仮SS:漢気 乾編


『武市、桜川、池田、往来にて刃傷沙汰』との報は各方面へと飛び交い、当然武市の周りでは勤王派の者達が怒り狂い、武市寓居では夜が更けるまで冷めやらぬ怒号が巻き起こっていた。はつみは白蓮に預けられ、体調に問題はないものの心労故か眠りについており、寅之進らがその看病をしている状態だ。

 今回の件は、かの会津公松平容保より市中警護の任を預かっていた壬生浪士組が、松平公の名のもとに奉行所に話を付けてくれた事で一見の落着を見せてはいた。犯人は3人とも佐幕派と言える浪士連中であり、明確に武市への殺意を以て襲撃を決行したとの事だ。武市の一味にはしつこく『上士らの差し金に違いない』と叫ぶ者もいたが、当の被害者である武市がこれを否定。上士組の首領たる乾退助とは先日腹を割って話した事もあり、乾には勤王の志と共に士分としての信念があり、正義を通す人物であり、かのような姑息な手段を用いる様な者ではないと。怒り狂い今にも報復に出んとする同志達を説得していた。何より、もし今乾を討てば確実にこれまでのすべてが水泡に帰すであろうことは明確だ。議論の余地も駆け引きも無く、怒れる修羅と化す容堂公指揮のもと、土佐の全上士らが即刻報復と制圧に乗り込み全員を打ち首とするであろう事は安易に想像がつく。

 将軍が上洛を果たし、その将軍警護を事象とする輩も大坂や京に流れ込んできている。疑うべきは上士一派のみならず、これは言わずもがな氷山の一角に過ぎない。―件の件について、その後の処分は奉行所に任せた形だが、奉行所も言うなれば「佐幕派」である。壬生狼とかいう連中にも顔が割れてしまったという事実もある。すなわち今後に至っても安全という事は全くなくなったという事だった。



 夜が更け、武市は今後の対策などを一考するとして一旦皆を解散たらしめた。そしてくれぐれも軽率な行動をとるべからずと釘をさす。間崎や平井などもそれぞれの居場所へといったん戻らせた。寓居内には柊をはじめとする若手の側近数名が残るのみとなっている。ようやく静かになった寓居内の自室にこもり、事ここに至りこれまでの努力が水泡に帰さない事を真っ先に考えるべきでもあったが、はつみの事も気がかりであった。

手当で済むほどの軽傷ではあるが怪我もしていた。
それ以上に、人を斬るという業を背負わせてしまった。

武市自身の顔暴露もしてしまった以上、自分に近しい者として今後狙われる事もあるだろう。さてどうするべきか…と一人思案していた時、夜遅くであるにも関わらず寓居に来客の気配があった。柊が取り次ぎ、部屋に通されてきたのは、なんと上士の乾退助であった。




 今回の事件を受けてこんなにも早く、しかも夜分にたった一人で駆け付けて来た事に驚きを禁じ得ない。彼自身がこうして乗り込んできたという事は、彼にとっても寝耳に水の事件だったのではないかとも受け取れた。だが開口一発目で怒鳴ってきたその要件は、武市の思案を遥か斜め上にいく、何のひねりもない真っすぐ極まる苦言であった。

「二度ならず三度もあやつを守れなんだか!一男子としてまったく共感に値せん!」


 雷が落ちたかの様な突然の罵声に、一瞬言葉を失う武市。乾は構わず続ける。

「おんしがその様に自己正義のみでしか見てやれぬのであれば、俺があやつを奪うが異論はないな!」


 江戸における例の取引を以てはつみの覚悟というものを心身に受け止めていた乾は、彼女の尽力を知る由もなくどこまでも自分本位な武市の体たらくに我慢が成らず、派閥や思想など関係なく、ただ一人の男として武市に怒鳴り声を浴びせていた。部屋の外で控えている柊ら武市の側近達が肩をこわばらせ、腰のものに手を添えている様子が武市の視界にも映り込む。当然乾もその様子に気付いてはいたが、まったく怯む気配はなかった。武市は彼らに向けて手を下げて示し、手出し無用の意思を伝える。

