文久元年 9月頃。
土佐一藩勤王を掲げ一足先に帰藩した武市らを見送り、『江戸遊学』期間の残り半年間を江戸で過ごすはつみ。結局土佐勤王党に参入する事は認めてもらえないまま武市と離れる事になったが、引き続き滞在する江戸での日々は充実したものであった。
ある日、はつみは桂に呼ばれてとある料亭に来ていた。この場には桂の他に、高杉、そして伊藤俊輔も顔を揃えているが、他にも芸妓たちがいた。楽器を奏でたり酌をしたり―特に、高杉はかなり酒が進んでいる様である。男装をしている身でありながらも、はつみは内心『またか』と心の中で息を付いた。
酒の席が嫌いという訳ではなく、彼女たちの事を嫌っている訳でもないが、厄介に思っていたのは酒が進んだ際に『お楽しみ』で繰り広げられる『乳繰り合い』だ。男らの間ではこれが盛り上がるし酒の席での醍醐味でもあるのだろうが、正直目も当てられない。その上、自分を男だと思い込んでいる人から『女を勧められて』断ったり、男だと勘違いして対応してくる芸妓たちをできるだけ傷つけない様に離すのも大変なのだ。当然、夜が深まれば『乳繰り合い』だけで済む状況ではなくなることもしばしばだ。
―振り返れば、土佐でこういった機会があまりなかったのは、はつみの周囲にいた龍馬をはじめとする交友関係のある郷士達は地元で芸妓遊びをする事があまりなく、あったとしても彼女をそういった席へ呼ぶ事がなかったからだ。上士の乾や東洋といった者達についても、恐らくは同様だったと思われる。
―長崎や江戸へ出て、初めて知った『女遊び』だった。この時代、相手が色町の遊女や道端で春を振る夜鷹らだけという訳ではまったくなかった。茶屋の娘、料亭の娘、そして芸者も総じて、春を売るなんて事は珍しくなかったのである。
―さて、案内された部屋の中心へはつみが進むと、場を整えようと真っ先に動いてくれたのは桂だった。はつみと視線を合わせるとその美貌に影を潜め、『すまないね』と言わんばかりに会釈をしてくる。彼の膳にも酒は並んでいたが、すでに5,6本を開けている高杉とは打って変わって1本しか置かれていないし、芸者を侍らせてもいなかった。
「…晋作、桜川殿が来たよ。話をするなら起きたらどうだい。」
一応、この場にいる桂、高杉、伊藤については、はつみが男装をした『娘』という事を認知した上での交友関係にある。桂とは、昼の食事時などに何度か声をかけられ、短い時間を共に過ごす事で親睦を重ねていた。その流れで、桂とよく行動する事のある伊藤とも必然的によく顔を合わせている。彼とは年齢も同じで、何というか友人としての親しみやすさがあり、はつみとしては話しやすい友人とまで思える間柄となっている。一方で、高杉とも何度か会ってはいたが、彼ははつみから見ればいかにも『武士』といった堅い波動を出す青年であった。対峙すれば話をしてくれるし、聞いてもくれる。しかし、彼の武骨な精神、そして頑固な面を察するのに時間はかからず、そこに『武士の堅さ』を感じていたという訳だ。いつも何かしらに苛立ちを感じている様だったが、今日もあまり機嫌が良くなさそうだ。そしてその理由は言うまでもなく、時世に関する事のようだった。
今、長州では長井雅樂による公武合体論、『航海遠略策』が藩主に認められ、朝廷、幕府にも順調に浸透している。尊王攘夷の旗を掲げ、幕府の糾弾と幕政改革、破約攘夷を唱える桂らは、何とか反省を公武合体派を奪回せねばならないと精力的に活動していた。
そんな中、高杉は勅許なき条約を結んだ幕府を断罪し幕政改革を迫るものとして桂らと思想を同じくし、刻さえあればつぶさに相談し合っている。しかし如何せん、高杉の具体案である『西洋富国強兵策』が、桂や久坂ら尊攘急進派からの支持を得ないのだ。
高杉が進言するこの策は、実は見方によっては、政敵・長井雅樂の『航海遠略策』にも通じるところがある。それでも行動や基本的な思想を桂らと共有するものとして長井らと決定的に違うのが、幕府に対する長州の立場を如何にするかという所だった。『攘夷をするならばまずは敵を知らねばならない。備えなき戦は負ける』これはもちろん、桂らとの間で認識の共有はできていた。
