崎行を命じて江戸へ帰る。
サトウ、土佐帆船夕顔丸に乗り込み待機。(人でごった返している。南海号に乗っていた海援隊も乗船中)
幕府平山ら、長崎へ出航。サトウ、深夜に起こされ後藤の使者(佐々木三四郎)と共に高知へ向かう。
サトウ、この頃から右手の指にひょう疽ができ煩わされる。
09.08サトウ、高地城下の開成館にて山内容堂に謁見。サトウを部屋の前へ出迎え、指先でつま先を触れるかと言う程
深いお辞儀をして出迎えた。イカロス号事件の件に加え再度コンスティテューションについての話題となる。
偏見に捕らわれず物事を見極める人物に見え、決して保守的にも見えなかった。
しかし薩摩や長州と同じくらい抜本的な改革を望んでいるかは疑わしかった。
町の中を散策する事は『危険であるため』推奨されず、サトウも土佐の男の噂はかねがね耳に入っていた事もあり
(この時はまだ大津に集まっていた刺客が土佐人だとは知らなかったが)すぐに船へと戻った。
河口からは屋形船に乗ったのだが、1596年以降初めてやってきた外国人を一目見ようと多くの人が
小舟に乗って近付き、中には掴みかかってくる者もおり秩序などまったくなかった。
09.09サトウ、須崎にて再度夕顔丸に乗船。出向
09...才谷梅太郎(坂本龍馬)と知り合う。
09...夕顔丸、下関へ寄港。井上聞多を見つけたが何も話してくれなかった。
09.12夕顔丸、夕方に長崎着。 英国領事館の領事・フラワーズと会食。
サトウ、木戸準一郎と伊藤俊輔の訪問を受ける。木戸は温和な印象だったが、
軍務においても政務においても極めて強い勇気と意思を兼ね備えている印象をうける。
長州藩主はこれまで一度たりとも政府転覆を目論んだ事などはないと言っていた。
09.13税関局にて幕府若年寄平山と再会。イカルス号事件について聞き取り。
09.14サトウ、玉川亭にて木戸、伊藤と過ごす。政治談議。『自分たちが生きている内に両国が交わる事はないだろう』
(残念ながら、というニュアンス)
サトウ、彦蔵(ジョセフ・ヒコ)を訪ね、大政奉還案がある事について聞く。
09.15サトウ、平山と昼食。
土佐目付佐々木三四郎が捜査協力の藩命を携えてきたが、海援隊は事実無根としてこれを拒否したと聞く。
09.16サトウ、税関所にて土佐帆船横笛号への嫌疑に着手する。
事件発生当時現場近くで目撃されていた土佐者二人のうち一人が横笛号の船長だった為。
09.18サトウ、イカルス号事件に対処。横笛号を呼び戻す事に消極的な奉行所。
09.19同上。長崎奉行から返信が届き、土佐者二人を調べた方がよさそうだと同意を受ける。
09.20書簡の翻訳に一日を費やした。
09...木戸、江戸へ帰るなら自分たちの船を使っていいと言うが、サトウは今後の予定が不透明だった為、返答を差し控えた。
09.21薩摩家老・新納刑部と会談。イカルス号事件に関する薩摩の調査内容の写しを受けとってほしいと言われるが、
疑わしいことはなかったとの事なので受け取りを拒否した。もし今回諸藩が下手人を検挙できないとあれば、
二本差しの男達が夜に外国人居住地に入る事を拒絶しなければならなくなるかも知れないとほのめかす。
佐々木は平山から手ぬるいと思われている事に不満を述べ、また平山が長崎に居る全ての捜査官に金を与え
更に犯人検挙時には報奨金を与えると発表した事にも不満を抱いていた。
サトウ、平山と会談。捜査範囲を広げ、土佐だけでなく他の藩に対しても土佐と同等に厳しく捜査するべきと進言。
また措置として夜の間は外国人居留置に二本差しの男を中に入れない様にとも進言。
結果緊急の用の際には付き添いがいる事で入場可能とし、事件当時の全ての船、
全ての娯楽施設利用者などの洗い出しが行われた。
09.23サトウが述べた措置が取られる事となる。
09.23...伊藤、サトウに別れを告げると同時に遠藤謹助(長州5の一人)を紹介。江戸へ同行する事となった。
09.28例の二人の土佐者が長崎着。税関所にて取り調べ。証拠なし。
10.06サトウ、限りなく疑わしく考えている土佐者の逮捕を要請するが却下される。
10.07薩・長・芸三藩連盟成立
10.08英国水兵襲撃事件長崎にて土佐藩士島村雄二郎が泥酔した英国人と米国人を斬りつけたが、
直ちに自首し、サトウは土佐藩からの報告でこれを知った。
10...イギリス軍艦での帰港が決まり、改めて木戸に謝礼する。
10...他、多くの人物と交流している。
10.12長崎キリシタン摘発事件(浦上四番崩れ)について、薩摩家老新納刑部や平山と話す。平山に別れを告げる。
サトウ、フラワーズと合意し、江戸へ帰還。コケット号で23時、長崎を出航。
10.16サトウ、深夜に横濱港着。
10.29土佐藩(山内容堂)、幕府に大政奉還案建白書を提出
11...サトウ、新居にて多くの人物らと交流をはかる。
11.06ナカムラマタゾーと夕食をとり酒音楽を楽しむ
11.07江戸開成所の教師・柳河春三と霊岸橋の大黒屋でウナギのかば焼き
11.09将軍慶喜、大政奉還を上奏
11...あらゆる公文書を翻訳する仕事で溢れており、朝9時から夜9時までわずかな休憩と食事しかとる事ができなかった。
11.14老中・小笠原壱岐守(小笠原長行)から大政奉還後の政治の在り様について聞く。
11.16パークス公使、外国奉行・石川河内守(石川利政)から大政奉還の報せを受ける。
11.18パークス公使、小笠原壱岐と会見し、大政奉還を上奏した長い公式文書を読み上げる。
勝安房守(勝海舟)は内戦が引き起こされる事を懸念していた。
酒井飛騨守の家臣・金子は討幕派が大阪に兵を集結させていると報告。薩摩はすでに5000人の兵を導入しており、
それに続き長州、土佐の男達も合流しているとの事。また、前将軍・家茂は慶喜によって毒殺されたのだという
怪文書が旗本の間で流通し、これを信じる者は江戸郊外の向島に集結せよとの内容であるという。
報酬を求めて群がる者も大勢おり、京都で内戦が勃発する事は既に避けられない状況であった。
11.24土佐の中井弘蔵によって後藤象二郎からの手紙が届けられる。大政奉還案を打ち出したのは土佐であり、
その上奏文の写しを渡してくれた。改革の主なものは、主要都市に科学と文学を教える学校を作る事。
諸外国と新しい条約を交渉する事などであった。
また彼らは議会に関する習慣等について詳しく聞きたいと言ってきたが、ミットフォードがこの事に詳しいので
兵庫開港の折に大阪で彼から話を聞けるだろうと応えた。
11.25小笠原壱岐、先日の公文書を差し替える。(討幕派を刺激しすぎる内容だった為)
11.25薩摩・吉井幸輔の使者が『全て恙なく進んでいる』『大阪へ来る時には訪ねてくれると光栄である』と伝えに来た。
11...薩摩の留守居・篠崎彦十郎は、将軍が自ら「日本は議会を通じて治められるべきだと考えたから政権を手放した」
という流説を一笑に付した。「そうせざるを得なかったから政権を手放したのだ」と篠崎は言った。
11...薩摩と土佐から手紙が届き、彼らの藩は『外国人に詳しい2,3の藩』との中に挙げられたと記されており、
英国の支持を切望している様だった。
11.27サトウ、若い生徒であるテツ(自宅の離れに住む14歳の少年か?)と横濱へ下る。
11.30サトウ、ミットフォード、ラトラー号にて大阪へ向け出港。
12.02午後、大阪着。岸から小舟が来ない為上陸できず。
12.03サトウら、大阪上陸。提督らと合流し、まだ来日から12か月しか経っていないミットフォードが
素晴らしい日本の言語力を備えている事を証明した。サトウの助けが無くても一人で通訳・会話をすることができた。
12.07政府の外国奉行、若年寄らと会談。
12.12サトウ、ミットフォード、大阪での仕事を全て終わらせ兵庫へ向かう。尼崎までおよそ3時間45分。
6時間歩いても兵庫までの道のりの半分にも到達していなかった。18時(恐らく神戸に投錨していた)
ラトラー号に乗り込んだ。その後、外国奉行の日向守と再会した。兵庫開港に向けて外国人居留地を作るのに
必要な土を荷台に積んだ人々が行列を成し、また兵庫で祝宴が開かれる予定を聞く。
これを友好的にとらえ、将来日本人と諸外国の間で友好的な関係が築かれる事を感じた。
その日の内にラトラー号から小舟を出し、大阪へ戻る。
この頃「ええじゃないか」が大流行しており、どこにいても歌い踊り狂う人々で溢れかえっていた。
全ての人が赤い服を着て、青や紫のものを着る人もいた。踊り狂っている人々の大半は頭に赤いランタンを付けていた。
12.14薩摩の吉井幸輔と会談。薩摩、土佐、宇和島、長州、芸州が同盟を結成したと聞く。
肥後と有馬も加わる予定で、肥前と筑前は無関心であるとの事。西国諸藩は団結している様に思われた。
長崎で知り合った才谷梅太郎が数日前に三人の男に暗殺された事を聞く。
また、イカルス号事件については政権交代に関わらず、二度とこの様な起こらない為にも
殺人犯の処罰を要求する事を告げる。吉井は内政状況が安定しなければ、諸藩は幕府と諸外国との間に
争議をもたらす為に外国人を襲うだろうと言った。これに対して、幕府は既に国を支配しておらず
その様になった場合でも彼らは責任を負う必要がなくなる為、諸藩がその様な事で目的を達する事は出来ないだろうと答えた。
12.16宇和島の家老・須藤但馬と西園寺雪行と会談。イカルス号事件について同じ様に通達するが、
彼らは決してこの機に乗じて不問に付した訳ではないと言った。そして土佐とは引き続き友好的関係であるとも述べた。
彼らが去るや否や土佐の中井がやってきて、後藤が昨夜到着したのだが忙しすぎて訪ねる事ができない事を伝えに来た。
ならばこちらから伺おうと言うと喜んでこれに応じ、土佐藩邸へと向かった。
後藤と会うなりイカルス号事件についての話題となった。南海号と横笛号の嫌疑は晴れたが犯人そのものは
見つかっておらず、引き続き捜索を続けるとの事だった。これに対しサトウはこの件を賠償金と言う形で
済ませようとしている者がいるが自分たちが求めているのは二度とこの様な事が起こらない為の徹底的な処罰であり、
しかし政府の新しいコンスティテューションが確立されるまではその要求を差し控えるつもりだという事を伝えた。
後藤からは、最近二人の臣下(坂本龍馬と中岡慎太郎)が暗殺された事で、同胞が殺害される気分というものを
理解できた容堂も犯人追及のために全力を尽くす所存であると宣言した。
サトウからはこの間の容堂の厚意に対する返礼として価値のあるものでも美しいものでもないが
銃を贈呈したいので受け取ってほしいと伝える。また後藤はこの後公使らが大阪に到着した暁には彼を訪ね、
コンスティテューションについてミットフォードから学びたいとの事であった。
また後藤は、外国の情報を得る為そして相談役としてサトウの様な外国人を雇用したいとも言った。
しかしサトウは自分の政府に奉仕する事に満足しているので他国の為に働く事はできないとし、
もし本当に官史を欲しているのならば公使に相談するべきだと告げた。
その日の18時頃、サトウ、ミットフォード、ノールは外食をする為に三兄弟の様に外へ繰り出した。
ええじゃないかで踊り狂う人々でいっぱいで、護衛を増やした方がいいと進言されたが二人いれば十分だと返した。
ええじゃないかで踊り狂う人々をかき分けて進むのは大変であり、護衛がやや強引に道を切り拓こうとするので
口論にならないか心配であったが、市井の人々はまったく意に介することなく踊り狂いながら道を開けてくれた。
トカクという店に辿り着くが部屋はええじゃないかの群衆により占拠されており使用できなかった。
その場で何とか一部屋あけてもらえないかと交渉している横から若い男と少年の群れが叫んで踊りながら
建物の中に入って行き、彼らは豪華な装いをした巨大な人形を乗せた輿を担いでいた。宴を楽しんでいた者達は
みな彼らを迎え入れる為座敷を立ち外へ飛び出して来た。
その場にいた全ての者達が一斉に踊り狂った後、一団は去って行った。その中には可愛らしい女性の踊り手も居た。
トカクに入る事を諦め次の店いったが、中の者は皆踊りに出て行ってしまっていた。
悲観的になっていたが、護衛の一人が松翁亭という場所を知っていると教えてくれたので立ち寄ってみる事になった。
そこでは数分待った後素晴らしい部屋へ通してもらい、食事にありつけた。
12.17公使一行にあてがわれた城の裏の建物へと向い、用意された公使館を検分した。
西郷を訪ね、イカロス号事件について進捗と金銭での解決はあり得ない事を確認をする。
また、8月に大津にて土佐と薩摩の者達がサトウとミットフォードを殺害しようと集まっていた件について尋ねると、
西郷は『後藤はその時京都にいなかったはずだ』と答えた。後藤は『その時京都にいたがもしそれが本当だったのなら
実行しない様に命令していた』と言っていた。ともあれサトウは、中には指導者の命令を聞かず
勝手に行動を起こす不届きものもいると理解していると伝えた。
12.18外国奉行・石川河内守と会談。
会議の日程は経っていないと言う。内戦の勃発はあり得ない事ではないとの結論に至った。
12.20江戸からの書簡が届き、江戸では慶喜はもう何物でもないという認識が広がっているとの事だった。
また伊藤俊輔によれば、慶喜が現在領している版図はあまりにも広大で、この領地を奪う為の戦争が
間もなく始まるであろうとの事だった。慶喜は京に七個隊しか駐屯させておらずその様な事にはならないと
考えていたサトウ達は思案した。そうなると、ようやく開港開市したこの兵庫と大阪が戦禍に巻き込まれる事となり、
城の裏手に用意された公使館も危険に晒される事になると。伊藤は開港を遅らせる事はできないか、
或いは西郷から公使に対して打診が来ていないかと訪ねて来たが、サトウは「そのような事はない」と言い切った。
ならば、自分たちは条約通り開港開市をして外国人を満足させ、そして同時に政府の改革も行わなければならないと伊藤は答えた。
また開港開市の暁には日本の代表を新たに設置しなければならないと言い、今の外国奉行たちで良いのではないかと尋ねたが、
戦が起これば彼らは職を解かれるだろうとの事だった。もし外国人居留地や自分たちの日常生活が脅かされる様な事があれば、
徳川の兵士以外に諸外国が準備できる全ての軍艦と戦う事になるだろうと釘を刺し、伊藤はその様な事は考えていないと述べた。
木戸は地元に残って藩の行政を担当しているとの事であった。
12.23長州兵1500人が西宮に上陸。
12.24英国ハリー・パークス公使、到着。公使館を検分し一旦船へ戻った。
12.25外国奉行糟屋築後守と会談
12.28林謙三と会談。長州兵が上陸した事を教えてくれた。9月以来同行していた長州藩士の遠藤は西宮へ向かった。
12.29パークス公使、最高相談役と言われていた永井玄蕃守(永井尚志)、伊賀守(板倉勝静)、各外国奉行らと会見。
1月1日の開港における事のみが議題であった。
12.30玄蕃頭と伊豆守と再び会談。イカロス号事件、コンスティテューションについて。
パークス公使は大阪にいる兵士が外国人と衝突を起こす可能性があり、退却させないのであれば
自分たちの部隊を派遣すると言い出した。サトウはこの様な形で内政に関わり、幕府側に恥をかかせるのは
良いことだと思わなかった。またパークス公使はサトウを薩摩へ送り、同じ様に撤兵する様要請した。
更にサトウは西宮へ行き長州の長松文輔に会いに行った。
12.31サトウ、日本語書記官に任命される。年給700ポンドとなった。




1868年(慶応四年)
01.01兵庫開港、大阪開市
サトウは日本人同士が戦争にならない様公使を京都へ上らせ仲介させる作戦を練っていたが、
状況が急速に変化し実行が困難になっていく。
01.02朝廷、長州藩主父子、三条実美、岩倉具視の赦免決定
01.03王政復古の大号令
この頃長州藩士の遠藤がサトウの下へ戻り、薩摩、長州、土佐が御所を守っていると報告する。
01.04朝廷、尾張徳川慶勝および越前松平慶永および徳川慶喜に辞官納地の勅旨を与える
01.05サトウ、護衛達と共に大阪へ繰り出し食事をする。二人のかわいらしい芸者が同伴したが、
このうちの一人は絵画から飛び出して来たかの様だった。気品のある顔立ちと弓なりの鼻、
