小説:奇襲、丙寅丸



 そして訪れた6月12日深夜。

 闇に紛れた丙寅丸は大島の北部、長浦のあたりにゆっくりと慎重に姿を忍ばせていた。

 今宵の瀬戸内海は非常に穏やかで、月明かりが煌々と降り注ぎ、細切れの波を輝かせている。こんな戦時でなければ船上において粋な月見酒でも洒落込みたいくらいの夜だ。

 そんな中、肉眼で確認できる程の距離に敵の艦隊4隻を臨む。どの船も暢気に碇を降ろし、蒸気機関も停止させ、暗い海の上で居場所を教えるかの様に明かりを灯している。ぐっすりとおやすみ中の、幕府軍軍艦・八雲丸ら敵艦隊である。高杉達が乗り込む丙寅丸の十倍の排水量を誇る富士山丸を最も警戒していたが、どうやら近くにはいない様子。敗戦し長州兵も撤収した大島はすでに我が手中とばかりに、明らかに油断をしているのが手に取るようにわかった。

 丙寅丸に乗船する皆が固唾を飲んで潜んでいた。夜闇の甲板中央に闘志の具現化とも取れる松明が煌煌と灯され、西洋風軍服にコートを着こんだ高杉の姿が浮かび上がる。彼は堂々と仁王立ちし、月明かりに照らされる乗組員たち全員の顔を力強いまなざしで見回していく。

「諸君。いよいよ出るぞ。」

 闇に潜んだまま、しかし真夏の熱波の様に燻る士気に気押される様子もなく、高杉は堂々と演説を続けた。

「僕は今、腹の底から笑いたい程にこの丙寅丸の勝利を確信している。見てみろ、やつらは蒸気機関の生命線ともいえる火を落とし、呑気におやすみ中だ。馬鹿みたいにでかい軍艦富士山丸もこの海域から離れ、奴らは大島を得たと思い込んで大いに油断をかましておるぞ。」

 高杉の自信あふれる声に、皆の目にも伝染するかの様に強い輝きが灯ってゆく。

「作戦通りだ。やつらに熱烈な夜這いをかけてやろう!」

 周囲の空気と心をしびれさせる明瞭な鋭い声と共に、彼は胴に挟んでいた扇を取り出し振り上げた。余裕気で粋な言い回しの鼓舞に呼応するかの様に皆の熱気が高まり、その熱量が高杉へ向けて凝縮されていく。一身にその熱量を受け止めた高杉は振り上げた扇子を勢いよく前方へと指し示し、ひと際大きな声で号令を放った。

「―全速前進!!!!」

「おおおおおおーーーーーっ!!!!!!!」

 甲板がびりびりと振動する程の士気の爆発っぷりと共に、絶大のカリスマと指揮能力を発揮する高杉の元、丙寅丸は敵艦隊へと向け、全速力で夜闇へと切り込んでいった。


 スピードをあげる丙寅丸と平行する様に、コートの裾をたなびかせ風を肩で切りながら船首へと歩み出る高杉。そこには皆の邪魔にならぬ様にと船首の端っこに立っていたはつみが白隼のルシと共に佇んでいた。はつみの方は高杉の鼓舞に感動すら覚えた様子で、その表情には久方ぶりに輝かしい活き活きとした色が宿っている。高杉が船首へ向かってくるのを察し、彼の進路方向を妨げない様にと手すり側へと一歩下がるはつみ。だが高杉はカツカツと真っ直ぐに彼女へと向かい、目の前まで迫ると突如、はつみの背後にある手すりへと手をかけた。
 そしてはつみとの距離が眼前になるまで一気に詰め寄る。

「へっ?!」

 突然間近に迫った高杉を目前にすっとんきょうな声を上げると、高まる士気に煌めく挑戦的なその視線を受け止めた。


「是より、長州男児の肝っ玉をお見せする」





 吐息がかかりそうな程間近から視線を送り、歴史に名を刻んだ若き天才革命家らしき、自信に満ち溢れた笑みを見せる。

「…!」

 『その話』を覚えてくれていたのか…いや、それよりもまさかその台詞を生声で聞けるとは思わず…何の感情からか分からないままにはつみの胸はぎゅっと締め付けられた。言葉はなくも彼女の心を掴んだ手応えがあったのか、高杉はニヤリと微笑んだまま、その唇すら奪ってしまいそうな雰囲気で満足気に見つめ続けてくる。そんな高杉に対し、はつみの瞳は静かな月光を写し込んで奥深い美しさを見せつけながらも、明らかに戸惑った様子で揺れていた。

「ごっ…ご武運をお祈りいたします…!」

「それだけか?」

「エッ…」

 ―まさかこのまま唇を…?

