仮SS:届かない声



1月末。宇和島藩から土佐関所へと姿を現したはつみ達(はつみ、寅之進、陸奥、黒木)は、帰藩命令にしたがって帰藩したというのに武装までして他藩外交に目を光らせている土佐関所を通過できずにいた。これまでに入手した勝海舟と伊達宗城からの容堂宛て書簡見せると役人たちはひれ伏してそれを受け取ろうとしたが、これを渡すのは乾である事を伝え、乾への目通りを希望する。手紙の差出人が差出人なだけに役人たちは途端に神妙な顔を突き合わせ何か相談していたが、しばらくすると、今から城下へ使者を放つので沙汰が来るのを待つ様にと申し付けられるた。
こうして、はつみ達は止むを得ず関所の宿で惰性を貪りながら数日を過ごすのであった。


2月。半月ほど散々待たされた後、乾ではなく岩崎弥太郎が現れる。乾への目通りについて尋ねるが自分が承ったとばかり言い逃れ、はぐらかされた。しかも例外なく陸奥や黒木は入国できず、帰国命令の出ていた寅之進は殆ど捕らえられる様な形で有無も言わさず『同行』を申し付けられた。寅之進を人質に取られた様な形となったはつみは陸奥らと別れ、彼らについて土佐城下へと向かう。

ようやく土佐城下へ到着したはつみ。しかし当然ながら寅之進とは強制的に弾き剥がされ、坂本家にも入れず、どこの宿かも分からぬ部屋に押し込まれていた。挙句、勝海舟や伊達宗城から容堂に充てられた手紙もあらゆる難癖をつけて結局奪われてしまう。飛び出そうとしても下横目らがそれを阻止し、これは一体どういう状況なのか話の分かる人を連れて来てほしいと憤慨していた所、翌日になって突然『出頭命令』を受けたのだった。理由を尋ねるも当然明確な返答があるわけでもない。已むを得ず連れられるがままに移動すると、そこは武市をはじめとする数名の土佐勤王党員らが投獄されている牢獄のある南会所であった。だがはつみはその事に気付かず、案内されるがままに屋内へと入ってゆく。


―はつみに対する今回の詮議は特別な形で実行されていた。通常、詮議の内容が外に漏れ聞こえ共有されるなどという事はありえないのだが、この時は獄舎と空間的に繋がっている『中敷き』辺りに屏風が壁のように立てかけられ、その中で詮議を受けていたのである。つまり、獄中に居る武市の耳にははつみの声が届いている状況だ。か弱い『想い人』が目の前で詰問され続ける事に心を痛めぬ武市ではなかろうと、彼の心を詰める作戦だった。

この計画は周到に組まれており、今回はつみは、あくまで『青蓮院宮令旨問題』に関わっていないかを詮議される事になっていた。数か月前、土佐勤王党内でも特に活発な活動を行い武市の右腕的存在になっていた平井収二郎ら3名が、この青蓮院宮令旨問題に関わっていた等とした理由で切腹させられている。勿論この工作自体行き過ぎたものでありこれを罰するのは当然であるのだが、このような厳しい処罰がされた一方で、現在投獄されている武市を始めとする土佐勤王党に向けられている様々な犯罪行為への容疑が明確にはされていないのが現状である。容堂としては、この『土佐勤王党』こそが吉田東洋を斬って藩政を掌握した謀反者として睨んでいるだけでなく、その他数々の天誅による殺人、現藩主豊範を担ぎ上げ朝廷工作の駒とした事、幕府をないがしろにしあまつさえ軽格であるにも拘らず将軍御目見えにまでなりその尊厳を著しく踏みにじる様な真似をした事、そもそも藩政に背く『党』を汲む事自体が謀反の先駆けである等として、極めて深い遺恨があった。絶対に捉え、罪に問わなければならないという確執、意地といった感情が、もはや執念と成り代わりつつさえあった。だが、武市らには『証拠』が無い。土佐のみならず京坂においても数々の天誅が行われ、容堂のすぐ近くでも天誅が行われたが、その犯人らはまったく捉えられていないのだ。数々あるであろう殺人犯罪や政治犯罪の中で露見したのがこの『青蓮院宮令旨問題』っだのであり、そういった事情から、彼らが投獄された理由はやんわりと『青蓮院宮令旨問題』を始めとする朝廷に対する無礼な工作作業への不敬罪あるいは政治犯罪への容疑といったものでぼかされている。
これに一連して、吉田東洋に取り立てられ容堂の目見えにもなった先見の才を持つはつみが土佐勤王党と同じ思想と魂胆を以て活動していたとは思えないし、そういった報告も東洋の耳には入っていない。だが、勤王党の活動が最も盛んであった頃に武市の側に在り続け、得意な立ち位置であるにも拘らずまるで武市が身を挺しているかの様にその身柄は彼によって守られていた。武市らを取り締まる上ではつみが重要参考人である事は間違いなかったのだ。