ではなぜ『西洋式富国強兵』が駄目なのか。―それは、藩論が長井雅樂の公武合体論に偏っている今の段階で高杉の西洋式富国強兵論をとりあげれば、全てが『航海遠略策』に飲み込まれ、藩内における長井の立場と共に公武合体派がますます地盤を固めるものとなってしまう。この事が、まず一つにあった。また、過激な攘夷活動を採りがちな水戸勢との間に結ばれた『成破の盟約』というものもある。その手前、『開国論』ともとられかねない『西洋の軍事や外交力を取り入れた富国強兵』を前面に出す事も躊躇われている部分も少なからずあっただろう。
…その上、高杉の前にはもう一つ『壁』があった。高杉家当主たる父の事だ。
彼の家系は代々藩主に関わり深い立場のところにあり、高杉の父もその道を歩んでいる。現藩主が長井の航海遠略策を以て事に当たろうとしている以上、父親からは『傍観していろ』だの『おかしな行動は慎め』などとクギをさされまくっているのだ。そういった親の言い付けを無碍にもできない高杉だからこそ、余計にむしゃくしゃしているという訳だ。
―それで、まさに芸妓遊びなどをして憂さを晴らす今に至る訳である。勤めがあるにも関わらず毎晩の様に酒と女を相手にしている有様だった。
「僕は馬鹿になった!!時代の波とは交わらぬところで女を抱き酒を飲み、ただその日暮らしの人生を送るぞ!」
そう言って、はつみの目の前であるにも関わらず芸妓をベロチューしては酒を仰ぎ呑む。はつみが唖然として視線を背けた先で、桂が苦々しく「晋作」と呼びかける。桂の表情から諸々察した機転の早い伊藤が高杉に駆け寄り、彼に同調しつつも機嫌をそこねない様取り計らっているのも、一目瞭然であった。
酔った高杉は時代の波とは関わらぬなどと言っておきながら、次の瞬間には伊藤の肩を抱き寄せて胸元を斬る仕草をし、
「長井を斬る!」
と、危なっかしい事を言いだす始末である。桂は再び、半ば呆れの苦言を呈した。
「晋作。君にはやらねばならぬ事が他にもあるだろう。御殿の為にある命を、俗物にかまけて投げ出す様な事をしてはならないよ」
すると高杉は伊藤と女を振り払って立ち上がると桂の元へと近づき、両肩へ手を置いて熱弁し始める。
「御殿の為にこそ!俗物を断ち、藩政に正義を示すんですよ!桂さん!」
「いやぁ、本当に、高杉さんらしいです。」
伊藤が改めて間に入り高杉を引き受けると、何やら桂に視線を送っている様だった。桂は高杉からとっ捕まれてよれた襟元を正しながら席を立ち、部屋の外へと歩いて行く。
「(あれ…?桂さん、怒っちゃったのかな…?)」
呼ばれて来たはいいものの、しばらくは高杉の独断場で言葉を放つ隙もなかった。泥酔した高杉の愚痴と女との絡みを見せられるだけで居場所のないはつみは、未だ一言も言葉を交わす事なく去っていく桂を座ったまま目で追う。流石の桂も今の絡みには気分を害したのか…?ていうか、桂に呼ばれて来たけどどうすればいいんだろう…?と心配になっていたが、不意に振り返った彼が吸いつく様にして視線を合わせて来たので、思わず息をのむ。
「…こっちへ」
声は聞こえないが、彼の口元が確かにそう言った。
「(へ…?!)」
廊下から小さく手招きをする桂に驚きながらも、はつみはそそくさと席を立ち、彼の元へと駆け寄っていった。
「驚かせてしまってすまないね。」
高杉らを部屋に残し、そっと抜け出した先で立ち話をする二人。桂は怒っている様子はなく、ただはつみと話をする為に席を立った様子だった。気遣ってくれる彼に首を横に振ったはつみであったが、桂は少し疲れた様に微笑んで息を付き、話を続ける。
「今日は一段と虫の居所がよくなかった様だ。そんな時に君を呼んでしまって…」
「いえ!私なら全然大丈夫です。何か、私に御用がありましたか?」
