仮SS:暴れ牛
R15


文久元年 9月頃。

 先に帰藩した武市らを見送り、『江戸遊学』期間の残り半年間を江戸で過ごすはつみ。例によって土佐勤王党に参入する事は認めてもらえなかったが、江戸での日々は交友に勉強、そして観光にと充実したものであった。

 ある日、はつみは桂に呼ばれてとある料亭に来ていた。料亭といってももちろん芸妓付き。当然桂が呼んだのではなく、彼と一緒にいる高杉あたりが伊藤も交えて遊んでいるのである。

 もう既に高杉とも何度か会っていたが、その都度、彼はイライラしている状態であった。この頃は長州俗論派の巨魁である長井雅樂が公武合体策である『航海遠略策』をひっさげ、京の朝廷そして藩主、更にはここ江戸にまで来て幕府老中らを相手に周旋活動を繰り広げているのである。その勢いはとどまる事を知らず、藩主を抱き込んだ長井のもと藩論は公武合体に大きく傾きつつあった。尊王攘夷の急先鋒として桜田門外の変や高輪東禅寺英国公使館襲撃などを牽引した水戸藩士らと結ぶ成破の盟約のもと、桂や久坂らは長州の現状に大いに焦り憤っている。高杉も同じ様に長井の幕府を擁護するかの様な公武合体論には大反対を突き付けていたが、桂や久坂らと少々違うのは、高杉は西洋の兵法及び兵器を取り入れ攘夷を行う為の軍事力をもっと大きく底上げしていく事を唱えているという所だ。その為に横井小楠という開国論者を長州へ招こうと進言している。『攘夷を行う為にはまず夷狄を知らねばならぬ』とは彼らの師匠である吉田松陰も唱えていた事であって、松陰は横井小楠とも認め合う間柄であったはずだが今の所この案が受け入れられる様子はない。それどころか一部からは『開国論など唱えて気でも触れたか』軽率に言われる事もあり、その他諸々も多分あってそれ故に不機嫌なのである。
 ましてや特に彼の家系は代々藩主に関わり深い立場のところにあるらしく、『そうせい公』の藩主が長井の航海遠略策を以て事に当たろうとしている以上、父親から『傍観していろ』だの『おかしな行動は慎め』などとクギをさされまくり、そういった親の言い付けを無碍にもできない高杉だから、余計にむしゃくしゃしているのだ。

 それで、勤めがあるにも関わらず毎晩の様に酒と女相手に憂さ晴らしをしている有様で、呼ばれて顔を出した今日などはいよいよ過激な事まで言い始めてしまっていた。

「僕は馬鹿になった!!時代の波とは交わらぬところで女を抱き酒を飲み、ただその日暮らしの人生を送るぞ」

 そう言って、はつみの目の前であるにも関わらず芸妓をベロチューしては酒を仰ぎ呑む。はつみが唖然として視線を背けた先で、桂が苦々しく『すまないね…』と言わんばかりの視線を投げかけている。伊藤が高杉に同調しつつ彼の機嫌をそこねない様に奮闘しているのも、一目瞭然であった。

 酔った高杉は時代の波とは関わらぬなどと言っておきながら、次の瞬間には伊藤の肩を抱き寄せ

「長井を斬る!」

 と露骨に危なっかしい事を言いだす始末だ。

「晋作。君にはやらねばならぬ事が他にもあるだろう。長井など俗物の為に、御殿の為にある命を投げ出す様な事をしてはならないよ」

 流石にやれやれとばかりに桂が諫めようとするのだが、『御殿の為にこそ!俗物を斬り自ら命を絶って正義を示すんですよ!桂さん!』と絡む。伊藤が間に入って高杉を引き受けると、とっ捕まれてよれた襟元を正した桂が廊下へと呼び出してきた。




「桂さん…高杉さん、随分荒れていますね」
「驚かせてしまってすまないね。今日は一段と虫の居所がよくなかった様だ。そんな時に君を呼んでしまって…」
「いえ!私なら全然大丈夫です。何か、私でお役に立てる事がありますか?」

