仮SS:告白


土佐に来てからも、武市は何度か容堂公と顔を合わせ時世への対応を語らった。容堂はよく武市の話を聞きはしたが、一切の決断をもたらさない。のらりくらりとかわし、その一方で武市の同志たる者達を次々と処刑していく。同士が処刑された理由は『青蓮院宮令旨問題』に絡む首謀者であった事というれっきとした理由が告げられていたが、実際、とくに罪を犯していないあの乾でさえも要職を解除され、閑職に充てられている状況だ。どうみても勤王派への政治的弾圧が行われている。自分も本来ならば京にいるべきであったが、何かにつけて許可が下りないのはどう見ても不自然だった。
時勢がどうなるかを虎視眈々と見つめる容堂は、いざ尊王攘夷派が優勢となれば直ちに武市を京へ放ち、土佐の立場を取り持つつもりなのかも知れない。だがその時勢が、完全に公武合体派の一橋公、会津、桑名、薩摩らによって取って代わられた。そして何より、公卿衆尊王攘夷派の若き筆頭であった中山忠光卿が此度の大和挙兵を以て『逆賊』とされ、武市と共に時勢を走り抜けた三条実美らをはじめとする七卿、そして長州藩が『国賊』として都落ちを余儀なくされた。この一連の動きは尊王攘夷派にとって大きな打撃となり、幕府の圧力がますます強まる事は火を見るより明らかだ。 容堂公がこの機を逃す訳はないだろう。 投獄されるのは今日か、明日か…。 「……」 庭であらゆるものを燃やしながら思案していた武市は、引き寄せられる様にして部屋の天袋前までやってきた。そこに手を伸ばし、長年その奥にしまったままであった一振りの短刀が収められた木箱を取り出す。両手で大切に取り出し、そっと天袋を締めるまでずっとその木箱を見つめていた。 「……富、おるか。」 「はい、ただいま」  意を決した様に、奥にいる富へと声をかける。トタトタと従順にこちらへやってくる足音と共に武市の緊張感も高まっていく。―だが、告げねばなるまい。そして勤王派の志士であり、道場主であり、富の夫である前の一人の男として、これまで全てにおいて後回しにした『彼女』への想いを。これ以上伏しておくことは出来なかった。 正妻である富に、桜川はつみという女史の名を挙げて話始める。彼女の事なら知っていると言う富であったが、夫が何を告げようとしているのかを一瞬で察した様に顔が強張っていた。 「…はつみの事を話す訳ではない。…はつみに対する俺の気持ちを、おんしに告げておかねばならん」  彼女の事をいつから『はつみ』と呼ぶようになったのだろう。富の顔は、自分の不安が的中した事を察して更に強張っていく。 「……あなた様の…お気持ちですか…」 残暑の中、夏の終わりの最期のときまでその存在を主張せんする蝉の鳴き声が、夕暮れ空へもの悲し気にカナカナと響いていた。縁側から西日が差し込む部屋では重い空気の中で武市と富が向き合って座り、その間には短刀が収められた木箱が置かれてある。すぐそこの庭に生える柿の木にでも蝉たちがいるのだろうか、かなりの音量で鳴き声が響く中、武市の口元が動き、何かを聞き取った富は俯き唇を噛みしめる。二人を包む空気感が張りつめる中、ただただ夏の終わりとともに一日の終わりを告げる様に泣く蝉の声がまるで気狂いでもしそうな程に響いていく。それでも、武市はただ黙って、妻が次に何を言うのかを静かに待ち続けていた。 やがてその時が訪れる。富は姿勢を正すと目を伏せたまま深く息をし、漏れ出そうになる感情を押し殺すかの様に胸元へと押し当てた手へ集中しながら、武市の『告白』を受け入れる。 「…はい。正直なお気持ちをお話して下さり、有難う存じます…」 「…見苦しいと思うだろうが、これだけは分かってほしい。京では色々と言う者もおったが、決してそういう間柄ではない。」 「…そのお言葉だけで…十分で御座います……。」  見苦しい、聞きたくないと思った訳ではなかったが、富には何を聞かれても苦痛でしかなかった。今年の一月、吉村達から『子無きは去るべき』と言われて立ち去ったこの家に何人かの女性が送り込まれた事は聞いていた。夫は誰にも手を付ける事無く吉村達は翻弄される一方であると聞き、自分はこんなにも素晴らしく優しい、誠実な夫と巡り会えた。