閏5月。
同志であり長らく武市に良くしてくれていた門番が、不意に武市へ情報をもたらした。宇和島方面の関所で、またにわかに動きがあると言うのだ。その人物は、以前はつみが入国した際に同行していた何某という二人らしいが、今回は薩摩藩のれっきとした通行手形を持っているという。通行書の出所が容堂と懇意の薩摩であろうが依然として入国者には厳しくあたる土佐であったが、この報を受けて武市は想い更ける。
…そうする内に、全ての事情の要点にはつみという存在がいた事を今まで以上に強く再確認するに至った。
彼女が初めて東洋と接点を持った時、長崎で開花した才、寅之進の井口村事件で発揮した信じられぬ程の先見性。
…自身の開国論とはそぐわぬのに何故か土佐勤王党へ入る事を強く望み、龍馬の脱藩を『止められなかった』と嘆き、東洋暗殺の前にはまるで身を捨てて何かを守るかの様に忠告と『尊王開国』への建言を諦めなかった。
京まで追いかけて来ようとした時も、京ではつみをを寓居に匿ったのも、全て、自分を『慕い』追いかけてくる彼女を『守ってやっている』つもりでいた。『妾』だと周囲から誤解されてでも党首である己の側に置いておくことが、血気流行る者達が却ってはつみへ『天誅』を仕掛ける事はないだろうと考えていたからである。
…だが、もし、自分が守られていたのだとしたら…
はつみが自分を守ろうとしていたのだとしたら?
はつみは、その発言が命の危険すらも招くと分かっていながら、常に『土佐の真の方針』『容堂の本心』『抗いようのない開国への流れ』について話していた。それに感化されてか実際に気付きを得る事もあった上に、以蔵の剣才を持て余してしまう稀薄な胆力をここまで引き上げた事にも『何をしたのか』『以蔵の何を知り、胸を打つ説得をする事ができたのか』と強い疑問は残る。本間天誅の際、まるで先読みをしていたかの様に現場へ居合わせたのも、今回の関所での騒動も、妙に都合が良すぎはしないだろうか。情報を知っていたのか?
…そして最もたるは、出会った時の事だ。
「ずっと憧れていて」
「尊敬しています」
嘘を言っている表情ではなかったが極めて心外な出来事であった。初めて出会ったのに往来で堂々と話しかけてくるどころか、記憶を失くしているというのに何を血迷った事を言う娘かと思った…。
もし、彼女が本当に『かぐや姫』だったのだとしたら…。
『全て』を知る天女だったのだとしたら…?
…こんな突拍子な妄想を真に受けるなどいよいよ気も弱ったか、とも思う。もはや真相は定かではない。確かめる時間も恐らく見込めない。…静かに閉じた武市の眼に、東洋の屋敷から帰ってきた際のはつみの姿が思い浮かぶ。
『まったく自分は妻帯者であるのに風変わりな娘に熱視線を送られて迷惑だ』
そんな事を思っていた自分は、あの時『女性らしく』着飾った彼女を目にし、それまで生きて来て初めて『心を奪われた』心地に陥った。
…あの時、初めて恋に落ちたのだと…自覚した。
そもそも、『風変わりな』『迷惑な』などと意識して拒絶する言い訳をいちいち見出していた時点で、既に落ちていたのかも知れない…。
…思案の後、どこからか現れた蛍が、まるで寄り添うかの様に光を灯す。去年に蛍を見た時もはつみの事を想っていたと思い出し、ひとり自嘲する武市であった。
『鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす』とは誰が詠んだ歌だったか。
獄中からわずかに見える、小さく切り取られた空へと、遠く視線を投げかける。
「願わくば君に、とこしえの幸あらん事を」
閏5月11日、土佐、武市半平太切腹
去る酉年以来天下の形勢に乗じ、密かに党与を結び、人心扇動の基本を醸造し、爾来、京師高貴の御方へ容易ならざるの議屡々申上、将又御隠居様へ度々不届の義申上候事共総て臣下の所分を失し、上威を軽蔑し、国憲を粉紊し、言語道断重々不届の至、屹度御不快に思召され、厳科に処されるべき筈之所、御慈恵を以切腹これを仰付けらる
他、
牢舎九名…園村新作(元上士)、森田金三郎、山本喜三之進、島村寿之助、小畑次郎、安岡覚之助、河野万寿弥、小畑孫三郎、島本審次郎
斬首三名…久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎
継続二名…檜垣清治、今橋権助
御預け一名…小南五郎右衛門(元上士。苗字刀取上)
名字帯刀剥奪、城下禁足…岡田以蔵
(不明一名…吉永良吉)
※仮SS