 察しがよくて本当に癒されるよ…とほころんだ笑顔を見せた桂は、周囲を見渡して人がいない事を確認してからそっとはつみに近付いた。桂を纏う柔らかな香にふわりと包み込まれる様な感覚に陥り一瞬ぼぉっとしてしまうはつみであったが、そっと耳打ちされた事で別の意味で意識が覚醒する。

「(―ひぁっ!か、桂さん…)」

「(…実はあの様に危ない事を言っているのは晋作だけではなくてね…)」

 深刻そうな話を何故か共有してくれている訳だけれど、正直耳元を掠めるその声の魅惑ぶりときたらない。聞こえてくるのは声の身にあらず吐息も含まれていて、はつみは顔を赤くし両眼をぎゅっと閉じながらなんとか彼の話に集中していた。

「(今のところは私達の力で高杉達の暴挙暴言を留めているが、もしも彼らが本気でその気になったら亡命してでも暗殺に乗り出そうとするかも知れないんだ。…困ったものだよ)」

その事についてははつみも危険を感じていたと頷き返すと、桂は少し安心した様に微笑んだ。

「…はつみ殿。君にこんな事を頼むのは筋違いかも知れないが…晋作のこと、見ていてやってはくれないか。彼は必要な人間だ。ここで無意味な殺人を犯して亡命していては、成すべき事も成せなくなってしまう。」

 少し意外な頼まれごとであったが、桂が言うのなら部外者である自分が関わっていってもいいという事なのだろうと理解する。

「はい!でも、私なんかであの『暴れ牛』さんを止められるでしょうか?」

『暴れ牛』とは、吉田稔麿の『たとえ人間絵図』の事を言っている。桂は『君はそんな事まで知っているのかい?』と笑い、そして改めて頷いて見せた。

「君になら、晋作を任せられる。」

「は、はい…」

一含みありそうな桂の言い様に小さく小首を傾げながらも、はつみは頷くのだった。



*****************



そして今日。
朝食を終えて書き物をしている最中。

「桜川様、お言付けで御座います。」

…また高杉から呼び出しがあった。いつもの様に伝言でやってきた使い走りの人を引き留めると、そのまま使い走りさんと一緒に、高杉のいる店へと向かう。

「…昼間から女郎屋って……」

呼び出され先の店を見上げてうんざりしつつ、まだ『準備中』のお店に入り、高杉のいる部屋へと案内してもらった。


「早かったな。」

「ちょうど宿にいたので…。それより高杉さん、毎日毎日昼間からお酒飲んでたら、体に悪いですよ?」

部屋に入ると高杉が馴染みにしている女が、休養時刻にも関わらず彼の相手をしていた。酒宴の際などでよく見かける女性だ。高杉のお気に入りだろうか?まあ、二人の密着具合や女の視線の鋭さを見ていれば女も高杉に惚れ込んでいる様だし、どうでもいいのだが…。それよりも彼の前にある膳には酒と魚の刺身に目が付いていた。魚はともかく、こんな昼間からそこにあるだけでも3本の酒瓶が並んでいるのだ。
『高杉晋作といえば結核―』そんな情報がまず頭にあるはつみにとっては、例え直接結核に関係のない事でも、日頃から身体を労わりどこかで結核菌にかかってしまう様な事が無い様気を付けてもらいたいものなのだ。

一方、高杉は顔をみせるなり説教してきたはつみにムッとした表情を浮かべた。

「なんだ、開口一番説教か。」

「違います。高杉さんを心配しているんですよ」

はつみは高杉が座っている部屋の奥までは入ろうとせず、開いた襖のすぐ近くに腰を下ろすと彼と向き合う様にして正座をした。距離はあれど、視線はまっすぐに高杉を捕らえている。