自分はそんな男性の正妻なのだと心のどこかで誇りにすら思っていた。だが終日に桜川はつみが送られたと聞き、そこから怒涛の展開が待ち構えていた。そのおかげで、富も武市の元へと呼び戻されるに至ったのだが……大きな機転をもたらすその理由が、はつみという女子にはあったのだ。道場には血気盛んな尊王攘夷論者が大勢集まりいつも怒鳴り声を発して議論白熱させているが、その雰囲気とはまた違う怒りを見せる龍馬を見たのも、不機嫌そうにふつふつとしている夫を見るのもあの時が初めてだった。そして思い返せば、そのずっと以前から…江戸遊学などへも行く前から、その片鱗が夫の言動の端々に見て取れた事に気付く。その時その時は深く考える事はなかったけれど、大きなきっかけに気付いてから過去を振り返れば、その一つ一つはしっかりと線で結びついて今に至っていた。 …そう、武市は、桜川はつみに恋をしていたのだと。 正妻として自分の事をまず念頭に置いてくれていた事、彼女との関係に男女のそれはないという言葉を疑う余地はない。決して女好きだとかやましい下心があっての事ではないというのであればそれを信用する事はできる。だが、武市にとって自分は『家族』であり『正妻』であるのに対し、彼女は『想い人』。不器用な程の誠実さを持ち文武に没頭して育ってきた武市だからこそ、恋をすることなく、女性を知る事もなく婚姻に至ったのだろうと思う。それ故に、心の内側から自然に湧き出る純粋な想いで、彼女を見ていたという事…。 それ以上は考えたくもないと、目を背けてしまう自分がいる。自分が武市の正妻である事の誇りに、これ以上ない程の深いヒビが入ってしまっていた。 夫は日頃からよくしゃべる人ではなかったが、特に口を重くしている様だ。決して怒ったり不機嫌でいる訳ではなく、恐らく、『不貞の心』を打ち明けられた妻である自分に話の主導権を与える為に、あえて口を閉ざしているのであろう。富が言う事、尋ねる事には全て正直に応えるべきであると覚悟をしている様にすら見える。 だが、富は唇を噛みしめつつもとやかく言うつもりはなかった。考えたくない、目を背けたいという気持ちがあるのも確かだが、それと同じぐらい、自分は武家の嫁としてそんな事を言える勤めを果たせているとも思っていなかった。夫としてこれ以上ないぐらい素晴らしい男性だった。煤の水をひっくり返して頭から被せてしまっても怒りもせず、酒も飲まないからいつも理性的で優しく、誠実な、頼れる人だった。それなのに自分といえば何時まで経っても子が出来ず、周囲の弟子たちが躍起になって事件を起こしてもそれを諫め、真っ先に自分を呼び戻してくれた…。そして今も、こんなにも正直に心を打ち明けてくれているではないか…。 彼にとっての正妻は自分だけなのである。そう、堂々とする事ができれば、いかほど心が楽だったか…。 「…なぜ、わたくしに打ち明けようと思われたのですか?」  恐らくは、手前に置かれた木箱と関係があるのではないかと考えながらも尋ねる。思う所は当然あってもはつみとの関係をとやかく聞く気はなかったし、京でどのように過ごしていたのかというのも勿論聞く気にはなれない。だが、黙っていても良かったであろうその想いを打ち明けようとしたきっかけがあったはずだ。富はそれが知りたかった。 武市は、ここへきてようやく小箱に手をかけスッと富の方へと押し出す。ずっと気にはなっていたがやっとこの木箱に触れたので「これは何で御座いますか?」と訪ねると、武市は腕を組み、鼻から長く息を吐きだす。そして更に深く意を決した様子で、その口を開き始めた。 「…京で大変な事が起きた。日本を揺るがす様な大事件であり、この土佐にも間違いなくその余波は届くじゃろう。」  難しい時世の話は富にはわからない。彼女にもわかる様にさわりの部分を説明するが、これだけでは深刻さの半分も説明ができない。だが、富には心配をかけるだろうが一言で『深刻さ』を伝えられる言葉を持ち合わせていた。 「…近々、お縄に就く時が来るやもしれぬ。」 「―ええ…?な、何故あなた様が?近頃上様からお取り立てがあったばかりではありませぬか…?」 