高杉は懇意とする豪商・貞永邸へ向かうと、二階を借りると言ってトントンと軽快に階段を登って行った。はつみも手を引かれる形で共に二階へ行っており、主人の正甫はにこにこしながらそれを見送る。何か酒か肴でも持っていこうかとする家人達に対し『今は必要なし。お二人そっとしておこう』と伝え、二階からは人払いまでする気の回し様であった。
主人がその様に『粋な気遣い』をしているとは露知らず、部屋に入った高杉は無造作にゴロリと横になり、両足をあげて柱にかけるとはつみに膝枕を所望する。
「え、ひ、膝枕…?」
「なんだ、いやなのか?」
「いや…嫌じゃないですけど…」
真正面から堂々と恥じらう様子もなく膝枕を所望されるなど意外とない経験だったので、躊躇ったというか怯んだと言う方が心情的には正しかった。一体どういうツモリなのか当たり前の様に膝枕を待っている高杉に、仕方なく膝を貸してやる形となる。
「恋人じゃないんだから…」
「恋人、か。」
満足気にはつみの膝枕に頭を乗せる高杉は、改めて両足を柱にかけながらフンと鼻で笑う。
「君の言う恋人とはどういった奴の事だ?」
「えっ…だから…こういう事をする人たちの事を…」
「僕は違うな」
―異論あるか?と言いたげに視線を上げてきた高杉に、はつみはフゥと肩で息をつく。
「もう…しょうがないなぁ高杉さんは」
「何をいまさら。僕はしょうがない人間だよ」
「またそんな事を言って…」
はつみの呆れた様な声も聞こえぬ振りをして高杉は目を閉じる。
「(僕の思う『恋人』はな…)
(恋をした相手、それはもうすでに『恋人』だ…)」
だから、君の膝枕を要求するのだ。
一息ついて再びゆっくりと瞳を開き、己の眼前に影を落とす『恋人』を見上げる。
何となく想像はついていたが、彼女も自分の顔を覗き込んでいた。無防備なその唇を引き寄せてしまいたいと思いながら、なぜ他の女達と同じ様にそれができないのだろうとも思う。
「…なんだ?人の寝顔を眺めて悦になる趣味でもあるのか?」
「なっ!ちがっ…!寝ちゃったのかと思っただけです!」
手を出せない自分の不甲斐なさなどは棚に上げてわざとからかう様に言うと、いつぞやの様な懐かしい表情を見て取れる。愛した男を次々と亡くし己の存在意義に疑問を持つかの様に輝きを失いつつあった彼女にも、まだこの様な顔を見せてくれる部分が残っているのかと、柄にもなく少しばかり嬉しくなってしまった。
「…あの…高杉さん…」
しかしはつみは再び神妙な顔つきとなって語りかけてくる。高杉はわざと目を閉じ、「なんだ?」と返した。彼女が先の船上での話の続きを聞きたがっている事が、なんとなくわかったからだ。
―『未来を知っているのだろう』という事。
半分鎌かけで切り出した話であったが、どうやら彼女の反応を見る限り、この奇妙で信じがたいは推察は強ち空振りではなかったという事の様だ。
―つまり、彼女は比喩でも何でもなく、正真正銘のかぐや姫…
ここではないどこかにに住んでいた人である…という事。
高杉が思う所では、さしずめ『明後日に住む人』というところであった。ばかばかしい表現だが、彼女に出会ってこの方、この女子は驚くべき言動と輝きを放ち続け、この高杉をしても殆どまったく思うようにはいかず『そこらの女子とは打って変わって扱い方が分からない』と胆を煮やした日もあった事を思えば…妙に納得はできてしまう。
―そう、『かぐや姫』とは散々男の気を惹き振り回しておきながら、自身は颯爽と月へ帰ってしまう。そういう娘だったのだと思えば。
「…ふ…」
目を閉じたままふいに笑う高杉に、はつみは小首を傾げる。高杉は両腕を上げると頭の後ろで手を組む代わりにはつみの細い腰へとまわし、指先を組んで「ふぅ」と一息ついた。そして目を閉じたままはつみに応える。
