「……!」
高杉が一献煽っているところに入室してきた桜川はつみ。その顔を見るなり、思わず手にした杯を落としてしまう程に唖然とした顔をみせていた。
『鬼椿権蔵は知り合いの変名でした。高杉さんに会いたがってるんですが、通してもいいですか?いいですよね?』と押し掛ける伊藤に『好きにしろ』と言った矢先の事であり、まさか『鬼椿権蔵』がはつみの事だとは一寸たりとも思いもしない事だった。
「高杉さん!お久しぶりです!」
耳に心地よい声を聴いてもまだ夢かと思う。自分が長州にいる限り、長州が朝敵とされ続ける限り、二度と会う事はないのではないかとすら考えていた。この一年半の間ずっとそんな事を考えてしまう程に、いつも心のどこかに彼女がいた。彼女の言葉が、自分を支えていた。
はつみの背後にいた背の高い男達の影も勿論視界には入っていたが、一見冷静を装っているかの様に見える高杉の視界には、嬉しそうに自分の側まで駆け寄ってきてふわりと着座し、以前よりは少し大人びた様にも見えるが相変わらずのきれいな笑顔を見せながら語り掛けてくるはつみの姿しか映っていない。
一方のはつみは、高杉がこういった浮ついた対応をあまり好まない事を承知しながらも、再会を喜ばずにはいられないとばかりに話しかけてゆく。
「いろんなことが一気に押し寄せてる中で、こんなに喜んでちゃ不謹慎かとも思うんですけど…でも、高杉さんに会えて嬉しいです!高杉さんの活躍とか奇兵隊の事とか、あっちに居ても沢山耳に入ってきてました。心配もたくさんしたけど、それ以上に高杉さんが活躍してるって聞くのが、本当に、本当に……」
思想が時世にそぐわず高杉が悩んでいた、いや、互いにそれを共有していた時の事が、今目の前にいる高杉を思えばこそ思わず涙が浮かび、言葉が詰まってしまうはつみ。形の良い綺麗なまつ毛が瞬きの度に涙に濡れ、滲んだその涙が目元から溢れそうになるのを間近に見る高杉は、ようやく思考力を取り戻し始める。落とした杯を何事も無かったかの様にしれっと膳へ戻すと、彼女の明るい小麦色の髪を、その無骨な手でくしゃっと撫でつけてやった。
「何を感極まっておるか。そんなに僕に会いたかったか」
わざと前髪をくしゃくしゃに撫でまわすが、少しはにかみながら甘んじてそれを受け入れるはつみに言いようのない高揚感が高まっていく。だがよく見れば絹糸の様に艶めいていた髪は誇りにまみれ、身を包む衣装もだいぶほころびが見えていた。不意に気持ちが落ち着き、冷静になって龍馬らにも視線をやれば、彼らもまた、だいぶくたびれた格好をしている。
…彼らがどこからここへ来てくれたのかは知らなかったし今何をしているのかも分からないが、ただ一重に、長州がこの様な状況にあっては旅をしてくるのもさぞかし難儀な事であっただろうと、安易に想像がついた。
「高杉さん、お久しぶりですのう。大所帯で押し寄せてもうてすまんちや。」
「坂本君、随分久しいな。」
目が合った龍馬が話しかけてくると、はつみの髪から手を放して応じる高杉。彼と会うのは実に文久二年の江戸以来、2年ぶりとなる。噂によれば幕臣勝海舟に『寝返った』とも聞いた事があったが、その実、寝返ったというよりは米国視察の経験もある勝のもとで世界を学ぶ方へと傾倒したのではと考えた事もあった。今となってはつみと共にいる所を見ると、恐らくその見解であっていたのではないかとも察する。そして、周囲にいる者達はその同志達なのだろう。
―だが、高杉はここであえて余白を衒う。
「聞きたい事も様々にあるが、まあ、一先ずは旅の疲れを落としてくれ。」
はつみと予期せぬ再会を果たし、また、一仕事成し遂げた後だった事もあって高杉の胸中では高ぶりが留まらない。だからこその中座でもあった。自分とした事が少々浮足立ちそうになっている様にも感じたが、それ以上に、彼らと話をする前に把握しておくべき事があるとも思っていた。
「ここの主である白石殿には君たちを迎える様伝えておく。明日、また顔を出すさ。」
そう言って去る直前、高杉は一瞬ではあったが伊藤をじっと見つめ、顎先で外を示す様に合図をして出て行った。察した伊藤は皆に風呂や食事など旅の汚れを落とすもてなしをこなした後で、高杉を追いかけるのだった。
「どういうことだ?」
