アイテム年表
※ネタバレ注意
重大なネタバレに関する諸設定には添削をしておりますが、匂わせはありますのでご注意下さい。このリストは初期の覚書であり未完成の為、既出の小説や設定資料等との比較内容に相違がある場合があります。
・桜清丸
「オウシンマル」。月椿苑(幽世)で出会ったルシファから贈られた刀。月椿苑にて、満月を写し込んだ桜のはなびらが流れる無垢なる大河から取り出されており、人智を超えた奇跡の結晶として生者の運命・定めを断ち切る(解き放つ)力があるが、使い手であるはつみは勿論、これを河から取り出しはつみに授けたルシファ本人ですら、この時には知らない事実なのであった。ただ、刀が秘める奇跡の力は神気として感じられる事が多々あり、中には刀身に映し出された水面にたゆたう桜模様を見る事ができたり、あるいはその波動を熱として感じる人もいる。具体的に知覚できない人々にも、『桜吹雪の最中にある様な趣を覚える』といった錯覚としてその神気を感じられる事がある。
詳細
幕末・土佐においては、肥前忠吉の銘が入った古刀で最上大業物と評価されている。盗難履歴はないが販売履歴もない。土佐にトリップしたはつみが記憶喪失の身元不明人として山田獄舎へ出頭・詮議を受ける事になった際、「唯一の手荷物」として一度藩に押収された。だがそうなる前日、一番初めに興味本位から桜清丸を検分した坂本権平は『肥前忠吉』の銘を見つけて腰を抜かしかけている。更に権平の見立て通りであれば、場合によってははつみの身元は極めて高貴な出自である事が予測されるとして『慎重に鑑定を』と藩に願い出ている。数日後、訳あってこの件に絡んだ乾退助と坂本龍馬が佐賀藩の八代肥前忠吉の元へと訪れ『正真正銘、徳川幕府初期の頃に鍛えられた肥前忠吉』とのお墨付きを得たが、この刀には別件があり、直接はつみとは関係がないとされたものの、当時の駆け出し刀職人と隠れキリシタンによる意外な事実背景が見えて来た。乾と坂本の詳細な報告により拘留軟禁状態から釈放され藩に押収された桜清丸も戻ってきた頃、はつみは倒れてしまう。乙女の夫であり藩医でもある岡上樹庵は「気鬱」、身に覚えのない事で拘留や軟禁の目に遭い発症した心の病が身体に影響を及ぼしていると診断したが、実際はそうではない。月椿苑にてルシファから「桜清丸を手放さないで」と言われていた様に、已むを得ぬ現実的な問題が生じていたとはいえ桜清丸を手放していた期間が長すぎた為に、本来桜清丸によって守られるはずであった『異次元に存在するはつみの魂』がこの幕末の世界・次元において丸裸のまま摩擦を受け続けた結果なのであった。異次元からやってきた存在は、その次元では異物でしかない。無垢なる桜清丸はこの次元にはつみを定着させるまでの拠り所であり、それを切り拓く為に必要な存在なのである。
このように、桜清丸はそれを手にする人物、或いは手にした人物の意思によって、その対象となる者の在り方を変える力を持つ。その形は希望を託す庇護であったり、運命の糸の解放、決別であったりと様々なのである。はじめはそういった事など知る由もないはつみであるが、幕末に訪れた数奇な運命を紡ぎ、目の当たりにする「歴史」と「今」の真実が彼女の思考にとある気付きを与えるのも、不自然な事ではないだろう。
・ルシ(ルシファ)
珍しい白羽のハヤブサ。赤と青のオッドアイをしており、ロザリオをかけている。ルシファの仮の姿。 幽世である月椿苑からはつみと桜清丸の神気を追いかけて降臨したルシファであったが、桜清丸を取り上げられたはつみが消えかけるのと同様に存在する力を失いつつあった。彼とはつみはこの時代にあって一心同体のような関係であり、はつみ無くして彼の『希望』が叶えられる事はない。 消えゆく事態を察したルシファは最後の力を振り絞りってハヤブサの姿となり、はつみの為に行動を起こそうとする乾や龍馬らに願いを託し、彼らが向かう龍河洞へと導く。詳細
ハヤブサは様々な宗教において「指標」「導くもの」とされ「太陽と使者の連絡係」などとも言われる。特にキリスト教では、かつてイエスの現世での姿の表現ともされた。ルシの姿になってからは言葉も話さないし野生の狩猟などを行っている様子などを見るとルシファとしての人格は薄れてしまった様にも思えたが、非常に知性が高く、自由に空を飛びながらも必ずはつみの事は見守っている様であった。はつみの上空を旋回して周囲にいる人物に報せを出したり、はつみが望む人の元へと手紙を運び戻ってくる事も、必要であればその鋭く強靭なくちばしと鉤爪で敵を急襲する事もできる。はつみ以外の人に懐く事は殆ど見られないが、はつみの危機に際しては遠慮なく助けを求めて飛びつくなど、人間に対して恐れている様子もない。極めて忠実なはつみの相棒であったが、彼女の歩みが運命の深みへと向かうにつれて、ルシやルシファの失われていた記憶も呼び起こされていく事になってゆく。
全てが終わった後、横濱のはつみの屋敷敷地に建てられた「天桜神社」にて総司の鳥笛と共に祀られた。櫻清大学開校の折には『全ての人へ示される慈愛の精神と知性と多様性』の象徴として白いハヤブサが用いられ、多くの学生たちを導くシンボルとなった。
・天狗の飲み水
天然の鍾乳洞である龍河洞の奥には綺麗な湧水が沸いており、実際遥か昔に何者かがここに住んでいた事を思わせる壺のようなものが鍾乳洞に包まれ現存している事もあり、地元民からはここの神秘的な湧き水を『天狗の飲み水』として病魔退散等のご利益があると崇められていた。ただしこの湧き水の場所までの道のりは極めて暗い上に険しく、洞窟内では滑って岩肌に致命的な突撃をしてしまったり鍾乳洞のとっきに刺さり死亡に至るなどといった事件も頻発した。そう簡単には手に入らないとの意味も込めて『天狗の飲み水』などと言われる所以もあった。詳細
トリップ直後、身元詮議明けのはつみが大弱りして寝込んだ際、乾と龍馬がこの天狗の飲み水を取りに行くとして城下を飛び出した。遠い地にある龍河洞の奥を更に探索し、無事はつみの元へと至る。その旅の道中には、まるで二人を見守り導く様に白いハヤブサが随行していた。この湧き水は、ある日土佐に降り注いだ雨雪が非常に長年年月をかけてろ過され、同じく非常に長い年月をかけて育まれた鍾乳洞の先端に落ちてきたものであり、土地の気に満ちている。生きとし生けるもの全てに定められた運命、人生を象る『運命の糸』から解放された時の旅人であるはつみは、この時代にやってきた直後に『庇護の必須道具』たる桜清丸を奪われた事により、この時空に留まる為の「止まり木」を失っていた状態だった。そこへ偶然もたらされたこの天狗の飲み水を飲む事で土佐(この世)の気を十分に取り入れる事となり、その不安定な魂をこの世に留まらせる媒体となり得たのだった。(もちろん幕末の人たちは、天狗の飲み水の言い伝えによる効能のおかげであると思っている。)
この『天狗の飲み水』の様に、この世において同じ様な庇護の効力を発揮するものは他にも存在する。自然界でいえば、例えばかつて海だった土地から出土された岩塩などを食した場合でも同じ様な効力を得られたかも知れない。または、この時代に生きるヒトの強い精神力を添えられた体液(唾液や精液)などを直接摂取した場合も同様に、『この世に引き止める力』があるかも知れない。一方で家畜などには強い精神力は宿っておらず、もしその血肉を食したとしても恐らく同様の大きな効果は得られなかったであろう。(例えば、龍河洞の湧き水を飲んで育った場合はまた別だが)
・髪型
トリップ直後、坂本家に匿われた当初は武家娘の格好をさせられている。髪の毛の長さも足りないながらにまとめあげ、軟禁中や寝込み中は髪をおろすといったスタイルだった。天狗の飲み水を飲んでからの復帰後はいわゆる男装を希望し、髷代わりとしてポニーテールをしたが、もとの髪型にレイヤーが入っていた為に茶筅髷の様になった。その際にも前髪は全部上げるのか、結ぶ位置は高くするのか低くするのかなどとファッション感覚で色々と試した結果、前髪は垂らし高い位置で後ろ髪を結び、後れ毛を残すといったヘアスタイルで満足した模様。以来、これがはつみの定番となった。詳細
文久3年夏頃から慶応元年夏頃まで間では髪を切る余裕が無く、伸び放題となっていた。暫く療養に入り復帰する時に毛先を切り揃え、同じく後ろ髪を残したポニーテールの髪型となる。この時は以前とは違い、前髪以外の毛先が切りそろっている。慶応4年、横濱英国公使(領事)館へ出向となった際にはポニーテールをやめ、後ろ髪を緩く編み込み新時代の装いを目指した。編み込みに黒いリボンを織り交ぜており、彼女らしい個性と華やかさ演出している。
・衣類
はつみの感覚では『ファッション』。当時の一般感覚から見るとかなり派手で奇抜な趣だが、フリル&シースルー浴衣にカンタン帯などが出回っていた時代に生きていた本人は『正解を知らなかった』と言う方が正しい。とはいえ周囲とはやや違う傾向があるという事は自覚していたが、ある程度は『あえて』アレンジや個性を楽しんでいた節もあった。男装を希望するが『男装』しているという感覚も殆どなく、単純に動きやすいから袴、なのである。なので男装をしている中にも華々しさやkawaiiを求めていた入りする。しかし既製品において彼女の好みやイメージにあった品はなかなか見つからず、故に、自らがデザインをし坂本家の人たちの協力を得て作成した特注品(あるいは既製品を大胆に改良したもの)が多数存在する。彼女が着用している詰襟もしくは開襟のシャツやスポーツブラやショーツの役割を果たす下着類、袖口が開いた着物や白袴の裾に薄桃の染めが入ったもの、龍馬が着物の内側に着込んでいる襟付きのシャツや寅之進のケープなどがそれだ。
土佐坂本家のみならず長崎や江戸、京などそれぞれの各拠点にいる時は、基本的に衣類を毎日取り換え清潔を保つ。その際においてもファッションにこだわっている訳ではなく、その時々にある既製品を着る事も勿論ある。ただ、既製品の着物や反物を購入する際には柄が入っているものを好んでいた。
・白袴
はつみといえば…とトレードマークとも言えたハデな袴。現代においては白に限らず様々なカラー袴になじみがあった。文久2年頃から着用を控える様になったが、後に亀山社中(海援隊)の隊服のモデルとなったとかナントカ。・衣類や小物
(ここでははつみの手作りのものを指す) ファッション的な感覚の相違はもとより、現代的な感覚で「無いと不便」「あると便利」といったものはとりあえず何かしら制作を試みている。寅之進や龍馬などが土佐在中時から洋装めいたものを身につけているのは、基本的にはつみが作成したものである。詳細
まずは『女性用下着』の概念が無い事に耐え切れなかったはつみは、自力で『スポーツブラ』や『ショーツ』の役割を果たす下着を作り上げて着用している。更にシャツの制作を試みたりとかなり器用な印象を与えるが、実はそうではない。小学校の家庭科授業以来の裁縫だった為要領を得ず、坂本家の直や伊予、よく顔を出していた乙女と一緒に試行錯誤して作成した。(伊予や直、そして乙女ははつみが現代服で倒れていた所から世話をしているので、はつみが想像している『下着』などを一応見た事があった。尚はつみの現代用品は当時脚気を患っていた直がはつみに何かを見出し(後の高杉と同じ現象で、何かを察した)彼女を守るためにあえて隠した。)これらの経験からある程度の裁縫の要領を得たはつみは、龍馬からリクエストのあったシャツ、続けて寅之進のケープなどにも挑戦。試行錯誤の末、既製品の様な強度はないがリュックなども作り出したりした。構造的にリュックよりも難易度の低そうなトートバッグやショルダーバッグの様なものも勿論作ってみたが、これらは腰に差した刀との折り合いが悪く使用を断念した事も。他にも思いついたものを積極的に作っている。
・甘いもの
