仮SS:子無きは去らずとも不貞は去れ


1月。武市の嫡男がいまだ生まれていない事は、当の本人よりも武市を崇拝する周囲の者達の方が黙っていられない状況であった。中でも吉村虎太郎や柊らが画策をし、武市の正妻・富を実家へ帰らせるところからこの事件は始まる。

龍馬とはつみが帰藩してから間もなく、勤王党員の吉村虎太郎や柊智らが押し掛けてくる。
『富が病気で実家へ帰ったので、女手が足りない。しばらくの間はつみが武市の家事手伝いをしてほしい』との事であり、はつみは暫く武市の身の回りの世話をする事となった。


 はつみはあくまで、『富が病気で実家へ帰ったのでしばらくの間武市の家の家事手伝いをしてほしい』と聞かされてやってきていた。坂本家の人々のお蔭もあってやっと一通りの事ができるようにはなってきたものの、この時代の大変な家事に慣れるという事は永久にこないのではないかと言う程どこかたどたどしい手元はもはやどうしようもない。下男の丑五郎に何かと教えてもらいつつ何とかこなしてゆく。
 そしてそろそろ富が帰ってくるのでは?と思っていた矢先の4日目昼。武市の不在を狙って押し掛けてきた吉村らから『役目』について聞かされた。


武市の子を成せ、と。


「え?なんて…?」

 はっきりと聞こえてはいたが、聞き返さずにはいられないとばかりに問い返すはつみ。吉村は腕を組むと、はつみの心情…否、女の心情などまったく意に介さない様子で冷徹なその策を口にし始めた。

「武市先生のお子を成せち言うちょる。こがなお国の一大事に後継ぎがおらんでは、武市先生もお家の事が心配であろう。他の手ごろな飯盛り女には一向に手をだされんき、おんしを呼んだ。正直の思想やその恰好はまったく気に入らんが、武市先生がご家族以外で唯一よう話す女子であれば或いはその気になっていただけるやも知れんと思うての。その器量だけをみればええおなごじゃき。」

「それなのに3日も音沙汰が無いとは…やはりまずその男装をやめさせるべきではありませぬか、吉村君。」

「そうじゃのお、他に手ごろなおんなも見つかっちょらんし…女子の着物を用意するか」

 勝手に話合いを始める吉村と柊の会話を、はつみは眉間に深いしわを寄せながら漠然と耳にし続けていた。彼らの女性蔑視があまりにも酷く、たとえこの時代ならではの価値観で有ろうと到底はつみには受け入れられない。聞きがたい言葉ばかりがズラズラと出てくる。その上で、言葉を失う決定的な事があったのだ。

それは、武市の歴史的な逸話にあった『子なきは去る』事件だ。

 嫡男が誕生していない武市に対して吉村らが大きな世話を焼き、儒教の教えにある『子なきは去る』をそのまま現実のものとなる様、武市の周りの女達に強要した話があったと記憶している。確か土佐勤王党を立ち上げてから土佐滞在中での出来事であった事までは思い出せたが、はつみの記憶も万全ではなく漠然としてしまっているし、そもそもそんな事件があった事すらも忘れていた。

もし今、その逸話に自分がまきこまれているのだとしたら、恐らく富は病気で実家へ戻り伏せているのではなく、彼らから『子なきは去る』を説かれ、泣く泣く実家に戻ったという事になる。そして恐らくは、はつみがここへ送り込まれる前にも既に数名の飯盛り女が送り込まれており、いつ武市の手付きとなっても良いという状態でこの家に詰めていたものの結局は逸話通り、彼の手が付く事はなかった。…だからこそ、まるで最終手段、手ごろな女はとにかく投げておけとでも言わんばかりに自分が呼ばれたのだろう。

 はつみは黙ったまま彼らに軽蔑の眼差しをおくると、『今晩は女の格好をせえよ!』と何の配慮もない言葉をその背に受けながら、武市の家へと戻っていくのだった。




 夜も遅い時間、武市はどこかで熱く時世を語り合ってきたのだろうか、少し疲れた様子で屋敷に戻ってきた。はつみは吉村らに何度も言われた女性用の着物を着ることなく、いつもの通りに夕餉の支度をしている。彼女が用意した料理はやはり少し独特で、今夜は『ほうとう』に似せた温かな麺料理だった。武市は「うまい」と言いながら黙々と箸を進め、その素直な反応にほっとしたはつみは、思い切って昼間の出来事を武市に報告する事にした。食事中の主人に話しかける飯盛り女など滅多にいないが、武市も今やはつみの世俗を外れたような言動には慣れていたし、武市にとってはつみは飯盛り女でもなかった。

 独特な平たい麺を口に運びながら武市は耳を傾けていたが、はつみの話が単刀直入に「吉村らが富を『子がないなら去れ』と言って追い出した」という衝撃的な内容に及ぶと、彼は思わずむせてしまう。胸元を押さえながら咳をつきつつもなんとか心を立て直す一方で、自分と妻の不妊やそのことに関する話がはつみの口から出ること自体、武市にとっては強い違和感や焦燥を覚えさせる。茶碗を膳に置くと、改めて詳しく話を聞き出すのだった。



 はつみの話を聞き終えた武市は、ここ数日の異変にようやく思い当たるところがあったのか、珍しく額に手を当てて深く考え込んだ。確かにこの数日で3人か4人もの飯盛り女が入れ替わっていた様な。特に彼女らが失態を犯したわけでもないのに次々と新しい飯盛り女が送り込まれてくることに首をかしげてはいたが、不審とまでは感じていなかった。むしろ、妻の病により女手が足りないことを心配して、吉村や柊が尽力してくれているのだと感謝さえしていた。

