文久元年3月。
とある朗らかな陽気の午後の事。井口村の岡上樹庵に嫁いだ乙女から使いを頼まれていたはつみと龍馬は、その帰り道で、今やすっかりはつみに傾倒している寅之進と遭遇し、談笑をしながら坂本家への家路を歩いていた。 しかしその途中で、血相を変えた新宮馬之助に遭遇する。
「龍馬ぁー!!!あっ!?と、寅之進もおったがか!?たたた大変じゃぞ!!!!」
龍馬を探してここまで走ってきた様だが、それ以上に寅之進が同行していた事を確認した馬之助は、ただでさえ赤くなりがちな顔を更に真っ赤にして寅之進に掴みかかる。
「おんしの弟が…!上士に斬られたぞ!!!」
「え…?!」
しかも現場はこの井口村だという。3人は馬之助の案内により、永福寺へと急行した。
駆け付けた先の永福寺において、寅之進は遺体が弟・忠次郎である事を確認。通りすがりに様子を見ていた農民たちの証言によれば、相手の上士は粗暴であると有名な山田広衛であったと。酒を飲んでいた様に見え、行き違いにきちんと礼をとっていた忠次郎に自ら絡んでいったらしく、『長崎がどうの』『身分不相応』などという罵声が聞こえたと言う。その内忠次郎が山田を黙って睨むなど反抗的な態度を取る様になり、気に入らなかった山田は2,3言大声で『なおれぇ!』と叫んだあと、態度を改めようとしなかった忠次郎を無礼打ちにしたとの事だった。
こうしている間にも噂を聞きつけた郷士達が永福寺に集まってくる。彼らは皆自分の事の様に怒り狂い、口々に上士への恨みつらみを叫んでは『敵討ち』だの『戦』だのと勢い付いている。龍馬が『軽率な事はするな』と周囲の者達を牽制してはいたが、彼に同調する者は極めて少なく、勢いで押し切られていた。郷士らは寅之進に同情し上士への報復を叫ぶが、寅之進本人はただ忠次郎の遺体を前に顔面蒼白となり震えている。…その横で、はつみも寅之進に寄り添いながら周囲の異常な熱気を見て思う事があった。
この事件の顛末について『歴史的知識』として心当たりがある。もしそれが今起こっている事なのだとしたら…この後寅之進は山田広衛相手に『敵討ち』をし、山田は死ぬ。上士郷士ともに『戦上等』の機運となり、結果的に寅之進は上士を殺害した罪と郷士を扇動した罪を一心に引き受け、切腹をする定めとなっている。郷士である彼に『敵討ち』という情状酌量は適応されず、ただ殺人罪と扇動罪を押し付けられて、彼の弟動揺、そのまだ若く短い生涯を突然終えるのだ。
―井口村永福寺事件
…その事に気付いてしまったはつみはたちまち震え出し、明日にも命を落としているかも知れない寅之進を引き寄せると『行かせない』とばかりに抱き締めた。
歴史を変えようとかそういった打算的な事ではなく、ただただ『寅之進を死なせたくない』―。その想いと共に、腰に差した桜清丸がどんどん熱くなっていくのを感じる。いつか見た月と椿の苑とそのほとりに流れる大河の景色が眼前に広がり、桜舞い散る中で一輪、椿が掌に収まっている…。
周囲の郷士達は、血気はやる吉村虎太郎ら声の大きな者達による扇動もあって、もはや『忠次郎の敵討ち』というよりも『気に食わない上士へ積もり積もった積年の恨み辛みを今こそ報復する時』『今こそ土佐を覆す戦の時じゃ!!!』という論点で高まってしまっていた。この方向性でいけば間違いなく『歴史通り』となり、そして最終的にはその全ての責を負う形で寅之進が切腹に処されてしまうだろう。
とにかく周囲の郷士達を抑えなければ。
立ち上がったはつみは信じられない程の覇気を放ち、周囲の郷士達を…特に、今回の問題を『郷士達の恨みつらみ』へとすり替えて周囲を煽ろうとする吉村虎太郎ら一味に向けて一喝する。
「ここにいる郷士達が暴挙を成したとして、一体何が起こると思ってるんですか?藩に内紛が起これば幕府が発布している『武家諸法度』に則り、この土佐藩もろともお取り潰しとされる可能性まである。その事はあなた方の考慮にあるんですか?」
「ああ…?」
まるで神気でも宿ったかの如くよく通る声に、幕府だの武家諸法度などという『雲の上』の単語が飛び出してきた事で大半の郷士達が怯んだ。しかし件の吉村らは却って気に障ったかの様に、怒れるその矛先をぞろりとはつみへと向け、ためらうことなく罵声を浴びせ始めた。
「今は幕府の事なんぞ言うちゃあおらんじゃろうが!」
「話をすり替えるな!」
「女子供がしゃしゃり出て来るな!」
「この開国派が!!!」
事の行く末の関連性を理解しようともせず、怒れる郷士達は思いつく言葉ではつみをなじる。特に最後の『開国派』である事をなじる言葉には自分でも信じられない程にカチンと来てしまった。『開国派』と言われた事に反応したのではない。相手をなじれる言葉であれば直接関係の無い事でも何でもいいから兎に角投げつけて相手を傷つけようとする、まさに今、弟を殺された寅之進本人とは全く関係の無い所で『上士と下士の戦だ』などと言っている『馬鹿者』が無駄に場を煽るという状況の縮図に思えたのだ。そしてゆくゆくはその安直な言動の尻ぬぐいの為に寅之進が命を落とす事になってしまうかも知れないと思うと…怒れる土佐の男達を前にして心に広がる『畏縮』や『恐怖』などは一瞬にして『更なる怒り』で塗り替えられてしまった。