(和菓子、洋菓子なんでも) 元来チョコレートやミルクティが大好きな甘党だった。饅頭(近藤長次郎の家)を始め甘味処には必ず立ち寄ったりチェックをし、龍馬と長崎へ行った際には洋菓子や紅茶に感激し、なつかしさも相まってか涙ぐんでいる。日持ちするし持ち運びやすい金平糖などは、紙に包んだものを専用の巾着に入れて可能な限り持ち歩いたりした。また、果物類にも目がない。詳細
はつみは立ち寄った市や店では常にお菓子の材料になりそうなものを物色しており、材料が揃えばクッキーやパンケーキなどの焼き菓子やジャム作り、プリン作りなど率先して行った。ドライフルーツにも挑戦している(ただの干し柿というオチ)。実は甘党の武市もはつみのプリンを食べ内心感激している。土佐時代や海軍塾時代、療養期間中など、拠点に比較的長く滞在する際にはよく菓子作りを行った。噂を聞いてリクエストしてきたアーネスト・サトウに振る舞った際には、故郷を思い出したのか感動のあまり落涙している。(ちなみに紅茶まで持参して楽しみにしていた模様。カフェでも開いてみてはどうか等と本気で勧めてくる)
・『Essential British English』(英辞典)上下巻と、素養としての英語力
安政6年初夏、龍馬の親戚(継母・伊予の義実家)である仁井田の廻船問屋、通称『よーろっぱ』の川島伊三郎から寄贈された。当時非常に貴重な英語辞書であったが、はつみのずば抜けた海外知識や見解に度肝を抜かれ、その才を伸ばすきっかけとなればとの事で譲ってくれた。詳細
この時、はつみの感覚で言うとおよそ半年前は大学センター試験、二か月前は大学受験の真っ只中にあった。学力的な数値で言えば一番洗練されていた頃であるともいえるが、特に英語などは使わなければどんどん忘れ廃れていくものだという事は身を以て分かっていた。義務教育で習っていたのはアメリカ英語であり寄贈されたのはイギリス英語の辞書であったが、開国明治へと連なっていく幕末において英語力というのは必ず役立つものだとは分かっていたし、この際なのでイギリス英語も独学でできるところまで納めようと、例文読解や模写など限りある教材の中でできる事を続ける事にした。・はつみ塾と英語教材。地道な研鑽と基底にある思想
剣もできなければ体力もない。古典や漢詩にも疎いしくずし文字は読めない。彼女の時代を先行した価値観や知識、自然と身についた思考力もこの時代に在っては『国際力』の先端を行くものであったが、本人にはその自覚はまるでなく、むしろ『何もできない庇護されるだけの存在』の様にも思えていた。 『何か強みを持つ』という意味でも英語力と思想を磨く決意をするが、圧倒的な教材不足の為に難儀した。上記の通りトリップ直後の安政6年の時点で英語辞書を手に入れられたものの、当然和訳が付いている訳でもなく、アメリカ・イギリス訛り以前の問題で単純に単語を理解できない部分が圧倒的だった。学習には長い年月をかけ、訪れた場所や港、書店、雑貨店等で識者や別の英文資料などにまみえた際には率先して入手し、知っている単語などを当て、とにかく注釈と模写の作業を繰り返した。早い段階からはつみに傾倒していた寅之進は、土佐郷士の間でスタンダードになりつつあった過激な攘夷思想を払拭しつつあり、『世界と対等になる、支配されない日本』という意味での大攘夷を目指し、はつみの英語自習に付き添った。周囲から見ればいわゆる『開国派』のレッテルを貼られてもおかしくない状況であったが『天皇を最上とする尊王思想』そのものについては周囲と相違なく、はつみと同じく『天皇あってこそ世界に誇る日本』という思想のもと、勉学に励んでいる。そして寅之進が積極的に英語習得に携わってくれる事は、はつみにとっても極めて大きなモチベーションとなっていた。
龍馬や乙女、以蔵もたまに参加しており、彼らは内々に楽しむ形でこれを『はつみ塾』と呼んだ。
詳細
元治元年初夏の長崎遊学(SS『江戸遊学・遥かなる長崎』)、そして文久元年初夏の江戸遊学の際に訪れた横濱(SS『横濱にて』)で、多くの英字パンフレットや日本人向けにカナや翻訳が載せられたチラシなど大量に入手する事ができた。外国人に話しかけて、これまで分からなかった英単語や文章、発音について質問したりもした。彼らは自分たちの言葉を理解しようとする人に対し、(相手が『美しくも珍しい瞳をした少女』だった事もあるだろうが)非常に友好的であった。長崎においてはオランダ語やフランス語のパンフレットを得る機会もあったが、こちらについては流石のはつみもまったく触れた事が無かった語学であった為、その習得は一旦断念するに至った。また、ここではまだ思春期にも至っていない若きアレクサンダー・シーボルトと出会い、彼は日本語習得に励んでいた。加えて薩摩出身でオランダ語を習得しようとしていた村田経臣という青年とも出会い、彼らははつみと共に英語の習得に乗り出すに至る。更に、英語の師として現地において既に有名であったフルベッキ宣教師と出会い、彼の紹介で出会った何礼之という通詞に習う事で大きく環境が整う事となった。
文久元年、横濱において話しかけてきた外国人の中にチャールズ・ワーグマンという英国画家がおり、彼ははつみという存在に非常に驚き、英会話を行う傍らスケッチのモデルを依頼してきた。この時和英のメモがびっしり書かれたメモと携帯筆を携え明日を見つめる様な趣で描かれたスケッチは大変見事なものであった。彼は後に『抑圧されたミューズ』といった、『国際的な活動を拒否する日本とそこに埋もれる才』を意味する風刺画のキャラクターとして、ワーグマンが発刊している「ジャパン・パンチ」という新聞に掲載される。ジャパン・パンチは横濱においても、そして本国イギリスにおいても話題となった。
※このジャパン・パンチについては下記に記載がある為、ここでの詳細は割愛する。
この時、ワーグマンがスケッチをしているところに、長崎遊学で共に切磋琢磨したアレクサンダー・シーボルトが現れる。彼は英国領事(公使)特別通訳生となっており、その語学の才能がまさに大舞台にて花開こうとしている所であった。夕食に誘われたはつみは、同行していた龍馬、寅之進、沖田も伴って彼らの誘いに応じる。ひと時食事を共にするだけでも、生きた英語に触れられるという意味で大いなる進歩であった。更に、食事をとった場所は当時横濱に建っていた外国人向けのホテル(旅館みたいな)でボーリングやビリヤードといった娯楽施設も兼ね備えられていた為、一行は横濱に宿泊する事を決定し、外国人たちと夜遅くまでこれに興じる事となった。はつみはカフェのテーブルに付いてシーボルトと日英会話の勉強を進め、これによってかなりの進捗を得られたのだった。
別れ際、シーボルトははつみが学習資料に難儀している事をよく理解した上で、文通によって互いに語学習得を勧めようと言った案を持ち合わせてはいたものの、若く奥手だった為に『手紙を送るよ』とは言えず、またはつみもその発想はあったものの様々な事案に考慮した結果、言い出す事ができなかった。
文久2年秋、白蓮と出会い支援を受ける事になったはつみと寅之進は、長崎における見聞を持つ先進的な思想のもと献身的に支えてくれる主人の咲兵衛や看板娘のお万里、お琴、咲兵衛の息子:花太郎らに英語を教える。単語帳を手渡し、少しずつのペースであったが、事の他お万里は熱心にこの単語帳を覚えていた。(寅之進に想いを寄せており、少しでも力になりたいと考えた様だ)
お万里は明治になってからはつみや寅之進の推薦でウィリアム・ウィリス医師の下、看護婦として研鑽を積み、そして寅之進の補佐事となる。
文久3年5月に海軍操練所及び勝海軍塾が発足すると、同期となった陸奥や白峰などが率先して「はつみ塾」に参加し、共に英語を学ぶ。またこの頃「日本初の海軍」ともされる神戸海軍操練所および『抑圧されたミューズ』(HATUMI=ハテュミ)の噂を聞きつけた写真家(戦場カメラマン)フェリーチェ・ベアトが横濱から海路陸路を経てはるばるやってきた。(詳細は下記『ジャパン・パンチの項を参照』)
はつみはベアトからの「どの様に英語を学んだのか」という質問に対し基本的には独学である事を答え、安政6年に土佐で貰い使い古してボロボロになった辞書がその努力の証人となった。そして、同じく土佐の理解ある恩人による支援の下、長崎と江戸、横濱へ足を運ぶ事ができ、そこで教師と教材を得られた事が大きいと。もちろんシーボルトの事も話しており、特別通訳生として第一線で活躍中であるシーボルトはベアトが同行する場でもよく顔を合わせていた為、既に知己の仲だとベアトも言う。故に話は殊更スムーズに彼の耳へとおさまっていった。 はつみはベアトがボロボロになった辞書に感心してくれたのを見て、少ない教材とこれまでひたすら解読練習や模写をしてきた紙の束なども見せた。英語⇔日本語を学ぶための教材が少ない事は、当時まだ領事館付き通訳生だったアーネスト・サトウも日ごろから愚痴っていたらしく、ベアトははつみに対し「僕の友人の通訳生も苦労しているみたいだよ」と、あるある話の様に聞かせてくれた。はつみはこの時、ベアトの言う「友人の通訳生」がかのアーネスト・サトウである事を知る。 (※サトウの近くにはシーボルトというバイリンガルがおり二人は同僚とも言える立場であったが…恐らくシーボルトが公使もしくは公使代理からひっぱりだこだった事もあり、あまり顔を合わせなかったのだろうか?二人が語学学習について手を取り合っていたという記録や逸話は今の所みかけていない。)
これを聞いたはつみは「もし私の写したものでよければ…」と、英単語をできるだけ和訳したものの写しや、日本語辞書に英語単語や例文を書き込んで教材替わりとしたものなどをベアトに提供した。手放して支障はないのかと心配をするベアトに、自分の反復練習や他の誰かに教える時の為に同じものを何度も複製しているから大丈夫、と笑うはつみに、ベアトは言葉を失い胸に手を当てて頷き、感心する様子を見せた。はつみがこのようなお節介に出たのは、相手が幕末史上で有名な英国外交官である為にいつか話ができるかも知れないなどと思ったのも勿論だが、それよりも真っ先に、語学習得のやり方は様々あるものの『そもそも単語が理解できなければ始まらない』という関の山はきっと恐らく共通であると判断しての事であった。品詞の理解に基き文法の構造まで深く理解する事が語学習得上最も論理的ではあるが、単語を知りすぎて困るという事は絶対にない、そして教材そのものが圧倒的に足りない事で勉学を進めたくてもなかなか進められず苦労を下という、独自に研鑽を重ねて来たはつみならではの考えでもあった。
後日ベアトが横濱へこれを持ち帰った時、サトウはそれまで誰もが見た事がない程に驚き喜んでいたという。シーボルトと違う所は、サトウはその非凡な行動力を発揮させ、直ぐにはつみへ礼の為の返書を送った上に『また手紙を下さい。私も必ず返事を送ります。』とはっきり記した事だ。これをきっかけにはつみはアーネスト・サトウと知り合い、個人的に語学交流(文通)する仲へと発展するのである。
ちなみにこの頃シーボルトは英国国家試験を受け無事合格し、正式に『公使館付通訳官』となっていた。
元治元年6月下旬に襲撃を受け負傷したはつみは、数か月に渡る療養(湯治含む)を強いられた。この時も、寄宿先にこもってひたすら英語の精度向上に努めた。事情を知る勝が直接中濱万次郎(ジョン万次郎)に掛け合って湯治先に招き、およそ三ヵ月ほどみっちりと英語(アメリカ英語)を学んだのである。はつみが持っていた英辞典に掲載されている単語を知る限り教えてほしいと頼み込み、その大変な作業に万次郎を「おいおい…」と辟易とさせたが、急遽はつみ達のみ長州(四カ国連合艦隊による長州攘夷砲撃への報復戦争)へと向かった際には、はつみたちが戻ってくるまでのひと月程を同温泉宿に滞在し、単語の提供に尽力してくれた。はつみ達が無事に戻ると下関の様子を知りたがった万次郎に対し、長州や外国人たちの様子をあえて英会話で伝えるなど実践的な会話経験も重ねてゆく。最終的に万次郎は、温泉は最高だったしはつみ達若き外交の志との作業は事の他楽しかったとも言ってくれた。