小ぶりな下唇と細い目、そして朗らかな表情を有していた。西洋人の美的感覚からすると
もう一人の少女の方が魅力的な顔をしていたが、彼女の視線にはかすかに悪意を感じたとある。
また、この頃の大阪はまだ中央内政の影響を受けておらず、ええじゃないかもまだ続いていた。
01.06若年寄石川河内守と会談。
01.07慶喜、大阪城へ下る
サトウ、川沿いの料亭へ入ると会津兵らと遭遇した。家老がいたので挨拶をし、今現在、薩摩長州は
武力によって計画を達成しようとしているが土佐は武力を用いない形で達成を試みている。
だが双方とも目的は同じだとの事だった。幕府と朝廷の仲介をしているのは加賀ではなく土佐である事を知った。
ミットフォードと京橋のあたりをうろついた。京から落ち延びて来た慶喜らの行列を見た。突然沈黙が訪れ、
全ての日本人がひざまずいた。サトウ達も脱帽する。慶喜は疲弊し、悲し気な表情をしていた。
その後に続いた伊賀守や豊前守はサトウらに気付き、笑顔でうなずいて見せた。会津と桑名も続いていた。
彼らの行列の後からついていくと、パークス公使、ロッシュ公使と合流した。
(サトウの日記からは同情的な心情が伺える。)
長州藩士・遠藤が戻り、情報を提供してくれた。
皇族の血族である有栖川と山階、宮廷貴族(公家)の正親町と岩倉が総裁(大臣に相当)に任命され、
尾張、越前、芸州、薩摩、土佐の諸侯は議定(内閣に相当)に任命された。参与(次官に相当)には
宮廷貴族の一人である大原などが任命され、議定に選出された諸侯の配下から三人ずつが選出された。
岩下、大久保、西郷らである。御所は薩摩と芸州が護衛し、京都の治安維持は長州が担っていた。
また、かつて818の政変で都落ちした宮廷貴族を迎える為に、薩摩の汽船が筑前へと向かった。
三条実美、東久世通禧、三条西、壬生、四条らの事であった。
01.08パークス公使、ロッシュ公使(仏)の一悶着。大阪城にて慶喜と会見。慶喜の表記を『将軍』から
『上様』へと戻す宣言を記した公文書が発行された。これにより英国においても『大君』から『上様』表記へ変更となる。
01.10慶喜、大阪城にて六カ国公使と会見。新政府が確立するまでの間は自分が外交を執り行うと宣言した。
01.11サトウ、薩摩藩士・黒田嘉右衛門から朝廷勅令の正確な情報を得る。
01.11石川河内守、『薩摩一派の強引な政権交代』に対し反発する大名(阿波、肥前、肥後、筑前その他)の抗議書を提出し、
全国会議の開催を要請。抗議書を見る限りでは戦争を起こそうとする様子は感じられない様にも見えた。
01.12サトウ、黒田嘉右衛門と共に薩摩藩士・木場伝内と会う。抗議書が出されたのは事実であると認め、
サトウは「薩摩ら5藩は他の反対派大名が干渉してくる前に既成事実を作りたがっている」とこの時理解する。
旧幕府要人らは「本当に戦争になるのか?」という見通し不明の状況であったが、
薩摩一派が兵を集めている事は明白であったため、慶喜を守る為に旧幕府側も徐々に兵を集めつつあった。
会津などは500人が動員されており、新選組300人を伴って淀城付近(京へ真っすぐに続く伏見の道)に
兵を配置し、長州兵らが詰めている西宮にも小浜藩などが配置している。
01.12通訳候補生クィン、ホッジス、江戸・田町にて薩摩砲兵隊前を通過時に攻撃される。負傷者なし。
01.14サトウ、ミットフォード、木場と共に大阪薩摩藩邸にて寺島陶蔵(松木弘安)と会見。
01.14江戸・薩摩庇護下浪人(相楽ら)、江戸城二の丸に放火。
01.15パークス公使、慶喜と会見。
サトウ、陸奥陽之助の訪問を受ける。
・諸外国の公使は帝の新政府を承認するだろうか?
→諸外国は率先したがらないだろう。何故なら慶喜は新政府が樹立するまでは大阪で引き続き行政・外交を行うと
宣言しており、何よりその「帝の新政府」から諸外国は何も打診を受けていないと返す。
・どうすれば諸外国に認めてもらえるだろうか?
→帝の新政府が、自分達が政治を執り行う旨を明確に幕府へと通達し、その上で諸外国の公使を京都へ招く事で、
帝の地位が明確になるだろう。
・陸奥は「今回の事は自分の独断によるものであり私見である」とし、更に「皇族の者に大阪へ来てもらい、
慶喜公を交えて諸外国の公使に対し外交権限の奉還を行い、また皇族の者が帝の政治方針を宣言するべきだと思う」
とも述べる。
→「心から同意」「内密にしておくと約束」
01.16サトウ、ミットフォード、薩摩藩邸へ行く。薩摩から英国への質問リストが届く。
サトウ達は一つの回答でその全てに答えた。
『帝は京都に公使達を招き、その場で前将軍に対し外交を行う権利を放棄する様宣言する事』
01.16江戸・薩摩庇護下浪人(相楽ら)、庄内藩兵舎を襲撃。
01.19江戸、旧幕府軍による江戸薩摩藩邸焼き討ち。旧幕府軍軍艦と薩摩軍艦の海戦勃発。
死者、薩摩藩邸使用人や浪士64人、捕縛された浪士112人。
旧幕府側・上山藩9人、庄内藩2人。相楽らは薩摩の軍艦にて西宮へ合流。
01.23サトウ、石川河内守と会談。江戸で騒動が起こった事を聞く。
01.26サトウ、江戸から来た提督の話により、1月12日の江戸城放火からの一連の騒動が本当の話である事を知る。
01.27午後16時、鳥羽伏見の戦い
サトウ、夜に大きな火の手があがるのを見ている。長州藩士遠藤が伏見戦争の勃発を告げた。
兵庫では薩摩の船を押さえるべく旧幕府軍の軍艦が海上封鎖していた。慶喜が陣頭指揮を執るという噂も流れている。
ウィリス医師の給仕サヘイがたまたま同日の開戦前に伏見の近くを通りかかっていた。薩摩兵が路上で
陣取っているのを見ており、サヘイが通った場所よりももっと伏見に近い場所には新選組が陣取っていたという。
どちらも戦いたがっている様に見えた。
01.28大阪・土佐堀薩摩藩邸が焼け落ちる。
パークス公使、伊豆守・板倉と会談。慶喜の京入りを阻止しようとした薩摩兵が伏見に火をつけたとの事。
鳥羽・伏見どちらにおいても待ち伏せされており、旧幕府側は撤退する事となった。
01.29パークス公使、再び板倉を訪ね、永井(永井玄蕃守)と会談。旧幕府軍の総司令は竹中丹後守。
(竹中重固。若年寄並陸軍奉行。竹中半兵衛の子孫)敵は薩摩と長州兵士、その他浪人との事。
鳥羽と伏見で押し返されたので、武田街道からの巻き返しを図ると言う。旧幕府軍1万に対し相手6千。
もう少し上手くできなかったのかとサトウは思っている。
01.30徳川慶喜、大阪城を退去し江戸へ向かう。
01.30朝、サトウは牧方や橋本から火の手が上がっているのを見て戦闘が近付いている事を理解する。
英国公使館は重要文書を軍艦へ避難させ、その上で顛末を見守る事とした。
夕食後、パークス公使が仏ロッシュ公使のもとへ出かけ旧幕府軍の使者から通達を受けた。
もはや旧幕府の保護は受けられない為、自分たちの身は自分達で守らなければならないとする回覧書を出す事となった。
23時、その正式な書簡を携えた使者が現れ、荷物を運べるだけの小舟を用意すると約束して去って行った。
01.31英国、朝4時に起こされフランス公使からの通達を受ける。敵(薩摩ら)は本日の早い時間に
大阪へ突入してくると思われるので、夜明け前には逃げ出さなければならないとの事だった。
小舟はまだ一隻も来ていなかったが、野口達が何とか小舟を確保してやってきた為、
そこへできるだけの荷物を載せて9時頃に出発させた。石川河内守が駆け付け、力になる事ができないと告げた。
サトウとパークス公使は石川と共に大阪城の正門の外へ行き、荷物を運ぶ人手を得る事ができた。
この時興味深い行列を目撃している。『宗教的な儀式で使用される、大きな傘がかかった神輿と、
長い竿からぶらさげられたランタンを運ぶ二人の男達によって構成されていた。』
石川いはく帝の使者であろうとの事だった。
サトウらは荷物運びの人手と共に再び公使館へ戻り荷物の殆どを川岸へ運んだが、船はまだ現れなかった。
大阪奉行の下へ駆け付けたが当然ながら非常に忙しそうで、舟は確保できないと言われる。
石川は泣きそうな顔になり、公使館のために小舟や荷物運びを手配する作業なんてもう二度としない、
自分が責任を負う事ではなかったのに、と言っていた。結局城で荷物を保管してもらおうという事になったが、
公使館へ戻ると5隻の船が到着しており、パークス公使が満面の笑みを浮かべていた。
10時頃ようやく公使館一行は脱する事ができたのだが、サトウは残った。サトウと共に残ってくれたのは、
1867年の大阪江戸移動の時からずっと苦楽を共にしてきた6人であった。
サトウが残った理由は自分の忘れ物と公使館の備品をできるだけ大阪城へ移動させようとした為であった。
予想以上の船が到着してくれた為、ひき肉の入った巨大な釜を含めてすべての荷物を移動させる事ができた。
だが残念な事に、最近ミットフォードが買った金箔で塗られたタンスは見落とされてしまった、との事。
正午ごろ、サトウ一行は船とともに出発し外国人居留地へと戻った。手配された船の中には屋形船もあり、
船頭に何のために手配されたのかと聞いてみると「サトウさまの為です」と答えた。
船は全てサトウの為に用意されていたと知った。
公使館の荷物などは全て移され、公使館の機能は副領事館へと移された。
サトウ達は食事をとり安心して眠る事が出来たが、他の各国は天保山に設置されたテントで寝泊まりし、
食料もあまりない様子だった。
01.31新政府、慶喜追討令発布
01...イギリスJ.B.シドール博士が公使館付き医官として赴任。
02.01サトウ、第九連隊二大隊から護衛を連れて空の大阪城や立ち去った後の公使館を視察。公使館はそのままであった。
居留地へ戻るとフランス兵達が大阪から帰還しており、民衆から石を投げつけられて発砲し、8、9人を殺害していた。
また彼らの公使館は略奪され破壊されていたそうだった。サトウが大阪へ行った時は皆笑っており、
敵意など感じなかったし公使館もそのままだった。大阪の人達は外国人の国籍を見分けられる様になっていた。
昼食後、パークス公使、サトウ、ウィリス医師は天保山へ向かった。ウィリスは会津の負傷者の治療に向かった。
サトウもパークス公使達のやり取りを見届けた後、会津の知己を得たくてウィリスを追った。
彼らは江戸へ下る為幕府の軍艦が到着するのを待っていた。彼らは、勝てない戦いではなかったが藤堂が裏切り、
また総大将の竹中が投降したのだと言う。また歩兵はまったく役に立たず羊の群れの様に一人が逃げ出せば
全員がそれに続くと言った有様であったそうだ。
慶喜は既に江戸へ退却したとの事だった。
パークス公使は他の公使達と同様に神戸へ下がる事を決断した。他の国は国旗を降ろしたが英国は降ろしておらず、
その旗が辱められない様、サトウは副領事代理のラッセル・ロバートソンや第九連隊二大隊の護衛達と共に大阪に残ると申し出た。
02.02パークス公使ら、一時的に神戸へと撤退。
サトウ、8時半に大阪城から白い煙のちに黒い煙が上がるのを大阪副領事館から見る。大阪城を視察にいき、
火災が発生しているのと同時にすでに撤退した後の公使館が略奪されているのを目撃した。
正午、副領事館へ戻ると京へ偵察に出ていた長州藩士遠藤が戻っており、大阪城には長州藩士が
200名程入っていると教えてくれた。しかし火を放ったのは誰のかはわからなかった。
また、サトウも公使の命令で結局兵庫へと撤退する事になった。
02.03サトウはじめ各国公使一行、兵庫へ転がり込む。幕府の奉行や税関などが使用していた建物を
保護(という名目の占拠)した。この日、慶喜追討令の噂が外国人らの耳に入る。
また、サトウの旧友であった柴田日向守は部下らを伴って大坂号へ乗り、昼過ぎに江戸へ向かった。
02.04備前事件(神戸事件)14時頃、行軍中の備前兵が、行列の前を横切ったアメリカ水夫に向け発砲。
その後目に付く限りの外国人を殺傷しようとした。外国人居留地の候補地でありまだただの空き地であった場所で
その事件は起こり外国人たちは一斉射撃の中、隠れる場所もない平地を必死に駆け抜けた。
その後各外国軍からそれぞれに襲撃者の追跡、外国人居留地の入り口占拠と兵が送り込まれた。
サトウ、ウィリス、ミットフォードらも拳銃を持って軍人らと共に備前兵を追跡し、銃戦に参加している。
敵は逃走し、ウィリスは流れ弾に被弾していた農民の老女を見つけ連れ帰り治療した。
サトウらは一斉射撃と銃戦のすぐそばにいて奇跡的に無傷でいた敵方の荷物持ちを見つけ、捕虜とした。
サトウ、パークス公使に対し、備前がこの件に取り合わないのであれば日本全土の外交問題として
取り上げる事を勧告するべきだと主張し、パークス公使も諸外国の公使らにこれに同意する様促した。
捕虜にはこの旨を記した書簡を(一応)持たせて解放した。
長州兵100名が神戸と兵庫守護の為現れたが、危うく戦闘になるところであった。
サトウが取り持ち、この地への駐留は必要ない事を求めて受理され、衝突は回避された。
兵庫と神戸にあった汽船を安全の為の物的保障として拿捕する。
02.05薩摩藩士・吉井から書簡が届き、政治会談の要請があったが忙しすぎて対応できなかった。
長崎のグラバー商会ワンポア号が入港し、薩摩兵800人が乗っているという噂があったためサトウはこれに対処。
しかし船には薩摩人は一人も乗っていなかった。
外国人は宣言(汽船を拿捕した理由を述べ、その上で人々に平穏に日常を過ごす様求めた。
更に、武装していなければこの駐留地を通過してもよいとする内容。サトウが執筆した)を行い、
友好関係にありすでにサトウと交わした約束を守っていた長州へも伝え、
そして件の備前が使用していた建物などにも張り付けた。
薩摩の吉井と寺島がサトウに会いに来ていた。パークス公使をはじめ、帝は各国代表に正式な使者を出すべきだと伝える。
薩摩兵の通過許可を求められたが、帝から何の打診もない限りは薩摩を帝の兵であると証明する事もできず、
それはできないと返す。その後、吉井と寺島は22時までサトウと近況について語り合った。
帝は岩下、後藤、そして公家の東久世通禧を神戸へ派遣し、各国公使に通達するつもりという事であった。
また、新政府は各国に対し平等に接する事が望まれるだろうが、英国は多くの日本人要人と友好的関係を築き上げており、
特に好意的かつ友好的な態度で接してくれる事を期待できたという。
また、吉井らはサトウらが神戸兵庫の安全保障や汽船拿捕の宣言書を添えて大阪へ書簡を送り、帝(中央)に対しても、
使者派遣急用性を説く書簡を発送した。
02.06肥前の家臣が、外国が拿捕した宇和島の汽船について尋ねて来た。宇和島から借りていたものだったが、
宣言書を読んで納得してくれた。しかし諸外国の海軍がつまらないことで喚いた為、諸外国への評価は下がってしまったと
サトウは嘆いている。
また、長州兵の指揮官から備前のその後の動きを聞く事ができたが、はっきりした行き先は分からなかった。
02.07帝の使者として東久世通禧が兵庫へやってくる。岩下、寺島、伊藤、その他随行者を連れていた。
フランス公使ロッシュは、外国人代表と帝の使者との間を取り持ったのがイギリスであった事に苛立ちを隠せない様子だった。
02.08兵庫税関局にて各国公使と東久世通禧の会談。
皇帝(帝)は将軍徳川慶喜による大政奉還を承認し、以後は帝の政権が日本における内政及び外交の最高責任者となる事を
各国公使に通達する。これまで締結された条約の中にある大君(将軍)と記されている箇所は全て皇帝(帝)という語句に
書き換えられなければならない。また帝の政府は外交を担当する官史を任命している。
各国公使がこの宣言を承認する事を希望する。
書簡の文体は極めて美しかった。翻訳が作成され、公使達に渡され、雨あられの様に質問が投げかけられたが、
東久世や通訳の伊藤らはこれに上手に、冷静に答えていた。ロッシュは「帝の政権は日本全土に及ぶのか」と質問をし
「現在は旧幕府軍の反乱により達成されていないが、いずれそうなるだろう」と冷静に答えた。
これをロッシュ同様幕府寄りだった通訳は意図的に誤訳し「すべての者が帝に恭順した時、彼は国を支配できるだろう」と言った。
サトウはこれを問い質してやっと「帝が権力の座に戻った以上、人々は当然彼に従うだろう」と言い直した。
(※前通訳の宣教師といいフランスの通訳ヤバ過ぎない…?)