腰に差した桜清丸は更なる熱さを放ち、吉村らを睨みつけるその瞳には翡翠の輝きが宿る。
「あなた方がこの機会に乗じてやろうとしている上士と下士の戦の行く末を考えるのなら、当然幕府による介入の可能性も視野に入れての発言なんですよねって聞いてるんです!何も考えないでただ勢いだけで『上士と戦をしよう』だとか『話をすり替えるな』なんて言ってるのなら、今すぐ!この場から立ち去って下さい!これは寅くんの問題であって、あなた達がこれまで積み重ねて来た上士に対する恨みつらみを発散させたり、ましてや土佐存亡をかけた内紛を煽る為の機会ではないんです!」
周囲の暴挙を引き留めようとしていた龍馬は驚いてはつみを振り返った。彼女は今にも殴り掛からんと押し掛ける郷士達の前に毅然と立ち、背後に伏せられている遺体の側で茫然としている寅之進を全力で守ろうとしている。その寅之進ですらも、極めて複雑な表情の中にもはつみに対する驚きを隠しきれない様子で彼女の背中を見上げていた。しかしさすがに『これはいかん』と察した龍馬が彼女のもとへと駆け戻る間に、当然ながら郷士達は更に火がついた栗の様に怒りをはじけさせ、それぞれが思うがままに思いつく限りの罵声をはつみにぶつけてゆく。
中でもとりわけ、なまじ話が通じる吉村虎太郎はまるでけしかけるかの様に
「じゃったら!おんし如き開国被れに国家天下の何がわかるっちゅうんじゃ!今この機に乗じて寅之進と共に上士を討ち、藩政をわしら郷士が握ったらそれで全部丸く収まるじゃろうが!それが何故土佐藩取り潰しっちゅう話になるんじゃ!言うてみい!」
と鋭い罵声を容赦なくはつみに浴びせていた。
「じゃあ聞いて下さい。あなた達が今寅くんを担ぎ上げて武力隆起したとしてこの土佐に待ち受けているのは、幕府が介入して取り潰しになる未来か、もしくは上士が全力であなた達を黙らせに来る、つまり幕府の手を煩わせまいと全力で制圧に乗り出す上士達の手に掛かって皆殺しにされる未来のどちらかです。何故なら、あなた達郷士が上士の協力なしにこの土佐藩の勢力図を覆す事は絶対に不可能だからです!!!」
極めて過激かつ郷士の力を侮っているとも取れる発言に周囲の怒号は数倍に膨れ上がる。駆け付けた龍馬がはつみを保護する様に抱き抱え後ろに控えさせ様とするが、彼女はまるで何かに憑りつかれたかの様に強靭な力と精神力を以てその腕を振り払い、吉村らに食って掛かっていく。
「山内家が徳川幕府から土佐をもらい受けてから代々続く恩顧の義、更には容堂公が近年藩主に就いた際にあった御家取り潰しにも至りかねない相続危機を幕府の計らいによって特別に回避する事ができたとする経緯を考えれば、土佐藩としては幕府に従いこそすれ郷士を庇うはずがありません。100歩譲って、弟の敵討ちとして上士山田の身柄を引き渡しその顛末を見守る事に藩として同意する事があったとしても、土佐の上に幕府というものが存在する以上、あなた達が言う『先祖代々積年の恨み』と称し上士の誰かを斬ったところで何も変わる事はない。ただ上士達による圧倒的な軍事力によって淘汰されるだけです。」
こういった事を、途中途中で反論を受ける度に圧倒的な情報量を以て説き伏せていく。特に山内家の騒動については、にわか雲の上の話である幕府云々と頭ごなしに言われるよりも流石に肌感が違った様で、中には信じる信じないと迷って周囲と顔を見合わせ動揺を示す者も少なくなかった。いかに土佐藩主の相続に関わる事とはいえ『取り潰し直前であった』事実など下々に知らされている事もなく、『藩の取り潰し』という言葉の現実味の片鱗を味わった様だった。
「それから、土佐の上に幕府があるという事は、例えあなた達の先祖の誇りも大切な家族も何もかも全てを犠牲の巻き添えにして戦を巻き起こし土佐上士もろともすべてを消し去ったのだとしても、また別の土地の『上士一族』が郷士達の上に挿げ替えられるだけだという事。本当にこの土佐を変えようとするなら、上士と下士が一緒になって根本的な仕組みから変えて行かなければいけないんです。ならば今どうするのか?敵討ちを成すのかどうかも含め、それを決めるのは全て寅くん本人であるべきなんです。これは被害者である弟さんのただ一人の親類である寅くんが決めるべき問題であって、他の誰の問題でもない。他人の仇討ちに協力こそすれ、我が我がと不躾に横から首を突っ込んで、事もあろうか被害者本人を祭り上げこの機に乗じて自分の恨みを第一に果たそうとする?問題をすり替えて大騒ぎをしてるのは私じゃなくてあなた達です!そうやって寅くんを担ぎ上げてあなた達の思う通りにならなかった時、誰がその尻ぬぐいをするんですか!?誰が扇動したと見なされると思ってるんですか!」