「…おんしも、吉村らに子のことを言われてここに来たがか…?」

 普段あまり感情を顔に出さない武市が珍しく眉をひそめ、遠慮がちに視線を送ってくる。しかしそれを受けるはつみは複雑な思いで対応せざるを得なかった。彼の不動の表情が、強靭な心が、一体何によってそのようにかき乱されているのかが見えてこないからだ…。

「はじめは、お手伝いをするようにと言われてここに来たんです。でも、あの人たちの言うには、三日経っても武市さんが私に手をつけないから、今日は女の着物を着ろと…」

「………っ…なんちゅう…」

 武市は俯きながら首を横に振り、その無骨な肩が大きく落ちるような深いため息をついた。彼の目が不意にはつみと合い、少し気まずそうに視線を逸らす。そして何をどう言い出せばよいのか迷いに迷い、十分に間をおいてから、低く沈んだ声で話し始めた。

「……巻き込んでしもうたな。すまなかった。」

 深く首を垂れる武市に、はつみはすぐさま「とんでもない」と言って彼の頭を上げさせる。しかし武市の胸中には言葉に出さずとも、ひとつの疑問が渦巻いていた。なぜ、はつみが送り込まれてきたのか——。日頃、吉村たちは思想の違いからはつみを口撃している事が多くみられる。そんな吉村が彼女を選んで自分のもとへ送り込もうと考えるその理由が思い当たらない。『子を成すために女を送る』ということが前提であったとするならば、他の飯盛り女では駄目でもはつみならば自分が手を出すとでも思われていたのか…。
それはつまり、自分が心の奥で抑え込んでいた感情が見透かされていたという事なのか…?

 そんな考えに首を軽く振りつつも、再びフと視線がはつみと交わる。武市はその目に映るはつみの姿を見て、内心複雑な思いを抱いた。はつみの話が正しければ、彼女がここに来た理由は子を成すためのものだったのかもしれない。それが分かってしまった今、武市は彼女に対しどうすべきかを考えざるを得なかった。
…迷う自分がいるのは確かだ。だがそれ以上に、『正しく』『冷静で』在る事を最優先にするべきだと…心が乱れそうになる時ほど、そうやって心を正す鍛錬が今こそ役に立つ。そして、心の中で一つの結論に達したのか、彼は重い口を開いた。

「…これ以上、おんしがここにおる必要はない。丑五郎に送らせるき……もう帰りなさい。」

 それは、純粋に彼女を解放してやりたいという武市なりの配慮だった。若い女性であるはつみを、このような騒動に巻き込んでしまったことに対する責任感、そしてこれ以上、妻以外の女性を自分の家に置いておくことへの抵抗からだった。しかし、はつみにとってはその言葉がまるで、武市が妻以外の女性に手を出すことを厳しく拒んでいるかのように聞こえた。

「……わたしは……」

 はつみは、武市が何よりも妻である富を大切にし、彼女の心を深く慮っていることを知っていた。だからこそ、昼間の出来事を彼に伝えるべきだと考えたのだ。だが、同時に自分が子を成すことのできない体であることを、改めて突きつけられた思いもしていた。目まぐるしい日々を過ごしている内に自然とその事は考えない様になっていた。今日まで殆ど思い出す様な事もなかった。―こうして再びその念に取り付かれ、ましてや武市の言動によってそのもろい部分に揺さぶりをかけられるのは、はつみにとっても痛ましい現実だった。

『もう帰りなさい』——

 その言葉が、はつみの胸に深く突き刺さった。自分はただ、武市のために、そして富のために良かれと思って動いたつもりだったのに…。まるで、自分がここにいることが余計なことだと言われたかのようで…辛く、無念とも言える感情が沸き起こってくる。


もし、自分が子を成せる体であったなら、武市はどうしただろうか…

自分も、武市に対し全てを投げ出す覚悟で行動に出る事はあったんだろうか…


唇を噛みしめ、涙を堪えながら、そんな詮無き事を考えても仕方がないのにと小さく自嘲して目を伏せる。


そしてはつみは武市が言う通りに荷物をまとめ、しかし何を言うでもなく家を飛び出していった。

彼女が動いている間、武市はずっと何もできずにおり、何と声をかければよいかも分からなかった。ふと視線を落とすと、膳の上に置かれたままのほうとうが目に入る。料理は食べ手を失い、ただその温かさだけが空しく漂う。立ち昇る蒸気が何事もなかったかのように無言で消えていくその様子は、まるではつみ自身がここにいた証を静かに消し去っていくかのようだ。冷めることのない料理がかえって、彼女がもうここにはいない現実を、痛々しくも鮮明に突きつけていた。






 翌日、富が屋敷に呼び戻された。その知らせを受けた吉村らが事情を聞こうと訪れたが、武市は普段の冷静さを失い珍しく激怒し、彼ら対して説教がほどばしる。富は、そんな夫に「そこまで怒らなくても…」と宥めたが、富やはつみを不要に傷つけた吉村らに対し怒りが収まらない様子だった。彼は富に「子のことは気にするな。これも定めだ」と言い残し、書斎へと姿を消してしまう。

 富は、夫の気遣いが嬉しくないわけではなかったが…彼の怒りの本当の理由が、恐らくはつみの件にある事を悟ったのだった。








※仮SS