長州大身組の士族から成る先鋒隊(選鋒隊)と、下級武士または民兵から成る奇兵隊。高杉は正規軍の下に奇兵隊諸隊を置く事で軍全体の軍事系統を明瞭化し、機動力を有しながらも強力な一枚岩として機能する軍をと構想していた。しかし、両隊編成から間もない7月の時点で両隊の間では互いを罵り合う軋轢が生じており、8月にもなると、元々は両隊の混合編成であった台場警備を隊毎の編成へと切り替えねばならない程、その摩擦は今にも火を吹かんとする勢いだった。
奇兵隊は士気も高く自身に満ち溢れていたが、大方の問題は大身組出身の先鋒隊に見られた。先日の西洋艦による報復攻撃の際に大醜態を晒した大身組は、その栄誉ある隊長役を若干22才の若手に譲るなど、高杉やその周囲が見て取る以上に深い侮辱を感じた様だった。おまけに高杉が奇兵隊を立ち上げた時、その大身組から400石もの大身でありながら真っ先に奇兵隊への編入を志願した総奉行使番・宮城彦助という51才の大御所が飛び出していったのである。
この宮城という初老の男は国学を収め和歌にも明るい風流人で、西洋軍備に通じ『弓矢槍剣はもはや時代遅れ』などと言い切るなど、門閥家臣でありながらある意味高杉よりも尖った発言をする一匹狼のテイをした人物であった。そんな彼が飛び出していった事を大身組の者達が注目したのにはもう一つ精神的な理由がある。これもまた西洋艦報復攻撃の際、当時の隊長であった益田豊前の隊が敗走するのを勇猛果敢な宮城は許す事ができず、大声で叱咤した事に起因していた。結果的にこれが大いなる侮辱であり恥の上塗りをしたのだと憎しみを増幅させる所以となっており、宮城の奇兵隊への志願編入こそが身分への誇りも武士道の誉も軽んじる行為だと非難する。そしてその鞍替え先である奇兵隊は「匹夫」「烏合の衆」などとやっかんで逐一刺激をし、奇兵隊は奇兵隊でそれに呼応する形で「先鋒隊何するものぞ」と意気軒昂状態だった。
一方で高杉は宮城の編入を大歓迎し、諸事相談をする程頼りにもしていた。宮城自身、400石もの大身というだけでなく勇ましく肝の据わった人物であり、非難を一身に受けようとも気にする様子は見せず、奇兵隊に属した民兵たちの武術指南を良く行うなどその姿勢は他の隊士たちにとっても大きな存在となっている。
とは言え高杉も、軍の中核を担う隊として大身組には先の大敗による士気回復を図る必要性を認識しており、だからこそ、大身組を核とする軍編成を行う事、つまり指示系統はどちらが上でどちらが下なのかといった隊の正確性などを明確にしていた。それゆえの台場編成も、両隊から成る混合編成にしていたのだが…両隊のいがみ合いが殊の外激化し、結局は隊毎の編成へと戻す事態となっていたのである。当然、早急に対処しなければならない問題の一つである事も認識はしていた。
少し前の7月下旬。攘夷戦にも報復戦にも一切加勢しなかった、馬関海峡の向こう側に位置する北九州小倉藩の違勅問題に際し、7月末に下関へ入港した幕府艦朝陽丸の人員を奇兵隊が確保し、船を拿捕する事件があった。というのも、この長州の訴えに対し朝廷は『違勅である』と返答を下したにも関わらず、その朝廷からの勅令を受けて5月10日の攘夷を宣言したはずの幕府が『開戦の合図を出しておらず小倉藩は違勅ではない』と擁護し、長州藩が勝手に攘夷を行ったかの様な対応を取った挙句、朝廷が出した『違勅である』との返答を撤回させた件に起因する問題であった。
朝陽丸に乗った幕吏たちは『将軍からの親書』があるとして長州藩主敬親公へと取り次ぐ様申し出た為に急遽藩主周辺の準備が勧められたが、直前となってこの親書が『将軍から』ではなく『幕府幕閣から』の親書である事が発覚する。しかもその内容は今回の攘夷や小倉藩への対応に対し非難同様突き詰める様な内容で、当然藩主が受け取る訳にはいかず、急遽にかけて急遽、郡奉行がこの親書を受け取るという事態になっていた。
藩主を侮辱した上、いいように言いくるめるかの様なやり口に高杉はじめ奇兵隊幹部諸氏および隊士らは激高し、この朝陽丸を拿捕するという流れになったのである。
そしてこの奇兵隊の、まさに藩主を守るが如き活躍が先鋒隊の神経を更に逆なでた事も、言うまでもない。
そして時は進み、8月中旬の事。
奇兵隊が朝陽丸を拿捕し人員を『保護』している件について、長州世子定広が下関の白石邸に入った。朝陽丸の解放や説得について高杉を始めとする奇兵隊幹部と話合いを行う為である。藩政においては丁度、佐幕寄りの『俗論派』と、周布ら勤王寄りの『正義派』がしのぎを削り合っている様な状況であったが為、世子の立場ではどちらに味方するというのも難しいものであった。
そして、図らずもこの世子定広の行動によって、件の先鋒隊と奇兵隊に燻っていた火種が遂に燃え上がる事となってしまうのである。
