8月。上洛中の長州藩主に上海視察の報告をする為に上京していた高杉は、土佐藩邸にてはつみと『偶然』再会する。といっても実は、長州藩邸にて近況について聞いていた際に土佐藩主上洛と『土佐の女男』であるはつみの存在についての報を得た為に、『偶然通りかかった』を装って土佐藩邸へと足を運んでいたのだった。近くまで来たはいいが当然、藩邸内にまで赴く理由がない。いや理由はあるのだが、はつみに会いに来たなど言いたくはないのが心情な訳で、少し立ち止まり出方を考えていた彼に背後から声がかかる。
「あの、すみません…」
「うん?あ…」
そこにいたのはまさに今、会おうとしていた相手、桜川はつみだった。少し痩せた様にも見えたがその輝きぶりは健在だ。いかにも嬉しそうに高杉に向かって両手を伸ばし、その場で飛び跳ね始める。
「わあー!やっぱり高杉さんだ!お久しぶりです!」
「お、おう」
柄にもなく思わず愁眉を開き口角があがりかかってしまったが、内心慌ててひきしめようとして仏頂面になってしまう。また慌てて眉間を調整しようとして眉を上げ過ぎてしまい、一連の挙動をごまかすかの様に横を向いて『ゴホンッ』と一つ咳をした。
「少し近くを通りかかってな。まさか君がいるとは思わんかったが」
「そうだったんですか!あ、私達これから買い出しに出る所なんです。あのぉもしよかったら、折角少しだけお茶でも飲んでいきませんか?会えたんだしっ!もちろん高杉さんのご都合が合えばでいいんですけど…」
無邪気な様子でそう言って、後ろに付いていた若い武士二人にも笑顔で振り返り同意を得ている。
それはそうと、久しぶりに合った男に対して往来で何故そこまで気軽に茶など誘えるのか。まったく奇抜な女子であると、高杉はつくづく思う…とはいえ嫌な気もしないし、会うつもりでここまで来たのだから今後の予定にも多少の余裕がある。
「わかった、君の提案を受け入れよう」
「わーっ!有難う御座います!」
手を叩いて喜ぶはつみの笑顔は、その絹糸の様な薄茶髪が太陽光に透ける透明感もあって釘付けになるほど華やかに思えた。あの浅草寺でのくりすますから半年が過ぎ、その間は長崎でも上海でも彼女を思い出したりしたが、こんなにも彼女が輝いて見えるのは何故なのだろう。…そんな事を考える暇もなく、
そう離れた場所ではない所にある、座敷のある甘味処へと移動する一行。改めて二人でゆっくり話す席を設ける。はつみに付いていた武士の青年二人は高杉に気を遣ったのか、外の茶席に腰かけて待っていた。
「従者が2人もついたか。随分と出世したな」
江戸でもはつみと行動を共にする事のあった彼らの事は既に知っていた。池田寅之進と岡田以蔵だ。岡田は鏡新明智流の斎藤道場出身で恐ろしく腕が良いと聞くが『名声』が高い事とはまた別の認知具合であった。もう一人の池田寅之進はその立ち振る舞いを見るとまるではつみの従者の様な人物だ。名は殆ど聞かぬが、はつみに影響されて英語を履修しているという事は知っている。
「え!?従者とかじゃないですよ!その~、ちょっと周りが慌ただしいからって、一緒にいてくれてるんです。」
「それを従者といわずして何と言う」
「え~?え~でも…じゃあ高杉さんは俊輔くんの事を従者だなんて思ってるんですか?」
「身分の事はあるが、俊輔は同志じゃからな。従者とは違うな」
「それと同じです!従者じゃなくて同志です。なんなら私の方が彼らに助けられてます」
「あーあーわかった。まったく君は相も変わらずああいえばこういう奴だな。」
鼻息荒くするはつみに呆れた様子で切り返す高杉だが、このやり取り自体、なぜだかとても懐かしく心地よく感じてしまう。はつみは可憐でか細い容姿からその心などはさぞ『女らしく』なよなよしていると思われがちだが、この様に多少きつい事を言われてもへこたれず、今もなお平然とした様子で、注文を聞きに来た茶屋の娘にあれこれと注文をし高杉にも「高杉さんは何にします?」などと言ってくる女子だ。心が軽くなる様な、言いかえれば浮かれる様な心持ちになる。