「君は僕が酒に飲まれる様なヤワな男だと思っとるのか?」

「それだけお酒ばかり飲んでたら健康な人誰だって具合が悪くなるって話です!脂肪肝になっちゃいますよ?」

「ほぉ…おのしは医学の知識もあるのか?」

内臓名称や病名まであげてきたはつみに、また一つ意外なところを発見したとばかりに高杉は唸る。はつみは果てしなく続きそうな雑談に息をついて空気を切り替えると、スッと背中を伸ばして改めて高杉が自分を呼んだ理由を問うた。

「それで…今日はどんなお話があったのですか?」

「ちっ。つまらんおなごじゃのう!ちっとはこやつを見習ったらどうなんだ。」

そう言って、隣にべったり張り付いて酒を注いでくれる女から酌を受けてまた飲み干す。



旧イラスト
はつみのイライラがいい加減表面化してきた所を察したのか、おふざけもこの辺でいいかとばかりにようやく女を外へ出すのだった。 「もっとこっちへ来い」  女が去っていった後で、はつみは無表情のまま、言われるがままに高杉の前へと座を進めた。とはいえ、こうしてちゃんと話の場を作ってくれるという事は彼もだいぶはつみの事を買ってくれているという事の現れであると感じた。なんともやり場の無いイライラを無理やり消化したはつみは、気を取り直して彼に向き合った。 「それじゃ…、高杉さんのお話を聞かせてください」 「ふん。で?君はいつになったら僕に抱かれるんだ?」 「は…はあ?」 「冗談だ。いちいち真に受けるヤツだな」 『あーあー』と哀れむ様な様子ではつみの眉間に刻まれた皺をつつく。むんっと顔を振るって逃れるはつみに笑った高杉は、落ち着いたところで突然、否、むしろ引き続き、暴言を吐き出した。 「して君、僕と土佐へ行かんか?」 またからかっているのかと思ったが、どうやらそうではない様だ。 「僕は長井を斬る。そして亡命しようと考えた。」 高杉達尊王派が長州藩主の東勤阻止に向けて裏工作を行っており、しかしそれを長井雅楽を筆頭とした俗論派が妨害していたのははつみも知っている。どうやら此度、その裏工作が完全に水泡と帰したらしいのだ。 長井は長州へと帰路を取り、すでに江戸を去った。萩では藩主が東勤する為の大名行列の準備が着々と行われているらしい。高杉らの様な『江戸詰め』ではなく遊学で江戸に来ていた久坂がすぐに動き、周布政之助と共に長井を追いかけたが、そのまま帰藩命令が出されるのではないかという所だとか。 そこで、高杉はついに暗殺に出る事を決めた様だ。長井が長州へ戻る前に。 「このままでは我が殿は俗論等にたぶらかされ続けたまま。松蔭先生を殺したのも元はと言えばあの長井だからな。ヤツは斬られて当然という訳だ。」 まさに桂の言うとおりとなった事にも驚きつつ、はつみは高杉との会話をすすめた。 「…桂さんは知っているんですか?」 「…桂さんじゃと?…いや、僕は君に話をしている。」 言い方が引っかかったが、どうやらはつみへ一番に話を持ちかけたらしい。桂に打ち明ければ抑止されると分かっているから、彼には相談をしなかったのかも知れない。…桂が『はつみになら高杉を止められる』と言った意味は、こういう事を見通しての事だったのだろうか? 「確かに長井さんがいなくなったら長州の方針は変えやすくなるかも知れないけど…」 「…君、桂さんに何か言われているな?」 どうやら、桂から既に先手を打たれている様子のはつみが気に入らないらしい。身を乗り出す様にしゃべっていた高杉であったが、途端に気を悪くした様に反り返って手元の酒をあおり始めた。 構わずはつみは続ける。 「そういう手段に出るのは、高杉さんの器じゃないと私は思います」 はつみにとって、今回の様な状況は何度も頭で『シミュレーション』してきた事だった。