備前事件については、帝の政府は今後神戸外国人居留地にある外国人の命と財産の安全を保障し、
備前の処罰も諸外国公使らに対し満足のいく結果をもたらす事を約束した。これに対し各国も、
兵を引き上げ拿捕船を開放する事で合意した。
大阪についても、すぐ平常にもどる見通しで、そうなれば再び外国人に対しても再解放するとの事。
東久世は使者として、今回の帝の宣言を本国へ通達するつもりはあるのかと尋ねた。
つまり、新政府を承認するのかと同意義の質問であったが、ロッシュ公使は立腹して
「我々の身を彼らに委ねてはならない」と抗議した。しかしこれに対しイタリアやドイツは
「彼らが何か要求する事を待っていただけではないか」と抗議した。最終的に全員が『新政府を承認する』と答えたので、
東久世ら使節は満足の意を表明した。
彼らを送る軍艦を待つ間取り留めもない話をした。
その中で伊藤は、外国人が京へ行く事に対しもはや何の問題もないと答えている。
サトウは無関心を装ったが、内心では二世紀にもわたって頑なに外国人を排除し続けた都とそこにある建築物を
是非見てみたいものだと思っていた。
02.09東久世の希望で、イギリス軍艦オーシャン号を見せた。
また備前事件に関して要請する内容をしたためた書状を手渡した。フランス公使ロッシュ、横濱へ向け出港。
02.10(仏以外の)各国公使、東久世ら一行と会談。伊藤、臨時で税関管理官および神戸長官(奉行)となる。
サトウ『伊藤は当時の日本政府に関与している者の中では珍しく英語に堪能だった為、引く手あまたであった』
薩摩の後藤休次郎こと中井弘蔵も外交担当機関(外国事務局御用掛)であった。
娯楽を好み、宴会の手はずなどは必ず彼が手配していた。そのため彼は『外務省の太鼓持』という異名を得たとサトウは言う。
02.11パークス公使、ブラント代理公使、東久世一行と会談。
開港に関するすべての条約、協定、合意を皇族仁和寺宮から得るべく、そのための交渉であった。
この頃の戦況は『箱根より西の大名は帝に対して忠誠を誓うか、屈服させられたか、
今にも武力服従させられるかという状況』であった。
また、帝の政府は諸外国に対し、厳正中立である事を求めていると、外国側は理解した。
また、高輪で顔見知りとなった三田薩摩藩邸に匿われていた南部と柴山が処刑されたと聞く。
前者は磔、後者は斬首とサトウは聞いている。
また、日和見主義の元肥後大名が京に入るとも聞く。また長崎奉行も長崎の町を離れ、薩摩、芸州、土佐が町を占領し
肥後は砲台を掌握したとの事だった。
02.12仏ロッシュ公使、江戸城にて慶喜と会見し再挙を勧告。
02.13パークス公使宛てに、旧幕府の小笠原壱岐から外交文書の書式に則った書簡が届く。
慶喜が京に入れなかったのは全て薩摩による妨害の為であり、また戦闘において一時的に新政府側が成功したからといって
幕府と長期にわたって築き上げてきた関係を断絶させないよう要請するものだった。
これに先んじて「帝が諸国に使者を出した場合はどうすればいいか」とも質問していたが、これに対する返答はなかった。
薩摩の五代と寺島がパークス公使と会談。公使達の京入りは一か月以内には達成されるだろうとの事。
また、負傷兵治療の為外科医を一人貸してほしいと要請し、パークス公使も人道的な観点からも是非そうしたいと述べたが、
外国人全てに掛かる大事件であった備前事件の収集が収まっておらず、この返答次第では協力しかねると返答した。
また大阪の公使館については城の裏に新築されたものは破壊されてしまった為、新たな場所を提供される事となった。
五代らは戦力増幅の為にイギリスから軍艦を買おうとしていたが、サトウは、帝の政府が諸外国に対して
局外中立の要請を出しこれが宣言されれば、どの国も日本に対し軍艦を売り買いする事ができなくなるだろうと伝える。
(戦力の増減は起こらない)
02.14五代と寺島、再び英国公使らと会談。東久世の書簡、伊達伊代守(宇和島)と三条実美の書状により、
備前事件における交渉に決着がつく。(日本側の正式な謝罪と、一斉射撃を指示した指揮官の処罰)
また、仁和寺宮が外交担当機構の長となり、東久世通禧、伊達伊代守、三条実美はその補佐を務めるとの事。
負傷兵治療の為の外科医師派遣要請が外国側に受け入れられ、ウィリスとサトウが現地へ赴く事となった。
更に、書簡には『局外中立』を要請する正式な通達があり、これは各国公使に送付された。
02.16サトウ、ウィリス、野口、テツ(サトウの生徒)、ウィリスの給仕サヘイ、サトウの日本人護衛兵の一人松下
(陸路江戸の最中サトウ襲撃事件の際にサトウを起こしてくれた、当時一番若かった護衛)、
サトウらを守る薩摩の護衛隊(大山巌指揮官)ら、軍艦に乗り大阪へ入る。
負傷兵のいる京へ行く為の小舟が用意されていない等と言われ一悶着あった後、小舟が来るまでの間に大阪城を見る。
城は焼け落ちて無くなり、石造りの部分とタイルだけになっていた。
宿舎には五代が現れ、出発が明日になる事を丁寧な謝罪と共に説明がされ、外国人一行はそれに満足し受け入れた。
酒と芸者が呼び込まれ、時間を忘れて過ごした。
02.18朝10時、薩摩藩邸の焼け跡近くから船に乗って川を上った。深夜になって伏見に到着。
02.18局外中立を宣言岩倉らから詳しく状況を聞きいち早く対応した。各国もこれに続く。
02.19小松と合流。北上し、御所の裏にある相国寺へ入る。島津藩主忠義と西郷が出迎える。
午後、ウィリスは負傷兵の治療にでかけ、サトウは護衛を連れて三条通りの書店を散策した。
町の者達はサトウが外国人だと気付かなかった様で、小さな少年が一人『琉球の者か?』と訪ねて来た。
護衛の者達と夕食も一緒に取り、彼らが旧来の日本人の価値観を捨て『開けた』考え方を体現しようとしている事をサトウは感じていた。
02.20サトウ、備前事件の顛末を聞きに西郷を訪ねる。午後、薩摩藩主と謁見し、その後町を散策した。
02.22サトウ、ウィリス、木戸と会談。
日本人と外国人の間で騒動起こらない様、或いは起こった際の対応について白熱した議論が交わされた。
大久保一蔵と会談。
02.23サトウ、ウィリス、パークス公使から急遽帰還の伝令来る。備前事件、大阪公使館の進捗など疑わしい為。
しかし行き違いで、備前事件の最終決議が遅れている理由にパークス公使が理解を示し、
一週間待つことに同意したとの事であった。大久保、西郷、吉井がその場にいた。
サトウ、午後三時に一人で出発した。観光がてら五条大橋まで歩き夜になって伏見に着いた。
薩摩大山巌の兄に会い、その後21時に小舟に乗り川を下った。
02.246時半に大阪目的地へ到着。兵庫へ向かう。この頃フランスロッシュは神戸に戻っている。
02.29パークス公使、宇和島隠居伊達宗城と会談。夕方再度宗城を訪ね、フランスの迷走を聞く。
02...130人ほどの幕府旗本が、その身を帝に委ねる為に京へ入る。(日付不明)
即座にこうして意思表明をした者達の中には、新政府から要職を得られる者もいた。
03.01伊達宗城、各国公使に澤主水守を紹介する。(818で都落ちした公家の一人)一見人を寄せ付けない風貌だが好人物であり、
のちに彼が外交を担当した際にはサトウ達は彼を好んだという。他、彼の息子もおり、
彼は女性の様に青白く道楽者の様な恰好をしていた。大村の大名(大村丹後守)は病弱な印象であった。
伊達から備前事件について、責任者を斬首する事で処分とすると通達を受ける。
パークス公使はサトウに恩赦を与えるべきか尋ねた。ミットフォードによると他の公使達は恩赦を与えるべきだとも言っており
オランダの政治的代表者などもその様に働きかけているとの事だった。しかしミットフォードもサトウも
情けをかけるべきではないと主張し、パークス公使にもそのように伝えた。
夜にも、パークス公使と伊達宗城の夕食会談が行われた。帝への拝謁、大阪遷都、慶喜の事など。
03.02備前事件の責任者二名、兵庫永福寺にて切腹。直前に五代と伊藤が嘆願に来たが受理されなかった。
処刑にはサトウ、ミットフォード、各国公使館から選ばれた一人らが同席した。
03...各国公使、大阪へ戻る。
小松帯刀、伊予守が友好的にパークス公使を訪ねて来た。また東久世らも同様に友好的であった。
03.07西本願寺にて、各国公使・代表と、日本の高官らの間で重要会議が行われた。
日本側の出席者は伊達宗城、東久世、醍醐大納言、尾張、越前、薩摩、長州、土佐、芸州、肥前、肥後、因州の家老たち。
開国外交の促進、京における帝への拝謁、日本国内における外貨為替、大阪兵庫(神戸)の土地売買についてなどが話し合われた。
ロッシュ公使は断固として新政府の申し出を拒否していた。その中でもサトウはロッシュの通訳に
目を光らせていたので妙な事にはならずに済んだ。
英国ウィリアム・ウィリス医師とミットフォード、山内容堂治療のため京都へ出発
03.08堺事件。土佐藩士がフランス水兵十数名を虐殺。
03.09堺事件については混乱が激しく、伊達宗城と東久世も満足のいく説明ができずにいた。
遺憾の意を示す為にフランス公使館を訪ねた二人であったがロッシュ公使から拒否される。
イギリスとオランダ以外の国は大阪の公使館を去った。
03.10イギリスも公使館からパークス公使が去ったが、ラッセル・ロバートソンとサトウとその他護衛達を副領事館に残した。
犠牲になったフランス人水夫たちの遺体が手違いでイギリス軍艦へと送られたが、その後フランス軍艦へと送られた。
03.11パークス公使、大阪英国副領事館へ行き賠償について会議が必要である旨を指示し、犠牲者たちの葬儀に参列した。
サトウはその胸を伊達宗城らに通達し、そののち、小松や吉井と合流し、宴に興じた。
更に娯楽を求め盛り場もはしごしている。(ええ…)
その際、店の店主に拒否される事があった。当局の許可を取ってきて欲しいなどと言って拒否する理由などを聞いていると
二階から土佐の男が下りて来て、サトウらを見るなり剣を所望したが店主はそれを断り店の外へと導いた。
サトウらの入店を拒否していた理由は土佐の男達がいるからであった。
それでも当局の許可をとって再び同じ店に行くが店主は渋っていた。話し込んでいると土佐の者が剣を片手に
物々しい態度で降りて来て「お前たちは誰だ」「ここで何をしている」などと物申して来た。
問いに答えている最中に彼は「お前たちはここにいるべきではない」と言った。騒ぎを聞きつけた彼の同伴者が下りて来て
彼を二階へと抱き抱えて行き、温厚そうな男が詫びて来たが、その最中に激昂した彼が再び降りて来て、
しかも抜き身の剣を持っていた。彼の友人達が駆け付けて彼を止め、階段の所で取っ組み合っている間にサトウ達は脱出した。
店主の老人がランタンを持ち、サトウ達を宿舎まで送り届けた。
03.12ウィリス、ミットフォードら、京から大阪へ戻る。彼らの滞在延長の確認を得る為にサトウは一旦公使に会いに軍艦へと向かった。
その際、伊達や小松に会い、堺事件におけるロッシュ公使の要求を聞く事ができた。
・虐殺に関与したすべての人物を処刑する事(土佐20人、一般人20人)
・被害者遺族に対して15万ドルを支払う事
・大阪外交担当筆頭(皇族山階宮)が謝罪する事
・土佐大名、山内土佐守が須崎においてフランス軍艦に乗船し謝罪する事
・武装した土佐者を全ての条約港および町から排除する事
サトウ、これを聞いた後、一旦ウィリスが再び京へ行くのを見送った。
03.13サトウ、兵庫に入る。
03.14サトウ、伊達・小松と会談。ロッシュ公使の要求は受け入れられる事になるが、最後の条約港および町からの
一斉排除は厳しすぎるという事でイギリスとしても内容の変更を求める事にした。ロッシュ公使との話合いは進み、
処刑が行われる事、山階宮がロッシュに謝罪の書簡を送ると同時にロッシュ公使を京へと招待する事。
(公使の誰であっても先駆けて京へ入る事を断固として認めないと言っていたのに、自分は…)
03.16堺事件の土佐藩士11名、堺にて処刑
03.18山階宮、パークス公使らと会見のため神戸に入る。
03.19イギリス公使館員全員、及び騎兵護衛隊、第九連隊二大隊歩兵ら。帝拝謁のため大阪上陸。副領事館に入る。
サトウの護衛達は殆どが徳川の者であったため、連れてこなかった。
03.20小松、肥前藩士らに護衛されて馬で伏見へと向かう。18時着。後続々と。
03.2110時発。肥前、尾張らが護衛。土佐後藤象二郎、薩摩中井弘蔵が挨拶に来る。
野次馬でいっぱいだったが、秩序が乱れる事は無かった。
美しい知恩院が宿舎としてあてがわれる。肥後、阿波、尾張が護衛を務めた。
また、ウィリスが見ていた土佐隠居容堂の容態は危険な状態から持ち直したとの報が入った。
03.22パークス公使、様々な人の下を訪問。きちんと小奇麗に髭をそってお歯黒をした山階宮。
仁和寺宮が通る為道を開けた。頑健で肌は浅黒く、唇の厚い若い男であった。三条実美を訪ねる。
身体が小さく肌は女性のように青白い、33歳の男だった。次に岩倉具視を訪ねる。
表情の険しい老けた男であったが話してみるとざっくばらんな男であった。
続いて肥前、長州の大名を訪ねた。長州とは長らく友好的関係である事をお互いに祝福し合った。
知恩院に戻り、後藤象二郎、伊藤俊輔と謁見の段取りについて会談。
また、英国から直接帝に拝謁できるのはパークス公使とミットフォードの2名となった。
03.23パークス襲撃事件。英国公使館一行、天皇に拝謁の途中に襲撃される。護衛の騎馬隊の槍は役に立たず、
土佐・後藤と薩摩・中井が抜き身を放ち捨て身で下手人とやりあった。英国を護衛していた肥後300の兵達は
皆いなくなったが、日本人の馬丁は冷静かつ勇敢に行動を共にした。
18時、徳大寺、越前宰相、東久世、伊達、肥前領主が急の遣いとして現れ、心から謝罪の意、悔恨の意を表明した。
これに対しパークス公使は激昂する事もなくつとめて冷静に対処した。
03.24公的書簡として謝罪文書が到着し、三条、岩倉、徳大寺、東久世らの高官が訪れ謝罪した。