とはいえ、今、土佐藩主と共にこの京へ出てきている連中はやはり時世の煽りを受け、志士として大義を成さんとする者達ばかりであろう。使える人材であれば人手も多いに越したことはない。そんな中から手練れの剣士と稀有な学問を学ぶ青年をはつみの『護衛』につかせるとは、誰が指示したのかは分からないが恐らく『はつみが危険な状況』に巻き込まれているか、その前兆があっての事ではないかとも察しが付く。そう思うのは、京に来て耳にした『土佐参政吉田東洋暗殺』という情報が頭をよぎっての事であった。はつみは女の身で有りながらもその才をこの参政に買われ、引き立てを受けて長崎や江戸遊学を成していた事を記憶している。しかもはつみは尊王の思想を持っているかの様な発言もするが基本的には『開国派』というものであろう。薩摩の様な公武合体派とはまた違う様だが、尊王攘夷派などの派閥に絡めて考えた時にどうも一括りにはできない妙な立ち位置にいる。しかも政策をどうにかしようという野心は見られない。それを思えば、今回の参政の暗殺にはつみが無関係でいられたとは寧ろ考えにくい。
それはそうと、はつみが早速「上海はどうでしたか?是非聞かせてください!」などと前のめりに聞いてくるので、やむなく高杉は一端思考を切り替える。二人はさっそく、互いが横濱や上海・長崎を見てきた『世界観』を共有し合い、二人の思想と理想を語り合った。
はつみとは話せば話す程『共有』が出来ていると感じるので実に心地が良い。『世界』という地図をを見据えた俯瞰的な思考が、日本で語らう時の他の誰からも得られない独特の目線である事が特に刺激的だった。彼女自身の価値観も踏まえて言えば先進的とも言えるだろう。それでいて高杉が言う事に対しても正しく理解を示し、かつ素直なその反応が胸に迫る。相変わらず政策に深く絡む様な思考や野心めいたものは彼女からは感じられないが、異国の文化や認識を共有しそこから未来の日本に必要な何かを探ったり思案していく時間は、高杉が実際に長崎や上海を見て来たもののみならず、過去に横井小楠らの著書を読み漁ったりして長年蓄えて来た『識』を活かし更に共有できるという歓びや満足感、肯定感すらも満たされるかの様なひと時であった。
長崎や上海の話をした所で、その後長崎に帰還した際に手にした英国の瓦版『ジャパンパンチ』の話をし始める高杉。英国人から見た日本の解せぬ習慣や文化の違いを痛快に皮肉った絵がわかりやすく、中々面白かったと。そしてその中に『抑圧されたミューズ』という登場人物がいた事を伝える。
「これがおのしにそっくりじゃと思うてな。」
「ええ?」
『抑圧されたミューズ』と題付けられた、男装をした日本人女性を描いた風刺。手にはメモを持ち、そのメモには英語がびっしりと書かれてはいるが、周囲にいる日本人の男達に押しつぶされ発言の機会を奪われている。別のシーンでは、見るからに政治の事などは理解できていないであろう幼い男子が多くの大人を指示し、それを守る男達が刀で周囲を威嚇する。それに怯える男装のミューズが正しい知識を振るう事無く去っていくといった様子などが描かれていた。
はつみは他のページも見たりして興味深そうにしていたが、おもむろに表紙を見返すと著者欄に記されているCharles Wirgmanの名を見て反応した。―高杉もはつみがくれたローマ字表や英単語帳からいくつかの単語を覚えるには至っていたが、このようにポッと出された英単語を瞬時に読めるまでにはまだ至っていない。そこも含めてやはり流石だなと思いつつも、彼女の話に耳を傾ける。
「あ、この人横濱で会った事があります!その時スケッチ…似顔絵を描かせて欲しいって言われたんですよ。」
「誰じゃ?」
「ほらここ。チャールズ・ワーグマンです。英国のジャーナリスト。ん-と報道関係の人で、画家でもあるんですって。」