現在の藩政において一翼を担っている後藤象二郎や寺村左膳など彼女と面識のある者に加え、なんとこの日は容堂公までもが入庁している。これは異例の事だが、武市と縁の深い桜川が帰藩し関所にて要人の書簡を携えているといった報告が容堂公へ上がった際、彼ははつみと江戸で対面した事を一同に報せると同時に武市との関係についても既に寺村左膳からの報告があった事を話す。事に至っては彼女を詮議の場へと呼び出し彼女の反応を見ると同時に武市らの心理的な圧になる事を狙ってみるのはどうかと、酒を煽りながら指示を出したのだ。はつみが持つ要人からの手紙というのも気になる。彼女が望む通り乾を向かわせる訳にはいかなかったが、城下まで来させたうえで手紙を提出させ、且つ、容堂が画策した通りの状況で詮議を行う…。これについて準備をする為に、はつみ達は関所で半月足らずも待たされていたのである。


しかし、そこまでして舞台を作り上げた彼らの目論見は思いもよらぬ方へと外れる事となる。
東洋から聞いていたはずの『その論客ぶりは甚だ異質』という言葉を、所詮女子の如きものであろうと、その場に居合わせる上士のほとんどがそう考えていたのだ。




南会所へ連れ込まれたはつみは、広い中庭のような場所で不自然に間仕切りされた『壁』の中を歩かされ、その先にある小部屋に敷かれた畳の上に座らされる。ここがどこなのか、周囲はどういう状況なのかを把握する事はできず、怒りと共に不安の混じる表情で身を固め、何かが動きがあるのを待った。すると見覚えのある横目が現れ、文机を挟んだはつみの前にズンと座るとじろりとはつみを見ては威圧感を放つ。見覚えがあるこの男は、安政6年に土佐へ降臨したばかりのはつみが拘留された際にも顔を突き合わせた『しゃがれ声モラハラ気質の小目付・野中太内』であった。あの時は右も左も分からぬ状況で頭ごなしに怒鳴られ、物音を立てられ、散々に心をいたぶられた事がまざまざと思い出される。


先に入庁したはずの寺村と容堂は、詮議の様子が見える場所からお忍びで様子を伺っていた。一方、しれっとした様子で後藤象二郎がはつみの前に現れる。容堂公によるひらめきにより、はつみの詮議に対処すべしとして後藤が臨時の大目付役を任じられた形だった。東洋が亡くなった日以来となる後藤との対面に一瞬困惑の色を浮かべるはつみであったが、彼はズンと威圧感を放つ野中の後部辺りに座ると手元の書簡に視線を落としながら

「京にて土佐勤王党と共におったそうだな。情報提供など協力してほしい」

等と素っ気なく言ってきた。目を合わせる事なく、『協力してほしい』などと全くそんな風には思っていない態度で腹が立つが、黙って様子を伺うはつみ。そこへまず、はつみの出鼻をくじこうとするかの如くの中の声が響き渡る。

