仮SS:大義の為


はつみの襲撃があり、武市と以蔵が坂本家に駆け付けていた頃。歴史は大きな機転を迎えていた。

土佐藩参政、吉田東洋 暗殺―。



その首が晒され、斬奸状が張り出されており、その傲慢な私利私欲ぶりに天誅が下ったと書かれてはいたが、肝心の犯人は分からず仕舞いであった。だが城下において犯人ではないかと噂になっている者がいた。吉田東洋の暗殺が成されたと思われるその日に、雨の中を慌てた様子で駆け抜ける姿を目撃されていた上士・谷干城だ。どこから湧いて来たかも分からない信憑性の無い噂ではあったが、参政が暗殺されているのに何の手がかりもない藩庁は藁にも縋る様な勢いで谷の元へと目付を放つ。上士の身分でありながら根も葉もないうわさで目付を派遣するのはなかなかに焦っている様子が伺えると、却ってその動揺振りが露見するかの様だ。谷は捕縛はされないまでも目付らに囲まれ、まったく心外そうに『急な雨に降られ慌てていた』と供述し、断固として関りを拒否している。土佐勤王党の盟主として藩政の舵を掴まんとする武市も、谷の無実を提唱した。谷干城は勤王党の同志であり、これから土佐一藩勤王とする上で藩主に働きかけてもらうなど必要な人材である為に庇ったのもある。

…だが、彼が本当に無実である事を武市は知っていた。東洋の暗殺時と同時刻にはつみが襲撃された際、以蔵の証言や犯人が落とした遺留品(小袋)といった情報をまとめた結果、恐らくはつみを襲ったのは谷干城に違いないと、確信に近い形で武市は推測していたのだ。そして、大義の為に吉田東洋を排除する事によってその恩恵を受けて育ちつつあった桜川はつみという稀有な才の芽を潰し、その上彼女に対して嘘をつき彼女の命を狙った者を助けるという不義に及んだのである。

『大義の為』

吐き気を催す程の自己嫌悪と自己批判を繰り返し、大義の為に飲み込む武市であった。



一方のはつみ。

自分が襲われた事などどうでもよかった。居ても立ってもいられず吉田東洋の屋敷へ行くが、はつみが東洋の引き立てを受け親族からも受け入れられていたのは既に過去の事となっていた。門番から追い払われ雨が降りしきる中茫然とする所へ、後藤象二郎が現れる。

「おんしはおじきの引き立てを受けちょったのに、相も変わらず武市の側におったじゃろう。…どういて屋敷に入れると思うた。」

 冷たく突き放す後藤に、はつみは雨に濡れるのを構う事もなく静かに返す。

「武市さんは関係ないよ」

「…いや、もうええ黙れ。ここでこれ以上言い合いをしたら、おまんを斬ってしまいそうじゃ」

 吐き捨てる様に言う後藤にじっと視線を向けるはつみ。反発したい訳ではなく、寧ろ、吉田東洋と武市半平太のどちらにも取り入って都合よくいられると思うのかと思われても致し方ないと納得も出来る。だが…先の先の、はるか数年先の結末をたった一人で見据えていたはつみには、誰も成し得なかった事をしなければならないという決意もあった。だが、自分が見据えていた未来を言う訳にはいかない。言ったところで信じてもらえるはずもないし、結末を知りそれに対処しようとしているのなら何故、歴史通りの事が今起こっているのかと責められるだけだろう。…責められるならまだいい。だが、それを成し遂げる事ができず亡くしてはならない人を、結局亡くした。何もできなかったその事実はもうどうしようもない。取り返す事はできないのだ。だから…はつみは複雑に神妙な面持ちで唇を噛みしめ、言葉なく後藤を見つめ続けていた。