「そ、そりゃあ当然、立ち上がったわしらあが…」
「違う!!!それはあなた達じゃなくて、あなた達に担ぎ上げられた寅くん本人なんですよ…?寅くんの敵討ちに乗じて今こそ上士たちを討ちに行くぞって、そういう事じゃないですか…!だからほら、あなた達はやっぱり自分の事しか考えていないんですよ!!」
―そこへ、少し遅れて到着した武市が様子の一部始終を目撃して唖然としていた。はつみの最後の一言を以て吉村が「小癪なァ!!!」と怒りを爆発させそうになった所で我に返り、颯爽とその熱気の渦へと飛び込んでいく。
「待て!おんしら、落ち着け!」
「武市さん!!!」
「武市先生エ!!!」
身一つで寅之進を庇うはつみと吉村らが睨み合うのを中心にできた人垣が、武市の進行方向に沿う様にしてサアッと開けてゆく。最短で中心に到着した武市は龍馬と視線を合わせて頷きあった後、まずは寅之進の下へ膝をつき、遺体へと手を合わせる。表情の薄い武市の顔にも苦々しく悔しい想いが滲んでおり、黙祷の後に目を開いた彼は蒼白の顔色のままいまだ茫然としている寅之進の肩に手を置く。
そして、武市が到着して以来ずっと武市を呼び続けている、荒れに荒れた郷士達へと向き直った。
「落ち着け二人とも。……おんしもじゃ、はつみ殿。」
はつみを見る武市の視線は、いつもの様に何とも読み取れないものであった。『女子が首を挟んで…』などと思われたかもしれない。ただ武市が介入してきた事で、まるで怒れる何かに憑りつかれていたかの様なはつみの覇気も一気に収束していく。力が抜けていくかの様にへなへなとその場に座り込むと、はつみの背後で言葉一つ発せず蒼白の顔をしていた寅之進がそっと支えてくれた。目の前では怒りを抑えきれない吉村達が武市に講義をし、武市がはつみが放った言葉の一部を『正しい事だ』と引用する形で再び彼らをなだめようとしている。武市や龍馬が激しい主張を辞めない吉村ら郷士達を落ち着かせようとしているのを見上げながら、
自分を支えてくれた寅之進の腕が、熱く震えている事に気が付く。
そう、彼はまだ、生きているのだと。
…歴史的な逸話として見聞きしたこの事件の経緯では、武市の到着時は状況を打破するには若干遅く、すでに『戦』の雰囲気で上士たちも大いに構えてしまっていた。止むを得ず上士達の所望する通り『謀反』疑いの中心人物として寅之進を差し出す事でしか状況を収められなかった…。だが、今ははつみが寅之進を庇い続け、吉村らといった過激な一味を牽制し続けていた事でいまだ『物事は動いていない』といっていい状況であった。この状況で武市が寅之進を庇ってくれれば、寅之進が担ぎ上げられ差し出されるという事も無くなるのではと考えたのだ。
だが血気が逸って諦めきれない過激派は、寅之進達に揺さぶりをかけ続ける。『武士ならば敵を討て』『上士の好きにさせるな』『武市先生!まとめてつかぁさい!』と。
武市の意見としては、その価値観も含めはつみとは多少思う所に違いもあったが『戦になる事だけはあってはならない』という所で一致し、郷士達を抑える動きに入っている。過激な郷士達は不満げな声をあげ続け、統率が取れず今にも各々に飛び出して暴動を起こしそうな者達を横に『制御しきれなくなったら一番タチが悪い、どうするぜよ』と龍馬が問いかけた。すると武市は考えうる可能性の一つとして『その様な場合になれば…事の中心人物である寅之進にまで責任が及び兼ねん』と述べた。
つまりそれは、寅之進を上士に引き渡す事で事の収拾をつけなければならないとする『冷静』な考えであった。
―その事が、この事件の結末を知るはつみに取っては殊更、感情の引き金となる。
「武市さん、どうして…なんで武市さんまで…そんな事を言うんですか…?」
はつみの表情は絶望とはまた違う、若干怒りの様なものも含まれた色に染まっていた。
「寅くんは罪になる様な事は何もしてません!敵討ちの事はあるかも知れないけど、それは忠次郎くんのただ一人の家族である寅くんだけの問題です!その事を代々続く上士と下士の遺恨がなんとかって問題をすり替えて勝手に騒ぎ出してるのは彼らなのに、何故彼らの怒りを鎮める為に何も罪を犯していない寅くんを差し出すだなんて言えるんですか!?」
「落ち着けはつみさん!武市さんも…こればっかりははつみさんの言う通りぜよ…」
「……すまん。軽率であった。」
事もあろうか小娘が武市に対して暴言を吐いているとみなした郷士達の罵詈雑言がごうごうとはつみへと向けられる中、はつみの覇気を向けられた武市はその正論の前に軽率であったと認め、謝罪する。龍馬に押さえられながらも寅之進を抱き締めるはつみは、寅之進は絶対に何も悪くないし差し出すなど絶対に認めないと言って、その手にかよわい力をめいっぱい込めていた。
