長井の件から一転して、なんと高杉の幕府英国使節団入りが決まる。桂や周布による周旋があっての事だが、彼らの予想通り、高杉は誰それを斬ったり亡命するなどいった暴言を履かなくなり、寧ろ英語を学ぼうという発想にまで至るようになっていた。その宛てはもちろん桜川はつみであった。
先日横濱へ行ったらしいという情報も得ていたし、使節団は横浜から出港する予定である事も受け、さっそく話を聞きに行くぞと一方的に伊藤へ告げると藩邸を飛び出してしまう高杉。
先日呑みの席で久坂と言い合いになった末に『桜川の事は僕に預からせてくれ』とまで言い切った高杉だが、そもそもそれ以前、伊藤の記憶が正しければ高杉とはつみが最後に会った時の状況は『喧嘩別れ』である。伊藤の見立てでは『焼き餅』を焼いた高杉が一方的にはつみへ八つ当たりし、押し倒し、はつみに凄みを利かされて怯んだ結果『出ていけ!』と怒鳴った散々足る現場であった。その時の報告はもちろん(高杉の『焼き餅』の原因である)桂にも報告しており、どういうつもりなんだろうと顔を見合わせる。とはいえ桂も以前は西洋語学に取り組んだ経験があり興味があると言って高杉に寄り添う姿勢を見せた。結局、やれやれと肩をすくめる伊藤を交えた三人ではつみの旅籠へと向かうのだった。
最初こそぶっきらぼうに『おう』とあいさつをする高杉に少々面食らった様子のはつみであったが、桂や伊藤が苦笑しているのを見て肩の力を抜き、何事もなかったかの様に『大人の対応で』三人を迎え入れる。そして事情を聞いたはつみは高杉の海外視察を大いに祝い、「その視察によって絶対に世界が開けるだろう。それは横濱や長崎へ訪れただけでは到底得られない圧倒的な経験になると思う」と、人一倍興奮していた。単語だけでもいくつか理解できればひとまず即効性があるだろうと思い、アルファベットや数字、右や左等と言った場所を示す単語をいくつか教え、西洋の時刻である24時間制やFive Ws、具体的に厠や病院など緊急性の高い場所を尋ねる際の言葉などについても、現場に立った時に役立つだろうと図説を交えて指南する。
彼らはこういった西洋学を目の当たりにして嫌悪感を出す事はなく、非常に興味深そうに受け入れていた。故・吉田松陰などの影響もあり長州では西洋について学ぼうとする者も多かったが、それらはそもそも国防という使命や概念からくる発想である事が殆どだ。故に思想の違いや目的の違いなどによっては同じ藩内であっても大きく摩擦がみられたが、はつみが教えてくれた事は自然と、そういった概念からは少し距離を感じるものだった。教示する言葉の一つ一つが身近な生活に密接しすぎていて議論をするまでもないというべきか…逆にそれが、国防とはまた別の切り口として、その国の生活文化や国民性といった本質を知るという事に繋がっていくという事を、漠然と感じるのだ。
満足してくれた様子の高杉には「餞別といえるか分からないんですけど…」と言って手製の単語帳をプレゼントする。安政の頃から何度も追記・添削され続けている手製の和英単語メモだ。勿論単語の掲載数は辞書などに比べれば天地の如く差があるが、それでも自身が覚えればあらゆる場面で通訳のヒントになる機会もあるだろう。聞いていて分からない単語があった時にこの単語帳を相手に見せれば、『多言語の辞書』というものに慣れているであろう西洋人にはその意図が伝わるかも知れない。
つまりそれもまた、通訳のヒントになるかも知れないのだ。
日本には兎に角こういった西洋に関する資料は少ないし、とりわけ対象が蘭語ではなく英語となると、その偏りは非常に顕著と言える。「貴重なものではないのか」と聞くが、はつみは単語を忘れない為にもこまめに時間を作って複製する様にしているのだと言い、是非高杉に使ってもらえたら嬉しいと添えた。
伊藤がまた何か言いたげに苦笑して桂へと目配せをするが、こんな時普段なら直ぐに視線を合わせてくれる桂が珍しくはつみと高杉にじっと見入っている様子だった。口元には上品な笑みが湛えられ一見いつもの桂のようにも見えたが…違和感を感じたところで、桂の視線が『いつものように』伊藤のそれと重なる。そして軽く頷き、伊藤も内心慌てて「ですよね」と言わんばかりに同調する様な表情で頷き返して見せるのだった。
※仮SS