また諸外国との友好的な関係を望むという帝の宣言を全ての町村へ掲示し、
また、被害者が死亡したり今後の仕事に支障を来たす様な事になれば保証を行うとも告げた。
パークス公使らはこれに満足の意を表し、拝謁は後日執り行われる事となった。
03.26英国公使館一行、天皇に拝謁
03.27英国公使館一行、大阪に戻る。
パークス襲撃事件の犯人、処刑される。
03.29英国公使一行、横濱へ向け出港。
ミットフォードは一人大阪に残り、激務の外交事務を務める。
外国事務局知事・伊達宗城、東久世通禧らと密に連絡を取り合う
大阪には英国領事館があったが、領事のラッセル・ロバートソンははるか川下に住んでいた為、
ほぼ『大阪に住む一人の外国人』であった。京におけるハリー・パークス襲撃事件も記憶に新しい様に、
尊王攘夷志士もいまだ多く潜んでおり、ミットフォードは常に銃を携えながら仕事をした。
要人との面会も筆記事務も一人で請け負うにはあまりにも激務であり、
まったく外国語を扱えない日本人を秘書として二人雇ったもののその賃金ですらポケットマネーであった。
英国外務省はこれに対し英国大蔵省へ保証する様かけあったが、結局保証されなかった。
03.31パークス公使一行(ミットフォード以外)横濱帰着。
04.01サトウ、江戸の高輪自宅に戻る。野口、旧幕府の護衛6人も一緒に帰宅した。彼らは離れにあった小屋に寝泊まりした。
江戸での主な情報源は旧幕府軍陸軍総裁の勝安房守(勝海舟)。新政府側の軍隊はすでに江戸を取り囲んでいる状況で、
衆目を集めない様夜に行動した。
最前線の軍営は品川、新宿、板橋に設けられており、薩摩と長州の小部隊がいくつも街中を闊歩している。
総司令の有栖川宮はまだ箱根の山頂から西に半日ほどの場所におり、また慶喜は03.04には帝の命令を全面的に受け入れ、
上野で自ら蟄居しているとの事だった。全体的に穏やかな雰囲気ではなかったが、パニックに陥っている様子もなかった。
04.04江戸湾の砲台が取り外され、新政府側に明け渡される。
04.05高輪薩摩藩邸で、総司令有栖川代理の西郷と勝が会見
04.06田町薩摩藩邸で西郷・勝が会見
04.07江戸総攻撃中止
04.08サトウ、砲台明け渡しや勝と西郷の会見内容について聞く。
04.12サトウ、三日間江戸の町に出る。町は静かであった。西郷は現在駿府にいる総司令有栖川、
更には京の中央政府に総攻撃中止の旨を説得に向かっているが、これ以上慶喜の命を追い詰める様な
条件を出してくる様であれば武力を以て抵抗するしかないと勝は言っている。
また勝は、英国パークス公使に対し、新政府が帝に不名誉となりかねない様な決断をして
内戦を引き延ばす様な事はない様、影響力を行使してほしいとも懇願していた。公使は既にこれまでも同様の忠告を
新政府側に対して行っていた。
04.23西郷吉之助、横濱でパークスと会見。パークスは改めて、慶喜らに過酷すぎる処分・処罰を行えば西洋諸国の間で
新政府に対する信頼が失われるであろうと強調した。西郷は彼らの命を要求する事は無いと述べた。
勝によれば、この頃すでに慶喜に続き謹慎していたはずの元外交担当小笠原、『キツネ』の平山、
英国公使館から好かれていた塚原、財政担当小栗上野介などは逃げ出していたという。
また、勝からの情報で、2月頃にロッシュ公使が大阪に残した通訳に『公使代理』の権限を与え自らは
単独で横濱へ戻ったにも関わらず『公使』としての権限を公使していた彼が、旧幕府に対して徹底抗戦を
呼びかけていた事を『興味深い』としてサトウは聞いている。
04.26勅使、江戸に入り徳川処分の朝旨伝達
04...サトウ、時間の半分ほどを江戸での情報収集に費やし、もう半分は横濱領事館で翻訳や報告書の作成に費やしていた。
05.03慶喜、江戸を出て水戸へ向かう。江戸城無血開城
05.15パークス公使、F.O.アダムズ(一等書記官就任)、サトウ、上級通訳生J.J.クイン、サラミス号にて大阪へ向け出港。
05.16昼、紀伊の最南端沖にある大島の港に投錨。小奇麗な浜に囲まれた、極めて汚く悪臭がする村があった。夕方再出発。
05.179時、兵庫着。昼頃、サトウら大阪に上陸。
ヨーロッパの元首が初めて日本の元首に対し書簡を送るという事で、威厳を示す為に多くのイギリス艦隊が兵庫に集められる。
05.18日本側が礼砲を撃ち、パークス公使も大阪へ上陸した。その後、サトウは信任状奉呈の式典の取り決めや信任状
その他書類の翻訳などに忙殺される。沖に碇泊する艦隊と連絡が取りやすい様、副領事館にて作業を行う事となった。
式典に参加できる人数なども取り決められたが、サトウも参加する事となった。大火以来なんだかんだで
外交用の正装を入手しておらず、この時は非常に煩わしく感じたとある。(イブニングで参加した)
後藤象二郎と伊達宗城が訪れる。伊達とは、新政府が発布したキリスト教に対する勅令について話し合った。
一部適切でない表現(「邪悪な」「有害な」など)があった事を認め変更するとも言ったが、
信仰を制限する勅令を完全になかった事にするのは不可能であるとも言った。これに対しパークス公使は、
日本が文明国であるという事を証明したいのならば信教に対する寛容さを示す必要があると告げ、
また、この場で英国女王陛下からの親書を内密に提示した。この後サトウは中井とキリスト教について長い間談義したとある。
05.19パークス公使、サトウ、三条、伊達、後藤、木戸、山階宮、西本願寺にて会見。
・民衆のキリスト教徒に対する敵意は強く、魔術や妖術の類であると信じている
しかし有害な教えなどとする言葉は不適切であったとこの会議においても正式に認められ、訂正すると確約した。
しかしやはり、この勅令自体を発布しないという事にはならなかった。
05...ミットフォード、第二書記官に昇進。
05.22パークス公使、大阪にて天皇に信任状を奉呈。西本願寺にて式典が執り行われる。
(あまり相応しくないと思われる場所であったが、帝はこの時大阪に下っているという状況であったため致し方ないとの事であった。)
公使館一行の他、軍艦から200人以上の海兵が隊列に加わり、更に日本人の兵が隊列の先導としんがりを務めた。
帝を中心に多くの公家たちが彼の後ろに控えていた。伊藤が通訳を務め、式典は恙なく執り行われる。
夜は晩餐会が開かれた。
05.23英国女王陛下の誕生日が近いこともあり、礼砲が放たれた。
日本人の貴人たちがロドニー号に乗船し、提督と昼食を取った。
・山階宮が女王陛下の健康を願って乾杯しようと言い、皆威勢よくそれに応じた。
・長州藩主はサトウの隣に座り、シャンパンを飲み過ぎてつぶれた。
・帝の母方の叔父はヨーロッパの猫を見たいと切望していた。
・別の貴人は黒人を一目見てみたいと言った。
彼らの望みを満たすために難儀した。
また、ロドニー号、オーシャン号それぞれの軍楽隊による演奏も拍手喝采が贈られた。
05.24大阪にて、上記の会議に岩倉具視を加えて再びキリスト教への勅旨について6時間もの間話し合う。
各国代表が公文書の写しと和訳文書を提示して抗議したが、キリスト教を信仰する4000人ほどの日本人
(そのほとんどが長崎浦上村の住人)が情け容赦なく流刑とされた。
05.25サトウら、横濱帰港の為サラミス号乗船。
05.28帝、京へ戻る
06...サトウは横濱公使館にある一等書記官邸でアダムズと共同生活を行っていたが、
それとは別に高輪に自宅を保持していたという事である。京都で発行された官報や江戸で発行されはじめた
大衆紙の翻訳などで常に忙しかった。特に興味深かった文書は、04.27に慶喜に対して通達された公文書であった。
彼は05.03に水戸へ退き、田安亀之助に一時的な徳川相続が認められたとの事だった。
江戸城が明け渡され、薩摩、長州その他の兵士たちは自由に江戸を歩き回っていた。
06.11『政体書』が発布され、『三権分立』を目指した体制となる。

中央政府として太政官を置き、これの権力を『立法』『行政』『司法』の三権に分ける。
『立法』議政官上局・下局
『行政』行政官・神祇官・会計官・軍務官・外国官
『司法』刑法官

…という形で『七官制』が設立される。
議政官上局に議定参与、下局に議長および議員を配置。
行政官は行政事務を総括する。(総裁局の後身)(立法府)
神祇官・会計官・軍務官・外国官はそれぞれの管轄における行政事務を分担し、
それぞれに知事(長官)、副知事(次官)、判事(書記官)としてついた。
刑法官は司法『府』とする。
サトウ、これらを翻訳し、この第二の機関(恐らく七官の事)という言葉の翻訳に骨を折ったという。
『御前評議会(imperial council)、枢密院(privy council)、内閣(Cabinet)…どれが適切か?』
いずれにしてもこれが最終盤のコンスティテューションになるとは思えなかった。
現状において高貴な生まれの傀儡達が要職を独占しており、実務派その配下たちによって担当されていた。
太古からの地位や先例は実質的に何の意味も成しておらず、そうした古い地位は名簿から消し去らねばならないと感じている。
一方、これらのコンスティテューションはアメリカのそれによく似ていると印象を受けた。
06.13三条実美、東久世ら江戸に入る。
06.19田安亀之助(6)に徳川家相続の朝旨伝達。徳川に残される財産の総額を決めるのは旧幕府軍を降伏させてからとの事。
06.22奥州同盟
06.23サトウ、アダムズと江戸へ向かい三日過ごす。江戸で得た様々な文書には、いまだに根強く外国人排除を訴えるものもあった。
帝が外国人に謁見の機会を与えた事に否定的なものもあった。これらについて勝に質問し、興味深い話を聞けた。
サトウ達が大阪を出た直後の05.30、公家衆と大名の間で会議が行われ、公家衆の一部から『今こそ外国人を排除する時』
との声が上がったと言う。大名達はこれに沈黙し、帝も黙した。外国人排除政策を再度採用するのかという噂に対しては
ミットフォードとの対談において伊達宗城が否定したが。いずれにしても、勝もサトウも正確な情報を掴むのに難儀していた。
フランス公使ロッシュが横濱を離れ帰国。後任のウトレ氏が到着。
06.25南部からのかなりの数の兵士が江戸に入る。
06...会津出身である護衛の野口の弟は、上野の彰義隊に参加したという。
06...小松帯刀(外国事務局判事)、米軍艦ストーンウォール号の名義変更および引き渡し請求に成功。
金銭工面の為陸奥陽之助が会計官権判事へ異動。これに成功。
07.04上野戦争勃発。朝8時にはじまり、夕方17時に新政府の勝利で決着がついた。
サトウは6末に江戸で過ごして以来横濱で過ごしていた。
07...サトウとウィリス、江戸に入る。
ウィリス、薩摩、土佐、長州、備前その他といったあらゆる負傷者を治療して回る。
備前は以前イギリス公使館が置かれていた東禅寺に入っており、ウィリスを大変丁寧にもてなしたという。
かつて外国人殺人事件などもあったが、その処罰についても彼らは納得している様子であったという。
また、負傷者は銃創患者がほとんであるが相も変わらず日本外科は素人同然の穴をふさぐだけの処置をしていた。
ウィリスは急を要する者は直ちに横濱へ送り(トリアージ)江戸で急遽軍事病院として使用された建物は7月末までに
176人もの患者が収容されていた。
07...すでに副領事として打診されていたウィリスであったがその外科医術が非常に求められ、
新政府からパークス公使に対し正式に派遣要請が合った程だった。ウィリスは公使館付き医官としての任から解放され、
戦場における負傷者の治療へとへ派遣される事となった。
07.29サトウとアダムズ、江戸に入り4日間過ごす。大隈、勝、小松と会う。
08.17サトウ、江戸に入る。
08.18サトウ、大隈を訪ねる。寝込んで具合が悪そうだった。13日に日光に近い今市で戦闘があったと聞く。
サトウ、勝を訪ねる。2日前に駿府が正式に徳川家に与えられた事等を聞く。
以前サトウを夕食に誘った妻木中務が勝を訪ねて現れ、再会となる。
彼は慶喜から暇を与えられ水戸から来たばかりであったが、新政府の職にと呼ばれる事はないだろうと考え
趣味の詩作をしたりして暮らしていたそうだ。サトウは彼のこうした自己評価について
「本当にそう思っているとしたらとんだ見込み違いだ」として、彼を評価している。
妻木は勝に対し「旧幕府派の過激派に命を狙われているから気を付ける様に」と忠告していた。
サトウ、勝に「民衆にイングランドを忌み嫌う感情があるだろうか」と尋ねると、「昔の話だ」と返された。
08.19サトウ、日本橋へ赴く。幕府が東京開市に向け外国人居留地として築地(現在中央区明石町)があてがわれており
外国人滞在の為に建てらえた巨大なホテルがあった。この商業地区は活気があり、道路は人で溢れ、
新政府派の侍が沢山いた。一方今はもう明け渡された江戸城下の大名屋敷付近の町は死んだ様だった。
08.20旧幕府の外国奉行役人であった川勝近江がサトウをたずねる。
駿府の城は荒廃というよりは少しマシな程度で、城下には旧幕臣たちを迎え入れる屋敷も無く酷い状況だと言う。
かつて横濱の奉行を務めた水野若狭や徳川の家臣杉浦武三郎などは、新政府によって外国人居留地に関する仕事を
任される予定だという。彼らは2月に恭順を示した130人の幕臣の一人であり、川勝はそうしなかった事を後悔している様だ。
幕府から与えられたサトウの個人的な護衛6人と公使館に与えられた100人の護衛達も、今は引き続き護衛の任にあたってはいるが
元は幕府の別手組という組織だった事もありその所属は徳川という事になる。
サトウの護衛達に関しては、彼らも川勝と同じ様に新政府所属になりたい(今の仕事を続けたい)との事だった。
08.21サトウ、小松と中井の訪問を受ける。
政府の軍は勝利を続け、別件で京へ向かった木戸ももうすぐ帝に随行して戻ってくると聞く。
この会話の最中にも、500人の薩摩兵が建物のすぐ横を通り過ぎて行った。
再び大隈を訪ねるが、まだ体調が悪い様であまり話をしたがらなかった。
