9月下旬、はつみ達が再び長崎へ舞い戻る頃、乾は歩兵大隊司令に任ぜられ、再び軍改革及び調練に携わっていた。
藩論は変わらず『武力行使を伴わない大政奉還』であったが、乾が発注し中岡や龍馬らの斡旋により持ち込まれた洋式銃を扱う訓練に最適であるのもやはり江戸で西洋兵術と砲術を学んだ乾しか見当たらなかったのだ。そして、武力倒幕なのか、それとも武力行使なしの倒幕なのか…どっちに転ぶかがまた読み切れないでいる色も伺えた。
乾自身が江戸で学んだ洋式軍略、そして中岡から伝え聞く長州や薩摩の次世代的な軍備をもとに、洋銃を手にした迅衝隊および別撰隊が日々形になってゆく。
10月に入り、はつみが長崎で『外交官』としての手腕を振るっているであろう頃、乾は以蔵を呼び出した。土佐藩政が迷走する中にあっても以蔵は引き続き軍に勤め、孫子書を読み、そして砲術訓練についても精力的に取り組んだ。政治の事は乾や彼が信任している上士一味、そして獄中武市の右腕であり続けた島村寿之助ら土佐勤王党員らに任せるつもりで…自分にはこの『活人剣』が、土佐勤王の役に立つ日が来る事を、乾と共に待っているという状況だ。
以蔵は軍から支給される給料の殆どは富、そして京の妻子へと送っていた為、いつまでたっても貧相極まりない身なりであった。いまだに大小のうち小一本すらも持ち合わせていない有様であったが、木刀を振り続ける等の自己研鑽は怠らず、軍内での剣技乱取り稽古等や仕合い等においては誰にも負ける事が無かった。以蔵の言動についてその一部始終をはつみからも聞いていた乾は、『清貧の武士』たるをゆく以蔵に益々感心し、迅衝隊でもちらほらと着用者が見受けられる様にあった洋装一式と長年愛用していた刀を一振、個人的に与える事にしたのだ。
「今更聞くが。おんしは長年上士を忌み嫌っておったそうじゃな。」
「…今も好かんです。乾さんだけが、調子が狂うだけじゃち」
「―ふっ。随分気に入られたもんじゃ。正直な所は嫌いではないぞ。ほら、これを使え。」
そう言って『ちゃきっ』と鞘が触れる軽快な音と共に差し出されたのは、一振りの刀であった。物欲などほぼ無いと言い切れるほど質素な以蔵ではあったが、刀を出されるとその無表情に整った顔にもわずかな興奮が見られる。彼は一瞬ちらっと乾を見やり、まっすぐにこちらを見ているその視線に嘘や偽りといった色が無い事を確信すると、差し出された刀を素直に受け取る。
柄の感触や鞘の出来栄えからしても、そこらで見かけるものではない。乾の様な大身の上士が持つ様な、俗にいう『値の張る』一振りだと直ぐにわかった。
「東行秀、土佐政宗じゃ。聞いた事はあろう。」
その刀は容堂公にして『土佐正宗』とまで言わしめた名刀であった。手がけた職人は藩お抱えの刀鍛冶・東行秀。だが彼は、今や土佐勤王派からは『裏切り者』として総スカンを喰らっている状態にあった。乾が江戸で西洋軍学を学んでいた頃、その義侠心を見込んで勤王派の内部事情を打ち明けた事があった。しかしあろう事か彼は、乾とは長年対立関係にある佐幕派の寺村左膳にその内部事情を告げ口したのだ。その事から、今となっては本人のみならず彼が生み出した刀すらも『裏切りの刀』などと謂れ、特に勤王派からは避けられている様である。以蔵も好んで情報を収集していた訳ではないが、情報交換が盛んに行われる下士勤王派の面々と距離が縮まれば自然とそのような話も耳に入ってきていた。その上で、子の状況に物思うとすれば、何故、『裏切り』などと言われる刀を自分に贈るのかという所だ。
「…これは、裏切りもんの刀じゃち言われちゅうじゃろう。」
「ああ。だが一重に、おんしの実力に相応しい。ええ刀じゃ。」