万次郎は元来ポジティブな人柄であり、勝がこの機に彼を斡旋したのも彼の能力以外に人柄も買っての事だった。勝と万次郎は安政4年の軍艦教授所や万延元年の咸臨丸海外使節団で同僚だった誼がある。また、はつみは吉田東洋や河田小龍との関りもあり、万次郎は土佐つてではつみという代わり種の出現の噂を聞いていた為、興味を持って今回の要請を受けたという。(万次郎はこの後、薩摩鹿児島に開校される『開成所』にて教鞭を振る事になっていた。)
万次郎とはつみはこの後も薩摩や土佐を通して各所にて何度か顔をあわせ、その度に時間が許せば彼に教えを乞う事となる。慶応元年長崎で再会した際には、夏の間ひと月ほど腰を据えて教えを乞う事ができた。日英語学習の教材をくれる事もあった。この時万次郎は、はつみに対しシーボルトの様な形での他国公使館付き通訳官・外交官の他、外国貿易商通訳、航海士、法律家、果ては異国にてのアクトレス(女優)などへの道も示したが、はつみはかつて東洋や容堂にも語った幼児・青少年への教育論を進化させたグローバル教育論をより強く抱き始めていた為、その旨を説明し感心させるに至る。
このように、正式にそう呼び合った訳ではなかったが、万次郎とは(寅之進、陸奥も含め)教師と生徒というニュアンスでの師弟という絆があった。
慶応2年8月、徳川慶喜が徳川家を相続し、それでもなお将軍不在の中、長州征討中止の勅命が下る。高杉との対話によって再び心に力を持ち始めたはつみは、当時薩摩スチューデントの密航英留学などを経て英国と接近していた小松帯刀に対し『英国商人グラバーの下インターンとして働きたい』と持論と共に願い出た。寅之進は迷うことなくはつみに追従する事を望み、陸奥もまた押し掛け同様についてきた。坂本龍馬は彼らの可能性を引き留める事はなく送り出し、陸奥と同じく何礼之の英語塾で頭角を現していた白峰が諸事連絡係として付く事となる。
小松の斡旋は上手くいき、もとよりはつみ達の英語力が認められた上で事務方インターンとしての雇用が決定する。そこで世界に通じる交渉・接待術などを熱心に学んだが、グラバーははつみの様に容姿の美しい東洋人や多彩に才気溢れる女性は西洋での社交場や交渉面で非常に有利であると共に、身の危険が生じる可能性なども説く。有利・不利どちらも含め、社交界へ出た時の為のマナー講習や相手を丁寧にあしらう方法、身を守る方法などを学ぶ事となった。できるならピアノの腕も磨き続けるといいだろうとも個人的な助言を行い、万次郎と同じく「西洋に出て東洋出身のアクトレスを目指してはどうか。喜んでパトロンになるよ」などとも言った。
慶応3年、海援隊が殺人容疑をかけられたイカルス号事件に際し、グラバーらと相談をした上でインターン期間を一旦終了し、海援隊の無実を晴らすべく協力を申し出た。日本人外国人と言語の壁を越えて広く調査を行い、或いは英国領事館の判事や領事の権限を以てイカルス号事件の解決を担当するアーネスト・サトウらとも冷静に、そして正確に対処する。
イカルス号事件について調査が進む間、長崎諏訪神社による秋の大祭「くんち」が縮小開催される中で、土佐商会所属の土佐藩士による英米水兵襲撃事件が『起こりかけるもはつみや寅之進によって事なきを得る』。口論となった両者の言い分を通訳し、誤解や行き過ぎた絡みに対する謝罪などを丁寧に伝える事で平和的に解決に至らせた。後日、この件に関してシラフになった英米兵から報告を受けた長崎英国領事館から「異国間の事件を未然に防いだ参考に」と称して事情聴取とも取れる質疑応答を求められる。サトウと英国長崎領事のフラワーズ、補佐官のロバートソン、幕府代表若年寄平山とその部下、土佐藩大目付で後藤象二郎の部下である佐々木三四郎の他、昨晩の英米兵2人と米国領事館の関係者が顔を連ねていたが、少なくとも外国人たちは決して敵対的な態度ではなかった。しかしはつみについて来た陸奥や龍馬はナンクセを付けられるのではと気が気でなかったが、はつみはここでも、冷静さと的確な言葉を用いて、聞き取りを行った際の詳細について申し送りを行った。最後にはつみは『国際的に良い関係と治安を保つ為には勿論公的な条約や法律が必要でありそれが大前提だが、それらを問題なく機能させる為には互いに歩み寄り理解しようとする一人ひとりのモラルが大事。イカルス号事件が解決しない対処として日本人側に制限を設けるのは尤もである事は大前提で、そういった当然の流れから外国人に苛立ちを募らせたり、少々の無礼で直ぐに斬る殺すといった手段を用いる報復発想へ至る侍たちの厳格な思考については、彼らの尊厳を認めつつも彼ら自身も世界の基準に順応する思考へと導く必要性を感じている。しかしその一方で、ここ数年でようやく外国人を受け入れ始め、世界を知ったばかりで変貌の途中である彼らに対して、外国側にもいましばらくは譲歩を賜り、安全を意識した最低限節度ある行動を願いたいと思う』と、自ら英語と日本語を駆使し、想いを伝えた。
その場にいた誰もが、はつみの心から両者間の平和的交流を願う丁寧な申し出に一時茫然とし、そもそも酒絡みをして問題を引き起こしたと自覚していた水兵二人は鼻を赤くして涙を流していた。
サトウは『通訳官として日本へ来て、こんなに心打たれる事はなかった』『彼女こそ外交のミューズだ』とその日の日記に書き記した。
そして9月15日。本来(史実通り)であればこの日、サトウはイカルス号事件について進展がみられないとして横濱へ帰還するはずであった。しかしはつみらの介入と新たな調査によって、新たな事実、懸念が発覚。(本来であれば明治になってから明るみになる事実。)これをサトウら領事館へと提出し、英国領事館と土佐商会の連名で長崎奉行所に対し福岡藩への聞き取りを依頼するに至ったのだ。 そして事案は急展開を迎え、その日の夜、事件は解決に至った。つまり真犯人が見つかった事が両者に伝えられたのである。 事件究明後、グラバー邸にて打ち上げ会が行われた。グラバーははつみをいつでも迎える準備があるとするが、はつみはまだどうするかは考えていないと応える。これを機に龍馬のもとへ戻り、彼と海援隊の為にグラバー商会で培ったスキルや語学力を活かしたいとも。 一方、同席していたサトウもまたはつみに声をかける。「もしはつみが望むのであれば英国公使へ正式に紹介する事もできる」と告げ、女性が外交官として抜擢された例は殆ど無い事だが、女王を頂く英国では世界に先駆けて女性の社会進出にも前向きに取り組んでいる。パークス公使ははつみの実力を認めるだろうと告げた。
10月1日、イカルス号解決を受け、長崎にて土佐と英による会見が行われた。
仕置役(参政)後藤象二郎、大目付佐々木三四郎、御雇外国御用掛兼通詞はつみ、通詞陸奥陽之助
英国公使パークス、英国長崎領事マーカス・フラワーズ、二等書記官(兼通訳)A・B・ミットフォード
公使館付通訳官アーネスト・サトウ
長崎奉行所から事件の顛末について説明がなされ、英国および土佐も概ねこれに同意を示した。土佐及び海援隊への容疑は文字通りの濡れぎぬであった訳だが、土佐側はこれについて英国を追求する事はなく、むしろこれをきっかけに土佐と英国の間で友好的な関係が結ばれる事を幕府管轄奉行所面々の前で堂々と臨んだ。須崎での対談において後藤の人格には一目置いていたパークスは心からこれを歓迎し、両者握手を以て会談終了となった。はつみが土佐側の正式な外交官として参加していたとするこの公的記録は、後世において『女性初の外交官を示す公的記録』として大きな注目を浴びる事となる。
慶応4年1月、新政府最初の政治体系(コンスティテューション)において、陸奥が外国事務取調掛抜擢される。 同年2月、次の政治体系においてはつみも外国事務局御用掛(外国事務取調掛改め)に抜擢され、特別英国事務として横濱英国領事館(公使館)への出向が決まる。(陸奥は翌5月に会計局へ異動)。更に同年閏4月、政体書の発布により(外国事務局御用掛改め)外国官付属・英国通訳事務、留学候補生となり、寅之進も同じ役職に抜擢された。 この時の役職についてサトウは『判事』ではなく『付属』という緊急措置的な役職名を見て『直ぐに切り捨てるつもりなのでは』と疑問も抱いていたが、身分の低かった寅之進はもとより女性であるはつみがここまで公的に取り立てられているという事実自体は称賛している。寅之進ははつみ同様英国公使館出向として正式採用される事となったが、当面の間は単身大阪詰めのバートラム・ミットフォード専属の事務補佐官として異動する事となる。ミットフォードもまた、寅之進の語学力や資質について大きく評価をしていた。 夏が終わるころにはミットフォード、そしてお万里と共に横濱へ帰還するが、新政府から外科医療の依頼を受け非常に忙しくしているウィリアム・ウィリスに、ミットフォードの推薦で寅之進が通訳として付く事になる。お万里もまた、はつみや寅之進を見習って培ってきた基礎的な清潔・予防観念や栄養学、借り受けた英米対話捷径や英単語帳などで地道に独学を進めていた努力などが見込まれ、ナース見習いとして迎えられる。 特にミットフォードは、寅之進の実力と人柄を極めて評価しており、よく言えば忠誠心の塊、悪く言えばはつみしか眼中にないその目を真の意味で開かせ自立させようと『余計なお世話』を働いていた。
ウィリアム・ウィリスが新政府大総督府より西洋外科医派遣依頼を受け会津へ向け出立する際、寅之進とお万里も通訳兼護衛、ナースとしてウィリス医師団に従事する。
翌年、明治2年1月、池田寅之進と共にアーネスト・サトウの賜暇に伴い英国留学へ至る。サトウの母校へ野口、寅之進と共に推薦入学し、教育学を学ぶ。しかし明治3年の春、大恩人である小松帯刀の病状悪化を聞き付け、留学を切り上げて寅之進と共に帰国した。はつみと寅之進両名共、外務省(明治2年8月設置・外国官改め)判事として出仕要請されるが、両名共にこれを辞退。
(サトウは10月末で賜暇が終わり、11月から英国公使館復帰)
(寅之進はこれからおよそ1年かけてはつみの伝記作成の為全国を旅する)
はつみ。横濱の外国人居留地に、幼児・青少年向けの日英会話教室を開設。政府関係者及び配偶者向けの社交会話およびマナー講師を兼任する。 政府公式の社交場などにおいて国公来賓の通訳及び、英国公使館から外部通訳として依頼を受ける事もあった。 はつみ本人は幕末に発刊されたジャパン・パンチの影響で『抑圧されたミューズ』のモデルである事や、同じく幕末にベアトが撮影したドレス姿、ピアノを弾きこなす逸話、英国式及び国際マナーを正しく習得した人物であるなど外国人界隈ではかなり有名となっていた為、外交交流の場などの来賓として招待を受ける事も多々あった。前の『抑圧されたミューズ』を引用し、サトウらが『彼女こそ外交のミューズだ』などと評価した声も尾ひれ背びれを付けて広がっていた事も影響している。 (また、当時の日本人社交は勝が酷評していた通り『西洋の真似事』であり、至らぬマナーや外国語の非習得など招待した外国人からも酷評または失笑を受ける様な状態である背景もあった為、グラバー商会や本場で培った実力は割と重宝された。)
※以降は物語の展開(攻略キャラクター)によってはつみが成す事が変わってくる。 メインルートとしては下記の様になるが、他にも外交官ルート、教員ルート、国際法律家ルート、 外交官の妻ルート、貿易商敏腕秘書ルート、西洋アクトレスルート、世界旅ルート等など様々なルートを想定している。