白石に対し自ら、しばらくの間客人らを迎える様指示をしていた高杉に追いついた伊藤は、彼と対面するなり真っ先に質問を投げつけられた。先ほどは落ち着いた様子でスムーズな対応を見せた高杉であったが、ここぞとばかりに何故彼女を呼んだのかと食い気味で問う。
あいつは今どの立場で、何をしているのか。ここにいては過激攘夷派から常に命を狙われる状態である事は自分も伊藤も身を以て分かっているはずだが、それを承知で呼んだのか、などなど。
だが伊藤は怯むことなく、むしろ正直微笑ましい心持で対峙していた。はつみと出会って以来、高杉の挙動でこういう事がよくあるのも、伊藤にとっては既に慣れたものだった。何らかの原因で高杉が機嫌を損ね、はつみと喧嘩別れの様になったとしても、別の場所で誰かがはつみの事を俗物だの何だのと言う者がいれば必ず『それはどうか』と口を挟み、彼女や彼女の思想を庇っていたのを何度も目撃している。伊藤の記憶にある中では、出会い頭の頃、はつみを疑う久坂に対しても『あいつの事は僕が預かる。』と言い切り、彼らがはつみに何かしらの対応を取る事を阻止せんと働きかけた時は心底驚いたものだった。
彼女の前では素直になれないのだろうが、彼女を貶される事はまるで自分の事の様に許せなかったのだろう。
…先ほどはつみが感極まって涙したのも、恐らくそういった高杉の言動が何らかの形ではつみに伝わっていたからこそ、互いに思い合うものがあったのではないかとも思う。自分は二人の関係や交わした言葉について全て知る訳ではなかったが、惚れた好いたの男と女いうだけでなく、新しく開ける時代に愛された二人だからこそ、とでも言いたくなる様な、特別な絆がある様にも感じていたのだ。
―とはいえ、そんな生暖かい感情で見つめられている事など知りもしない高杉は、伊藤の返答次第では容赦なくしかり飛ばすぐらいの勢いで苛々を隠そうともせずに返答を待っている。
伊藤は事情を知りたがる高杉に対し、まず英国から帰国して直後に立ち寄った横濱から英国の船で長州へと戻る際、同船していた英国通訳アーネスト・サトウからはつみと文通する仲であると聞いていた事を話す。誰が聞いても驚く『異国人と文通をしていた』という事実に、高杉も漏れなく、出鼻をくじかれでもしたかの様に唖然として言葉を失った。高杉とアーネスト・サトウとは講和交渉会議においてではあるが既に顔見知りとなっており、(といっても向こうは今もまだ高杉の事を『宍戸行馬』という偽りの身分で覚えているのだが)高杉は『あいつ……』とでも言わんばかりに眉間にシワを寄せ、視線を窓の外の夜闇へと投げかけている。そしてサトウがはつみを知ったきっかけというのが、彼女が幕臣勝海舟の名のもとに開かれた海軍操練所にて外国人ジャーナリストのインタビューを受けた事であったから…という所にまで話は及んだ。
ここまで聞けば、はつみや、はつみと共にやってきた者達が今何をやっているかというのは想像に容易い。
彼らは今、幕府の管轄下にある神戸の海軍操練所と言う所に所属している、という事だ。
眉間に深いしわを刻み若干不機嫌そうな表情で言葉を失っている高杉に、伊藤は彼女を呼んだ最もたる理由を述べる。
「四カ国艦隊が攻め込んでくるひと月前、僕と井上は英国ラザフォード・オールコック公使から猶予を与えられました。そして長州に戻った僕らは、開国派だのとの謗りを受けるは無論の事、捉えられ命を絶たれる事も覚悟で、四か国艦隊に応戦する事はやめた方がいいと説きました。ですが、焦土にされるやも知れないという中で藩の対応はあまりにも不甲斐なく、他人行儀で、無知である事を省みようともしなかった。」
「…その時僕は、まだ座敷牢におったか。」
「はい。頼みの綱は高杉さんだけでしたが、まさかその高杉さんをここまで持て余すどころか投獄する程に追い詰めていただなんて…僕は心底、絶望しましたよ。最悪、戦後処理において講和交渉を行うはずですから、それまでまだ僕らが使えると藩が思ってくれていたなら、西洋艦隊に大穴を空けられながらも講和交渉に望み、そこで腹を切ってでも長州の存続を願い出る覚悟でいました。ただそれでも、足りない。僕如きの腹を召した所で納得できるなら、世界に条約なんてものはまかり通らないからです。長州を守る為には小さな一石でも、ひとつでも『知性』を多く用意していたかった。だから、桜川はつみを呼びました。」
