文久三年、8月末。
教法寺で起こった事件の責任を取る為切腹を願い出ていた高杉であったが、図らずも文字通り『生き永らえ』る結末を迎える事と相成った。
部屋を出た高杉は怒りに燃えていた。そして教法寺事件の顛末を聞き駆け付けた周布らと協力し、奇兵隊を山口政事堂の喉元、小郡へと転陣させる策を即座に展開する。高杉がその士気を回復させ全軍の中核とするべく再編成したにもかかわらず奇兵隊と対立する軍組織と成り果ててしまった大身組先報隊をはじめ、時勢を見て勢い付き始めた俗論党からは奇兵隊を解散させるべきとの声も上がり始めている。だがここで一気に踏み込み、今こそ山口を警備する為だと言い切って、大胆な転陣を決断したのである。戦など経験した事のない武士が大半である凪いだ時代において、高杉が腰を上げた時の物事の運びの速さ、その機転のよさときたら、まさに時を経て降臨した戦国武将の様であった。
京師における818政変の報が長州に入ったのは、教法寺事件が結末を迎えるほんの数日前、8月23日の事だった。尊王攘夷派の集まりである天誅組による帝なき大和挙兵は、その帝が座する禁裏を守護すべく立ち上がった公武合体派の一橋、会津、薩摩ら『官軍』によって痛恨の返り討ちを受ける事となってしまった。
これによって長州は『国賊』となり、天誅組を率いた元公卿の若き猛将・中山忠光は『逆賊』とする詔が発せられる。ついで官位を奪われた三条実美ら七人の公卿衆は長州兵2000名らと共に都落ちとなり、長州藩は落ち延びて来た彼らを受け入れる運びとなった。これは幕府から見て極端に言えば『国賊』が『政犯者』を匿っているという訳で、今後の七卿たちの出方や事の詰め様によっては武力を以て更に長州を叩くための最も短絡的な理由となり得る事は、もはや明白だ。
その上、藩内においては度重なる身分差故の軋轢から奇兵隊と競おうとしたのか、士族たる先鋒隊ともあろう輩が後先考えずに朝陽丸の幕吏らを殺しまわった為、幕府に対する罪が明確に刻まれてしまった。まさに頭を抱える事態である。
これら時勢の煽りを受けに受けた長州山口藩政内では、佐幕に傾倒し常に恭順の姿勢を以て事を成さんとする『俗論党』が台頭し、周布ら勤王派は締め出されつつある状態となっていた。
その矢先、先の教法寺事件の責任として切腹を命じられたのは、ただ先鋒隊からのやっかみを受けただけで何の罪もない宮城彦助だった。両隊を制御できなかった、その責任があるとすれば創立者であり総督たる高杉が切腹を命じられるのが筋だと高杉本人も深く受け止めていた。にも拘らず一体何故、宮城に切腹の命が下されたのか。
高杉が考えうる理由としては、やはり俗論党による思惑を疑う他なかった。宮城は此度『逆賊』との勅令を発せられた元公卿中山忠光公がこの春に京を出奔をする際、その御身を守ってこの長州に入り、共に攘夷戦を戦い抜いた生粋の勤王派でもある。この先幕府の目から見られた時、今や『逆賊』とされた中山忠光の出奔や攘夷参戦に寄り添った400石の大身たる宮城への厳しい処罰こそが『幕府への見せしめとしてもちょうどいい』と考えられた節があったのではなかろうか。
さもなければ、どう考えても宮城の切腹は合理性に欠けており納得ができない。
奇兵隊と先鋒隊の不始末であれば、設立者であり総督であるこの自分が請け負うべきだったのではと今でも思う。
どうやって幕府に恭順の意を示し、赦しを乞うかという事しか考えないのが俗論党の輩だ。武士の誉れでもある切腹をかような事で申し付ける今の藩政を、そしてそこに捕らわれている藩主や世子を、到底そのままにしていくわけにはいかない。
―大義の為。
そしてただ己の信念のため、真っ先に奇兵隊へ編入した粋な一匹狼の勤王家であった宮城彦助への贐も込めて。
高杉は意気揚々の奇兵隊と共に、今、山口政事堂をその視線に捉えていた。
9月1日。
奇兵隊に協力してくれていた周布正之助ら勤王派重鎮が、長州藩政に俗論党が台頭した煽りを受けて失脚した。奇兵隊総督たる高杉には藩政に通じる後ろ盾が無くなった訳であり、このまま山口政事堂へ攻め込むとあれば、それこそ818政変と同じ状況となる。
禁裏から締め出された長州藩は中へ押し入ろうとしただけで『帝とその御所に弓弾く逆賊』とされた。高杉以下奇兵隊も今まさに、藩主や世子が座する藩の中核へと押し入ろうとしているのだ。
だが、やらねばならない。長州を大義と正義のもとに開放しなければならない。
後ろ盾を失っても怯むことなく前へと進む総督高杉の覇気に、奇兵隊の仲間や兵たちの士気は最高潮の状態にあった。それでも策の成就の為、今は全力を以て規律の遵守に務めながら黙々と転陣を推し進める。
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9月5日。