 とはいえ、今回の件に関する苦言は甘んじて受けようとも、突然『奪う』などと言われては流石の武市も軽率に受け流す訳にはいかなかった。乾が発した『奪う』にどういう意図があっての事かは理解できないまま、武市は語気を強めて真っ向から返す。

「至らぬ不手際があった事はごもっとも。弁解の余地も御座らん。じゃが、自らの才を以て女の道にあだたぬ険路を選んだ者の行く末を、男の一存でいかようにも操れると思うたらそれこそ傲慢では御座らぬか。奪うも奪わぬも我らが論議するところの事ではない。どこへいこうが、それはあやつの意思であろう。」

 武市の言い分に対し乾は口先まで出かかった言葉を、はつみの名誉にかけてぐっと飲み込んでいた。『女にあだたぬ道を選んだそのはつみが、己の女の性を取引の対価として捧げ、武市(おまん)の為に心身を投げうったがやぞ!!!!』という紛れもない事実の言葉を、ただ事実だからという理由だけで暴露する訳にはいかないと感じていたからだ。はつみの名誉の為にその全てをここで告げる事は憚られ、故に乾は、やり場のない怒りに拳を震わせるほど激情を露わにしていた。

「…まっこと…意思だの覚悟だの、その口がよう言う…。」

 あれほど道義を通す男たる乾であれば、こんなにもわなわなと打ち震えるほどの根拠があるはずなのに敢えて言葉を飲み込んでいる様にも見える。武市は腕組みをしたまま、しかしこちらもまた動じることなくじっと目の前の若き上士を見据える。数年前までは、口論にしても武力行使にしてもとにかく『喧嘩っぱやい』と有名な乾であったが、それでもここまで激情を露わにし声を荒立てる彼を見た者はそうはいないであろう。少なくとも武市や、今周囲にいる者達は見た事も聞いた事も無かった。常に身を恥じる言動無き様堂々と振舞い、常に正論派である乾がここまで核心的に避難してくるには、それを裏付ける自分の知らない何か、乾の口からは言えない何かがあるのかも知れないとも思う。そしてこの場合、それははつみに関する事なのだろうが……乾ははつみの一体何を知っているというのか。

「愚か者が!!!」

 凄まじい轟音を立てながら去って行く乾。聞き捨てならない言葉ではあったが、はつみの件でこの様な情況になっているのを鑑みれば罵られて当然とも考える武市はそのまま乾を見送るにとどまっている。ドスドスと大股で歩き、通りかかった襖障子を勢いよく開け閉めしてようやく外へ出て行った様だ。馬で駆け付けたのか、嘶く馬の声と『ハッ!!!』と手綱を引く乾の声が聞こえ、蹄の音が小さな灯りと共に去っていくのが確認できた。

 唖然とする若人たちの中から柊が一歩踏み出て、武市に声をかける。

「嵐の様な男でしたね…いかがいたしますか、武市先生。」

 暗に追うかどうかも含めて訪ねているのだろうが、武市は最初に申し付けた通り、手出しは無用であるからして各自部屋に戻りなさいとだけ伝え、自身も部屋へと戻っていく。

 再び静かになった寓居内の部屋で、乾の様子からはつみと容堂ら上士派との繋がりなどを思案するが、彼が遺した爪痕は一縷の望みにも気付かせてくれるものとなっていた。


 はつみの周囲には、『ありのままの』彼女を守らんとする者、彼女の思想や価値観も含め、より深く共感しあえる者が多くいる。身分や立場、思想も勿論大事ではあるが、何より厚い人望は、時には全ての価値観を越えてでもその人と人を結ぶ強靭な絆となりうるだろう。…この事は、武市自身がまさにこの怒涛なる時期をはつみと共に過ごして来たからこそ、己が一番理解している事でもあった。


 もはや明白に下士攘夷派への弾圧に舵を切っている容堂公との対決、雇い人不明の刺客による襲撃。あまりにも多くの不安定要素を抱える自分でなくても、彼女を守り、彼女の道を共に歩める者へ望みを託すしかないと、考えていた。






※仮SS