「なるほど合点がいったな。やはりこの風刺は君が模範となっているんだろう。」
「そ、そうかなぁ?」
謙遜もありそうだが割と本気ですっとぼけた様子のはつみに、高杉は腕を組んで「自覚したまえよ」と言わんばかりに話しを続ける。
「上海に行って分かったが、この日の本に蘭学を治めた者はあれどその蘭学が果たしてどこまで忠実であるかはまた別の事。同様に蘭語についても、学んだと言っても実際に生きた言語として蘭国人と話し合えるかとなると、それもまた別問題だとな。黒船来航以来その存在が広く知られる様になった英国の言語について扱える者はとなると、蘭語よりも更に少ない。その上生きた英語を扱える者となると、もはや長崎通詞の中に数人いるかぐらいの事だろうな。しかも、蓋を開けてみれば英国の世界に対する影響力というのは、長年幕府が独占的に関係を続けて来た蘭よりも遥かに大きいときた。…そういう意味では、君の才は土佐参政殿からの引き立てを受けるに値するものであり、或いは尊王攘夷を唱える者らからは目を付けられやすいもんでもある。」
「…高杉さんにそんな風に言ってもらえるなんて、凄く嬉しいですけど…」
確かに、ここまで素直に彼女の才を評価したのは、これまで数回会ってきた中でも初めてだったかも知れない。元々、思考の方向としては中々ウマが合うのではとも思っていたが、長崎や上海で更に開眼してからは尚更、彼女の先見性が胸に迫ったという事だろう。あと、気分がいい事も大いに影響していると自覚もある。
「異国の風刺絵に描かれるぐらいじゃ。君もしかと自覚をして、周囲に気を付けたまえよ」
「―はい。わかりました。でもそういう意味では高杉さんも殆ど私と同じですよ?気を付けてくださいね」
誰かと一緒にされるというのはあまり好きではなかったが、なぜか悪い気はせず、鼻で笑って『ぬかせ』と返す高杉。そして少し話し込んだ為にそろそろ解散しなければならない刻限である事に気付き、なんとも言えぬ後ろ髪引かれる様な思いでお開きという流れとなった。
次いつ会えるのだろう。自分は長州世子の下へ戻る為江戸へ向かうが、はつみは今後どうするのか…。だが、ここに来るに至る時と同様にやはりどうも素直にはなれず、自分が一方的に彼女を気にかけてばかりいる様なのも少々気に入らないというのもあって、切り出す事ができなかった。
「それじゃあ解散しましょうか。高杉さん、今日は本当に有難う御座いました。」
そう言うはつみには『後ろ髪引かれる』様な様子を感じられないのが少々気にかかったものの、それ以上にやはり、別れ際になって彼女の事が心配になる。今、京における尊王攘夷派の公卿衆を取り込む勢いで席巻している土佐の事だ。先ほどの『土佐参政の暗殺にはつみが無関係でいられたとは考えにくい』『何かあったのではなかろうか』といった懸念が再び頭によぎった。
店の外にいる以蔵や寅之進へ改めて視線を送り、彼らを見て思案した所で改めてはつみに向き直る。
「…長州へ来るか?あの二人もまとめて、僕が引き受けてやらんでもないぞ」
「えっ?あ、あの…え、本当に?」
高杉の申し出ははつみにとって全く考えもしない程の衝撃的なものであった。目をしばたたかせ、心なしか耳まで赤くなり『まさかあの高杉晋作から声をかけてもらえるなんて』となにやらごにょごにょと口元を動かしている。高杉としても己の機嫌の良さからかなり肯定的な事ばかりを言う様になっていたとはいえ、下心もなく出てきたこの言葉に我ながら驚きもしていた。はつみといえば一瞬嬉しそうな色が込み上げていたのが手に取るようにわかったが、すぐに堪えるようにして頭を振りつけ、理性を保とうとしている様子も見られる。
しばらく視線を落として思案していたはつみであったが、意を決した様に一つ頷いてからしっかりと視線を合わせて来た。
「…高杉さんにそんな風に言ってもらえるの、すっごく嬉しいんですけど…。すみません、わたし…ここでやらなくちゃいけない事があるから…」