なぜなら、このまま『歴史通り』に月日がすぎれば近い将来に武市が同じ事を言い出すから。それを言わせなければ、させなければ、この先の未来が変わるのではと…そんな事を考えていたのだ。現代人としてのマインドが今も強く残っているはつみからすれば、いくら刀が手元にあり斬った斬られたの事件が身近にあるこの時代であっても殺人は殺人であり、表沙汰となれば罪を得る。その結果、武市の運命の様に一緒まとわりつく因果となりうる可能性も大きいのだ。その事もあって、はつみはこの辺りの事情に対してはいつにも増して感情的であった。 だが高杉にはそんな事情わかるはずもない。むしろ桂の影、いや、『他の誰かに言われたから自分に付き合っている』などと捉えている様で、だんだん不機嫌そうな態度へと変貌していく。 「ふん。適当な事を申すな。」 「適当じゃないです!桂さんだって同じ事を言ってた!」 「…っ。」  これでも露骨に不機嫌を晒すのを我慢してやっているというのに、純真なのか鈍感なのか分からない程に図星をえぐってくるはつみ。 「今長井さんを殺さなくても、勤王の流れは必ずやってきます。その流れは高杉さんと桂さんが中心になって作っていくものだし、その時高杉さんが長州にいなかったら、乗れる波にも乗れなくなってしまうと思う」 『何を知った風な口を…』とでも思っているのだろうか。高杉は黙ったまま意味ありげな視線を送り続けてくる。何か一言でもその耳に届いただろうかと心配しながらも期待を込めて黙っていたが、しばらく沈黙が続いた矢先、その期待も空しく高杉ははつみを鼻先で嘲る様な態度で突き放そうとした。 「あいわかった、所詮これは我ら長州人がやらねばならぬ事。松陰先生の敵討ちでもあるしな。僕は君が協力しなくてもやるつもりだ」 「え?ちょ…」 手にしていた杯を乱暴に戻した高杉が刀を乱暴に手にして立ち上がろうとするのを引き留める様に、はつみも立ち上がる。横に並んだはつみを高杉は睨み付け…いや、睨み上げた。話の根幹とは関係ないが、自分より背が高いのも気に入らない女だと思った。 「おのしは桂さんに言われていたから僕を止めたいんだろう?長州人でもないおのしに話を持ちかけた僕が間違っていた!ええい胸糞悪い!」 言っている事はまるではつみが高杉の期待を裏切ってしまったかの様な物言いだが、要は焼き餅である。他の男に先手を打たれ、その通りに動いて今ここにいるに過ぎない彼女が気に入らないのだ。自分だけはとっておきの話を用意していたというのに。 「君との話は終わりだ。君が去らないなら僕が去るまでだ」 高杉ははつみを押しのけて部屋を出ようとするが、慌てて引き戻そうと腕を掴んできたはつみを更に振り払った。高杉は言うべき事は誰が相手でも真正面から言う男であったが、割と胸中で咀嚼してからその時が来るのを待つ一面も持ち合わせている。今はアテが外れたのかどういう訳か相当頭に来ているのか、続けて侮辱的な言葉まで吹っかけていた。 「ふしだらな女だな。武士の袖に縋りつくなんぞ抱き捨てられた女のやる事だ」 「はあ???」 その情景をまざまざと想像できる訳ではなかったが、侮辱されたというよりは女性に対するその言い方そのものにカチンとくるはつみ。彼女ももともとそう気長なふんわり気質という訳でもない訳で、その我が儘っぷりに単純に人として腹が立った。 「私の行動をどう言われるのもこの際どうだっていいです!それよりも、高杉晋作ともあろう人が人殺して亡命だなんて、本気でやろうと思ってるんですか!?」 恐れもせず真正面から。よりによってその独特過ぎる言い草に高杉は少々驚きつつも、眉間に皺を寄せながら応戦した。 「これは心外な物言いだな!