武市の言う様な事があっては、結局歴史通りに事が運んでしまう。『今現在』、家族を斬り殺された側である寅之進自身は犯罪になる様な挙動は一切何もしておらず、寅之進を引き渡す道理もなければ今回の暴動の『中心』になった訳でも『引き金』となった訳でもない。歴史上では既に寅之進が敵討ちを果たし上士を殺してしまったと言う事実があったが故に、やむをえず彼が責任を取り切腹という結末になったが、『今』はまだ、そうなっていないのだ。
寅之進が『この騒ぎの首謀者として』『責任』を取り、ただこの機に便乗して暴挙を企てんとする過激な郷士達が許されるという状況になる事だけは絶対に避けなければならない。その決意を表すかの様に、寅之進を強く抱き締める。
「…はつみさん……」
弟の死の衝撃のみならず、何故この人はこんなにも自分に寄り添ってくれるのかと戸惑わずにはいられない寅之進。しかし彼に構わず、はつみは周囲のおどろおどろしい熱気から寅之進を守るかの様に彼を抱き続けていた。最愛の弟の死、上士への怒り、自分を守ろうとする為に周囲の罵詈雑言を受け続けるはつみへの想い…これまでにない程感情がかき乱された寅之進は次第に涙をこぼし始め、途切れ途切れの声で
「俺は…どうしたらいいですか……」
と、はつみにすがる。
土佐藩において、正直今回の様に上士の無礼打ちに関する件については例え詮議になったとしても『郷士』だけの力では対した有罪も勝ち取れないどころか、下手をしたら『そもそも上士を不快にさせた非がお前の弟側にある』等と言う判決が下されかねない。実際この事件の歴史的顛末を見ても驚くほど上士側に配慮された判決となっていた記憶がある。ではどうするか……
思い浮かんだのは、土佐上士の中でも大身の家柄にある乾、そして参政・吉田東洋だった。
もしかしたら…自分を評価してくれる彼らなら…
知る歴史上には存在しない今のつながりがあれば、話を聞いてくれるかも知れない。
歴史上にはない何らかのひずみを作る事ができるのかも知れない…
だが寅之進は今、弟の遺体から離れる訳にはいかない。そして直感的に、歴史の観点で見た時の『異分子』である自分が寅之進の側を離れる事もあってはならない様に感じる。腰の桜清丸が異常な熱さを放つ中、今、彼から離れてしまっては、きっと『歴史通り』の顛末になってしまいそうだと思った。
そんな時、はつみの尋常でない緊迫した思案顔を見て察した龍馬が、そのか細い肩をそっと抱きながら小さく訪ねてきた。
「…はつみさん、何かわしにできる事はないがかえ…」
はつみの即席の手紙を受け取った龍馬は、城下へと駆ける。いつの間にか外は暗くなっていたが、三日月が信じられない程に明るく足元を照らしていた。夜闇での視野が極端に狭くなる龍馬には助かる状況だ。
草木も石も関係なく豪快に走り抜けながら、龍馬は考える。何故はつみに『何かできる事はないか』と尋ねたのかは自分でも分からなかった。ただ直感で、彼女の底知れない何かを感じ取った…思い当たるのはそれだけだ。それは初めて彼女を見た時や、天狗の飲み水で霊験的な回復を見せた時に感じた感覚と同じものであって、恐らく皆が彼女の事を漠然と『浮世めいた麗人』と感じると共に『今生かぐや姫』などと言う感覚からくるものだとは自分でも思う。だがそこに、さらに一歩踏み込んだ思考を巡らせてしまうのだ。そんな事をして彼女の『本質』を知れたとして、それが何になる?知らぬが仏という言葉もあり、自分が知るべき事ではないという一種の怖さのようなものが、その一歩踏み込む思考を留めようともしている。
では切り口を変えて考えてみてはどうだろう?
その『知るべきではない本質』を持つ彼女が、あんなにも必死になって寅之進を庇おうとしていた。普通に考えれば、か弱い小娘が罵詈雑言をど散らかす男達に一人立ち向かい、あまつさえ圧倒的な知識をまるで空から地図でも見下ろしているかの様な俯瞰の言葉の羅列でその場を圧倒する…。
どう考えてもあり得ない様な状況だったではないか。
「はつみさん……おんしゃ一体…何者ぜよ……!」
誰に言うでもなく、ただとにかく彼女から預かった書簡を城下へ届ける為に走りながら口走る龍馬。それ以上は触れない方がいい、触れるべきではない、と自分自身に言い含めるかの様に、唇を噛みしめひた走った。
「ケーン…!」
「んっ?ルシか?」
考えても仕方のない事を考えてしまう思考を奪うかの様に、聞き慣れた鳥の声が遠くに聞こえて顔を上げる。すると木々の間から開けた夜空に浮かぶ月を背後に、一羽の神々しい白隼が空高く舞い上がる姿が見えた。まるで龍馬が見ている事を知っているかの様にくるくると旋回すると、再び左右から視界を遮る木々の向こうに隠れてしまう。
龍馬にはルシが道しるべを示している様に見えていた。そう、はつみに天狗の飲み水を届けんと走った、あの時の様に。
「―はあっ!はあっ!…うおああ!?」
ヒヒィィン!!!
