翌日、龍馬は普段の無邪気な顔からは想像もつかないほどの険しい表情を浮かべ、武市の道場へと足を急がせていた。はつみを守れなかった無念と、彼女が傷つき帰ってきたことへの怒りが、いつも穏やかな龍馬を突き動かしていた。
「武市さん!おるかえ!!!!」
怒号のような声が響くと、活気に満ちた道場の空気が一瞬にして重くなり、騒々しかった門弟たちも動きを止めてざわついた。その奥から、まるで龍馬の激しい感情に引き寄せられるように、武市が人垣をかき分けて現れた。顔を合わせた瞬間、武市は龍馬の怒りが何に向けられているのかを既に悟っているようだった。彼は門弟たちに「鍛錬を続けよ」と静かに指示を出すと奥の部屋へと龍馬を促し、二人だけの話へと移った。
「…こがぁな事にはつみさんを巻き込むな。いくら武市さんでも、わしは堪忍できんぞ…」
龍馬の眉間には怒りの皺が深く刻まれ、いつもの快活さは微塵も見えなかった。武市は無言で彼の言葉を待ち、ついに龍馬は切り出す
「はつみさんは…子供ができん体なんじゃ。おんしはそれを知っちょったか?」
「何…?」
龍馬の問いに、武市は一瞬驚きの表情を浮かべた。知らなかった。はつみが、そんな大きな悩みを抱えていたことを。武市の心は、一気に後悔と罪悪感で塗りつぶされそうになってしまった。昨夜のやり取りで彼女が自分にどれだけ傷つけられたか、その重さがようやく理解できたのだ。
「おんしが思う以上にはつみさんは深う傷ついちゅう。何でかわかるかえ?あの子は口にはせんけど…」
―おんしに向けちょる想いを、わしは知っちゅうき…
龍馬の言葉には単なる怒りだけではなく、哀れみや悲しみ、切なさも滲んでいた。はつみが武市に抱いている密かな想い、憧れを、龍馬はずっと知っていた。そのはつみが、周囲のお節介によって武市の子を成す成さないといったしょうもない策に利用され、巻き込まれ、思わぬ心無い言葉をかけられ…夜も深まる中、泣きながら家に帰ってきた。
そのことが、龍馬の怒りを呼び起こしていたのだ。
武市は言葉を失いかけるが、襖の向こうに人の気配があるのを察し自然と姿勢を正す。龍馬も途中で言葉を止めた所を見ると、その気配…おそらくは茶でも煎れてきたのであろう富がそこにいる事に気が付いた様だ。これ以上の感情論を正妻である富に聞かせるべきではない。だがそうやって不自然に止めなければならない程の感情が、ここには確かに渦巻いているという事の証明であった。
「…元々は私事に過ぎん家の問題であったが、結果的に周囲の者を巻き込んでしもうた事は自覚しておる。」
冷静に返事をする武市の深い声に、龍馬も怒りの矛先を向けるべきは彼ではないという事に気付けた様だ。そう、龍馬の姉である故:栄もそうであったが、夫婦の間に子ができるかできないか、その問題をどう扱うかはあくまでその家の問題なのである。武市が武市道場の師範として、そして土佐尊王攘夷派の期待と羨望を一身に集めると同時に、自らの崇拝を以て家族と同等かそれ以上の存在になったつもりで親愛を寄せ、あらゆる世話を焼きたがる者も出てくるであろう。今回の件はまさにそれだ。そして日頃は対立の姿勢を見せていたにも拘らず『己らの目的の為だけに』手のひらを返してはつみを利用し、結果的に深く傷つけた悪質な一例となったが。。
「…他にも巻き込まれた娘さんがおるがじゃろう。武市さんの立場は、もはや普通の人のそれとは違うっちゅうことじゃき。お子の事も含め、周りの者らぁが何ぞ言うてきたらある程度の説明はしちゃらんといかんぜよ。おんしを心配しちょるんが行き過ぎて、暴走しちゅうき。」
