演奏会が大成功の内に終わり、午後の出港に向けて片付けが行われる中、高杉はあらゆる人からひっぱりだこのはつみを連れ出していた。
馬に乗せ、きらきらと輝く海辺を駆け抜け、町からはそう離れてはいないが民家もちらほらとしかない漁村の端へ到着。この辺りは砲撃に被弾して焼け落ちた民家がまだいくつかそのままとなっており、はつみにとっては少し忘れかけていた『現実』と『戦争』の一端を目にする機会となる。何か用事があって自分を連れ出したのであろう高杉が話始める前に、この風景を見て胸がいっぱいになったはつみから彼に話しかけた。
「今回はあまりお話がきけなかったけど、高杉さんや長州のみなさんは、こういう戦争を乗り切ってきたんですよね…。」
「なんじゃ急に。まあ、そのおとおりだが。」
腕を組んだ高杉ははつみをふりかえりながら、焼け落ちた家屋の横をざっざっと砂音を立てて歩いてゆく。家屋に向かって目を閉じ手を合わせたはつみは、自分を振り返りながら進む高杉を追いかけていった。そして気分的に頃合いの良い所で立ち止まる高杉に合わせて、彼のすぐ隣に控える。
「あまり時が無いのはわかっておるから単刀直入に話すが…」
そう言って振り返った高杉は、潮風に短髪をなびかせながら、じっとはつみを見つめる。
「…少し前に襲われ、背中を斬られたと聞いた。…何故僕に何も話さなかった?」
じっと見つめる瞳に前髪で揺れる影が反映され、どこか切な気に揺れている様にも見えた。あまりにもまっすぐな言葉と瞳に、はつみは思わずたじろぎ、言葉を詰まらせてしまう。
「あ、あの…もう終わった事だったし、心配をかけたくなくて。」
高杉に事件の事を話さなかった理由に他意などない。ある訳がない。ここではつみの脳裏によぎるのは、やはり、これまでに何度もあった様に高杉の機嫌を損ねてしまい、喧嘩別れになってしまうという事だ。前回会ってから一年半、長州の状況など耳にしながら高杉を思い出すたびに、新しい時代に先駆け、後に続く人達の礎となる前代未聞の戦いを孤高に繰り広げているであろう彼を思い描く度、なぜあの時、もっと上手く励ませなかったのか、互いが前向きになれる様な言葉を投げかけられなかったのかと悔やみ続けて来た。
今日は、そうはなりたくない。次いつ会えるかもわからないからこそ、笑顔で別れ、同じ世界を見続ける者として心で繋がっている、それぞれの場所で、共に戦っていると思いたい。ただの自分勝手な願いだが、そこに悲しい思い出や後悔を残したくなかった。はつみにとって、思い出は大切な想いであり活力でもあるのだ。ただその一心で、ぐっと締め付けられた胸元に手を添え、彼の問いに対する言葉を探すが…『問題ないとおもった』『忘れていた訳ではない』。そんな、彼を納得させられるとは思えない言葉しか出てこない。
―その時、彼の髪がフワリと眼前に迫るのを感じると共に、背中を力強く引き寄せられた。ぎゅっと締め付ける様な圧迫感に包まれ、一手遅れて、抱き締められている事に気付く。
「―た、高杉さん…?」
「……君が好きだ。」
「…っ……えっ…?」
浜辺に打ち寄せる波音の近さゆえに、うっかり聞き漏らしてしまうほどの囁き声だったが、確かに聞こえた。
何の脈略もない突然の抱擁、突然の言葉に焦るはつみには、照りつける真夏の太陽光さえも混乱を増長させるほどに思考が散漫になってゆく。それなのに、自分を抱き寄せる高杉の腕は更に強く、溢れ出る想いを互いの身体に押し込むかの様にぎゅっと締め付けてくる。
「…この外様たる長州の片隅でくすぶっている時、君の言葉が僕を支えてくれた。僕の命ももはやここまでかと思った時、最後に君へ放った言葉だけは、嘘であったとどうしても伝えたかった。」