更にその後、中井から大政奉還で容堂(後藤ら)が提出したとされる原案を見せてもらった。
すでに公表されているものとは若干内容が異なっており、以下の点がサトウの目に留まる。
・フランス語と英語の顧問を一人ずつ雇う事
・英国から軍事顧問を招聘する事
・将軍を廃した後、徳川をその他の大名と『同じ』地位にまで格下げする事
これらの提案は、後藤らが外国人と友好的すぎるという印象を与え、また
旧幕府の者達から敵意を煽りかねないとして削除されたのだった。
また、中井は最近東久世通禧が三条実美に送った書簡の草文も見せてくれた。そこには新潟港に入港した外国船が
旧幕府軍に武器類を提供し、この武器を以て会津へ援軍を送っていると書いてあった。
すでに局外中立を宣言した状況で『何かの間違いではないか』とサトウは述べる。
それでも実際にこの様な事が起こっているとするのならば、新政府は諸外国の局外中立宣言に則り一方的に
港を封鎖する事ができるのでその様に対処するべきだとも述べる。中井はこの事を理解できずにいる様で、
まだまだ国際法というものが理解されていないのだとサトウは感じた。
(これまで開港、鎖港で散々モメて来たというのに何故『中立宣言』で『簡単に鎖港ができるのか』と
考えた故に理解に苦しんだのかと思われる。)
更に、小松が京へ送った、長崎における日本人キリスト教徒の処遇に関する書簡も見せてもらう。
パークス公使が告げた内容を考え、より穏当な対処をするべきだと書かれてあった。
08.22サトウ、中井を訪ねる。『非常に魅力的な』井上石見(箱館府判事)と知り合う。
彼は蝦夷の資源を開発する事に強い興味を示しており、農業開拓も含めいくつも構造を考えていた。
(しかし彼はこの二か月後である10~11月に行った択捉島視察の帰途に遭難。行方不明となる)
後から小松、中井も合流し、先に話した新潟海上封鎖について話し合った。
08.22長州兵が大挙して上陸し、その境内に現・英国公使館を置く泉岳寺へと入って行った。
08.23サトウ、小松、中井に同伴されて大久保一蔵と夕食を共にする。
大久保はとにかく口が堅く、唯一引き出せた情報は、仙台の大名(伊達)に対し伊達宗城を派遣し、
会津に関して手を引く様説得を試みるという事だった。また幕府によって雇われていた
英国人の海軍顧問についてもサトウの意見を求め、局外中立が宣言されている状況で彼らが
軍に影響を与えているのは公平ではなかったので、解任した方がいいという事で合意に至る。
08.25サトウ、10.1に行われる予定だった外国人に対する江戸の解放(開市)について中井と話し合う。
新政府軍が戦力を集結させて会津への攻撃に備えている。中井はこの戦力で会津を潰せないのなら
旧幕府軍に勝利する事は難しいだろうと言うが、実際そう思って然るべき戦力を投入していた
08.25サトウ、200人程の兵士たちが品川を経由して北へと行進しているのを目撃する。
08.26サトウ、勝を訪ねる。25日に小松が彼を訪ねた様だったが、話の内容が良かった様でかなり緊張が
解けた様な面持ちであった。先日駿府が正式に徳川に与えられたが、徳川の手から離れていた時に
住み着いた者達を立ち退かせる事に難儀しており、今現在現在徳川が有する70万石の内実質的に
支配できているのは8万石に過ぎないと言う。この為、徳川家臣らの食い扶持の為に家督継承した
6歳の亀之助やその保護者達が自らの財産を投げ出すといった事にならないかと懸念していた。
また、徳川の艦隊を率いていた榎本武揚が旗艦開陽丸を使って物資を運んでいるという。
サトウ曰はく榎本は『E.カマジロー』としても知られており、オランダで訓練を受けた海軍士官だと認識している。
サトウ、水戸の前領主(斉昭)の息子・慶篤(慶喜の兄)は死去したのか、それとも民部大輔
(現在パリ万博の為にフランスに滞在しているが、新政府からの命令で帰国が決定している。)が
彼の地位に取って代わったのかと尋ね、勝から長年外国人を混乱させ続けていた水戸の政治について
詳しい話を聞く事ができた。(一外国官~p535)
この日、肥後の長岡が多数の家臣と共に海路で到着した。
08.28サトウ、小松、井上石見、宇和島の松根の息子(大阪見物に誘導してくれた)と豪勢な食事をとる。
泥酔して眠ってしまった者もいたが半時間程するとシラフになり、また同じことを繰り返した。
08.29サトウ、阿波大名が600人程の盛大な随行団と共に町を行進しているのを目撃する。
09.01大阪開港
09.03江戸を東京へ改名
09.08-10.17蝦夷の北岸をロシアが占領したという情報が入り、サトウとアダムズが軍艦ラトラー号で捜索に出た。
蝦夷宗谷湾にて座礁し、フランス艦デュプレックス号に救助された。
10.04榎本武揚、軍艦八隻を率いて江戸を脱出
10.05ウィリアム・ウィリス、新政府大総督府より西洋外科医派遣依頼を受け、会津へ向け出立。
従者として日本人の通訳、料理人、召使いの3名、更に越前藩25名の護衛と共に
悪天候の中、悪路を駕籠や馬、徒歩によって北上。
これまで中央統治機関がなかった為、重要な公共土木工事はまったく行われていなかった。
10.23明治改元
10 ウィリアム・ウィリス、関川関所の見張番から乱暴に「帽子を脱げ」と極めて傲慢無礼な態度を取られる。
威厳と名誉を重んじる西洋人はこれを容認する事はできず、守備隊長に謝罪を要求するが拒絶される。
ウィリスは政府からの要請に応えようとこの旅をしている立場にあり、この様に極めて傲慢無礼な態度を
取られたまま見過ごす事は出来ないと、高田藩の大名・榊原政敬(15万石)へあてた書簡を発送した。
榊原は大変畏まり、謝罪要求はすぐに指示され守備隊長らがウィリアムに謝罪する。
ウィリアムは相手が外国人だからといって傲慢無礼な態度を取る事は赦されない事、
正式に通航を許可されている外国人が自ら帽子をとって門番に挨拶をする事などあり得ない事、
今後この様な態度を取る事が無ければ今回の事は一切を水に流す事を説教した。
守備隊長は今後何かあれば即座に切腹をするとまでいい、ウィリスはもう関わりたくないと、
後に書くパークスへの手紙にも記している。
10.17ウィリアム・ウィリス、ようやく最初の目的地である高田(上越市)に到着。
ここでパークスに手紙を書く。
・関川関所での謝罪要求事件について
・ここまでの旅で見聞きした新政府に対する感情について。
小藩の農民たちは新体制を歓迎している。
大藩の農民たちは政変には無関心で、自分達には関わりない事と考えている。
・各地の関所、本陣・旅館は、基本的にウィリスを公的旅行者として丁寧に迎え入れてくれた。
どこでも公式の服装をした村の役人たちが出迎え、至る所で受けるお辞儀は気が滅入る程だった。
・交戦中の会津藩軍に対する共感、同情の声は殆ど見受けられない。
『幕府は廃止された』『もはや復活などはあり得ないだろう』という声が多く聞かれた。
・各地の旅館などは大名やその家臣らの往来がなくなった事の方を嘆いている。
・参勤交代も廃止だろうとの事。
・生糸の生産地帯では関連する各種労働に支払われる金額た相当なものであるから、
それが今後の収入源となっていくだろうとの事。
・これまでのところ、戦闘があったり、村が焼かれたりしたというような形跡には出合わず、
一般市民は彼らの日常の生業にいそしんでいるように見えた。
・心行くまで旅の楽しみを味わった。従者達、護衛達は皆、私が要求する情報を集めてくれた。
旧幕府の疑い深い役人らのように隠しだてをしたり、些細なことに反対をする事などはなかった。
・悪路が多く、江戸に近いところでも重要な公共土木工事は行なわれていない。
日本には、真の意味の中央統治機関が本当に必要だ、と思うことがあった。
日本の道路は、私がこれまで見たもののうちで最悪である。
・大雨があると膝まで泥に浸かってしまう。どんなに努力をしてみたところで
一日に20マイル(32キロメートル)進むこともできぬ地域がいくらもある。
・河川にかかる大切な橋もなく、未開時代特有の渡し舟に依存している。
・沿道のすべての町には、日本の最近の政変を伝え、外国人の処遇改善の対策などを講じた
政府の告示板が立てられていた。私が横濱で見たものと同じ物だと思う。
・会津藩はいまや『各地の無法な二本差しの連中』で補填されているとの事。
・会津藩の者ですらもはや幕府の復活は見込んでいない。それでも戦うだろうとの事。
・現時点において仙台が会津にどれだけ加担しているかは疑問であるとの事。
越後ではすでにすべての藩がミカド軍の側となっているとの事。
・会津藩は包囲され、ミカド軍が勝利する事は疑いない。戦闘は年末には終わるだろうとの事。
・ミカド軍は捕虜を寛大に扱い恭順も受け入れた。しかしそうでない藩に対しては殲滅し征服していく。
・会津軍はミカド軍の捕虜はもちろん捕らえた人夫たちまでも殺すとの事。
・新潟は焼かれることなく、ミカド軍の手中にあり、大部隊で維持されているとの事。
・武装した無頼漢の処刑掲示を3か所で見かけた。
こうした連中が毎日の様に出没し、農民から金品を巻き上げている。
これを防ぐために条令が執行されていたが、日本の警察組織は極めて不完全であると断言せざるを得ない。
二本差しの無頼漢が暴行を犯しながら処罰を逃れる事もよくあるとの事。
・今期の生糸の収穫は著しく良好で質量ともに評判が良い。相場は横濱と隔たりが無かった。
・生糸には重税がかけられていない。
・過去10年間で生糸の価格は5,6倍に跳ね上がったとの事。
・蚕卵紙の値段が横濱よりも生産地の方が高くなっており、新政府は蚕卵紙には重税をかけていた。
・蚕卵紙供給請負業者の損害は、売値の50%にものぼっている。
・武蔵の各地における養蚕地はここ2、3年の内に倍増している。新しく桑が植えられた平原を見た。
・日本人が米の収穫を最重要視しなければ、生糸の産出量は増加するだろう。
・日本人が米を最重要視するのは、土地の賃借料が米という日常の必需品によって支払われる為と想像。
・蚕の卵には、春物と夏物との2種類あり、春物の方が、夏物よりはるかに良いと考えられている。
値段も春物の方が、夏物より3分の1ほど高いと教えられた。
・各地で村の娘が繭から生糸を繰り取っているのを見た。
・今年は雨が激しく米の収穫は平年の半分程との事。川の氾濫があった地域では全滅したとも聞く。
・高地でも米は育つが、その味はまずく粒が大きいとの事。
・菓子に利用されるもち米の稲も見た。
・沿道の米は横濱より11分の1か12分の1程安いのだが悪路を運搬する事を考えると
自分たちが思っている以上の価格統制が行われている様に思えた。
・小麦は雨期が始まる前に仮取られており、今年の麦の収穫は大変良かったとの事。
・例外的な降雨量の為、今期の黍や蕎麦の収穫は平年よりずっと少ないであろうとの事。
・江戸の需要を賄う為、江戸近辺の肥沃な土地では計り知れない程多量の作物が栽培されている。
葉菜類や根菜類はとりわけ作柄がよい。
・碓氷峠を越えるとじゃがいもが植えてあった。遠い昔からからこの地方で栽培されてきたらしい。
よく生い茂って、病気に全然かかっていない。しかし、じゃがいもは日本人達にはたいして
好まれていない。やまいもや、日本人がさといもと呼んでいる根菜などの収穫はあまりよくなく、
平年並は見込めなかった。豆類も良くないとの事。
・雨の為綿花の収穫は平年の5分の1程で、まったく惨めなものであったという。
一番良質の綿は1斤当たり2分銀で売られている。
・私が通った道の近辺には綿の大規模な栽培地は無かった。その地域の需要分だけの綿畑であった。
・総じて、今年の農作物の全収穫高は平均よりかなり低いであろう。
日常消費されるすべての品物の価格がかなり高まることが心配である。
・私が通って来た江戸平野は決して平坦ではなくあちこちに丘陵が起伏している。
・中山道の左右は山並みが覆い被さってくる様である。その谷あいに道すじが走っていた。
・やがて中山道は山道となり碓氷峠が最高点である。
・碓氷峠からの下り道は、最初は険しく、米作が行なわれている平坦地に向かってなだらかに延びていく。
・武蔵の国や上野の国では、農民が土地を農作物栽培にうまく利用している様には見えなかった。
肥えた土地が雑木林や小さな森になっているのを見かける事もしばしばであった。
・奥地の山々は火山系統であるらしい。信濃の国に浅問山という巨大な活火山があった。
84年前に大噴火があり、人命財産に多大の損害が生じた。
・碓氷峠を過ぎると、気温は、丁度、華氏10(摂氏5.6度)も下がる。
・おびただしく増水し、水が周辺の土地にあふれ出して、農作物に多大な損害を与えている川が各地にあった。
・高崎では近くの山で石炭が掘られているという話を聞いたが、見本の入手には至れなかった。
・石炭が彫られているとはいっても、石炭が使われている様子は見受けられなかった。
・ある樫の木の周囲を測ってみたら34フィート(10.36m)、杉の木は39フィートもあった。
日本の樹木は、まったく風景の見どころである。
・この高原にいると、ほとんどすべての英国の道端にある植物に出くわしているように感じた。
そして、日本と英国の植物群の大部分は同じものだといえるのではないかと思う。
・動物は殆ど見かけないが、鹿や熊、狼なども見る事ができる。冬場になると多くの鳥が来るらしい。
・野兎・雉・鳩は買えたが、値段は横浜より高い。奥地の為魚は乏しい。
・大量の物資は、高崎の近くの倉賀野から水路で江戸へ送られている。私が倉賀野川(利根川)を渡った時は
水流が堤防からあふれ出していて、その周辺地帯は甚大な洪水被害を受けていた。
・新潟が外国貿易に開港されるならば、現在、横浜に送られている大量の生産物が信濃川によって
新潟に運ばれるであろうと言っていた。大きな川なので船の航行は難しくないとの事。
・信濃川の二つの支流である千曲川と丹波川(界川)とを渡った。この2川は暴れん坊川で、
度々大洪水を起こしている。