「…俺や同志らは帝の為に、土佐の為にとここまで戦おうてきた。今回はそれが報われず、却って疑惑となったのだ。」 報われたからこそ、京留守居役などという大役に抜擢され上士にまで格上げされたのではなかったのか…。富には訳が分からなかった。京での出来事は文で知らされてはいたが、基本的には目にしていない事も多くあり、理解に乏しい。いや、その場にいたとしても何をどこまで理解出来ていたか自信がない。だが自分には考えの及ばない場所があり、武市のいる場所がそのような場所であること、そしてそこへはつみは女ながらに飛び込んでいく才覚を持っていたというだけは理解できている。…理解できているからこそ…これから武市が言い出そうとする事を察し、その事がまたもや容赦なく心に突き刺さるのだ。 「…そうなった時のために、これをそなたへ託しておきたい。そして、いざという時にはこれを…はつみへ渡してやってほしい」 「……っ」 富が衝撃を受けていることには気付いていない様子で、武市は手前のつつみをそっと開いて見せる。中には短刀が収められており、そこに結ばれている短い下げ緒は、彼の愛刀・肥前国河内守藤氏正広に取りつけられていた下げ緒と同じものだった。 またもや富の心に深く思い何かがズシリと科される。政治の事、外の事など殆どわからない代わりに家の事は完璧にこなしていた富である。武市が密かにこれを隠していたつもりでも、富にとってみれば、彼が西国遊学の旅から返ってきた直後から既に、天袋の奥に見慣れない細長い木箱が置かれていることには気付いていた。ただしまってあるものだと思っていたが……まさか西国遊学時の折にはつみの為にと購入していたものだったとは…。武市はいつも、どんな思いで天袋に隠したその短刀の事をおもっていたのだろうと思うと…またもや言葉を失ってしまう程、心がかき乱されて仕方がなかった。。そしてその短刀を、お縄につくかもしれないという時にあえて自分に託そうと言うのである。 「…心無い事を言うておるとは思う。じゃが…すまない…これだけは…俺のわがままを聞いてやってはくれんか…」 そんな言い方をされたら、受け取るしかないではないか…。武市が私情などよりも帝や大義、そして子を成さぬ正妻への配慮を優先に日々を生きて来たのは揺ぎ無い事実なのである。 富は武市からは表情が見えにくい様に俯きながらも、苦々しそうに短刀を見下ろし、再び唇を噛みしめる。 政治の事など何も分からない自分が悔しい… 「…あなた様がそう仰るのなら」 富は震える手で木箱のふたを閉め、丁寧に包み込むと恭しくそれを受け入れた。安堵した武市は、安堵したとも申し訳ないとも言えない複雑な表情で小さく頷き、富を見つめ続けのだった。 それから3日後の9月21日。朝から横目たちが武市を訪ねて来た。富は引きつりながらも茶などを出し、談笑さえ行われる客間の襖に終始寄り添って聞き耳を立てていた。ただ様子を見に来ただけなのか…それともこれから連れていかれるのか……。 答えは、後者であった。 やがて客間は静かになり、人々が出ていく気配がする。富は慌てて玄関先まで出ていくが、人々から頭一つ抜きんでた長身である武市の横顔をチラリと見るだけで、間もなく彼の姿は見えなくなってしまった。…いざという時はすがったりして恥をさらさぬ様にと優しくも厳しく言いつけられていた為、追いかけて一目だけでも視線を合わせたい気持ちを必死に抑え込む富。同じ様に言いつけられていた丑五郎も、酷く悲しく、そして心配そうな顔をして富を見つめていた。 「……」 埒が明かず、先ほどまで武市と横目達が談笑をしていた客間へと足を運ぶ富。武市が座っていたであろう座席の煙管が、まだ煙をたてたままそこに置かれているのを見て…彼はもういないのだと実感すると同時に一気に血の気が引き、その場に崩れ落ちてしまった。前のめりに手を付き、畳に爪を立て…それでも大きな鳴き声等漏らして恥をさらさぬ様、血が滲むほど唇を噛みしめてぼろぼろと涙をこぼした。 武市半平太、投獄。

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