・物語の終結、メインルート:既に一定の成功を収めていた横濱の日英会話教室の現状やニーズを鑑み、この成功の裏にある 外国人居留地に住む混血(他国籍)を含むすべての幼児及び少年少女の教育と日英外国語と異文化を 学びたい全ての青少年の為にと天命を見出し、グローバル教育を中心とした幼稚園及び インターナショナルスクールの開設を目指す。 後に『櫻清大学』を設立し、後に多くの外交官を輩出する名門大付属校へと成長した。
もともとあった素養から長年の努力を経て磨き続けた語学力や近代的価値観が活きる形で 明治以降の人生が彩られる事となる。
・武市、龍馬、寅之進、内蔵太、以蔵が描いたはつみの似顔絵、その他美人画、魚などの絵、らくがき。
安政6年から万延元年始め頃に武市から美人画を習うことがあり、その際にそれぞれ描いたはつみの似顔絵。(皆が順番にモデルを務めた)持ち出して破損する事を恐れたはつみはこれらの絵を坂本家にゆだね、以来大切に保管されている。ちなみに、龍馬が描いたはつみの似顔絵には眼鏡やヒゲが描き足されており、寅之進が描いた美人画はへのへのもへじ、蔵がが描いたものは『…春画…?』と言わしめる程独特の趣があった。以蔵は一番やる気が無かったがかなりセンスがよく、武市もうなるほどであった。・多元宇宙論と特異体質
はつみに月経が来ない事は坂本家の皆が心配するところであった。土佐では坂本乙女の嫁ぎ先である岡上樹庵の診察によって不妊の診断を受け、さらに長崎遊学中に知り合った老シーボルト、そしてその娘であり産婦人科専門医である楠本イネの診察を受けた結果、同様の診断を受けている。後に出会う英国医師のウィリアム・ウィリスによる診察についても同様であった。そして、年を取らない。
詳細
月経が来ない=子孫を残す事はないこれは月椿苑にて桜清丸を得た事で副作用的に発現した因果によるものである。どういった多元宇宙論が働いているにせよ、はつみは異世界の人間であり、元々存在していた歴史線の中に飛び込んだ異物である事に違いはない。異種間の交配が成立しないという事が次元単位で具現化されている。また次元的に異物であるはつみは、この世界線の中でも孤立した存在である。つまり共に歩んでいる様に見えても時の流れを共有しておらず、目視的に分かりやすく言うと、年月を重ねてもはつみは年を取らない。はつみがこの事に何となく気が付くのは物語の降板に差し掛かり「いつまでも少女のように若々しい」と方々から言われる様になってからであるが、明確な答えをもたらす存在はいない為「多分、自分が未来から来たから…」といった解釈の一部に過ぎない理解しか得られない。またこの時に、子供ができない理由についても思い当たる節があるといった解釈に至る。
歴史は、異次元の存在によって守られている異質なはつみを直接的に抹消はできずとも、常に異物による異変を戻そうと働きかけている。
・風鈴
(武市) 文久元年江戸。初夏に江戸到着したはつみは人生初めての長旅の疲れと暑さ故に体調を崩してしまい、その際武市が見舞いの品として『涼』を呼び込む風鈴を持ち込み、窓際にかけてくれた。・張り子の虎
(内蔵太) 文久元年江戸。内蔵太から贈られたもの。玩具だがコレラ(虎狼痢)避けのお守りとも言われた。 ちなみにこの頃の内蔵太ははつみを『男』だと勘違いしつつも本能から溢れ出る恋心に悩んでいる最中。 「おまんはすぐ病にかかってしまいそうやき」と言いながら手渡している。・英国製ロケット式懐中時計(龍馬、はつみ)
文久元年9月、はつみは元住んでいた「横浜」を偵察する事になった。しかし向かった先は「幕末に開港し急速に栄えた横濱村」であって、当然ながらはつみが知る横浜とは違っていた。 当時平行ではつみとのお見合い話を実家から突きつけられていた龍馬はここで英国式のロケット懐中時計を買い付け、はつみに見合いの件を打ち明けるつもりでいた。しかしはつみの様子からして想いを告げる事は叶わず、懐中時計を渡す事もできなかった。(SS『横濱にて』) 後日、(下記の項の通り)写真撮影をする事になるのだが、その写真をロケットに入れて龍馬自らが持ち歩いた。 慶応3年はつみに想いを告げた時にようやく手渡す事ができたが、しかしそれが『形見』となるのだった。・ビードロ
(総司) 文久元年、横濱土産としてはつみから贈られる。・お香・香道具
(桂) 文久元年江戸、秋。桂からの贈り物。桂が袖下に入れている袖香炉と同じもの。詳細
桂ははつみに対しての想いを匂わせた詩を同封しておりこれがかなり積極的な匂わせなのだが、致命的な事にはつみ本人はくずし文字が読めない。その上、はつみが備えている多様な教養はこの時代の教養とはベクトルが違う為、詩の意味がよく分からなかった。結果、周囲の者に「これどういう意味だろう?」と『暴露』しまくっている。『香尽きて尚も慰む残り香と桜去りとて薫る面影』
私を慰めてくれる香は燃え尽きた後も残り香として寄り添ってくれる。貴女が去った後も、私は貴女の面影を想い続けています。
・金魚と金魚鉢
(以蔵) 文久元年江戸、はつみから贈られる。 以蔵はまったく興味が無かったが、はつみは『ひらひらしてきれい』『小さなものでも生きている』という事を以蔵に意識してもらいたかった。・鵜飼玉川『影真堂』で撮影した写真
文久元年の江戸遊学中に何度か撮影している。詳細
とある日、偶然影真堂の前を通りかかったはつみが、そこは写真屋である事に気が付いた。閑古鳥が鳴くかの如く人気のないスタジオであったが、興味津々に中を覗いていた所を主人に声をかけられ、看板(サンプル)用被写体として撮影する事となった。(かの有名な鵜飼玉川本人であった)はつみは撮影にはまったく違和感もなかったし魂を抜かれるなどといった妙な先入観もなく、鵜飼も驚く程ごく自然体で対応した。後日、無事現像されたという知らせを受け再び訪れると、焼き増したものを貰った。これは土佐・坂本家に送った。 『影真堂』で撮影をしたという話を聞いた沖田が興味本位で訪れるのだが、表に張り出されていたはつみの写真に度肝を抜かれ、ひっそり購入している。(SS『初恋』)またある日には、はつみの写真を見て感動した龍馬に誘われて一緒に写真を撮りに来た。龍馬は鵜飼にこっそりと懐中時計を見せ、ロケットに納まる様な絵(写真)を撮る事はできるかと尋ねると可能だと言われたので、その様に撮影してもらった。 はつみが写真を気に入っただけでなく鵜飼もはつみらを気に入ってくれた為、よく撮影しに来る様になった。はつみの案で陸奥や寅之進とは忍者の格好をして撮影をしたり、内蔵太とは腕相撲をする様子を撮影したり。幕末の江戸でダブルピースをする写真は後世にて発掘された際大いに話題となった。とある日には、桂小五郎も撮影に来ている。はつみは女性の着物で着飾った写真なども撮影した。 はつみらのお蔭で楽しそうな雰囲気が町人らにも伝わったのか、影真堂には徐々に客が訪れる様になっていった。
・鳥笛
(総司) 文久元年冬、江戸遊学を終えて土佐へ帰る前に沖田から贈られる。何度も失敗しながら作成した手作りの笛で、ルシを象ったハヤブサの彫刻が付いている。詳細
高くもなく低くもなく『ヒョロオ~』という変わった音色だがルシには分かりやすいらしく、100発100中で姿を見せてくれる。沖田の見立て通りルシは非常に賢く、あらゆる面ではつみの役に立ち、その分この鳥笛もかなり使い込んだ。途中で破損したりもしたが、何度も修理をして使い続けている。 後に、横濱のはつみの屋敷敷地に建てられた「天桜神社」にて祀られる。沖田は作成途中に確認の意をこめて何度か試し吹きをしており、実際に贈った際にはつみが吹いた事で意図せず間接キスをした事になっている。(当時の時代背景に『間接キス』らしき概念があったかは確認していないが)それを目前で見た沖田(当時17歳)は何だかイケナイ事をしてしまったようなキモチになっていたとかなんとか(笑) (SS『初恋』)
・手製の菓子入れ巾着
(池内蔵太)文久元年12月。江戸遊学を終えて一時の別れとなるはつみに対し、御守になるものをくれと直球で頼んだ時に受け取った。美しいルシの羽も添えられている。この頃の内蔵太ははつみを男だと勘違いしたままであり、相手が男であるにもかかわらず本能的に沸き起こる情愛に悩んでいる。内蔵太も江戸遊学を終え土佐に戻り婚姻の予定であったが、渾身の想いを込めてこれを辞退している。・金平糖
(日ごろからよく買ったり贈られたりするが、この項では高杉からのもの) 文久2年8月大阪にて。京に入ったばかりのはつみを江戸への東下道中だった高杉が訪ね、駄賃の様に金平糖を贈ってくれた。はつみは金平糖が大好きだった為素直に喜んだので「まるで子供だ」笑ったが、続けて「今度会う時はもっといい女に合うものを用意しておこう」とも言って、金平糖を一粒はつみの口に放り込み、江戸へと旅立っていった。・料亭『白蓮』
文久2年10月頃からはつみや寅之進が懇意にした料亭。四条大橋の近く。西木屋町通り高瀬川に面している。(川の対岸は木屋町通り)(武市の寓居は木屋町通を北上した先の三条に存在する) 声がデカく愛想とノリのいい主人・咲衛門(さきえもん)と、看板娘のお万里とお琴がいる。楽器や踊りなどをたしなみ、座敷に出ていた様だが、揚屋や置屋に属する者ではない様だ。芸妓と遊女の違い、料亭・旅籠・旅館・揚屋の違いなどなど、はつみ(や寅之進)には分からない仕来りばかりだったが、見た感じでは白蓮では色は売っていない様だったし、女の子たちも比較的自由で働きやすい環境にある印象。 (SS『京料亭・白蓮との出会い』)・英米対話捷径(容堂)
文久2年10月末頃、勅使東下に追従する武市を追って江戸入りした際、乾の斡旋で容堂(蟄居謹慎が明けたばかり)に謁見する事となる。詳細
容堂の側用人となっていた乾からの斡旋があったとはいえ容堂がはつみに会った理由は、吉田東洋がかつて問題児だった乾を抜擢した様に、はつみにもその目を掛けていた事が容堂の耳にも入っていたからであった。また、開国思想を持ちながら武市の傍に居続けているという肝の据わった人物像に興味があった様である。 はつみに公武の在り方、これからの日本、諸外国の在り方について訪ね、東洋に応えたように応えた。 日本の外にも世界は続いており、日本の文化が時を経て熟成されてきた様に世界もまた常に発展している。これからは大いに国を開き世界に準ずる高度な政治体制への改革、外交、人材教育、殖産興業、産業革命などを解き、外国人は決して日本を侵略しに来た訳ではない。また彼らは『鬼』や『蛮族』でもない。彼らにも愛すべき家族があり、不義理や理不尽に痛める心を持っている。彼らは果てしない世界の海を旅する者達であり、広い太平洋の入り口にある日本で薪水を得たいと考えている。貿易を通して永くビジネスパートナーになりたいと思っているだろう。条約等を結ぶそこでの調整で摩擦は起きる事もあるだろうが、日本が自主性を失くし独特の文化が破滅するような事は決して望んでいないはずだと述べる。容堂は他にも細かく話を振り、はつみの話をよく聞いていた。そんな容堂と対峙している内に、はつみは自身が歴史の知識として知っていた容堂の人物像よりも違う…思慮深く忍耐強い人物なのではなかろうかとの印象さえ持った。 容堂は武市とは本当にウマが合わなかった。いや、許す事ができなかった。今、朝廷を動かし将軍の目通りとなる程に権勢をふるう武市に対し、容堂は『苦虫を噛みしめる』思いでよしなに取り計らっている。その内心においては東洋が何者に斬られたのか、息子である現藩主を担ぎ上げて勝手に上洛せしめ、無礼なことに朝廷を動かす様な真似をしているのは誰かと、はらわたが煮えくり返る想いでいるのだ。 だがはつみとの邂逅において容堂は一言も武市の名を出す事はなかった。はつみが武市の寓居に住んでいることも江戸に来た理由も何もかも情報は容堂の元に終結しているはずなのに、他に何か考えがあったのか、これを利用しようとは考えなかった様だ。だが一方で、はつみが武市の事を切り出す事も言葉巧みに阻止している様にも見えた。