・容易に橋を架けられそうな小さな川をいくつも渡し舟で渡った。
・道中で見た日本人は、肉体的な面でも、知的な面でも、ほめられたものではないと言わざるを得ない。
婦人は醜く、男は人種としても虚弱でのろまな顔付きである。
・江戸平野の住民と、碓氷峠の西の気温がずっと低くさわやかな所の住民との相違に気がついた。
後者のほうがまだましである。
・武蔵や上野の国の村落では、外国人は珍しい見ものであった筈だが誰も振り向こうとしなかった。
碓氷峠から西の地方では天候が悪い時でも大勢の住民が後ろからぞろぞろとついてくる。
・都会の住民と辺鄙な田舎の住民との間にも大きな相違がある。
知能は都会の住民のほうがはるかに優れている。
・養蚕地帯に来ると裕福な家が多く、耕作を小作人にさせている。小作人は非常に貧しいとの事。
・この旅の途中では悲惨な乞食を目にしなかった。今は非常に少なくなったとの事。
・人間の数は非常に多い。私が見聞した事から判断すると、人口増加の余地はない様である。
・私が通ってきた村々は、模倣しあったように同じたたずまいであった。
家並みに流れる嫌な臭気はかなり不愉快であった。便所として使用される大きな桶が、
家ごとに庭の片隅の地面に埋められているので、住居の空気がいつも不潔極まりないのだ。
この非衛生な生活環境が日本人の病弱な顔付きの主な原因ではないだろうか。
・大きな村や町には、売春宿(遊郭)があるのが普通であった。そして売春宿のないところでは
お茶屋の女が売春婦をつとめていた。
・住民の間に梅毒が広く蔓延しており、その梅毒の知識や治療法が不足している。
・宿屋の接待料は10年前のほぼ10倍となっているとの事。
・ほとんどの女性の顔立ちは美しくない。着物に粋なところがなく、装身具も着けていない。
身に着けるものについては場所や天候のせいだったかもしれない。
・とある宿泊地で100歳の老婆に会った。この様な生活様式で100歳まで生きれるのか信じられなかった。
・裕福な地方でさえ村は極めてみすぼらしい。肥沃な土地の村でも、この上なく卑しい下品な人達を見た。
・長野の善光寺はもっとも大きな寺院だった。善光寺の憎侶は礼儀正しく、かつ聡明であった。
・善光寺では病気の婦人の診察を頼まれた。彼女は武士の妻で、武士階級の習慣に従い病気でも正座の
姿勢を崩さなかった。その為、膝関節の炎症や水腫症になったようだ。
・20年間以上まともな治療を受けられなかった人達が、私の評判を聞いて多数押しかけてきた。
まったくうんざりした。
・ハンセン病にかかった人を2名見た。ハンセン病の事は誰もが非常に嫌悪感をあらわに示して話す。
ハンセン病の患者は住んでいた土地にいられなくなり乞食になって遠い地方へ行くとの事。
・ある村では流行性赤痢が蔓延し多数の人々が死んだことがわかった。気候不願がその原因であった。
・村の小川には汚水が流れ込んでいる所が殆どである。
・空気にも、水にも、日本人は極めて無関心だといえる。
・私の護衛は筑前出身の25名で若くて気持のよい連中であった。
備前藩の役人・水田賢三が会計担当として同行した。
備前藩主お抱えの医師と薩摩出身の若い医師が随行した。
この若い医師は横浜の寺島司令官(神奈川県知事・寺島陶蔵)の親戚である。
私自身の従者は、日本人の通訳、料理人、召使いの3名であった。
私は一言も不平を言わなかったが、一人で調査をしたくても、護衛たちから離れてはならなかった。
いわば囚人のようなものである。
しかし、護衛たちは非常に協力的であった。私の希望は全面的に十分に叶えられた。
・多かれ少なかれ毎日のように雨が降っていた。
・冬、降雪は15フィートも積もるらしい。6フィートぐらいの積雪はまったく普通とのこと。
・高崎と上田には大名の居城があり、町中で非常にたくさんの商売が行なわれている。
上田では美しい絹織物が作られていた。
・上田で、ヨーロッパの服装をきちんと着こなした老紳士に会った。
彼は騎兵教練を教えたアプリン大尉(英国公使館付陸軍騎馬護衛隊長)の教え子で、大尉が日本を去る時
愛用の鞍を買った。その鞍はきちんと保存され、私が見た時は、見事な日本馬に取り付けてあった。
その老紳士は松平備後守の家臣で、名は門倉伝次郎である。
・ここまでの私の旅行は12日間であった。距離にすれば180マイル以上であった。
高田にて1868年10月17日ウィリアム・ウィリス


(明治元年)
11.06帝の誕生日を祝う宴が盛大に行われた。
この時横濱では、第九連隊第二大隊の視察が行われ、パークス公使は右大臣に昇格した三条実美を招いた。
彼らは横濱のサトウの公邸(港を一望できるベランダ)から、ほとんどの国の軍艦が礼砲を放つ様子を見届けた。
同席者は三条実美に加え長岡良之助、東久世、万里小路であった。
その後公使館において昼食会が催され、去る03.23(京パークス襲撃事件)に後藤と中井が見せた勇敢な行為に
敬意を表する為、英国から彼らに剣が贈呈された。中井は直ちにこれを装備し、金色の紐がついた帽子を被りながら
得意そうに闊歩した為、英国勢も大変愉快であったという。
更にその後、サトウは万里小路と長岡を連れ、馬で競馬場へと向かった。彼らはとても楽しそうだった。
中井と共に家へ帰り、彼にお茶を振舞った。中井からは(この時中井が知りうる)会津攻めの進捗と、
11.27に帝が東京に到着する事を聞いた。
11.06会津藩降伏
11.07ウィリアム・ウィリス、新潟に入る。8日間滞在。
150名の戦傷兵の治療と日本人医師の指導を行う。
北越征討軍では征討軍による無差別な敵軍捕虜の虐殺問題が見受けられ心を痛めた。
11.07サトウ、三条、東久世、長岡、中井と共に汽船に乗って江戸へと向かった。
この時中井の手違いで三条らを税関所に1時間も留め待たせる事になってしまい、彼らから使いの者が放たれ
サトウの元へ遣わされるまで気付かなかった。急いで現場へ戻ると、彼らは落ち着いた様子で座り
たばこを吸っており、謝る必要はないとも言った。サトウいはく『一部のヨーロッパ人とは大違いである!』との事。
(『中井の手違いで』というのが少し引っかかったのだが、読んで字の如く、三条らほどの高貴な人間が
一時間も待たされた事に怒る事も謝罪を求める事もしなかった事を言っているのだと思う。)
11.08サトウ、ミットフォード、勝を訪ねる。彼の妻は駿府へと出ていたが、勝は徳川家臣たちの為に雑用を行うべく残っていた。
先の通り70万石の明け渡しが進んでおらず、勝は家臣たちの為に11万石に相当する清水の土地を獲得したいと考えていた。
慶喜は亀之助に先だって駿府へ移った様だった。
10.04に榎本が艦隊を率いて『脱走』した際、フランス軍事顧問団のブリュネが同行したという話も聞く。
サトウ達は最近ブリュネが昇格したという情報を聞いたばかりなので、その信憑性を疑ったが事実であった。
ブリュネにはカサヌーヴという士官と他数名の兵士が同行したという。
その後、中井と会談。帝の到着に先だって、道路や橋の再整備や大きな門の建設が行われていた。
11.09サトウの護衛(旧幕府別手組)の一人であるサノ イクノスケがやってきて、江戸において外国人の護衛を続ける様
朝廷から命令があった事を報告し、護衛を務めていた16人すべてがこの任務にあたる事になったと改めて挨拶をした。
またサノは勝が話していた清水の領地についても聞かせてくれた。かの地は勝が言っていた理由を元に暫定的に
徳川へ与えられる事になり、サノらも含め帝に奉仕する事を希望するのならこの日(11.09)までに
その旨を伝えなければならないという事だった。中には以前よりも報酬が下がる者もいる様だったが、
殆どの者は同等かそれ以上の報酬を得られる事になるという。しかしその俸給はお金ではなく米の支給という形だった。
夜、サトウはミットフォードや長岡、東久世、中井と高輪熊本(肥前)藩邸へ赴き、ヨーロッパ風の食事をとった。
庭には壮麗な木々が植えられ大きな2階建てのホテルが建てられており町を一望できた。
(屋敷跡は東京都指定旧跡に指定され『旧細川邸のシイ(木)』は今も生きている)
熊本藩主細川もそこにおり、ふくよかで朗らかな人物であり、ハエを払う仕草をしてよく笑った。
11.10サトウら、横濱へ帰る。
11.15ウィリアム・ウィリス、新潟を発ち新発田へ向かう。
新発田に滞在する北越征討総督仁和寺宮嘉彰からの使者を通して、捕虜の虐殺問題などについて訴える。
翌日、仁和寺宮はじめ大参謀西園寺公望・参謀壬生基修・薩摩藩参謀吉井幸輔らと会見。
ウィリスの訴えは了承され、一方、さらに任務を一カ月のばして落城直後の若松、および柏崎への
医療従事を要請された。医師の任務が不偏不党のものでありわが身を挺して実践することが日英両国の
親善に役立つとの信念から、無給のまま要請に応えて若松まで足を延ばす事とした。
11.16諸外国代表と外国官・東久世、寺島による面談が行われ、6日に会津藩が降伏したという報告を行った。
会津父子は儀式用の装束を纏い、「投降」という字が書かれた旗掲げた家臣達が誘導した。
その後ろには動揺の装束を纏って剃髪した兵士たちが歩き、板垣達が待つ本陣へと向かったという。
城と武器はすべて明け渡され会津父子は街はずれの寺院で謹慎した。
総司令官の中村半次郎は城に入場した際、泣いていたそうだ。
公使達の中には旧幕府軍である会津が新政府軍を破り、イギリスが取った方針が失敗する事を願い者もおり、
彼らの顔色が悪くなっていく様子を見るのは痛快だったとサトウ。(フランスの事か…)
これをもって動乱は落ち着き、北陸で抵抗を見せる軍勢も間もなく投降するだろうとの見込み。
熊本藩家臣が作成した報告書が新政府による官報に掲載された。
・会津の武士764人
・下等階級出身の兵士1609人
・負傷者570人
・他の藩からの浪人462人
・女子供639人
・文官199人
・民間人646人
・藩主の個人的な侍従42人
・門番42人
・死者数(記載なし)
(当時全員が『幕臣』に取り立てられていた新選組はどこに加えられてるのだろう…)
11.19サトウ、スタンホープ大佐、絵師チャールズ・ワーグマン、公使館付医官シドールとフランス艦デュプレックス号で
朝食を取り、江戸へ向かう。アダムスとウィリアム・マーシャルは陸路で向かった。
到着するなりタケダシンゲンという医者がシドールに同行を願い出て、下谷にある藤堂屋敷に建てられた
軍事病院へと連れて行かれた。
11.20ウィリアム・ウィリス、会津若松に入る。
11.21アダムズ、ミットフォード、マーシャル、ワーグマンは吉原へと向かった。
建物の一部が西洋風の様式を好む日本人に合わせて改装されていた『金瓶楼』で盛大な宴会を開いた。
吉原近辺は外国人が入り込まない様厳重に管理されていたのだが、解放されての事だった。
11.22サトウ、高輪の自宅で盛大に宴を開催。
神明前から芸者を3人、太鼓持ちを2人を呼び、真夜中まで大騒ぎを続けた。
太鼓持ち達は外国人とその従者たちが船着き場で必ず起こす悶着を面白おかしく再現した。
サトウの護衛達も同じ様に余興として演じ、その精度には彼ら自身も満足した様だった。
みな大いに楽しんだので、褒美として上階へ行く事を許した。
(サトウの自宅の二階はサトウの寝室、日本風ゲスト用寝室があるのみである。
ただ二階へ行く事を許すだけではない気がする…女を抱いていいとかそういう事?いやまさかね…)
11...パークス公使からサトウ宛てに手紙が届く。
・27日に到着する予定の帝の行列を見る為に、泉岳寺前(公使館前)に台を設けて欲しい
・24日に東久世と共に横濱領事館へ来る様に
しかし日本人の礼儀作法からして帝の行列を見る為に台をつくるという事はあり得ない事であり
軍事病院に掛かりつけのシドールを通訳なしに残して行く事はできないと返答する。
11...サトウ、ワーグマンと共にシドールを訪ねると、藤堂屋敷が総合病院へと変貌していた。
明るい薩摩の老医師でF.F.F.シーボルト男爵と日本人の間に産まれた娘※と結婚した石神と出会う。
(※楠本イネの事だが、生涯独身であったとされるイネと石神が結婚した、或いはそれに関連する資料は無く
サトウの勘違いである可能性が高い。ちなみにイネとアレクサンダー・F・シーボルトとは異母姉弟であり
イネは先述の通り生涯独身であったが師匠の石井に強姦されて妊娠出産した娘タダがいる。)
昼食後、多くの日本人医師らと共に7.4上野戦争の現場検証を行いに黒門へと向かうが、門は目の前で閉じられた。
一時間ほど抗議したが扉が開く事はなく、サトウらよりも同行していた日本人医師たちの方が苛立っていた。
門には銃弾の痕が多数ついており、戦闘の激しさを連想させた。
その日は病院へ泊り、石神、山下両医師と楽しいひと時を過ごす。
11...サトウ、朝はとても寒かったが、医師たちと病院内を巡回する。藤堂大名の屋敷において公用に使用されていた部屋は
全て病室へと改装され鉄製のベッドに羽毛の布団が配置されていた。そこには足を切断された土佐の少年がいた。
この後中井と会う予定だったのか「(薩摩の)七左衛門と七次の兄弟がやってきて、中井といるのではなく
吉原へ行こうと説得されてしまった。シドールにミストゥラ・ヴィニ・ガリチを貰った後、探索の旅に出発した」
との事。(ミストゥラ・ヴィニ・ガリチとは滋養強壮剤の事である…つまり………約束破ってまで吉原行くぅ?)
吉原は田んぼの真ん中にあって、かなり広い敷地であったとサトウ。薩摩がよく利用している店で
少しさびれた家の二階に通され、楽しい雰囲気の中で酒の器が回された。夜が更け、金瓶楼へ行く事になった。
先日ミットフォードらも行った金瓶楼だが、ヨーロッパ風に改装された『みにくい建物』だった。
そこには数分しか滞在せず、すぐ最初の建物に戻ったという。そこでサトウ達はさらに飲み、遊び
「なんこ遊び」を楽しんでとにかくしこたま飲んだ後、石神を訪ねた。そこでまた同じことを繰り返し
芸者3人をつれて病院へ戻った。(めっちゃ飲んで遊ぶための滋養強壮剤だったってこと?)
