10月。土佐参政・吉田東洋が乾退助を呼び出していた。
「乾退助、参じまして御座る。」
「構わん、近くに来いや」
と言われた先で早速見せられたのは、一通の手紙であった。変わった字体であると共にこれまた変わった書面だが、読めなくはない。時折外国の文字が入り交じったりして…横濱の様子や経験談などが綴られている。最後まで読まなくても、差出人が誰かはすぐにわかった。
「どうじゃ、興味が湧くか?」
「なにがですろう。異国にですか。それとも桜川にですか。」
「ハッハッハ。そう邪険にするな」
東洋が自分に対し、はつみを媒介として少しでも西洋や開国というものに興味を持たせようとしている事は、乾も気が付いていた。異国の実態を知り、且つ土佐の精神的支柱であり元藩主である容堂公の思想に沿う考えを持つようにと働きかけてくるのは、もう幾度目の事だろうか。全く受け付けずはねつけるという訳でもないが、西洋を知ったからと言って、帝の御威光にすがって後手後手の開国対応を取る無能を晒し続ける幕府は正されるべきとの考えが変わる訳もない。ましてや、容堂公を『藩主交代』と『謹慎蟄居』へと追い込んだ将軍継嗣問題においては、容堂公を含む敵対勢力の大名以下を一方的に処断するなどといった『安政の大獄』とも言われる横暴極まりない采配をせねばまともに一国の舵取りも出来なかった幕府に疑問を抱かぬ道理など無いというのが、ざっくりと言って乾の考えなのである。
―とはいえ、正直はつみの様子について知れる事については心動かされているし、実際彼女を通して海外文化や彼らの精神について間接的な見識を得る事に繋がっているという事実は、己でも認めなければならない。それを見透かしているかの様に、この叩き上げの改革派参政である吉田東洋は、はつみを使って乾を揺さぶっていると言う訳だ。
「まったく強情な奴じゃな退助。わしの話を聞けんのであれば、直接行くか。江戸へ。」
「は…」
だが思いもよらない東洋の発言に、乾も思わず二度聞きをしてしまう。あくまで姿勢を保ち、顎を引いたままこちらを伺う視線を投げかけてくる乾に対し、東洋は気にかける部下にのみ見せる親し気な雰囲気を醸しながら、更に述べた。
「容堂様のお側に仕えながら、御前でその考えを述べ、教えを賜るがええ。」
「?!」
乾の不動の表情にも、この時は驚きの表情が見て取れた事に「そうであろうそうであろう」と言わんばかりに東洋は笑う。そして次の瞬間気を引き締め、覇気のある声で人事を言い渡した。
「乾退助、江戸にてご隠居様の側用役と上屋敷留守居役を申し付ける。これは内々定じゃき、追って正式に沙汰する。」
「―ははっ!」
威厳のある鋭い声を受け咄嗟に礼をとる乾に、東洋は送り元としてはつみの所在地が書かれた手紙を渡しながら、更に意外な命令を付け足す。
「ついでに桜川にも、早々に便りを送っちゃれ。『恋文』をな」
「…東洋様、御戯れが過ぎまする。何卒ご勘弁を」
大御所中の大御所からそのような事を言われてどう返すのが尤もな正解かなど、瞬間的には判断が難しい。故にただ頭を下げて礼を取っていた乾であったが、東洋にもこういった、一見職務とは関係のない事を口にする理由は明確に存在していた。
「退助、いくつになったぜよ。」
「は。数え25に御座います。」
「25か…。おんしゃあ、まだ嫡男がおらんがじゃろう。」
唐突に跡取りについての話題を切り出す東洋であったが、乾は慌てたり畏縮する様子もなくただ事実として返事をする。子女が一人生まれている事を述べるが、祝言を挙げてからすでに3年が経つ中で、嫡男どころか二人目の気配もないと。武家の当主にとって嫡男の誕生は重大な責務と言ってもいい。如何ともしがたい状況になった場合は養子を取る事も勿論可能だが、血族によって家が引き継がれて行く事が最も良いとされるのは当然の事だろう。そういった考慮を込めて『嫡男誕生の気配がない』という現状を切り出した東洋は、更に一歩切り込んだ発言をする。
「おんしの身分であれば女子一人囲おうたところで問題はなかろうに、何故そうせんのじゃ。」
話の流れを考えれば『女子一人』とというのが桜川はつみの事を指している事は、発言者である東洋はもちろん乾にも理解できる事だ。
「そもそも…何故諦めた?桜川を娶っておったのであれば、俺はおんしら二人に長崎行きを命じとったぞ」
今江戸へ遊学に出ているはつみは、およそ一年前には東洋の私的な期待と援助を受けて長崎遊学にも出ている。その時は坂本龍馬が護衛兼任の形で同行しているが、当初はその役目を乾にと考えていたというのは、乾本人にとっても少々驚きの事実であった。それに正直、開国攘夷云々とは別に、興味をそそられる話でもある。だが乾は表情を変える事無く、率直に『はつみを諦めた理由』を口にした。
「……父が武家としての厳格な慣例を望まれましたので。」
当時既に病床についていた父の、そして乾家当主の意向を汲んだという事だ。その言葉に嘘はなかったが、遠回しに『自分とはつみの間に嫡男をもうければ良いではないか』と言わんばかりの東洋がはつみの不妊体質について把握していない事を察しつつ、そこには敢えて触れなかった。
