仮SS:越えられない一線


活気づく江戸中の人達が花火を見ようと押し掛けごった返す中、人の波に揉まれてはぐれそうになったはつみは『往来で男女が近付くとは不埒だ』と怒られそうだと思いつつも、勇気を出して武市の袖を握った。自分の側にいるのが武市だけだったから、というのもあるが…「今だけなら…」とする、いわゆる『下心』といえる感情があった事を否めない。

武市に対し何かにつけて『遠慮』が生じるのは、年齢差であったり立場の違いだったりとか色んな理由があっての事だが、何よりも第一に来るのはやはり、彼には正妻がいるという点…ただの憧れが、抱いてはいけない慕情へと変化しているという点だ。つまるところこの『人波に揉まれてはぐれてしまうかも知れない』という状況を利用した。どさくさに紛れて少しでも近づきたい、触れてみたいと思ってしまったが故の…咄嗟の行動だった。…それでも裾を握るので気持ちは限界だった訳だが。

しかし次の瞬間、はつみの行動に気付いた武市が不意に振り返り、吸い寄せられる様にして二人の視線が重なる。周囲の雑踏は一瞬で遠くへと過ぎ去り、まるで二人だけの世界であるかの様な…深い視線の交わりを感じたのも束の間。武市の無表情の瞳がゆっくりと瞬きをした後、伏せがちとなってゆっくりと視線が外れていった。

…それはいつも見る武市の表情だった。彼は決して何も言わないが、不意に目を伏せ視線を背けるその表情はいつもどこか迷惑そうにも見えて…常に誠実で厳格な彼だからこそ、『今のは一線を越えてしまっただろうか』『迷惑をかけてしまっただろうか』と、もっと親しくなりたい本音との間で葛藤が生まれていた。そして今もまた、視線が外れると同時に周囲の雑踏も戻り、はつみはやはり出過ぎた真似をしてしまったと我に返って、袖から手を放してしまう。その途端、気が抜けたせいもあって人の荒波に飲み込まれてしまい、武市の背中も人の影に隠れ、はぐれてしまう、遠くへと行ってしまう…と思った矢先。思いがけずグイと腕を引き寄せられた。

「…大丈夫かえ」

 落ち着いた声で語りかけ、大きな手で力強く腕を引いてくれたのは武市だった。

彼に触れたのはこれが初めてだった事もあり、かつ、思っていたよりも距離が近くて…引き寄せられる力が強くて…受け入れられるとは思っていなくて…

潤みそうな瞳でただ、間近に武市を見上げていた。いつもの様に伏せがちで困ったように逸らされそうだった視線が、今だけは遠慮がちにはつみの視線と重なってゆく。隙間一つ見つけるのも難しい人波の中心でぐいぐいと挟み込まれ、必然的かつ強制的に、互いの体格差や凹凸までもが密着していく。

「あっ…」

「……っ」


 どうなってしまうのだろう。このままどさくさに紛れて二人の間に何かが生まれるのだろうか…?と思われた矢先、武市はその大柄な体を強引に反転させ、手で人波をかき分けながら、横顔で振り返って言った。

「はぐれん様、俺の着物をしっかり持っちょきなさい」

「は、はい…」

 またそうやって事務的な事だけを告げて、まるで何事もなかったかの様に、何事もないはずの現実へ戻ろうと進む武市の背中を、黙って見上げる。目の前にはいつも明確な一線があって、それを乗り越えようとした訳ではないのに、いつの間にか怪我をしてしまう。この憧れの気持ちを何かしらの形に昇華したいと望んでいる訳ではないのに、少し近付いただけで傷付いてしまうのだ。



―そして、越えられない一線を感じている人物は他にもいた。
人込みの向こう、はつみたちがいない事に気が付いて探しにきた龍馬の視線が、切なげな二人の様子を捉えている。不意に足がとまり、視界の中心にいる二人以外は何も見えなくなるかの様な感覚に陥っていった。…だが彼がはつみと違うのは、彼は誰に取り繕う訳でもなくただ自嘲めいた笑みを浮かべて俯き、指先で頭を一度二度と軽く掻いた後、直ぐに気持ちを切り替えた事だ。まるで面を付け替えるかの様に。

「お~い!お~い武市さん!はつみさん!」

「―!龍馬…」

 そしていつもの声で武市の名を呼び、勢いよく人波を掻き分けて二人に合流した。武市が安堵した様な表情を浮かべたのは、単に仲間と合流できたからというだけではなかっただろう。

「こがな状況で急におらんなるき、もう一生会えん様なるち思うたぜよ!」

「何を大袈裟な…しかしすまんかった。皆はどういた?」

 引き続き押し寄せる人を避けて、なんとか道の端っこへと移動する一行。皆はこの先の開けた場所で待機している事を確認し合ったところで、龍馬は心身ともに疲弊した様子のはつみに向き合った。

「はつみさん!大丈夫かよ?人込みに随分揉まれたじゃろう?髪もぼさぼさ、顔が疲れ切っとるぜよ」

 そう言って何気なく、はつみの髪を整えてやるかの様に頭を撫でた。…きっとまた、図らずも辛い想いをしてしまったのだろう。そこに外野が触れる事は彼女にとってはきっともっと辛い事だと思うから何も言えないけれど、せめて…慈しみたかった。ただ妹の様に、保護者の様に彼女を見守る、自分の立場が許す範囲で。

「ありがとう、もう大丈夫!」

 龍馬の思いに応えるかの様に、いつもの笑顔で微笑み返すはつみ。龍馬の大きな手のひらが優しく頭を撫でてくれる事で、強張った心がほどけてゆくのが如実に感じられたから…。そしてはつみの表情が解れていく様子を目前にして、彼女に関しては敢えて何も考えない様にしている武市も、つい思案してしまう。


自分も龍馬の様に、もっと広い心で彼女に接する事ができたなら…器用に立ち振る舞う事ができたなら、不要に彼女を傷つけずに済むのではないか。自分にとっては越えられない一線を軽々と超えてゆく彼の才が、ほとほと羨ましいと。

「ほいたら皆と合流するぜよ」

「ああ……怪我はないか、はつみ殿」

 龍馬の掛け声で再び歩き出した際に、一言声をかける武市。はつみはハッと顔を上げ、今度は『いつもの』明るい笑顔で応じた。

「あ、はい!大丈夫です。すみません、武市さんまではぐれさせてしまって」

「いや……」

 何か言わなければ…と声をかけたが結局言葉に詰まる武市に、仕方ないにゃあと一人苦笑いを浮かべた龍馬がすかさず振り返って助け船を出す。

「ほおー!今通り過ぎたもんがわしの胸を揉んでいきよったぜよ!はつみさん!大丈夫かえ!?」

「えっ?何かあった?」

「こんだけの人込みなんじゃ、通りすがりに体をまさぐってきよる輩もおるかもしれんぜよぉ?」

 はつみが心からの怪訝そうな表情を浮かべたのは『さっきの自分へのブーメラン』だと感じたからであったが、龍馬達がそんな心情にまで気付く事はなかった。ただからかって笑う龍馬に、武市もいつもの調子で一言挟んでくる。

「金をくすねようとしただけではないがかえ」

「ん?そうとも言えるのう?どっちにしても、はよう行くぜよ!まっこと歩きづろうてたまらんき!」

 そして龍馬もまた『いつもの様に』はつみの肩や手をとって「はようはよう!」と案内をする。武市からの『龍馬よせ。はしたないぞ』等という小言を受けながらも、折角の花火を早く楽しもうと言って、その手を引くのだった。






※仮SS