獄中の桜



4月。武市が投獄されてから約半年が経とうとしていた。青白くやせ細った己の顔を見て『この世の人間ではない』と自嘲する手紙を妻に送る。

そんな彼の元へ、一通の匿名文が届けられた。


 とある同志を通して『匿名の手紙』が獄中へと届き、はつみが『無事』土佐から出た事を知る。安堵すると同時に、この手紙をよこした匿名の人物についても心当たりがあった。…恐らくは、乾退助であろう。一早く脱藩をした中岡が乾と腹を割って話し合った件についても記憶に新しく、
その前に滞在していた京では2度ほど、直接対話をした。その両方の情報から武市は思い至ったのである。乾退助は勤王の皮を被った上士のまわしものなどではなかった。自分と同じく正論と正義を好む真の勤王家であり、そして若くして他に類を見ない真の武士であり、突出した人格者であるのだと。

 失脚の憂き目に遭っているとはいえ、乾の助けがあればこそ、はつみや寅之進らも何とか土佐を抜ける事ができたのだろうと思う。下士だけでは何事も成せない、それが土佐なのだ。はつみにとっては、今後も良き協力者となるであろう。

…かたや、自分では何もしれやれなかった。はつみにはやはり、自分の元にいるよりも相応しい場所があったとも思う。もっと早く、彼女を然るべき場所へと送り出せていたら…。蛍の儚げな光に焦れるかの様な自分の想いを、もっと頑なに胸中へ押し留める事ができていたら…こんなに深く想う事もなかったし、はつみがその身を挺して無茶をする程、燃え上がる事もなかっただろう。

「武市様」

 そこへ、獄中の武市と対話をする事ですっかり心を開き傾倒した様子の門番・下横目たちが声をかけてきた。届けられた匿名文を見て以来まるで仏像の様に動かなくなってしまった武市に気を使っていた様子だが、複雑に急く心を表に出す事無く、いつも通りの落ち着いた様子で対応をする。彼らは獄中生活の慰みにと手折ってきた桜の枝を差し入れてくれた。重苦しい冬の空が更に分厚い雲に覆われているかの様に沈鬱な色彩に満ちていた武市の視界に、ふわりと明るく優しい薄紅が彩を添える。

「……美しいのお……ありがとう。」

 滅多に見る事のない武市の微笑みを目の当たりにした門番らは顔を赤くして礼をし、彼の前を辞した。桜の枝には丁寧に枝切りが施され、水の入った竹筒に入れられている。大切にそれを牢内へ持ち入れた武市は、この薄暗い牢の中でも最も日当たりの良い所にそれを置き、愛おし気に眺め始めた。

…まるで、自分の無骨一遍党であった人生に初恋というどうしようもなく浮ついて可愛らしいものを教えてくれたはつみの様に、自分が触れるべきではない、浮世めいたものに見えて…。癒されるのに、より一層、胸が締め付けられる。



 …彼女は一体何をしに土佐まで来たのか。

 何故自分を追ってくるのか。


 そんな風に考えるのは、もうやめる事にした。
己の身も、立場も、危険すらも省みず、なんと愚かしい事かと思う。一方で、それを全く理解できぬほど二人の関係は稀薄でなかった。表に出る事は殆どなくても、互いが認識し合うでなくても、確かに触れあっていた。…触れあおうとしていた。

だから、はつみが意を決してここへ来た事…その声を聞かせてくれた事、今も尚、救おうとしてくれている事…それは全て、一重にはつみからの一途な想いなのだと言う事はわかっている。

 だからこそ、もう二度と土佐へ入れなくなってでも、彼女はここにいるべきではない。


 はつみは無事に土佐を抜けた。隔たりの無い『世界』に在ればこそ、彼女は更に輝くだろう。


 今は、この桜があればよいと。陽が当たり花がほころぶその空間だけがまるで切り貼りされた様に見える程、非現実的な有り様であったが、これでよいのだと目を細める。



…しかし、薄暗い獄中にあっては次第に花も色褪せて行くその様子に、哀愁を禁じ得ない武市であった…。