「おんしゃあなんじゃその態度は!?」

野中のしゃがれ声が耳障り悪く大音量で耳をつんざく。初めに畏縮させて在る事ない事吐かせるのが彼のやり方なのか…心底軽蔑しながら、はつみは射貫く様な視線で野中をじっと見つめる。視界の角に移り込む後藤は相変わらずだ。彼には乾の事を尋ねたかったが、勤王派の弾圧に絡んで消息が知れないという状況なのであれば軽率にその名前を出す事はやめておいた方が良さそうだと判断し、ぐっと唇を噛んで堪えた。自分の一喝ではつみが閉口したのだと勘違いをした野中はフンと鼻を鳴らして腕を組み座り直すが、いつもであれば大抵こうした一喝で相手が畏縮するであろう場面で、まさか目の前の小娘から反論を喰らう羽目になってしまった。

「じゃあ聞きますけど、これは任意同行であって強制ではないはずですよね?」

「ああ?」

射貫く視線から妙に華々しいというかふわふわと浮世めいた気配を感じながらも、内心驚く心を押さえ込んで返事をする野中。忍びの閲覧部屋では酒を片手に呑んでいた容堂が興味を示した様に前かがみとなって、狭い窓の隙間から見えるはつみを見下ろしている。

「関所に到着して以来、ずっと拘束されて監禁されて強引に連れて来られた挙句に今ここにいますけど、ここまでされる私の罪状って何なんでしょうか?こんな強制される程の重い罪なのですか?まさかとは思いますけど、ただの根無し草である小娘から土佐勤王派の情報を引き抜く為にこんな御法度紛いな事をしてるのだとすればそれこそ土佐藩の尊厳に傷をつける行為だと思うんですけど、そんな事ありませんよね?」



「―はっは!聞いたか道成。あやつの言い様を?」

見下ろしていた容堂がまるで闘犬でも鑑賞しているかの様に扇子で膝を叩き笑っている。隣に控えていた寺村は頷き、冷静な声で対応した。

「ええ。まるで乾の如き弁論ですね」

そう、議題から『そもそも』の話を持ち出して根底から筋道が通っていない事を指摘するのは乾の常套句なのだ。容堂は、乾がはつみの目通り許可を乞うてくる前から、彼のはつみに対する想いを知っていた。勿論これも東洋からの報告にあったものだったが、どういう訳か乾が無理を通してそのような挙動に出て来た事で、並々ならぬ想いであるのだろうと内心おかしく興味を抱いていたものだ。
はつみの器量良しを見れば自分の妾にしてやってもいいぐらいであったが、乾があの娘に惹かれたのははてさてその器量なのか。それとも東洋をも唸らせた奇抜な才か。女にあだたぬ道をゆくその強靭な心なのか…。…おそらくは、その全てを兼ね備えた奇特な女子だったからこそ、乾があそこまで惹かれた理由なのだろう。そして恐らく、武市にとってもそうなのだと、目下で行われる『茶番』とも言える詮議を満足そうに眺めていた。


現場では野中がややたじたじとしながらも、そこは気迫のしゃがれ声で補うかの如く声を荒げ続けている。

「おんしの罪状はこれからおんしを詮議した上で沙汰されるもんじゃ!」

「筋の通らない私怨にまみれた取り調べをして意のままに事を成そうと考えているのなら、天下がそれを見過ごさないという事は十分お分かりなのではありませんか?井口村事件の事はもうお忘れになってしまったのか、あなた方上士の方達にとってはもう無かったことになってるんでしょうか?」