朝陽丸についての会議が進められる最中、世子定広は高杉の案内によって各所砲台場を慰問する事となった。まずは前田砲台を警備する奇兵隊を見に行き、その次に先鋒隊が警備する壇ノ浦砲台を見に行く流れであったが、あいにくの不安定な天気の中、前田砲台で時間を取り過ぎた事もあり、壇ノ浦は後日改めて日を設ける事となってしまう。他愛もないこの事が、先鋒隊の反発を招いてしまったのだ。
『若殿様は何故奇兵隊の所へ出向かれながら士族である我らの所にはいらっしゃらないのか!?』
激高する先鋒隊の過激な一部は、先鋒隊を裏切り奇兵隊へ寝返った大身400石宮城彦助による裏工作があったに違いないなどと言い始めた。そしてその数名が、裏町教法寺の門前にある宮城の下宿先へと押しかけていったのである。宮城は高杉を訪ねていた為不在であったが、宮城の下僕などの制止をものともせず彼らはあたりかまわず鬱憤を晴らすがごとく狼藉を働いた。慌てて高杉の元へと駆け付け報告にやってきた下僕の話を聞いた勇ましい宮城は、『わし自らが話を付けちゃろう!』と豪語し恐れもせず大人数がいるであろう下宿先へと飛び出して行ってしまう。
案じた高杉も直ちに動ける奇兵隊13名程を連れて後を追ったが、勇猛な宮城を始め血気盛んな奇兵隊が隊をなして戻ってきたと聞いた先鋒隊の一部は一目散に逃げ出していた。それでも残った数名とは口論ならず斬り合いとなり、先鋒隊の一人が惨殺され数名が怪我を負うという血みどろの展開となってしまった。
高杉は白石邸に泊する世子定広に充てて急報を発し、翌日には、両隊を制御しきれなかった暴動の責任を取る為に切腹を願い出た。世子定広は藩主の命を待つようにと言って急ぎ山口へと戻り、その日、高杉は妻の雅子に対して遺書ともいえる手紙一通認めている。
切腹を覚悟したこの時、桜川はつみの事も脳裏に浮かんだという事実は彼の心だけに留められていた。
だが伝えるべき事は白石に伝えてある。そうなったきっかけ自体は酔った勢いで口から出た言葉ではあったが、寝落ちに見せかけて白石に伝言を頼んだのは明確な意図があっての事だ。
最後に会ったあの日、『余計な事はするな』『僕の心は僕にしか分からない。知った様にされる事が一番虫唾が走る』などと言ってしまった。恋人でもない彼女が他の男と寝た事を根に持っていた事も事実だし、どうも彼女を前にするとつっぱねようとする己の心がもどかしい。
何故、他の女の様にねんごろにできないのか。
何故、そうできなかった自分の言動をいつまでも振り返り、こんな死の間際にまで思い返してしまうのか…。
答えは分かってはいたが敢えて考えようとはしなかった。
ただ、僕は君を嫌っている訳ではない…
次いつ会えるかなど分からないし、こうなったからにはもう二度と会えないかも知れない。
ただそれだけは、いつか伝わればとだけ…心の角で願ってはいた。
高杉が死を覚悟し静かに藩主からの命を待つ間、長州には更なる激震が走ろうとしていた。
高杉が切腹を願い出た8月17日。大和ではついに天誅組が挙兵した。
5月10日以降の攘夷砲撃に京を出奔して長州に駆け付けた元公卿の中山忠光を総大将とした尊王攘夷派による決起だったが、翌日には朝廷内及び一橋、会津、薩摩らによる公武合体派が禁裏を掌握し長州を始めとする尊王攘夷派を締め出した。
818の政変である。
これにより天誅組主将中山忠光『逆賊』、『国賊』長州藩2000兵、七卿と共に都落ちと相成った。この報が長州に入るのはおよそ5日後の23日となる。
更に、京師の政変などまだ知りもしない長州において、8月19日から21日にかけて現状を更に窮地へと追いやる様な事件が発生してしまう。
下関において拿捕した朝陽丸の乗船者たち、つまり今では陸に捕らわれていた幕吏らが、先鋒隊の石川小五郎ら過激兇徒によって全員が惨殺されてしまったのだ。まずは19日深夜に一人の首が跳ねられ梟首された。これに恐れおののいた幕吏らは船やその他諸々は諦めるから帰還できるよう取り計らって欲しいと藩政へ泣きつき、21日になって容易された船で帰還しようとした矢先、過激派が船まで追いかけてきてそのまま全員殺されてしまったのだ。
先の攘夷戦に際幕府の言い分に対立していたとはいえ非常にまずい事になったと頭を抱えた矢先に、818の政変で長州が『国賊』となった旨の報が届くのである。
総大将中山忠光がどうなったかの報はいまだ届かぬ中、26日になると2000もの長州兵と共に都落ちしてきた三条実美ら七卿が、周防三田尻に入る。
そして8月27日。
先日の奇兵隊と先鋒隊による教法寺事件の責任として、切腹の命が下された。
切腹を申し付けられたのは、何の罪もない大身400石、宮城彦助であった。
※仮SS