「―!?おまん…坂本か?」
ルシが見えた方向へ向かって走り続けていた龍馬の前に、突然馬が現れ危うく踏み倒されそうになってしまった。間一髪横へ飛び退き、馬上にいた武士も見事な手綱裁きで接触を回避する。息を切らしながら自分を見上げてくる男を見てその名を口にしたのは、土佐上士の一人、乾退助であった。そしてすかさず、空から舞い降りて来た白隼のルシが乾の背後に現れ、彼が乗る馬の蔵に足をかける。どうやら本当に、龍馬を導かんとしていた様だった。非常に賢い彼は飼い慣らされた訳ではなくただ己の意思においてその場に留まり、事の顛末を見届けんとするかの様に龍馬や乾を見つめている。
「ルシ!ほんでお前さん…乾さんかえ!」
「―永福寺はどうなっちょる。何故おまんがここにおる。…はつみはどうなっちゅう」
例え自分の命が狙われる様な事があったとしても動じる様子など見せようもない乾が、俄かに顔色を変えて一方的に質問を飛ばしてくる。彼のはつみに対する感情には龍馬も想う所あり、『上士の差し金ではない』と信じて出来る限り応えようと務めた。
「その様子じゃと、ある程度の事は耳に入っちゅうと思うてええですろうか」
「おんしが寅之進やはつみと共に永福寺におったんは斥候からの報告で知っちょった。じゃが他にも血生臭い連中がぎょうさん詰めかけちょったじゃろう。…はつみの阿呆が減らず口を叩いて、藩の大事になるんを抑えちゅうち聞いたき…こうして駆け付けた。」
どうやら龍馬が永福寺から出る前から、上士の斥候はすでにいくばくかの情報を城下へもたらしていた様だ。当然、上士側も事を把握しているという事である。その斥候による情報により『桜川なる者が忠次郎の兄・寅之進を庇い、謀反を企てんとする郷士らを牽制している』と聞いた乾は、居ても経ってもいられなくなり、こうして飛び出して来たのだろう。―彼の漢気に満ちた答えに安堵の息をついた龍馬は、胸にしまっていたはつみからの手紙を取り出し、乾に手渡す。
「はつみさんが…この騒動を丸く収められるんは乾さんと東洋さんだけじゃち言うて、俺に託したがぜよ」
「はつみが?」
直ぐに手紙を受け取った乾は躊躇わずにそれを広げた。読めなくはないが相変わらず独特の文体で書かれた文字に、確かにはつみの筆跡によるものであると納得する。
「……どうぜよ、乾さん。」
黙って手紙に視線を流す乾に、龍馬は息を整えながらも真正面から問うた。手紙には、今回の、山田広衛による池田忠次郎無礼打ち事件に便乗する形で郷士達が集まり、土佐の格差問題に対する不服を申し立てんとする機運が高まっているとする所から文章が始まっていた。きっと上士側でも騒ぎになっている事だろうが、ただ一つ、この事件の被害者の唯一の親族である寅之進自身は『扇動も含め罪に問われる様な事は何もしていない』事が強調されている。上士側が警戒すべき状況へとまくし立てているのは周囲で騒ぎ立てている第三者達であり、寅之進が今回の事件に対し冷静に対処しようとしている限り彼らが成そうとする事には大義がないことや、山田が行った罪に対して藩政が平等で然るべき対処を取れば、第三者に過ぎない彼らは矛を収めるしかないという事が説明されていた。今は自分や武市が郷士達を押さえているから、彼らが暴発する前に、然るべき対応を藩政の方で付けて欲しい。信頼する上士、免奉行乾様、そして参政吉田東洋様へ…という、これまた彼女らしい独特な締めで手紙は終わる。
乾は手紙を龍馬に見せ、彼が食い入る様に手紙に目を走らせる隣で不動のその眉間にしわを寄せて思案する。大義があるのか否かという問題は、物事の是非を問う際には非常に考慮すべき点である。藩内で内紛を起こさせるわけにはいかないというのも勿論あったし、何より、血気逸る荒々しい郷士達を『自分や武市が押さえておく』とは…。改めて思うが、一体どういう事なのか?『盛組』という地域の喧嘩組で総長をはっていた乾には、土佐の男達が荒々しくぶつかり合う際の激しさを身を以て理解していたが故に、今はつみの周囲でどれだけの罵詈雑言が飛び交い暴動めいた騒ぎになっているかも安易に察しがついてしまうのだ。その中で、彼女は一体いかようにして郷士らを『押さえている』というのか。
「坂本、はつみはどのようにして男らあを抑えつけておるんじゃ」