大義を見失う事なく貫いた伊藤のその気概は理解できるし、共感もできる。むしろ高杉と伊藤が見る『世界』が共通しているからこそ、当時の藩の対応に絶望したという彼の回想には心底同情した。そんな中で何か力となるものはないかと探した時、数年前から抜きんでた価値観と先見性を放っていた桜川はつみに目を付けたのも理解できる。あれは身分もない上に『女』だが、持ちうる才は時代を超越したかの如く洗練され、他に類を見る事の無い輝きに照らされていた。
だがそれでも……今回の件に関して、はつみに対する負荷があまりにも大きすぎるだろうと言いたくなってしまうのは否めない。長州藩士としての自分ではなく、ただ彼女を想う一人の男としての緩い解釈ゆえなのか…。とにかく、高杉の眉間のシワは、そのはざまで揺れるが故に刻まれたものであった。
そしてその葛藤を、伊藤も感じ取っている。
「…無論、アーネスト・サトウさんからの情報によって、彼女が今は幕府管轄である神戸海軍塾の一員である事も当然把握していました。神戸からここまで道中は変名や変装で身分を偽手きた様でしたが、勘付かれれば当然、過激派どもから襲撃を受ける事もありましょう。幕府側から間者として捉えられるどころか、彼女たちの根城である海軍操練所がそのせいで取り潰しとなる危険もあるでしょう。逆に、長州にとって不利となる様な間者紛いの働きをする可能性も無しではありません。何にしても、有事の際には、僕と、そして共謀した内蔵太、それから柊も、腹を斬る覚悟はあります。…否、腹を斬る事すらも許されないのなら、いかようにでも。」
伊藤の言葉は本気だった。彼は割と冗談も好きだし、余裕さえあればしょっちゅうへべれけになって女にだらしない一面も多分にある。だが、こういう時は誰よりも熱く、そして冷徹ともいえる判断を下し、やり遂げる事のできる男だ。
「君の覚悟を疑う訳じゃない。だが…そうだな…」
はつみへの負荷が大きすぎる点について、ずっと瀬戸際で走り抜けて来た伊藤を責めるのは違う気がして、言葉を探す高杉。口元に手を添えて己の思考を整えながらしばらくすると、深く刻まれる眉間のシワがフとなくなり、改めて伊藤を見上げて来た。
「長州の為に全てをかけて駆け付けてくれたはつみの身に何かあれば、ただ死んで詫びるだけでは足りんな。その時僕は、あいつに報いる為に人修羅となって暴れまくり、そして死のうと思う。」
ニヤリと笑い、まるで戯言のような突拍子もない事を言う。だがどこか本気とも取れる様な強く挑発的なまなざしを向けてきたのを最後に、彼は踵を返し、伊藤の肩をぽんとひと叩きして去っていったのだった。
遺された伊藤は高杉が怒気を放たなかった事にフウと息をつき安堵するものの、ただ一つ、彼女が襲撃され刀傷を負ったという事だけは、まだ高杉に言えずにいた。
今の高杉の意思表明を聞いたら尚更言えなくなってしまったともいえるが…。
それは高杉も伊藤に対して認めるところの『冷徹な判断』によるものだった。今ははつみを斬りつけた下手人については分からない状態だが、どうやら長州派の人間であるという事は見当がつく。この状態で彼の耳に入れるべきではないと考えたのだ。恐らく、高杉は怒りをあらわにし下手人を探し出そうとするだろう。そして下手人を探し出した時…彼が冷静でいられるとする保証はない。彼の怒りがもたらす結末が周囲にとって、そして彼自身にとっても計り知れないものへと発展する可能性があるのではと…。
いつぞや、高杉と共に佐幕派の間者を暗殺した時があった。あの時は桂や周布が証拠隠滅し事案そのものを握りつぶしてくれたからこそ、何ら表沙汰となる事は無かった。しかし今こそ長州にとって高杉が必要とする時に、あのような危険な真似を高杉にさせる訳にはいかない。だからこそ先に下手人を突き止め、その上で彼に報告をし、必要とされるならば自分の手でしかるべき措置を取る覚悟だった。…当然、黙っていた事を彼が許さないと言うのなら、指を斬るなり腹を召すなりしようとも思う。
伊藤は、付いていくならもうこの人しかいないと、この時すでに腹をくくっていたのだった。
※仮SS