11...翌日、シドールに別れを告げワーグマンと共に中井を訪ねたが不在だった。
ホテルへ向かい(どこの?日本橋か?)庭園で休んだが建物が汚く憂鬱になった。
この店は茶とたばこで休むのに1ドルという法外な請求をしたので、その金額を伝える給仕の者ですら慄いていた。
高輪の自宅へ戻ると、ジャパン・タイムズの編集長リカビーが帝の行列を見る為に到着した所だった。
11.16品川で一夜を過ごした帝が朝10時頃江戸を通過した。
ミットフォード、ワーグマン、リカビー、そしてサトウは、泉岳寺前の公使館(接遇所)前の空き地から
帝の行列を見守った。
行列に同行していた東洋風の服装の従者たちに混ざって、ぼさぼさ頭に西洋の粗悪な模造品の様な服を着た
汚らしい兵士が混ざっていたので、行列の秀麗さを損ねていた。
帝は黒漆の乗り物(鳳輦ホウレン。「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」を意味し、天皇の正式な乗り物)に乗り、
初めて見るものだったので大変興味深かった。
帝が通過する時は群衆が一切沈黙した事も強く印象に残っている。
宇和島の老公・伊達宗城はその乗り物と帝が実際に座っていた椅子の間を馬に乗って進み、サトウ達に気付くと
友好的にうなずいてみせた。
11...リカビーは一連の行列に関して大変優れた新聞記事を「ジャパン・タイムズ」に掲載した。
午後、リカビーとサトウは楓並木で有名な品川の川崎屋へ移動し、酒を飲みながらこの店の少女達に
昨夜ここに宿泊した備前の藩主についての冗談を言いながら時を過ごした。
店は西武からの兵士でいっぱいだったが、彼らは殆ど外国人を気にも留めなかった。
また、サトウがこの様に江戸へ出る時には野口、別手組の護衛が4人から6人ほど必ず付き添った。
11.28パークス公使と香港ヴィクトリア司教のオルフォード博士が江戸に入る。外国官庁舎において伊達と東久世による
ヨーロッパ風の接待をうけ、そこには英国留学経験のある町田久成、森有礼が同席していた。
11.29サトウ、ミットフォード、中井を訪ねる。町田と熊本藩の山口範蔵、庄内から戻って来たという人物と会う。
庄内藩は4日に降伏しており、函館在住の米国人と英国人が見物していたとの事。
中井は東京府判事となっていたが、現地の役人が彼らに従おうとせず、商人らを扇動して決定事項を覆そうとしたので
辞表を申し出たところであった。
11.30サトウとワーグマン、横濱へ帰るために遠く生麦村まで足を延ばし、小舟に乗って外国人居留地へ向かう。
品川の川崎屋で薩摩の野津七左衛門と伊集院、黒羽の男2人、宇都宮の男1人と鉢合わせした。
酒と日本料理が大量に消費され田舎なまりの日本語が飛び交った。薩摩の者達は故郷へ帰るところだとの事だった。
その後、梅屋敷―江戸から川崎の船着き場までの道中半ばにある大変心地のよい休憩地―では
大山巌と再会する。彼もまた鹿児島へ帰るところだとの事だった。惜別の杯を交わし川崎のホテルまで送った。
この頃薩摩と肥後の間で一悶着が生じていた。肥後は有馬・筑前と結託して薩摩に挑戦するかもしれないと。
薩摩の兵士たちが多く故郷へ帰っているのも、実はこれを受けての事であった。
また噂と言えば会津が降伏したのは薩摩が国の東北部から兵を引き、帝を江戸に招くと言う条件を飲んだから
といったものも流れていたが、恐らくこれはフランス公使館が広めたものだろうとサトウ。
12.02ウィリアム・ウィリス、会津若松を発ち帰路に就く。
従軍旅行中、600名の負傷者を治療し、その他約1000人の患者に手当てについての処方を指示した。
この内訳は新政府軍の兵士約900人、会津兵約700人であった。
12.03サトウ、横濱から再び江戸に入る。横濱からは籠にのり川崎からは歩いた。例の梅屋敷において、
かつて横濱の奉行であった水野千波に遭遇した。
(駿府から?)英国軍艦で下田まで送られ、急いで江戸に戻る途中だとの事だった。
奉行であった彼はかつて大勢のお供を従わせ公用人の乗り物(長棒)に乗り込み「ひれ伏せ」という意味の
「シタニロ」の号令を従者にかけさせながら移動する事ができたが、今となっては一人のお供もおらず
古くておんぼろの籠に乗っていた。しかし彼はそんな状況であっても朗らかであった。
12.04下谷にある総合病院へシドールを訪ねたが、越後からの負傷者が到着し始めており彼は手一杯だった。
ウィリスは会津の負傷兵手当の為に越後から若松へと向かっており、降伏した時は600人ほどが城内にいた。
フシミと名付けたサトウの新しい小型馬は勝が江戸を離れ駿府へ向かう前に贈ってくれたのだが、とても良い馬だった。
道路に群がる新政府軍の者達はサトウの黒いシルクハットを羨ましそうに見ているという印象。
12.05サトウ、再び病院を訪ね、石神・山下の二人と夜を過ごす。彼らは病院長に任命された前田杏斎に対する不満を
ぶちまけ、患者の一人が「首をかき切ってやりたい」と言っていた事まで暴露した。彼は仕事をせず
加護に乗って江戸の散策にかまけているという。
この時サトウは外国人の医者が得ている様な社会的地位を、教育の十分でない日本人の『薬剤師』に
与えてはならないと考えた。
12.08榎本武揚ら、函館及び五稜郭を占領
12.09サトウ、町田と昼食を取る為にホテルへ向かう。中井、大久保、吉井と合流。吉井は1日に若松を出発し帰還していた。
ウィリスがいる会津はすっかり雪深い季節となっている様である。
庄内もほぼ平定されており、長崎イカルス号事件の犯人が見つかったと言う情報も届いた。
犯人は筑前出身で9人。しかし事件の前は英国キング提督をとても親切に持てなした筑前が何故この様な
事件を起こしたのか理解できないとサトウには届いている。
「金札」という紙幣の事が人々の間で話題になっていたが、税金支払いに対応していなかった為に流通しないという指摘があった。
これに対し中井は否定したが、銀行制度を整備し三井の様な大企業に権限を与えて金貨および金塊を貯蔵させ、
それを元に紙幣を発行させるやり方があるかも知れないと言った。
いずれにしても徳川が殆ど財産を持っていなかった事を知った新政府にとってこの事は非常に重要な問題であった。
幕府は帝に対しても多くの予算を割いていなかったので、どちらも財政難なのであった。
12.11サトウ、町田の訪問を受ける。『徳川の海賊(榎本ら)』が函館に上陸したと聞く。
彼らにはフランスの軍事顧問らが随行しており、中立宣言を破った事にフランス公使館は煩わしく感じているだろう。
函館英国領事館からの報告では「外国人遺留者達は近くで戦が起これば丘の上へ逃げなければならず、
それでも追い詰められた時には、力の強い勢力に身を任せる他ない)」とある。かなりの緊張状態にあった。
12.13サトウ、中井の訪問を受ける。新しい紙幣について、外国人に怒りうる問題について話し合う。
トーマス・グラバーは紙幣の流通に賛成の意を表明していたものの、自分達商人は通貨の専門家ではないとも強調。
紙幣は兵によって使用され、幹線道路の店や行商人への支払金として受け取る様強制したが、
民間で使用されていなかった(使い道がなかった)為流通しているとは思えなかった。
その後は現在の外交について話し合った。中井は以下の事を述べた。
・日本人の間にはいまだに外国人に対する根強い不信感が存在する事は確かである。
・諸外国の代表を住まわせておく事は必要であり我慢する必要があるが、必要以上に関わり合うべきではないと。
・新政府にとって現在外国公使達が横濱に住んでいる事はこれ以上ない程喜ばしい事であり
いかなる案件に関してもその意見を聞く事は現在まったく検討していない。
日本政府にとって各国公使とは大名の留守居の様な権限を持つものだと思われている様だとサトウ。
また、横濱で享受できる快適な住居と生活、そして安全は、横濱が外界から切り離されているからこそ成立する。
そういった意味では横浜は香港と同じであった。
その後、金杉の町長と3,4人の役人と共に、能と狂言を見に行った。(板倉町の金剛太夫という伝統芸能の劇場)
観客の中には会津藩士の南寅次郎がいた。4月に広沢と共にサトウを訪ねて来た若い会津の侍だ。
サトウのお気に入りは狂言だった。
12.14函館在住のイギリス人およびフランス人保護の為、サテライト号とヴェヌス号が横濱から出港。アダムズが向かう。
12.15会津藩主父子はこの日、江戸の郊外にある千住に連れてこられた。松平容保は鳥取藩が、松平喜徳は福岡藩が
監視する事になった。
12.16諸外国の代表に対し、内戦の終結を宣言(下の仁和寺宮帰東と日付逆?)
12.17越後と奥州で新政府の総司令を務めていた仁和寺宮が江戸に到着。
12...サトウ、以前日本語の書き方を教わった手塚の訪問を受ける。出石藩の財政難などについて聞く。
12.18函館の旧幕府軍が当地を占領し、新政府側の役人たちは逃走した。領事は強い危機感を抱いた。
12.21横濱英国公使館(高輪の公使館は再度横濱へ移った?)に伊達、東久世、小松、木戸、町田、池辺が集結。
・反乱軍との交渉の為に山口範蔵をイギリス軍艦に乗せ派遣させてほしい
→局外中立の事もあり出来かねる。書簡を持たせて使者を派遣するべき。
→日本側うなずくが、本当にそうしょうとしていたのか疑わしい態度。
・キリスト教徒に関して長い議論が交わされる。
→日本側は理性的に話を進めたが、木戸が意見を述べた内容にパークス公使は我を失い
サトウが訳したくないと思う程乱暴な言葉を吐いた。木戸は閉口した。
・最終的に、改宗者を恩赦する旨を伝える帝の覚書を諸外国公使に渡す事で同意。
12.22池辺がやってきて、キリスト教徒の事などを話す。彼は信者であった。
午後、パークス公使と共に先日の伊達らの訪問返礼として元横濱奉行の公邸へいざなった。
再び長時間にわたって議論が交わされ、特にキリスト教徒と代議士制度が擬態に上り、
更にパークス公使は強い口調で将来の首都について問い詰めた。(首都は東京になる)
また、伊達宗城は先日パークス公使が用いた暴力的な言葉遣いについて大変丁寧な「蒸し返し」を行った。
・伊達:会話が白熱すると議論が交わされていると思いがちだが実際の所は我を失っているだけである。
勿論この世の全ての人間が自分の意見を述べたいと考えている事は理解しているが。
→パークス:あの様な態度を取ったのは日本の人々が自分たちの為にならない事をしているのが
とても残念に思えたからだ。
→伊達:時折叱って頂ける(腹を割ってもらう)のは悪い事ではない。
この会話の後、公使も『お考え』になるところにあった様で、帰路馬車に同乗していた際に言葉を漏らした。
・パークス:もし私が少々強い口調を用いなければ、彼らは他の公使達に対してキリスト教の話をしなかったと思う。
→サトウ:確かにそうかも知れませんが、木戸の心はいたく傷付いたと思います。彼は硬い表情で
黙り込んでしまいました。
→『P(パークス)』:そう思うかね
→サトウ:残念ながら彼は侮辱されたと思ったでしょう。包み隠さず申し上げますと、この間の様な
やり方が上手くいく事もあるかとは思いますが、日本人達は貴方と対談する事を忌避する様になるでしょう。
この会話を経た公使は、明日木戸を朝食に誘いたいのでできるだけ丁寧な招待状をしたためて欲しいと言った。
12.23(記載はないが恐らく木戸は招待に応じ、問題なく朝食を共にしたのでしょう。木戸とサトウの関係は良好。)
12.29ウィリアム・ウィリス、会津から帰還。アダムズ、函館から帰還。


1869年(明治二年)
01.01東京開市、新潟開港
ウィリアム・ウィリス、横濱副領事に任命される。
01.02サトウ、江戸高輪の自宅に戻る。
01.04伊、仏、蘭三公使、東京で天皇に謁見
01.05英、米、晋三公使、東京で天皇に謁見
パークス公使、イギリス海軍大佐オーシャン号艦長スタンホープ、第九連隊第二大隊指揮官ノーマン大佐、
他、海陸両軍の士官を多く連れて行きたいと要請。事前準備されていた参列者のリストには12名が記されていたが
急遽その数は倍に増えた。艦隊からは海兵百人が護衛として派遣された。参加者、特に公使館や領事館の職員の
服装は各自バラバラだった。雪が降り、みぞれに変わり、城に到着する頃には雨になっていた。
しかも馬車ではなく馬で移動していた。
謁見は桜田門の内側、西の丸宮殿で行われた。一つ目の橋では騎乗を許され、二つ目の橋で下馬した。
町田が一行を出迎え、中庭を通って控室へと案内された。
徳島藩主・蜂須賀茂韶、三条実美、東久世通禧、中山大納言、大久保一蔵が現れ社交辞令を交わす。
暗い部屋へ案内され、大きな天蓋の中に座る帝に拝謁した。女王陛下の健康を訪ねる言葉から始まり、
江戸において公使を続ける事を祝福する言葉をつぶやいた。これに対しパークス公使も丁寧に返した。
謁見は5分も掛からず終わった。
その後、以前公使館がありこの時には日本の外交担当機関庁舎別館になっていた高輪の建物へとぞろぞろと移動。
(どっちの高輪公使館?泉岳寺前?それともオールコック時代の東禅寺…?でも東禅寺は『寺の一角』だから
政府の機関が間借りする事は考えづらい気もする。という事はやはり、もともと公使館の為にと建てられた
泉岳寺前の二棟平家の方か?英国『公使館』は横濱へ再度移転したって事か。いつよ…)
大きな宴が開かれ、大変優れた日本風の余興が行われ、ホテルから昼食が運ばれた。
サトウがいた部屋には蜂須賀と東久世がおり、アメリカ公使とプロイセン臨時代理公使もいた。
東久世は女王、大統領、プロイセン国王全員の健康を同時に願って乾杯し、外国人は帝の健康を願った。
01...勝は駿府から戻っていたが、1月の初旬に『函館の海賊』についての交渉下準備を行う為再度駿府へと向かった。
01.08サトウらと特に親しかった蜂須賀と、彼に随行していた若い公家数人に対する余興として、
横濱駐屯地の英国兵士視察を行った。
01.09サトウ、パークス公使と共に浜御殿という旧幕府が所有していた海沿いの宮殿へ馬で向かう。
岩倉の他、木戸、東久世、町田もいた。社交辞令がいくつも述べられ、岩倉は特に英国が新政府を承認してくれた事に
強い感謝の気持ちを表明していた。
帝はこの後、婚礼と亡くなった父(孝明天皇)の葬儀の為一度京都に戻る事になっており、これが終われば
再度東京へもどり、一大会議を開催するつもりだという。(日付は未定)
パークス公使は、その事は各国の公使にも通達した方がよいと助言した。
次に函館の様子と局外中立宣言についての話題へと転じる。岩倉は一部の公使達が帝を元首として認めているにも関わらず
『函館の海賊』を交戦戦力として認識している事を極めて雄弁に非難した。
パークス公使、そしてフランスのウトレ公使は榎本達を交戦相手とは認めていないので、
中立宣言が必要な状況は発生していない認識であると告げ、オランダの副領事ファン・ポルスブルックも同じ考えであった。
岩倉はアメリカ公使がそれに同意でない証に、局外中立を根拠に軍艦ストーンウォール・ジャクソン号を手放さない事を指摘。
その件に関しては元々購入受注に関する注文書にサインをしたのが絵の元であった為、諸外国が局外中立宣言をしていなかったら
寧ろ榎本の手に渡っていたであろうとパークスは返し、そういった意味も局外中立宣言事体は新政府にとって
大変有益な事だったのだと言った。事実であった。
大変美味しい昼食が振舞われ日が暮れた頃に、互いの態度に満足して別れた。
01.10サトウ、シドールを訪ねる為に病院を訪ねた。そこにはウィリスもいた。