はつみの焦燥など知る由もなく、容堂は最後に中濱万次郎が作成した英米対話捷径を授けた。英語の教材集めに苦心していたはつみは「ジョン万次郎さんの教科書?!」と思わず食い付き、はっと気付いて非礼を詫びる。容堂は気兼ねなくはつみを許し、傍に控えていた乾にはつみの傍へと持って行かせた。そして「それをもって励め」とニヒルに笑うのだった。
・処女
■R15 (乾) 文久二年秋。取引に応じて乾に捧げた。 武市の運命の舵を切りたいはつみが進退窮まりつつある中、乾に容堂への謁見の取次を願い出た。 出来る事は何でもやらなけばならないといった心情から無茶を承知で頼ったのだが、そこには乾が何かと自分を気にかけてくれている事、つまり「乾なら助けてくれる」「体か、もしくは結婚を求められるかも知れない」という事も打算的に予測した上での行動だった。詳細
乾は、はつみの決意の根拠には己の好意が関係しているのを見越してか、隠居したとはいえ元大名に根無し草が会う事は現実的には非常に難しい事だとしつつも『何でも言う事を聞くち言うなら砕心してやらんでもない』と乗ってやった。はつみは『それが誰かを傷つけたり欺いたりする事でなければ引き受ける』と返し、乾は『そがな事は望んじょらん。…おんし一人で事足りる。』とここでの詳細は述べなかったが、はつみは予想していた展開に近い返答を受けた事を受け、黙って、しかし明確にうなずいてみせる。これを以て双方合意のもと『取引』が成立し、数日後、乾は根なし草であるはつみを約束通り容堂へ引き合わせてくれた。はつみは江戸時代の性事情について、「往来では共に出歩く事すらも『破廉恥』とされる程一見プラトニックに見える彼らであるが、その裏、江戸の性事情はかなり軽率で分かりやすい」とも考えている。恋人や夫婦間での事は勿論、風俗事情、妾事情など実に分かりやすく乱れている。極端に言うならプラトニックと言えるのは『武家の娘』くらいではなかろうかと思う程だった。一歩間違ってどこぞの一角に迷い込めばあちこちの茂みで『営み』が行われているし、武士ともなると『遊郭通いをしてなんぼ』『妾を囲ってなんぼ』といった印象さえもあった。また、戦国の世、果てはその遥か昔から、女性の性は政治の裏で常に『取引』されるものであるという考えもある。突然幕末の時代にトリップしてきて何の後ろ盾もないはつみにとって、自分の身を捧げる事でどうにも動かない石の戸が開かれるのなら…と思ったのである。自分の事よりも武市の歴史を変える為に、この時代の人達とは違う波に抗う為に…。また、自分事でありながらもはつみ特有の「他人事」「俯瞰がすぎる」といった要素も相まっていたかもしれないし、そもそも「身を捧げる」と相手として乾の事が嫌いではなく寧ろ好意的友好的に思っていた事も大きい。
乾との取引はこういった『諸事』合意の上、行われた。
行為自体は覚悟の上とはいえ無骨で不愛想な武闘派の乾からどの様にされるのかとも思ったが…その時が来ると意外にも優しく丁寧で、乾本人も極めて清潔感がありその人の体臭と言えるのだろうがほのかに香る良い香りが自分でも驚くほど懐柔させられる一因となった。そして何より、とても気持ちと熱が籠っていると流石の鈍感なはつみにも伝わった。
・淫の気
■R18 はつみにはその気質、体質がある。詳細
取引の為に乾に処女を捧げた時点でわかるように我が身の事ながら「どこか他人事」の様に思っている節がある。それは自分に対しても、時世に対してもである。性に対しては相手による部分も大きいが、求められる事に対して「男とはそういうもの」「受け入れてあげれば何かが変わるかもしれない」という思考がベースにある。これは、あまりにも後ろ盾を持たない自分が何かを成そうとする時の、江戸時代というものを逆手にとった最終手段、事態が好転するのであれば…という自己犠牲の節もある。更に深層を探れば、そういう風に考えてしまう大きな根拠として「そもそも自分は子供ができない」という事実も大きく関わっている。 そして、はつみ本人が悟っている事ではないしこれも相手による部分が大きいが、行為自体嫌いではない。はつみがそう考えているのとは別で、はつみの身体がそのように反応し、受け入れてしまうのである。事の他「スイッチ」が入りやすく、また男性を虜にする素養も多く持ち合わせていた。・キス(口吸い)をされたりその人の身体の香りで鼻腔を刺激されるとすぐに絆されてしまう
・サラサラと絹糸の様にほどける艶髪
・日頃、当時の人々に比べ姿勢の良さだけを見ても華やかで垢抜けた印象をもたらしていたが、露出された手足や腰はすらりとして美しく、普段は隠している胸や尻あたりの曲線美が素晴らしい。
・すべらかで手のひらに吸い付くような肌
・絆されると全身の感度が急上昇し、分かりやすく反応する
・目元や鼻、耳、唇はもとより、体のいたる部分が分かりやすく薄紅色に染まる
・男性の耳に心地よく響く可愛らしくも生々しい嬌声
・涙、涎、汗、潮、愛液愛汁に至るまで分かりやすく多く分泌される
・肌や分泌液に甘みがある
・蚯蚓千本や蛸壺といった名器であり、交わった男性を間違いなく虜にする
・はつみ自身の感度も高く、深く感じ入る様子は極めて艶めかしい
など
・椿の押し花
(武市) 文久3年3月、季節外れの雪の中、武市と椿を鑑賞した。 はつみはこの椿から押し花を作成し、以降大切に持ち歩く。・徳川葵紋の絹の懐布
(家茂) 文久3年4月26日。 はつみは武市と納得できない別れをした直後でもあり今すぐにでも土佐へ行きたい心境であったが、大阪に現れた勝海舟が駆る蒸気船『順動丸』に無理やり乗船させられる。すると、なんとその船には神戸湾視察の為に同乗していた徳川家茂がいた。家茂は異色なはつみにすぐに気が付き、英語や海外文化に堪能な人物であると紹介を受けると興味を持って接し、「ここは船上であるし人も少ない、そう気負わないでほしい」と親しみやすい笑顔を見せてくれた。・ジャパン・パンチ
文久3年6月。ひと月前に将軍直々に許可が下りた神戸海軍操練所および勝海軍塾の建築が進む中、写真家フェリーチェ・ベアト(フェリーチェ・ベアト)が現れた。詳細
ベアトは操練所に滞在していた勝と面会し、はつみが通訳を行い、龍馬が同席した。日本初の海軍を目指す同施設への取材という名目で来たが、実は1862年(文久2年)に横濱で彼とその相棒が発行したジャパン・パンチに、文久元年横濱でスケッチされた男装の女性がここにいると噂を聞いてはるばるやって来たと打ち明ける。勝は「なんでぇ!ごしっぷ狙いかい!」と笑い、龍馬も当時横濱ではつみをスケッチしていた外国人達と夜通し遊んだ事を覚えており「皆元気にしちゅうかえ!おんしも遠い所からよう来たのう!」と、恐れ知らずの写真家ベアトにも親し気に声をかけた。彼らの反応をはつみが全て通訳した後、ベアトから直接「これはあなたの事ですよね?」とジャパン・パンチを受け取る。ページを裏返すとすぐに、あの時スケッチされた、英語のメモを持った自分の似顔絵を見付けた。風刺的な記事が多い中でも自分に対して書かれている絶賛コメントに恐縮し、恥ずかしそうに頷いたのだった。 ベアトを始め、ワーグマンや横濱の仲間たちは『HATUMI(ハテュミ)』と発音している様だった。ジャパン・パンチは本国イギリスでも配布され、この「抑圧されたミューズ」と表題をつけられたはつみの記事に興味を持つ読者が多く、そんな中この神戸海軍操練所に消息の糸口を掴んだのではるばるやって来たとの事。はつみは彼に対し、『身の危険も起こりうる時世にここまで来てくれたそのジャーナリズムに感動している』と褒め称え『取材に来てもらえる事はとても光栄』である事も伝えた。ベアトは日本人らしい奥ゆかしい気遣いを受け心底感動し、その言語コミュニケーション力にも『どこで習ったのか』等とおおいに関心した。はつみは『ほとんど独学です』と答え、かつて土佐で譲ってもらった辞書や数少ない資料、英語や例文をひたすら模写した自作のノートをベアトに見せ、中には、それこそスケッチされた文久元年の時に英国特別通訳生であったA.F.シーボルトから教授された時のノートもあり、興味深そうに撮影された。 教材が少ない事はベアトの友人である通訳生アーネスト・サトウも常に悩んでおり、その事をはつみに話すと「きっと私なんかよりもずっと勉強が進んでいらっしゃると思うんですけど…」と一言置いてから、いわゆる単語帳の様なリストや英米対話捷径の写しを提供する事になった。(これは想像以上にサトウの心を掴む贈り物となった)
ベアトは勝の許可を得て神戸海軍操練所と海軍塾の一部を見学し(といっても殆どが整地されたばかりまたは整地途中だったので、詰所や作業場、資材以外何もない)、その間通訳は寅之進と陸奥に任せ、はつみはサトウへ送る教材をまとめると同時に一筆したためていた。その際、勝や龍馬らはベアトから英国海軍の話を聞かせてもらったらしい。 皆で写真を撮り、はつみへのインタビューも一通りすませると「日本へきて毎日が刺激的な日々だが、今日は良い出会いの日となった。この大傑作を、日本を愛する横濱の仲間達にも早く伝えたい。」と最後まで感激し通しで、一泊もせずもう今すぐにでも横濱へ帰路を取ると言う。(これとは別に、ベアトには差し迫る予定もあった。英国艦隊が薩摩へくりだすという事態が起こる予兆があった為だ。) 勝は『外国人であるお前さんを目の前に耳の痛い話だが』とした上で、先月5月10日に攘夷実行勅命として長州が地元下関で外国船を砲撃した事に触れた。これは長州だけでなく、どこぞに潜んでいるか分からぬ侍一人ひとりにとっても攘夷を決行する絶好口実となっているだろうと、ベアトの旅の安全を危惧していたのだった。順動丸で横濱まで連れて行ってやりたかったが大阪での『公務』の方がバタついており、いつ出発となるか分からない状況で船が出せないと言うと、ベアトは「とんでもない!自分の足で歩くよ。日本の最もベストな景色を写真に収める事もライフワークの一つなんだ」と丁寧に謝絶した。ベアトの人柄の良さは英国内でも定評あるものであったが、今回初めて外国人を見たほとんどの勝塾の生徒たちは少なくとも『攘夷』と叫んでいた頃に思い描いていたものとは全く違う、むしろ友好的なものを感じ得ただろう。 ベアトも自身の護衛を連れて歩いていたが、貴重な情報を提供してくれた返礼にと勝海軍塾から剣の達人である黒木小太郎と他4名を護衛として同行させる事となった。
「どーせここにいたってやるこたねぇんだ、お役に立ってこい」
「やる事ないって事はないですろう…」
「そうだよ、勝先生…」
そんな師弟の会話を、ベアトは極めて友好的な様子で聞いていたのだった。 ちなみにこの帰路にあたっては、はつみの白い鳥ルシが見守るかの様にずっと上空をついてきていた。ベアトは、ルシが木に止まっている際に急いで撮影機を準備し、撮影する事に成功している。
横濱に戻ったベアトはさっそく写真の現像保管と記事制作に取りかかり、途中7月の薩英戦争に同行しつつも8月上旬には記事制作を再開。この弾丸小旅行をミニコラムとしたジャパン・パンチ別冊の『小旅行、日本の風景』といった趣旨の臨時号を発刊する。道中の景色や出会いなどの他、メインはやはり、ジャパン・パンチ初刊で話題になった「抑圧されたミューズ」ことMiss hatumi(ハテュミ)改めMiss hatsumiの記事であった。 (「ツ」の発音は彼らには難しいらしい)
尚、神戸海軍塾取材から帰着したベアトから写真と手紙、日本語資料を受けたサトウは大変に感激し、神戸のハテュミへ迷わず手紙を送っている。(返信の手紙であっても自ら発するところがシーボルトとの違いである。) そして7月の薩英戦争を経て横濱へ帰着した8月、はつみからの丁寧な返信(一行ずつ日本語と英語で書かれている)を受けてまた感激する。彼女の名前がハテュミではなく「はつみ」である事を知る。そして個人的なペンパル(文通相手)としての語学交流が始まったのだった。