元々、その心には周囲の状況も省みず自らこの京にまで来るほどの『何らかの目的』もあったのだろう。だが彼女が思想を語る時の、『俯瞰的な視野の広さ』を感じない。その事で、彼女のやろうとしている事はやはり『時世へに対する工作』でない、別の何かである事を察する。政策だの野望だのという以前に、たった一人辛い恋でもしているかの様な女の表情に、先ほどまでの楽しい世間話で軽々としていた胸が締め付けられる。…その相手は自分ではなさそうだとも思ったが…今は気分が良いのか、申し入れを断られた事も含めて特に苛立ちを感じる事もなかった。
「左様か。何か義があればいつでも連絡してくれ。…おお、忘れておった。ほれ、土産じゃ」
はつみからすれば、去年江戸にいた時に機嫌を損ねられて『君とは相性が悪い様だな!』とまで言われた事が脳裏をよぎったりもしていたのだが、今の気分上々で覇気を交えた爽やかさこの上ない高杉と比べるとまるで遠い昔の話の様だ。更に、突然手荷物の風呂敷から長崎土産を2つも取り出し、そのままポイと放り出す有様だ。思いもしないプレゼントを慌てて受け取ったはつみは、掌にすっぽりと収まったそれを見るなり『わぁ』と表情に花を咲かせる。まず目に付いたのは、細やかな花柄の刺繍が施された異国の生地らしき布で作られた巾着袋だった。
「かわいい!えっ!?お土産ですか!?」
「そうだと言っただろう。何度も言わせるな。」
女に土産を買ってくるなど明らかに勘違いされそうだから、何でもないただのついでという感じで放り投げたのに、はつみときたら瞳を輝かせながら大声で『お土産ですか!?』等と分かり切った事を聞いてくる。
「見てもいいですか?」
「おお。好きにせえ」
「うわぁ!お洒落な金平糖がはいってる!こっちも素敵な箱…えっ!?もしかしてこのお菓子は…?!」
巾着袋の中には異国情緒ある模様が印刷された油紙で包まれた、白と茶色の金平糖が入っていた。そしてもう一つの高級そうな洋風の小箱を開くと、はつみにとってかつて愛してやまなかった洋菓子『チョコレート』が、まるでクローズアップされたかの様に大きく視界に映り込む。
「長崎で見つけたものでな。君が好きだろうと思うて購入してきた。日持ちはいいらしいからまだ腐ってはおらんじゃろうが、溶けておるかもしれん。まあ口に入れれば同じであろう」
「わああ…凄い、嬉しい~!どちらも食べたいなってずっと思ってたんです。それにこの入れ物も、二つともとっっても可愛い!お菓子を食べ終わった後にもきっと何かに使えますよね!嬉しい~!」
まあ、正直あまり大騒ぎはしてほしくなかったのだが、こうした小手先の事でも彼女の表情を変えさせることができ高杉の承認欲求は更に満たさんばかりだ。
「おいおい、今日いち饒舌じゃな。ははは」
砂糖をふんだんに使う金平糖は国産流通しているものの一般向けとは言い難い菓子であり、内蔵太にあげてしまって以来土佐では購入できずにいたし、チョコレートは長崎で探した事もあったがその時はも見つける事ができなかった。決してモノに釣られる訳ではなかったが、どんぴしゃりなサプライズプレゼントはやはり嬉しい。高杉が機嫌よく笑ってくれているのも、はつみにとっては珍しくもあり、尚の事嬉しかった。
しかしフと、思い当たる事があって深く考えず口にしてしまう。
「あれ?もしかして土佐藩邸にいらしてたのって、これを渡すために…?」
「はあ?」
はつみも途中まで言いかけて『我ながら自意識過剰すぎる』と思わず閉口し、被り気味で反応した高杉も図星であった事から思わず眉間に縦ジワを寄せてしまう。「ひえっ」と肩をすくませるはつみであったが、はつみ以上に思う所の在る高杉は沸き起こる感情をグッと押さえ、一つ息をついて肩の力をストンと落とす。
「僕も甘いものは嫌いじゃないからな」