東洋も、乾のような男であれば、武家の慣例や周囲の目を気にする事のない『面白い』事を成せたであろうと期待している事は事実である。だが、退助が亡き父の意向と馬廻格の家系に生まれた嫡男として家風格式を守らんとした結果として『桜川を諦めた』のならば、それはそれでやはり公明正大な判断であったとも思う。寧ろ、かつてはやりたい放題で藩からの処罰を幾度となく受けて来たあの退助が、よくぞ『家の為に』腹を決めたと言うべきだろう。
しかし同時に、そこには『桜川を妾にしない』という理由が含まれていない事にも当然気付いている。正妻に子ができず、妾に生ませるという事はよくある話でもあるにも関わらず、退助はそうする気が無いしそこについて触れようともしない訳である。彼が嘘をついているとは思えないが、はつみとの関係について伏せている事がある件についても当然、東洋は見抜いていた。
「…まあええ。ともかくおんしには江戸詰めを命じるき、しばらくは戻ってこれんぞ。かつては亡き父君の意向もあったじゃろうが、嫡男の事は、今のおんしの問題じゃ。俺も、そして容堂公も、案じておる。」
「…は。御配慮を賜り、誠に恐れ入ります」
…結局、辞令を出した時以外は終始表情を崩さぬまま席を外した乾に、「強情な奴じゃ」と息をつく東洋であった。
帰宅した乾はいつものように手と足を洗い、いつものように正妻・鈴の迎えを受けた。はたとその顔をまじまじと見て、妻とはうまくいっていない訳ではないのだと考える。十代の頃に2人の嫁を迎えたが、『慣例に倣わず好いた女子を娶りたい』との考えから脱却できず鬱憤が溜まっていたり、素行の悪さが相手の家の逆鱗に触れたなどの理由もあって2度とも離縁に至るという過去がある。だが3度目の婚姻である今回はそういった事もなく、長い追放処分や家督相続などを経て自分も大人になったと思わないでもない。何より鈴はしっかりとした武家の娘であり、乾家の嫁として恙なくよくしてくれている。嫡男の事に至っては、恐らく自分よりも彼女の方が気にかけ、男児どころか二児をも身籠れない事に自責の念を得ている事だろう。
…その妻を前にして嫡男の事を考えた時、妻に身籠らせることを諦めた訳でもないし、いざという時は妾に産ませるという考えが無いわけでもない。
だがその時に思い浮かぶのは、はつみ以外にいない…。
しかし、そもそもはつみは子を産めない体なのだ。当の本人からそう告げられ、そう告げられた自分も父と先祖の為にとそれを受け入れ、はつみを諦めた。
…それなのになぜ、はつみ以外の女に思考が巡らないのか…。
「如何なさいました?」
急にじっと見つめられ、少し気恥ずかしそな色声に問われて我に返る。正妻と嫡男と妾の事を考えながらも、この後乾がやるべき事は既に決まっていた。
「…文を書く。書き終わったら夕食(ゆうげ)にするき」
「あい、わかりました。長いお手紙ですか?」
「いや……すぐ終わる。」
「では、ご用意をしてお待ちしちょきますね」
東洋が囃し立てていた様な『恋文』を出す訳ではない。そう言い聞かせるかの様に端的に返すのだが、妻は何を疑う素振りも見せず、従順に頭を下げて乾の身の回りの世話をする。その襟元のうなじを見つめながら、乾は不動の表情の下に巡る思考を押さえ込む様に、自分を言い聞かせていた。
…『恋文を出す訳ではない』のだと。
「―あれ!た、退助様…!?」
突然抱き締められた鈴は驚いた声を上げつつも、嬉しそうにその身体を受け止めた。表情を見せない乾の方へと視線を向け、子を一人生んだとはいえ、まだうら若いその頬を赤く染めている。乾はそのままの姿勢で、淡々と話しを切り出した。
「…吉田東洋様から江戸詰めを命じられた。正式な沙汰はすぐに出る。しばらくは戻ってこれんき」
「お江戸へ……」
思わぬ報に、鈴の表情はすぐに複雑な色へと変貌する。江戸詰め。それが何を意味し、どれだけ喜ばしい出世であるのかは重々よく分かっている。だが離れ離れになってしまうという女心が溢れそうになってしまうのを、武家の嫁という立場と理性で抑え込んでいた。武家の娘として育ち、武家の嫁として今在る鈴にとって、そのような慕情の前に己の役割を忘れている訳ではない。すぐに嫡男の事が頭をよぎった。夫が江戸へ出て暫く戻ってこれないのであれば、やはり、嫡男を授かるという夫婦の使命について早急に為さねばならぬ事がある…。この抱擁は、沸き起こる男女の感情という形ではなく、嫡男誕生の為の行為に至る入口なのだと。
―そんな義務的な理由で抱かれている可能性など、考えたくはないのに…恐らく、吉田東洋様から嫡男の事でも何かしらの話があったのだろうとまで察しが付いてしまう。
だからこそ思う。
今、夫が己の身を抱き締めるのは『会えなくなるから』なのだろうか?
それとも『土佐にいるうちに身籠らせたいから』なのだろうか…?
乾家の為には後者が優先されるべきなのは頭ではわかっている。しかしこのような些細な事を考えてしまうほど、鈴は乾退助という主人を慕っていた。慕っているからこそ、主人が一体誰に手紙を書くのかなど…気になっても考えない様にしていたのに…。
「…お前様……」
乾が夕食をとったのは、それから一刻が過ぎた後の事だった。
※仮SS