「うるさいのお!聞かれた事だけ答えとれ!」

「その態度はなんだ?と聞かれたから不満に思っている伝えたのに、あなたの言ってる事おかしいよ。」

「ちぃー!!この減らず口が!!!」

「話のつじつまが合わないのに詮議だなんて、それこそ成り立たないじゃないですか」

「~~~~!!!」

様々な要因から完全に頭にきていたはつみはかつてない程の論戦体勢で野中ととことん対峙しようとするが、丁度容堂公も『ありゃあ野中では手が付けられんぞ、どうするぜよ』と笑いながら手酌酒をしていたのと同じ折に、野中の後ろに控えていた後藤が動きを見せ始めた。それに気付いた野中がはつみへの罵声も途中で切り上げ、さっと身を引いて後藤へと場を空ける。先ほどまで視線を合わせようともしなかった後藤はその黒々とした瞳で真正面からはつみを見やり、口を開いた。

「おんしへの罪状はまだ決まってはおらん。罪状とは詮議の後こちらで吟味を重ね、決定されるものである。それに昨晩は『旅籠を手配し』そこまで『送って』やったがじゃろう。拘束じゃ監禁じゃち、言葉に気をつけぇよ。」

容堂から見所のある男と言わしめるだけあって、後藤は対人にあっては豪胆で要領のいい男だった。ただ大雑把な性格がその仕事を台無しにする事もあり、今はつみを言い聞かせる為に話す事も本来なら『本人には伝えない』ようにしていた事であったのもあり、寺村が言葉なくも息をつきながら額に手を添え俯く場面もみられた。

「関所からぴったり横目の人達に付き添われて、有無も言わさず宿に押し込まれた上に外へ出ようとしてもすぐそこで見張ったりして一歩も外へ出してもらえなかったんですけど?」

「はて……横目に対する指示が行き届いておらんかったのやも知れん。」

本気でそう言っているのか、後藤はしれっとした顔でとぼけて見せた。当然、彼の言う事は真実ではない。だが今日この詮議が行われれば後はどうとでもなるとばかりに、適当な約束をしてはつみの口撃をかわした。

「ただ今日この詮議が終わってもまだ藩内の情勢が不安定なのは変わらんき。おんしを今日ここへ呼び立てた疑惑が晴れるまでは、あの宿に寝泊まりしてもらう事にはなるろう。横目らは退去させるき。それでえいがか。」

「……また、勝手な事を…」

と、ここで寺村がため息をついた。
今回の囮詮議の事もあるが、彼女は他にも藩政側で身柄を確保しておきたい人物である。時世は朝幕共に手を取り合う事で開国問題にも対処していこうとする公武合体路線を進み始めており、容堂公もこうして興味を持っている以上、この先彼女の話や語学が必要になる時が来ると考えていた。そういう意味では彼女を暫くの間『留めて』おく必要があったというのに…勝手に横目を切り上げるという約束をしてしまっては、後の調整が大変ではないかと首を横に振るのである。容堂公も後藤のそういう大雑把な所を一長一短と見ている様で、ただおかしそうに笑ってはいたが。


一方のはつみは一通りの説明と今後の約束を受け、腑に落ちない事やもっと問い詰めたい事もあったものの何よりも野中とのしゃがれたモラハラ会話から解放されたというだけでも冷静さを取り戻せていた。後藤と対峙するのは東洋の件以来であったが、はつみが彼に対し緊張感を覚えているのは、歴史上において彼がこの勤王党獄中闘争の終盤に大目付として台頭し、武市達を有罪へと至らしめた代表的な一人だったからだ。
自分が何かしらの容疑をかけられているとはいえ、犯罪に触れる様な事は行っていない事だけは確かだ。暴徒に襲われた時に相手を斬ってしまった事があったが、それは京の奉行所において正当防衛であったと認められている。きっと何を言われても無実を主張できる自信があったが、間違っても武市達の不利になる様な言葉を選んではいけないと言う緊張感があった。