手紙を読み終えると同時に問いかけられた龍馬は、唖然とするほどの覇気を放って男達を説き伏せていたはつみの様子について、出来る限り乾に聞かせてやった。内容が難しくて龍馬には言葉の意味もその実態も分からない事が多かったが、乾には、手前の感情論だけでなく藩と幕府の関係性なども踏まえながら、有効な改革には上士と下士が『一体』にならねば却って破滅しかないとする考えも含め、合理的に『大義』を説こうとするはつみの意図が大方理解できた様だ。そして中でも、山内家の相続問題についての話題が出た時は、言葉なくも乾の表情がやや強張り、眉間のシワが一瞬更に深くなった様子が龍馬にも伝わった。
「……概ねわかった。」
龍馬から詳しい状況を聞いた乾はしばし思案した後、力強く手綱を取り馬の方向変換を行う。
「はつみの言う通り、まずはこれらの事を東洋様へご報告する。」
「わかった!ほいたらわしは永福寺に戻るき!」
「いや、おんしも付いてこい。はつみの手紙であれば東洋様もお目を通して下さるじゃろうが、実際に郷士の言葉をお聞きになるやもしれん。」
郷士の方は武市も駆け付けた事から、恐らくこれ以上の扇動は起こらないだろうとする見切りは乾と龍馬の間では既に共通事項であった。はつみへの圧はつづくだろうが…そこも武市が引き受けてくれるはずだから乾に付いていく事自体には即同意する。しかし、それとは別件として、東洋の前に出る事に一瞬躊躇を覚えた様だった。龍馬の心の極めて奥底へと追いやられた苦々しい経験が一瞬彼をそうさせたが、自分でも忘れてしまう程に奥底へと押し込んだ記憶であったが故に、流石の乾も龍馬の心の奥深くまで見極める事はなかった。
瞬時に気を取り直した龍馬は、馬上の乾を改めて見上げ、力強く頷く。
「わかったき。」
すると、馬の鞍に留まっていたルシが白い羽をバサッと広げて宙に浮かび上がり、ヒュンと夜空高くに飛び立っていった。
「ケーン!」
と力強く声を発し、また二人を誘うかの様に空を旋回しはじめる。乾と龍馬が動き出したのを確認するとスッと高度を上げて、城下と思われる方向へと風を切る様に羽を広げた。月光を浴び、自ら真っ白に輝く目印となっているかの様だ。
「…また道案内しちゅうか、あの鳥は。」
乾も龍馬と同じく、龍河洞へ向かった時の不思議な体験を思い出していた様だ。続く乾の話からすると、どうやら城下からここへ向かう道中にもルシの道案内があって、幾重にも存在する道の途中であるにも関わらず結果的に龍馬と遭遇できたのだと言う。それに関して言えば龍馬も同じく、遠く城下方面の空にルシの姿を見つけ、龍河洞へ向かう際に道しるべとなった時の事を思い出し、ルシの姿を辿っていたと返す。龍馬は同意する様に頷きながら、更に言葉を続けた。
「ついでに、あん時も乾さんは馬でわしゃ駆け足じゃったき。こりゃげにまっこと疲れ…」
「―はっ!!!」
龍馬のボヤキを瞬時に聞き分けた乾は、彼の話を遮るようにして馬に声をかけ速度をあげた。龍馬は駆け出しだと言っているのにワザと速度を上げた訳が、肩越しに振り返り横顔を見せた事で、その行為が決して『郷士に対するアタリ』などではなく、馴れ合いとまでは言わないが友好的な反応からくるものである事は理解できた。いや、はつみの為にと共に龍河洞のみならず佐賀にまで行った間柄だったからこそ、そのように前向きな感情で受け取る事ができた。
「はいはい、付いていくぜよ!」
運命の変動を見守るかの様に先導する白隼を目印に、二人は城下へ向かって最短距離で夜道を駆け抜けるのだった。
はつみの願い通り、そして乾の察しの通り、東洋は乾から直接受け渡される事によってはつみの陳情書とも言える手紙をその目に通すに至った。永福寺に郷士が集まり決起するのではないかという報は逐一届いていた様だが、永福寺の内部で実際どのようになっているのかまでは、内部までは入り込めない斥候の調査には限界があったという事だ。そこへ乾が持ち込んだはつみの手紙、そしてその場にいた郷士である龍馬を強引にも連れて来た事は、どうやら有益と見なされた様である。とはいえ当然龍馬が東洋の屋敷に上がれた訳ではなく、乱雑に中庭へと通された後に両手膝頭をしっかりと地べたにこすりつけ、そこに東洋が現れ声がかかるまではずっとその体制で控えていなければならなかったが。
そして実際に参考証言として龍馬にも発言が許される瞬間が訪れたが、東洋と共に現れた乾から『桜川はつみが土佐と幕府の繋がりを説きながら郷士らと真向から議論を対峙させた件について間違いは無いか』と用件のみを聞かれて『はい』と応えるだけで終わってしまう。
そしてたった一言
「下がれ」