などと直感的に思い、身体が緊張に強張った瞬間、不意にそれは打ち解ける。

「射程圏に入ります!」


 微動だにできない雰囲気から解放されたのは、乗組員の声が甲板に響いたのがきっかけだった。はつみには挑発的な笑顔を向けたまま体制を起こし
「よう見ておれよ?」
 と言って、改めて船頭へ仁王立ちする高杉。はつみの視線を一身に受けながら頭上の月へ向け高々と扇を振りかざし、更に進めとばかりに前方へと振り切った。




 闇夜を切り抜け、排水量94tの小ぶりな丙寅丸がたった一隻で敵軍海域へ突っ込んで行く。大島の北部、長浦の沖には幕府方の軍艦が『ぐっすりとお休み』碇泊中で、その西側より彗星の如く現れた敵船にいち早く気付いたのは、遠く陸にいた見張り兵であった。

「ほぉ、寝ずに番をしておったか。ピーピー鳴らしておるわ」

 船首にて腕を組んで仁王立ちしする高杉はフンと鼻であかし、まったく気にしない様子で全速前進の潮風にコートを羽ばたかせている。始めはピーピーと御用笛の様な音が鳴り響いていたが、そのうちようやく警鐘らしき音がカンカンとなり始め、あちこちに灯りが灯り始めた。

「はっはっは!綺麗なもんじゃなぁ!」

 ぽつぽつと灯り始める灯りを見て笑い声をあげる高杉。陸を見ていると寝間着で飛び出してくる者や慌ててころける者などが丸見えでとにかく滑稽だった。そして、兎に角もう遅い。いまだに碇泊船が動き出さないのを見ると、まさか船の人間も陸にあがって眠りこけていたのだろうか?という疑惑すら込み上げていた。

「速度おとせ!右舷砲門!全ライフル狙え!おのしらの目に映る敵艦どれでもいいぞ!外すなよ!!」

 射程圏にはとっくに侵入していたのに砲撃をしなかったのは、敵艦に最も近づくこの時を狙っていたからだ。一番近い敵艦はもう目前。急速にスピードダウンし水流の推進力で滑る様に進みゆく中、高杉の好戦的で挑発的な号令に全員が規律正しく反応した。高杉を含め丙寅丸の乗船員達は皆、殆どが海戦初心者であるにも関わらず、誰もが気後れすることなく、且つ一個隊として乱れる事なくよく訓練されていた。長年高杉が蓄えて来た西洋軍備に対する『識』の賜物であろう事が伺える。号令に遅れる事無く、甲板でライフル銃を持てる者がガチャリとそれを構え、甲板の下からも重々しい鉄音が響き渡る。
 一体どこから響いてくる音なのかとはつみが足元を見ていた矢先、それらの響きがぴたりと止み、一瞬の静寂が周囲を包み込んだ。



その瞬間―


「―――撃てぇ!!!!」


 ―ドォン!ドォン!ドォン!!!バババババ…!!!!



「きゃぁーっ!?!?」

 高杉の号令と共に左舷の砲弾が全て打ち放たれた。
同時に甲板中から歓声やら雄たけびやらが上がり、高杉は想像以上の砲撃音と衝撃に驚くはつみを抱き止めながらもすかさず鋭く戦場を見渡す。甲板下あたりからはひっきりなしにガチャガチャと装填しては砲弾発射する音が鳴り響き、甲板上のライフル兵達も銃弾が続く限りの勢いで撃ちまくり、周囲は一気に硝酸の香りと煙が立ち込めた。そして火の手が上がる敵艦を見て皆が手応えを感じる一方で、敵方の軍艦の心臓である蒸気機関を落とせてはいない事、そして仕留めきれなかったその蒸気船・八雲と翔鶴の二隻が碇を上げ始めたのを高杉は察知する。