君には武士のなんたるかなどわからんだろう!」 「はい、確かに分かりません。でもそんな風に言うのならどうして、長井さんを斬るだなんて武士にとっての一大事を私に教えてくれたんですか?」 「むう…」 取り付く島もない返しを受けて口をへの字にする高杉。 「私に打ち明けてくれたのなら、私も思う事を打ち明けます。そんな日和見の殺人ばかりを続けていたらあらゆる方角から混乱を招くばかりで、国内も安定してないのに世界の列強とまともに渡り合っていくなんてできないと思う。あと!人を呼び出しておいていきなり我儘言い出したり不機嫌になったりして、筋道が通ってるならまだいいですけどいつもそんなんじゃ誰も話を聞いてくれなくなりますよ?」 「な・・・・・・」 誰にも言われたことの無い様なキツイ説教に、高杉は不機嫌や怒りを通り越して唖然とした。高杉を縛り付ける一番の効き薬である父親にだって、こんなに露骨な事は言われた事がない。それに今回は妙な心境故に我儘を言っている自覚はあった為に、ますますぐうの音も出なかった。 かく言うはつみもついうっかり言いすぎたとばかりに顔を歪めたが、そうやって一度冷静になった今でも、彼に説教を垂れた後悔よりも『長井を暗殺するなど、させてはならない』という使命感の方が強かった。激昂するかと思われた高杉が意外にも黙っているので、はつみも落ち着いて改めて願い出る。 「誰かを斬る事やその為に罪を得る事を高杉さんが恐れている訳ではない事はわかります。だけどそのせいで罪を受けたり、報復を受ける様な事があったら…この先もっと長州が危機に陥る事になった時に誰が長州を支えるんですか?」 その時は桂なり久坂なり自分よりも相応しい人間はいるだろうと思うし随分飛躍した話だとも思ったが、不思議な事にはつみの真剣なまなざしを見ていると適当な事を言っている風には思えなかった。普段であればこの様な事を言う輩は適当な事を言って 「何故そのような事を言う?」 「高杉さんは長州に必要な人だから…長州が立ち上がろうとする時、高杉さんの知識や存在そのものが絶対に必要になる時がくるんです。だから今、高杉さんが暗殺だなんて手段に出る事が本当にいい案だとは思えません。」 明確に思う所があるというのにやんわりとしか説明できない事に、はつみは目を伏せ口角を引き縛った。長州内での俗論派との戦いは、この後長井が失脚した後も繰り広げられる問題なのである。その時、高杉や、今後彼が結成する奇兵隊の存在がなければ、長州は立ち上がれる時に立ち上がる事もできない。藩政掌握だけではなく西洋艦隊による砲撃や幕府の長州討伐への対応など、高杉にしかできない仕事がこの先山ほどあるのだ。 ―だがそれを説明する事はできなかった。この先何が起こるかという事を自分だけが知っていても、彼らやこの時代の人達に説明してはならない気がしていた。だが説明をしなければただのきれいごと。説得をするのに根拠かなければ、それはただの壮大な夢や希望、都合のいい妄想を語っているだけに過ぎないのだ…。だから、はつみは中途半端に口にしてしまった事を却って後悔し、言葉がしりすぼみに消えていく。 そんなはつみを目の前に見て、高杉は思う。 ―なぜ君が苦しそうな顔をするのだ? と。 単純に、今行われている口論の事を思う訳ではない。だが何故そんな風に思うのかも、自分でも分からない。何かもっと壮大なものが語り掛けて来るかの様な複雑な感受性に包まれる中で一つ明確に言える事は、『彼女をどうにかしたい』という衝動だった。 反論もなく黙っていた高杉であったが、しばらくすると突然はつみの肩を掴んで引き寄せる。 「きゃ!?」 そして足払いをして軽々と押し倒し、驚きのあまり硬直するはつみを見下ろし、ジロリと睨みつけた。 