・和紙や携帯用筆記用具
(寅之進) 文久3年京。寅之進からの贈り物。 はつみはこまめに手紙を書く人だった事に加え、常に筆記用具を持ち歩く人物であった為、彼女の為に見繕った。 同時にはつみが好きそうな(あるいははつみの心が少しでも癒されそうな)紙を見つけてはこまめに購入している。・衣類(改)
文久3年秋、武市救済のために道なき道を模索し歩き出したはつみと寅之進を長州系尊皇攘夷志士が襲う。これを機に、寅之進と共に装いを一新した。暗がりに溶けやすい青系の羽織で印象を変え、刀を落とさない様結び止め、動きやすく落ち着いた色味のたっつけ袴で機動力も上げる狙いがあった。 羽織には改良を入れ、寅之進と同様ポンチョのような構造に。綻びにくく、綻びても繕いやすい上に旅先で洗濯をしても乾きやすい。裏地も付け外しが簡単にできる様にしてあるので、はつみが特に弱い寒暖の調整もしやすくなった。夏場に裏地を外せば風通しの良い日よけ変わりになる。ただし、袖付けは相変わらず空いている。 (緊張感がない訳ではないのだが、やはり現代的な感覚が強くファッション気質)詳細
・ドレス何度か贈られている。 始めは元治元年5月頃。長崎出張より戻った勝と伏見寺田屋にて合流する。勝から長崎土産としてドレスが贈られ早速お登勢に手伝われながら着てみるが、当時の感覚では目のやり場に困る程一部露出のあるドレスだった。 (はつみ的にはそこまで気にはならないが、糸骨から少し胸のふくらみがチラ見えする程度にデコルテが開き、強烈なコルセットで胸が寄せ上げられ腰が締められていた。バラがモチーフのバッスル・ドレス。赤・黒)しかしはつみは見事にドレスを着こなしており、着衣したはつみが二階から降りてくるなり、普段荒くれで賑わう船宿の寺田屋が沈黙(悶絶)した。目立ちすぎて危ないので一旦脱ぐ事に。しかし勝は「貢ぎ甲斐があるねぇ」「アメリカを思い出すぜ」と非常に満足そうであった。 後日、ついに開設された神戸海軍操練所(その中の海軍塾)を拠点とするため、一同は移動をする。創立記念に、操練所の港で記念写真を撮る事となった。龍馬ははつみにドレスを着用する事を勧め、はつみもそれに応じた。
・定服以外にも、汚れや破損、間に合わせで普通の和装をする事も多々ある。 (ただしその場合も動きやすい男装を好んだ)
主な拠点となった神戸(海軍操練所宿舎)や伏見寺田屋、京白蓮などではある程度の衣類用意された状態で、作り置きをする際に選ぶ着物の反物の柄には大柄なものを特に好んだ。ただし大柄を着こなす者は一般には殆どおらず、その為はつみが店先で反物を見る際に気に入ったものがあればとりあえず購入して時間がある時に着物を繕うするといった事が行われていた。
・慶応4年3月、英国領事館勤務となった際に和装が浮いている事もあり、女性向けの『オフィスカジュアル』な洋服を求めて商業街へと繰り出したが、女性向けの洋服はドレスめいたものしか売られていなかった。 はつみは例の如く自分で作るという発想に自然と至り、大きな襟にゆったりとした袖口が肘の辺りで詰められて腕にぴったりとした状態で袖口へ続くといった形の白いブラスと、ハイウェストからAラインに広がって膝の辺りで詰められた黒のスカート、足にぴったりとした暗い色のタイツをデザインし、慶応2年秋の大火以来来日する様になった英国の仕立て屋へと持ち込んだ。相談し合いながら、いわば全オーダーと言った形で、彼女の満足のいく服が出来上がった。 ひざ丈のスカートなどはつみには何の抵抗もないデザインではあったのだが、日本文化においてはもちろん、当時の英国においても足のラインが出る女性服はなかなかに奇抜なものであった。 しかしなんだかんだ言っても、この洋装はかなりウケがいいものであった。
~他~ 慶応3年8月、英国商人グラバーから贈られる。チャイナドレス(紫)
明治元年、10月誕生日に木戸から贈られるバッスル・ドレス(白ピンク)
明治元年、10月誕生日にサトウから遅れられるバーバーリーのトレンチコート(ブラウン・BBチェック)
明治2年、英留学中にアーネスト・サトウから贈られる。高級レストランのドレスコードに合わせた フォーマルドレス(青レース)。
英留学中にアーネスト・サトウから贈られる。写真撮影用の華やかなバッスル・ドレス(瞳と同じ翡翠色レース)。
明治2年、帰国してすぐ年末の政府主催パーティに呼ばれ、木戸から贈られるバッスル・ドレス(白青)
明治3年、陸奥から贈られるフォーマルドレス(黒レース)
再会した龍馬から贈られるフォーマルドレス(黒ベージュ)
などなど。自分が見立てた服を着てもらいたい男達…(笑)
あとは、外国人を招くパーティや食事会には通訳件応接役として声がかかる様になるので、薩摩から支給品の様に何着かを贈られる。(大久保や岩倉ははつみを外交接待の有力コマとして見ているが、岩倉なども含めこれ以上女性を出世させる事は考えていない。)
明治以降は、特に何もない時には外国労働人の定番であったジーンズなども普段着として着こなしている。(やはり現代人の感覚強め)
・神戸海軍操練所での集合写真その他数枚
元治元年5月、開設された操練所にて記念撮影となる。 はつみは勝から贈られた長崎土産のバッスル・ドレスを着用し、その肩にルシがとまった。龍馬が桜清丸を、寅之進がアンブレラを持って(はつみにかざして)いる。中央に勝、龍馬、その隣にはつみと寅之進、陸奥、他、海軍塾生徒数名という構造になってはいるが、とにかくドレス姿のはつみが色んな意味で目立ちすぎている。 他、いわゆる悪ノリした写真も操練所時代に数枚撮影している(おもしろポーズや変顔といったもの。勝も一緒になっている)。文久元年江戸での撮影といい、こういった発想は当時としては殆ど無く、現代人のはつみらしい写真となった。また、この頃のはつみは武市の事でかなり思い詰める日が多かったが、つかの間の笑顔が見られた。・背中の切り傷
元治元年6月中旬、京。日頃の新選組による厳しい取り締まりの他、池田屋事件、そして明保野亭事件などの尊皇攘夷派(主に土佐浪人)志士と会津新選組の感情がおさまりきらぬ中、尊皇攘夷志士(柊ら)による襲撃事件が起こる。 その最中、はつみが背中を斬られてしまった時の傷跡。詳細
不幸中の幸いか、さまざまな状況から太刀筋がずれ、辛うじて骨や内蔵へのダメージは免れたものの真皮が見えるほど裂けた。新選組(その場に駆け付けた沖田)による適切な応急処置、そして新選組が会津に要請して駆け付けた広沢安任や山本覚馬(佐久間象山や勝海舟に学ぶ)の口利きで蘭方医の派遣を受け、迅速な手術かつ治療を継続して受ける事ができたが、背中の大きな切傷はいかな治療であっても開きやすく、高熱も発しており、化膿を起こせば敗血症にまで陥る可能性も非常に高くなるとして決して楽観的な状況ではなかった。 新選組護衛の下近場の宿へと丁重に移送され、徹底した消毒治療が行われた。面会は限られた。 翌日、白蓮からお万里がはつみの世話の為やってきて、蘭方医による治療の補佐をした。以下暫く共に行動をする。 以下詳細:(SS『背中の切り傷はつみ・龍馬視点』『背中の切り傷内蔵太、桂、柊視点』)8月中旬、伊藤からの呼び出しが合って下関へ赴いたはつみは、英国旗艦ユーライアラス号にてサトウと初対面し、背中にキズを受けたと聞いていた彼の手引きで英国公使館付き医官ウィリアム・ウィリスの診察を受ける事となった。 蘭方医が指示し、はつみもその治療方針に納得して挑んできた事は正しかったと改めて証明された。 傷口は塞がっており、皮膚が少し引きつるといった若干の後遺症はあるものの、ほぼ完治だろうとの事だった。
はつみの背中の傷の事は長州を始め彼女と関係のある志士達達の間において、この時期同じく攘夷派に襲われ重体となった井上聞多に関するそれとはまた少し違った趣で広まった。その華奢な背中に刻まれたであろう太刀傷をまるで芸術でも見やるかの様に「一目見てみたい」と。 ※ウィリスが診察で見た後は、柊→総司→内蔵太(数回)→高杉→高杉→乾→龍馬(数回)→サトウ→板垣という順番で 背中の傷を見られている。(あるいは、『見せて』いる)
・偽名~鬼椿権蔵~
元治元年8月、伊藤俊輔、池内蔵太、柊智による招集に応えるべく下関へ行く際、考えた偽名。 (中浜万次郎から預かった薩摩の通行証で神戸港を出るにあたり)。 まったく雅さのかけらもない名称に始めは不服であり今回きりと思っていたが、伊藤俊輔をはじめ高杉、サトウに至るまで多くの人がこの偽名に「ひっかかった」為、非常に有効な偽名なのではないかと考え改める様になった。詳細
・龍馬…才谷〇太郎(さいたにまるたろう。『才谷梅太郎』を一文字変更した。) ・はつみ…鬼椿権蔵(おにつばきごんぞう。陸奥がふざけて考えたやつ。 他候補には、お万里が考えた桃瀬円モモセマドカ、自分が考えた神宮寺碧羅ジングウジヘキラ、橘風雅タチバナフウガ、 陸奥の悪ノリ桜庭攸(サクラバ ミズノユッタリトナガレルサマ)などがあった。 百瀬と神宮寺で決められずにいたが、最終的にくじ引きで決め、鬼椿権蔵になった。)・寅之進…海原一輝(かいばらかずき。はつみ考案。好きなものは何かと尋ねると、景色を見渡し 「海がきらきらと輝く様を眺めるのは好きですね」と答えた事に対し、この名が考案された。 寅之進は非常に気に入っている)
・陸奥…伊達風雅(だてふうが。はつみの候補『風雅』が気に入り、拝借wした)
・内蔵太…細川左馬之助(ほそかわさまのすけ。もともと使っていたもの)
・柊…深澤攸(ふかざわゆう)もともと使っていた偽名だが、もちろん柊も「みずのゆったりとながれるさま」を 考慮してこの文字を使用していたのだが、公表前に桜庭攸の流れがあった為、盛大に陸奥からイジられる。 (ちなみに陸奥と柊、内蔵太は江戸の安井息軒に師事した同門でもある。もっとも陸奥は柊や内蔵太が 入門する前の年に14歳にして吉原通いが露見した事でブチ破門を食らっていたのだが)
・お万里…弓子(ゆみこ。「万里と毬からの連想で弓の字を用いるのはどうでしょう?」と寅之進による発案。 お万里は非常に気に入っている)
・鉛筆1ダース
サトウがくれた英国の鉛筆12本入り。その後も定期的に贈られ、明治3年以降は毎年クリスマスに 文房具を贈りあう習慣となった。(1ダースだけ贈る様にした理由は「消耗品だからこそ、またすぐに 贈るきっかけができる」事を見越してのもの)・携帯用酒瓶
(高杉) 元治元年秋。はつみは消毒用に純度の高いアルコール類(焼酎等)を持ち歩いていたのだが、はつみが酒好きだと勘違いした高杉から贈られたお揃いの紐付き酒ひょうたん。結果的に消毒用に持ち歩いた。・髪型(改)
慶応元年夏頃長崎にて、文久3年頃から前髪以外は殆ど手を付けず伸ばしっぱなしになっていた髪を整えた。 これまでは髪を降ろした状態で言うところの『レイヤー』が入ったヘアスタイルだったので、後ろでポニーテールの様にまとめると茶筅髷の様になっていた。それがこの頃からは毛足も揃い、ポニーテールの部分は広がりをみせず『ひと房』として自然形の髷となった。 また、慶応4年3月、英国領事館勤務となり洋装の手配ができた際、洋装に合わせて髪型も大きく変えた。編み込みに黒いリボンを加え後頭部下あたりでゆったりと髪同志を結う様にして差し込む。落ち着いた雰囲気を演出た髪型であった。・ブーツ、ウエストバッグ
慶応元年7月頃、髪型を変えた同時期長崎にて、龍馬が「快気祝いならぬ快気願い」として、長崎にてぷれぜんとしてくれた。英国商人グラバーから購入する。・S&W M2 Armyとホルスター(ショルダータイプ)
慶応元年10月に下関で再会した高杉(谷潜蔵)は、文久2年8月に交わした約束の通り「いい女になった」はつみに簪を用意していたのだが、はつみが幾度となく襲撃を受けながらも心折れず、長州の大事にもこうして何度も駆け付けてくれた事を受け「君にふさわしいのは簪ではないな。もっとふさわしいものを用意しよう」と言って、潔く簪を捨てた。 そして次に会った12月、この7連式リボルバーS&W(M2)がはつみと龍馬に贈られる。詳細