「砲撃やめ!!!取り舵一杯!全速前進!!!」

 矢継ぎ早に掛けられる高杉の号令にも乗り組み兵達はきっちりと応えていく。ライフルや砲門は一斉に沈黙し必要な装填などをして次の号令を待っている。奇襲初手で命中率を上げる為にゆるゆると進んでいた丙寅丸は取り舵で右方向へと転換すると敵海域目指して再び速度を上げ始めた。高杉は更に次の号令をかける。

「予定通り敵軍艦の間を突っ切り離脱する!敵船頭に接近、すれ違うぞ!狙え!!!」

 敵艦へ右舷砲台を向けていた丙寅丸が全速力で方向転換しつつ直進する傍ら、ライフルを構えていた者達は敵艦が見える位置へと甲板上を移動し、素早く構える。甲板下では装填も完了し準備万端の様だ。見るからに慌ただしくモタついている敵艦を丙寅丸の両舷砲門が間近に捕らえたその瞬間、高杉が再度叫ぶ。

「撃てぇー!!!!!」

 再び、凄まじい轟雷の様な砲撃音が響き渡る。そして蒸気機関は温まっていないにしても碇をあげ帆を張りゆるゆると前進をし始めた八雲と翔鶴から颯爽と逃げるべく、丙寅丸は全弾発射しながらも全速力で戦場離脱を図った。
 しかし敵艦も流石にいつまでも怯んでいる訳はなく、丙寅丸からの集中砲火を食らうという状況にありながらも一早く戦闘態勢に入り、船の上から銃を打ち付けてくる気概のある兵もいた。統率の取れていないバラバラとした銃撃ではあったが、それでも味方兵の1,2人が肩や足などに被弾し倒れ込む。そんな矢先、敵甲板上から旧式銃でこちらを狙ってくる敵兵にはつみが気付く。

「―高杉さん危っ…」

 はつみが言い切る前に高杉は身をひるがえし、突然彼女を抱き寄せ自分が盾となると同時に彼女の左脇下に隠されていたS&Wを素早く抜き取った。そして慣れた手つきでロックを解除すると、無駄のない動きで躊躇なく敵兵へと銃を向ける。





―バンッ!!!バンバン!!!

「―うぐっ!!!!」

 高杉が放った銃弾はこちらを狙っていた敵兵に命中した様で、銃を落とし左肩を抑え込む様子が鮮明に見てとれた。唖然とするはつみをかばうように抱き寄せていた高杉は拳銃の先に漂う硝酸煙にフッと息を吹き付けロックをかける。そして間近に視線を合わせながら、再び彼女の脇下のホルスターへと拳銃を戻した。呆然と高杉をみやるはつみの視線に『どうよ?』とでも言いた気に勝ち気な笑みで応えてみせると、直ぐに切り替えて戦況を見渡し始める。

 のろのろと追いかけてくる八雲と翔鶴を蒸気機関フル稼働の全速前進で振り切った丙寅丸は、敵艦が見えなくなるほど引き離した所で奇襲作戦の成功を確信し、凄まじい興奮の中で勝鬨を上げた。

 夜空はすっかり白みを帯びており、勝利を祝うかの様な朝日が、水平線の向こうから丙寅丸を照らし始めるのだった。






 湧き立つ男達を満足気に見渡す高杉を、間近から茫然と見つめる。
 これが、長らく内乱もなかった江戸時代末期の戦場にて抜群の指揮を放ち長州を勝利へと導いた革命児の姿…なんと鮮やかな戦いぶりなのかと…。
 はつみの視線に気づいた高杉はゆっくりと彼女へ視線を向ける。自信に満ちたその瞳、そして表情が、清々しい朝日の光を受け一層輝かしく見えた


…その時だった。


「―ぐふっ」



 彼の瞳に吸い寄せられる様な雰囲気は、込み上げる異様な咳の音で掻き消えた。ハッと我に返ったはつみは改めて高杉へと視線をやるが、高杉はまだ咳き込んでいる。

「高杉さん?」

「けほっ…げほっげほっ!げほっげほげほっ!―ぐっ…」

 高杉は一瞬『まずい』といった表情を浮かべると、はつみらの声を無視してよろけながらも駆け出し、船室へと向かう。はつみもそれを追いかけ、高杉が飛び込んだ船室に躊躇わず乗り込んでいった。


「高杉さんっ!?!?―あっ…!!!」


「……―かはっ………」



 船室に飛び込んだはつみが見たのは、口元を押さえた手に血を染み込ませ、ぜぇぜぇと息をする高杉の姿だった。






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