「…なんじゃその目は…斬ったんは勤王派の連中じゃろうが…」

 言い返せないはつみは後藤を見つめながら首を横に振る。疑念を捨てきれない後藤ははつみに一歩二歩と歩み寄り、濃い眉を怒りにしかめながら言葉を放ち始めた。

「私利私欲贅沢三昧故の天誅じゃと…?ぬかせ!武市が尊王攘夷派の政策を受け入れられん腹いせにおじきを斬ったんじゃ!」

「違う!その時武市さんは私と一緒にいた!」

「うるさい!武市が刀を抜いたかどうかち言うちょるんじゃない!あやつの画策でおじきは斬られたち言うちょる!」

 堪えようとしていた後藤の声も雨の音をかき消す程の大音量で真正面からぶつかってくる。幼少期に父親を亡くした後藤にとって吉田東洋は叔父でありながらも父親代わりの様なもので、尊敬する上司でもあった。東洋があれだけ目にかけていたはつみが今回の事に直接関わっている訳がないと思いながらも、東洋の政敵である勤王派の連中とも行動を共にする彼女に疑念や怒りが湧くのは致し方なかった。

「違う、違う!だったら私を責めてよ!東洋様と武市さんがもっと近付けば、きっといろんなことが良くなるって思ってた…だから私は東洋様の話も武市さんの話も聞いてたし、世界に向けた教養の充実が日本を豊かにするんだって事を二人にずっと話をしてた!それが…それが……」

 雨に打たれながら、慟哭のあまり溢れ出る涙もろとも雫がこぼれてゆく。感情に言葉を詰まらせたはつみはそのまま泥水の上に両膝をつき、顔を両手で覆うと噛みしめる様な声でつぶやいた。

「……何も…できなかった……」

 激しくなる雨音だけが二人を包み込む。噛みしめる様な嗚咽は搔き消されていたが、細い肩が震えながらえづいているのは一目瞭然だった。振り上げそうになった怒りの拳のやり場も無くなり、後藤はバツが悪そうに『チッ』と舌をうつ。足元に打ち付ける雨水や跳ね返る泥水を気にするでもなく乱暴に踵を返すと、横目で肩越しにはつみを見下ろして言い捨てた。

「…訳のわからんことを…。…さっさと去ね…」

 はつみが疑わしい事には変わりないが、犯行に関する裏の画策があったとしても彼女は恐らく関わっていないであろうという気はしていた。責めるべき、仇を討つべきは限りなく黒と思われる攘夷派の連中であり、その中心にいて全ての活動の画策を指示しているであろう武市半平太だ。それにどんな状況であっても、やはりはつみは女子であるにも関わらずただひとえにその才能と人柄を東洋に買われ、藩校の講師にまで声をかけられた人物である。尊敬していた叔父東洋を想うのであれば、はつみの事も信じたいとする気持ちはわずかに後藤の中にも残っていた。

 後藤の去り際にすれ違った門番は彼から何かを言われ、周囲を見回してから手にした槍を門に立てかけると小走りではつみに駆け寄ってきた。はつみの脇を抱えて強引に立たせ、雨と泥水でまさに全身ぐしょぐしょになりながら嗚咽を漏らしているはつみに気まずい表情を浮かべる。

「…後藤様が、門の前でおんしに泣かれておっては皆東洋様を見送れぬち言うちょる。…お帰り下され」

 そして門番は持ち場へと戻り、はつみを視界に捉えつつもしばらくは許容してくれていた。打ち付ける雨を浴びたまま立ち尽くすはつみであったが、遠くから様子を見ていた権平がそっと近付き、「…いくぞ」と声をかける。はっと顔を上げたはつみは、わざわざ迎えに来てくれた権平の顔を見てまた泣きそうに眉間を歪ませる。権平もこの春先に妻・直を亡くしたばかりで、先日ようやく忌服期間の忌を明け、今もまだ喪に服している最中だ。公務や交流の再開可能となった時期とはいえ、龍馬も脱藩し、城下は尊王攘夷派の台頭で不穏な様子となり、はつみが襲われ参政が凶刃に倒れ、その中でとびだしていったはつみをこうして捜しに来てくれるなど、思いもしない負担をかけてしまった事だろう。参政の屋敷の前という事で、傘すらさしていなかった。

「…ごめんなさい。権平さん…」

「えい。まずは、帰って風呂に入るぜよ。」

 頭からずぶ濡れながらも目元に溢れる涙をぐいと拭って頷いたはつみは、重い足取りで権平の方へと歩み寄る。そして二人は屋敷に向かって深々と一礼をし、そっと静かにその場を後にするのであった。






※仮SS