一丁は上海で購入したものだったが、もう一丁は高杉が長崎へ出向いた際に購入していたもの。龍馬には「これで己の身を守りたまえ」と言い、はつみには「これが僕の代わりに君を守るだろう」と言った為、龍馬からツッコまれ笑い飛ばしている。はつみにはホルスターも用意しており、これに至ってはここで装備して見せてくれと謎のリクエストをしている。羽織を取りシャツの上にホルスターを装備して見せたはつみに、高杉は「うーん。思った以上だな」
と唸り、龍馬は
「他の誰にも見せたらいかんぜよ…」
と言う。二人は意味深に硬い握手を求めあっていた。(要するにホルスターを装着する事で胸回りのボディラインが浮き上がるので、すけべ目線でゴチャゴチャ言ってるwちなみに間もなく翌年になり薩長同盟が成立する1日前に思わぬ形で沖田と再会、そして情事に発展した為、このホルスター姿は沖田にもがっつり見られている。)
薩長同盟後の寺田屋事件では、寺田屋から逃走する際に威嚇で空(くう)へ向かって6弾打ち放っている。龍馬に至っては史実上では2人を殺傷したのだがこの時は全弾威嚇射撃に終わりはつみの知る歴史とは違う経緯になっている。 (しかし歴史通り龍馬は装填の合間に手を負傷し、リボルバーを落とし、失血が多く生死の境を彷徨う事になる。) 同年第二次長州討伐の際、精神的に苦悶するはつみを丙寅丸で連れ去った高杉であったが、大島奪還奇襲作戦の際にはつみを抱き庇いながらその脇下に装備されていたリボルバーを抜き取り、船上のライフル兵へ打ち放った。 また、慶応4年千駄ヶ谷の植木屋で療養をする沖田を見舞った際には、不逞浪士相手に数発の威嚇射撃を行っている。 はつみ自身は生涯で一度も、銃で人(動物)を撃ち殺す事はなかった。
・河内守藤原正広 短刀
(武市) 慶応3年9月、富からはつみの手に渡る。詳細
万延元年、祖母の喪があけた武市は短期間ながら西国遊学(情勢探索)の旅に出た。その際に愛刀となる河内守藤原正広を購入したのだが、同じ銘の短刀をはつみのために購入している。 しかし帰藩しても結局それを渡す事はなく、ずっと天袋(天井部分の納戸)の隅にしまわれたままだった。 時は巡り文久3年夏土佐、土佐勤王党への弾圧が厳しくなり自身の捕縛も覚悟した武市は、正妻富に洗いざらい打ち明けた上で「もしいずれはつみがここへ来る事があったなら、これを渡してやってほしい」と、この短刀を託した。武市が切腹をしておよそ二年後、はつみはやっと武市の墓に参る事ができ、その際に富からこれを受け取った。 同年12月(歴史改変)、京白蓮にて龍馬が襲撃を受けた際、腹に差していたこの短刀が奇跡的なバランスで敵の凶刃を受け止めており、はつみは致命傷を回避している。
・武市の襟巻
(富からの寄贈) 慶応3年9月、富から形見分けとして寄贈される。冬場などに武市がよく巻いていた襟巻き。はつみが最期に武市を見た文久3年春にも巻いていた。・黄色水仙の押し花
(龍馬) 慶応3年10月末。いろは丸沈没事件の際に漂着した六島を再訪し、龍馬がこれまでずっと押し殺していた想いを告げ結ばれた。その際、囁いた愛の言葉と共にはつみの髪に飾られた、季節外れの水仙。黄色水仙の花言葉は「もう一度私を愛して」
・龍馬の拳銃
(S&WM1) 慶応3年11月に龍馬が遭難した際、西郷の手によってはつみに手渡された。これは、慶応2年薩長同盟直後の寺田屋事件を経て薩摩療養旅行を行う際、護身用として西郷から龍馬に贈られたもの。(高杉から贈られたはつみとお揃いのS&Wは寺田屋事件の際に落とし紛失した)・上質な銀細工の簪
(勝海舟) 明治元年10月、徳川の為、駿府領の返還うんぬんの為に駿府へ旅立つ勝海舟から贈られた。「折角いい女なんだから過去やシガラミに捕らわれたりせず人生を満喫しろよ。 洋風もいいが、日本式の美も男をコロッとイかせるもんだぜ」
といった、相変わらずざっくばらんな手紙も添えられていた。 (同時に、サトウには立派な馬が贈られ、はつみに続き寅之進にもロケット式海中時計が贈られている)
・ピアノ
(陸奥陽之助) 明治元年10月の誕生日に、当時大阪判事である陸奥が堺で取り寄せ、贈ってくれる。詳細
このピアノは後に開設する私塾(幼児及び青少年向けの日英会話塾)でも大きな貢献をしてくれる。 日本最古と言われるピアノのひとつが、山口県にあるらしい。シーボルトが関係しているそう。 ちなみにはつみがピアノを披露する(楽譜を読むことができる)のが発覚するのは慶応元年長崎の大浦屋にての事。・万年筆とインク入れ
(小松帯刀) 明治元年10月の誕生日に小松から贈られる。フランス式の美しい装飾が施されている。・スイスの時計ブランド「ジラール・ペルゴ」の腕時計
(ミットフォード) 明治元年10月の誕生日にミットフォードから贈られる。本当は指輪を贈りたかったなどと思わせ振りな囁き付き。・英国産バーバリーのトレンチコートとネックレス、ブレスレット
(サトウ) 明治元年10月の誕生日にアーネスト・サトウから贈られる。はつみも知っているかのバーバリーであったが、この頃はまだ発足したばかりの若手デザイナーによるブランドだった。・漆塗りの化粧箱
(寅之進) 明治元年10月の誕生日に寅之進から贈られる。格式高い上品な和の装飾が施されている。 洋式が多く取り入れられる昨今において、寅之進がよくよく考えて選んだのが伝わる一品。 はつみはこれを英国留学にも持っていき、生涯使い続けた。・脇差
(板垣) 明治元年12月、留学が決まったというはつみの元へはるばる土佐から訪れ、最後の『取引』を持ち掛けた。 翌朝眠る彼女の寝顔に別れを告げるのだが、その際脇差を置いて去って行った。はつみと出会った安政6年から持ち続けていたもので、はつみと蛍を見た時にこれで猪を退治した事もあった。 名高き銘刀ではなかったが、彼にとってそれを手放す事はひとつのけじめだった様だ。・白のベアドールと故郷ライデンの風景アルバム
(シーボルト) 明治二年、民部大輔のパリ万博使節団通訳と賜暇から帰国したシーボルトより渡される。ベアドールはマルガレーテ・シュタイフというドイツの人形メーカーで長年愛されている熊の人形。首にはアレクがよく付けているスカーフと同じモスグリーン色のリボンが結ばれ、瞳もアレクと同じグリーン色をしている。(アレクはライデン生まれだがシーボルト家はドイツ貴族の家系であり、子供のころから親しみある人形だった)さらにもうひとつ、ライデンの風景写真集はシーボルト自身が撮影したもの。『これを見ながらあなたに私の事を知ってほしかった。』と言う。入れ替わりではつみが留学に出る事、そしてその旅路にサトウが付き沿う事に、彼女の成功を祈りつつも極めて歯がゆい思いを抱いていた様だった。アレクは14才の頃から恋をしていたのに…。
・旅の安全お守り
(さな子) 明治二年、英国留学の少し前に千葉佐那子から贈られたお守り。手のひらにすっぽり収まるサイズの手作りお守り。・天桜神社
明治横濱。はつみの屋敷の敷地内に建てられる神社。 宗教的な意味合いはなく、ルシ(ルシファ)と沖田からもらった鳥笛を祀っている。・日英会話塾
明治3年夏に帰国してからは『横濱に住む日本人、外国人、またその間に産まれた子供たち全ての人の為に、互いの文化と語学を学ぶ塾を設置したい』との志を示し、外務省への再出仕を辞退してこの私塾を開設した。詳細
(大阪・小松帯刀の臨終に間に合っており、薩摩で一番、はつみの将来性を『純粋に』認め留学支援を薦めてくれていた彼は、留学を経て定まったというはつみの新たな夢に大きく同調してくれた。) 私塾設置に至っては当然はつみの私財が投下されたが、寅之進をはじめ、龍馬、木戸、伊藤、陸奥、板垣、西郷、小松、サトウ、英国公使館、シーボルト、伊達宗城、三条といった面々をはじめとするこれまで築いた人脈が『後援者=パトロン』となり、直接的な金銭面だけでなく様々な場面でその多方面からの大きな恩恵にあずかった。 この時はつみは旧知の仲であった千葉さな子を教員として迎えている。はつみの志の通り、国籍を問わない5歳までの幼児および6歳から12歳までの児童および13歳から18歳までの青少年に向けたカリキュラムを組んだ私塾を開設すると、横濱の日本人居住者および外国人居住者から大多数の応募者が殺到した。その為待機入塾希望者が多くいる中で始まった開塾することになった。 当時国際結婚に関しては英国から幕府(慶応3年)に現行の国際結婚法についての照会があっただけで、新政府から正式な発布はまだされていない状態だった。(明治5年に再び英国から問い合わせがあり、明治6年に『太政官布告103号』として発布された)とはいえ英国側が問い合わせをするだけあって、現地においては『事実婚』状態の者達が多くいた訳である。あるいは内縁関係になくとも外国人の子供を孕み産み落とす者もいた。いずれにしてもこうして生まれた混血の子供は基本的には日本の教育場に歓迎される事は無く、保護されているはずの横濱居住区の中にあっても(ひと昔前ほどではないにせよ)差別を受ける事もあった。数年前にはさびれた漁村であった横濱村が今や人や物資があふれる土地となっており、だからこそはつみはこの地において『言葉の壁』を取り払い、知識と自分で考える力、価値観を得て、人種に関係なく手を取り合う未来を子供たちに示したかったのだ。
授業内容については、特に歌や音楽などを用いた『リトミック授業』に大きな関心が寄せられた。子供たちは音楽に合わせる事で見知らぬ語学も楽しく学ぶ事ができ、青少年に至れば音楽を通じて各国の文化や芸術に触れ、外国への関心を広げるきっかけとなった。主にははつみがピアノを弾き、さな子が琴を用いた。教員には日本人、外国人がおり、はつみが間に立ち回る事で比較的平和的に共存出来ていた。また、寅之進や陸奥、サトウやシーボルトなどがその休日などを利用して無償ボランティア教員として訪れ、普段見られない様な様子で子供たちに授業を行う事もあった。
噂は江戸にも広まり、これを支援する要人も多かった事から多くの国内報道紙、国際新聞にてその特集が掲載された。特に横濱および長崎、函館、英国においては、文久元年に流行したジャパンパンチに掲載された『抑圧されたミューズ』から、慶応3年イカルス号事件時にサトウや長崎英国領事らに『外交のミューズ』と言わしめた報道も絡め『日本のミューズ国際躍進』とかなりオーバーな見出しで報道され、はつみ本人の知らない所で『日本人女性』としての名が広く知れ渡る事となった。 はつみと友好的な関係であった英国公使館も地域奉仕の目的で楽団を派遣し、地域へ向けたレクリエーションパーティが開催されることもあった。
・現代品
はつみがトリップしてきた時の荷物。安政6年にはつみの身の上を案じた直があえてこれらを隠し、そのまま誰にも知らせる事なく亡くなったのでずっと行方知れずのままだった。詳細
しかし明治4年以降、「初桜月伝~かぐやの君~」の執筆を開始したする寅之進が取材の一環で土佐におとずれ、ルシ(もういない筈だが確かに現れた)の導きでこれを見つける。はつみの正体を知った寅之進(とお万里)は、この未知の荷物の処遇について思案を重ねたが、最初に直が強い意志を持ってこれを隠した様に、もうこれは『今の』はつみには必要のないものとして、自分が処分することに決めた。土佐から船に乗り、土佐湾に一つずつこの未知の道具を『供養』していく。…しかしはつみの顔写真が印刷されているこの学生証は捨てる事ができなかった。ただただ傍にいるだけでいいと思えるほどに愛した人が「この世の人ではなかった」という事実。肉親も、本当の彼女を知る者も誰一人としていなかったはつみが「かぐや姫」の様にずっと孤独を抱えていたのではと想うと、胸が破裂しそうな程苦しくなる。そして、自分の運命がおそらく文久元年のあの日にはつみによって救われた事…今目の前で、こんなにも美しく輝く太平洋を見る事ができるのは、あの時からはつみが常に自分の傍にいてくれたからこそなのだと思い至った。改めて、そう感じた。 はつみの秘密を消去するのではなく自分が背負っていく事を心から望む彼の背中を、お万里と、白いハヤブサが後押しする様に見守る。…はつみの学生証は、寅之進が大切に持ち続ける事となった。