―それは恐らく、先ほどはつみも思い描いた、一年半前に再会した時の事を言っているのだろうと察する。高杉の突っぱねる様な言葉に傷付かなかったといえば嘘になるが、どこか、強がりなのではないかとは思っていた。だが良い別れではなかったことだけは確かで、自分が抱いていた後悔と同じ様に高杉も思ってくれていたのは、正直に言ってうれしい事だ。
―とはいえ、まさか高杉が…自分を…?という疑問は、『聞き間違いだよね?』などといった軽い気持ちでぬぐい切れるほど単純なものではなかったが。
硬直するはつみから少し身体を離した高杉は、再び真っすぐに彼女を見つめる。
「…君に起った事を何でも話せとは言わん。…だが、心折れそうな時…命を落としそうなときは、僕を思い出してくれ。…僕を頼ってくれ。」
本当は、そばに居て欲しい。いつでも駆け付けられる所にいてほしい。
それが一番の願いではあったが、到底言えるはずもない。彼女にはこれから世界と言う舞台が待っているのだという事は、今回の滞在で嫌というほどに思い知らされたばかりなのだ。
だが、そんな彼女だからこそ、伝えるべき事は伝えなければと思った。
伝えられる時に。
これまでの自分様に、子供じみた考えや感情をぶつけ、わざと突き放そうとするのではなく…。
高杉の手が腰に伸び、はつみがいつも巻き付けている赤いちりめん布の結び目にかかる。そしてゆっくりと引かれてゆくと同時に結び目が解けてゆき…。はつみは思わず彼の手を掴んで制した。
「あっ…あの、高杉さん…!?」
「君のが欲しい。」
「―えっ!?」
はつみが目を白黒させているのを間近に見つめながら、赤布の結び目を解いて更に緩め、シュルシュルと抜き取ってゆく。はつみは顔を真っ赤にしてはいるが抵抗する様子は見られない。このまま押し倒せば、もしやそのまま抱けるのではないか?それともいつぞやの様に、こちらにその気がないという事を推し量っているのだろうか?このまま真夏の太陽にさんさんと照らされる中で砂浜に押し倒し、波の音を聞きながら互いの肌を打ち合わせれば、どれだけ記憶に残る性行為となるだろう。…そんな事を考えない訳でもないが、まあ、もうどちらでもいいと考えながら、高杉は解いた赤布をひらりと掲げて潮風にたなびかせる。そして、まるで騙しうちでもしていたかの様に強気の笑顔でニヤリと笑ってみせた。
「君の、この布が欲しい。お守り替わりにな。」
「へ?あ、ああ…!あ、そういう事でしたら、どうぞどうぞ…!」
でも、何の御利益もありませんよ? と照れた様に笑う彼女に、次いつまた会えるのかと思うと同時にたまらず再び抱き締める高杉。
「僕は君が好きだ。」
なんどもそう言うのに彼女から同じ言葉が返ってこないのも、抱き締めた時に彼女の方が少し背丈が高いのも総じて少し不満であったが、昔ほど短気を起こす気にもならないのは、自分も荒波にもまれる中で少しは『大人』になったのだろうとも思う。
だが、こんなに純粋な気持ちで『好きだ』という気持ちを伝えるのは、いつぶりの事だろうか?
何もしない事に安堵してくれたのか、はつみは何も答えはしなかったが高杉の背中にそっと両手をまわし置いて来た。若干震えている様にも感じられ、彼女の自分に対する戸惑いを感じる事もできた。
潮風になびいた彼女の髪から、心地よい香りが鼻腔を掠め通り過ぎていく。その香りを、すうーと深く、記憶に刻むかの様に深く吸い込んだ。
「……好きだ」
『君は、僕の事が好きか?』
それだけは聞けないまま、波打ち際に押し寄せる小波が先程よりも迫っている事に気付く。
潮が満ち、いよいよ出港に最適な時が…再びの別れの時が訪れようとしていた。
※仮SS