「さてもうええか。おんしをここに呼んだ容疑について話を聞く。」

そういってばっさりと流れを切り替えた後藤は、はつみに対し、主に在京時の事についていくつかの質問をし始めた。



・はつみと土佐勤王党の関係。
「尊王攘夷派」であった彼らとは思想が違った。しかし東洋様や容堂公にも話した事があった通り『これからの日本の在り方』について未来の話を彼らとしたかった。彼らに世界を広げてもらいたかった。在京中は藩でも京役人でもない、他でもなく武市が、思想の違うはつみの安全を確保してくれていた。」

・殺害された本間精一郎との関係
「本間精一郎殿は公卿衆からの覚えもめでたい御仁であったと聞いちゅう。じゃが一方で、その高貴な方々に対し我が土佐藩の良からぬ噂を風潮しちょったとの報告も入っておる。奉行所から伝え聞いた事じゃが、おんしは本間殿の臨終に立ち会っちょったそうじゃな?それはなんでぜよ。」
「本間さんがあまりにも常識を逸した話し方をするので、それではよくないと話し合おうと思っていたんです。もともと本間精一郎さんは私が文久元年に江戸遊学に出た時に出会った人で、良くはしてもらってたんですけど、その頃からその話し方が災いを呼んだりしてて心配してたので…。その途中で辻切が出たと町中で騒ぎ初めて…近くの現場に行ったら、本間さんが遭難されていました…」
「以蔵もそこにおったがじゃろう」
その言葉にはつみは一瞬耐え難い緊張感を覚え、息をのんだ。…歴史上では本間の殺害に以蔵も絡んでおり、これを発端とするあらゆる天誅への関与自白が、勤王党の獄中闘争を不利な道へと誘ってゆくのである。―だが、以蔵が共にいたのは他でもない自分だ。彼は寧ろ本間を助ける立場としてあの場に同行していた。何を恐れる事があろうかと、はつみはその瞳に再び翡翠の光を灯し真っすぐに後藤を見上げる。
「…はい、以蔵くんも一緒にいました。」
「おんし、或いはおんしと共にいた以蔵らがとどめを刺したという事か?」
 鎌をかけて来たのだろうが、それにしても酷すぎる。はつみは眉間にしわを寄せ思わず立ち上がって指摘しようとしたがすぐに野中に抑えつけられ、結局座ったままの姿勢で後藤に鋭い声を放つしかできなかった。
「ち、違います!!!本間さんは、本間さんは…江戸でできた友達でした!あなたには友達を心配するという気持ちはないんですか?!」
「…こちらへの質問は受付兼ねる」
「…っ!!!…ひどい…!」

・袋のねずみ事件と、今年3月の刃傷沙汰事件
「何度か事件に巻き込まれた様じゃな。一度目は屋敷に血まみれの鼠が放り込まれたとか。二度目は京の奉行所からも詳細を受け取ってはおるが、おんしの口から概要を聞かせてみい」
「誰かが嫌がらせで床に置いたみたいでした。…瀕死のねずみが袋に入れられていて…。次の日の朝、それを踏んでしまって大声を出してしまったんです。でも別に、事件とかそこまで荒立てる事じゃないです。」
「それは『袋の鼠』ちいうことじゃろう。立派な脅迫ではないがか。」
「……それは…。」
「何故そのような事になったか、自覚はあるがか。」
「その少し前に薩摩の小松帯刀さんと会っている事が、一部の人達の間で議論になっていたという事は聞いています。」
「…薩摩の小松帯刀…?」
 思想の違いがその様な軋轢を生んだのだといった方向に持っていきたかったのだが、思わぬ返答につい反応してしまう後藤。見聞している容堂公や寺村らも同じく、反応を見せていた。今や薩摩国父・久光公の懐刀として朝廷からも幕府からも頼られる家老・小松帯刀を知らないが訳ないのだ。容堂公は江戸で大久保一蔵などとも公武合体の議論を交わしたりなどしたが、若くして大抜擢された家老の小松は大久保の身分を遥かに超える。その上彼に寄せられる朝幕の期待を考慮すれば大物中の大物といって過言ではない。…そのような御仁と一体なぜ、この小娘が?
「でも、犯人については分かっていません。」
 犯人は以蔵がケリをつけたのだが、特に報告を受けていなかったはつみは本当に知らなかった。