寅之進が寿命で亡くなった際には、お万里がこの秘密を引き継いだ後に京白蓮へと丁重に移動し、保管された。その後、現代において幕末時代や新選組などが人気ブームとなると、その新選組の沖田や長州や土佐の英雄・高杉晋作や坂本龍馬らと交流があったとされるはつみの存在がにわかにピックアップされ始める。白蓮がこの学生証を世に出したのはその頃で、これがきっかけで桜川はつみというグローバル女志士の存在が歴史のブラックホールタイムトラベラー説と共に世に広く知られる事となった。同時期、江戸の影真堂で撮影された様々なラフ写真の中から『江戸ダブルピース』の古写真が公開されて大いに話題となる。
・輝夜之君~初桜月伝~池田寅之進著
明治3年に英国留学から帰国したと同時に外務省判事への打診があるが、留学期間中からすでに伝記の作成と構造を考えていた寅之進は、公職との両立が難しい事を受け伝記の作成を優先させ、新政府への出仕を(はつみ同様)辞退した。 その後明治4年頃から寅之進がはつみの伝記作成の為に全国取材への旅に出る。詳細
半ばはつみと一つになれない傷心旅行とも言えるものであったが、旅の途中ではつみの面影と向き合うにつれ、道中助手としてついて来たお万里との距離が縮まっていった。 全国への取材を明治5年頃に終えた寅之進は、蝦夷でグラバー商会の支店長となっていた坂本龍馬を頼り、人妻となったはつみの元を去る。龍馬の元で敏腕秘書として世界を飛び回りながら執筆をつづけ、明治8年頃に完成。はつみに出版の許可を得る。許可を取り付けるにあたっては寅之進の他に龍馬、その妻さな子がまず説得にあたり、龍馬の脅威の人脈パイプによって木戸、伊藤俊輔、板垣はては三条や東久世、伊達宗城などなど非常に多くの関係者による『是非出版したまえ!(出版は知らんが原本を読ませたまえ)』の声が殺到した。当時賜暇で再度帰国していたサトウや政府直接雇用となっていた外国人シーボルトらによる説得も受け、ようやくはつみの許可が下りたといった形だ。本人はあくまで『伝記を出す様な人間じゃないし、若い頃は色々あったから恥ずかしい…なんで寅くんあんな事まで知ってるの?』といったスタンスであったが。
出版に際し、当時は西南戦争直前であった為西郷や彼らに連なる者達について書かれた箇所は削除あるいは改変の処置が下され時間がかかった。ただし、腹部の病が進行し死の直前にありながらも太政官でその手腕を振るい続け、その傍ら寅之進によるこの伝記作成を支援し完成を楽しみにしていた木戸には、改定前の原本を複製したプロトタイプが贈られていた。(後世においては基本的に一般に出版され出回っていたものが残されたが、西郷周辺の人物や新選組、明治政府の要人などに関わるあらゆる箇所が多く添削されている。しかし木戸所蔵の『初桜月伝』ではありのままに書き綴られている事に学者たちが気付き、話題となる。筆まめであった寅之進の日記から木戸の死直前に寄贈された複製本があるというウラが取れ、極めて貴重な一冊となっている。)
はつみの影響を強く受けていた寅之進の筆(文章)は当時珍しくはあったが、いわゆる『近代的に洗練された文体』は意外と読みやすく市井の人々にも馴染み、また日本語に馴染み始めたばかりの外国人達にも「わかりやすい」として広く慕われ、結果、輝夜之君~初桜月伝~は当時ベストセラーとなる。近しい間柄であった者達はもとより、鹿児島西郷や桐野(中村半次郎)、村田経臣らも東京から送られたこの本を手にしたという。
明治11年、サトウと寅之進本人によって英翻訳されたものが横濱および長崎、函館、そして英国でも販売された。当時英国において極東の青い空と海のもとにある日出る国に興味を持った人であれば、殆ど誰もが『HATUMI(ハテュミ)』と呼ばれた少女の事を知っているほど、『抑圧されたミューズ』そして『外交のミューズ』はかなり有名人となっていた。 尚、当然はつみも内容を読んで自ら添削に協力するなどして出版された彼女の伝記であるが、寅之進ははつみの恋愛事情なども知りうる限り『文章ににおわす形』で書き記している。これによりはつみの武市への想いをはじめ、木戸や板垣などなど政界で活躍する人物から維新の最中に亡くなった志士達、外国人外交官だったサトウやミットフォード、シーボルト、そして敗戦の士としてあまり良い扱いを受けていない新選組の沖田総司や土方歳三らなどとの個人的な関係も明るみになる訳だが、はつみはもう腹をくくったらしく、『すべて過去。それも時代が移り変わる前の、幕末特有の事情の中での事だから』と割り切っており、堂々としたものだった。
・日英会話塾と教科書
明治編で設立する塾。塾については上記「はつみ塾と英語教材」詳細と重複のため割愛。 教科書ははつみが熟考を重ねた末開設当時に薩摩による監修のもと発行された。主な制作にあたっては英国留学中に行われており、同時期に賜暇で帰国中であったアーネスト・サトウ、同時留学中であった池田寅之進、野口富蔵らの協力を仰いだ。また日本に帰国してからは、画家チャールズ・ワーグマンらの協力も得、より親しみやすく(当時としては斬新な)教科書へとアップグレードされていった。監修には主に大久保利通が関わっており、意外と古風な考えを持つ大久保は女性が政治や教育の世界で活躍する事を良しとしておらず『小松さぁの遺言でなければ俺も関わっとらん』が口癖であった。…が、大久保もはつみの外交力には一目置いており、政界人やその妻に対し英会話や西洋マナーの講座などを依頼するなど、なんだかんだで持ちつ持たれつな関係でもあった。
・伴侶と子供(特異体質の解除)
明治元年のイースターでとある事変があり、はつみはその日から『普通の女性』になっている。月経がはじまり、経年老化が再開したのである。これを経て明治5年に結婚をしたはつみは問題なく子供を妊娠する事となる。(伴侶候補により結婚生活、子供の誕生時期・場所など様々に異なる為、現在詳細は保留中)
・幼稚園および大学(櫻清大学)名前変更かも
明治編のエンディングの一つとなる予定
明治横濱にて。グローバル教育を目指した国際大学とその付属幼稚園
周囲の協力を得てはつみが開校する。詳細
安政6年の頃から幼児及び青少年の教育について必要性を説いていた事を、木戸及び伊藤はじめ多くの要人が新政府樹立の際から既に知るところであった。また、はつみがその思想を一貫しており、明治二年英国留学においても教育学を修めた事も政府の知るところとなる。 明治3年夏に帰国後、私塾開設の志を以て外務省への再出仕を辞退したが、明治4年に文部省が設置されるとその外部顧問として招集された。意を決してこれを受けると明治5年発布を目指した『学制』の草案と一部の教科書作りに携わる事となる。教育制度が一新されるものであったが、教科書はこれまで『寺子屋』などで使われていたものがほぼそのまま引用されると聞き、はつみは『それでは旧体制の日本の知識しか得られない』と意見したが、外国の知識をそのままありのままに引用する事を避けたがる保守派がまだまだはびこっていた太政官でははつみのこういった先進的すぎる意見は大方取り下げられた。発布された学制では『留学および留学生』についての項目はあったものの、幼児教育や国際学校についての言及はなく、はつみは既に私塾として開講していた幼児および青少年向け日英会話塾が成功していたその背景にあるニーズも鑑み、またこれこそが自分の天命なのだと思い至った。更に日本のグローバル教育基盤についての見解を述べ続けた。
同施設の開設に向け諸外国のナーサリー(英)、プレスクール(米)、キンダーガーデン(独)、 エコール・マテルネル(仏)等について広く取材し、基盤形成の一端を担った。(史実から見れば、多大な影響を及ぼした。) これによって史実よりも2年早い明治6年、文部省が幼稚園開設の伺いを太政官に提出し、これが許可される。しかしここで認められたのは『幼児教育の場である幼稚園の設置』であり、はつみが目指していた『グローバル教育』は明治6年を以てしても急先鋒すぎた為、文部省直轄として設置される初の幼稚園は日本人向け(しかも中流以上の家庭に限る)のものとなっていた。 幼稚園設置の案が通った所で文部省の外部顧問を解かれた後も、識者として度々招集され、その際には国際学校についてもなんども意見・説得した。しかし幕末期、驚く程はつみの先進的であったはつみの語学能力や海外知識も、この頃には官僚間では割とスタンダードなものへと成り下がってゆく。(人材が育ってきた)
物事への俯瞰的な着眼力や価値観だけは150年後のものであるからこれに同調する者はなかなかおらず、それを認めて大いに助言願いたいと思う者もいれば、保守派などはまったをかける事も少なくない。 またはつみは外国要人からの贔屓が凄まじく、彼女を通して話をしてほしいとまで言う外国要人もいる程だった。この事は日本にとって誇らしい人材であると同時に、一部のいまだ保守的な政府要人にとっては『油断ならない』と懐疑的な感情を呼び起こす元にもなっていた。よって同じ程度の能力であれば使いやすいと思われる人材が登用されていく様になる訳である。
そんな中にあってもはつみは周囲の理解ある者達や、新しく理解を示してくれる様になった者達の助力を得続け、明治15年横濱にてインターナショナル・プレスクール(幼稚園)を創立。
明治23年には文部省大臣となった森有礼の理解を得、日本の幼児教育を中心に国際的な知育教育、価値観を学ぶ幼稚園『櫻清幼稚園』創立。後にグローバル教養に特化した大学『櫻清大学付属』へと成長。
『全ての人へ示される慈愛の精神と知性』の象徴として白いハヤブサが用いられ、人種、性別関係なく多くの学生を導くシンボルとなった。国際学校として後に多くの外交官および国際派官僚を輩出。慶応3年イカルス号事件の際サトウ及び英国領事、当時の幕府側の担当若年寄ら(平山)に「外交のミューズ」と言わしめた事に倣い、ミューズを模した銅像が建てられている。はつみと親交のあった英国画家チャールズ・ワーグマンが英国公使館勤務時代のはつみからイメージした創作物だが、祖国英国のミューズ『ブリタニア』にオマージュしたのではないかとも言われている。また同氏が描いたはつみの肖像画がエントランスに飾られている。
ちなみに…肖像画が描かれたのは明治25年頃の事でありおよそ50歳であったはずだが、桜川はつみの美魔女っぷりは代々生徒たちの間で有名であった。世界へ向けた文明開化が成されたとはいえ、まだ当時は現代よりずっと平均寿命も老いの速さも早く、まだまだ栄養の偏りによる脚気が国民の間で見られる様な状態でもあった。その中において齢50前後のはずが30代前後かと思える様な描かれっぷりだったのだ。後世となって幕末ブームに則り桜川はつみへスポットが当たる様になると、歴史に興味のない人でも食いつきやすい大きな話題になる。肖像画の作者であるワーグマンによる故意的な修正もしくは後世による修正かとも言われたが、多く残されていた本人写真と比較する事によって『決して修正ではない』といった事も証明される。 ましてや残された伝記と併せ読めば、まるでリアルかぐや姫の様に異質でありながら多くの異性から求められる女性であり、タイムトラベラー説すら彷彿とさせる話題に尽きないキャラクターとして、様々な形で親しまれる様になった。