彼は外国人居住地のある築地からここへ向かってきたのだが、質の悪い輩に絡まれたと言っていた。
新政府が総合病院を建てる手助けを必要としていたので、ウィリスを一年間雇用する様促すにはどうすれば良いかを話し合った。
その後シドールを公使館へ呼び戻す必要を石神へ説明し、東久世が協力を求めているのであればウィリスに依頼するべきだと伝えた。
帝は日本の負傷兵を治療してくれたウィリスに感謝の意を込めて美しい金襴を七反贈り、東久世も丁寧な手紙を送った。
01.12榎本の開陽丸が舵を船尾に括り付けた状態で函館を出発したと情報が入る。船は、まだ戦闘が続いている江差へ向かっているとの事。
戦費と食料も不足している上、アイヌの者達も新政府軍である松前に加入しているらしい。
01.13サトウ、キリスト信者である池辺を訪ね、興味深い話をした。柳川藩中老吉田孫一郎と出会い、キリスト教の聖書について語り合った。
「片方の頬を叩かれたらもう片方を差し出せ」という教えについて、会議におけるパークス公使の暴言について触れ
「彼が怒り狂っている時、もう片方の頬を差し出すどころか部屋から蹴り飛ばしたくなる」と言ってのけた。
01.15朝、サトウは公使から大事な会議があると呼び出され、急いで横濱へ戻った。愛馬フシミは20マイル(およそ30㎞)の道程を
一度も休憩することなく二時間半で踏破し、会議に間に合う事ができた。
この場で岩倉が言ったことは、先日と同じ局外中立についてだった。パークス公使は返答には各国熟考が必要と答えた。
次いで岩倉はこれまでの政治的状況について振り返り話始めた。そしてこれまで諸外国との関係は商業的なものに限られていたが、
新政府は今これを改善させ、ヨーロッパは他の文明国同士の関係として同じようなものにしたいとも告げた。
これを受けパークス公使は、先の局外中立宣言のに掛かる話についてなるべく早く返答したいと思うと告げた。
01.18パークス公使、各国公使らと局外中立宣言の解除について会議を行う。
01.19パークス公使、江戸に入る。サトウと共に会議予定地である浜御殿へ行くのだが門が閉まっており、引き返した。
後から森有礼が慌てて追いつき、公使に戻る様懇願したが「岩倉が来るべきだ」と拒否した。
森の手違い等があり、岩倉らが横濱に現れたのは夜7時過ぎであった。
諸外国公使の会議の結果を尋ねるが、パークス公使は『まとまらなかった』と返答。内戦の終結を宣言する事自体
問題はなさそうなのだが、依然としてストーンウォール・ジャクソン号を米国が手放したくない様で、
そのために中立宣言の撤回を拒んでいる様だと。
岩倉は、帝が返答を求めているとして5日間留まると言い、更にこう付け加えた。
・かつて日本においては戦争が12年続く事も珍しくは無かった中、六か月で平定し力を示す事ができた。
・駿府と水戸の徳川に反乱軍の残党掃討を命じ、これに成功すれば慶喜を恩赦し名誉の回復を認めると告げた
・勝にも合っており、妥当な処罰であれば徳川は服従するだろうとの事
・譲歩を見せる新政府であるが武器や軍艦を全て明け渡さなければ降伏とは認めない。もし反乱軍が頑迷な態度を
取り続ければ武力によって服従させるしかない。
パークス公使は包み隠さない物言いを気に入り、好意的な態度で応じた。
反乱軍がロシアと手を組まないだろうかという警戒する岩倉に、それは考え難いだろうと述べた。
対談は三時間に及び、岩倉は礼を重ね、また浜御殿で待たせてしまった事を詫びる。
パークス公使は他国の公使を同調させ、25日までに返答できる様出来る限りの事をすると約束。
そしてパークス公使はその日の内に「ジャパン・ヘラルド」へ中立宣言撤廃へ向けた意思表示を掲載するとした。
彼の腹を決めた行動にサトウも満足していた。
01.20朝8時、帝が京へ戻る為高輪を通過。
01.20サトウ、岩倉から美しい漆塗りの用箪笥を贈呈される。様々な場所で翻訳の業務を行った事への返礼との事。
01.21江差で開陽丸が座礁しどうにもならない状況になったという報告が入る。
01.21会津及び奥羽列藩への処罰が公表。
・会津父子、全領地没収
・仙台、62万5千石から28万石へ減らされ、新たに宇和島の伊達宗敦が藩主となった。
01.22各国公使、中立宣言撤廃についての会議が行われる。
01.23イタリア公使、来日。会議に参加。(『こざかしい』と付けている)
サトウ、会議の進捗についてパークス公使から手紙を受け取る。
・伊公使が『中立撤廃のつもりがあるのはパークス公使とポルスブルック(蘭)のみである』と述べた。
・内戦が終結した事を告げる合同宣言書には合意しているが、一度に全員提出できる様時間が必要である。
・アダムズとフランス公使館書記官モンテベッロと岩倉の対談席を設けて欲しい。
アダムズとウトレが函館へ赴いた際、榎本軍から嘆願書渡してほしいと要請されていた為。
このパークスからの書簡の翻訳をただちに行い、送信した。
.....東久世から2時(14時)に対談が可能だと返答があり、サトウとミットフォードは合同宣言書の写しを持って木戸を訪ねた。
彼は公使達が「若干の遅れ(全員で提出する為の時間)」を求めた事に不満を示していたが、これに対しサトウは
彼らに中立撤回をさせるにはある程度の譲歩も必要だったと説明した。例え若干の遅れがあったとしても、
たった二人だけの公使が認め他の公使達が認めないといった形になるよりはよいだろうと。
すぐにアダムズが作成した最終的な合意に関する覚書が届き、内戦と諸外国の中立状態の終結を『官報』の記事で
公表するのがいいだろうと提案した。
サトウ、岩倉・東久世と対談中のアダムズ、モンテベッロ、デュブスケ(フランス日本語通訳)の下へと向かう。
合同宣言書が岩倉に手渡されたが、彼もまた「若干の遅れ」に対しすぐさま問い質した。
アダムズらはその仔細について話す権限がないと告げたが、具体的な日時の通達を要請する岩倉に対して
可能な限り働きかけると述べた。これを見ていたサトウは岩倉側に控えていた山口範蔵に
「この件に関して木戸は承知していると岩倉に伝えて欲しい」と耳打ちした。
その後、アダムズ達が榎本から受け取った嘆願書が岩倉へ手渡された。公使達はこの嘆願書について
その内容について意見を述べるつもりはなく、彼らの弁護を試みるつもりもない事を強調した上で
東久世が反乱軍の意思や思惑を知りたがっていたという事なのでその手助けの一環に過ぎないと明確にした。
岩倉は嘆願書をざっと読んだ後、公使達に感謝の念を表し、またこの件について干渉しない事を明確にされた事に
満足の意を表した。しかしこの嘆願書を公使達の手から受け取る事は出来ないとし、更に、この嘆願書は徳川を通して
提出する様に反乱軍へ伝えて欲しいと依頼してきた。アダムズ達は徳川に接触するつもりは一切ないと言ってこの申し出を断り
フランス側の問答がしばらく続いた後、岩倉は一時的に嘆願書を預かり明日までに返事をよこすと言った。
01.25午後、パークス公使からアダムズへ書簡が届く。岩倉へ伝えよとの事である。
・嘆願書の受領がなされなかった事は公使達にとって意外であった事
・合同宣言書の「若干の遅れ」については、書簡に記されているままの意味であるという事
01.26サトウ、体調不良
朝10時、岩倉へ面談を要請書簡を東久世に送信するが、その返事が届く前に岩倉から書簡が届く。
・嘆願書を受け取る事はできない。
・中立宣言の件で明日横濱へ向かうので、英仏公使と他の案件についても話す機会があるだろう。
しかしその直後に東久世通禧から返事が届いた、
・岩倉は出立日付を1日ずらす事にしたのでサトウ達が提案した日時(本日)に面会する事ができるとの事。
その後岩倉との面談時にはサトウが体調不良の為ミットフォードがアダムズの通訳を行う事になった。
・岩倉は嘆願書を受け取ってもいいが内容を見る事なく反乱軍へ突き返すつもりだとの事。
・公使達には「若干の遅れ」が意味するところを明確に説明する様要請するつもりだとの事
・英仏公使二人に対しては嘆願書を届けてくれた感謝状をしたためた。
嘆願書を受け取らない理由はその内容があまりにも不躾であり「自分達は蝦夷を平和的に統治するつもりであり
これを認めなければ新政府に戦いを挑む事になる」などと記されていたからであると岩倉は言った。
これは公使達にとって寝耳に水の事であり、この様な内容の嘆願書を手渡してしまったのは少し体面が悪い事だった。
01.27サトウ、岩倉に随行して横濱へ向かう。公使達との会議において岩倉は「若干の遅れとは何か」と再度訪ね、
中立宣言を出した時は直ちに宣言を行ったのに何故こうも躊躇するのかと詰問した。
公使達は返答をまとめる為に別室で相談を行い、会議を再開させると「14日以内に宣言する」と告げた。
岩倉はこれに同意するほかなく、論戦に勝利したパークス公使はこれを喜んだ。
岩倉はこの後汽船キャンスー号に乗って志摩へと向かった。
東久世曰はく、日本の暦の新年(15日後の明治二年元日)の時期に帝が東京へ戻り、その時首都となるとの事。
しかしまだ民衆には公表する方針ではないとも。
また彼は地図を広げ、金杉橋からホテルまでの水辺で、外交担当部局庁舎のある尾張屋敷をのぞくすべての土地を
公使館を建設する土地として用意するつもりと告げた。(浜御殿・汐留のあたりか?)
パークス公使以外の公使達はその様な場所をあてがわれる事に難色を示していたが、パークス公使は
日本人の言う事は全てうそだと思い込む悪い癖を払拭しつつある様に思われたと、サトウ。
01.28サトウ、江戸に戻る。
鮫島誠蔵からの手紙が届いており、「薩摩領主は貴君の厚意と仕事に対して感謝の念を述べる様私に仰せつけた。
領主は二つの箱を贈呈する。その他のものはわずかながらではあるが大久保、吉井、そして私からの感謝の念を
伝えたく贈るものである。我々が過ごした日々を記憶に留めるものとして、どうか受け取ってほしい」とあった。
藩主からは黒漆の台に載せられたくじゃくの形をした銀の船(宝船)の工芸品と、白い絹の織物が二反。
吉井からは清水の陶磁器を二つ、他の者はそれぞれサテンの金襴を二反ずつ贈ってくれた。
01.30会津や仙台など北陸大名達への処罰をサトウが翻訳したものが「ジャパン・ヘラルド」に掲載された。
この公文書は『尊幕家』と呼ばれていた幕府を指示する一部の外国人たちを完全に狼狽させた。
02.09六カ国公使、局外中立撤廃を告示
02...日本の年末。サトウ、日本の作法に則り、高輪自宅の使用人たちに対しその地位に応じて『御歳暮』を贈る。
02.11日本の正月。
サトウ、高輪の自宅にて『日本の作法に則って』新年を迎えた。
・米のケーキ(餅)にミカンとシダを添えたものを準備し、乾燥させた葉っぱを書斎の床間からぶら下げた。
・訪ねて来た人と雑煮(揚げた餅をひたすスープ)を食べる時の為に絹の座布団を用意。
・新年の1日目には餅を一個、二日目には二個、三日目には三個食べる。
・屠蘇(とそ)と呼ばれる新年に振舞われる飲み物(甘い酒に香辛料を混ぜたもの)も提供する。
・この屠蘇を、上から下へ徐々に狭まっていく陶磁器のコップを台に載せ、それに注ぐ。
・家の使用人たちがかわるがわる訪ねて来て、新年を祝い、御歳暮を貰った事を感謝した。
02...(三箇日中か?)あくる日の夜、サトウは護衛や別手組達、公使館筆記役の小野清五郎、ミットフォードの教師長沢、
家の使用人達も招待して宴を催した。サトウとミットフォードは上座に用意された白い金襴の座布団に座り
客人たちは部屋の両側と下座に並んだ。本来であれば主催者は座布団に座るべきではないのだが
サトウやミットフォードが膝が硬い為申し訳ないが了承してほしいと言った。
・少々真面目な話をした後、酒が運び込まれ、レストランの女中が夕食を運んで来てからは楽しい催しとなった。
・芸者、野口の妻、横濱の大変賢い少女もやってきた。(大変賢い少女って…?)
・皆おどけて踊り、言葉あてをして遊び、歌い、新年に行われる踊りの一種である「萬歳」もやった。
・とてつもない量の酒が飲み干され、深夜0時には各自満足した様子で去って行った。
02...アレクサンダー・フォン・シーボルト(23)、再来日。(民部大輔パリ万博使節団通訳、賜暇を終え)
ハインリヒ・フォン・フィーボルト(17)、来日。(アレクサンダーの弟)
サトウ、シーボルトの期間を受け、賜暇の取得を申請する。本来ならもっと早くに申請できたのだが
サトウの代わりを務められる人物がシーボルト以外に居なかった為、帰還を待っていた。
02.14サトウ、シーボルト、紀伊屋敷に住む勝を訪ねる。
勝は函館の反乱軍は降伏するだろうと見ていた。
勝から脇差を贈られ、何度も惜別の念を告げながら別れた。
この紀伊屋敷の離れには紀伊家家臣の竹内老人も同居していた。彼は大名屋敷の間で回覧されていた報道や
書簡の写しをサトウ達に提供してくれていた。彼にも惜別の言葉をかける為、訪ねてお茶を共にした。
そこでは紀州の高名な藩士であった伊達五郎(伊達宗興。陸奥陽之助の義兄)と出会い、彼にも別れを告げた。
02.14サトウら、帰宅してすぐまたでかける。
東久世が送別会としてホテルで夕食の場を設けてくれていた為。
サトウ、ミットフォード、シーボルトの他、備前岡山藩主池田、公家大原侍従(重実)、木戸、町田、森、
語学学校(幕府が開設した蕃所調所)の教師で最近江戸において刊行された新聞編集長神田孝平
宇和島藩士都築荘蔵(温・あつし)が招待されていた。とても心地のよい宴だった。
・備前の若い藩主は丁寧に挨拶をし、この送別会をきっかけにお見知りおき願いたいと述べた。
・サトウは名誉なことに東久世の左側にいる事を許された。
・夕食後、彼らはサトウの健康を願って大量のシャンパンを飲み干し、後悔が快適なものである様祈った。
・政府から金の鎖がついた時計を6つ贈られた
・都築は伊達宗城の名義でしたためられた惜別の手紙を手渡し、それとは別にハーツレット条約集を一部
手配できないかと訪ねて来た。
・町田、個人的な護衛達、木戸など様々な人からも手渡された。
・夕食の後、木戸は内密に、朝鮮の港を開く事が日本にどの様な影響をもたらすかと聞いて来た。
→実利は少ないだろうが朝鮮の人々の目を国外に向けさせるという人道的なメリットがあるだろうと答えた。
他。(p576)
02.15サトウ、江戸とこの自宅に長い別れを告げる。
公使館の護衛を務めたロンドン騎馬警官たちの前を通ると、警部とその部下たちが快適な旅路を祈ってくれた。
野口、ミットフォードの教師中沢、個人的な護衛を務めた4人は中継地点の梅屋敷まで一緒に来て
そこで惜別の杯を交わした。
東久世はサトウの出発を惜しむ手紙を送り、帝も円滑な外交関係を樹立する上でのサトウの功績に対して
感謝しており、大きな漆塗りの用箪笥を贈呈したいと述べているとの事だった。
木戸もサトウに手紙を送り、ヨーロッパで日本について何か見聞きする事があれば何でもいいので
教えて欲しいと依頼された。また、手紙をくれれば必ず返信するとも約束し、快適な船旅と
英国に無事に到着できることを祈っていた。

02.24アーネスト・サトウ(26)、賜暇により帰国
P&O社が所有するエドモンド船長の汽船オタワ号(814トン)に乗船し、横濱から出港。
パークス夫人も帰国するので同乗しており、イングランド人社会の厚意で楽団が「home sweet home」を演奏した。
錨が上げられ、涙が目に溢れるのを感じた。
好きな音楽を聴いているからなのか、6年半もの間とても楽しく過ごせたこの国を離れる事が惜しかったからなのか。
そのサトウのかたわらには、忠実な会津の侍、野口富蔵がいた。