3月。聞多に引きずられ渋々京に着くも、結局10年暇を申し出て狂人の様に酒色に溺れるていた高杉。そんな高杉の様子を池内蔵太から伝え聞いたはつみが、高杉の根城(妙満寺境内の一隅)へ顔を出した事で、二人は昨年秋の江戸で喧嘩別れをして以来の再会となった。
釈然としない日々で当然機嫌も悪かったが、はつみとの件に関しては以前江戸で喧嘩別れした事などもうどうでもよかった。ただそれとは別に、やはりはつみを見ると真っ先に『他の男どもに抱かれたのだろう』という思考が先行してしまう。
自分を気にしてやってきてくれた事を嬉しくも思うのに、どうしても素直になれなかった。どうせ他の男にもそんな風に振舞っているのだろうし、自分が触れたその唇も誰かに吸われたのだろうなどという気持ちもあって、口元からは適当な嫌味しか出てこない。
「どうやら僕は、少なくとも向こう10年間、長州には必要のない男だと判断された様だな。されこれから何をして過ごそうか。どうだ、おのしも僕の元へ来るか?」
「高杉さん…私も、もう、心が折れそうです…。」
どうせまた説教でもするのかと思いきや、はつみは正座をする腿の上で両手を強く握り、俯いて『弱音』を吐き始めた。思っても無かった展開にわざと堕落し狂人めいた発言をしていた高杉も真顔で視線を向けてしまう。
「沢山勉強して…沢山考えて…思い切ってやる事やってみても、結局何も変わらない…変わらないよ…高杉さん………」
はつみの瞳には涙が溜まり、瞬きの拍子で簡単にぽろぽろと零れていく…かと思いきや、涙はこぼさぬとばかりに堪えて上を向き、涙が引いたと思われる頃合いになると眉間にしわを寄せたまま高杉を真正面から見つめた。
「…でも、私は諦めませんから。…今は私も高杉さんも、確かに求められてはいないのかも知れない…だけど、高杉さんは…」
はつみが『どうしようもなかった、何も変わらなかった』と嘆く言葉のいずれかには、岡田以蔵から伝え聞いた『乾との取引』が『失敗』に終わった事も含まれているのだろう。京に来て多少探ってみた土佐の内情はかん口令でも敷かれているかの様に霞かかって把握しづらくなっていたが、大筋では、どうやら土佐勤王派の雲行きが怪しいという情報を掴んでいる。…山内容堂公と勤王派、つまり武市ら一味が対立しつつあるという事だ。はつみが武市の為に動いているのだという所から推測をすれば、やはりはつみの「やるべき事」も上手くいってはいないという事になる。
…身柄に事情があり、その上どう変装した所で所詮女の身であっては出来る事も限られるだろう。『取引』とやらでではつみを買った乾という男が果たしてきちんと『仕事』を成したのかも気になる所ではあるが、文字通り『身を捧げ』ても事態は思う様に好転せず、周囲の理解を得られず、命を狙われ、近しい者から犯され…これだけの事があってようやく『心が折れそう』と弱音を吐く姿を見せるのであれば、上出来だ、よく頑張ったとも思う。
―もっとも、そんな風に思っていても先走る感情から素直になり切れないので、まるで初心で多感な少年の様に拗ねた反応しか見せられずにいるのだが。それすらももはやはつみは理解しているかの様に、高杉に語り掛けようとするのをやめなかった。
「何度だって言います。高杉さんは近い将来、必ず長州にいなくてはならない人になります。長州が真に立ち上がろうとする時、高杉さんがいなかったら立ち行かない。高杉さんだから、長州は立ち上がれる。長州を強くできる。…そんな時が必ず来ます…だって、日本は、もうどうやったって世界からは逃れられないから。日本の基準は世界の基準になっていくんです。そんな時こそ、世界を知る高杉さんの采配が何よりも光るんです。」
そして何を思ったか、はつみは一歩踏み出して高杉に近付くと、猫背で俯き不機嫌そうにはつみの話を聞いている高杉の背中にそっと触れた。背中越しでも分かる暖かくてか細い手の感触に、そして誰かに認めてほしかった、言って欲しかった言葉を投げかけてくれる耳心地の良い声に…柄にもなく心臓が…心が震える。
「高杉さん、おばあちゃんみたいな事言いますけど、ちゃんと聞いて下さい。ごはんはきちんと食べて、ちゃんと寝ていますか?お酒やおつまみだけじゃこれからの激動の時代を乗り切れませんから…病気になっちゃいますから…どうか身体だけは気を付けて、大事にして下さいね」
「…余計な世話だ。」
出て来た言葉はこんなぶっきらぼうな言葉だけだった。
「…一体誰に頼まれて来た?そんな根拠のない都合のいい言葉…誰が信じるというのだ。僕を見ろ。10年もの暇を『許された』んだぞ。向こう10年必要ないのだと…。民草にすぎん君に、何が分かる?」
我ながら童の如く矮小だと思いながらも、はつみの顔を見る事もできない程…体中が熱くなっている。この熱さを、真の狂人の如く傍若無人にぶつけられたら…あの岡田以蔵という土佐人の様に彼女を押し倒す事ができたら、どれだけ…気が晴れる事だろう。
「高杉さん…私は高杉さんを信じてる。高杉さんも、自分を…自分が見て来た世界を、信じて…。」
「……」