と東洋から言われた途端、後ろに控えていた警備達が龍馬の両脇に近付き、彼の腕を取って早急に退去させようと引きずり始めた。その時、龍馬の脳裏には様々な情景が浮かんでは彼の心に揺さぶりをかけていく。家族を殺された上に自分よりも周囲が騒ぎ立てる為にあらゆる感情を抑え冷静な対処に務めようとしている寅之進と、その寅之進を大きな渦の中で守り通すかの様に身を挺して寄り添い続けるはつみ。…そしてある雨の日、同じく地べたに両手足をこすりつけ、自分の鼻から垂れ滴る血で赤く滲む両手を見下ろす情景。そこへ馬上から声をかけられ、心に反して『はい』としか言えなかった自分…
「畏れながら!申し上げます!」
気がつけば、自分を引きずり去ろうとする警備の手を振り払い、再度両手両足を地べたに押し付けてから中庭の向こうの部屋へと去りゆく東洋の後ろ姿に発言を試みていた。
「此度の件、無礼打ちを受けた忠次郎には何の非も御座いません!何卒入念なお取調べの上、然るべき御沙汰を…」
「やかましいぞ!その郷士を黙らせろ!」
東洋は、日頃から目をかけ長崎遊学の便宜まで図ってやったはつみの言動には『流石は底知れぬ才を持つ女子じゃ』と一定の評価をすると同時に面白がる様子を見せたが、一方で、郷士の一味が藩政に向けて矛をあげようとしている事には厳罰を処して取り締まらなければならないとする姿勢を見せていた。このような内紛暴動が『いち無礼打ち』をきっかけにちょくちょく起こる様では内政が乱れるのは勿論、この土佐を治める藩主らの顔に泥を塗る様なもの…というのが、彼ら土佐上士の基本的な考え方なのである。
徒党を組み藩政転覆を図らんと無茶をする郷士らに御灸をすえるのならばそれは致し方ないと頷き同意を示す乾。しかし本題の、郷士を一方的に無礼打ちにした山田広衛の処分はどうするのかと尋ねると、東洋は口を閉じ、土佐上士、参政としての色をにじませる重厚な視線でじっと乾を見据えた。先ほどの『郷士』にも言われた件だが、触れられる事にあまりいい気はしない様子が伺える。
「無論、追って沙汰を下す。…何ぞ不満か?」
しかしそのような圧にも折れる事無く平然として『黒は黒、白は白』と物申すのが、かねてより東洋も一目置く乾退助という男だ。
「不満ではありませぬが懸念が残ります。そもそもは酒に乱れた上士が郷士へと一方的に絡み、機嫌を損ねて無礼打ちと称した殺人を犯した事が始まりに御座います。被害者の遺族である池田寅之進は『敵討ち』の有無も含め冷静に藩の沙汰を待ち構えちょりますが、郷士らが先走り事を荒立てようとしちょるその理由は、然るべき罰が上士側に与えられん事への不満からくるもので御座いましょう。…実際、私の記憶にある上士の犯罪に対する処罰は郷士らによる同等の犯罪に処された罰よりも比較的軽いものが多いと心得ちょります。」
淡々とした口調で事実を述べる乾に対し、東洋は取り出した扇を一定の拍で膝に打ち付けながら圧を押し出してくる。
「…先ほどの郷士も、要はおんしと同じ事を言わんとしちょったがか。上士への取調べが手ぬるいと?」
「畏れながら。私にはそのように感じられまする。事実、今現在山田広衛殿はいかようにしておりますか。明らかな罪状があるにも関わらず拘束もしちょらんとは、『殺人』ではなく『上士による郷士への無礼打ち』という認識でまかり通っちょるからにございましょう。ですが今回の件、どう見ても郷士ら以下の者らにとっては『殺人』で御座います。」
「しかし無礼打ち、つまり手打ちとは武士の尊厳を守る為に幕府より正式に許された行為であるぞ。」
「酒に酔った者が悪絡みをし、悪絡みをされた相手の反応に不服を覚えて一方的に切り捨てたのです。それを武士の尊厳と言うのであれば、無礼打ちを認める幕府そのものが堕落しているという事にはなりませぬか。」
流石に幕府の批判を口にしたのは行き過ぎであると、ひと際扇を強く打ち鳴らして牽制する東洋。
「口がすぎるぞ退助。」
「…は。」
「…じゃが、おんしのいう事も分からんではない。」
「聞けば山田殿は殺した郷士に対し、兄である池田寅之進の長崎遊学の件について苦言を呈しておったと聞いちょります。東洋様がお認めになった郷士らの長崎遊学を面白く思うてなかったという動機からも、しかと詮議にかけるべき案件かと思われます。今、桜川が永福寺にて郷士らを説き抑えておるのは、国の成り立ちも事の後先も考えぬ阿呆共に大義を問うての事です。いち女子が大局を見据えた大義を懸命に説き暴発を押さえちょるというのに、土佐の藩政が公正明大な判断せぬのでは、それこそお上に対し面目が立たぬと考えます。藩として公平で毅然とした対応を見せる事が、永福寺に集まった郷士らの矛を収めさせる示しにもなりましょう。」
「ふむ…」
「おんしの言い様ではやはり『懸念』というより『不満』である様に聞こえるのう」