含みなど一切含まない、まっすぐな言葉と姿勢。…そこでふと、獄中に繋がれていた時の事を思い出す。勤王党の仲間から、とある京での日に容堂公に謁見した武市が『菓子』を賜ったという話を聞いた。以蔵は直感的に『菓子』とは『下士』と皮肉った言動であったのではないかと思ったが、実際、彼らも同じく皮肉られた事を腹に据えかねない様子で話している様子だった。つまり上士は自分達下士(郷士)をその様に皮肉って弄ぶ様な輩ばかりだと当時も思っていた訳だが、今目の前にいる乾にはそのような邪気を一切感じさせない。幼い頃より植え付けられた『上士とは』という固定観念からすれば、違和感すら抱くほどである。
「…何が言いたいんか、ようわからんですき」
警戒をする訳ではないが、彼が何を言いたいのかが分からない。率直に問う以蔵の気概もまた好しとする乾もまた、率直に返した。
「おんしはその本質を見失うな、以蔵。」
「……」
以蔵は斜に構えたままままではあったが、乾がにわかに語気を強めたのを感じ取ってしっかりと意識を集中させている。乾も詰め寄るといった動作は取らず、ただその場から、突き抜ける様な真っすぐさで言葉を続けた。
「確かにその刀は、佐幕派の上士に通じた裏切り者が鍛えた刀じゃ。その裏切り者が裏切った相手というのも、何を隠そう俺自身の事でもある。じゃが俺は、その事でこの刀の本質が変わったとは思っちょらんき。」
そして、以蔵の内に眠る本質を確かめるように真摯な眼差しを向け―
「…のう以蔵。おまんの中にある『本質』とは何ぜよ」
―と、問う。
「……活人剣……」
以蔵の日頃から弾む事のない表情が、ハッとした様に上がる。視線を上げてきた以蔵に、乾は腕を組んだまま深く頷いて見せた。
「この先、日本の命運を賭けた大戦ともなれば、人を斬る事もあるろう。じゃが、おんしの剣は我らと共に帝をお支えする為の剣となる。そしてそれは、我らと共に在るあらゆる民を守る事に繋がる。…その事を忘れるな。」
無言ながらも手にした刀をじっと見つめる以蔵に、自分の言葉やはつみの意思がしっかりと届いている事を確信する乾。どれだけその心に刺さったのか、しばらく身動きもしない以蔵に「ちょっと抜いてみい」と声をかけた。声に気付いた以蔵は乾の言葉通り、思うがままに刀を持ち直す。一旦その腰に差した後、周囲との距離を図るとゆっくりと居合いの型をとり、しばし沈黙の後はりつめる気合が辺りに満ちた瞬間、目にも止まらぬ速さで引き抜いた。
「ほお。」
まるで真空を裂くかの様な、洗練された一閃。一流の剣士に振られる一流の刃のきらめきが、何と鋭く美しい事か―。
「ええな。君に振られたがっちょる様に見える」
満足そうに漏らす乾の声を背に、以蔵はさらに一太刀、二太刀と斬り込んだ。その刀は持ち手に取っても、素晴らしい均衡を以てまるで身体の一部であるかの様に馴染む。
「どうじゃ。ええ刀じゃろう。」
「……はい。」
「その刀を持ち、別撰隊で励め。いずれ官軍として武功を挙げ志を遂げると共に『頑固ども』を見返す事もまた痛快でもあろう」
またそのような危うい発言をする乾に、以蔵の目元や口角がわずかに緩んだ。その変化に気付いた乾がにわかに眉をあげるが、以蔵はすぐにそれを隠す様にして顔を伏せ、鞘に納めた刀を両手で持ちあげ、恭しく掲げる。
「……有難く……頂戴しちょきます…」
「おう。」
くだらない俗論に惑わされず、自分の成すべき事を黙々と行う。そんな以蔵の清貧なる精神に、乾は満足と敬意を示していた。その意が以蔵にも伝わり、幼少期より以蔵の人格形成にまで影響をもたらした『上士嫌い』は、乾の存在を以てほぼ払拭されようとしていたのだった。
※仮SS