察しがよくて本当に癒されるよ…とほころんだ笑顔を見せた桂は、周囲を見渡して人がいない事を確認してからそっとはつみに近付いた。はつみは壁を背に立っているので、直感的には迫られていると錯覚しそうになるほどの距離である。桂を纏う柔らかな香にふわりと包み込まれる様な感覚に陥り、一瞬ぼぉっとしてしまうはつみであったが、そっと耳打ちされた事で別の意味で意識が覚醒する。
「(―ひぁっ!?)」
「…実は、あの様に危ない事を言っているのは晋作だけではなくてね…」
深刻そうな話を何故か共有してくれている訳だけれど、正直耳元を掠めるその声の魅惑ぶりときたら…。聞こえてくるのは声のみにあらず吐息も含まれていて、はつみは顔を赤くし両眼をぎゅっと閉じながら、なんとか桂の話に集中しようと務める。この状況で真顔で話を聞く事が出来る女子など存在するのだろうか?とも思いながら。
「…今のところは暴挙暴言を留めているが、もしも彼らが本気でその気になったら、亡命してでも暗殺に乗り出すかも知れない。…困ったものだよ…」
その事についてははつみも危険を感じていたと何とか頷き返すと、桂は少し安心した様に微笑んだ。
「…桜川殿。長州の人ではない君にこんな事を頼むのは筋違いかも知れないけれど…たまの折でいい、晋作の事を見ていてはくれないだろうか。」
「え…高杉さんをですか?」
桂本人も『筋違いかも知れない』と付け加えるだけあって、まさに意外な展開だった。はつみは率直に驚いた様子で目をしばたたかせ、若干背をかがめながら間近にこちらを見下ろしてくる桂を改めて見上げる。世の女子が黄色い声を挙げそうな距離感だったが、話の腰を折らぬ様、込み上げるミーハー心をぐっと抑えつけながら話を続けた。
「彼はああ見えて、君の話に興味がある様だからね。」
「あ…西洋式富国強兵と幕府の事、ですよね。」
「そう…本当に賢い人だね、貴女は…。」
―と、この体勢で不意に微笑むものだから、まるで彼の笑顔を独り占めしている様に思えて目を白黒させてしまうはつみ。
「(はわ、はわ~っ!?世の桂さん推しのみなさん、すみません…!?)」
「彼は昨日も今日もあの調子だから、桜川殿を呼んで話を聞こうかと提案したら、意外にも乗り気でね。」
と、桂はそこでフと視線を伏せて微笑みを控えると、再び視線をこちらに向けながら軽く小首をかしげた。
「―彼も、君に会いに行った事があるのだと聞いたけれど。本当なのかな?」
「あ、はい。初めて会った時に桂さんもご一緒だったと思うんですけど、あれから割とすぐ後に…。西洋の話を聞かせて欲しいといって。」
「…それじゃあ、君が本当は女性であるという事も?」
「え?ああ…直接女だと言われた訳じゃないけど、『君は何故その成をしているんだ?』って聞かれたので、多分男装だって事は見抜かれてたんじゃないかと思います」
はつみの返答を聞いた桂は姿勢を戻し、『ふーん』と言わんばかりに一人頷いている。彼の影や香りが静かに引いていくのが肌身に感じられ、はつみは夢から覚めたような、ほっと安堵した様な心地で一息を付く。彼女がそんな様子でいる事も含んで、桂は今の会話に満足した様に再び微笑んだ。
「―ふふ…。改めて晋作の事、頼めないだろうか。彼が無茶をして、その才を無駄にする事の無い様に…君の言葉をかけてやってほしいんだ。」
意外だし畏れ多いとも思える頼まれ事であったが、桂が言うのなら部外者である自分が関わってもいいという事なのだろうと理解し、はつみは頷いて見せる。
「―はい!でも、私なんかであの『暴れ牛』さんを止められるでしょうか?」
『暴れ牛』とは、吉田稔麿の『たとえ人間絵図』の事を言っている。桂は『君はそんな事まで知っているのかい?』と笑い、そして改めて頷いて見せた。
「君になら、任せられるよ。」
当然、安易に誰にでも『任せられる』と言っている訳ではない―。
そんな、一含みありそうな桂の言葉にはつみが気付く事もなく、二人は頷き合うのだった。
暴れ牛・後半 R15