と言いながら手を伸ばした高杉が、小袋の中から一粒の金平糖を取り出す。意図を理解していなかったはつみは単純に『あ、食べたくなったのかな?』と取りやすい様に差し出すが、彼が摘まみだした金平糖はそのままはつみの口元へと寄せられていった。
「んっ?」
親指で押し込まれる様にして口内に入ってきた金平糖の甘さよりも、突然の『彼氏なう』な現象に目を白黒させるはつみ。高杉は鼻で『フン』と笑い、柔らかで血色の良い可愛らしい唇についた砂糖のかけらを、そっと拭う様に指を滑らせる。
「…ふぇ…?!」
口の中だけでなく頭の中にまで甘い香りが広がってゆく。折角ケンカにもならず楽しく過ごせそうだったのに最後の最後で余計な事を言って機嫌を損ねてしまったかと思っていたが、それどころの事ではなかった。高杉の親指が自分の唇を拭うその生々しい感触に、まるで時が止まるかと思うほど衝撃的な昂りを感じてしまう。じっと見つめてくる高杉の真っすぐな視線に呼吸をするのも忘れる程硬直していたはつみであったが、そんな彼女の硬直ぶりを目の当たりにして『そういう雰囲気』を感じ取っていた高杉は、自分の中で変に燻っているはっきりとしない想いに今こそ素直になる時ではないかと自問する。
―だが。
「…思いがけず長居した。僕はもう行く。」
「ーはっ!あっ、はいっ!えっ!?」
己の胸に自問した結果、『まさか。何故僕が』『こやつは僕が抱く様な女じゃあない』と、いつものように冷静さを保とうと努め、一方的に解散の旨を伝えると腰を上げ始める高杉。しかし、高杉の切り返す様な発言に一瞬慌てふためきながらも再び目が合ったはつみの頬がほんのりと紅潮し、その表情に戸惑いと何かを期待するような色が見え隠れしているのに気付いて、胸の奥が不規則に高鳴るのを感じてしまう。
…これまで認めたくないと思ってた類の感情だという事だけは、理解できていた。
人知れず軽く頭を振りつけて、昂りそうだった感情を霧散させる。
「ほれ、いくぞ」
「はいっ!」
ついに席を立ち出口へと向かって歩き出した高杉を、慌てて追いかけるはつみ。長崎土産を大事に持ち出しながら先行する高杉へと視線を送ると、まるで背後からの視線に気付いてくれたかの様に丁度振り返り、肩越しに視線を投げかけながら
「はよう来い」
と、鼻で笑う。しかしながら、その声はいつもの覇気を含みつつもまるで愛らしい子供に優しく語り掛けるかけるかの様に、穏やかで優しい響きであった。
間もなくして、退屈すぎて周囲構わず剣の素振りや組手などをしていた以蔵、寅之進と合流する。以蔵は相変らず高杉と視線を合わせる事無く表情も見えなかったが、スンとした様子の彼とは違い寅之進は息を上げながらも身なりを整え、初々しくも実直な眼光ではつみや高杉に挨拶を交わしていた。
「僕は江戸の桜田藩邸に詰める。先ほども言うたが、何ぞ困った事があればいつでも江戸に来たまえ。」
「は、はい!あああの…有難う御座いました!アッ!道中お気をつけて!」
突然の事であったし、高杉もその直後で何事も無かったかの様に颯爽と去ろうとするので、慌ただしく見送りをするはつみ。
「見送りは結構。ではまた」
と、あと腐れなく、何事もなかったかの様に去ってゆく高杉を見送るのであった。
彼女と別れて道を歩く高杉。指先に残った唇の柔らかさを思い出して柄にもなく緊張感のない顔をしている事に気付き、一人咳払いをして何事も無かったかの様に表情を戻して、不意に空を見上げた。
この先長州は、日の本の時世は、尊王の秩序を取り戻し幕府よりも朝廷を中心とした国造りを行い、且つ、今よりも先進的になっていなければならない。その未来に相応しい才覚を持つはつみとも、恐らくそう遠くない未来に再び会う事もあるだろう。しかし土佐の現状を鑑みれば決して楽観視している訳ではなく、はつみの周囲については調べてみる必要も感じられたが、高杉の目は改革を前に力強い輝きを灯していた。そして、はつみとの再会は、確実に彼の心に更なる活力と彩りを添え、彼を時代の舞台へと押し上げていく。
※仮SS