「…俺は何も変わっちょらんが…そがぁなもんかのう…。」
「そいういうもんぜよ…」
「…フゥ……ひとまず、今回の件についてはあいつらに灸を据えておいた。俺の言葉を理解しようち思うんであれば、同じ様な事は起こるまい。」
武市の言葉にうなずき、部屋を出る龍馬は襖を開けた所で固まっていた富と鉢合わせる。彼女にとっても辛い事を痛感させられる事件であっただろうが、今もまた、怖い想いをさせてしまったかもしれないと心を切り替える龍馬。
「富さん!こんちは。さわがしゅうして悪かったの。」
まるで富がそこにいる事に『今』気づいたかの様な言い回しで、彼女を労った。
「武市さんはおんしがここにおる事を望んじょる。気にしなや。あ、それからちっくと道場で汗流してくき。また騒がしくするけんど気にせんでくれ」
「龍馬さん…はい、心得ました。お心遣い、まっことありがとう存じます」
恭しく礼をする富と笑顔で別れた龍馬。道場へ向けて一歩踏み出し彼女とすれ違った時には、既にその顔から笑顔を消失させていた。
「吉村!柊!おるかえ!!」
武市との会話を終えた龍馬は、その胸に怒りの炎を燃やしたまま道場へと向かった。そして道場にたむろってはいても奥で口ばかりを動かして剣など振りもしていない彼らを大声で呼びつける。彼らこそがはつみを巻き込み、傷つけた張本人だと感じていた。武市側の都合ではなく、はつみ側の人間としてその対処が必要だった。
龍馬の怒鳴り声がびりびりと空気を震わせながら響くと、道場内にいる者たちは目を見張って彼を見た。盛んに剣を振るって稽古をしている誰よりも龍馬の声が大きく、覇気に満ちていたからだ。江戸の北辰一刀流分家道場にて塾頭となった龍馬の剣は地元でも噂になっていたが、武市が『腕が鈍るぞ』と小言を言い続ける程、龍馬が真面目に稽古に励んだ姿はここ数年見られていない。客員として師範紛いな事をする事もあったが、それでも門人ら相手に防具も付けず対応するだけで事足りていた。
虎太郎と柊が顔をしかめて現れ、彼らの姿を確認した龍馬は、持っていた竹刀を投げつける。
「なんぜよ龍馬」
足元に転がってきた竹刀を拾おうともせず、吉村は極めて機嫌が悪そうに反応した。武市が既に対処したとは言っていたが、恐らくはその『余計なお世話たる忠誠心』をこっぴどくはねつけられたのだろう。不服ではあるがここでその話をする事も憚られる程には武市の怒りを尊重しているのか、怒れる吉村と柊の間に流れる空気感すら、どこかギクシャクしている様に見える。
「稽古をつけちゃる。二人同時にかかってきいや」
龍馬の目には怒りの炎が宿っていたが、あくまで自制心を忘れず理性を以て考えた結果、思いっきり剣を交えてやろうと考えた様だった。吉村らも自分達の行動が結果として武市や龍馬の怒りを招いたことを理解していたが、武市家の為には必要な事であり誰かがお膳立てをしなければならなかった、いや、やるべきであるとする自負があった。武市の嫡男誕生についてお節介を焼きたがるものは多く折り、また武市を慕う同志者達の願いでもあると…武市本人からの苦言があっても尚、吉村はそんな風に考えていた。
まったくうんざりだと言わんばかりに「またあの女の事か…」と吉村は小さく漏らし、龍馬はそれを聞き逃さなかった。龍馬の表情がさらに険しくなり、苛立ちを押さえ込むことなく、構えをとる。じっと吉村を睨みつける龍馬に対し、吉村はやっと一歩動いて足元の竹刀を拾った。それと合わせる様に、柊も竹刀を拾う。
「…二人掛かりでえいじゃと?随分と舐めとるのぉ、龍馬」