だが、結局狂人にも傍若無人にも成り切れない高杉は、はつみが自分の横顔に向かって少し寂しそうに微笑んでからそっと席を立ち、部屋を出て行こうとする事すら引き止められずにいる。
本当はずっと会いたかった。
もっと語らいたかった。
長州に…傍にいてくれと言いたかった。
―…トン…。
控え目に障子を閉める音が聞こえ、足音が去っていく。
残された高杉は部屋の真ん中に一人、ただ好いた女を失った喪失感に暮れるが如く、微動だにせず沈黙していた。頃合いを見た伊藤が外から声をかけ、返事がないのを『入室良』と受け取ると、そっと障子を開けて中を覗き込んでくる。
「…呼び戻しましょうか?」
たった一言だったが、はつみを前にするといつも揺れに揺れて駄々をこねる自分の内心を全て見透かされている一言でもあった。ここでも素直になれない高杉はようやく気が付いた様に顔を上げ、飲みかけの酒に手を伸ばしながらぶっきらぼうにその申し出を断る。
「余計な事をするな。というか何故そこにおる。おのしは最近、桂さんの女絡みでも活躍したそうだな。常連客を刀で脅したと聞いたが…僕にまで世話を焼きに来たか?」
「ええ。高杉さんの為でしたら、脅しでも殺しでもやりますよ。彼女を抱きたいなら、そのようにもいたしましょう。」
思わぬ返答を返す伊藤にぎょっとすると同時に、図星でもあった事を自覚した高杉は、あからさまに強がった様子でつっけんどんな返答をしてしまう。
「馬鹿を申せ。あれは僕が抱く様な女じゃない!あんな得体の知れん女など…」
そうやって、表向きはつみとはしょうもない喧嘩を繰り返し「相性が悪い」等と言いながらも、仲間内で彼女が責められる様な場面になれば必ず庇いたてる様な発言をしていた高杉を、伊藤はここ2年間つぶさに見続けている。先見の明に長けた知識も、それを今の時代にどう活かすべきかも、皆が慄く様な事もしれっと言ってのける度量も…二人は似ている。高杉もはつみも、特別な存在なのだと思わずにはいられなかった。時代の寵児であり、この先の未来で必ず報われる時が来るはずだと信じている。
「僕はお似合いだと思うけどなぁ…」
故に伊藤は、はつみに対し動きそうになっていた心を封じ込め、高杉とはつみが『ねんごろ』になれば最強なのになと、楽しみな節すらあった。一方で、桂に新しい恋人『幾松』を据える件で『刀』を持ち出し強引に事を勧めたのにも、伊藤なりの考えがあっての事だった。
伊藤はこの春、自分を含めた5人の同志達と共に異国遊学に出る手筈となっていた。当然正式な手続きをしての事ではなく、密航を駆使して英国へと向かう手筈となっている。長州藩としては出奔扱いとなり、これは万が一、5人について幕府や英国側で何かがあったとしても『藩としては出奔者の事は知らぬ存ぜぬ』で押し通す事を見込んでの事である。
つまり、何かがあればこれで人生お終いの一か八かの旅に繰り出すのであった。優しさと生真面目が過ぎ、繊細な桂には常に寄り添える女が必要であったが、桂が想いを寄せていた桜川はつみは一つ処に収まらず時世の最先端を行く自覚なき過激論者でもあり、万が一はつみが斬られる様な事があれば…桂には耐えられないだろうと思った。ましてやはつみの正体や事情、思想などをよく知る者は伊藤が知る限りでもかなり少なく、自分以上にその時の桂の心を慮った行動がとれる者など想像がつかなかった。桂の家族が亡くなった際、周囲が心配するほど閉じこもって出て来なくなったという昔話を振り返れば、桂にとってはつみという女は決して相応しい女ではない様に思ったのだ。
一方で最新鋭の知識を持ちながらも自我が強く喜怒哀楽で突発的な行動が目立つ高杉にこそ、同じような思想を持ち理想を語り合う事ができる上に、高杉の様な暴れ牛が相手でも怯まず正論を述べ、その手綱を握れる様な女はこの桜川はつみ以外には考えられなかった。そして万が一はつみが斬られる事があっても、高杉はそれを理由に塞ぎ込むという性根ではないだろうと考えていた。彼であれば、はつみを失った喪失感を逆に馬力として更なる推進力を得るのではと…。彼にそうした気質がある事は、既に吉田松陰が高杉と久坂らを並べ教育する事で実践された事でもあった。
帰還が叶わないかも知れない船出に出る前に、大切な人達を少しでお支え守る手筈を整えておきたかった。
…大局の為に女性を思う様に利用しようとするという意味では、真の傍若無人は自分かもしれないなぁなどと思いつつ、伊藤は高杉の側まで歩み寄り、座り込む。
「本当にいいんですか?今なら長州に来てくれるかもしれませんよ」
「…しつこいぞ。」
いつもにこにこと人懐こい伊藤俊輔。
吉田松陰からは人柄を愛され政治の才ありと言われていた男だが、何食わぬその表情で一体どこまで心の内を読み取っているのかと…高杉は面食らうと同時に『いい加減にせい』と言いながら、親しみを込めて伊藤に肘を押し付けた。
伊藤にしてみれば『高杉さんともあろう方が、女一人を相手に何をためらっておるのか』と不思議に思うところもあったが、死出の旅を前に、高杉の込み上げる様な笑い顔を久々に見れただけでも良しと思う事にするのだった。
※仮SS