「そこまで言うのなら、体を張ってでも僕を止める覚悟があるのだろう?」 「え……?」 突然有無も言わさず強引に押し広げられた襟元に目をひん剥くはつみであったが、そんな状況にあっても目の前の高杉が本気でない事を察してぐっと堪え、冷静に努めた。 心臓は口から躍り出てきそうな程にドクドクと脈打ち、顔も火が出そうなほど熱い。だが、頭のどこかで冷静に高杉という男の出方を見極めようとする自分もいた。江戸時代の性事情は現代よりも軽率で手近に行われていたという逸話が記憶に新しい事、実際この時代に来てからも同じ様な体験をしてきた事。『この時代の男性は性行為へのハードルが割と低い』『性を使った取引が行われていた』『そういうものなのだ』『それでも、すべてがそういう人と言う訳ではない』などといった割り切りと迷いを含む矛盾が、はつみの価値観の中で根付こうとしていた。 「・・・・・・・・・。」  胸元の高杉の手を握り締めただけで抵抗を示さないはつみを、高杉は上更にじっと見下ろす。 「…なぜ逃げん。」 「…高杉さんは…分別を弁えている人だと思って…」 「それは買い被りだ。逃げぬのならこのまま抱くぞ。僕を行かせたくないのであれば体を張って止めろ。桂さんに『高杉を止めろ』と、そう頼まれたのだろう?」 「…高杉さんのその志は、女の人を抱きさえすれば諦められる様なものなのですか?」 「………なんじゃと…」 優勢の立場にありながらも、その一言には聞き捨てならないとばかりに目がつり上がった。はつみのいちいち痛い所を突いて見透かしている様な発言や視線が気に入らない。言葉を重ねるにつれて高杉の表情が苛立ちの色を帯びていくのは明白で、それでもはつみは強い視線で高杉を見上げたまま抵抗を示さないし、上に覆いかぶさる高杉もはつみを睨む様に見下ろしたまま動かない。 しばらくすると、とっさの行動に出た高杉の方が折れた。 「…やめだやめだっ!つまらん。君と僕とは相性が悪い様だな!」 「……。」 はつみの上から退いた高杉は再び座につき、一人手酌でぐいっと酒をあおる。眉間に皺を寄せたまま襟元を直しつつ起き上がったはつみは袴をバンと叩いて織り込むと背筋を伸ばし、改めて正座をした。 「おい、居るか!酒を持ってこい!」 その間に杯をカラにした高杉は、部屋の外へ向かって叫ぶ。察するに、先ほどの女を呼びつけている様だ。いぶかしげな表情で自分を見つめるはつみへは視線を送らず、再び酒を注ぎながら高杉は言う。 「桂さんに伝えろ。僕は心配に当たる様な真似はしない。やめたやめた」 「…本当ですか?」 はつみの念を押す質問に高杉は答えず、ヤケクソの様にまた酒をあおる。そんな高杉に一抹の不安をぬぐいきれないはつみは、襖の向こうの廊下を女が歩いてくる気配を感じつつ、とある決意をした様な視線で高杉を睨む様に見つめた。 「…高杉さん」 「………」  よほど機嫌を損ねたのか、一切返事をする気配も見せない。あの高杉晋作を怒らせた…だが不思議な事に、こうして対峙しているとどこかわがままな青年と対峙しているだけの様な気もしてしまうのは、はつみ独特の感性、価値観によるものなのだろう。萎縮して閉口するという事はなく、ただ伝えるべき事を、彼の態度に関係なくただ伝えてゆく。 そう、彼の行く先も心配なのだ…。 「…高杉さんがこの先も無茶をしないと約束してくれるなら…その代償に本当に私をご所望なのであれば、さっきみたいな事も覚悟を決めます。それでも、私はこの時代を生きていく為に自分が女である事を武器にしている訳じゃないし、好きな人だっている。その意味を十分に理解してくれるなら。」 はつみに横顔を向けたまま次々に酒をあおる高杉は『ちっ』と舌打ちをして返答する。 