・武市に『囲われていた』との噂があるが、痴情があったのではないか?
「ありません。そもそも私が勝手に京まで追いかけていったんです。思想も違う私を、武市さんは昔誼で匿ってくれていただけです。痴情だなんて…武市さんは正妻のお富さん一筋でした。武市さんに失礼です…!」
・思想が違うのになぜ武市のそばにいた?何故武市
「―だから!私が一方的に彼のそばにいたかったんです!一緒に開港した横濱を見たかった!世界を見てほしかった!できる限りの事をしたかったんです!それ以外に何かありますか?私が武市さんを好きだったらそれだけで何かが有罪になるの?」
「…わかったわかった。もうえい」


結局、『東洋や容堂とも直接話をしている一貫した開国思想』という手札が強すぎる上、何一つ嘘をついていないはつみの言い分にはケチのつけようもなければ一寸の隙すらも見出せなかった。感情面を煽ってボロを狙おうと最後の質問をしたが、その思惑は外れたどころか傍から聞いていたら恥ずかしい様な言動を恥じ入る様子も無く堂々と放つその豪胆さには却って言葉を失い、「追って連絡する」と言って後藤は去っていくのだった。
「東洋さんは私の話をちゃんと最後まで聞いてくれた!あなたもそうあろうとは思わないの!?」
残されたはつみは牢番から「こちらへ」と案内されてもその場に立ち尽くし、拳を握りしめていた。いったいどの感情がそうさせるのか、瞳からはとめどなくボロボロと涙がこぼれていく。

そしてこの時、はつみは思い知る。はつみは、自分と寅之進が土佐勤王党へ加入する事を武市が認めてくれず、「おんしらとは思想が違う」と言われ続け、政治面の話も何一つ触れさせようとしない事に悩んでいた。しかし結果的に今、その武市の一貫した姿勢に救われているという事に改めて気付かされる。土佐勤王党に連名しなかった事も、思想や行動を分かち合おうとはせずも寓居に住まわせてくれた事も、一緒に土佐へ帰る事を頑なに拒否したことも、全部が今の自分を守ってくれている。

そして、自分が武市の為にと先回りや思考を重ねて行ってきた進言や行動は、今の自分の無事に繋がっていただけ。

己の無力さを今頃になって再確認するのだった。



容堂は無言で立ち上がり、去り際にはつみへと視線を残しながらも部屋を出ていく。寺村もそれに続くが、恐らくは両者とも、考えている事は同じであっただろう。彼女とはもう少し、別の場所で、話をせねばならないと。




「…おなごに必死に守ってもろうて、ホッとしたろう」
「……」
はつみの元を去った後藤は、藩庁へ戻る途中でとある牢の前を通って行った。そこには無言で鎮座する武市の姿があり、ただ目を閉じたまま後藤に会釈で応えるのみだった。

「とんだ堅物じゃと思っちょったが、女を囲っておられたとは。しかも開国のー」

「妻に対しては筋を通しております。そして私が勤王党党首としてここにおる事と桜川殿は一切関わり無き事。まだ何かおありでしたらどうぞ私の取り調べにて、お頼み申します。」

「…ちっ」

後藤が舌打ちだけをして去っていったのを音で察すると、武市は閉じていた瞳をそっと開き、かの声が聞こえていた方向へと視線を向けた。あの扉の向こうにいるのだろうか…久々に聞いたその声。悲痛と焦りに満ちて…他でもない自分が彼女にそうさせているのだと胸がいたんだ。

「…はつみ…」

ただただ、その名を、小さく小さく囁くのだった…。






※仮SS