「…左様にございますな。想いを吐露する内に私の腹も決まってきた様です。」
「カッカッカ!それを腹に含ませておくんが出世への近道じゃち言うちょるじゃろうが。じゃが、やはりおんしは若い頃のわしによう似ちょる」
「…は…」
乾が東洋の屋敷から出ると、警備に押さえつけられたまま事の顛末を見定めんとじっと座る龍馬の姿があった。傍らに立つ警備が持つ長棒の先端には何食わぬ顔をしたルシが留まっており、羽を毛づくろいしている。龍馬が乾の姿を見て立ち上がろうとした為にルシはバサバサと羽を鳴らして飛びあがり、龍馬はその両側から長棒で抑えつけられるも、乾が身柄を保証した事でようやく解放されるに至った。
「どうなったぜよ!」
「直、東洋様の口添えで藩が動き山田殿を詮議にかけるじゃろう。そうなれば一旦は、永福寺の連中も解散せざるを得まい」
「そうか!ようやってくれた乾さん!流石、はつみさんが上士いち信頼しちゅう御仁じゃ!」
龍馬に感謝されるいわれはないと思いつつも、彼が言った『上士いち信頼している』という文言にはまんざらでもない様子で、乾はフンと鼻を鳴らす。だが、早速この顛末を永福寺のはつみや寅之進、武市らに伝えに行こうと意気揚々に踵を返した龍馬を行かせるわけにはいかなかった。
「待て。おんしは家に戻り東洋様からの沙汰を待て」
「…なんでぜよ。はよう寅らあに伝えてやらにゃ…」
「土佐参政吉田東洋様へ直に不服申し立てをしたんじゃぞ。おんしゃ何の覚悟もなく屋敷にまで乗り込んだがかよ」
そう言われて、龍馬の脳裏には直ぐに『不敬罪』というものが思い浮かんだ。確かに言われてみれば、参政吉田東洋とは少なくとも龍馬の様な身分の者にとっては通常まともに対面する事もできない格上の人物なのである。そしてそれは、同じ上士である乾にとっても、いかに個人的に気に入られているとはいえ参政という立場の人物に対して建言を申し立てるなど通常では考えられない挙動であった。
「ああ…ほうじゃのう。目の前の事に夢中で、お互い自分の身の事は忘れちょったのう」
「おんしと同じにするな。俺はこうなる事も覚悟の上ここへ来た」
にゃははとふざけて笑う龍馬に無表情のまま息をつく乾。しかしやはり悪い気はしていない様子が伝わる。無論、純粋に吉田東洋という人物を頼ったというだけの感覚でいたはつみには、その事自体が『不敬罪』などに値してしまうとは考えもしなかっただろう。分かっていたなら彼女は手紙など龍馬に預けなかったはずである。ふうと一息ついた龍馬はうす汚れた袴をパンパンとはたいて砂ぼこりを落とし、ウンと一つ頷いてから改めて乾に話しかけた。
「…異論はないき。わかったぜよ。ほんなら、永福寺へは乾さんが…」
「いや、俺も屋敷に戻り沙汰が出るまでじっとしちょる。上士の俺だけが不敬罪も得ぬのであれば、山田と同じじゃからな。」
「ほうかえ……おんしはまっこと、肝の据わった上士じゃのう。」
そして、今回の事で図らずも生々しく思い出した過去の傷を感じながら、しみじみとこういうのである。
「おんしの様な上士が他にも多くおったら、土佐はもっと住み善う変わるんじゃろうなあ」
「…場所を弁えろ馬鹿者。それに俺は、別におんしらに特別な情をかけるちょる訳ではないぜよ。ただ道理の通らん事に我慢がならんだけじゃ」
表情も変えずただ真っすぐに言い放つからこそ信頼ができるというのもあるが、彼の言動の裏にははつみに対する想いも強く作用している事はずっと感じていた。だからこそ、彼のいう事には信頼とも似た友好的な感覚で受け止めてしまうのを否めない。
「寅やはつみさんへはどう伝えるぜよ。…そこの警備に頼むがか?」
「いや、あの白鳥を使えばえいじゃろう。」
正気か?と返す龍馬であったが、二言は無いとする乾がルシに向かって手を伸ばすとまるで示し合わせたかの様にその腕にそっと掴まった。続いて乾は懐からはつみからの手紙を取り出し、近くに咲いていた野花を押し挟んで細長く折り畳むとルシの足に巻き付けている。
「花が咲く、っちゅうことかえ?はつみさんに通じるかのお。そういうもんにはちっくと鈍いお人やき」
「あやつが気付かんでも武市が気付くじゃろう」
「おお、それもそうじゃ。あとは、ルシが無事はつみさん所に戻るかっちゅう所じゃのう」
「大丈夫じゃろう。こやつはおんしよりも視野が広く頭も切れるぞ」
龍馬が豪快に笑って『そりゃないぜよ』などと言う傍ら、ルシの足に紙を結び付けた乾は月が輝く夜空へ向けて腕を振り上げる。夜空へ再び白隼が舞い上がり、躊躇することなく井口村方面へ向かって飛び去って行った。
※仮SS