「…『この時代』か。はっ、時代語るにしては考えが甘いな。目の前に欲をぶら下げられて交わしたどうでもいい様な口約束を、本気で守る者が世の中にどれだけいると言うんだ?」 「それでも!高杉さんは長州にとって大事な人なんです!だから…」 「もういい!黙れ!」 カタンッと音を立てて、手にしていた杯を不機嫌そうに盆の上に捨て置く。そしてようやく、ジロリと見上げる様にはつみへ視線をやった。 「君はよっぽど桂さんの味方をしたい様だな。…僕の話を聞くのではなく…。」 「え…?」 はつみが言葉を失った瞬間に、間合い良く先ほどの女が外から声をかけてきた。高杉は女に入室を促し、現れた女はまっすぐに高杉の傍へ向かうと、艶めかしい動きで腰を下ろして酒瓶を手にする。 …はつみの出る幕でない部屋の雰囲気に、退室を余儀なくされた。 「…わかりました。高杉さんを信じています。言われたとおりの事を『桂さんにも』伝えておきますから。」 「……」 高杉も武士である。ここまで言うのだから約束を違える事は無いだろう。高杉に礼をし立ち上がると、背を向けて部屋を去ろうとした。 「はつみ君」 去り際に、まるで吐き捨てる様な声色で声がかかる。 「はい…」 緊張した様子で振り返ったはつみに、高杉は女と酒を手元に座ったまま視線を合わせた。 「君は有能だ。知識だけでなく並の男にもない度量も持っているし弁も立つ。そんな君が女である事を武器にしているなんて事は、僕はこれっぽっちも考えていない。…そこのところを勘違いするな。」 …去り際に罵声を浴びるのかと思ったら、意外な言葉だった。 プライドが高くお坊ちゃま気質の彼に対し、自分はかなり辛辣な言葉を発したから…高杉の怒りは底知れないと思っていた。高杉の誘惑を強引に跳ね返しただけでなく、政治的な意味でも彼の意見、決意をほとんど強引に捻じ曲げて説き伏せたのである。その矢先、彼からそんな言葉が飛び出てくるとは・・・。 なんだか自分は、この時代にきて直接高杉と会うまでは彼の人格について「ただ破天荒で過激な人」だと、酷く誤解していたと気付かされる。今になってようやく高杉ともっと話したい気分になったが、どうやら高杉の方はそんな気分ではないらしい。当然だが。 悟ったはつみが深々と礼を取って静かに部屋を出ると、彼女が去っていった事を察してから高杉に寄り添った女が更に近寄って問う。 「高杉様…あの勇ましいお嬢さんに惚れてますのん?」 女の質問に高杉は鼻で笑った。 「はっ。あれは真にやりにくい女じゃぞ。誰が惚れるか。」 そこまで平然とした様子で答えた高杉であったが、手にしていた杯を盆に置くとそれを払いのけて突然女を押し倒した。有無も言わさない様子でその唇に吸い付き、着物の裾を捲し上げる…。 その様子は、何か雑念でも振り払うかの様に、強引で一心不乱だった。 ********** 店を出たはつみは、晴れ渡った明るい空の下で顔を曇らせていた。 高杉を怒らせてしまった事を心配しているのは勿論だが、に『君とは相性が悪い』といわれた事を特に酷く気にしている。『桂の味方なんだな』という言葉もひっかかった。 彼にとって、自分が傍にいては苛立つ素でしかないのだろうか? 『女』を武器にしたくないと言いながら、今回の様に相手がそれを望むなら自分は体など投げ出す覚悟があるというのは矛盾してはいないだろうか? そもそもそんな、性を取引に使う覚悟など本当にあるのだろうか。 …いつでも武市への想いがちらつくこの心を押し殺してでも? 自分でも自分の気持ちの整理が付かないままため息をつき、はつみ店を去っていく。 そして桂に報告する為、長州藩邸へと向かうのだった・・・。

※仮SS