ついに、山口政事堂を望む小郡の一帯にて、奇兵隊の布陣が完了した。外国船一隻二隻の砲撃で大敗を喫し、晒した醜態の逆恨みで人を殺してしまう程の恥をかいた戦を以てしても、藩の本軍はふぬけ状態のままの様だ。高杉達奇兵隊の転陣は実に迅速かつ静かに行われたが、それでも、遠くで隼の鳴く声が聞こえるほどに静かな夜であった。
十五夜に近い大きく燃える様な月が、この闇夜に孤軍奮闘する高杉を加護するかの如く煌々と光をもたらしている。格下の士族から農民、商人に至るまでが持てる武器を手にし、毅然と隊列を組んで、馬上にて神掛かった覇気を放つ総督高杉を見上げていた。
「5月10日の攘夷戦以来、長州は幕府に見放され、今となっては国賊の謗りを受け、過去に類を見ない程の混迷を極めている」
高杉の覇気に満ちた声は静かに抑えられながら発せられたが、月夜に沈む空気をピリピリと振動させ、奇兵隊士たちの耳へ、心へと吸い込まれていく。
「だが君たちよ、恐れるな。帝は会津や薩摩ら俗論党に囚われ、朝廷も今となっては奴らの巣窟となり果てただけに過ぎない。そして今、我々の主たる敬親公がおわす山口政事堂も、俗論党の傀儡どもに脅かされている。敬親公もまた、囚われの身となられているに過ぎない。決して、我らの志が否定された訳ではないぞ。」
高杉の淡々とした語りが月夜の下で響く中、奇兵隊士たちは口を閉ざし、ただ一心にその言葉を聞き入っていた。緊張と高揚が入り混じり、体の芯に静かに火が灯されていくのを感じながらも押し黙って受け止める。
「ならば!我らは今こそ一致団結し、この俗物らから上様と若殿様をお救いする!そして更に!正義の名のもとに開放せしめたこの山口から、上様と共に帝をお救い奉る!!!」
高杉の言葉は次第に速さと熱を帯び、厳しさが増していく。声に込められた気迫が隊士たちの心を揺さぶり、彼らの目にも鋭い光が宿っていくのが手に取る様に感じられた。そんな愛しき奇兵隊士たちの気迫を受け止め不敵にニヤリと微笑んだ高杉は、その笑みを以て彼らの感情が爆発するのを見計らったかの様に、背筋にビリビリと響くほどの大声で叫んだ。
「行くぞ!奇兵隊!!!電光石火の如く、駆け抜けろ!!!!!」
「うおおおおおおおおーーーーーーっ!!!!!!」
高杉の号令が放たれた瞬間、奇兵隊士たちの雄叫びが天地に轟き渡り、月夜の空気が振動するかのように激しく響き渡った。その声は、隊士たちの感情が押さえきれず爆発する音そのものであり、瞬く間に熱を帯びた波となって広がっていく。いななく馬の手綱を捌き、目下に見える山口政事堂へと勢いよく扇を差し向け、号令をかけた。
「出陣!!!!!!!!!!!!!!」
再び高杉の一声がかかると同時に、全員が足を踏み出し、山口の闇夜を切り裂く雷光の様に駆け出していった。
奇兵隊の勢いはすさまじく、全速力を以て山口政事堂に到達すると門番や警備などあっという間に退け、夜も明けぬ内に制圧してしまう程の圧倒的な解放劇であった。果報を寝ずに待ちわびていた周布の元へ報が舞い込むなり、大声をあげて拳を振り上げ、その場に本人がいないにも関わらず『ようやった!晋作!!!!!!』と叫ぶ周布。そしてすぐさま、高杉ら奇兵隊が待つ山口政事堂へと駆け付けるのであった。
晴れやかな日が昇って9月10日。
復帰した周布ら勤王派の面々を藩主敬親公も受け入れ、かくして長州の藩政は再び正義派によって掌握される事となった。周布らを主体として新しく人事が行われ、帝に尽くしたはずが図らずも国賊となり防長の存続さえも危ぶまれる今をいかに乗り切るかを多くの才ある者達が論議し合う様になった。中でも、松下村塾において双璧とされた高杉と久坂玄瑞は、今回政務座役として藩政に携わる事となる。
その士気の高さに反比例し、藩主が座する山口議事堂へと『弓弾いた』高杉が、長州が国賊となった様に処分されるのではないかと気が気でなかった奇兵隊隊士達は、高杉が処罰を受けるどころか藩政に取り立てられた報を受け、まるで自分達の事の様に声を上げて歓びあうのだった。
だが9月12日。
藩政は高杉に対し、奇兵隊総督解任の人事を言い渡した。奇兵隊は他者の手に渡ることになったが、高杉の胸中に去来したのは、総督の座を退く無念よりも自らが創立し育て上げた奇兵隊への誇りと自負、彼らと共に大義を成し遂げた達成感であった。そして朝敵にまで陥れられ混沌とするこの時だからこそ、半年前には「10年先だ」とまで言われた自身の『防長割拠論』が藩政の中心で議論される事に、深く確かな覚悟とこれまでに培ってきた全ての知識と情熱を以て挑もうとしていた。
「君が言うておったのは、こういう事か?…はつみ。」
今はどこにいるかも分からない彼女の面影を、山口から見上げる遠い空の向こうへと思い馳せる。
―だが、長州と高杉の運命は、更なる混迷を迎えようとしていた。
※仮SS