2月。深尾丹波組・御馬廻組『頭』に復職していた乾は、勤王党弾圧はもとより藩政のうち『国事』に携わる様な所には殆ど関わりのない所で日々を務めていた。
昨年の大和挙兵に基く818政変により情勢は大きく変わり、土佐においても武市半平太をはじめ土佐勤王党員達が次々と逮捕・投獄されている。朝廷及び幕府の距離が再び近付き、その背後には薩摩の存在が強くある所までは情報を得ていたが、藩政から遠ざけられている乾にとっては詳しい事は分からない。乾のみならず、勤王派であった上士達は藩政から遠ざけられているからである。乾と勤王を誓い合った小笠原唯八、そして佐々木三四郎、上士きっての勤王家の一人である谷干城、大身深尾鼎らも、悉く『排除』の境遇に甘んじているのだ。
未だその公明正大な性質を世に発揮する事もできずくすぶり続けている乾に対し、容堂公による藩政改革の流れで頭角を見せ始めたのが、乾の幼馴染であり吉田東洋を叔父・育ての親とする後藤象二郎ら『新おこぜ組』であった。彼らは亡き吉田東洋の教え子たちであり、その事からしても、容堂公は亡き吉田東洋の流儀思想を今も重んじている事が手に取るようにわかる。また、かねてより『頑固党』と言われる程佐幕派として一翼を担っていた小八木一派からも寺村左膳などが登用されていた。そういった所からもやはり容堂公の思想は公武合体論、その上で幕政改革を進める事で幕府を強くし、帝を御守奉り日本を収めていくべきと考えている事が伝わってくる。
そんな中で、一度は失脚した乾がこうして再び取り立てられているという事自体、乾にとっては今も尚容堂からの寵愛あっての事であり、暗黙のうちに『頭を冷やせ』と言われていた事でもあったのだが。頭を冷やすどころか、ここのところの乾には気がかりな事が増えていた。
一つは、先日年が明けた頃からだろうか。宇和島方面の国境付近が妙に騒がしい。現在土佐藩および容堂公は、朝廷幕府の両方から相談される立場にあるにも拘らず、『藩臣中に異議あり』として全ての閣議を欠席している最中にある。そう宣言した通り、現在は国境を固く閉ざし、容堂公主導のもとに『勤王党弾圧』という名の藩政改革が断行されている所なのである。土佐藩は京江戸において存在感を高める薩摩に取って代わろうとする事は考えておらず、ただ今は国を閉ざし、その腹に抱えた武市半平太という巨魁とその一党をどうするべきかという、時世に対する停滞の時を迎えているという事だ。土佐から出ている下士を中心とするほぼ全ての土佐藩士たちにも帰藩命令が下され、その影響あって関所が騒がしいのは理解できる。だが、この年明け頃から見聞きする宇和島関所の動きは、そうした一連の流れとは色が違うと感じていた。
そしてもう一つの気がかりな事とは、はつみとの私信が途絶えているという事だ。
昨年の春に別れの言葉を交わす事もなく離れ離れとなったが、乾が色を罷免された頃にはつみから私信が届き、それを返した。その後、風の噂で長州が『勅令』に乗っ取り、5月10日をもって異国の船に対し攘夷砲撃をした事についての書状をはつみに送った。…が、『これっきり音沙汰が無い』のである。次いで乾の方から送ったが、やはり返事はない。…何もなければそれでよいのだ。文を出せと直接言ってやったのに送ってこなかった事など、今まで何度もある。だが、いかに容堂公の覚えめでたいはつみとはいえ、今の武市一党に対する弾圧を強める土佐にあっては『はつみと武市の関係』を思えばこそ彼女の身が心配になるのも道理であった。
…そんな折、宇和島側の関所から『脱藩人らしき男』が捕らえられ山田獄舎に連れて行かれたらしいとの報告を、同志である小笠原唯八から聞き受ける。ここの所騒がしいと感じていた関所での事だが、何か関係しているのだろうか?そう思案する最中、まさに青天の霹靂とも言わんばかりに『ケーン』と響く隼の声が、片耳しか聞こえない乾へとしかと届く。
「!?」
咄嗟に反応をした乾は外へ飛び出し、まるで皮肉でも言っているかの様な広く済んだ青空を見上げた。すると土佐城下の上空に、見慣れた白い隼がくるくると旋回している姿があるではないか。
―あの鳥は、常にはつみに追従していた賢き白隼だ。
「……はつみ…おるがか、土佐に……!」
乾ははつみが土佐にいる事を確信し、心が燃え上がるのを自覚した。そしてすぐに、情報収集へと乗り出した。