「…その話はあとじゃ。今は…このまま少し休ませてくれ…」
「…はい。わかりました」
はつみの返事には不服そうな色は伺えなかった。膝枕は心地よく高杉の頭を支え、戦前のひと時に十分な安らぎをもたらしてくれる。心地よく眠りへの道筋が見え始めた頃、はつみの指が前髪に触れるのを感じた。指先で軽く髪束を整えようとするその動きがまた心地よく…高杉は桜色にうすぼやける深層へ吸い込まれる様にして、眠りに落ちて行った。
翌朝、日の出直後の真新しい朝日に照らされる穏やかな瀬戸内海へ、再び丙寅丸が出て行く。船首には上機嫌の高杉が仁王立ちしており、はつみは船長高杉のみが許される船長室のベッドで眠りこけていた。
昨日あのまま高杉が本格的に寝落ちしてしまった為、はつみは彼が目覚める明け方まで座ったまま眠ったり起きたりを繰り返していた。高杉が目覚めたのは夜明け前で、多少膝枕は崩れていたが彼女のぬくもりが頬や頭を優しく包み込む中での目覚めだった。ずっと彼女の体の上に眠っていたのかと思うと妙に浮かれる本心を認めざるを得ない。ここの所ずっと体調が思わしくなく、激務も続いた事で睡眠も浅かった日々が続いていたが、こんなに良質な睡眠はまさに久方振りでもあった。
ふいに周囲を見渡せば、気付かぬうちに主人らが灯りを置き、部屋の奥に布団を敷き、握り飯と白湯を包んで置いておいてくれていた様だった。高杉は自分よりも背の高いはつみを抱きかかえ、寝ぼける彼女に『何もせん、寝ろ』とぶっきらぼうに言いつけながら布団へと寝かせてやった。そして今度は高杉がはつみの寝顔を眺めながら、丙寅丸出航の刻まで静かな時を過ごしたのである。
『何もせん』と言った言葉の真意を、自分に問いかけながら。
この様に高杉の身は潔白であったが、同乗していた者達は昨日から『恋人』めいた二人を見ていて、いよいよ不埒な噂で持ち切りであった。
機関室の田中の元へ顔を出した山田は、そわそわした様子でこう切り出す。
「…高杉さんと桜川殿は…夜通しお楽しみじゃったんかな」
「おま…あからさまに何を言うぜよ…」
二人ともこのテの話には慣れていなさそうな純朴さが見て取れるが、興味は津々だし妄想も捗る様だ。
「昨日高杉さんが桜川殿の手を引いて陸へ行ったじゃろう?…そのあと…朝まで…そいで桜川殿は疲れ果てて…」
「おいおいおい仕事に集中できんぜよ!蒸気が爆発してもええがか?!」
「けんど気になるっちゃ」
「まぁ…気にはなるのぅ……正直うらやましい!」
「ああ、戦前っちゅうのは分かっちょるけんど…正直、正~直、うらやま」
「何が羨ましいんじゃ」
「「うわあっ!!!た、高杉さんっ!!!」」
突然顔をみせた高杉に、話の内容が内容なだけに腰が抜ける程驚く二人。高杉の方はまじめに戦の事で二人に申し伝えがあった様で、二人は慌てて邪念を振り払い高杉の作戦に耳を傾けるのだった。
その日の昼過ぎ、丙寅丸は大島北の対岸付近(遠崎沖)に姿を現し、今にも進軍しようと大島の幕府軍を睨みつけている長州兵・奇兵隊と合流する。研ぎ澄まされる思考回路により高杉の頭の中ではもう既に戦図が出来上がっていた為、合流した先で戦会議の場も設けられたものの―
「今夜僕の船で奇襲作戦を決行してみせるから、本隊による上陸作戦はその後という事で任せる」
という話であっという間に決定してしまった。
はつみは船室の『ベッド』がよっぽど心地よかったのかいまだに惰眠をむさぼっており、丙寅丸では高杉、そして山田、田中らを中心とした今宵の『奇襲作戦』について軍議が執り行われるのだった。