「誰かさんのお蔭で久々に大暴れしたい気分じゃき。ま、二人なら『分からせる』ぶんには十分じゃろう。」
「…ぬかせ」
激しい竹刀の音が道場内に響き、打ち合いが始まった。龍馬の技は鋭く、吉村と柊はそれを必死で受け止める。しかし、龍馬の一撃一撃が驚くほどに重く、それを受ける二人を圧倒していた。二人であるという強みを生かしようやくどちらかの剣先が龍馬の身体を掠めようとしても、直ぐに避けられてしまう。挙句には思い切り薙ぎ払われ、頭脳明晰でありながらも剣もそこそこと評価されていた柊などは何度も竹刀を落としてしまう始末だ。
その時、道場に武市が現れた。彼も竹刀を手にし、何も言わずにその場に立っている。制止することもなく彼は黙って龍馬と吉村らの対決を見守っている。やがて体力の尽きた柊が立てなくなり、次に吉村も大の字になって息を切らしながら「ええ加減にせえよ…!龍馬…!」と叫ぶ有様となった。流石の龍馬も肩で息をし滝のような汗を流してはいたが、今になってようやく重ね着で動きにくかった着物を脱ぎ、はつみがこさえてくれたYシャツの袖をまくって更なるやる気を見せる。何を言うでもなく呼応した武市が歩を進め、脱いだ羽織を適当な門人に持たせると、彼の人柄を映し出す様な精悍なる雰囲気で剣を構える。
龍馬が見せる本気の乱取りで道場内は既に湧き上がっていたが、武市がこの様な乱取りに『乱入』をするのは殆どの門人も見た事の無い出来事であった。異例の事態に困惑しざわつくのと同等に、熱いまなざしが二人に注がれる。
好戦的に一刀目を切り出したのは龍馬の方だった。まずはご挨拶とばかりに分かりやすい上段からの一撃であったが、例え読みやすかったとしても武市が繰り出した払いは非常に早く、重みのあるものであった。危うく竹刀を落としかける龍馬の手元を容赦なく打ち付け、またその場にて隙の無い構えを取る。笑う龍馬に対し、武市は表情を崩さない。期待と緊張で弾けそうな道場内の空気を、完全にこの二人が制圧しているかの様な覇気が漂っていた。
その後も二人の打ち合いは続き、龍馬だけねなく武市からも積極的な打ち込みが多くみられ、実に見ごたえのある乱取りとなる。武市の腕や脚元を何度か打ち付ける事はできたが、龍馬はそれ以上にあらゆる箇所を打ち付けられ、おまけに一撃一撃が非常に重く受けるだけでも体力がごっそり削られていく。そして最後にこれ以上ない程綺麗に剣先を打ち払われ、その衝撃で重心前持っていかれた結果、大きく倒れ込んでしまった。
門人たちがこぞって感嘆の声を上げ、拍手を打ち鳴らす。龍馬は両手両足を投げ出すと大の字の形となって天井を仰ぎ、大きく息を繰り返しながら、こちらを見下ろす武市へと視線を投げかけた。
「はあっ!はあっ!はあっ!ああ…後から出てきて…ずるいぜよ武市さん…!」
「これぐらいで伸びるとは、やはり鈍ったか。そがぁな事ではいざという時守るもんも守れんぜよ」
龍馬は先に吉村らと乱取りを行っていたとはいえ、武市もあれだけ早く重い撃を飛ばしておきながら一糸乱れぬ様子で立っている。龍馬はのっそりと起き上がって膝を立て、「ちゃちゃちゃ」と笑いながら息を整えていった。
「はぁっ、はぁっ…ふぅ…いやぁ、まだまだいけるぜよ!」
道場内では歓声が上がり、再び向き合った武市と龍馬両者を応援する声で溢れていた。龍馬の怒りはいつの間にか鎮められ、武市と剣を重ねる毎に無言の何かを伝えあっているかの様だ。吉村は舌打ちをしてその場を去り、柊はただその場で武市が『私的に』剣を振る様子をじっと見つめていた。
そんな道場内の様子を、富は少し複雑そうな眼差しで見つめているのだった…。
※仮SS